五台山・文殊院の長老、智真禅師は、涯のない荒野にひとり佇んでいた。
空はぼんやりと青く、一つだけ星が輝いている。禍々しい赤光を放つ星だった。
智真は、その光を懐かしさと恐れが入り交じった不可解な思いで見つめていた。と、ふいにその光が透き通ったように澄み、すいと流れて空を奔った。
星は輝きを増しながら、真っ直ぐに地上を目指し、やがて智真の懐に鳥のように飛び込んだ。懐で星は眩いばかりの白光を放ち、迸った光芒が全身を包み込む。
いつしか自らが燃え上がる星と化し、遠い大地を見下ろしていた。
「長老、趙員外がおみえになりました」
その声に、智真は我に返った。冬晴れの暖かさにうたた寝をして、束の間、夢を見ていたらしい。
しかし、目覚めても、懐に星を含んでいるような気がして、智真はそっと墨染めの衣の襟を抑えた。
廊下では、役僧が返事のないのを訝っているようだ。
「法堂にお通ししてありますが……」
「すぐに、参る」
胸まで届く白髯をさらりと撫で、智真は読みかけていた経文を閉じた。
先刻、寺の有力な檀家である趙員外から、出家を望む親類を伴って来るという知らせがあった。
夢は、それに関わるものだろうか。
冬の陽が障子に白く映っている。
(吉夢か、凶夢か)
判じようとしたけれど、夢は判断されることを拒むように、余りにも鮮明だった。
その頃、法堂では魯達が懸命に欠伸をかみ殺していた。
森閑とした堂内には香の薫りだけがたゆたい、遠くから聞こえる厳かな読経の声に乗って、時は緩慢に進んでいく。堂の中央には本尊である巨大な文殊菩薩が鎮座して、穏やかな半眼で所在なげな魯達を見下ろしていた。
「長老がおいでになったら、重々かしこまって、くれぐれも不作法な口をきいたりなどしてはなりませんよ」
趙員外が何度目かの念を押した。
(やれやれ、大層なことになったわい)
やがて、智真長老が袈裟の衣擦れの音も清々しく現れた。長老は趙員外に合掌すると、文殊菩薩の前にしつらえられた法座についた。その両側には首座、監寺、知客といった高位の僧がずらりと並ぶ。
(仙人のような坊さんだな)
感心しながら、懐に手を突っ込んで脇腹をぼりぼり掻くと、首座の僧がじろりと睨んだ。
智真禅師は海外にまで名が響いている高僧だという。
「そなた、衷心より出家を望むのか」
何もかも見透かすような眼光と、心に射し込むような声だった。
「わしは──」
長老の視線がこそばゆく、魯達は頭を掻いた。
「どうしても出家したいという訳じゃあないが、他に行きどころもなし……わしが坊主というのも妙なものだが、これも縁というものですかなあ」
魯達が屈託なく答えると、法堂に僧たちのざわめきが広がった。互いに不安げな視線を交わし、僧侶たちは長老を窺い見る。
智真長老は黙って魯達の顔を見据えていた。
(辛気臭いのう)
魯達は早くも後悔した。
(入門させたくないのなら、ぐずぐずせずに断ればよいものを)
僧侶たちの勿体ぶった様子が癪にさわって、魯達が席を蹴ろうかと思った時、長老は深く息をつき、趙員外に目を向けた。
「必ず、得度させましょう」
僧侶たちから驚嘆の声が上がった。
「お言葉ではございますが、この者、顔つきは凶悪で、立ち居振る舞いも余りに粗雑でございます」
口火を切ったのは、先刻、魯達を睨みつけた首座僧だった。
「寺に置いては、必ず他の僧たちの修行の障りになりましょう」
居並ぶ僧たちも一斉に頷いた。しかし、智真長老が静かに一同を見渡すと、僧侶たちは沈黙した。長老は文殊菩薩に向き直り、数珠を揉んで合掌した。
「これも、吉凶を越えた、縁というものであろう」
そう言うと、すぐに儀式の準備をするように、門弟たちに言いつけた。
「略式でよい。この者には、儀式など意味はなかろう」
長老の厳命にそれ以上逆らう者はなかった。必要な法衣や度牒はあらかじめ趙員外が揃えていたので、剃髪し、五戒を受けて法名を貰えば晴れて出家の身となれるのである。
魯達は浴室に案内されて体を清め、真新しい法衣に着替えた。法堂に戻ると、すでに剃髪係の役僧が剃刀を手に待っていた。
「では、さっぱりと剃り落としてもらいましょうか」
不安気な僧たちが見守る中、魯達は剃刀の下に頭を差し出した。
「おっと、着物を濡らしちゃならん」
襟を広げて肌脱ぎになり、魯達は逞しい肩を露にした。
法堂に声にならない呻きが湧きあがる。
魯達の巨大な背中には、真紅の牡丹が一面に彫り込まれていたのである。薄暗く冷え冷えとした伽藍の中で、そこだけ光があたっているように、花は不吉なほど鮮やかに咲き乱れている。
僧侶たちが口々に経を唱えた。
「阿弥陀仏──阿弥陀仏」
経文が伽藍中に響きわたった。
剃髪係の役僧は、ぶるぶると手を震わせて、牡丹の花を凝視している。長老に救いを求めるような目を向けたが、老師は微かに頷き、儀式を促しただけだった。
魯達の伸び放題だった髪がすっかり剃り落とされるまで、僧たちは経を読む声も虚ろに、咲き誇る牡丹を見つめていた。
剃髪が済むと、続いて五戒が授けられた。僧侶が守るべき五つの戒めである。
「殺生、偸盗、姦淫、貪酒、妄語──お前は僧侶となったからには、生涯、この五つの罪を犯してはならぬ。良いか」
魯達は長老の顔を見上げた。長老がなにを戒めたのか、よく分からなかったのだ。横から趙員外が囁いた。
「はい、と答えればいいのです」
魯達は言われたまま「はい」と答えた。
やがて、すべての儀式が終わった。
「法名を、智深と授ける」
珍しそうに自分の頭を撫でている新弟子に、智真長老はそう告げた。
「これからは、魯智深と名乗るがよい」
「智深さん、朝です」
魯智深は、誰かに呼ばれて目を覚ました。しかし、まだ夜明け前なのか、室内は暗くて何も見えない。
「ここはどこだ」
魯智深は目をこすった。がらんとした部屋の片隅に、燭台が一本だけ燈っている。あまりに暗くて、一瞬、自分がどこに寝ていたのか分からなかったが、漂ってくる香の匂いに、文殊院の座禅堂だと思い出した。
昨日、出家し、魯達から魯智深になったのだ。これからは、ここで寝起きし、座禅を組んで修行するのである。
「朝のお勤めの時間です。早く起きて下さい」
声の主は、隣で寝起きしている若い修行僧だった。
魯智深は煎餅布団の中で体を延ばし、思い切り欠伸した。部屋の空気は氷のようで、吐く息が白い。魯智深は身震いをして、薄い法衣をかき寄せた。
「ずいぶん寒いな」
「この山は夏でも涼しく、別名“清涼山”とも呼ばれています」
「やれやれ、ならば、夏に出家すれば良かったわい」
隣の修行僧は相手にせず、さっさと布団を畳んで部屋を出ていく。
「あなたも早く来てください」
「飯かね」
魯智深は飛び起きて腹をさすった。昨夜は出家祝いの*斎が出るには出たが、野菜や豆腐という精進物ばかりだったので、寒さが肚まで染みていた。
*斎=僧侶の食事、精進料理
しかし、修行僧は首を振った。
「いえ、掃除です」
「その後は」
「座禅をします」
「それから」
「お斎をいただきます」
「御馳走だろうな」
「粥とつけもの、汁もあります」
魯智深は一声うめくと、枕元の包みから趙員外が持たせてくれた餅菓子を出し、寝たままばりばりと齧り始めた。一包みをぺろりと平らげ、そのまま二度寝を決め込んだ。
修行僧たちは困ったように顔を見合わせていたが、黙って部屋を出ていった。魯智深はそのまま一日眠りこけ、空腹を覚えれば包みを開いて食い散らかした。
(出家も、そう辛いものじゃないわい)
部屋の同輩たちは眉をしかめていたが、皆、あの刺青を見ているもので、怖じ気づいて何も言えない。いつしか“花和尚”──いれずみ和尚と、陰口を言われるようになった。しかし、魯智深は修行僧など“青瓢箪”だと思っているから、相手にしない。
魯智深は、そんな悠々自適の気儘な暮らしを十日ばかりも続けた。
ある日、とうとう魯智深は智真長老の方丈に呼びつけられた。
晦日も近い、晴れた午後だった。
法座に悠然と座っている長老の隣には、首座僧がしかめっ面で控えていた。
「そなた、文字は知っているか」
気楽な暮らしですっかり肉付きの良くなった魯智深の髭面を、長老は責めるでもなく見つめている。
その目つきが、魯智深は苦手だった。
「文字ですか……」
不精髭の伸びた顎を撫でながら、魯智深は「少々」と答えた。知らないと答えるのが何となく決まり悪かった。首座僧が疑わしげな顔で見ている。長老は、魯智深の前に硯と紙を差し出した。
「知っている字を書いてみなさい」
魯達は筆を逆手に握り、少し考えてから、金釘流で『酒』の一字を書いた。
「この字を知らんと、呑めませんからな。自然とこれだけ覚えました」
紙一杯に書かれた文字を、長老はしばらく真剣な眼差しで眺めていた。
「字というものは、人を現す」
文字から魯智深に視線を移し、長老は静かに語りかけた。
「そなたの字は、まるで文字とも思えぬが、力に溢れ、かつ澄んでおる。他心がない」
どうやら褒められているらしかった。
「しかし、その力も心も、用い方を誤れば凶器となろう」
魯智深は神妙に頷いた。やはり、真面目に修行しろと訓戒されているようだ。しかし、なぜかそれが嬉しかった。
「わしにも、修行できましょうかな」
「──したいか」
「死ぬ時に、経のひとつも唱えられたらいいでしょうな」
長老は、それきり何も答えなかった。半眼でゆっくりと数珠を揉んでいる。
魯智深は、頭を下げた。
「長老様がそう仰しゃるなら、とりあえず、励んでみましょう」
そう約束して、魯智深は部屋を下がった。
「もっと、きつく灸をすえたほうが良かったのではありませんか」
遠ざかる騒々しい足音に顔をしかめ、首座僧が納得できない様子で言った。
「いくら趙員外の身内とて、特別扱いなどしては、他の僧にしめしがつきません」
「そうではない」
長老は火鉢に魯智深の書いた文字をかざした。
「あれが、特別な者なのだ」
紙は軽やかな音をたてて燃え上がり、薄暗い部屋に赤い火の粉が舞い散った。
「あれは、天の星に応じて生まれ、やがて、我々の辿りつけぬ所まで行く者だ」
灰青の空に輝く、禍つ星。
その光は、智真自身を呑み込むほどに強かった。
(わしに、導けるような者ではない)
しかし、長老はその日から魯智深を直弟子として身近に置き、文字や経文を教え始めた。
そうなると、魯智深としても野放図に過ごしているわけにはいかない。朝夕に経を唱え、禅を組み、暇があれば筆を握って手習いをした。それだけでも結構な苦行だったが、その上、寺には食事や日常の生活にも独特の厳しい作法がある。
(こりゃ、なみの武芸道場よりきつい)
途中、何度か真剣に逃げだそうとも思ったが、行くあてはなし、手配書の事を思えば我慢せざるをえなかった。
やがて、季節が春に移った。
出家して三月余り。正月が過ぎ、五台山の遅い梅も綻び始めた。
魯智深もだいぶ寺の生活にも慣れ、座禅を組んでも足が痺れなくなり、文字と経文もいくつか覚えた。しかし、顔が映るような粥と漬物、青菜汁だけの食事には、どうにも慣れることができなかった。
この頃は、趙員外からのさしいれも途絶えがちになっている。悪気があるのではない。信心深い趙員外は、本気で魯智深を立派な僧侶にしようと思っているのだ。
(煮た牛肉で、熱いやつをきゅっと一杯……)
座禅をしながらも、魯智深が思うのは肉と酒のことばかりである。
(いかん、いかん)
魯智深は自分を戒めた。
ある日、魯智深は雲雀の飛ぶうららかな空を見ながら、気晴らしに門前町に出てみようと思いついた。別に止められているわけではない。魯智深は趙員外に貰った小銭をいくらか懐にねじ込むと、まだ雪の残る山道をぶらぶらと下っていった。
案の定、門前町には巡礼相手の料理屋がいくらもあった。魯智深は早速、一軒の店に入り精進料理を何品か注文した。待っていると、ふと、隣から良い匂いが漂ってきた。見れば、隣の参詣客がこってりと煮た牛肉を肴に、熱い酒を呑んでいる。魯智深はごくりと唾を呑み込んだ。
「おい、亭主」
たまらずに魯智深は亭主を呼んだ。その間にも、隣から馥郁たる酒の匂いが漂ってくる。
「はい、お坊様、なんの御用で」
「酒をくれ」
「お寺からのお達しがありますので、出家の方には売れません」
「金ならある」
魯智深は卓に金子を並べたが、亭主は頑として首を振らなかった。五台山は門前町にも厳しい掟があり、出家に肉や酒を売れば、商売を止めさせられてしまうという。魯智深は店を飛び出し、隣の店、そのまた隣の店を回ったが、どこでも答えは同じだった。
魯智深はぐるりと街を回って、最初の店に戻ってきた。
「どうしたって呑ませてもらうぞ」
魯智深は思わず拳を振り上げた。しかし、気弱そうな主人の泣き顔を見ると、握った拳も萎えてしまった。
「勘弁してください。本当に、お山から追い出されてしまうんですから」
(ええい、やはり出家なぞするんじゃなかった)
むかむかしながら門前町を歩き回り、人込みにひかれて塔院寺の前まで行った。日差しはのどかに暖かいが、気分は一向に晴れてこない。
やはり、自分には禅僧になるなど無理なのだ。
(このまま、どこかへ行ってしまおうか)
『人が死ぬのは、蠟燭が消えるのと同じ』という。
ちいさな命に恋々として、こそこそ逃げ隠れたりなどせずに、最後まで自由に生きたほうが良かったのではあるまいか──。
その時、突然、目の前に竹串にさした揚げ豆腐が突き出された。
「お坊さん、一本どうだい」
ふざけるな、と拳で払うと、豆腐が素早くとびすさった。
「あいかわらず、手が早ェや」
「なんだ、王定六か」
にやにやと笑いながら、掏摸は懐かしそうに近づいて来た。
「お前、まだこんな所にいたのか」
「アニキが、まだ山にいるって気がしたからサ」
商売しながら行方を探していたのだという。
「初めはまさかと思ったが、坊主に変装するたァ、冴えてるよ。似合ってるねえ。こりゃ、ホンモノの坊さんみてェだ」
「本物だ」
魯智深は驚く王定六を道端に引っ張っていった。
「話は後だ。まずこれを取れ」
魯智深は王定六に有り金を全部を渡すと、買えるだけの酒を買って文殊院へ登る途中の古い堂へ持って来るよう言いつけた。
「なにか肴も忘れるな」
「合点だ」
王定六と別れた魯智深は、いそいそと山へ戻った。来る時、中腹に崩れかけた堂があるのを見ている。牌額もない小さな廟で、埃だらけの格子戸を開いて入り込むと、案の定、中は仏像もなくがらんとしていた。奥の暗がりにある祭壇には、ただ箒のようなものが立てかけてあるだけで、訪れる人もなさそうだ。隠れて酒盛りをするにはちょうどいい。
やがて、王定六が酒甕をかつぎ、手には煮た家鴨を下げてやってきた。魯智深は杯に注ぐのももどかしく、立てつづけに五、六杯も呑み干すと、ほっと一息ついて墨染めの衣で口を拭った。
「ふう、生き返るわい」
「アニキはちょっと、痩せなすったね」
王定六はよく太った家鴨の腿をちぎって、魯智深に差し出した。二人は薄暗い土間に座り、お互いに積もる話をしながら呑み続け、瞬く間に一甕を空にした。
「もう一甕、買ってきやしょう」
今度は王定六が奢るという。すっかり気持ち良く酔っぱらっている魯智深を残し、王定六は自慢の早足で山道を下って行った。
初春の陽は早くも傾き、格子戸の影が土間に長く伸びている。その影を顔に受け、魯智深はごろりと横になった。冷たさの残る空気が心地よく、すぐにうつらうつらし始めた。
やがて、ごうごうという鼾が堂の外まで響き渡った。
それを確かめ、こそりとも音を立てずに堂に近づく者があった。猿のような身軽さで、軒に手をかけ、軽々と屋根に飛び上がる。瓦の破れ目から覗きこみ、腰の縄鏢を取ると片手に構えた。
「魯提轄だな!」
天井の破れ目を蹴破り、男が堂に躍り込んだ。
縄鏢が空を切り、飛び起きた魯智深の首にきりきりと巻きついていく。
が、渾身の力を込めて引かれた縄鏢は、手応え無く男の手にたぐりよせられた。寸前で魯智深が甕を投げたのだ。縄鏢に巻き取られた甕が空を飛び、勢いあまって天井に当たって砕ける。
賞金稼ぎは細い目を一瞬、見開き、縄鏢を構え直した。
「──なんだ、お前か」
降り注ぐ破片の下で、仁王立ちした魯智深が欠伸をしていた。酔いで顔が真っ赤に輝いている。
「商売熱心な、野郎だな。駄賃に一杯、呑ませてやりたいが……あいにく、もう、ない」
ろれつが怪しい。頭がぐらぐら揺れている。
「少々、待て。すぐ、酒が、走ってくる」
魯智深は機嫌よく笑った。久しぶりに娑婆に戻ると、賞金稼ぎまでが懐かしい。
「お前、名は」
「……石勇」
男は少し迷惑げな顔で答えた。
「ほう、“石将軍”という腕利きの噂を聞いたが、もしや、お前か」
魯智深は大げさに目を見開いた。放浪の旅の途中で、何度か噂に聞いたことがある。特に高額の懸賞金がかかった者ばかりを狙うという。そして、狙った獲物は決して諦めることがない。
「わしに、何か、恨みがあるのか」
「恨みは、ないな」
「金か」
「……ああ」
相変わらず、石勇の表情は微動だにしなかった。その仏頂面を眺めながら、魯智深は声をあげて笑った。
「近頃、体がなまっておるから、ちょうどいい。相手してやろう」
魯智深はごきごきと拳を鳴らすと、石勇に殴り掛かった。石勇も二本の縄鏢を左右に握って魯智深の巨体に迫った。縄鏢は笞のように空中を飛び、魯智深の着物を引き裂いた。
魯智深は避けようとしたが、久々の酒が意外に効いて足元が覚束ない。襲いかかる縄鏢を拳で払い、魯智深は再び石勇に殴りかかった。しかし、賞金稼ぎは並外れてすばしこく、巧みに腕をかいくぐる。その拍子によろめいた魯智深は背後をとられ、振り上げた腕に縄鏢が巻きついた。引きちぎろうと摑んだが、縄の中には細い鎖が縒り込まれており、容易に切れるものではない。
魯智深は縄鏢ごと石勇を引き寄せようと力を込めた。それより早く、小さな体が地面を蹴った。石勇は手に残っていた、もう片方の刃を投げた。投げられた縄鏢は弧を描いて空を飛び、魯智深の体に巻きついた。
魯智深は体の自由を失い、堂の奥にある仏壇の上に倒れこんだ。縄鏢を持ったまま石勇も引き倒され、二人して壇の中にもんどりうった。その衝撃で縄鏢がぶつりと切れた。間髪いれず、魯智深は拳を石勇の顎に打ち込んだが、寸前で顔を逸らせた石勇は、くるりと飛んで巧みに体勢を立て直した。表情も変えず、肩で荒い息をしながら、壇に嵌まったままの魯智深を眺めている。その唇から、一筋の血が流れた。
(生け捕りたいが……)
体格が違いすぎる。
「魯提轄!!」
石勇は大声で呼んだ。魯智深は顔を上げた。その機を逃さず、石勇はもう一本の縄鏢を奔らせた。刃は眼窩を突き抜けて、脳にまで達するだろう。そう思うと、微かな痛みが石勇の胸を過った。
石勇は縄鏢が肉に食い込む感触を待った。
しかし、その瞬間はやって来なかった。代わりに鋭い金属音が堂に響いた。弾き飛ばされた縄鏢が、石勇の頬をかすって背後の扉に突き立った。
扉から射し込む夕日に、魯智深の姿が眩い光芒を放って見えた。
石勇は思わず目を細め、一歩、下がった。
崩れた仏壇を蹴散らして、魯智深はゆらりと体を起こした。
その手の中には、一振りの巨大な禅杖が握られていた。
縄鏢が目前に迫った時、魯智深は無意識に手に当たったものを振り上げた。壊れた壇の間に転がっていた、鉄の棒のようなもの──それは棒などではなく、ずっしりと重い鋼造りの禅杖だった。
その禅杖を手にした瞬間、酔いが退いた。
魯智深は声もなく、その不思議な武器を凝視した。古いものだ。使いこまれ、黒光りする鉄がしっくりと掌に馴染む。
(これは、わしのものだ)
はっきりと、そう感じた。
魯智深は禅杖を頭上でぐるりと回し、下段に構えた。
石勇は反射的に格子を蹴破って表に逃げた。
魯智深も壁を打ち壊して外に飛び出し、石勇の後を追いかけた。
石勇は山を下って行きかけたが、折悪しく酒甕を担いだ王定六とはちあわせした。
「また、てめェか!!」
王定六は酒甕を雪の中に放り出し、足から匕首を引き抜いた。その頭上を石勇は軽々と飛び越えて、そのまま一目散に山を駆け降りて行った。
まもなく魯智深もやって来た。
「アニキ、大丈夫かィ」
問いかける王定六を相手にもせず、魯智深は酒甕を拾い上げると、封を切って一気に酒を呑み干した。
「その禅杖は、どうしなすった」
「わしのものさ。わしが来るのを、あの古堂で待っておったのだ」
魯智深は空になった甕を投げ捨てると、肌脱ぎになった。体じゅうに生気が漲り、骨まで熱い。
山に夕方の鐘が響いた。勤行の始まりを告げる鐘だ。
それを聞くや、魯智深は禅杖を担いでのしのしと山道を登り始めた。水車のように禅杖を振り回し、道端の木をなぎ倒し、岩を砕きながら寺を目指して行く。
生まれ変わったような、とにかく愉快な気分だった。笑いが肚の底からこみあげてくる。
やがて、彼方に左右に阿吽の金剛力士を配した山門が現れた。
門番の僧が、意味の分からないことを喚きながらやって来る魯智深をみつけ、慌てて中に逃げ込み門扉を閉じた。
「おい、なぜわしを入れんのだ」
魯智深は門に向かって禅杖を振り下ろした。二、三十発も殴りつけると、音をたてて扉が割れた。
魯智深は続いて支柱に打ちかかった。門はぐらぐらと揺れ始め、屋根の上から瓦が雨のように降り注いだ。
魯智深は大きな声を上げて笑った。
「愉快、愉快!!」
門の両脇では仁王像がゆらゆらと揺れている。魯智深は笑って指を突きつけた。
「ふん、そんな顔をして脅しつけたって、怖がるものか」
魯智深は禅杖を放り投げると、右の仁王像に打ちかかった。腹を打ち砕かれた土作りの像は、もうもうと土煙を上げて粉々になる。
「わしは逃げも隠れもせんわい」
笑いながら左の仁王像の台座に飛び乗った。腕を振り上げる像の足を、拳で力いっぱい殴りつける。一撃で像はぐらりと倒れ、更に踏みつけられて瞬く間に灰塵に帰した。
「誰も、わしを閉じ込めたりなどできんのだ」
みしみしと門が倒れる音と、魯智深の笑い声が夕暮れの五台山に響きわたった。
仁王像を倒した魯智深は、再び禅杖を手にとった。禅杖を振りかざし、門柱に突きかかる魯智深の巨大な姿は、全身に茜色の夕日を浴びて、燃え上がっているようにも見えた。
崩れかけた門の向こうには、騒ぎを聞きつけた僧侶たちが集まっていた。その中から、智真長老が進み出た。
「智深、控えよッ!」
長老の一喝と共に、仁王門は地響きをたてて崩れ落ちた。
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