「オイ、あんた、どうしたィ」
耳元で、いがらっぽいような声が聞こえた。
「病んでんのかい」
しかし、目を開けるのも億劫なので放っておいた。
「定六よ、行き倒れだぜ。財布など持っちゃあいねぇよ」
別の声がそう言っている。面倒に関わり合うなという口ぶりだ。
(誰が、行き倒れだ)
指先に僅かに力が湧いた。
「おい定六、先に行くぜ」
「行きやがれ。オレのこたァ、放っておけィ」
ひたひたと立ち去る足音がする。
寝ころがった顔の前にしゃがんだ男は、ちっと軽く舌打ちをした。やがて、そっと懐のあたりを撫で上げた。
「何をしやがる」
魯達はさっと腕を伸ばした。
しかし、男は敏捷に飛びすさり、魯達の腕は空を摑んだ。
「おっと、盗る気はねェんだよ。一応サ」
男は悪びれもせず、にやにや笑って、もう一度近づいてきた。垢じみた単がはだけた胸に、細い肋骨が浮いている。しかし、不思議とやつれた感じはしなかった。
「てめぇ、掏摸だな」
寝ころんだまま、魯達はじろりと男を睨んだ。妙に脛の長い男だ。
「へへ、分かるかィ」
こすからそうだが、どこか憎めない感じもする。
「オレァ、王定六っていうもんサ。逃げ足が滅法速くって、“活閃婆”なんて呼ばれるよ。 アニキはどこから来なすった」
早速、兄貴とは馴れ馴れしい。魯達は相手にせずに目を閉じた。
「どうしたィ。ああ、ハラが減っていなさるね」
王定六は勝手にそう合点すると、待ってろと言って、すたすたとどこかへ行ってしまった。魯達は薄く目を開いたが、起き上がる気にもならない。
もう四日、水しか口を通っていないのだ。
魯達は川に沿った街道ばたの、霜の降りた草の上に転がって、ぼんやりと空を眺めていた。
冷たい朝靄にも冬の陽が射し始めており、道には行き来する旅人や商人が結構ある。杖をついた巡礼や、僧侶の姿が目についた。しかし、魯達に目を止める者はいなかった。
遠くに、峰に雲を頂いた山が見える。
昨日、この場所についた時は暗くて気がつかなかった。
渭州を出奔してから二月余り。魯達は気の向くまま東に向かい、京兆府や開封府という都会を避けて、北の辺境を東へ東へと進んで来た。持っていた金は財布ごと翠蓮にやってしまっていたから、着の身着のまま、無一文の旅である。始めのうちは帯を売り、靴を売りして凌いでいたが、やがて売りつくして途方に暮れた。しかし、みすぼらしい姿に物乞いと思って施しをくれる者があり、なんとか飢え死にはしないですんだ。
(あの山は、なんという山だろうかな)
そんなことを考えるともなく思っていると、王定六が戻ってきた。
懐に包みを抱いている。
「サ、あがんな。熱いぜ」
ほかほかと湯気のたつ饅頭には、煮込んだ肉がはさんであった。香ばしい匂いが腹にしみ込む。魯達はのそりと身を起こし、なにも言わずにもりもりと饅頭を平らげた。
「オレも最近、稼ぎがなくてネ」
指についた油まで嘗める魯達に、王定六は申し訳なさそうに言った。魯達の動きが急に止まった。
「なら、こいつは盗んだものか」
王定六は慌てて頭を振った。
「いいや、隠し金を出したのサ。稼ぎがある時にネ、一両、二両とより分けて、橋のたもとや寺の石燈籠の隙間なんぞに隠しておく。まァ、掏摸の知恵サ」
「ほう」
魯達は改めて男の顔を眺めた。
「何で、俺によくしてくれる」
「オレは、誰にもよくなどしねえよ。アニキがなんだか気になるから、したいようにするまでサ」
「そんなものか」
食べ物が腹に収まると、魯達は立ち上がり、霜を踏んで川辺に下りた。川の水は、黄土に覆われた山西の地には珍しく澄んでおり、朝日を浴びて、輝きながら小石の上を流れていく。真冬のことで、水は手が切れそうなほど冷たかったが、魯達は頭から水をかぶり、顔を洗った。
ようやく生き返ったような心地がした。
白い息を吐きながら、魯達は冷たい雫のしたたる頭を袖で拭いた。裸足で、服の裾は擦り切れ、腰は荒縄で縛ってある魯達の姿は、どこからみても浮浪者だ。しかし、雲間から覗く峰々を見上げる目は子供のようだった。
「おい、あの立派なお山はなんというんだ」
魯達は傍らの日溜まりで脛を掻いている王定六に尋ねた。
「なんだアニキは知らないのかィ。ありゃ、有名な五台山さ」
その名は魯達も聞いたことがある。宋国でも有数の名刹だ。開山は古く後漢の時代。五つの台形の峰に囲まれた中腹の村に、数多くの寺院が点在している。その名は海外まで鳴り響き、遠く日本国の僧なども巡礼にやって来るという。
「あの一番高いのが、有名な北台葉斗峰。その川は清水河というのサ」
「お前は、土地の者ではないだろう」
王定六の言葉には南方の訛りがあった。
「ここは結構な稼ぎがあるからネ」
王定六はにやりと笑った。
「そろそろ、腰を上げるとしましょうぜ」
冬は巡礼が少ないが、今日は寺で法要があり、なかなかの人出があるのだという。王定六は魯達を促して、街道から続く緩やかな山道を登り始めた。山上の門前街に向かう道すがら、魯達は王定六に尋ねられるまま、これまでの事をかいつまんで話してやった。
「そりゃあ、アニキ、豪気なことをしなすった」
肉屋の鄭を殴り殺した下りでは、王定六はしきりと感嘆の声を上げた。
「さすがアニキだ、てえしたお人だ」
そう言われては魯達も悪い気はしない。道中の喧嘩や、強盗を殴り倒して路銀を奪った話などを片端から披露してやった。
そのうち山道が急に開けて、谷間の村に到着した。巡礼宿や精進料理を出す飯屋が並び、その先には立派な山門を構えた寺もいくつも伽藍を連ねているのが見えた。行き交う僧侶や巡礼の姿も多い。清々しい空気に線香の香りがぷんと混じって、風に乗って勤行の声も聞こえてくる。
「こりゃ仙境の趣きだわい」
魯達はひとしきり感心したが、王定六は獲物探しに余念がない。
「塔院寺の前が一番の賑わいなんだが……」
「あそこにも人だかりがしているぞ」
魯達は道の先を指さした。辻をふさいで、人々が高札を取り巻いている。側まで行くと、「一千貫」 「一千貫」とため息まじりに言い合っているのが耳に止まった。好奇心にかられた二人は、人垣を分けて高札を見上げた。
「おい、一体、なんと書いてある」
文字の読めない魯達は、隣で熱心に札を眺めている王定六に尋ねた。
「さあてねェ」
王定六はしたり顔で首を傾け、やがて細い肩をすくめた。
「元は渭州で提轄までなさったアニキに読めねえものを、オレが読める道理がねえや」
途端、人々の目が一斉に魯達を見た。
(しくじった!)
察したのは王定六だった。魯達は悠長に隣の老人に話しかけている。
「じいさん、あんた、読めるかね」
文字の読めるらしい老人は目をしばたかせ、口ごもって後退った。
「張のアニキ、行きやしょうぜ」
王定六は魯達の太い腕を摑むと、そのまま人垣をかき分けて行こうとした。それを引き止めるように、抑揚のない声で高札を読み上げる者があった。
「……渭州で肉屋鄭某を殴殺した凶悪なる殺人犯、提轄の魯達を捕らえた者には、その生死に関わらず一千貫の褒美をとらせる。魯達の人相は……あんただな」
「なにィ!!」
王定六は声の主を睨み付けた。
「てめえ、アニキに因縁をつけようってのかい」
「……べつに」
高札を背に飄々と佇む渡世人風の若い男は、ほとんど口も動かさずに答えた。痩せた、表情の乏しい男だ。小柄な体に色褪せた粗末な服をまとい、武器らしい武器も持っていない。
王定六は鼻の先でふんと笑った。
「だったら、無駄口は怪我のもとだぜ」
「…………」
男の細い目からは何の感情も読み取れない。
「他人の空似サ」
王定六は剣呑な目付きで男を睨みつけると、魯達を促して行きかけた。
「“活閃婆”には、一文の賞金もかかってないな」
「てめェ……!」
賞金稼ぎか──と、王定六は振り向きざまに脚絆に差した匕首を引き抜いた。悲鳴が上り、高札の回りに集まっていた人々が逃げ散って行く。しかし、抜き放った匕首は、目にも止まらぬ速さでもぎとられ、次の瞬間には男の手の中に収まっていた。
「いい品だ」
男は匕首をからめとった縄鏢を片手で弄んでいる。
縄鏢は、紐の先に小刀を縛りつけただけの単純な武器だ。使いこなすのは容易ではない。
「てめェ、賞金稼ぎだな」
王定六が殴り掛かろうと踏み出した時、誰かが注進したのだろう、一群の捕り方が現れた。手に手に棒や朴刀をふりかざし、足早に山を登ってくる。
「あそこだ、いたぞ!!」
「やべェ、アニキ」
人ごとのような顔をして立っている魯達を引っ張り、王定六は山頂の方へ逃げだした。
「アニキ、もう少し早く足を動かしてくだせえよ」
「もう少し食わねば力が出んわい」
捕り方はもう間近に迫っている。十四、五人もいるだろう。このままでは逃げきれないと王定六が諦めかけた時だった。法要が終わったのか、ひときわ立派な山門から大勢の善男善女が吐き出されるのに行き合った。二人はその群れの中に紛れこんだ。しかし、捕り方は人々を押し退けならが執拗に追いすがって来る。
(こいつは、まずい)
王定六は汗を拭った。
魯達の風貌はあまりに目立つ。王定六一人なら、どうにでも逃げることができるだろう。しかし、なぜだか会ったばかりの魯達を見捨てる気にはなれなかった。死んだように寝ころんでいる魯達を見た時も、誰かに似ているというわけでもないのに、懐かしいような気がして通り過ぎることができなかったのだ。
(”活閃婆”もヤキが回ったか)
「アニキ、この先の破れ寺に仲間がいるから……」
そこまで頑張ってくれ ──と、王定六は振り向いた。
しかし、そこには清々しい顔をした巡礼たちがごったがえしているばかりで、魯達の姿は、どこにもなかった。
その頃、魯達は小間使い風の少女に手を引かれ、両側を高い塀に挟まれた狭い路地裏を走っていた。
「おい、一体、どこへ連れていくのだ」
尋ねても、少女は振り向きもしない。迷路のような寺院裏の小路を足早に進んでいく。
人込みに紛れて王定六とはぐれた時、魯達はふいに手を摑まれ、横道に引き込まれた。そのまま、有無を言わせずここまで連れてこられたのである。
「まあ、いいわい。飯でも食わしてくれるなら、ありがたいが」
やがて道の先に簾をたらした女駕籠が止まっているのが見えてきた。傍らには担ぎ人夫も二人控えている。少女はそれを見るとほっとした様子で足を速め、魯達を駕籠の中に押し込んだ。
「行ってちょうだい」
簾の間から少女が人夫を促し、先に立って歩いていくのが見える。
どういうふうに繋がっているのか、路地を抜けると、さっき王定六と別れた高札のある参道に出た。窓の間から透かして見ると、まだ捕り方がうろうろしている。王定六の姿は見えなかった。
(まあ、捕まるような迂闊者でもあるまい)
駕籠は堂々と捕り方の前を通って、山道を更に上へと進んでいく。そして程なく一軒の宿坊の門を潜り、そのまま奥に入っていった。
「ここで、いいわ」
少女が金を渡し何事か囁くと、人夫たちは頭を下げて、そそくさと帰っていった。彼らの姿が消えると、少女は駕籠に向かって恭しくお辞儀をして言った。
「魯提轄様、どうぞ」
「なぜ、わしの名を知っている」
窮屈な駕籠から飛び出した魯達に、少女は微笑み、宿坊の中へと誘った。なかなか小綺麗な宿なのだが、貸切りなのか人気はない。
「奥様がお待ちでございます」
「奥様? どちらの奥様だ」
奥様と呼ばれるような貴婦人に知り合いがいただろうか。
訝りながらも少女について歩いていくと、回廊の向こうから美しい若い女が駆け寄って来た。高く結った髪には金の簪を挿し、縫い取りのある錦の上着をつけた、大家の若奥様風の女だ。女は喜色に顔を輝かせ、魯達の前に跪いた。白い手が、魯達の骨ばった拳に触れた。
「おい、あんたは」
魯達は驚いて手を引っ込めた。“奥様”は涙を浮かべ、魯達の顔を見上げている。
「誰だったかな?」
「恩人様、紅鶯楼をお忘れですか」
「おお、あの姐さんか」
若奥様と見えたのは、紛れもなく魯達が渭州で助けた歌女の金翠蓮だった。やつれていた頬はふっくらとして、泣きはらしていた目も今は潤った艶をたたえている。
「いや、すっかり見違えた」
翠蓮は魯達を奥の間に案内し、賓客の席に座らせた。卓上には、すでに豪華な宴席が整っている。翠蓮は手ずから魯達に給仕して酒食を勧め、渭州を出てからの事を物語った。
「史進様たちとご一緒に渭州を逃れ、東京を目指しておりましたら、巡業しながら東京へ行くという旅芸人一座と出会いましたの。幸い、座長が良い人で、私を仲間にしてくれました。李忠さんは止めてくれましたけど、いつまでもご迷惑はかけられませんから……」
翠蓮はそこで二人と別れ、一座と共に雁門まで行って興行をした。その時、たまたま土地の商人で趙員外と呼ばれる物持ちが、翠蓮の歌を気に入った。趙員外はやもめであったので、そのまま翠蓮を後妻に迎えたのだという。
「本当に、今は何不自由ない暮らしをしております。みな、あなた様のお陰でございますわ。それなのに、私のせいで罪人に……」
「奥様は、いつも魯達様たちのことを仰しゃって、朝晩、ご無事を祈ってらしたんですよ」
酒のお代わりを運んで来た先程の少女が口を添えた。
「今日も、そのことを祈願していたところです」
翠蓮は趙員外の心遣いで渭州で死んだ父親の法要を行うことになり、数日前からこの宿坊に滞在していた。魯達が渭州を出奔したことは雁門で聞いていたが、今日、五台山にまで高札が立ったと知り、小間使いを連れて見にいった折り、奇遇にも当の魯達と巡りあったのだ。
「お助けできたのは、本当に菩薩のお慈悲でございますわ」
魯達が窮地に陥ったことを知った翠蓮は機転をきかせ、自分の籠に魯達を隠し、自分は別の籠を雇って先に戻っていたのだった。
「迎えをやりましたから、間もなく旦那様もお寺から戻ります。そうしたら今後のことをご相談いたしましょう」
余程その趙員外を信頼しているのか、翠蓮は余裕さえ感じられる笑顔を浮かべて酒を勧めた。その姿に魯達も嬉しくなり、久しぶりの御馳走に遠慮なく舌鼓を打った。
そのうち廊下を小走りに来る足音がして、温厚そうな四十がらみの男が現れた。
「旦那様」
翠蓮が立ち上がって出迎える。
「こちらが、いつもお話している方ですの」
「これはこれは、よくぞ、ご無事でいらっしゃいました。これも仏縁でございましょう」
趙員外は慌てて席を立とうとする魯達を手で制し、丁重な物腰で挨拶した。大店の主人といった風情で身なりも垢抜け、なかなかの色男でもある。心から魯達の無事を喜んでいる様子からすると、相当、翠蓮に惚れ込んでいるのだろう。魯達はちらりと李忠の不景気な顔を思ったが、どう見ても出る幕はなさそうだった。
「今後のことは、お任せください。必ず良いように身の振り方を考えてさしあげます」
趙員外はそう請け負い、その日は二人して夜まで翠蓮の酌で呑みつつ、魯達の旅や武芸の話に花を咲かせた。
翌日、魯達が遅い朝食をしたためていると、趙員外が神妙な顔をして訪ねてきた。
「昨夜申しました、あなたの今後のことですが、わたしに一つ思案があります。しかし、あなたのお気に召すかどうか……」
「召すも召さないも、天下に身の置き所もない男だ。行けと言うなら、どこへでも行きましょう」
魯達が粥の碗を置いて姿勢を正すと、趙員外も安心したように腰を下ろした。
「なにしろ、あなたの風貌は人目を引きます。姿も名も変え、俗事の煩いのない所へ身を潜めるのが、最も安全と思うのです」
「ほう、そんな方法がありますか」
「あります」
趙員外は自信たっぷりに頷いた。
「あなたに、出家していただくのですよ」
© Kimiya Masago, Sui Morishita.
© KINOTROPE Co.,Ltd. All Rights Reserved.