空には厚い雲が垂れ込め、今にも雪が落ちてきそうだった。
函谷関の遙か西──関西、渭州。
風が冷たい。
灰色にくすんだ城門を見上げ、史進は肩にかかった黄沙を払った。
足元を這って、白茶けた土煙が流れていく。丹の剥げた門楼に掛かる牌額も、厚い埃に覆われていた。北辺の砂漠に近い僻遠の地は、空気は乾き、砂が混じって、空さえぼんやりと霞んでいる。
決して豊かな土地ではない。
それでも、史進にとっては久しぶりの城市だった。
史進が屋敷を焼き払い、捕り方を斬り伏せて少華山に逃れたのは、一月ほど前のことだ。史進は数日だけ山塞に逗留し、やがて単身、旅立った。朱武たちは仲間になるよう勧めてくれたが、史進は断った。せっかく自由の身になれたのだ。小さな山に縛られるなど真っ平だった。
「俺は王師父を探したい」
引き止める朱武たちにそう告げて、史進は念願通り無限の江湖に飛び出した。
実際、史進は王進を探しながら全国を旅するつもりだった。王進があのまま無事であるとは思えない。危険な目に遇っているなら、なんとしても助けたかった。探すあてがあるわけではないが、最初、王進は延安に行くと言っていたし、渭州の経略府に務める旧友がいると聞いたこともある。この関西の、どこかにいるのは間違いない。華陰県からは延安のほうが近いのだが、今や史進もお尋ね者だ。まずは遠い方の渭州を訪ねることにした。
渭州は西の辺境だ。北の長城の彼方は西夏国、西に進めば吐蕃部族が割拠している。ゆえに軍事拠点として経略府が置かれているのである。風土にも、人情にも殺伐としたものがあった。しかし、城門をくぐって街に入れば、やはり城市らしい賑わいがあった。街頭に竈を据え付け麺を煮る店、男たちで賑わう飲み屋、色とりどりの虎人形を並べた露店も見える。史進は手頃な宿屋を物色しつつ、目抜き通りを歩いていった。
すると、通りの先から、棒を使う音が聞こえてきた。見ると、そこは二筋の道が交差して、ちょっとした広場になっている。好奇心につられて近づいていくと、広場の片隅で一人の武芸者が棍棒の演武をしているところだった。
(芸人か)
派手な身振りで棒を振り回す男の前には、銅銭の入った籠が置いてある。技を見せて、心付けを貰ったり、薬を売るのだ。武芸者は貧相な中年男だが、大声で気合を発したり、体を大きく逸らしたりと、中々の熱演ぶりだ。
(しかし、所詮は、芸人技だ)
史進は数手を眺めただけで見るのをやめた。
素人目にもそう映るのか、立ち止まる者もない。四、五人の子供と、乞食がぼんやりと眺めているだけだ。
史進もそのまま行きかけたが、ふと目に入った男の顔に、思わず声を上げそうになった。
(師匠じゃないか)
だいぶ面変わりしていたが、かつて史進に半年ばかり棒を教えた男に間違いなかった。名を李忠という。代々武芸で身を立ててきた家柄だといい、無骨で無口な人柄だった。王進以前の師匠の中では、上等の部類に入るだろう。故郷に戻って道場を開く──そう言って史進の屋敷を去ったのは、四、五年も前になるだろうか。
(それが、今では大道芸人か)
しかも、あの頃あった多彩な技や、力強さがまるで失われている。
一度は師匠と呼んだ男の零落した姿は、若い史進には見るに堪えないものがあった。理由はどうあれ、顔を合わせれば向こうもばつが悪いだろう。史進は背を向け、その場を離れた。しかし、広場を出たところで、背後でわっと子供たちの声が上がった。振り向くと、数人の男が見物していた子供たちを追い散らし、李忠を取り囲んだところだった。いかにもごろつき風の男たちだ。渭州なまりの怒鳴り声があたりに響いた。
「やい、この乞食芸人、てめェ、一体、誰に断って商売しやがる!」
頭格らしい眇の男が、肩を怒らせ李忠に凄んだ。
「ここで商売したいなら、まず筋を通してもらわねぇとな」
李忠は僅かに陰気な目を向けた。眇の男が木箱の上の小さな籠に手を伸ばす。
「冥加金は稼ぎの六割ってしきたりだ!!」
「てめえらにやる銭などねえ」
眇より速く、李忠は横から籠を取り上げた。
「へえ!」
眇は唾を吐き捨てた。
「上等だ!!」
男たちが棍棒を振りかざし、どっと李忠に襲いかかった。
籠が飛び、銅銭が路上に飛び散る。
相手は五人。
突き出された初太刀を、李忠は棒で撥ね上げた。次の一撃も辛くも避けた。次はごろつき三人が一斉に殴りかった。
李忠は慌てず、ぐっと低く腰を落とすと、正面に棒を構えた。四人の男がぶつかり合う。かん、かん、かんと、乾いた音が街路に響いた。
(やるな、師匠)
史進の顔に笑みが戻った。
しかし、そこまでだった。
子供たちが道に零れた銅銭を拾い始めると、李忠の顔色がさっと変わった。
「俺の銭だ、拾うんじゃない!」
逃げる子供を慌てて追いかけようとする李忠の背中を、眇の棍棒が打ち据えた。李忠は呻いて道に倒れた。その目の前で、乞食が散らばった薬袋を拾い集めて逃げていく。
「おい、返せ」
道に這ったまま李忠は怒鳴った。
「金を払えっ」
叫ぶ李忠の脳天めがけ、眇が棍棒を振り上げた。
「“金を払え”は、こっちの台詞だ!!」
唸りを上げて棍棒が振り下ろされた。街角に悲鳴が上がった。
(危ない!)
とっさに史進は棒を投げた。空を切って飛んできた史進の棒の一撃に、眇の朴刀は弾き飛ばされ、地面にざくりと突き立った。
「誰だッ」
無頼漢たちの目が、躍り込んだ男の見事な刺青に、一瞬、怯んだ。その虚を衝いて、史進は棒を後ろに飛ばした。棒を鳩尾に受けた男が倒れる。史進は素早く棒を引き戻し、さらにもう一人を打った。二人の男は血を吐いて砂塵の中に悶絶した。
「野郎!!」
一瞬で二人の手下をやられ、眇の男は懐から匕首を引き抜いた。史進は、すっと腰を沈めた。棒の先で大地に鋭く円を描く。棒がわずかに足に触れるや、眇は土埃の中にもんどりうった。その喉元に、史進は鉄を打った石突きを突きつけた。はだけた胸には鮮やかな青竜が踊っている。
「覚えてろッ!!」
眇は尻餅をついたまま後退ると、捨て台詞を吐いて逃げて行った。手下たちが転がるように後に続いた。
史進は肩脱ぎになった上着を直すと、李忠に手を差し伸べた。
「師匠」
「──史進か」
史進は頷き、手を取って李忠を立たせた。ごつごつとした骨太の手だけは以前と変わらなかった。
「見違えたな。“九紋竜”がなかったら、分からなかった」
李忠は決まりの悪そうな顔をしていたが、それでも懐かしそうに史進の肩に手を置いた。
その二人に、背後から声をかけた男があった。
「おい、あんたがた」
見れば、一人の大男が恰幅のいい体を揺すりながら近づいてくる。顔の半分はもじゃもじゃの髭で覆われ、腕にも肩にも牛のような筋肉が盛り上がっていた。足取りは無造作だが、隙がない。
「わしに一杯、奢らせてくれんかな」
「あんたは誰だ」
「わしか。姓は魯、名は達。経略府で*提轄をしておる者だ。さっきから見ていたが、あんた──」
*提轄=州の軍官
男は髭で覆われた顎をしゃくり、にやりと笑った。
「えらく強いな」
男は大きな手で史進の背中をばんと叩くと、豪快に笑った。
「いいものを見せてもらった!!どうしたって、一杯、奢らんと気が済まん」
その足元では、李忠が路上に身をかがめて散らばった小銭を拾っていた。魯達は太い眉をしかめた。
「おい、そんな端金は放っておけ」
しかし、李忠は黙々と拾い続ける。見かねた史進が手伝ってやり、どうにか全部を拾い終えると、李忠は手早く数えて帯の間にねじこんだ。魯達は髭を抜きながら、いらいらした顔で待っていた。
「しみったれたお人だわい。もういいかね」
「いや、俺は紅鶯楼に用があるから……」
「結構。それなら紅鶯楼で呑もうじゃないか」
そう言うと、魯達は李忠を追い越し、先に立って歩いて行った。
三人は紅鶯楼と看板の出た酒楼の暖簾をくぐった。
二階建ての瀟洒な酒楼で、建物は年季が入っているが、壁には鶯の籠を持った美人画などが掛けられて、なかなかに風情がある。
店に入ると、肩に青い布巾をかけた給仕が小走りに出迎えた。
「魯の旦那、お三人様で」
「上の部屋は空いとるな。酒も肴も上等なのをどんどん持って来い」
魯達はそう命じて二階に上がり、通りに面した卓についた。
「では、まず乾杯といこう」
運ばれてきた酒を魯達が三つの茶碗に注ぎ、杯を合わせた。しかし、その間も李忠はきょろきょろと落ちつかない。腰を浮かせて、しきりに簾の向こうの踊り場をうかがっている。
「なんだ、どうした」
魯達が見かねて尋ねたが、李忠は口ごもるばかりで答えない。
「妙なお人だ」
それきり話は史進に移った。
王進のこと、少華山のこと、魯達は身を乗り出して耳を傾け、史進が屋敷を焼いて出奔したくだりでは、酒を呑むのも忘れていた。
「わしの目に狂いはなかった」
話が終わると、魯達は史進の杯になみなみと酒を注いだ。
「しかし、その王進というお方は、あいにく渭州には来ておられんな。わしも、ぜひ会ってみたいものだが」
魯達は一息に大杯を干すと、あいかわらず落ち着きのない李忠に目を向けた。
「あんたも、師匠だったのかね」
史進の若武者ぶりに比べれば、李忠はどう見てもしょぼくれた中年男だ。
「李忠師匠なら、あんなごろつきに遅れをとることはないだろう」
史進は李忠に酒を足してやった。
「大道で芸などしなくても……」
「いいんだよ。俺は、元々、そんなたいした腕じゃない」
「おい、あんた……」
魯達が何か言いかけた時、簾を掲げて胡弓を抱えた若い娘が現れた。
「李忠さん、来ていらしたの」
面差しに陰のある華奢な娘だ。酒楼を流して心付けを貰う、箚客と呼ばれる歌女だった。歳は二十くらいだろう。古びた着物と安物の花簪を身につけて、特別に美しいわけではないが、悲しげな目、頼り無げな物腰に、人の気をひく色香があった。
「李忠さんがお友達とみえるなんて、珍しいこと」
娘は魯達たちに淑やかにお辞儀をした。
「わたくし金翠蓮と申します。李忠さんには、とても良くしていただいてますの……。何か、お聞かせいたしましょう」
「ほう」
魯達はじろりと李忠を睨んだ。李忠はますます落ち着きがない。
「そうかい。なら、ひとつ威勢のいいのを頼もうかい」
娘は腰掛けに座って弦を締めると、細い手で弓を取り、艶のある声で歌い始めた。
柳絮を巻く風寒さも過ぎて
散る花びらに漂う香り
日毎深まる紅の雲……
しかし、歌の調子が明るい割りには、どことなく沈んだ感じだ。
昨日の酔いの、消えぬまま……
「おい、姐さん」
魯達は太い眉をしかめ、杯を卓に放り出した。
「どうやら威勢のいいのは不得手らしいな。これをやるから、余所へ行って商売してくれ」
魯達は隠しから銭を摑みだしたが、翠蓮ががぽろぽろと涙を流し始めたもので、そのまま腕が止まってしまった。
「なんで泣くのだ」
「すみません、私……」
「翠蓮、いいから、もう行きなさい」
李忠が言ったが、翠蓮は声もたてずに泣き続けている。
「可哀相に、また、あいつらが脅しに来たんだな」
李忠は立ち上がり、先程集めた銭を娘の手に押し込んだ。
「金は、俺が何とかしてやる。今日はこれしか持ち合わせがないんだが……」
「おい、どういうことだ」
魯達は出ていこうとする翠蓮を引き止めた。
「困ったことがあるなら話してみろ」
「お恥ずかしい話ですもの……とても、お話しできません」
「李忠、お前が話せ」
魯達が促すと、李忠はためらいがちに事の次第を話し始めた。
金翠蓮は元々の芸妓ではなく、東京開封に生まれ、いい暮らしをしていたという。しかし、商いをしていた父親が人に騙され、元手をすっかり失くしてしまった。破産して暮らしが立たなくなった父娘は、しかたなく渭州の親戚を頼って来た。母親は早くに亡くなり、二人きりの家族だった。父娘は苦労して渭州まで辿りついたが、頼りにしていた親戚は、すでに余所に引っ越していた。つくづく運のない父娘であった。二人は為す術もなく途方に暮れ、すぐに僅かな路銀も底をついた。食べるにも困るようになった頃、泊まっていた安宿の亭主が、物持ちの妾の口を紹介すると言ってきた。
「明日にも飢え死にするかという時だったものですから……」
翠蓮は濡れた睫毛を伏せた。
「でも、奥様に憎まれて、一月ばかりで追い出されてしまったんです。それだけなら、しかたもありませんけれど、貰っていない身代金まで、返せと酷く責められて……」
「貰ってないとは、どういう事だ」
「証文は交わしましたけど、身代金は後払いということで、一文も貰っていないんです。でも、払わないなら役所に訴えると脅されて……。子供の頃に習い覚えた歌で口すぎをしておりますけれど、とても、三千貫なんて……」
「三千貫だと?」
気の遠くなるような大金だった。普通の男が一生がむしゃらに働いても手にできる金額ではない。娘一人の身代金にしては高すぎる。
翠蓮の潤んだ目から、涙がぽとりと胡弓に落ちた。父親は借金取りに責められた末、病であっけなく死んでしまったという。
「酷い話だ。で、李忠よ、あんたとはどういう知り合いだ」
魯達は翠蓮と李忠を見比べた。
「取り立てに絡まれてるのを助けただけだ。以来、俺を目の仇にして、何かと因縁をつけてくる」
「役所に訴えはしたのかい」
史進が聞くと、翠蓮は頭を振った。
「お父さんはお人好しなものだから、口車に乗せられて、身代金の受取証文に爪印してしまったんです。鄭旦那は渭州の顔役ですし、訴人したって勝ち目は少しもありません」
「鄭旦那?」
魯達が身を乗り出した。
「おい、その鄭旦那ってのは、状元橋の肉屋のことか」
翠蓮が頷くと、魯達は拳で卓を殴りつけた。
「あの野郎、俺の前ではへいこらしやがって」
貧乏人に高利で金を貸したり、訴訟ごとに首をつっこんで賄賂を取るという噂は、魯達も耳にしていたが、そこまで悪辣なことをしているとは知らなかった。
「あんた、なんで逃げ出さないんだ」
「宿でも店でも、見張られているんです。それに、逃げても行くあてもありません……」
「しかし」
「……いいんです」
翠蓮は、力なく微笑んだ。
「そういう、さだめなんですわ。毎月、少しずつ返していきます。命までは……取られませんもの」
「翠蓮」
李忠が堪り兼ねたように言った。
「俺が、必ずなんとかしてやるから」
「……どうやって?」
「それは……」
口ごもる李忠をいたわるように、翠蓮は微笑んだ。
「いいんです、ありがとう……李忠さん」
「ふざけるな!!」
魯達は丼に酒を注ぐと、一気にあおった。
「おい姐さん、あんたが泣く必要はない。金なぞ返すいわれもない。わしが話をつけてやる。天下の誰が許したって、この魯達は許しやせん!!」
魯達は空になった茶碗を床に叩きつけた。
その時、入口の簾をはね上げ、鷲鼻の大男が乗り込んできた。
「ずいぶん、威勢がいいじゃねえか」
後ろに十人ばかりの手下を引き連れていた。史進に殴られた眇たちも混じっている。手に手に得物を携え、卓をぐるりと取り囲んだ。
「おい翠蓮、鄭の旦那はもう待てねえとさ」
鷲鼻は魯達たちとの間合いをとりつつ、翠蓮の肩を摑んだ。
「今月の期限はとっくに過ぎてるぞ。なぜ旦那に挨拶に行かないんだ」
「でも……」
「いいさ、旦那も鬼じゃない。ちょうど今日はおかみさんが法事で実家に戻っていなさる。ちょっと酒の相手をしてくれれば、期限を延ばしてやってもいいと言ってくださっているんだぜ」
鷲鼻は翠蓮の手をねじ上げた。
「さぁ、来い。今更、恥ずかしがることもあるまい」
「おい、よさないか」
史進が間に割り込んだが、男は懐から証文を出し、その面前につきつけた。
「おっと、兄さん。余計な手出しはやめてもらおう。こっちには、証文があるんだぜ。正真正銘、親父が印を──」
言いかけた男の腹に、魯達の鉄拳が食い込んだ。
「そうかい、そりゃあ結構だ」
血を噴いて倒れた男を蹴り飛ばすと、魯達はゆっくりと立ち上がった。
「しかし、あいにくわしは字が読めん」
男たちの朴刀が一斉に抜き放たれた。
「殺っちまえッ!」
朴刀を振り上げた手下たちが魯達に向かって突進する。魯達は両手で卓を担ぎ上げると、乗っていた料理ごと相手の上に叩きつけた。皿が飛び、銚子が砕ける。手下たちがわっと怯んだ。その隙を突き、魯達は壊れた卓を飛び越えて鷲鼻に躍りかかった。大きな拳が一撃で鷲鼻の鼻をへし折る。その背後から眇が朴刀で打ちかかったが、魯達は体を開いて避けると、思い切り鳩尾を蹴り上げた。
史進は思わず目を見張った。
(こいつは凄い!)
史進は李忠を促すと乱闘の中に飛び込んだ。宴席は瞬く間に修羅場と化した。魯達は朴刀をかいくぐり、縦横無尽に拳を振るう。史進の棒がごろつきの顎を砕けば、李忠の一撃が翠蓮を捕らえようとする男たちを薙ぎ払った。
勝負がつくのに、長い時間はかからなかった。
「余計な汗をかかせやがる」
魯達ははだけた襟を直すと、踊り場からこわごわ中を窺っていた主人を呼んだ。
「騒がせたな。これだけありゃあ、修繕費用も出るだろう」
財布を取り出し、壊れ物の代金も含めて勘定をした。
「おい、あの姐さんは」
残骸の中を見回すと、翠蓮は柱の陰で震えていた。魯智深は翠蓮に手招きをした。
「姐さん、手を出せ」
恐る恐る差し出した翠蓮の手に、魯達は財布を握らせた。史進も懐から五両の銀を取り出した。手のひら一杯の銀を見て、翠蓮は跪いて二人を拝した。
「これだけあれば、期限を延ばしてもらえます」
「駄目だ」
魯達は厳しい顔で言い、翠蓮を立ち上がらせた。
「この金は、あんな野郎に渡す金じゃない。あんたがこの街を出て、どこかで落ちつくまでの費用にするんだ」
「でも……」
翠蓮は怯えた瞳で魯達を見上げた。
「見張りが……」
「俺たちに任せておけ。あんたは、これからすぐ宿に戻って、荷物をまとめて街を出るんだ。史進、悪いがついて行ってやってくれ」
李忠は擦り切れた襟の中から、痩せた財布を摑みだした。
「俺の全財産だ。少しだか、持っていってくれ」
「おっと」
財布を渡そうとする李忠の腕を、魯達が摑んだ。
「あんたの端金なぞ、役には立たんよ」
「なんだと」
「あんたが出すのは、銭じゃねえ」
魯達は大きな口を枉げて笑った。
「命──さ」
魯達は倒れた銚子の中から、中身の残っているものを捜し出し、ぐっと仰いだ。
「史進よ、この姐さんは、あんたがたに任せたぞ」
「魯提轄、あんたは?」
「わしはちょいと、野暮用がある」
魯達は階段を鳴らして階下へと降りると、そのまま旋風のように店を出ていった。
行く先は、もちろん状元橋だ。
その界隈は街一番の繁華街で、城門のあたりとは違い大店が軒を並べている。魯達はそれらの店の中でも、特に立派な構えを持つ肉屋の前に立ち止まった。
“鄭家肉舗”
軒先には、そう大書された*招牌が掲げられている。間口の広い店の奥には豚や牛の足がずらりとつり下げられており、店先には羽をむしられた鶏や羊の頭が並んでいた。雇い人の数も多く、たいそうな羽振りである。
*招牌=看板
魯達は何食わぬ顔で敷居をまたぎ、店の奥に声をかけた。
「主人はいるか」
帳場の中から、丸々と太った初老の男が飛び出して来た。
「これはこれは、魯提轄様。今日は、どういったご用件で」
「今夜、役所で宴会がある。赤身の肉を十斤ばかり刻んでもらおう」
「ではすぐに」
鄭は小僧に肉を刻むよう命じたが、魯達はじろりと睨み付けた。
「長官から直々のご命令だ。薄汚い小僧なんぞにやらせんで、お前が切るんだ。かけらでも脂がまじっちゃならん。赤身だけで、できるだけ細かく刻むんだ」
そう言われれば、鄭にも断ることはできない。内心では苦々しく思ったが、相手は酔っているようでもある。しかたなく、愛想笑いを浮かべて包丁を握った。
「しっかり刻め」
魯達は腰掛けをひっぱってくると、調理台の前にどっかりと座り込んだ。
「時間は、どれだけかかっても構わんぞ」
「おい、この娘は、鄭旦那から逃がさぬように言われているんだ」
裏町の宿屋の一室に、番頭の怒鳴り声が響いた。
「勝手なことはよしてくれ。俺が旦那に睨まれる」
史進と李忠に宿の番頭が詰め寄るが、二人はまるで相手にしない。
「おい翠蓮、よすんだ。逃げられやしないぞ」
番頭は荷物をまとめる翠蓮に摑みかかった。その足を史進が棒で打ち払う。転がった番頭は、叫びながら部屋の外に這いだしていった。
「おい、皆──こいつらを止めてくれ!!」
史進は扉を閉めると、翠蓮に振り向いた。
「姐さん、支度はできたかい」
小さな包みを背負い、胡弓を抱いて、翠蓮はこくりと頷いた。
「では行こう」
「史進、来たぞ」
窓から外を窺っていた李忠が言った。
翠蓮の部屋は狭い中庭に面している。その庭を横切って、男たちが手に手に棒を握って駆けつけてくるのが見えた。その数は二、三十人もいるだろう。鼻に膏薬を張った鷲鼻と眇の姿もある。鷲鼻が叫んだ。
「構わねぇ、奴らをぶっ殺せ!!」
翠蓮は声にならない悲鳴をあげて、部屋の奥へと後退った。
「逃げられませんわ。私なら、もう、いいんです。どうか、お二人は逃げてください」
史進は押し寄せる敵を見据えていた。
李忠も、黙然と佇んでいる。
「李忠さん、逃げてください。あなたたちだけなら、逃げられます」
「だめだ──翠蓮」
李忠はゆっくりと振り返り、翠蓮の肩に手をかけた。
「あんたは若い。これから、もっといいことがあるはずだ。こんな所で、諦めちゃいかん」
思えば、彼の人生こそが諦めの連続だった。仕官しようとした事も、道場を持とうとしたこともある。しかし、どれも中途半端に投げ出した。それが自分の運命なのだと、諦めてきた。
李忠は年季の入った棒を構えた。
金のため以外に棒を振るうのは、久し振りだった。
自分でも忘れてしまったくらい、久し振りのことだった。
手垢に光る棒を握りしめ、李忠は不精髭の生えた頬に笑みを浮かべた。
命だ──と魯達が言った。
そうだ、まだ命があった。
銭もなく、腕前もなく、意気地もない。しかし、まだ命がある。
翠蓮の未来のために、落ちぶれた自分の命が役に立つなら、こんなに嬉しいことはない。
「史進、俺は、やるぞ」
李忠は扉に手をかけた。
「師匠」
史進も棒を手に背後に立った。李忠は笑った。
「お前は、俺よりずっと強くなった。もう師匠なんて呼ばないでくれ」
「師匠さ。この先も、ずっと師匠だ」
二人は顔を見合わせて、無言で笑った。
「行こう」
「おう」
翠蓮を間に庇い、二人は扉の前に立った。
用心棒どもが雄叫びをあげて殺到してくる。
「史進よ、俺にも、昔はあだ名があった」
李忠は扉を蹴り開けた。
ずっと忘れていた名前──遠い昔の自分のあだ名だ。
李忠は棒を振りかざし、群がる用心棒たちの中に突っ込んでいった。
「“打虎将”李忠だ──覚えとけッ!!」
鄭は長い時間をかけて、なんとか赤身を刻み終わった。
「これで、ようございますかな」
魯達はちらと肉を覗き込み、また椅子に腰を下ろした。
「いいだろう。次は、脂身を十斤だ。かけらでも赤身が混じっちゃならん」
「赤身なら餃子の餡にでもするんでしょうが、脂身を十斤も、何にお使いになりますので」
「長官様のご命令だ。わしがわけなど聞けるものか」
鄭は何か言いかけたが、黙って再び包丁を取った。魯達は地位こそ低いが、経略府長官の気に入りであり、腕も立つ。逆らうのは、得策ではない。
途中で、紅鶯楼と宿屋から注進が来たが、魯達が拳を振るって追い払った。
何かあったな、と思ったが、どうにも為す術はない。
今日はうるさい古女房がいないから、鄭は店を早仕舞いして、翠蓮を呼びつけるはずだった。せっかく騙してただ同然に手に入れた女なのに、女房が妬いて追い出してしまったのだ。しかし、三千貫の空証文を取っていたのが幸いして、今もただで縛りつけている。こちらは一文も払わずに、向こうからは利子まで入るのだから、我ながら妙計だった。
しかし、今日に限って翠蓮はやって来ない。連れにやった連中も戻ってこない。
鄭は訳が分からぬまま、ぬるぬると滑る脂身を黙々と刻み続けた。脂身十斤を刻み終えると、高かった太陽は西に傾き、すでに空には暮色が漂っていた。
「……できました」
鄭は額に滲んだ汗を拭った。
魯達は茜色の空を見上げ、翠蓮たちが充分に街から離れた頃と見計らった。
「よかろう」
勿体ぶって立ち上がり、座り疲れた腰を延ばした。
「では、次は軟骨でも刻んでもらうか」
鄭はかっと血の気を昇らせ、肉切包丁を握り直した。たるんだ顎の贅肉が、怒りでぴくぴくと震えている。
「ひ、人をなぶるのもたいがいにしやがれッ」
「てめえが人か、豚野郎め」
魯達は手にした脂身を鄭の顔に投げつけた。
「なにをッ」
鄭の包丁が魯達の顔に切りかかった。しかし、魯達はそれより速く巨体を躍らせ、包丁をかわして鄭の襟首を摑み上げると、そのまま顔面を殴りつけた。
鄭は豚のような悲鳴を上げた。その騒ぎに番頭や小僧が駆けつけて来たが、魯達の剣幕に怖じ気づき、遠巻きにするほか術がない。吊り上げられた鄭は手足をばたつかせ、盲滅法に肉切包丁を振り回している。それを手刀で叩き落とすと、魯達は肉屋の太鼓腹に拳骨を一発、喰らわせた。ぐう、とくぐもった音がして、鄭はどっと濁った血反吐を噴いた。
(しまった!!)
そう思った時には、鄭の体はぐらりと道に崩れ落ちていた。
地面を掻いた太い指が、蟹のように動いて、止まる。
乾いた土に黒い染みが広がっていき、鄭の体は、それきりぴくりとも動かなかった。
(力の加減を誤ったわい)
魯達は唾を吐き捨てた。
「今日はこれで勘弁してやる。二度と弱い者いじめなどしようと思うな」
平然と肩をゆすりながら、その場を離れた。
「腰抜けめ、死んだまねなどしやがって!」
十分に離れてから、足を速めた。
後ろで、人殺し、と声があがった。役人を呼べ、と手代たちが叫んでいる。
魯達は一目散に駆けだした。
下宿に戻り、荷物をまとめている暇はない。魯達は裏路地に紛れ込み、城門へ向かって走った。
夕闇が迫り、街頭の店々には灯がともり始めている。
城門が閉じてしまえば万事休すだ。
鄭の家族が訴え出れば、今夜中にも街には捕り方と手配書が溢れるだろう。
時を告げる太鼓が薄墨の空に流れ始めた。
太鼓がやめば、城門が閉じられる。
「おうい、待ってくれい」
彼方に城門が見えてきた。
今しも扉に手をかけようとする門番兵に、魯達は声をはりあげた。
「長官様の急ぎの用事だ」
見知った魯達の顔に、兵士は扉を閉める手を止めた。
「すまんな」
魯達は閉じかけた門の間を滑りでた。重苦しい音をたて、背後で城門が閉じられる。
一気に闇が濃くなった。
しかし、これで明日の朝まで渭州を出る者はない。
初冬の夜気に、魯達は襟をかきあげた。
ぼんやりと霞んだ空に、星がひとつだけ輝いている。
その頼りない光の下、深い闇のただ中へ、魯達は足早に踏み出して行った。
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