薄暗い書斎の机に向かい、史進は仏頂面で頬杖をついていた。
目の前には、分厚い帳簿が何冊も積み重ねられている。それを横目に、史進は墨の乾いた筆を指に挟んで器用にくるくると回していた。
指を開くと、筆はぱたりと机に落ちた。しかし、拾う気にもならない。
隣の部屋まで届きそうな、大きなため息を思い切りついた。もう、何十回、ついたかしれない。
史進は机につっぷし、行ったきり便りもない薄情な師父のことを考えた。
(やはり、俺は行くべきだった)
王進が去ってから、暫くは型のおさらいなどして殊勝に過ごした。しかし、やがてどうにもむしゃくしゃしてならなくなった。棒や槍を振り回す間にも、師父は今頃どうしているか、そればかりが気になった。
そもそも、史進は史家村から出たことがない。王進が垣間見せた、世間というものが堪らなく見たかった。
こっそりと家を出て、王進を追って行こうと本気で考えたこともある。しかし、決心がつかないうちに、初冬から病床にあった父親が身罷り、時期を失した。史進の腕には、まだ白い喪章が巻かれている。
幼い時に母親を亡くし、兄弟もなかった史進は、天涯孤独の身となった。さすがに暫くは亡父を偲んでしんみりとしていたが、やがて煩雑な家事や村の仕事が肩にのしかかってくると、再び心が騒ぎはじめた。面倒な村長の役目は他の者におしつけたが、家の仕事はそうもいかない。父親の追善供養はもちろん、畑の見回りや、税の出納、小作人の仕事の指示から、屋敷内のいざこざの仲裁まで、采配しなければならないことが山ほどあった。
(これが、男のすることか)
とうとう史進は帳面を投げ捨て、棒を摑むと書斎から飛び出した。
「若旦那、小作の陳と趙が畑の境界のことで……」
追いすがる家令を突き飛ばし、史進は庭に繋いでいた馬に飛び乗ると、一気に門から走り出た。
いつの間にか、秋が深くなっていた。遙かに見える少華山も、鮮やかな金色に紅葉している。降り注ぐ陽光の下、史進はがむしゃらに馬を走らせた。何もかもが煩わしかった。史進は初めて王進と出会った荒野で馬を下り、ごろりと枯れ草の中に寝ころんだ。明るい空を、乾いた風が吹き抜けていく。風に乗り、雲が北へと流れていった。
(このまま、行ってしまおうか)
目を閉じて、深く風を吸い込んだ。
その時、目の端を人影が横切った。見ると、背中を丸めた男が、王進が殺した刺客を埋めた森へ向かって歩いていく。
(あの死体を見つけられたら、厄介なことになる)
史進は起き上がり、気づかれないように男の後を追いかけた。
森に入った男は木々の間にうずくまり、ちょうど死体を埋めたあたり、心なしか他所より草が繁っている盛土を掘り起こしているようだった。史進は足音を忍ばせて近寄ると、男の首筋に棒を突きつけた。
「何をしている」
男はびくりと飛び上がり、転がるように逃げだした。史進は素早くその襟首を捕まえた。
「兎捕りの李吉じゃないか」
捕まえたのは、顔なじみの猟師だった。穴を掘っていると見えたのは、罠をしかけていたらしい。
「最近、獲物を持ってこないと思ったら、家の森で勝手に商売していたのか。どうりで顔が出せないはずだ」
放してやると、李吉は頭を振った。
「ち、違うんで……いや、罠をしかけてたのは、ほんとです。でも、今日が初めてで、まだ一匹も獲っちゃいません」
「お前の猟場は少華山だろう。なぜ、あの山に行かないんだ」
「いや、それが、賞金首になってから、山の盗賊どもが気が荒くなりやがって、猟師だろうが百姓だろうが、見つかりゃ酷え目にあうんでさ。おかげで商売あがったり。腹を空かせた子供は泣くし、女房には殴られるしで、しかたなく、こちらの森へお邪魔したってわけでして」
両手を揉んで、李吉はぺこぺこと頭を下げた。
「なるほどな」
それだけのことなら見逃してやってもよかったが、罠を堀った拍子に死体でも出てきたら厄介だ。史進は棒を振り上げて、李吉の横面を一発、殴った。
「だったら一言、俺に通しておくのが筋だろう。さっさと出ていけ。二度とこの森に入るんじゃない。今度は役所につき出すからな」
李吉は殴られた顔を押さえ、転がるように逃げていった。
史進は死骸の無事を確かめると、森を出て、南の空を見上げた。
「少華山の盗賊が、そんなに剣呑になっているとはな」
少華山は史家村の南郊にある山で、盗賊が山塞を構えて旅人や周辺の村を襲っていることは史進も前から知っている。三人の頭目を筆頭に、五、六百人も集まっているということだ。その三人には、それぞれ一千貫ずつの賞金がかかっている。
まだ史家村が襲われたことはないが、それほど気が荒くなっているのなら、麦の収穫が済むのを待って、兵糧を奪いに襲撃して来るかもしれない。
よし、と頷き、史進は再び馬に飛び乗った。
王進の指南のおかげで、かなり強くなったと思うのだが、まだ実戦の勝負をしていない。
史進は屋敷に戻って武装すると、うららかな秋の日を浴びている紅の峰を目指して、意気揚々と馬を走らせた。数里も行くと、街道の先に土埃が舞い上がっているのに気がついた。史進は路傍の高台に駆け上がり、彼方を眺めた。
(こいつは、手間が省けたぞ)
近づいてくる男たちの面構えは、どうみても緑林の輩だった。先頭を騎馬で進むのは、でっぷりと太った虎鬚の大男だ。武器を持った数十人の手下が従っている。
やがて、山賊の一団は史進のいる丘の麓にさしかかった。史進は棒を握りなおすと、一気に丘を駆け降りて、道の真ん中に踊り出た。
「何だ、てめえは!!」
大将がしゃがれた蛮声で恫喝した。
史進は不敵な笑みを浮かべた。
「おっさん、俺とちょっと遊ばないか?」
「ふざけるな!!」
男はべっと唾を吐き捨てた。
「どこの坊やだか知らねぇが、俺様は少華山の頭領、“跳澗虎”の陳達だ。これから大事な“仕事”に行く。役所の蔵にため込んである食料を洗いざらい頂戴するんだ。役人を二、三百人もぶっ殺す。邪魔するやつは皆殺しだ、分かるか、坊や!!」
「ああ」
「分かったら、さっさと家に帰りな!!」
陳達は矛を振り上げ、馬腹を蹴った。
「今日は遊んでる暇はねぇんだ!!」
二頭の馬が同時に飛び出す。
「俺は、どうしてもあんたと遊びたいのさ」
「小僧ッ!!」
眩いほどの夕暮れの光の中に、矛と棒が鋭い音をたてて交わった。
雲が速かった。
沸き立つような重い雲が、高い空を走っていく。
その雲間に、月は、息づくように光芒を移ろわせていた。
やがて雲が切れ、光が地上へ降り注ぐ。銀色の月光に照らし出されるのは、切り立つ山の峰々である。
華陰県の南、少華山。
東方四十五里にある華山に対して、少華山という。
華山は五岳の一つに数えられる名峰であり、また道教の一大聖地だ。対する少華山は、古来から山賊たちが依ってきた天然の要害だった。その、月光を切り裂いて聳える岩の間を、一人の男が走っていた。
僅かな岩のすきまを縫うように駆け抜けていく。その動きは素早いが、音もなく、また気配もなかった。男の横顔は青白い。月光のせいではなく、もともとの顔色である。
男には楊春という名前があったが、“白花蛇”と呼ぶ者の方が多かった。噛まれた者は三歩も歩かずに死ぬという猛毒の蛇の名だ。彼がなぜその名で呼ばれるか、理由は定かではない。おおよその者は、容貌が蛇に似ているからだと思っている。しかし、こんな話がある。
ある時、楊春は純白の大蛇に巻かれ、頭から呑み込まれた。が、その腹を喰い破って這い出て来たというのである。それ以来、肌が蛇のように、冷たく青白くなった。
喰い破ったのではなく、蛇から生まれたのだと云う者もある。楊春は懐に二匹の白い毒蛇を飼っているが、それは彼の兄弟なのだと。
いずれにせよ、“白花蛇”楊春は蛇のごとく、山頂にある砦の一室に滑り込んだ。書物の積まれた室内には、蠟燭が一本だけ燃えている。
「朱武の兄貴、まずいことになった」
部屋の奥で書物を捲っていた男が動きを止めた。
「……陳達か」
男は、ぱたりと書物を閉じた。
「だから、よせと言ったのだ」
朱武は、少華山に巣くう盗賊たちの首領だ。ゆったりとした道服に身を包み、泰然と竹の椅子に腰掛けている姿は、碩学の道士と言っても疑う者はないだろう。実際、彼はあらゆる陣形、軍略に通じた軍学者である。ゆえに 神機軍師”という。学者にしては眼光が鋭すぎるが、それも自在に操れた。
「相手はやはり──あの男か」
ゆっくりと振り向いた朱武に、楊春は無言で頷いた。
近年、官の取り締まりが厳しくなり、少華山の賊は“仕事”ができず糧食が不足している。陳達は、短気である。こそこそと小さい仕事をするより、いっそ華陰県を襲うと言い出した。華陰県はこのあたり一番の富裕な街だ。朱武は、止めた。
「途中の史家村には、“九紋竜”と呼ばれる男がいる。ただでは通れまいから、よしておけ」と。
しかし、“跳澗虎”──谷川を飛び越える虎の如く、陳達は飛び出して行ってしまったのだ。
「“九紋竜”は陳達兄貴を生け捕りにして、屋敷の庭に吊るしている。俺たち三人を揃えて役所へ突き出すと息巻いているらしい」
どうする、というように、楊春は朱武を見上げた。
「見捨てるわけにも、いくまいよ」
眉間を軽く揉みながら、朱武は大儀そうに立ち上がった。
「策は、ないこともない」
(── “九紋竜”史進)
ちりちりと燃える蠟燭の火を見つめ、朱武は泰然と髭を捩じった。
「奴が噂通りの男なら、うまくいく。万が一、違っていても……わしらの命が、なくなるだけだ」
その頃、史家村の中心にある史進の屋敷は、いくつもの松明で皓々と照らしだされていた。門には逆茂木が植えられて、武器を手にした小作人たちが、慌ただしく出入りしている。村の男たちも総出である。
夕方、史進は山賊を捕らえて戻り、近隣の男たちに非常招集をかけたのだ。
「少華山の盗賊共が、今夜にも仲間を取り返しに来るはずだ」
史進は水を得た魚のごとく、物見を出したり、屋敷の守りを固めたりと、てきぱきと指示を下していった。
陳達が史進の棒に打ち倒されると、手下たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。奴らが山に残る二人の頭領に知らせ、山賊どもは大挙して押し寄せてくる──史進はそう踏んでいた。
(ちょうどいい)
少華山まで出掛けて行く手間が省けるというものだ。
少華山には、“跳澗虎”陳達の他にもう二人、名の知れた頭領がいる。“神機軍師”朱武と“白花蛇”楊春だ。史進は彼らも自分の手で捕らえるつもりで、役所などには知らせなかった。小作人たちには、常々、武術の稽古をつけてきた。山賊の襲撃に怯える村人たちも、仕事の合間をみては参加している。少華山の賊が五、六百もいるとしても、十分に戦える。応戦の準備が整うと、史進は陳達を吊るした中庭の木の下に床几を据えて座りこんだ。
陳達はさっきまで悪態をつきながら暴れていたが、今はおとなしくぶら下がっている。燃え盛る篝火が、虎鬚を赤く染めていた。
そこへ、下男が駆け込んできた。
「若旦那、少華山の山賊が」
「来たか。数は」
「それが……二人です」
下男は困惑した顔で答えた。
「二人だけで、門の前に正座しております」
史進は陳達に目をやった。陳達も驚いている様子だった。史進は棒を摑んで門へと向かった。
門前には、篝火が赤々と灯されている。
夜風に舞い飛ぶ火の粉の中に、二人の男が端座していた。武器を手にした小作人たちに遠巻きにされ、一人は低く頭を垂れ、一人は、昂然と顔を上げている。下男に引き立てられて来た陳達が、兄貴、と叫んだ。
史進は陳達と、男の顔を交互に見た。
「何のまねだ」
「それがしは、少華山の一の頭領、朱武。世間では“神機軍師”で通っております」
朱武は丁重に拱手した。
「これなるは、三の頭領、“白花蛇”楊春。われらと、それなる“跳澗虎”陳達は、三国の英雄にならい、桃園にて義兄弟の契りを結んでおります。同年同月同日に生まれることはあたわずとも、同年同月同日に死なん。このたび、愚弟・陳達が身の程も知らず世上を騒がし、史公子に捕らえられました。かくなる上は、これを天意と悟り、共に死のうと参った次第でございます」
淀みなく述べ、朱武は神妙な顔で両手をついた。
(任侠きどりの若造なら、この手で大概はいけるのだが)
かつて大人物気取りの役人に捕らえられた時も、純朴な民が酷吏に虐げられて一家離散し、やむなく賊となった哀切きわまる物語を滔々と語り、逃げおおせたことがある。役人は感動して涙を流し、釈放する時、銭までくれた。
しかし、史進は一言も発しない。長い、沈黙があった。
(見込み違いか?)
朱武は、わずかに目を動かした。
その瞬間、史進の腕から棒が飛んだ。思わず顔を上げた朱武と史進の目が合った。棒は、朱武の鼻先でぴたりと止まった。
(これは……)
朱武は全身を打たれたように動くことができなかった。
史進から発せられる何かが、棒を伝い、決して本心を見せない朱武の心に、容赦なく斬り込んでくる。
(本物──かもしれん)
朱武は、もう何も言わなかった。膝に手を置き、ただ、静かに史進を見返した。
妙に心が澄んでいた。
ふと、本当に、ここで三人揃って死ぬのも悪くないように思われた。
ぱちぱちと松明のはぜる音だけが、夜空に響く。
史進は動かない。この場の誰もが、微動だにしなかった。
やがて風が出て、史進の髪を軽く流した。光が揺れて、口許が微かに動いた。
「……冷えるな」
瞬く星をちらりと見上げ、史進は朱武に視線を移した。
「一杯やろう」
朱武は、ゆっくりと顔を擡げた。
史進は陳達の縄を解くよう家僕に命じた。
「それから、座敷に席を用意しろ。一番、上等の酒を出せ」
門の陰から成り行きを見守っていた家令が口を挟んだ。
「しかし、相手はお尋ね者の……」
「俺の客だ」
史進は家令を追い払うと、朱武たちを屋敷の奥の間に招き入れた。
やがて、拍子抜けした小作人たちも散っていき、篝火も消されて、屋敷はいつもの静けさを取り戻した。
その一部始終を、側の雑木林から覗き見していた者があった。
「……大それた事をしやがるぜ」
男はあたりに誰もいなくなったのを確かめると、足音を忍ばせて闇の中へと姿を消した。
その夜、史進は久しぶりに愉快な酒を呑んだ。
山賊と呑むのは初めてだったが、話してみれば味のある男たちだった。奥座敷に宴席を設けた四人は、時の経つのも忘れて呑み、かつ語った。
朱武はどれほど呑んでも少しも酔わず、兵法の奥義を語り続ける。楊春は終始無言で呑み続け、時々、懐からつがいの白蛇を出しては肴を喰わせた。陳達は大杯を豪快にあおっては、威勢のよい武勇談を披露した。朱武が笑った。
「腕自慢はほどほどにするがいい。若旦那に何発、食らった」
陳達は史進に打たれた股をさすった。
「一発だ」
「一発で、負けたのか」
朱武は驚いた。史進がいくら強いとはいえ、陳達とて近隣に名の知れた男だ。気も荒い。どのような痛手を受けようと、一発や二発で倒れるような男では決してなかった。
陳達は頭を掻いた。
「いや、俺にもよく分からねぇ。しかし、一発で、やる気が失せた」
「おかしな奴だ」
朱武は笑ったが、その目は心から笑っているわけではなかった。
真夜中を過ぎても、倦むこともなく宴は続いた。
*四更になろうとする頃だった。朱武が、ふと杯を持つ手を止めた。
「……馬だ」
素早く弟分に目くばせをした。泥酔していると見えた陳達が、飛び起きて窓辺に走った。楊春も朴刀を抜き放つ。朱武は史進に目を走らせた。
(謀られたか)
史進は立ち上がり、廊下に向かって人を呼んだ。
「何事だ!!」
すぐさま家令が血相を変えて飛び込んできた。その時には、馬蹄の響きと人々の呼び交わす声が屋敷を取り囲んでいた。
「県の捕り方が参りました。盗賊を差しだせと言っております」
「一体、誰が密告を」
「李吉が、一緒に来ております」
史進は舌打ちをした。
(昼間、森でどやしつけたのを恨んだな)
「恥知らずめ!!」
史進は酒杯を床に叩きつけた。
朱武は、剣を鞘に収めた。
*四更=夜中の1〜3時
彼は、史進を完全に信用していたわけではない。しかし、心の奥では自分がすでにこの若者を信じていることを認めないわけにはいかなかった。
収めた剣を、朱武はおもむろに史進に差し出した。
「なんのつもりだ」
「我らを捕らえ、役人に引き渡しなさい」
陳達もまた、矛を捨てた。
「いっぺんは捨てた命だ。あんたの情誼は、獄門台に登っても忘れねえ」
楊春の朴刀も床の上に転がった。
「──諦めのいい客人だな」
史進の目に、朱武すらたじろぐような笑みが浮かんだ。
「おい、すぐに家中の者を集めて、金目のものをまとめさせろ」
おろおろと歩き回っている家令に、史進は命じた。
「一体、なにを」
「荷物を作り終えたら、この屋敷に火を放つ。使用人どもは、金でも何でも欲しいだけ取り、どこへでも行くがいい。行くあてのない奴は、少華山が面倒を見てくれる」
あっけにとられる三人を、史進は顎をしゃくって促した。
「捕り手どもには、あんたたちをふんじばって突き出すから、待っていろと言って時間を稼ぐ。油断させて、斬って出る」
史進は卓から杯をとり、ぐっと仰いだ。その顔は、楽しそうでさえあった。
使用人たちの支度が整うと、史進は屋敷のあちこちに火をつけさせた。自らも棒を持ち、荷物は背中にくくりつけた。
「行くぞっ!!」
燃え上がる炎の中を、史進は門へ向かって走った。朱武たちも手に手に武器を携えて、その後を追いかけた。
風が熱い。
史進は笑った。
この時を、待っていた。
見上げた空には、満月には少し欠ける月が、白々と輝いていた。
史進は気合と共に門を蹴り開け、わっと上がった喊声の中へ切り込んだ。捕り手たちが波のように押し寄せた。
史進は漲る熱気に体を任せた。
棒を振りかざして先頭に立ち、史進は大きく棒を振るった。一撃で捕り手役人は血を噴いて吹っ飛んだ。わずかに棒を動かすだけで、捕り手が薙ぎ倒されていく。体が軽い。まるで自分と棒が一つになり、戦場を飛翔しているようだった。
(俺は、一体──)
それは、かつて王進が感じたのと同じ驚きだった。
しかし、ひとつだけ違うところがあった。史進は、自分の力を恐れなかった。
敵をひとり倒すたび、体の中に力が溢れた。溢れた力は棒を伝い、さらに大きな力となる。その力を、史進は自在に操れた。刀であろうが、槍であろうが敵ではない。
屋敷を包み込んだ火が、ごうごうと音をたてて夜空を焦がす。
家が崩れ落ちる音を聞きながら、史進は放たれた猛虎のごとく、奔り、飛び、棒を振るった。
(これで、自由だ)
史進は戦い続けた。
一片の後悔も不安もなかった。
「俺は自由だ!!」
目の前に、いつしか道が出来ていた。火の粉の混じる金色の風の中を、四人は一丸となって駆け抜けた。朱武、楊春が左右を守り、殿の陳達は追いすがる兵を縦横無尽に斬り払う。四人の上に火の粉が降り、血に染まった顔を更に赤く照らし出していた。
「命拾いしたな、陳達」
朱武が陳達に囁いた。
「あいつとまともに戦っていたら、二発目でお前は死んでいた」
ついに四人は血路を拓き、夜道を少華山の峯を目指して駆けた。捕り手たちは叩きのめされ、追って来るものもない。やがて、暗闇の彼方に松明の光がぽつぽつと現れた。急を聞いて駆けつけた少華山の手下たちだった。
夜明け、一行は少華山に辿り着いた。
まだ暗い山道で振り返ると、遠く、屋敷を焼く火が見えた。
しかし、史進には少しの悲しみもなかった。
屋敷を焼く火よりも、東の空を染めている朝焼けのほうが、ずっと赤い。史進は山の空気を胸一杯に吸い込んだ。
振り向きもせずに山道を登っていく史進を、朱武は複雑な気持ちで眺めていた。
(“九紋竜”──こいつは、まさしく竜の子だ)
自分たちを役人に引き渡せ──あの時、朱武は史進に三人の命を賭けた。
「しかし、まさか……」
朱武はため息をつき、明けていく空を見上げた。
「まさか、ここまでやるとは」
“神機軍師”が人の心を読み損ねたのは、これが生涯はじめてのことだった。
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