茫漠たる黄土の中を、一人の男が歩いていた。
埃にまみれた旅装束で、髪は乱れ、腰に吊った長剣以外に荷物らしいものはない。暗い目で彼方を睨み、ひたすらに足を動かしていた。
太陽は中天にある。
遠い森からは、降るような蝉の声が聞こえてくる。
突然、男は足を止めた。
一人、二人……十人まで数えたところで、すらりと腰の剣を抜いた。
「王進!!」
太陽を遮って、乾いた大地に殺気が走った。
「覚悟ッ!!」
舞い上がる土埃から複数の影が飛び出してくる。その時、すでに男の剣は第一の敵の体を右から左へ、袈裟懸けに斬り裂いていた。砂塵の中に死体が落ちる。蝉の鳴き声がぴたりと止まった。
男は血に濡れた剣を無造作に下げ、殺気だつ円陣の中に佇んだ。
刺客の群れは、十四、五人もいるようだった。男を取り囲み、じりじりと間合いを測っている。いずれも手練だ。うかつには仕掛けてこない。ただ真夏の太陽だけが、彼らの頭上に照りつけていた。
男の頬から、汗が一粒、地上に落ちた。
「たかが禁軍教頭ひとりに……」
煮えるような空気の中で、男──王進は、ほんの僅かに目を細めた
「いったい、いくらの値がついた」
剣が動いた。同時に刺客の群れが走った。
王進の体が沈む。頭上から降り注ぐ白刃をかわしざま、剣を逆手に斬り上げた。下ろす刃で更にもう一人を斬った。正確に急所だけを狙い、確実に息の根を止める。一撃で、多くても三度と刃が触れ合うことはなかった。それが長い逃避行の間に身につけた、彼の戦い方だった。間断なく迫る刃を、潜り、返し、撥ねあげて、王進は憑かれたように血煙の中を走った。荒野を黙々と歩いていた時と同じ眼差しで、王進は敵を殺し続ける。
ふと、剣を重く感じた。同時に背後の敵を振り向きざまに斬っていた。
こうやって、何人殺してきただろう。何人殺せば、終わるのか。
かつてなく、戦いの時を永いと思った。
喉が焼けつき、息があがった。
長槍を繰り出し、叫びながら突っ込んでくる男を、王進はぎりぎりまで待ち、受けるとみせて身を逸らし、その腹に刃を打ち込んだ。手応えが奇妙に軽かった。鳩尾を狙ったはずが、肋骨の上を裂いていた。王進は体勢を立て直し襲いかかる男の足を払うと、倒れた男に馬乗りになり、体重をかけて首を垂直に刺し貫いた。
頸椎の砕ける音が、妙に遠く、虚ろに響いた。
男は痙攣して動きを止めた。
王進は立ち上がろうとして、よろめく体を剣で支えた。
太陽が、やけに眩しい。
それなのに、熱気は去り、ぞっとするような寒さが背筋にはりついていた。
周囲には十を越える死体が転がっていた。もう動くものはない。
終わった──と思ったが、感覚の隅をよぎった気配に、もう一度、剣を握り直した。
ただ一人残った、首領格らしい大男は、片頬を歪めてにやりと笑った。手下達が死ぬのを遠巻きに眺めながら、王進が消耗するのを待っていたのだ。
王進はゆっくりと首を巡らし、手の中の剣を見下ろした。血と脂がべったりと絡みつき、乾いてそそけ立っている。手応えが、無かったはずだ。
(──ついに、終わるか)
すでに三年。三年という年月を、彼は戦い続けてきた。
それが、ついにこの場所で、こんな名もない荒野で終わるのだ。
王進の顔に、安堵とも諦めともつかない何かが浮かんだ。
勝ったのは、自分だろうか、それとも、“あの男”だろうか──。
刺客は無表情に剣を構えた。
背後に輝く太陽が、その刃に白く宿って、王進の視界に滲んでいった。
風が聞こえた。風に交じって、声が聞こえた。
遠くで誰かが呼んでいる。
誰かが王進を呼んでいた。
まだ、戦える。
そう思った。
風が唸り、王進は体が軽く浮くのを感じた。翼が生えたようにふわりと浮いて、空にも登っていけそうだった。
王進は立ち上がり、声のする方を見ようとした。
しかし、実際その体は、乾ききった黄土の上に、重く崩れ落ちたのだった。
濃い霧の中に、王進は佇んでいた。
白い闇が、水のように流れていく。
どこなのかと、霧の彼方を見通そうとした時、ぽんと軽い音がして、何か小さいものが足元に転がってきた。
見下ろすと、それは美しく刺繍された毬だった。
王進は手を延ばし、足にまつわりつく毬を拾おうとした。
しかし、手はぴくりとも動かなかった。
闇は次第に重く、深くなる。
不安が波のように押し寄せた。
やがて暗黒に転じた闇の中で、足元の毬だけが鮮やかな光を放っていた。輝きながら生き物のように跳ね回る毬を、王進はぼんやりと見つめていた。
すると、ふいに王進を包んでいた闇が弾け、毒々しい七色の虹が世界に溢れた。鋭い光が瞳を貫く。
(やめろ……ッ!!)
その痛みに叫ぼうとして、王進は目を覚ました。
王進は、柔らかい寝台の上に横たわっていた。簾のかかった丸窓から、夕方の柔らかい陽が差し込んでいる。窓辺には、一輪の野草が生けてあった。
少女の声が聞こえた。
「お武家様、お目覚めですか」
無意識に起き上がろうとすると、右の肩口がずきりと痛んだ。巻かれた布に、鮮血が濃く滲んでいる。
枕元には小間使いらしい少女が立っていた。少女は王進を寝かせると、庭に向かって快活な声で呼びかけた。
「大旦那様、お客様がお目覚めになりました」
王進は周囲に視線を巡らせた。
(ここは……)
簡単な家具がいくつかあるきりの小さな部屋だ。物持ちの屋敷の離れ、といったところか。枕元に置かれた長持ちの上には、きれいに拭った王進の剣が置いてあった。
扉は開け放たれており、広い庭に面していた。田舎づくりではあるが、よく手入れされ、花と緑が競い合うように溢れていた。やがて、その花の中から、白髯をたくわえた小柄な老人がゆっくりと姿を現した。歳の頃は六十ほどか、温和な顔つきの老人だった。
「ご無理なさいませぬように」
起き上がろうとする王進を、老人は鷹揚な仕種で制した。
穏やかな、人の良さそうな好々爺である。しかし、王進は無意識に剣との距離を測っていた。
老人は、ここ華陰県の史家村で村長を務めている者だと名乗った。人々からは史太老と呼ばれているという。相当な長者らしかった。
「ご老人が、お助けくださいましたか」
「いやいや、愚息がお連れいたしました」
「ご子息が」
「不肖の伜でございますよ」
そう言いながら、老人はにこにこと笑っている。
「名は進と申します。一人息子だといいますのに、家の仕事も手伝わず、好きなことばかりしておりまして、困ったものです。今日も作男どもを連れて狩りに出まして、偶然、お武家様と行き合ったそうでございます」
老人は目を細めて頷いた。
「盗賊に襲われるとは、難儀なことでございましたな」 老人は椅子を引き寄せ、王進の傍らに腰掛けた。
「いずれ伜もご挨拶に参りましょう。体に九匹の竜を刺青しておりまして、わたくしが都から彫り師を呼んでやったのですが、見事な出来で、あたりでは“九紋竜”などと呼ばれております」
王進は、老人に感謝の言葉を述べた。そして、自分は旅の商人で張といい、商売のため延安に行く途中であると告げた。
史太老は鷹揚に頷いた。
「そのお体では、当分、旅はできますまい。ゆっくりと、養生なさいませ」
「ご迷惑では」
「いやいや、粗略に扱っては、伜に叱られますからの」
笑いながら老人は部屋を出ていった。
(手配書は、まだここまで回っていないのか)
王進は長持ちの上から剣を取ると、鯉口を切って刃を確かめ、布団の中に抱いて寝た。それが習いになっていた。
剣を抱くと、王進はようやく安心して枕に頭を任せた。
庭木の梢で、蝉が一匹のんびりと鳴いている。
咲き誇る色とりどりの花の上を、蝶が気だるげに飛んで行く。
風に混じって、かすかに花の匂いがしていた。
王進は目を閉じた。そして、そっと剣の鞘を払った。
ひそかに近づいてくる足音がする。王進は柄を握り、呼吸を整えた。
入って来たのは、薬湯の盆を持った少女だった。茶碗の縁まで一杯に注いだ薬湯を零さぬように、そろそろと歩いてきたのだ。
王進は、少女に気づかれぬよう、剣を戻した。
「苦いですよ」
少女は薬湯を王進の口許に運んだ。
王進はゆっくりと起き上がり、薬湯を手にとった。それだけで、全身に鋭い痛みが走った。
「痛みます?」
少女は無邪気に王進の顔を覗き込んだ。
「いや──痛いだけだ」
王進はほんの少しだけ躊躇い、そして、一息に薬湯を飲み干した。 数日も滞在していると、この家が農家ながら義侠の家風であることが分かってきた。正体の知れぬ王進を逗留させ、手厚くもてなし、一切を詮索しない。見事な家風であるといえた。
史太公は、息子がやがて挨拶に来るだろう──と言ったが、一向にその気配はない。王進は、そのことが気になった。彼を助けたのならば、王進が商人でないことも、敵が盗賊などではなかったことも知っているはずだ。
ある日、王進は世話係の少女に尋ねた。
「若旦那は、どんな人だ」
「さぁ……よく分かりません。だって、女とは口をきかないんです」
少女は小さな肩をすくめた。
少女によれば、息子はたいへんな変わり者で、村のどんな男とも違うのだという。日がな一日、棒やら朴刀やらを振り回している。それだけでは飽き足らず、旅の武芸者をみつけては屋敷に連れ帰り、新しい武術を習うのだという。
(なるほど)
王進は納得した。
武術狂いの“九紋竜“は、もそれを期待しているに違いない。
(しかし、俺は誰も教えない)
自分を滞在させる理由が分かれば、屋敷は快適な隠れ家だった。太公は薬も食事も惜しみなく届けてくれるし、部屋に出入りするのは小間使いの少女だけで、王進の素性を問う者もない。
秋風が立ち始める頃には王進の傷もあらかた塞がり、起き上がって庭を歩くほどまでに回復していた。
中秋の夜。
王進は皓々たる月光の中に座っていた。時刻は*三更になろうとする頃だろうか。母屋で張られていた中秋節の宴も果て、屋敷は寝静まっていた。
王進は寝台に腰掛けて、床に射し込む月の光を眺めていた。
傍らには、小さな荷物が置かれている。膝の上には、剣があった。
王進はゆっくりと剣を抜いた。研ぎ直された刃に、月光が散る。一閃させると、風が唸り、光が揺れた。
白銀の光の中に、血が見えた。
これまでに流して来た追手の血、そして、これから流れるであろう自分の血が滲んで見えた。
雲が出たのか、降り注ぐ光が翳った。
王進は剣を収めると、荷物を担いで立ち上がった。
最も深かった肩口の傷は、まだ完治していない。しかし、戦うことはできるだろう。
きちんと片づけられた寝台を一瞥し、王進は扉に向かったが、ふと立ち止まり、住み慣れた小部屋を見返した。庭では虫が鳴いている。
王進は引き返し、寝台の上に剣を置いた。
傷だらけの鞘、すり減った柄──それは王進の命そのものだったが、彼には、他に遺すべきのものがなかった。
剣を残し、王進は虫のすだく庭へ出た。
病床に倦んだ体に、清涼な夜気が心地よかった。
王進は植え込みの間を通り抜け、足音を忍ばせて歩いて行った。寝静まった建物の間を門を探して歩いていた王進は、やがて、足を止めた。
屋敷のどこからか、空気を切り裂く音が聞こえてくる。時々、鋭い気合が混じった。それは、月形に抜いた塀の奥、中庭から聞こえてくるようだった。王進はそっと近づくと、塀から中庭を覗き込んだ。雲間から漏れる月明かりに、黒々とした巨岩の影がいくつも浮かび上がっている。その屹立する岩の間に、白い影が躍っていた。
その時、一陣の涼風に月にかかる雲が動いた。
一条の光が射し込む。
王進は、思わず息を飲んだ。
*三更=夜中の11〜1時
月光を浴びて躍動する竜。
(“九紋竜”──)
それは背に九条の竜を刺青した、十七、八と見える若者だった。肌ぬぎになり、身の丈ほどの棒を手に型を取っている。白玉のように輝く若者の背中には、九匹の竜が跳梁していた。
(これが──史進か)
動くたび、鮮やかな竜が身を躍らせる。体から立ちのぼる湯気が月光を反射して、まるで全身が輝いているようだった。
王進は、しばし棒が切る風の唸りに耳を傾け、若者の跳躍する姿に目を凝らしていた。
そして、やがて微かに眉を顰めた。
「……惜しい」
若者の動きがぴたりと止まった。ゆっくりと、若者は月光の中で振り向いた。目に、あからさまな敵意があった。
「誰だ?」
王進は言葉を発したことを後悔した。このまま立ち去ろうと思ったが、若者はつかつかと王進に歩みより、正面に立ちはだかった。
「いま、何か言ったか」
「筋はいい。しかし、それは見栄えばかりの芸人の技だ」
「ならば、あんたの技を見せてもらおう」
若者──史進は壁に立てかけてあった棒を取ると、王進に向かって投げた。王進は受け取らなかった。棒は王進の肩に当たり、音をたてて地面に落ちた。
「ふん」
史進は腰に手を当てたまま、冷やかな目で王進の肩を一瞥した。
「怪我人に勝っても、自慢にはならないな」
「強さは自慢するものではない」
「なんだって?」
史進は立ち止まり、振り向いた。それより速く、王進は転がっていた棒を靴先で突いて弾き上げると、左手でさっと摑み取り、そのまま史進の顔面めがけて繰り出した。恐るべき早業だった。生き物のように飛び出した棒は、史進の鼻先半寸でぴたりと止まった。
二人は、暫く動かなかった。史進の腕から、棒が落ちた。
「──棒を拾え」
王進の、ひどく低い声が月下に響いた。
史進は王進の目を見据えたまま、膝をかがめ、棒を拾った。
「いくぞ」
王進はさっと棒を引き戻し、再び、今度は史進の腹をめがけて打ち込んだ。史進は身を引き、素早く撥ねた。王進はすかさずその脇腹を、回した棒で薙ぎ払った。その速さに受けきれず、史進は飛びのいて棒を逃れた。二人の距離は、棒の丈より幾分遠い。が、それに気を許した史進が攻撃の型を作った刹那、王進は一歩を踏み出しながら、手中で棒を滑らせた。
届くまい。
そう思った次の瞬間には、史進は棒をみぞおちに受け、見事に後ろへ転倒していた。
「“飛竜登門”──こうすれば棒の長さを通常の二倍は使える」
王進は端の一寸を二本の指で握っただけで、八尺余りの棒を支えていた。
史進は王進の顔を凝視している。
「お前は腰の位置が高すぎる。丹田に気を集め、腰を真っ直ぐに落とし、臍で立つようにするといいだろう」
淡々と言いながら、王進は棒を武器架に戻した。
「勘もいいし、気迫もある。筋道だてた稽古をすれば、必ず強くなるだろう」
「あんたよりか」
「ああ──必ずな」
「なら、弟子になってもいい」
史進は仏頂面で立ち上がると、玲瓏と降り注ぐ月光の下で、渋々と師弟の礼をとった。
「俺を教えたがった奴は大勢いたが、俺が、教えてほしいと思ったのは、あんたが初めてだ」
王進は、月を見上げた。
漆黒の空に皓々と輝く月は、美しくもあり、また限りなく無情にも見えた。
王進は深く息をついた。
「ならば、まず──“あんた”をやめろ」
「俺は師父の本当の名前を知らない」
「姓は王──名は、お前と同じだ」
「王……進」
王進は笑った。
笑ったのは、三年振りだった。
史進は驚いた。
史進は、王進が十数人の敵を倒すのを見ている。だから、その強さは認めていた。しかし、王進の指導は余りにも今までの師匠と違っていた。いや、それは史進には“指導”とも思えなかった。今までの師匠は、皆がまず派手な“必殺技”や“奥の手”を伝授したがった。しかし、王進は型どころか、一切、史進に棒を触らせないのだ。
腹に石を乗せて腹筋を続けさせたり、倒立や片足立ち、一日中庭を走らせたかと思えば、水桶を担いで丸太棒の上を歩かせる。鍋一杯の豆を箸で拾わされた日もあった。右手で豆を拾って鍋から出し、終わると今度は左手で箸を握って鍋に戻した。
初めは史進も黙って命じられた通りにしていたが、そんなことが一月も続くと、ついに史進の怒りは爆発した。
その日、王進は木片と小刀を史進に渡し、竜を彫れと言ったのだ。史進は彫った。できたのは、蛇かなめくじのような、得体のしれない代物だった。新しい木でまた彫ったが、何度やっても芋虫にしかならなかった。
とうとう史進は木片を投げ出し、王進の顔を睨み付けた。
「俺は、こんなことをするために、あんたに膝を折ったわけじゃない」
王進は暫く史進の顔を眺めていた。
「ならば──棒を取ってこい」
史進は走って棒を取りにいった。史進が棒を握って戻ってくると、王進は型を作って見せろと言った。史進は得意の型をいくつか取ったが、次第に顔色が変わり、やがて棒を投げ出した。
「どうした。続けろ」
「駄目だ」
史進は呻いた。
「まったく型が決まらない。一月も棒に触っていなかったから、体が忘れちまったんだ」
史進は王進の顔を睨み付けた。何年も修行した成果が、たった一月の、訳のわからない訓練で無駄になってしまったのだ。
王進はゆっくりと腰を上げ、自分も棒を手にとった。
「──それでいい」
「どういう意味だ」
反駁しようとした史進の腹に、王進は棒を打ち込んだ。中秋の晩に浴びた“飛竜登門”の突きだ。しかし、今回は四、五歩後ろに下がっただけで、引っ繰り返ったりはしなかった。
「だいぶ腰が座ってきたな」
自分の腹を見下ろして不思議そうにしている史進に、王進は言った。
「あんた、一体……」
「お前は質問が多すぎる。それと、“あんた”はやめろと言ったはずだ」
史進は開きかけた口をぐっと結んだ。
「お前の技は、癖だらけだった。大勢の、流派も水準も違う師匠の技を、自己流で身につけたからだ。その癖を取り除かなければ、お前は絶対に強くなれない。だから、それでいいと言ったのだ」
王進は自ら型を取った。
「まず基本の型を徹底的に身につけろ」
王進は三十二の型を次々にとった。史進は夢中で真似をした。どれも一見、簡単な型だったが、王進は史進の腕や足の位置を厳しく直した。基本の三十二の型を終えると、次は椅子に座って二十四の型を習った。通常の棒術は、地上で戦うことを想定している。しかし、王進の派には馬上の型があったのだ。二月かかって全ての型を完璧に覚え、ようやく打ち合う形の稽古となった。
史進は試合には自信があったが、何度やっても、史進の棒は王進の体に触れることさえできなかった。史進は何度も王進に打ち倒された。立ち上がれば、またすぐに足を払われ、転がった。それでも、史進は諦めなかった。一日に数百回も打ち倒され、体中が痣だらけになっても、黙々と稽古を続けた。王進が良いと言うまで、気を失っても、稽古を止めない。倒れても暫くすると立ち上がり、また始める。ふらふらになりながら、その顔はどこか楽し気でさえあった。
(おかしな奴だ)
王進は庭石に腰掛けて、無心で型をとる若者の背に躍る竜を眺めていた。
二人の上に、静かに雪が降り始めていた。
月日は瞬く間に過ぎ、冬が去り、年が変わった。
王進には久しぶりの穏やかな春節だった。元旦の朝、晴れ着に身を包んだ史進が王進の離れまで挨拶に来た。
この正月、史進は十八になった。少年の面影は日々、急速に薄れていく。体つきも顔つきも、毎日のように変化していた。最も大きく変わったのは、その武術だ。
史進は、王進が見抜いた通りの“逸材”だった。いくら長年の修行でそれなりの基礎を身につけていたとはいえ、王進の高度な訓練によくついてきた。史進は、王進が驚くほどの急速な進歩を見せた。
もっとも、自分の変化に一番驚いているのは史進だった。
初めは、自分が何をさせられているのか訳が分からず、がむしゃらに王進に従ってきた。しかし、ある時、史進は気づいた。棒を振った時、棒が今までのような“物”ではなく、まるで自分の体の一部のように感じられたのだ。棒から腕、胸、腰、足と、ばらばらだった体がひとつになり、自由自在に動かせる。肉体の感覚が研ぎ澄まされ、わずかな力で、前よりも速い動き、強い突きが繰り出せた。今では呼吸をするのと同じように、棒を扱うことができる。
(師父は、やはりただ者じゃない)
王進は棒だけでなく、武芸十八般すべてにも習熟していた。
棒のほか、剣、槍、矛、戈、戟、鞭、簡、弓、弩、斧、鉞、鎚、鏈、鉾、扠、牌、白打。流派によって違いがあるが、これら十八種の技を武芸十八般と呼ぶ。
正月から、王進は棒と平行してそれらの武術も教え始めた。一日の殆どを、史進は王進との訓練に費やした。常人ならば、一種でも使いものになるまで数年はかかる。しかし、今や史進はどんな武術も水が砂に染み込むように体得することができた。
やがて梅が綻び始める頃になると、史進の技は早くも習熟の域に達していた。
中庭の紅梅に、今年初めての花が開いた日、史進は模擬試合で初めて王進の腕に打ち込んだ。稽古を始めて四月余り、史進の棒が王進の体に触れたのは、本当に初めてのことだった。史進は驚いた。しかし、彼以上に驚いていたのは、王進だった。史進の飛躍的な成長は、王進の想像以上だったのだ。
史進が初めて味わう本物の武術の神秘に酔っているように、王進もまた、初めて感じる喜びを噛みしめていた。
ある日の夕刻のことだった。
稽古をつけるべく、王進がいつもの中庭で待っていると、史進が落ちつかない様子で現れた。
「どうした」
王進が尋ねると、史進は懐から一枚の紙きれを取り出した。華陰県の役所が刷った手配書で、少華山の盗賊を捕らえた者に賞金を与えると書いてあった。
「頭目三人、まとめて三千貫とは、連中も随分と安く見られたもんだな」
史進は手配書を丸めて捨てると、棒を取って型を作った。しかし、技にいつもの切れがない。王進はそれを見逃さなかった。
「何か隠しているだろう」
「何もない」
王進は庭石に腰を下ろしたまま、史進をじっと見据えていた。その眼差しに、史進も観念せざるをえなかった。史進は懐からもう一枚の手配書を取り出した。
「……俺か」
手配書には東京開封府の印が押してあり、人相書きと幾つかの罪状が書き添えてあった。その顔は、紛れもなく王進である。
「元禁軍教頭、王進──罪状は、窃盗、殺人、詐欺、姦通……賞金は五千貫に増えたのか」
王進は、去るべき時が来たことを知った。
手配書を史進に返し、王進は裾を払って立ち上がった。
「教えることは、もう何もない。明朝、発つ」
「俺は、こんな手配書は信じていない」
史進は王進の後を追いかけた。
「師父が殺した連中は、うちの森に埋めてしまった。ひとり残っていた大男もだ。俺が弓で射殺した。だから、師父がここにいるという証拠はどこにもない」
王進は足を止めた。
「なぜ、今まで黙っていた」
「師父に恩を売るような真似は、したくなかった」
「お前はいい男だ」
王進は手にしていた棒を史進に返した。
「お前に会えて──本当に、良かった」
王進のそんな穏やかな顔を、史進は見たことがなかった。王進は史進に背を向け、離れへと戻っていった。訳のわからない不安が、史進の胸に突き上げた。
「──師父!!」
しかし、王進が振り返ることはなかった。
翌朝、東の空がようやく藍色に染まり始める頃、王進は身支度を済ませて門口に立った。
初春の大気は澄んで冷たく、星がまだ輝いている。
冬の初めに風邪をひき、いまだ本復しない史太老への挨拶は、昨夜のうちに済ませていた。小間使いの少女が送ってくれたが、史進の姿は見えなかった。
(拗ねているか)
微かに笑って、足早に屋敷を後にした。
暫く行くと、道端の木陰から人影が現れた。王進の手が剣に走った。
「師父、俺も行く」
現れたのは、史進だった。棒を手にして包みを背負い、すっかり旅装束を整えていた。
「お尋ね者になりたいのか」
王進の声は冷やかだった。
「手配書の罪なんか、俺ははなから信用してない。師父が、あんなつまらない事をするものか」
王進の顔に翳がよぎった。
「では、俺が本当は何をしたのか、お前に、分かるか」
常ならぬ王進の声に、史進は踏み出そうとした足を、止めた。
王進は語った。
それは、今から十数年前。王進が史進と同じ年頃であった時のことだ。
王進には、一人の師があった。
師の名を、王昇という。
血縁では、ない。
王昇は王家棒術の第三十六代の伝承者であった。王家棒術の名は、世には必ずしも知られていない。伝承者はその名を秘して別の流派の看板を掲げ、弟子の中からただ一人を選んで伝えるからだ。
正しくは王家春秋棒法といい、春秋末期の乱世に端を発するという。棒法とは、槍の穂先を敵に切り落とされた時、なお戦い続けるために誕生した武術である。刃のない武器は、身は守れるが、人を殺すことはできない。
しかし、王家の棒は必殺の棒である。
その奥義は、平和な世であれば選んだ者のみに伝えねばならない。彼らは血によらず、王姓をもつ男の中から人品素質に優れた一人を選んで伝承者とする。その一人に、王進は選ばれた。彼もまた、“逸材”だったのだ。
「王進よ」
薄暗い道場に向かい合い、老師父は王進に言った。
「教えることは、もう何もない」
それは、王進がすべての修行を終えた日のことだった。
「お前は強い。わしよりも、過去の三十五人、おそらく誰よりも強いだろう。しかし、その強さが、わしには危うい。その強さがお前を苦しめ、我が王家棒術を滅ぼすのではないかと、わしは恐れる」
王進は黙って頭を垂れた。彼は道場の同輩との試合は禁じられ、老師父とのみ修行してきた。その老師父からは、まだ三本に一本しか勝ちが取れない。強いと言われても、実感がなかった。
「お前の務めは伝えること。来るべき乱世に備えて、王家棒法を伝えることである。戦うことではない──それを、よく自らに戒めよ」
王進が第三十七代となって間もなく、王昇は役目を果たしたかのように世を去った。
その後、王進は、選ばれて禁軍の教頭となった。禁軍とは、全国に八十万の将兵を擁する天子直属の軍隊である。その槍棒班で兵士を訓練することになったのだ。それは生活の為であり、次の伝承者を探すためでもあったが、王進が教えるのは下級の兵士で、貧しい家の次男や三男、腕自慢のごろつきあがりが多かった。王家棒術の奥義を伝えるのに相応しい資質の男は、到底みつかりようがなかった。いや、“逸材”が一人だけいた。しかし、姓は王ではなく、林であった。
王進は彼なりに熱心に教えはしたが、心の中では無為を感じながら日々を過ごした。
いつしか、次の伝承者を探すことも王進は忘れてしまった。
そんな、ある春の日のことだった。
王進が務めを終えて老母の待つ家に戻ろうとすると、橋のたもとに人だかりがしていた。人垣の向こうからは、若者たちの楽しげな掛け声が聞こえてくる。なにかの試合をしているらしい。王進の家は橋の向こうだ。何気なく人垣をかき分けた。
橋の上には、五、六人の若者が円陣を組んで立っていた。いずれも街でよくみる金持ちの家の不良少年だ。彼らの間を、ひとつの毬が飛び交っている。蹴毬の遊びをしているのだ。足だけ使い、落とさぬように互いの間に毬を渡していく、近頃、流行の遊戯だった。毬を蹴るにも様々な型がある。飛び上がって蹴ったり、背面で蹴ったり、巧いものは靴先に暫く毬を止めて蹴ったりもする。
遊びのために人の通行を邪魔するとは、迷惑な連中だと思った。なぜ、人々が無理にでも渡らぬのか不思議だった。王進は、橋に踏み出した。
若者たちは毬を蹴りつづけている。王進は、不思議なことに気がついた。若者たちの声に混じって、老人の泣きわめく声が聞こえるのだ。近づいてみて、その理由が分かった。円陣の中に、ひとりの老人が転がっていた。王進もよく見かける、盲目の胡弓弾きだった。もう八十を越えているだろう。ぼろぼろの腰巻き一枚で、いつも橋の欄干に寄り掛かって座っている。王進も何度か銭を投げたことがあった。どこで習い覚えたものか、なかなか風雅な胡弓を弾いた。
その老人を、若者たちが五、六人がかりでなぶっているのだ。毬を蹴って老人に当て、それをまた別の者が蹴って老人に当てる。頭が十点、足が二点と、当たる部位で点数を競っているらしかった。
王進は近づいていくと、腕を伸ばして今しも蹴りあげられた毬を摑んだ。
「力が余っているのなら、武術を習え。毬などは児戯だ。男のすべき技ではない」
「なんだ、お前」
王進は若者たちを無視して、毬を川に投げ捨てた。老胡弓弾きは泣きながら欄干へ這いずっていく。王進はそのまま橋を渡ろうとした。その顔めがけて、別の毬が飛んできた。欄干に座っていた男が、飛び降りざまに毬を蹴ったのだ。飛んでくる毬を、王進は棒で払った。衝撃が腕に響いた。革で作られた毬は、破裂して、橋の上に転がった。
蹴ったのは、鼻の大きな、いやな目つきの男だった。王進より幾つか若いくらいだろう。橄欖を噛みながら、ゆっくりと王進に近づいてきた。
「棒をやるのか」
男は言った。毬を取られた若者たちが、王進を取り囲んだ。
「兄貴」
「お前たちは引っ込んでいろ」
男は橄欖を吐き捨てた。王進は男の険のある目を見据えた。他の若者たちとは、明らかに違う型の男だった。
「お前の手下か。こんな真似はやめさせろ」
「連中は、楽しく蹴毬をしていただけだ。ただ、少しばかり頭が悪くてな」
「皆が橋を渡れずに難儀する。それに、老人が気の毒だ」
「あの爺いが?」
男は鼻先で嘲笑した。
「なら、金でもやるさ」
王進の胸の奥から、この男に対する絶えがたい嫌悪感が突き上げた。
「謝ってやれ」
王進は、欄干に凭れて泣いている老胡弓弾きを指さした。
「あやまれ?」
男はさも愉快そうに聞き返した。
「この俺に、謝れと言ったか?」
手下たちがどっと笑った。
「俺は昨日、親父を三発殴ったが、それでも謝らなかったぜ」
男は手下たちに顎をしゃくって、背を向けた。
「行くぞ、すっかり興ざめだ」
「待て」
王進は男の肩に手を置いた。その瞬間、男は欄干に立てかけてあった棍を取り、さっと回して王進の腕を払った。その素早さに、ひとかどの腕前を持っているのが分かった。王進はとっさに身を引き、棒で受けた。振り向いた男が、笑った。
それを合図に、若者たちが王進に襲いかかった。手に手に棒や棍を握り、一斉に打ちかかる。王進は棒を一閃させた。右手の三人を薙ぎ払う、返す手が左手の四人を倒した。王進の棒はまるで生きているかのように、若者たちの急所を突いた。手下たちは橋の上に次次と昏倒した。一瞬のできごとだった。
男が手下たちを踏み越えて、気合とともに打ち込んで来た。軽くて早い。そして、容赦のない冷酷な技だ。相手をなぶり、自分の力を見せつけるのを楽しむ手だった。道場で習った技に、自己流の手が入っている。それが存外、手ごわかった。
人と棒を合わせるのは、久しぶりだった。道場に通っていた時は王昇以外と試合をしたことはないし、私闘は厳しく戒められていた。今は教頭の身分だから、弟子と戦うことなどない。戦うことは久しぶり──いや、初めてのことだった。しかも、相手は見知らぬ男だ。どんな手を出してくるか分からない。十合、二十合と打ち合いながら、ふと王進は不思議な浮遊感を感じた。巨大な力が、王進から棒へ、棒から王進へと波のように伝播する。そのたびに力は大きくなり、王進の体は軽くなった。何も考えなくても、相手の打ち込む筋が見え、体がそれに反応した。
王進は、自分でも知らぬうちに、いつしか本気を出していた。
老師父は、王進を強いと言った。しかし、余人と戦ったことのない王進は、その事を知らなかった。今、王進は自分の力を感じていた。力が全身を駆けめぐっているのを感じた。全身を包んだ熱が、一気に高まる。それが、一瞬で棒に集中した。
その瞬間、王進は我に返った。
男は、橋の上に倒れていた。王進の棒は、男の眉間に触れている。棒が触れたところを中心に、男の額に見る見る青痣が広がっていった。棒を止めるのが一瞬遅ければ、棒が脳髄を貫いていただろう。
男は目を剥き、凍りついている。失禁で着物がびっしょりと濡れていた。
二人を遠巻きにして、人々は息を殺して見守っている。この時、王進は自分が笑っていたことに初めて気づいた。声をあげずに、顔だけが笑っていたのだ。王進は恐怖を感じた。
深く息を吸い込み、吐いた。そして、男の襟を摑み上げると、老人のところへ引きずっていった。
「謝れ」
そう言った自分の声が、他人の声のように聞こえた。
「──わるかった」
男は、呻くように言った。そして、手下たちに連れられて姿を消した。最初、男は手を貸そうとする手下たちを追い払おうとしたが、腰を抜かして、立つこともできなかったのだ。
王進は橋を渡って、家に戻った。
その夜、王進は老師父の言葉を思い出していた。そして、二度と棒で人を傷つけることはすまいと、強く自らを戒めた。
王進の日常は平穏に過ぎた。やがて時は過ぎ、橋での出来事も、いつしか忘れた。狂人の老胡弓弾きも、あれ以来、一度も見かけることがなかった。
彼は役所に通い、出来の悪い生徒たちに棒を教え、老母の世話をして日々を過ごした。変わったことといえば、天子が崩御し、新しい天子が即位したことくらいだった。
新しい天子の世になって、一年ほど過ぎた頃だった。
その日、王進は役所の務めを休んでいた。母親が病に伏しており、休暇をとっていたためだ。昼前、役所から兵卒が呼びに来た。王進が休んでいる間に、彼の所属する殿帥府の長──殿帥府太尉が代わり、今日、就任の儀式があるという。王進だけが来ていないので、新任の太尉直々の命令で、迎えに来たのだという。躊躇する王進に、母親が言った。
「行っておいで、進。新しい太尉様が、きっとお前に御用があるのだ」
「しかし、母上」
「昨夜、わたしは夢を見た。うちの屋根に、一匹の竜が降りてくる夢だった。きっと、よいお知らせがあるよ」
王進は薬を煮て、母親に飲ませてから出掛けていった。殿帥府の前庭には、将兵や教頭たちが並んでいた。王進は一礼して堂下に入り、教頭の列に並ぼうとした。しかし、入るなり、王進は兵卒たちに左右から槍を使ってねじ伏せられた。
縛りあげられた王進は、顔を上げることもできず、その場に低頭して跪いた。
遙か堂上から、声が響いた。
「王進か」
冷ややかな声だった。
「なぜ、わしの就任式に来なかった」
「休暇届けを出しております、母親が病で──」
「届いておらぬ」
その場には大勢の将兵、官吏が並んでいたが、場は水を打ったように静まり返っていた。王進のために、弁護してくれる者はいなかった。
「教頭とは国家天下のために役に立つ兵隊を育てる職務だ。軍隊の礎を築く大切な役目である。お前の勤務表を調べてみたが、休暇ばかりとっている。勤務態度も不真面目だ。お前が教えた兵士どもには、なんら優れた点はない。ほかの教頭の弟子よりも、教練の成績もまるで悪い。職務怠慢の罪は明らかである」
王進は混乱していた。相手が何を言っているのか、なぜ、こんなことを言いだしたのか、まるで訳が分からなかった。
「休暇は、母の看病のために取ったものです」
「お前の兵隊どもが敵に負けても、母親の病気のせいにするのか?」
「それは……」
「お前は何もかも犠牲にして、兵士を教えるべきではないのか?」
王進は一瞬、言葉に詰まった。
確かに、彼は真剣に──本当に真剣には教えていなかった。
「お前のような奴が教頭とはおこがましい。俸祿を盗み続けてきたようなものだ。厳しく打って、他の者の戒めとせよ」
王進は反論する間もなく石畳に転がされ、杖で打たれた。左右から、背中を、全身を打ち据えられた。三十も打てば失神し、百も打たれれば通常の人間なら死ぬ。王進は四、五十も打たれ、血まみれになり、わけも分からずに壇上の太尉を仰ぎ見た。
救いを求めようとした。しかし、言葉は出なかった。
王進は、初めて新任の太尉の顔を見た。その顔は──昔、橋の上で打ちのめした、あのごろつきだったのだ。
血に染まった視界の中で、男はあの時と同じ顔で笑っていた。
そして、王進が自分に気付いたのを確かめると、声を出さずに、口だけを動かして囁いた。
『あやまれ』──と。
史進は言葉に詰まった。
「一体、なぜ、ごろつきが太尉に」
ことの真相は、王進も後で人から聞いた。
新しい太尉は名を高俅といった。間違いなく、あの開封の街をうろついていた無頼漢だった。もっとも、当時は高“毬”と呼ばれていた。蹴毬が巧みだったからだ。強請たかりを専らにする遊び人だが、武術の腕と、蹴毬の技は抜きん出ていた。一時、人を騙して破産させ、その罪で都・開封から追放になったが、それが彼の転機となった。
追放先で酒楼に遊びに行った時、高毬は偶然、一人の貴人と意気投合した。その貴人は豪傑好みで、高毬のような才気のある男を特に好んだ。高毬は従者として召し抱えられ、元々が如才ない男であったから、すぐに貴人の信任を得た。
高毬の主人となったのは、天子の娘──公主を妻に持つ貴族であった。ある時、主人は高毬を都への遣いに立てた。行った先は、端王と呼ばれる若い皇子の屋敷である。皇子は
“浪子”とあだ名される遊蕩児で、特に蹴毬に傾倒していた。その日も、友人を集めて蹴毬に興じていたが、受けそこねた毬が、たまたま通りがかった高毬の方へ飛んできた。高毬は、その毬を足先で受け、皇子が見たこともないような技で巧みに返した。
「見事である」
皇子は高毬をいたく気に入り、そのまま屋敷に止めて、手元で召し使うことにした。高毬はすぐに皇子の最も寵愛する臣下となった。
この頃、名を毬から俅に改めた。
端王は先帝の腹違いの弟であるが、母親の身分は低く、数年前に王に封じられたばかりであった。生涯、なんの責任もなく、悠々自適の生活を送るべき人であった。しかし、兄の哲宗が二十五歳という若さで病死したため、その運命は急変した。哲宗には太子がなかった。新帝に選ばれたのは、端王であった。
端王は二十にもならぬ若さで図らずして天子となった。しかし、彼はやはり“浪子”であった。ちょっとした贈り物でも与えるように、寵臣たちを次々と高位に任じた。そして、一番の気に入りであった高俅が与えられたのが、禁軍の最高位のひとつ──殿帥府太尉であった。
それが、王進の運命をも変えることになったのである。
高俅は、王進を忘れてはいなかった。
王進は更に打ち据えられ、石畳の上に昏倒した。
その時、都教頭の張徹が教頭の列から進み出た。髪も髭も半白で、寡黙な古武士の風格がある。その教えの厳しさは禁軍はおろか、開封中に知られていた。高俅に向かい、老いたる武人は静かに頭を下げて言った。
「本日は、太尉御着任のめでたい日でございますれば、不祥の血を流すのは宜しからざると、それがし愚考いたします」
その風格、静謐な口調に、ふと高俅の目から禍々しい光が消えた。その機を逃さず、同輩や官員たちも王進のために取りなしてくれた。
「──まぁ、よかろう」
高俅は髭を撫ぜ、椅子に深く座りなおした。
「今日はみなの顔を立てるとしよう」
哀願する人々を、高俅は満足げに見回した。
王進は張徹と、その弟子たちに支えられて家に戻った。
張徹は弟子たちを帰らせると、背中の痛みのために横たわることもできない王進に、高俅がいかにして太尉となったかを教えてくれた。
「君は太尉に古い恨みを得ているのだろう。あの人は、酷薄な人柄だ。君は、必ず殺されよう」
王進は、自分と高俅との因縁を話した。
部屋の隅で、母親が声を殺して泣いていた。
まもなく、弟子の一人が戻って来た。張徹は声をひそめて尋ねた。
「どうだ?」
「──二人、おります」
門の前に、二人の兵卒が立っているという。
「おそらく、太尉がよこした見張りでしょう」
張徹は頷いて、王進に向かい直った。
「逃げなさい」
張徹は懐から布包みを出して、王進の手に握らせた。中には少なからぬ銀が入っていた。王進と張徹は、それほど親しい仲ではなかった。
「張教頭、一体なぜ……」
「君の棒の技は、たいへんに優れている。それを、惜しむのだ」
王進をみつめる張徹の目は、老師父・王昇を思い出させた。
夜明け、王進は闇に紛れて見張りを殺し、城門が開くと同時に母親を馬に乗せて開封を出た。
その日から、彼の逃亡の日々が始まった。
高俅は逃げた王進を一層、憎んだ。年々、つり上げられていく懸賞金が、高俅の執念を物語っていた。
「お前が林に埋めた連中は、俺の首にかかった金を狙う賞金稼ぎだ」
王進は、史進の顔を見つめて言った。
「俺がしたことは、ただひとつ。一人のごろつきを、打った──それだけだ」
足元から這い上がる冷気よりも、その声は冷たく、重かった。
病にあった母親は、半年も経たずに安旅籠の片隅で死んだ。名も知らぬ山の松の根元に葬った。王進は、その墓の上に、ずっと肌身離さず持っていた棒を立てた。墓の中に、王家棒法の伝承者としての自分を、禁軍棒術教頭としての自分を、ともに葬ったのだ。
「高俅の顔を見た時……俺は、這いつくばって詫びを入れれば良かったのかもしれん。しかし、できなかった。だから、逃げたのだ。これからも──逃げ続ける」
史進の脇を、王進はすり抜けた。
「そんなつまらない男に、ついて来てもしかたあるまい」
「──師父」
王進は遠ざかる。
「師父!!」
「史進」
背を向けたまま、王進は強く、穏やかな声で史進を呼んだ。
「お前に会って、俺は初めて師となる喜びを知った。感謝している」
王進は史進に竜を彫れと命じた時のことを思った。
あれは、己を捨て、師となる資質があるかどうかの最後の試験だ。ただ無心に、無から有形を導きだすことができる者のみが、伝承者となり得ることができるのだ。
王進も、かつて王昇から同じことを命じられた。
しかし、王進もまた、竜が彫れなかったのだ。史進は竜を彫らなかった。王進は、一つの木を時間をかけて削り上げながら、完成間近で、やめてしまった。
それでも、王昇は王進を教え、王進は史進を教えた。
かつて、王進は、一匹の竜を彫りあげることができなかった。
(しかし、今なら──)
星を見上げ、王進は静かに微笑んだ。
そして、まだ闇に沈む夜明けの道を、北へ、足早に遠ざかって行った。
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