「──遅いなぁ」
夜明け。
“金眼豹”施恩と“操刀鬼”曹正は梁山の頂上に立ち、遙か北の空を見ていた。地上には淡い霧がかかっているが、頂の上は明るい。

施恩は、ゆっくりと明けていく遠い地平に目を凝らした。それが最近の日課になっていた。
人には見えないものが見える施恩の瞳──しかし、今、一番見たいものが、見えない。
「武松さんたち、一体、いつ戻って来るんだろう」
隣で曹正が低く唸った。最近は、施恩にも曹正の言いたいことが分かる。
「うん、林教頭もね」
湖の彼方に、氷の壁が見える。その彼方、北冥よりももっと北のどこかに、北京から戻ってくる梁山泊軍がいるはずだった。
閏一月十九日。あと十日で晁蓋の喪が開ける。再び戦が始まるだろう。
「みんな──早く帰ってきておくれ」
施恩は祈るように呟いた。

(でないと、二度と会えなくなる気がするんだ)
施恩は曹正と別れると、一人で山を下りていった。
すぐ下にある九天玄女廟の前で、“玉臂匠”金大堅が紙銭を焼いていた。廟の後にある晁蓋の墓も、きれいに掃き清められている。
その下の林では、“金銭豹子”湯隆が杜遷、宋万と松を伐り出していた。船を造る材木が足りず、こんな所まで伐りに来ているのだ。
最近の、いつもの風景、いつも通りの梁山泊の朝だった。みなが黙々と梁山泊を守るために働いている。
施恩は聚義庁まで下りてきた。そして、呉用に挨拶しようとして、いつもと違うことに気がついた。
今朝の聚義庁は珍しく人の出入りもなく、静まり返った庁前の石段に、呼延灼の長女、剣娘とその妹たちが、途方に暮れたように座り込んでいた。
呼延灼──出奔。
その報を聞いても、“轟天雷”凌振の顔色は変わらなかった。
鴨嘴灘の砲台にある、凌振の作業場である。彼は今朝、突然、呉用の訪問を受けた。作業場の卓に砲弾を並べ、新型の砲弾を開発すべく無心に作業をしているところだった。
「呼延灼将軍が、去りました」
呉用は単刀直入に言った。その口調も表情にも、言葉以上の意味は含まれていなかった。しかし、凌振は呉用の来訪の意図をすぐに察した。
「将軍が、梁山泊を裏切った──と?」
呼延灼の腹心であるのは、官軍時代からの副将“百勝将”韓滔と“天目将”彭己。そして、ともに梁山泊を攻めた“轟天雷”凌振である。韓滔は早くから北京に出向いているが、彭己と凌振は梁山泊に残留している。
「わしは、なにも聞いておらん」
凌振はさっさと砲弾に向かい直った。作業台の上には、大小の砲弾や火薬が並べられている。凌振は砲弾のひとつを手に取った。
「新型の砲弾を考案しましてな。砲弾に穴にあけ、中に火薬を装填する。すると着弾した時、炸裂して大爆発を引き起こすのだ」
「あなたには、撃てますか?」

呉用の問いに、凌振は火薬を詰める手を止めた。
「あなたには、呼延将軍を撃つことができますか?」
凌振は、掌の上で砲弾の重みを確かめるように転がすと、目を細めて笑った。
「わしは、すでに一度、将軍を撃ちましたからな」
呉用は、さらに何かを問うように、凌振を見返し、砲弾に視線を移した。
そして、呉用は踵を返し、作業場を出ていった。
凌振はほっと息を吐くと、再び作業台に向かい、調合した火薬を砲弾に詰めていった。呉用の言葉が、脳裏を過った。
あなたには、撃てますか?──と、呉用は問うた。
(わしは、本当に撃てるのか)
かつて、凌振は呼延灼とともに梁山泊を攻め、梁山泊の捕虜となった。朝廷の火砲の扱いに不満を抱いていた凌振は、そのまま梁山泊に寝返り、入山の証として呼延灼軍に向けて砲を放った。しかし、それはあくまで脅しであり、命中させるつもりはなかった。もし凌振が本気であったなら、今ごろ呼延灼は死んでいたはずだ。
(しかし、今度こそ、わしは本気で撃たねばならん)
昨日、夕刻のことである。やはり、この場所に呼延灼の訪問を受けた。
「関勝を湖上におびき出す。晦日夜半──灯をともして梁山泊に向かって来る船を見たら、誰が乗っていようと、それを撃て」
呼延灼は、そう命じた。
「誰が乗っていようと?」
凌振の問いに、呼延灼は黙って頷いた。
“轟天雷”凌振は、火砲のほかには何の関心もないと世間には思われている。それは、真実ではある。しかし、何里も先の敵に照準を合わせ、一撃で破砕する凌振の心は、時として誰よりも見通しがきく。
この時、どこか遠くへ、しかしぴたりと照準を合わせたような呼延灼の眼に、凌振は自分が火砲を撃つ時と同じ心を読み取った。
呼延灼は梁山泊を救うため、関勝を道連れにして死ぬつもりなのだ。
「誰にも言うな。よいな」
それだけを言い残し、呼延灼は去った。
自分は本当に呼延灼を撃てるのか。
何より好きなはずの砲弾が、かつてなく“轟天雷”凌振の手に重かった。
呉用は作業場を離れると、ひそかに伴って来た“青眼虎”李雲を呼んだ。
「──李雲」
李雲はもてあそんでいた大工道具を腰に戻し、呉用の前に立った。
「凌振の見張りを」
呉用は、李雲が何か言うかと思った。
しかし、異相の男は青い目で僅かに頷いただけで、何も言わなかった。
呉用は、ひとり聚義庁へと戻っていった。彼は、凌振を、そして、呼延灼を信じていないわけではなかった。呼延灼が梁山泊を裏切ることなど、ありえない。もしも、今さら逃げるような男なら、晁蓋を失った曽頭市戦の敗走の時に逃げていただろう。再び官軍に“帰る”ような男であるなら、梁山泊に降らず、あの時、青州で死んでいたはずだ。
呉用には、分かっていた。
呼延灼は、なにか、非常に危険な賭に挑もうとしているのだ。呉用に告げなかったのは、おそらく、彼が反対すると判断したからだろう。
(賭の相手は、あの“大刀”関勝──)
そのことが、呉用に『呼延灼出奔』以上の不安をもたらした。
呼延灼がいかなる策を抱いているのかは分からない。しかし、それを関勝が見抜けば、呼延灼の命が危ない。
そして、もうひとつ。
(“武神”と呼ばれ、部下はおろか、敵にまで崇敬される関勝に会い、万が一、呼延将軍の心が揺らげば……)
誇り高き“双鞭”呼延灼。彼が、自分が官軍を裏切ったことを、心のどこかで常に羞じていることを、呉用は知っている。
聚義庁へ昇る階段の途中で立ち止まり、呉用はいつまでも晴れぬ閏一月の空を見上げた。聚義庁が遠くに見える。階段ははてしなく続く。その凍りついた石段の途中に、呉用はぽつりと一人きりで佇んでいた。
(晁蓋殿、あなたなら……)
呉用は常に懐に入れている守袋に手を置いた。曽頭市に出陣した晁蓋が、呉用にと託したものだ。
『迷うことがあれば、これを開けよ』
それは、晁蓋が守袋とともに呉用に遺した、ただ一つの言葉であった。
雪まじりの北風が、山頂から湖へ吹きおりていく。
風の中を再び歩きはじめた時、呉用の顔に迷いはなかった。
余人はどうあれ──すべての可能性に対処し、できうるかぎりの策を講じるのが“軍師”呉用の役目であった。
その後は、天が決めよう。
「一体、どういうことだ」
“金鎗手”徐寧は納得できなかった。
「まさか、呉先生は本当に呼延灼将軍を疑っているのか」

徐寧は“鎮三山”黄信とともに呉用の命を受け、湖を渡る舟に乗り込んでいた。湖の外にある連環馬の基地へ赴くのである。徐寧は三百人の鈎鎌鎗班を従えていた。
“天目将”彭己は、山塞には常駐していない。
北冥のほとり、西岸の北に広がる雑木林の奥に、連環馬の格納庫がある。
連環馬軍は梁山泊の切り札ともいえる部隊だが、急に応じて湖を渡って出陣するのは難しい。そのため、部隊は馬と装備を携えて西岸に駐屯しているのである。
責任者は、呼延灼の副将である“百勝軍”韓滔と“天目将”彭己。韓滔が不在の今、連環馬軍は彭己一人に委ねられている。
その指揮権を黄信に移譲し、彭己は聚義庁へ出頭せよ──それが呉用の下した命令である。徐寧の鈎鎌鎗班がつけられたのは、万一の有事に備えるためだ。
徐寧の心境は複雑だった。彼は家宝・賽唐猊のために官を捨て、自ら望んで梁山泊にやって来た。呼延灼はそうではない。呼延灼落草の原因を作ったのは、ほかならぬ徐寧の鈎鎌鎗法であったのだ。
そのためではあるまいが、官軍出身の者たちの中でも、徐寧と呼延灼は親しく付き合う仲ではなかった。しかし、徐寧は呼延灼という男の人物を重んじていた。
「──鈎鎌鎗の出番がないことを祈りたい」
黄信は舳先に座り、黙って水平線に目をやっている。夜明けから出ている霧が、ゆっくりと水面を流れていった。
二人は霧に紛れて落水渡に上陸すると、連環馬の格納基地に向かおうとした。その前に、ふいに“天目将”彭己が現れた。背後には、武装した連環馬軍が整列している。構えようとする徐寧を制し、黄信が前に出た。
呼延灼失踪の報に接しても、彭己に動揺は見られなかった。

「私は何も聞いていない」
彭己の表情はまるで読めない。黄信は呉用の命令を告げた。
「今より連環馬軍の指揮権は、聚義庁に直属する。呉軍師からの命がなければ、一兵たりとも動かすことは許されぬ。連環馬軍指揮は、当分この黄信が代行するゆえ、彭将軍は山塞へ戻られよ」
「それは──できぬ」
はじめて彭己の目に微動があった。
「連環馬軍は呼延灼将軍の命令によってのみ、動く」
「その将軍が裏切っていれば、どうする」
黄信の問いに、彭己は答えなかった。無言が、その返答であった。
「──お退りあれ」
連環馬兵が一斉に槍を構えた。鈎鎌鎗班もまた鈎鎌鎗を身構える。
黄信と彭己は朝靄の中に対峙した。
これだけの人がいるのに、林の中は息苦しいほどの静寂に包まれていた。
黄信は手を挙げて、鈎鎌鎗班に後ろへ下がるように命じた。そのまま両軍は距離をとり、やがて連環馬軍は雑木林の中へ戻って行った。
徐寧は重いため息をついた。
こうなることを、呉用ははじめから予想していた。その時には、徐寧は鈎鎌鎗班とともに連環馬軍の監視に残るよう指示されていた。現在、ここに兵力を割くのは痛手だが、彭己の思惑がどうあれ、連環馬という危険要因を放置しておくわけにはいかない。
「呼延灼将軍は、本当に……」
徐寧の言葉を遮るように、黄信は湖畔へ歩いていった。
「あの人は、俺たちとは違い、官軍であることを誇りにしていた」
「そうだな」
徐寧は賽唐猊についた露を拭った。
二人は並んで湖の畔に立った。枯れた葦原に氷まじりの波が寄せる。黄信は戦袍の襟をかき寄せた。
「寒いな」
「ものすごい霧だ……」
朝靄は晴れるどころか、どんどん濃くなっていくようだった。
その頃、“黒旋風”李逵も深い霧の中を彷徨っていた。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!!」
歩きながら両手の斧をぶんぶんと振り回したが、霧は次から次に押し寄せ前途を覆う。
聚義庁を飛び出した李逵は、そのまま小舟に飛び乗って、関勝の陣を目指して漕ぎだした。関勝の陣を襲い、裏切り者の呼延灼と関勝をまとめて始末してやる──そう勢い込んでいたのだが、進むほど霧が濃くなり、やがて方向が分からなくなった。
途中で一隻の舟と擦れ違い、霧の向こうに戴宗を見たような気がしたが、幻だったのか、舟はすぐに消えてしまった。
そのうちに強い風が吹きはじめ、舟はどこかの岸辺に漂いついた。李逵は見慣れぬ岸に上陸した。荒野に一本の道が延びている。ひどく不気味な場所だった。李逵は両手の斧を握りなおすと、くねくねと曲がった細い田舎道を歩いていった。
あたりは林──骨のように白く枯れ渇いた木立が続く林である。梁山泊の近くにこんな場所があったとは知らなかった。と、その林から一人の男が現れた。肉付きのよい、李逵にもまして大きな男だ。瓜に目鼻を刻んだような顔は、愛嬌があるようでもあり、薄気味わるいようでもある。李逵は、男の顔を見てげらげらと笑った。
「へんな顔だな!!」
男は答えず、そのまま歩き去っていく。李逵は後を追いかけた。
「おいら、道に迷っちまったんだ」
李逵が前に回りこむと、男もようやく立ち止まった。李逵は少し考えて、懐にあった大きな饅頭を差し出した。男は饅頭を取り、黙って食べた。李逵はまた懐を探り、銀粒をいくつか掴み出した。男は何も言わずに受け取り、腰に下げた袋に入れると、また歩きはじめた。
「オイ、待ちやがれ」
李逵は男の腕を掴んだ。
すると、男はさっと腰をかがめ、両手で李逵に組み付いた。李逵も咄嗟に腕に力を込めたが、四つに組んだと思ったのは、一瞬だった。


男はそのまま後ろに回り込むと、がっちりと李逵の首を掴んだ。あっと思った時にはもう、李逵は頭から仰向けに投げ飛ばされていた。
「へッ、今のは手加減してやったんだ」
李逵は両手に唾をつけると、今度は自分から勢いよく男にぶつかっていった。気がつくと、また地面に転がっていた。何度やっても同じだった。
「まいった!!」
李逵はついに地面に胡座をかいた。
「おめえ、いったい何者だ」
「……しょ、焦、挺」
焦挺、あだ名を“没面目”──“愛想なし”の異名をとる力士である。中山府に代々続いた相撲取りの家の出で、今は武者修行のため各地を流浪としているのだと言う。ひどい吃りで、それだけ聞くのに随分と長い時間がかかった。
「さっきの技、なんていうんだ。おいらにも教えろ」
「“鉄風筝”」
“鉄風筝”──鉄の凧とは、焦家に伝わる父子相伝の禁じ手である。相手がどんな体勢であろうと、首を掴んで凧のごとく大の字にして飛ばしてしまう。腕の力だけでなく、人並みはずれた腰の強さをも要する必殺の技である。
焦挺は五年前、『大宋第一力士』を決める泰山相撲において、この禁じ手を使い、相手を殺してしまった。それにより、焦挺は永久に相撲界から追放された。しかし、相撲を捨てきれぬ焦挺は、流浪の中で素人相手に闇相撲をとって生きているのである。
李逵は裾を払って立ち上がると、焦挺に向かって言った。
「おいらは梁山泊の鉄牛さまだ。おめえ、おいらの次に強ぇから、弟分にしてやる」
“没面目”焦挺は黙ったまま頷いた。
「ついてこい」
李逵が先に立ち、二人は曲がりくねった田舎道を歩いていった。しばらく行くと、焦挺が李逵の腕を引いた。
「そ、そっちは、い、いけない。あ、危ない」
焦挺は彼方の山を指さした。
「あああの山、し、“死神”が棲んでいる」
その山の名を、枯樹山と云う。名の由来は、あたりに生きた木が一株もないからであろう。生きた人間もいない。なぜなら山には“喪門神”鮑旭──死神と呼ばれる男が砦を構えているからだ。襲うのは財宝ではなく、人である。“喰う”のだと云う。
李逵は鼻をひくつかせた。
「いい匂いがするぞ」
李逵は匂いをたどって行った。やがて、二人は山の麓に辿り着いた。寂しい場所だ。枯れた木立が並び、木々の間を細い小川が流れている。川原には、びっしりと枯れ枝が落ちていた。李逵が何気なく一本拾いあげると、それは枯れ枝ではなく、洗い晒したような人骨だった。
人骨の散らばる川原に、一筋の煙が立ち昇っている。近づくと、男が石で作った竈に鍋をかけ、肉を煮ていた。凶悪な目つきの男だ。一目で“死神”鮑旭だと知れた。

李逵は男の前に腰を下ろした。
「おいら、朝飯がまだなんだ」
霧に濡れた体に焚き火の熱が心地よい。男は鍋をかき回している。李逵は鍋から勝手に骨つきの肉を取り出すと、齧りついた。むしゃむしゃと食っては骨を投げ捨てる。やがて焦挺も腰を下ろして食べ始めた。三人は焚き火を囲み、黙って肉を食べ続けた。すぐに鍋はからになった。
「もうないぞ」
「一人分しか、ねぇものを、三人で、喰ったからな」
鮑旭は、ちらりと焦挺の方を見た。
「おまえ、旨そうだな」
逃げようとする焦挺を、鮑旭は素早くねじ伏せた。
李逵は笑って骨を放り投げると、べろりと脂のついた指を嘗めた。
「おいらは梁山泊の李逵さまだ。飯を喰わせてもらったから、あんたを弟分にしてやる。ついてきな」
李逵は上機嫌で立ち上がった。すると、鮑旭の手下らしい男たちが、林の中から二、三十人も現れた。
「親分、朝めしはお済みで」
鮑旭は汁だけになった鍋を手に取った。
「足りねぇ」
手下たちがまた林の中に隠れた。鮑旭はゆっくりと立ち上がり、汁を焚き火にぶちまけた。真っ白な煙が立ち昇る。
「──山を下りるぞ」
鮑旭は空になった鍋を手に、李逵、焦挺と白骨の森を後にした。手下たちが、ぞろぞろとその後をついていった。
数日間、続いていた霧が、その日はようやく少し晴れた。
閏一月晦日。
昼過ぎ、“井木扞”赫思文は五丈河の河岸に立ち、空を見上げた。母親が井宿を飲む胎夢を見て身ごもったせいか、赫思文は天象を予測することに長けている。
「このぶんだと、今夜から気温が上がり始めるだろう」
“醜郡馬”宣贊は黙って頷いた。
遅い春がようやく巡り、間もなく氷城も溶け始める。
そして、明日は晁蓋の喪があける日であり、今夜は関勝と宋江が湖上で合う約束の夜だ。
関勝軍も、梁山泊軍も、明日に向かって動いている。天すらも、動いている。どちらにく味方するのかは、分からない。
(天は語らず……か)
赫思文は、宣贊を促して関勝の幕屋に向かった。
天よりもなお関勝は自分の心を語らない。深く秘め、語った時には、もう誰にもその意思を変えることはできない。
「……宣贊」
赫思文は、ひどく静かな声で言った。
「関兄は、一人で宋江に会いに行かれるそうだ」
寒々とした部屋の中で、関勝は書見していた。
部屋の中は薄暗い。燃え尽きかけた蝋燭が、一陣の微風に揺らぎ、最後に大きく耀いて、消えた。
「──“在不在”」

関勝は『春秋』を閉じた。卓の前に、一人の老人が立っていた。芒のような白髯をたらした、痩せた老人である。呼延灼の旧友であり、関勝らとともに四天王と呼ばれた韓存保将軍に使える老僕だった。
「お前は韓存保殿について、雁門に行ったのではなかったのか」
「老骨には、朔北の風はこたえますので──東京に残していただきました。今は、太尉・宿元景様に使っていただいております」
呼延灼の投降以来、彼ら将軍たちの立場は危ういものになっていた。少しでも疑いを受ければ、容赦なく捕らわれ、罪に問われる。聞煥章が突然に下野したのもそのためだ。韓存保は呼延灼と親しかったため、あらぬ罪を得る前に、自ら望んで辺境防備に赴いた。雁門は長城のふもと、遼国と国境を接する前線である。
「伝言は」
「童貫が、復職いたしました」
関勝は頷いた。予想していたことである。老人は言葉を続けた。
「童貫は、慕容氏に代わって新たに貴妃となりました劉氏に金品を贈り、陛下への取りなしを依頼したようございます。しかし、朝廷内で童貫の力が衰えているのは確か。そこで、童貫は関将軍を怠慢として弾劾し、自ら梁山泊討伐に出陣することを奏上──陛下は、これをお許しになりました」
老人は、かつて呼延灼にも同じような報告をしたことを思い出していた。
「あなた様は梁山泊討伐の任を解かれました。童貫が参れば、捕縛を免れぬでしょう。宿太尉は……」
関勝は手を挙げて、老人の言葉を遮った。
宿太尉は今の朝廷では希有の、真に国を憂える人物だ。常に外地で戦う関勝ら“四天王”の庇護者であった。
宿太尉は、関勝に童貫のもとへ出頭し、自ら罪を請えと云うのだろう。そうすれば、あとは自分が朝儀で何としても弁護する──と。あるいは、関勝が出奔することを恐れているのかもしれない。
「宿太尉に、申し上げよ」
関勝は再び書物を手にとった。
「我は為すべきことを為す。閣下も、為すべきことを為されよ──と」
「しかし」
「去れ」
風が吹き抜け、老人の姿は消えた。入れ代わりに、赫思文と宣贊がやって来た。
「今、誰か、おりましたか?」
関勝は赫思文の問いには答えず、新しい蝋燭に火をつけるよう頼んだ。赫思文が新しい蝋燭を足した。関勝は、燃え上がる炎を見つめて、聞いた。
「赫思文、舟は」
「石碣村の漁民から、古い漁船を買い上げました」
「お待ちください」
宣贊が、赫思文を押し退けて関勝の前に立った。
「一人で行くとは、一体、何をお考えか!!」
宣贊は自分も船に乗り込み、船底には兵を潜ませておくつもりだった。梁山泊の“帰順”の申し出を、頭から信用するわけにはいかない。本当に宋江が現れても、必要とあらば宋江を捕らえる。そして、万が一、帰順が梁山泊の罠であり、宋江ではなく敵兵が現れたならば、呼延灼を人質にして脱出するのだ。
沈黙の中で、蝋燭の炎が揺れた。
「間もなく、童貫が水陸五万の兵を率いて到着する」
関勝の言葉に、宣贊は耳を疑った。
「なんと」
「わしは梁山泊討伐の任を解かれた。これより、お前たちは童枢密の指揮に従え」
「関兄はそれで良いのか」
「──戦が終われば、それで良い」
「そう、指揮官が誰であろうと、この戦は明日には終わろう」
梁山泊は北冥、南冥の守りを失い、水軍もなく、主力の騎馬軍も戻ってはこれない。対する関勝軍には一万の兵力があり、単廷珪の水軍があり、東平府、東昌府の援軍がある──そのように、宣贊は完璧な作戦を立てていたのだ。さらに童貫の軍が到着すれば、万に一つも間違いはない。
しかし、その栄誉は童貫一人の上に輝くのだ。
「あなたが辞すのなら、私も官職を辞す」
関勝の復帰は、宣贊にとって唯一の希望であった。関勝が去った十年、宣贊はひとり魔窟のような朝廷で虚しい戦いを続けてきたのだ。
「朝廷にはすでに失望している。郡馬などの身分もいらぬ!!」
宣贊は卓を打った。赫思文が宥めるように間に入った。
「落ちつけ宣贊。みなが失望して去れば、国はどうなる」
「ならば、なぜ関兄は行かれるのだ!! なぜ、罷免された上、一人で宋江に会いに行かれる。宋江と刺し違え、一人で死ぬおつもりか!!」
自分の言葉に、宣贊ははっとして息を呑んだ。
「馬鹿な!!」
宣贊の胸に怒りがこみ上げた。
「あなたは一人で信義の名を残し、愚かな戦は我々がせよというのか。あなたを連れ出した私を責めているのか。それでもよい。しかし、我々を欺くことはできない。あなたは義に殉じるのではない。武神であることから逃げるのだ。そして、一人だけ清らかに死ぬつもりなのだ。醜い者を、愚かな者を嘲って、一人逃げ出そうとしているのだ──」
関勝は静かに書物を閉じた。立ち上がり、行こうとする関勝の前に、宣贊は立ちふさがった。
「これを見よ!!」
忽然と叫び、宣贊は頭巾を脱ぎ捨てた。焼けただれ、崩れた顔があらわになった。赫思文は思わず目を伏せた。宣贊の顔には眉もなく、鼻も唇の形も分からぬ。ただ眼だけが爛々と光っていた。
「私が、なんのために生き恥を晒しているとお思いか。このような姿に成り果て、それでも、なぜなお生き永らえているのか──」
赫思文は宣贊の頭巾を拾った。
「もう分かった、よせ、宣贊」
腕にかけられた赫思文の手を、宣贊は荒々しく振り払った。
「誰にも分からぬ!!」
宣贊の眼から、涙が流れ落ちていた。
「みな、あなたとの約束のためではないか!!」
十年前。決戦前夜、あの密林の夜。
宣贊は、死ぬつもりであった。
生きることに絶望していた。自分の醜さを呪い、あらゆる希望を失って、死に場所を求めて戦場にいた。その彼に、関勝が一筋の道を示したのだ。
「同年同月同日に生まれることかなわずとも、同年同月同日に死なん──そう誓った、あの約束を、忘れたとは言わせぬ!!」
関勝は黙した。
風が幕屋の屋根を叩いて、大きな鳥が飛び立つような音をたてた。
関勝は沈黙のまま武器架に近づき、青竜偃月刀を手に取った。

“大刀”の名のもとになった巨大な刃──新しく燃え上がる火の傍らに、関勝は大刀を手にして立った。その顔に光が照り映え、大刀が光輝を放つ。
(ああ、“関菩薩”──)
それは抗いがたい姿であった。
その眸に見据えられれば、あるゆる人は言葉を失う。
しかし、宣贊はなお言った。宣贊にとって、関勝は神である。しかし、同時に兄であり、友であった。
「関兄……我々も共に」
「ならぬ。これは──命令だ」
関勝は命じ、背を向けた。
「お前たちは、全軍を率いて童貫軍に合流せよ」
その頃、東昌府の将、“没羽箭”張清は午睡の夢を見ていた。
見慣れた夢だ。夢の中で少女に会う。その夢を見るようになって、もう十年近くになるだろう。不思議な少女だ。どこか遠い所に立っている。話すことはなく、決して笑わず、泣きもしない。怒っているわけでもない。ただ厳しい顔をして、いつも遠くを見つめている。
幼かった少女は、いつしか夢の中で大人になった。美しい娘となり、今、はじめて張清へと振り向いた。張清を見つめ、唇が、かすかに動いた。
「──将軍」

張清は驚いて眠りから覚めた。
梁山泊の北方に位置する荒野である。張清は隠れていた雑木林の木にもたれ、いつの間にうたた寝をしていたらしい。顔中に虎の刺青のある男が、張清を呼んでいた。横には顔中に傷のある男が立っている。黙って地平を顎で示した。
遠雷の音が聞こえる。
冬の終わりの雷は春の足音だ。雷が鳴ると、春が来る。
しかし、その響きは春雷ではなく、砂塵に霞む北の地平に現れたのは、春ではなかった。

地平線に滲むように現れたのは、紛れもなく、数千の軍勢であった。
張清は立ち上がり、手綱を取った。
「さぁ、行こう」
凛々しい横顔に、雲間から射しこむ光が揺れた。
“豹子頭”林冲は、梁山泊を目指してひた走った。
その後に続くのは、啄鹿原において曽頭市軍を破った北京からの帰還軍である。彼と先頭を争うように、左右には秦明、花栄、楊志たちの姿があった。そして、盧俊義、燕青。欧鵬、馬麟、登飛、楊雄、石秀らが陸続と轡を連ねる。総数三千、すべて騎兵である。
帰還にあたり、林冲は最も安全と思われる道を選んだ。官憲の目につかぬ、荒野の道なき道である。啄鹿原から撤退した、魏定国の凌州軍、豊美の青州軍と遭遇する危険を避けるためでもあった。他の部隊──娘子軍は民間人に変装して街道を行き、歩兵は魯智深、武松らが率い林冲らの後を追っていた。
「今夜中に戻らなければ!!」
明日になり晁蓋の三月の喪が明ければ、関勝は容赦なく梁山泊軍を攻めるであろう。
「梁山泊へ!!」
蹄が砂塵を巻き上げた。
“浪子”燕青は疾走する軍の中ほどにいた。前方に盧俊義がいる。啄鹿原に戻って来てからの盧俊義は、まるで別人のようだった。
「あれを!!」
誰かが叫んだ。前方の丘の陰から、ふいに官軍が現れたのだ。
「東昌府?」
その旗に、みなは目を疑った。梁山泊の東北に位置する東昌府。その軍がなぜここにいるのか──その理由はひとつしかない。
北京から戻る梁山泊軍を阻止せんと、待ち構えていたのだ。
両軍の数は殆ど同じである。東昌府の陣頭から、一群の軽騎兵が飛び出した。
“没羽箭”張清が編成した虎騎軍である。甲冑を身につけない軽装で、旗印は有翼の虎。その旗の示すまま軽捷なること比類ない。瞬く間に梁山泊軍の先端に接するばかりに近づくと、一斉に手にした短槍を投げた。
梁山泊の先鋒は“霹靂火”秦明である。秦明は啄鹿原の戦いで史文恭の槍を受け、足に傷を負っている。しかし、秦明は愛馬・飛熊を我が足として、人馬一体となって戦場を駆けた。秦明は狼牙棒で投げ槍の雨を防いだ。防ぎきれぬ者たちがばたばたと周囲で倒れた。花栄が弓隊を率いて応戦する。対する東昌府軍も槍を放つと弓を構えた。放っては背後に回り、また次の者が射る。花栄も続けざまに朱雁を引いた。
やがて双方の矢が尽きた。その時には、すでに林冲と楊志が部隊を率いて東昌府軍へ突入していた。その前へ、敏捷なる獣のごとく突出したのは、張清の両翼をなす“花項虎”共旺、“中箭虎”丁得孫の二虎である。

丁得孫は、“箭にあたった虎”の名のごとく、顔から体、あらゆる皮膚に古傷が縦横に刻み込まれた男である。一方の共旺は顔から首、背にまで虎の斑紋を刺青し、異族の装束を身にまとっている。梁山泊よりも山賊らしい男たちであった。
共旺は手槍を、丁得孫は短扠を武器としていた。接近して戦うのに適した武器である。両軍は肉迫し、青空の下に入り乱れた。しかし、東昌府軍は軽騎であり、敵を待ち伏せし、奇襲するのには長けるが、白兵戦には不利となる。共旺、丁得孫は得物を振るって敵を防ぐと、馬首を返した。
それを“錦毛虎”燕順が追った。欧鵬、登飛が続く。誰よりも望郷の念を強くする三人である。風を巻いて逃げる敵を追い、燕順の馬が飛び出した。前方は小高い丘だ。その裾でなにかが光った。
「“錦毛虎”!!」
欧鵬が叫んだ。同時に燕順は何かに弾かれたように鞍から落ちた。欧鵬は燕順を救いに向かった。その目に、丘に佇む、静かなる若武者の姿が映った。
「あれは」

 
美女のごとき涼しきまなざし、優美なる微笑。東昌府の将、張清。あだ名を“没羽箭”──“羽なき矢”と呼ぶ。その名の意味を、梁山泊軍は間もなく知ることになる。
すでに梁山泊軍も丘へ肉迫している。再び乱戦となった。
その中に、張清は槍も剣も手にせず悠然として立っている。登飛が一声咆哮して丘へと駆ける。それがまた落雷に打たれたように鞍から落ちた。“百勝将”韓滔は登飛を救おうと馬腹を蹴った。その時、張清が腰に下げた袋からから何かを取って放つのを見た。

哭くような風を聞き、次の瞬間、額に凄まじい衝撃を感じ韓滔は鞍の上につっぷした。額にやった手に、割れた仮面が落ちた。
(──石か!!)
鞍に礫が落ちていた。これこそが“没羽箭”──矢羽根なき箭の正体だった。衝撃で仮面は二つに割れていた。
「礫だ、気をつけよ!!」
韓滔は、“青面獣”楊志が張清へ向かって馬を飛ばすのを見た。
(礫だと?)
風が唸り、楊志は目を細めた。吹毛剣が閃いて、棗ほどの石礫が二つに割れて転がった。しかし、次の瞬間には、二発目が楊志を襲った。“病関索”楊雄が楊志の反対方向から張清へ迫った。一瞬だけ張清の礫を投げる手が遅れた。放たれた石が楊志の肩を激しく打った。楊雄、石秀、欧鵬が三路から張清へ攻めかかる。張清を守るように、東昌府の軽騎兵は縦横無尽に駆け回った。張清の軽騎兵は敏捷で、その動きを容易に掴むことができない。その隙に張清は再び丘の陣へ駆けた。
張清は敵の機先を制して攪乱し、迅速に首将を討つことを好む。丘から戦場を眺め回した。
(あの男か)
張清は敵味方入り乱れる戦場の中に、ひとり、衆人とは異なる男を見つけた。賊といえど梁山泊軍に勇将、勇士は多い。しかし、その男は誰とも違った。張清が見たことのない型の男だった。
(あれこそ首将!!)
張清は颯爽と馬を駆った。めざす男は──“玉麒麟”盧俊義であった。
「旦那様!!」
燕青は張清が盧俊義へ向かうのに気づいた。盧俊義を救おうと、燕青は馬を飛ばした。立ちふさがる敵を槍で薙ぎ払い、燕青は盧俊義に向かって走った。
しかし、すぐにその必要はなかったことに気がついた。

盧俊義は強かった。
無数の敵兵に囲まれて、一歩もひけをとらぬどころか、果敢に敵を攻めたてた。東昌府の兵に取り囲まれた盧俊義に、張清も礫を放つことができない。
燕青は、盧俊義との間に越えようのない距離を感じた。
盧俊義は、牢を出てから一度も「小乙」とは呼ばない。燕青など目に入っていないような時もある。
今は、まるで見知らぬ人のようだった。傲慢なほど自信に溢れ、人を圧する輝きを放っていた人が──いや、その輝きは変わらない。増してさえいるかもしれない。
ただ、それは人を引きつけながら圧倒するのではなく、人に憧憬と感動を与える、遠いところで燦然と輝くような光であった。
燕青は孤独を感じた。進むべき、道を探した。
盧俊義のもとへか、梁山泊へか、それとも、どこか違う場所へか。
薄昏い戦場を影のような人々が行き交っている。燕青は自分もうすっぺらな影法師になったように感じた。
それでも燕青は戦い続けた。
静かに暮れていく空に、戦の喧騒が狂ったように響いていた。
“鉄扇子”宋清は、縫い上がった寿衣を丁寧に畳んだ。
宋江の寿衣だ。布に包み、宋江の寝台の下に仕舞おうとしたが、宋清は少し考えて、やめた。
寝台の宋江は、静かに眠り続けている。
「兄さん、ちょっと借りるよ」

宋清は寿衣を戦袍の下に着込むと、静かに部屋を出ていった。聚義庁の前で、呉用が彼を待っていた。宋清は無言で一礼し、金沙灘へと下りていった。
湖畔に『及時雨 宋江』の旗がはためいていた。その前に、“小温侯”呂方、“賽仁貴”郭盛、そして“毛頭星”孔明と“独火星”孔亮の兄弟が兵を率いて待っていた。
彼らは、これから囮となるため東平府へ向かうのである。三万に及ぶ梁山泊の軍も今は各地に分散しており、彼らのために割ける兵は歩兵が三千しかいなかった。
かつて、四人は宋江との縁に導かれ、梁山泊へやってきた。以来、呂方、郭盛は出陣するたび宋江守護の騎兵を率い、孔兄弟は宋江守護の歩兵部隊を率いてきた。
宋清は、ずっと避け続けた戦場へ、今日はじめて赴く。
彼らは兄の名を掲げて出陣する。そして、宋清は兄の代わりに、兄として出陣するのである。
“鉄面孔目”裴宣が見送りに来ていた。軍政司である裴宣は戦に出ない。しかし、今朝は甲冑を身につけていた。宋清は笑おうかと思ったが、やめた。
楊林、陶宗旺、蒋敬の姿もあった。薛永と穆春は同行を望んだのだが、許されなかった。彼らは残された五千余の兵とともに、梁山泊守備にあたるのだ。
陶宗旺は土に埋めておいた芋を焼いて、出陣する者たちに振る舞い、朱貴と朱富が酒を配った。
“錦豹子”楊林が笑って、小烏龍の頭を撫でた。
「覊鳥は旧林を恋い、池魚は故淵を思う──みなが帰る場所は、我々がしっかりと守っておりますので、ご安心を」
(今日は珍しく胸が騒ぐ)
“風流双槍将”董平は屋敷の窓辺に座り、暮れてゆく空を見上げた。
(明日か)
東昌府の“没羽箭”張清のことを考えた。“醜郡馬”宣贊の懇請を容れ、北方から戻る梁山泊軍を阻止するのだという。
もっとも、それだけではこの戦の勝敗を左右するまでには至らない──と董平は読んでいる。張清の東昌府には船がないのだ。東平府の戦船があってこそ、官軍を勝利に導くことができる。
今や済水のほとりの造船所には新しい戦船が並び、完成間近の船の仕上げも急いで行われている。『閏一月晦日までに三百隻の船を造れ』と命じられたが、船大工たちの奮闘のおかげで間に合いそうだ。
(あとは戦を待つだけだ)
董平は傍らに置いてあった月琴をとり、弦を弾いた。
関々とつれなく雎鳩は 河の洲に 窈窕たる乙女は 君子のよき逑れ
『詩経』の最初に載っている「関雎」の詩に、自前の節をつけて歌った。君子が伴侶となる佳人を求める歌である。
金色の光が東平府の空を染めていた。あの光を集めて金色の絹を織り、麗芝に纏わせれば、月の宮の仙女も及ばぬほど美しいに違いない。花嫁衣装はめでたい紅が世の常だが、自分たちの婚礼には金色の絹を用いるのがよい。
再び月琴を爪弾いた。その調べを、黄昏に響く銅鑼の音がかき消した。すぐに従卒が駆けつけてきた。
「西方に梁山泊軍が現れました!!」
董平は傍らの盆から玉杯をとり、悠然と酒を含んだ。
「敵の陣頭には、『及時雨 宋江』の旗が翻っているとのことです」
「宋江? 宋江が、今ごろ東平府に何の用だ」
「食料を貸せと申しております」
董平は、くせのある笑みを浮かべた。
「──愉快な連中だ」

杯の美酒を飲み干し、董平は黄昏の光の中に立ち上がった。
“九紋竜”史進は、待っていた。

(早く、明日にならないか)
ごろりと寝ころがっている。東平府郊外、済水の河岸に設けられた造船所。その人気のない倉庫裏の日溜まりである。
作業場には仕上がった三百隻の船がずらりと並び、工程はもう終盤だ。工人たちが船体に最後の瀝青を塗っていた。
宣贊の周旋によって、程太守が建造を命じた船である。これが援軍として関勝軍に加われば、梁山泊軍には防ぐ術がない。史進は呉用の命を受け、この造船所に潜入した。もちろん船を奪うためである。船大工の仕事は、“玉幡竿”孟康から付け焼き刃で習った。
晁蓋の喪は、一見、休戦のようであったが、実は両軍は二月一日──戦闘が再開されるであろう日にむけて、水面下の戦いを繰り広げていた。史進の任務は、梁山泊軍のために東平府の船を奪い、かつ官軍の戦力を削ぐという一石二鳥の作戦である。史進が自ら志願した。
危険な仕事だが、うまくやる自信はあった。彼には、以前から東平府に馴染みの妓がいる。造船所が船大工を集めていることも、その女から聞いたのだ。名を李瑞蘭という東平府の妓女は、この造船所にも出入りしている。作業場から一歩も出られない男たちのため、ほかの妓たちと船を仕立てて通ってくるのだ。
おかげで、ことは順調に進み、すでに史進は造船所を隅々まで調べつくしていた。
この造船所は古い集落のあとをそのまま使い、周囲は高い土塀で囲まれている。出入口が一つあるが、その門は守備隊が出入りするためのもので、警備は厳しい。工人には近づくことさえ許されなかった。期日までに規定数の船を作り上げるため、船大工たちは造船所から出ることを禁じられている。高い土塁も、門の警備も、外からの襲撃を防ぐと同時に、工人の逃亡を阻んでいるのだ。
周囲の土塁を越えることも、部隊が駐屯している門を襲うことも難しい。そこで史進は済水の桟橋に目をつけた。
桟橋の周りには水中まで隙間なく柵が巡らされており、忍び寄ることはできない。しかし、水門がある。この水門が、資材や食料を運ぶ船、そして女たちを乗せた“妓船”が出入りする時に限って開くのだ。
水門の扉は、隣接する水寨から鎖で上げ下げするようになっている。
(攻めるなら、あの水門を襲うしかない)
三百隻の戦船は、明日の晦日の夕刻までに仕上がる予定だ。すべての船が完成する時を待って、梁山泊は造船所を襲撃する。
史進は、水門が明日の夕刻前に開くことを突き止めていた。李瑞蘭ら妓女たちが、ちょうど妓船に乗って商売に来ている。その船が、明日の夕刻前に東平府に戻るのだ。
門が開くのは、ほんの僅かな時間だけだ。その機を逃せば、計画は水の泡となる。史進は妓船を通すため水門が開くのを見たら、水門を開閉する水寨を襲って火を放つ。それを合図に、梁山泊軍が攻め込む手筈になっていた。
すでに梁山泊軍は造船所の上流にある葦原や水辺の林に隠れたり、漁船に偽装して史進の合図を待っているはずだ。
(明日が待ちどおしいぜ)
船大工も飽きたし、松脂の匂いにもうんざりしていた。
「若いの、またさぼっていやがるな」
目を開けると、船大工の親方が立っていた。史進は笑って体を起こした。
「心配ご無用、明日までには余裕で仕上がるさ」
「明日だと? ばかを言うな。今日の夕方には東平府から船を引き取りに来る。それまでに仕上げなきゃ、わしの首が飛んじまう」
「親方、冗談はなしだ。今日は二十九日、晦日は明日だ」
「だったらいいがな」
親方は史進に瀝青の壺を突き出した。
「若いの、一月は閏月だろうが小の月、二十九日までしかねぇんだよ」
(しまった!!)
史進は壺を投げ出すと、船着場に向かって駆けだした。
桟橋にはすでに完成した戦船が進水して並んでいる。それに混じって、提灯や造花で派手に飾りつけた妓船が停泊していた。
「瑞蘭!!」
大声で呼ぶと、船から艶やかに化粧した若い娘が現れた。

「あら、史大郎さん、来てくれたの」
「お前、明日、戻るのか」
「そうよ。そう言ったでしょ」
史進は人気のない一角へ李瑞蘭を引っ張って行った。
「今日、戻ることにしてくれ」
「それは無理よ。今日はみんなお給金をもらうでしょう。一番の書き入れ時じゃない。なんだって、急に戻れだなんて言いだすの」
「瑞蘭、この俺が頼んでいるんだぜ」
史進は瑞蘭の肩を抱くと、じっと女の眸を見つめた。
「──分かったわ」
李瑞蘭はうっとりと史進の顔を見上げ、頷いた。
「あたし、なんとか考えてみる」
「ああ、助けて!!」
李瑞蘭が叫びながら桟橋に倒れ込むと、妓船からおかみが飛び出してきた。
「瑞蘭、一体どうしたんだい」
「お腹が痛いの!!」
瑞蘭は腹を抱えてうずくまった。おかみは血相を変えて駆け寄った。しなびた鶏のような遣り手婆だ。その袖を掴んで、李瑞蘭は泣き声をあげた。
「街に戻って、お医者に見せてよ!!」
「困ったね。そんなに痛いのかい。でも、今日は水門を開けないってお達しなんだよ」
「痛い!! 痛い!! 死んでしまうわ!!」
おかみはおろおろとあたりを見回した。売れっ妓の李瑞蘭に何かあったら、おかみは華々楼の大旦那からひどい目に遇う。おかみは仕方なく船頭に船を出させた。
ゆっくりと桟橋を離れていく船を、史進は物陰から見送った。
しかし、妓船は水門で止められた。門の脇の水寨から見張りの兵が顔を突き出し、船頭を怒鳴りつけた。
「おい、今日はだめだ。水門は開けられないぞ」
「そこを、なんとかお願いしますよ。ねっ、さぁ、これで」
おかみは懐から銀粒を出して渡した。もちろん瑞蘭が渡した金であり、もともとの出所は史進の財布だ。結構な重みがあった。兵隊は難しい顔をした。
「まぁ、少しならいいだろう。急いで通れ」
ゆっくりと水門が開いていく。そこに、雅びな笛の音が聞こえてきた。見れば、灯籠や造花で華やかに飾りつけた立派な船が、済水を下って造船所へと近づいてくる。笛は、その船縁に腰掛けた瀟洒な若者が吹いているのだ。船はまっすぐに水門へ向かっている。
兵士が制止しようした。それより早く、商売仇と見たおかみの目が釣り上がった。
「見ない顔だね!! ここは華々楼の縄張りだよ、どこの店だい!!」
「へん、うちの船は、すげえ別嬪ぞろいだぞ」
船首の小男が舌を出した。その後ろの船室から帳をかかげ、目も覚めるような美しい娘が現れた。さらに、艶やかではあるが、ひどく目つきの鋭い女が続いた。
「どうだ、上玉ばかりだろ」
すでに水門は開きかけている。新手の妓船は、その隙間へ勢いにまかせて突っ込んだ。華々楼のおかみも負けじと漕ぎ手の尻を叩き、水門に二隻の船が頭をぶつけるようにひっかかった。水寨の兵士たちが慌てて怒鳴った。
「おい、どけ!!」
「船をどかせ」
そこへ、川上から別の船が勢いよく下ってきた。平頭の大きな船だ。不穏なものを感じて兵士たちが叫んだ。
「早く水門を閉めろ!!」
兵士が門を開閉する鎖の揚巻機に駆けつけた。その脳天に、史進の棒が炸裂した。
そのまま史進は腰に突っ込んでいた手斧を振り上げ、揚巻機を叩き壊した。これでもう水門を開閉することはできない。それと同時に平頭船が妓船にぶつかり、無理やり二隻の妓船を水門の中に押し込んだ。めりめりと音がして水門が壊れた。
「桟橋を守れ!!」
守備隊が桟橋へ走った。
「そうはいかねぇ」
史進は櫓を飛び出すと、棒を手に兵の中へ飛び込んだ。
「進水祝いに背中の竜を拝ませてやろう!!」

鎖から解き放たれた虎のごとく、猛然と暴れる史進を見つけ、新来の妓船のおかみ──“母大虫”顧大嫂が手を振った。
「“九紋竜”、助けに来たよ!!」
もう夕刻だというのに、待てども造船所に火の手が上がらない。そのため、史進の身を案じた朱武が一策を講じたのである。
啄鹿原を後にした扈三娘らは、林冲ら騎馬軍と別れ、旅芸人や民間の女に変装して、本街道から一足先に戻って来ていたである。
急を知らせる銅鑼が鳴り響く。
「梁山泊だ!!」

“一丈青”扈三娘、“母夜叉”孫二娘、そして“白面郎君”鄭天寿も長い裳裾に隠していた武器を引き抜いた。妓船から着飾った女兵とともに、楽和、王英、孫新、張青が飛び出してくる。船頭に化けた李忠、周通、白勝もいた。料理人と給仕に化けた朱貴、朱富兄弟と侯建も桟橋へと飛び移る。平頭船に隠れていた水軍の男たちは次々と水に飛び込んだ。阮小二と阮小五が水軍の男たちとともに水から桟橋へ飛び上がる。梁山泊軍と警備隊が入り交じり、あたりは騒然となった。
済水に浮かんだ妓船の上から、李瑞蘭が呆然と史進を見ていた。
「瑞蘭よ、世話になったな」
史進は女に軽く手を振ると、棒を手に戦いの中へ飛び込んでいった。
“小温侯”呂方は、息を呑んだ。
その眼は、一人の男に釘付けになっていた。
梁山泊軍は『及時雨 宋江』の旗を掲げ、“鉄扇子”宋清を大将に東平府の西門へと攻め寄せた。その数三千。東平府からは二千余の兵を率いて一人の男が現れた。
東平府兵馬都監“風流双槍将”董平である。

華麗な甲冑に身を包み、矢壺には二本の旗を挿していた。
すなわち、『風流双槍将』『英雄万戸侯』。
夕焼けの光を正面から浴び、全身が燦然と輝いている。
「──おお」
梁山泊の将兵たちから感嘆の声が洩れた。
それほど華やかな軍人を、呂方は見たことがなかった。
呂方の隣には“賽仁貴”郭盛がいる。郭盛は、迫り来る敵を泰然と見据えていた。
二人は、ともに元は商人である。郭盛は方天画戟を使い、いつしか“賽仁貴”と呼ばれるようになった男だ。一方の呂方は、ただ英雄になりたくて、一途に同じ呂姓の呂布に憧れた。漢末の英雄であった呂布は方天画戟を使って無敵、ゆえに呂方も方天画戟を習った。
誰よりも強く、華麗で、颯爽と駿馬を駆る英雄──そうあらんと望んだのだ。
「“小温侯”呂方、一手ご教授いただこう!!」
呂方は彼の赤兎を駆って、董平に挑みかかった。郭盛が追う。二振りの方天画戟が夕日に輝く。それを見た董平は、片手に握っていた二本の槍を両手に持ち替えた。
長槍は一本でも熟練しなければ扱いに窮する。それを二本、馬上において操るとは、余人にはかなわぬ技である。董平はそれを左右に自在に操り、軽々と敵軍中を駆け抜ける。目指すのは、『及時雨 宋江』の旗印である。
呂方と郭盛が繰り出す画戟を、董平は両手の槍で次々に受け止めた。その頬には微笑さえ浮かんでいる。
その時、呂方は雅びやかな調べを聞いた。
関々とつれなく雎鳩は 河の洲に
窈窕たる乙女こそ 君子のよき逑れ
(歌っている!!)

董平は左右に呂方、郭盛の画戟を受け流しながら、『詩経』の「関雎」に節をつけて口ずさんでいた。
求めても得られねば 思いの明け暮れ
悠なり 悠なり 夜もすがら寝返りする
呂方は圧倒された。
それは、他ならぬ彼が憧れ続けた“英雄”の姿であった。
董平の槍が一閃し、呂方の画戟を弾き飛ばした。
「梁山泊に人はおらぬのか」
董平は槍を握り直した。呂方の戟を左に受ける。郭盛が右を衝く。対影山で三十九日戦い続けた二人の男は、息を合わせ、鏡に映したように相似形の動きをした。
二本の画戟を巧みに受けつつ、董平は槍を短く握った。二人の敵との距離が縮まる。董平は一瞬の機会を狙った。左右に一撃で突き殺すのだ。しかし、呂方、郭盛もそれを察し、容易には勝負を仕掛けなかった。
その時、城から撤退の銅鑼が轟き、董平のもとへ伝令が駆けつけてきた。
「造船所に梁山泊の襲撃!! すぐに造船所へ向かい、撃退せよとのご命令です」
「やはり、こいつらは囮か」
董平は馬首を城へ向けると、二本の槍を左右に振るった。その一撃で呂方、郭盛は大きく弾かれ後退した。董平はその一瞬に馬を走らせ、戦場を後にした。無人の野を行くごとく、道を遮るものはない。
事実、董平の眼にはすでに梁山泊の雑兵など映り込んではいなかった。
董平は東平府に向かって馬を馳せた。兵を収容しようと城門が開くのが見えた。その時である。董平は突如、馬を返すと、梁山泊軍に向かい直った。そして、そのまま董平は追撃してくる梁山泊軍へと突入した。ふいをつかれ、梁山泊軍は動揺した。董平は真っ直ぐ宋江へ向かっていく。遮ろうとする兵が薙ぎ倒され、次々と突き落とされた。

鬼神のごとく、董平は道を戦場に一筋の道を斬り開いていった。華麗にして冷酷。圧倒的な力である。たった一人の董平のために、もともと老弱兵だったとはいえ三千の梁山泊軍は潰走を始めた。郭盛の声が響いた。
「“宋江”殿を守れ!!」
宋清は戦に出るのは初めてである。迫り来る董平が、巨人のごとく大きく見えた。宋清は馬首を返そうと手綱を絞ったが、馬が言うことを聞かない。
(──兄さん!!)
脳裏に、兄の顔が浮かんだ。
(兄さんは、いつもこんな恐怖を耐えていたのか)
孔兄弟が宋清の両脇へ駆けつけ、手綱を引いた。
「早く後方へ!!」
ようやく走り始めた馬の上で、宋清は顔を上げた。
彼方に董平が見えた。董平は一瞬、“宋江”に微笑むと、再び馬首を返し東平府へ向かって引き返していった。
“風流双槍将”董平、またの名を“董一撞”──「一撃の董」。
まさに沈まんとする夕日が、戦場を真紅に染めていた。
董平は、今しも閉じられようとする西門から城市に入った。
造船所へは、城市を横切り、東門から出ていけば近い。しかし、董平が向かったのは東門ではなく、東平府の役所──程万里の屋敷であった。
黄昏の風の中を、董平は歌いながら駆け抜けた。
窈窕たる乙女こそ 君子のよき逑れ
程万里の屋敷にも、造船所が梁山泊に襲われたという知らせが次々とやって来ていた。
程万里は童貫が出馬の際には、援軍を出すよう厳しく命じられていた。彼が宣贊の求めに応じたのは、関勝軍の動きを掴み、童貫に報告するためである。三百隻の戦船は、初めから童貫に協力するため造る予定であったものだ。
童貫が明日にも到着するという報せは、すでに東平府に届いている。
程万里は董平が戻って来たのを見ると、苛立った様子で命じた。
「何をしている、すぐに造船所へ向かうのだ。一隻たりとも梁山泊に渡してはならぬ。これは童閣下直々のご命令なのだ!!」
程万里の栄達は、すべて童貫の心ひとつでなし遂げられたものである。童貫の機嫌を損ねれば、彼の地位など風前の塵よりも軽々と消えてしまうのだ。
しかし、董平はその場を動かなかった。
「囮の軍に東平府を襲わせるとは、周到な作戦だ」
文官である程万里は軍事に疎い。董平の言葉の意を察しなかった。
「関心している場合ではない。早く造船所へ行かぬか!!」
卓を叩き、程太守は眉を顰めた。
「董平、お前は何を笑っているのだ」
「──御令嬢をいただきたい」
「なに」
「程太守、あなたの栄達も、今日で終わりだ」
董平は夕闇迫る窓辺に立ち、程万里に振り向いた。卓上に灯された火が、端正な横顔にあやしく揺れた。
「梁山泊の作戦は周到だ。今さら造船所に行って、間に合うものか。船を奪われ、童閣下の命令を違えた──あなたは、終わりだ」
董平は同情を込めた眼差しで程万里を見た。
「しかし、安心されるがいい。この董平が梁山泊を討ち果たせば、私の手柄は、あなたの手柄だ、舅殿」
董平は窓の外へ目をやった。黄昏も、もう終わりつつあるようだった。
「賊どもの首をとって戻るまでに、婚礼の準備をお願いしよう」
董平は颯爽と部屋を出ていった。
関々とつれなく雎鳩は 河の洲に
窈窕たる乙女は 君子のよき逑れ 吟じる声が遠ざかっていく。
ひとり残された程太守は、残照の中で冷やかに笑った。
「終わるのは……董平よ、お前のほうだ」
西の地平へ、ぼんやりと輝く太陽が沈んでいく。
「本当に童枢密が出陣するのか」
“神火将”魏定国は凌州軍を率い、青州軍を率いる豊美のとともに、童貫軍を目指して南下していた。
彼が関勝から受けた命令は、晁蓋の喪があける日──すなわち戦闘が再開される日まで、林冲ら梁山泊の主力軍を梁山泊の外に足止めしておくことだった。それが、欧鵬ら三山の賊や、北京の“急先鋒”索超の出現で、阻止するどころか敗走した。
魏定国は凌州軍ととにも啄鹿原から撤退し、間もなく、遅れて潰走してきた青州軍が合流した。関勝のもとへ復命しようとする魏定国に、豊美が枢密院からの命令を伝えた。
梁山泊征討のため、新たに東京から三万に及ぶ水陸の大軍勢が送られてくる。総司令官は童貫、豊美は青州軍を率いて、その官軍と合流するべく出陣したものだった。
「関勝所属の将兵も、すべて童貫の直属となり、その派遣将校によって統括されることになったと聞く。すなわち、貴殿もだ。命令違反は許されぬ」
再三の督戦にも関わらず、関勝は三月もの間、不戦を保った。その理由が、敵の首領の喪だという。朝廷には、関勝に対する疑念の声が高まった。折りしも、北京の梁中書から、北京城を包囲した梁山泊軍の中に関勝、宣贊、赫思文を見た──という報が届いた。
それは北京を陥とさんとする梁山泊の策であり、関勝も“美髯公”朱仝の変装であったのだが、朝廷には真偽を確かめる術はなかった。
朝廷では童貫派を中心に、すぐさま関勝を罷免し、謹慎中の枢密使・童貫を復帰させて梁山泊軍討伐にあてよという意見が巻き起こった。
とうてい魏定国に納得できる話ではない。
「関将軍は、確かに三月、戦わなかった。しかし、ただ手を拱いていたのではない。事実、俺はこうして出陣しているではないか」
「だが、これは勅令なのだ」
豊美が宥めるように勧めた。
青州軍は啄鹿原の戦いで半分以上の兵を失っていた。戦わずに撤退した凌州軍は、二千余を温存している。豊美としては、敗残の僅かな兵を率いて行くより、凌州の兵を加えて一応の陣容を保ち、かつ魏定国と責任を分かち合いたいという気持ちがあった。
「よくあることではないか、魏将軍。まずは共に来たほうがよいぞ」
豊美が馬に鞭を当てた。
太陽は西の空に沈みつつある。
「急ごう。二月一日までに本隊に合流せよとの厳命だ」
董平は東平府軍を率い、造船所めざして駆けた。
従う東平府軍は三千騎。みな松明を掲げている。金色の火の粉が黄昏に星のように散っていた。
彼方に造船所を焼く黒煙が見えていた。あたりは開けた荒野である。右手に小さな廃村があった。
と、董平の前に、忽然と三人の女将が飛び出してきた。董平は手綱を引いた。
“一丈青”扈三娘は、“母夜叉”孫二娘、“母大虫”顧大嫂とともに董平の前に立ちはだかった。東平府から造船所へ援軍が来ることを予想し、女将たちは造船所を夫たちに任せ、千の女兵を率いて待ち構えていたのである。芸妓やおかみに変装していた三人は、みな艶やかに化粧し、結い上げた髪に金簪、瓊花を飾っていた。
「女か。梁山泊にはいよいよ人がいないらしい」
董平は相手にせず、そのまま娘軍中を一気に駆け抜けようとした。扈三娘は日月両刀を引き抜いた。
「お相手していただけないかしら」
「あいにく俺は急いでいる。女を相手にしている暇はない──そこをどけ」
「それは残念だわ」
すれ違いざま扈三娘の鉤絹が飛び、董平の髷から花をもぎ取った。花簪は麗芝と婚約の証に交換したものである。扈三娘は艶やかに笑い、花を自分の髪に飾った。
董平は馬を返すと、扈三娘に討ちかかった。 「気が変わった。相手してやろう」

董平の双鎗を扈三娘の日月二刀が受け止める。返す槍を、扈三娘はさっと身を翻してやりすごした。
孫二娘が兵隊を斬り伏せながら声をかけた。
「お嬢さん、助太刀しようか」
「ありがとう、私一人で十分よ」
董平にとって、戦う女ほど無粋なものはない。槍が扈三娘の顔を襲った。扈三娘は巧みに馬を御してそれを避けると、馬首を返して逃げ出した。すでにあたりは乱戦である。娘子軍は、花に群れる蝶のように東平府軍を襲う。美しく微笑む女しか知らぬ董平には、異様な光景であった。
一瞬、目を奪われた董平に、扈三娘は振り向きざまに鉤絹を放った。董平は鞍に伏せて鉤絹をかわした。
「待て、女!!」
董平は再び扈三娘を追った。扈三娘は荒野を駆け抜け、廃村に逃げ込んだ。董平とともに数騎が追った。その時、董平の前を走っていた馬がふいに倒れた。
「罠か!!」
家と家の間に張られた縄を、董平は大きく手綱を絞って跳び越えた。着地するとともに廃屋の陰から女兵たちが飛び出して、董平たちを取り囲んだ。董平の部下は次々と討ち取られていった。
董平は馬首を返した。行く手を阻む牽馬索を飛び越え、娘子軍を蹴散らして、そのまま村の反対側へと抜けた。すると西から新手の東平府軍が来るのが目に入った。
董平は手を振った。
「よいところへ来た」
董平が援軍に合流すると、顔見知りの部将が駆け寄ってきた。
「董都監」
「なんだ」
董平はふいに四方から縄をかけられ、馬上から引きずり下ろされた。
「なにをする」
「梁山泊と通じて造船所を引き渡した罪により、捕らえよという程太守の命令だ」
董平の怜悧な頭脳は、すぐに悟った。
「あの男──俺を売ったな」
程万里は船を失った罪を董平ひとりになすりつけ、童貫に許しを請おうというのだ。董平は縛り上げられ、首枷を嵌められた。
“母大虫”顧大嫂を先頭に娘子軍が乱入したのは、その時であった。
「そら、いいものをあげる」
顧大嫂は懐から梨ほどの玉を取り出すと、部将の前に投げつけた。凌振の新作“万天雷”である。火薬玉は地面に当たって炸裂し、すさまじい火柱を吹いた。もうもうと砂煙が立ち込める。東平府軍はたちまち勇猛な女兵たちの餌食となった。“母夜叉”孫二娘が女兵を指揮して、次々と捕虜を縛り上げていく。その中に、色白で肉付きのよい男が二人、身を寄せ合うようにして震えていた。
「美味しそうな“饅頭”だね」
孫二娘がにっと笑うと、二人の男は悲鳴を上げた。
「違う、我々は兵ではない」
「我々は童閣下の使者だ。手出しをすれば、たいへんな目に遇うぞ」
扈三娘が二人に刀をつきつけた。
「童貫の使者が、なぜこんな所にいるの?」
使者たちは慌てて跪いた。
「我々は軍使ではありません。童家の者です。程家へ結納の品を届けに行き、董平逮捕を見届けるよう、程太守から頼まれただけなのです」
董平の顔色が、さっと変わった。使者は夢中で喋り続ける。
「程太守の令嬢は、かねてより童閣下の甥御とご婚約されております。ですので、この機会に結納の品を届け、閣下が東京に凱旋する際、令嬢を伴おうとのご意向です。我々は、この戦とはなんの関係も──」
董平は、血が冷えていくのを感じた。
(たばかったな──程万里)
その顔にはいつもの笑みはなく、ただ一条の残照が、冷やかな眸の上に差し込んでいた。
闇が次第に濃くなっていく。
梁山泊の北方で、東昌府軍と梁山泊軍の戦いは続いていた。
梁山泊軍の疲労は極に達している。敏捷な東昌府軍に翻弄され、すでに隊列を保つこともできなかった。
一刻もはやく梁山泊へ──その思いだけが人々を動かしていた。
その時、ふいに東昌府軍の背後が乱れた。突如、異形の兵が戦場へ乱入してきたのである。“八臂那托”項充、“飛天大聖”率いる芒湯山の兵であった。“八臂那托”項充は飛刀で戦場を切り開き、林冲のもとへ走った。
「梁山泊へ、急がれよ」
項充は南の空を指さした。
戦場に林冲の声が響いた。
「進める者から前へ進め!! 梁山泊へ戻るのだ!!」
林冲、楊志が先に立って道を作った。追おうとする張清の前を、盧俊義が遮った。“美髯公”朱仝も“挿翅虎”雷横に目配せすると、左右から張清に立ち向かった。その前に張清の両翼をなす“花項虎”共旺、“中箭虎”丁得孫が立ちふさがった。二人の張清を崇めること神のごとくであり、一歩も張清には近づかせぬという気迫が立ちのぼっている。
盧俊義に群がっていた雑兵が散り、その一毫の隙をついて張清が飛礫を放った。身を捩じって避けた盧俊義の体勢が崩れた。丁得孫が馬を躍らせ、鎗を構えた。
燕青は咄嗟に腰に吊った弩を取った。放った矢は丁得孫の馬の耳を射抜いた。驚いて棹立ちになった馬から丁得孫が振り落とされる。共旺が丁得孫のもとへ走った。燕青は駆けた。盧俊義の呼ぶ声が、聞こえたような気がした。
「──燕青!!」
燕青は走った。その肩を、項充が掴んだ。
「ここは任せろ」
項充は馬腹を一蹴した。
すでに張清は戦場から離脱し、林冲ら梁山泊騎馬軍を追っている。共旺、丁得孫も朱仝、雷横の挟撃を抜き、張清の後に続いた。項充は張清を追いかけた。その途上に、丁得孫が短扠を構え、項充を待ち受けていた。
(俺に接近戦を挑もうというのか)
項充はそっと飛刀を握った。
項充は二十四本の飛刀を背負う。そのあだ名の“八臂那托”とは、一度に八本の飛刀を投げるゆえである。その狙いは万に一つも外すことはない。
(俺に触れることはできない──近づく前にお前は死ぬ)
項充が飛刀は構えた。その時、丁得孫が短扠を持つ腕を大きく振りかぶった。
(投げるのか!!)

丁得孫は一本の武器しか持っていない。それを投げれば、もう武器はない。飛刀を使う項充は、丁得孫が唯一の武器を投げるなど思ってもいなかった。
丁得孫が得意とするのは、短扠ではなく飛扠だったのである。飛刀に比べ、飛扠の飛距離は長い。
(──不覚)
項充は丁得孫の飛扠を左足に受けて馬から落ちた。
丁得孫は項充が落馬をしたのを見届けると、また張清の後を追いかけていった。林冲ら騎馬軍はすでに地平線まで去っている。張清の軍は速度を上げた。
そこへ、伝令が駆けつけてきた。東昌府からの急使である。
「東昌府が襲われました。すぐお戻りを!!」
東昌府は、城の守備兵まですべてここに投入している。襲われればひとたまりもない。
張清はすぐさま東昌府へ向かった。日はまさに西の地平に沈もうとしている。
呼延灼は、迷っていた。
夕餉は終わり、外は静かだ。関勝の陣営に来て以来、呼延灼は宿舎に軟禁されていた。外の状況は分からない。二度と関勝と会うこともなかったし、出入りする兵卒も戦闘の話は一切、禁じられてるようだった。
ただ、今日が晦日──今夜が約束の夜だということだけは分かった。しかし、何事もなく一日が過ぎ、黄昏となった。呼延灼は寝台に腰掛け、待った。
約束は真夜中だ。ここは梁山泊の最南端で、梁山までは距離がある。小舟で出れば、暗くなってからでは間に合わないかもしれない。
思わず席を立とうとした時、関勝が現れた。
「お待たせした」
関勝は、呼延灼を外に誘った。久しぶりに外に出ると、兵士たちはもう寝る準備に入っているのか、人影も少なく、ひどく静かだった。
静まり返った黄昏の岸辺で、一隻の小舟が二人を待っていた。古びた漁船で、艫に立てられた竿竹には赤い提灯が下げられている。櫓を握るのは、笠を目深に被った老爺だった。
まず関勝が乗り込み、続いて呼延灼が乗って舳先に座った。狭い舟の中で、二人は向かい合った。すぐに小舟は湖に出た。
宣贊、赫思文はおろか、関勝は護衛も連れていなかった。船上には、ほかに枯れ木のような老船頭がひとりいるだけだ。
それが却って呼延灼を不安にさせた。
書物を手に、関勝は泰然と座っている。薄れていく黄昏の残照が、湖上に紅の波を立てていた。

梁山泊を出奔する時、呼延灼は凌振に命じた。
“閏一月晦日。深夜。篝火を焚いて、南方より射程に入る舟あれば──そこに誰が乗っていようと、それを撃て”
“武神”関勝さえ死ねば、梁山泊に勝機はある。そのために、呼延灼はこんな回りくどい手を使ったのだ。しかし、今ならば、凌振の一撃を待たず関勝を殺すことができる。
関勝は提灯の灯で書見している。
呼延灼は船縁に添えた腕に力をこめた。
(舟を覆せば、我らは水に落ちる。あとはわしが力ずくで関勝を水底に引きずり込めばよいだけだ)
その有り様が、呼延灼の脳裏を過った。
刃も持たず、馬にも乗らず、戦いもせずに──無様に溺れ、沈んでいく己れの姿を思った。
呼延灼は、恥じた。
呼延賛の裔、“軍神”と呼ばれた自分が、なぜ、このような卑劣なことを考えねばならないのか。
恥という感覚は、呼延灼の人生にはかつて一度も存在したことのない感情だった。
彼は、天にも地にも、誰に対しても恥ずべき行いをしたことはない。
敵を騙すことはある。策を弄することはある。それらはすべて、戦いに勝つための“方法”であり、彼が恥じるべきいわれはなかった。
しかし、今、呼延灼は卑劣な自分を恥じ、この関勝という男を騙していることを、恥じずにはいられなかった。
胸に刻んだ『赤心殺賊』の文字が痛んだ。
彼は確かに梁山泊に降った。しかし、自分は賊ではない。梁山泊は賊ではない──と、そう思ってきた。ならば関勝は賊か。
呼延灼と関勝と、一体、どちらが賊なのだ。
その時、船が揺れたはずみに関勝の手から『春秋』が船底に落ちた。呼延灼は我に返り、足元に落ちた本を拾った。
関勝に返そうとすると、自然と本の頁が開いた。そこに書かれた文字が、呼延灼の目に焼きついた。
『──子(なんじ)は、ここで死ぬべし』
呼延灼は、なにかで殴られたような衝撃を受けた。
“子(なんじ)は、ここで死ぬべし”
小さな篝火が揺れる。
関勝は礼を述べて本を受け取り、再び視線を文字に落とした。
頁を捲るかすかな音が、昏い湖面に吸い込まれていった。
宣贊と赫思文は、並んで闇に覆われていく湖を眺めていた。関勝と呼延灼を乗せた船は、もう視界から消えている。
宣贊たちは、陣に残る兵とともに、このまま童貫の到着を待つ。一万の兵の殆どは、単廷珪に従って水上から梁山泊を襲うべく北冥へ派兵されている。ただ千あまりの傷病兵と老弱の兵が、梁山泊の目を引きつける囮として陣に残っていた。
黄昏の中で、主を失った陣はしんと静まりかえっている。
ずっと黙っていた赫思文が、ぽつりと言った。
「関兄が決めたことを、覆せる者などいない」
「──そうとも」
宣贊は怒りを押し殺した声で言った。
赫思文の、常になにもかも悟り、受け入れたような顔が、今ほど腹立たしいことはなかった。
「死ぬ気ならば、死ねばよい。我々は、死ぬ時はともにと誓った。関兄が死ぬ時は、我々もともに死ねばいいのだ」
二人の間を、かすかな風が吹き抜けた。
「──いいや」
真っ直ぐに前を見つめたまま、赫思文が常ならぬ強い口調で言った。
「我々は、ともに生きるのだ」

宣贊は、驚いて友の横顔を見た。心優しく、常に人の意を汲もうとする赫思文が、そのように決意を込めて言うのを、宣贊は聞いたことがなかった。
赫思文は、湖を見つめたまま言った。
「何が起ころうと、望みはある。我々には兵があり、また官軍も来る。今夜、何が起ころうと──我々は、生きるために戦おう」
宣贊はようやく気づいた。赫思文は、彼のように行き場のない虚しさ、怒りに沈黙していたのではなかった。ずっと、そのことを考えていたのだ。
関勝が軍を去る契機となった、最後の戦い。密林の決戦で、三人は義兄弟の契りを結んだ。
同年同月同日に生まれることはかなわずとも、死ぬ時はともに死のう。
あれは、死ぬことを覚悟したうえでの誓いではない。三人がともに倒れる時まで、生き続けようという誓いではなかったか。
「あの時、関兄は──お前に生きろと言ったのだ」
眼が合うと、赫思文は笑った。いつもの、穏やかな微笑みだった。
そして、その笑みの下に、誰よりも強く、熱い心を秘めていた。それが、赫思文という男であった。
「我々は出来ることをしよう。梁山泊の眼をこの陣に引きつけ、単廷珪の作戦を援護する。童枢密の船団が到着すれば、それに同乗して梁山泊を攻め、関兄を救おう」
「──赫思文」
宣贊は静かな感動を覚えた。はじめて赫思文という男を知った気がした。
二人は明星の下で手を握った。
そこに馬蹄の響きが近づいていた。彼方に真紅の旗が見えた。
「あれは、魏定国ではないか」
闇の中から現れたのは、魏定国、そして豊美の軍であった。青州と凌州を集めて四千人ほどの軍勢を連れていた。
「魏将軍、無事だったか」
二人が魏定国に歩み寄ろうとすると、豊美が間を遮るように馬を進めた。
「関勝はどこだ」
馬上からの高圧的な物言いに、赫思文は不穏なものを感じながら、努めて平静に答えた。
「関将軍は、宋江と会うため湖上に出られた」
「賊の首領と会うといのか。関勝が賊と通じているというのは、やはり本当だったのか」
「なにを仰る!! 関将軍は──」
赫思文の言葉を待たず、豊美は背後の兵に命じた。
「この者たちを捕らえよ!!」
たちまち二人は武装した兵に取り囲まれた。宣贊が豊美に迫った。
「どういうことだ」
「関勝が賊と通じ、謀叛を企んだ──と証言するだけでいい。それで、お前たちは許される」
宣贊と赫思文は縄をかけられ、首枷を嵌められた。
護送車に放り込まれ、宣贊は、彼らの逮捕は初めから予定されていたのだと悟った。童貫は手柄を独占するために、どうあっても関勝を罪に陥れる気だったのだ。
関勝は、あるいはそのことを知っていたのかもしれない。関勝が罪に問われれば、その副将である宣贊、赫思文が罪を免れうるわけはない。だから、関勝は、彼らに童貫の麾下に入るよう命じたのだ。そうして二人には罪が及ばないよう図ろうとした。
(──関兄!!)
連行される二人の上に、黄昏の星がやはり無情に輝いていた。
湖の上は、静かだった。
「また霧が出て参りましたな」
櫓を握る老人が呟いた。石碣村の漁夫である。このような霧は珍しいと言った。
水面を淡い霧が流れていた。あたりは鬱蒼と繁る葦原で、複雑な迷路になっている。
「灯を」
呼延灼は提灯を取って水面にかざした。
「“浮き”があろう。その赤い色の物が浮いている水路を行くのだ」
船は静かな水音をたて、葦の迷路を進んでいった。関勝は書見している。
「真夜中までは、まだ間があろう」
呼延灼も座った。夜が更け、しだいに寒さがつのる。
やがて、舟は葦原を抜けた。
遠い空に、星空を切り取るように梁山の峯が聳えていた。
今夜は星が多かった。珍しいほど、たくさんの星が輝いている。
その星空から、なんの悪戯かひとひらの雪が散った。
老漁夫が皺に覆われた顔で笑って言った。 「春が来る前には、必ず、いちど雪が降る」

小さな雪を、呼延灼は手のひらに受けた。
雲が雪となり、水に消えていくように、今夜、なにもかも、この湖に還り──消えるのだ。呼延灼は、かすかに笑った。
「これが、最後の雪になるだろう」
梁山泊に訪れる春を、呼延灼が見ることはない。
関勝と呼延灼を乗せた船は、静かに梁山に向かって進んでいく。
やがて、梁山の岸のあたりに、ぽっと赤い光が灯った。
***
「──ああ」
“轟天雷”凌振は嘆息した。
ついに、今夜になってしまった。
火砲を撃つのは何より楽しい。しかし、初めて気が重かった。
かつて、東京にいた頃は、天子や后妃たちの楽しみのため、しばしば花火を打ち上げさせられた。凌振には、それが我慢ならなかった。戦場で敵の城に向け、思うさま火砲を撃ちたかった。梁山泊にやって来たのも、思う存分、火砲が撃てると思ったからだ。
今は、打ち上げるのが花火ならば、どんなにいいだろうかと思った。
凌振は、慎重に秘蔵の火砲にとっておきの火薬を装填した。指が震え、火薬が零れた。凌振は舌打ちした。思わず砲身を拳で殴った。
「しっかりせんか」
凌振はもう一度、ゆっくりと火薬を詰めていった。その手元に、影が差した。
「おい、灯を遮るな」
凌振は不機嫌に振り向いた。そして、ぎょっとして目を瞠った。
「──呉先生」
篝火の前に、白羽扇を手にした軍師・呉用、そして、“青眼虎”李雲の姿があった。
砲弾を落とさずに済んだのは、僥倖であった。
***
呼延灼は、遠く揺れる炎を見つめて言った。
「詫びねばならないことがあります」
船は、すでに射程に入っている。
関勝がゆっくりと顔を上げ、呼延灼に目を向けた。
「なにかね」
「我々を──“轟天雷”凌振が狙っています」
呼延灼は、“戦場”にいるのを感じた。かつて、これほどの緊張を強いる戦いをしたことはない。
しかし、関勝はなにも答えず、水面に視線を戻した。
「将軍よ、──詫びる必要はない」
穏やかに言った。
「我々はともに“一不義を行い、一不辜を殺して、而して天下を得るを成す”者なのだ」

呼延灼は愕然とし、はっと息を呑んだ。
“一不義を行い、一不辜を殺して、而して天下を得るを成す”
ひとつの不義を行い、ひとりの罪なき人を殺して、天下をやすんずる者──。
呼延灼は、はじめて関勝が微笑するのを見た。
北冥。
関勝が指揮官の任を解かれた──童貫からの伝令は、北冥の水と泥濘に遮られ、単廷珪のもとに至ることができなかった。
単廷珪は、不思議な気持ちだった。
今夜、彼は“聖水将”の名を得てからはじめて、その信念を変えるのだ。
自分は水で戦う男である──という信念である。
単廷珪は、手に火種を持っていた。魏定国から託された火口である。この火とともに、彼は魏定国からすべての必要な指示を得ていた。
梁山泊の湖と北冥の水庫を隔てる氷壁に火薬を仕込み、それを爆破させるための指示である。喪があけると同時に、単廷珪は氷壁を崩し、梁山泊へ侵攻するのだ。
梁山泊に気取られぬよう、暗くなるのを待ってから、単廷珪は北冥に通じる水庫の堤防を開いた。水が引き、もとの泥沼となっていた北冥に、静かに水が満ちていく。
二更までには、梁山泊へ繋がる水路まで水が達するだろう。そうなれば、氷の壁まで船が自在に近づける。そして、火薬により氷の堤防を決壊させれば、水は北冥から梁山泊に向かって怒濤のように流れて行くのだ。
関勝軍一万五千のうち、魏定国軍を除く一万余が北冥に集められていた。さらに東平府の船三百隻が合流する手筈になっている。自軍の船に、梁山泊から奪った船が、大小の船を合わせて五百余隻。一気に攻め、梁山に上陸、制圧する。
関勝から与えられた命令は、ただひとつ。
「晦日の夜、梁山泊から一発の砲声が響くのを聞くだろう。それが、開戦の合図である」
関勝が宋江との会見に、単身、梁山泊へ赴く──ということは、赫思文から聞いていた。梁山泊の目を自分に引きつけた隙に、梁山泊軍の背後を衝け。それが、関勝の命令であった。
見上げると、恐ろしいほど多くの星が輝いていた。

関勝は闇の彼方を見ている。
「──なぜ」
呼延灼には分からなかった。
講和の申し出が偽りであり、呼延灼が凌振に自分たちを撃たせると見抜いていたのなら、なぜ関勝はやって来たのだ。
「なぜ、罠と分かって、この船に乗ったのです」
関勝は、夜空を見上げた。
そして呟いた静かな関勝の言葉は、呼延灼の心に恐ろしいほどに響いた。
「わしは、あの戦いで──死ぬべきであった」
かつて、国防の名の下に行われた戦いで、彼はひとつの民族を滅ぼした。人はそれを“勝利”と呼んだ。
しかし、関勝の人生において、それは拭いきれない敗北の汚点であった。
古人は断じた。
『春秋に義戦なし』
どのような正義を振りかざしたとて、正しい戦などはない。
それを学舎で暗唱しながら、人は戦を繰り返す。
関勝も、その一人であった。将として、出陣したからには勝つ。それが、唯一の義務であると信じていた。今もまた、それは関勝の軛であった。
その軛から、関勝は逃げるつもりはない。
「この戦、官軍が勝つであろう。そして、梁山泊は、滅ぶ」
ただ、それは虚しい軛であった。
関勝は、武神と呼ばれた。
武とは“戈を止める”こと──戦いを終わらせることだ。
しかし、彼の戦いは、果てし無かった。勝つほどに、また次の戦場へと駆り立てられた。
戦いは、いつ終わるのだ。
彼の戈は、いつ止まるのか。
彼が人に向けた戈は、永遠に人を殺し続ける。
それなのに、自分自身の心へいかに罪の戈を向けようと、死ぬことは叶わない。
一将、功なって万骨枯る──功とは罪の別の名だ。
ならば、罪は償わなければならぬ。
「大刀を下ろし、戈を収める時が、ようやく来たのだ」
関勝は、命を捨てて梁山泊を守ろうとする呼延灼に敬意を表した。関勝には、捨てるべき命はあっても、守るべきものは何もない。
「わしは、あなたと共に此処で死のう」

関勝は今夜、ようやく再び星を美しいと思う安らぎを得た。
「──子は、ここで死ぬべし」
静かな眼差しを呼延灼へ向けた。
それが、呼延灼の問いに対する、関勝の答であった。
“子は、ここで死ぬべし”
呼延灼には、それだけで十分だった。
関勝と、呼延灼。
死に場所を求めた二人の男──彼らは共に、神ならぬ、迷える男たちであった。
「──呼延灼将軍よ」
関勝は『春秋』を閉じ、水に落とした。
「あなたの息子は、赫思文が立派な人間に育てるだろう」
本がゆっくりと漆黒の水に沈んでいく。
呼延灼は笑った。
それは自嘲でも後悔でもなく、心の底から静かに湧き上げた微笑であった。
空を仰いだ。
(梁山泊の命運、尽きたり──!!)
※文中の『彭己』は、正しくは です。
※文中の『井木扞』は、正しくは です。
※文中の『赫思文』は、正しくは です。
※文中の『啄鹿原』は、正しくは です。
※文中の『豊美』は、正しくは です。
※文中の『芒湯山』は、正しくは です。
※文中の『八臂那托』は、正しくは です。
※文中の『共旺』の表記は、正しくは です。
|