水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第七十八回
梁山泊編
帰還


  
 梁山泊軍と官軍は啄鹿原に入り乱れ、喚声が空を覆い尽くした。
 索超は五百騎の北京軍を率い、啄鹿原の北を流れる済水を渡って戦場へと突入した。前方には、梁山泊の本隊から突出した林冲軍の姿が見える。
「白衣の男!!」
 林冲の部隊はわずか五、六十騎、索超は一気に襲うべく速度を上げた。
 すぐに、索超は前方に官軍がいるのに気がついた。たなびくのは、『凌』──凌州の旗である。
(なぜ凌州の軍がいる)
 その時、右手に鯨波が上がった。
(伏兵か!!)
 西方から押し寄せるのは、明らかに賊軍である。すでに先頭の姿が見分けられるほど接近していた。



 それこそ、“飲馬川”軍、その数はおよそ一千。先頭を駆けるのは異形の男──“火眼俊猊”登飛である。鉄鏈を振り回し、白毛の獅子頭をなびかせている。率いる手下たちもまた、奇毛を飾り、獣皮に身を包んでいた。
「こうなったら誰でも構わん!!」
 索超は金燦斧を諸手に握ると、まっすぐに異形の群へと突っ込んだ。
 それを見た魏定国は目を瞠った。
 彼は関勝の命令で啄鹿原の西端に布陣し、梁山泊軍を陥穽ヘ誘う囮となるべく待ち構えていた。率いるのは凌州軍二千。彼らには今、前から林冲軍、背後からは“摩雲金翅”欧鵬率いる“黄門山”軍が迫り、挟撃される形となっていた。
 その危機に、済水の彼方から忽然と官軍が現れたのだ。その旗印は北京軍──官軍ならば、味方である。それが、こちらに向かって疾走してくる。彼らの目指すのが、この凌州軍ヘ向かって来る林冲軍であることは間違いなかった。
 これで、背後の敵に当たれる──そう思ったのは早計だった。北京軍は、突如、西から現れた登飛軍に襲われ、そのまま戦いながら南へ──魏定国の仕掛けた陥穽に向かって疾走して来るではないか。
「いかん!!」
 魏定国は軍旗を振らせた。
「こっちへ行るな!!」



 魏定国は索超に向かって叫んだ。
 凌州軍が仕掛けた陥穽は二十余り。梁山泊軍の進路を遮るため、啄鹿原を南北に貫くように仕掛けられている。その北端の陥穽へ、林冲軍は東から、索超軍は西から突き進む形となっていた。
「陥穽だ──よせッ!!」
 しかし、魏定国の声は戦場の喧騒に虚しく呑まれた。
 索超の馬が柔らかい土に踏み込んだ。手綱を引こうとした途端、眼前の地面が火を噴いた。索超は棹立ちになりかけた馬を巧みに御して、炎を避けた。その前にまた火柱が立った。火口と火薬を組み合わせて作った魏定国の地雷である。次々と噴き上がる炎を避け、北京軍は迷走した。隊型は崩れ、次第に密集していった。
(罠か!!)
 彼方に凌州軍の旗が大きく振られているのが見えた。
 索超は、赤鎧の将が何かを叫ぶのを聞いた。振り向こうとした瞬間、索超の足元から地面が消えた。そのまま索超は馬ごと落とし穴に転がり落ちた。その上に後続の兵が数珠つなぎになって落ちてくる。
「こんな所に穴を掘った野郎は誰だ!!」
 索超は折り重なる馬と人間の間から這いだした。見上げれば、二、三丈の深さがあろうかという陥穽である。索超は馬の背を踏み台に、陥穽の壁を上り始めた。しかし、壁は滑らかで重い甲冑をつけた索超は登っては何度も滑り落ちた。
「梯子を組め!!」
 索超は動ける部下たちを壁際に並べると、一番大きな男を土台にして肩の上に次の兵を立たせ、その上にまた立たせて、その体を踏んで登って行った。
(あと一歩)
 腕を伸ばした索超の上に、突然、あの獅子頭の男が落ちてきた。
「うおッ!!」
 索超は獅子頭の男ともつれ合いながら、再び落とし穴の底へ転がり落ちた。その頭上から続々と異装の賊軍が降ってくる。彼ら“飲馬川”軍もまた、魏定国の仕掛けた炎に追われ、この陥穽に導かれて来たのである。巨大な落とし穴の底で、索超率いる北京軍と登飛の飲馬川軍は蟻地獄に落ちた虫のように折り重なった。



 林冲の目前で、北京軍と飲馬川軍は忽然として姿を消した。
「落とし穴か!!」
 林冲は咄嗟に馬首を川へ転じた。“神火”“聖水”の二将を擁する凌州軍は、伏兵として知られた軍だ。うかつに進めば、他にどんな罠があるか知れない。
「迂回しろ!!」
 林冲は済水の岸まで大きく迂回した。落とし穴は梁山泊軍の進路上を遮るように掘られているはずだ。しかし、石と泥濘の河岸に落とし穴は作れない。
 その時、林冲に従っていた“鉄笛仙”馬麟の鉄笛が鳴り響いた。合図である。
 鉄笛の音色に応えるように、空に黄金の鷹が舞う。
 魏定国は背後を振り向いた。凌州軍の背後には、欧鵬率いる“黄門山”の賊軍一千が、すぐそこまで迫っていた。



 かつて“摩雲金翅”欧鵬と“鉄笛仙”馬麟は、“神算子”蒋敬、“九匹亀”陶宗旺とともに“黄門山四怪”と呼ばれた同胞である。欧鵬には、馬麟が鉄笛の音に託した言葉が分かる。
 今日の音は“邂逅”──“友を迎える調べ”であった。
 伏兵に長ける凌州軍は、その戦法ゆえに兵の大半が工兵である。もはや梁山泊軍を陥穽に誘い込むのは不可能だ。陥穽を迂回して来る林冲軍、背後に迫る欧鵬軍に挟撃されてはひとたまりもない。魏定国は叫んだ。
「反転──敵中を突破せよ!!」



 一方、啄鹿原の東では、秦明率いる精鋭百五十騎が、豊美ら三千の青州軍に向かって駆けていた。
 啄鹿原にて曽頭市と合流して梁山泊を討つ──それが豊美の受けた童貫の密命である。ここで梁山泊軍と遭遇したのは予想外の事だ。交戦の体勢をとらぬうちに、早くも戦闘は始まった。
 梁山泊軍の先頭を駆けて来るのは、かつての青州都統制、“霹靂火”秦明である。狼牙棒を掲げるその姿に、青州軍は浮足立った。
「秦統制!!」
「“霹靂火”だ!!」
 青州軍であるがゆえに、その動揺は激しかった。
「怯むな!!」
 豊美が槍を手に飛び出した。
「連環行を保ち、戦えっ!!」
 馬を躍らせ、秦明は豊美に打ちかかった。
 童貫の腹心の中では、屈指の豪勇をもって知られた男である。兵法にもひとかどの素養があった。槍を振るって狼牙棒に一当てすると、容易には敵しえずと見抜いて、巧みに避けながら後退した。秦明はなお激しく攻めたが、狼牙棒を避けながら下がる豊美に、勝ちを制することができない。
 その間にも青州軍は迎撃の隊形を整えていく。鎬を削る秦明、豊美の脇を駆け抜け、秦明の副将である岩七狼が兵を率いて青州軍へ向かっていった。
「七狼!!」



「分かっております」
 元青州軍都統制“霹靂火”秦明の、武人としての薫陶を最もよく受けたのが“鎮三山”黄信であるならば、その戦法を最もよく会得しているのはこの“独眼”岩七狼だ。
 岩七狼は槍を振るい、かつて自分が掲げていた青州軍の旗の中へ、先頭をきって飛び込んでいく。部下百五十騎が後に続いた。青州から、すべてを捨てて秦明に従ってきた兵たちである。
 青州軍の“連環行”は鎖を繋いだ隊形をとり、変幻自在に姿を変えつつ、容易には崩れない。防御しつつ、進軍、撤退するために秦明が考案した。その“和”を崩すには、死に物狂いの“乱”──決死の突撃しか方法はない。そう副将・岩七狼に教えたのも、秦明であった。
 青州軍はおよそ三千。その堅固な鎖の中へ、岩七狼率いる最精鋭百五十騎が次々と消えていく。秦明は追おうとした。その道を豊美が阻んだ。
「どけ!!」
 秦明は狼牙棒を振り上げた。
「邪魔をするな!!」
 豊美の槍をへし折り、秦明は連環行に向かって駆けた。
 すでに連環行は崩れ始めている。豊美は折れた槍を投げ捨てると、崩壊していく自軍に向かった。秦明は豊美を追った。
 しかし、またしてもその進路を遮ったものがあった。突如、目前に曽頭市の末子・曽昇が単騎、飛び出してきたのである。
 兄・曽塗の非業の死、そして託された亡き母の絵姿に、曽昇の心は乱れていた。我を忘れて陣を飛び出し、戦場をここまで彷徨ってきた。
 あるいは秦明の咆哮が、曽昇を呼んだのかもしれなかった。
 曽昇は一声さけぶと、槍を振りかざして秦明に躍りかかった。しかし、次の瞬間には、槍は狼牙棒の一撃でへし折られ、衝撃で馬が倒れた。曽昇は馬上から放り出され、草原に叩きつけられた。頭上を狼牙棒が襲う。曽昇は目を閉じた。
 その時、二人の間に灰色の影が滑り込んだ。
 曽昇は目を瞠った。
「師兄!!」
 史文恭が秦明の狼牙棒を受け止めたのだ。その乗馬は、照夜玉獅子──曽頭市に残してきたはずの金国王の馬だった。
 史文恭は、晁蓋を殺した中秋の嵐の夜から正気を失い、幽鬼のように荒野を彷徨っていた。曽昇は、彼が今回の戦に同行していることすら知らなかった。
 秦明と史文恭は続けざまに二十余合も打ち交わした。秦明と戦う者は、まず臆す。しかし、史文恭には、すでに心がないようだった。史文恭の虚無の槍は、墓場を吹き抜ける風のようだった。冷たく乾いた槍さばきが、次第に秦明を追い詰めた。
 秦明の首筋を、冷たい汗が流れ落ちた。
 その時、戦場に声が響いた。
「岩七狼殿──御戦死!!」
 秦明が一瞬、型を崩した。史文恭は素早く秦明の背後に馬を回すと、防護のない脛裏のわずかな隙に槍を突いた。



 秦明は膝を貫かれ落馬した。
「いいぞ!!」
 豊美が叫んだ。しかし、それと同時に東側に鯨波が上がり、鳥の尾羽を飾りたてた賊軍が突入してきた。燕順率いる“清風山”軍だった。その数はゆうに千五、六百もいるだろう。先頭に三人の将が飛び出した。“錦毛虎”燕順、“矮脚虎”王英、そして“一丈青”扈三娘──その後に新旧“清風山”の手下が続く。先頭を駆ける燕順の横に、王英が馬を並べた。
「親分っ」
 王英は馬の腹がぶつかりそうなほど近くに寄った。
「おう、王英!! 元気そうだな!!」
「黙って行くなんて、ひでぇ!! なんでおいらを誘ってくれなかったんだ」
 燕順は王英の腫れ上がった顔、そして、その後ろを駆ける扈三娘へ目をやった。
「仲良くやってるか!!」
 扈三娘は馬に鞭をあて、かすかに笑った。



「親分、あなたはいい人だ」
 燕順たちは一丸となり、旧青州兵の捨て身の攻撃によって崩壊した連環行へと斬り込んでいった。
 一方、梁山泊軍本隊からも、史文恭の姿を認めた解珍、解宝が部隊を率いて駆けてくる。
 史文恭は馬から下りると、その鞍に曽昇を押し上げた。
「師兄?」
 尻を打たれた照夜玉獅子が飛ぶように駆けだしていく。
「──師兄!!」
 振り返った曽昇の視界の彼方で、史文恭の姿は戦場の中へと消えていった。



 三山の援軍の出現に勢いづいた梁山泊の本隊は、花栄を先頭に一気呵成に曽頭市軍を攻めたてた。
 曽頭市の中軍を支えているのは、曽家の三男、曽索である。片手に槍を、片手に鎖鎌を持ち、群がる敵の猛攻を防いでいた。しかし、李応の飛刀を腕に受け、ついに曽索は馬から落ちた。その崩れた一角に、楊志、魯智深、武松率いる歩兵部隊が突入し、曽頭市の中核へ肉薄した。
 すでに曽頭市本隊は崩れ始め、曽家の長である曽弄すら蘇定と数騎の護衛に護られているに過ぎない。
 曽頭市本隊だけではない。
 豊美の青州軍は岩七狼ら決死の“青州兵”に連環行を破られ、燕順率いる“清風山”軍の猛攻の前に敗走を始めていた。
 魏定国の凌州軍は、戦場から離脱すべく反転して欧鵬軍に突入していた。
 曽弄は、鉄骨朶を手に取った。
「──このまま死守せよ」
 曽弄はそれだけを命ずると、戦場へ飛び出した。蘇定が追った。啄鹿原では曽頭市軍と梁山泊軍、一進一退の激戦が続いている。曽弄は戦場の一隅を突破すると、済水へ向かって駆けた。河岸には鬱蒼と雑木林が繁っている。
「一体、どこへ行かれるつもりか」
 蘇定が槍を手に曽弄の前を遮った。曽弄は凡馬に乗り、いつしか兜さえ捨てていた。
「阿骨打に敗れた時も、雑兵に身をやつして逃げたものだ」
 曽弄は空を仰いだ。啄鹿原の喚声が、空に虚しく響いている。
「逃げる──と申されたか」
 蘇定は曽弄の顔を見返した。
「残された兵は、お子たちは──」
 妄執と冷静、情熱と非情が、鷹の目の中に交錯していた。
「兵などまた集めればよい、息子などまた生めばよい」



「わしは生き、やがて全てを手に入れるのだ。金を奪い、遼を滅ぼし、わしはすべてを──」
 曽弄は空へ舞い上がる巨大な海東青のように両手を広げた。
 そして、そのままゆっくりと振り返った。



 その背に、槍が突き立っていた。
 曽弄は蘇定の顔を見つめた。
 ぐっと押し込まれた槍の穂先が、甲冑を破って胸から突き出た。何か言おうとした曽弄の口から、鮮血が溢れた。
 曽弄は鞍から落ち、草原の中に転がった。
 蘇定は槍を引き抜いた。
「天下は知らぬ──しかし、公子だけは返してもらう」
 槍を手に、蘇定は低く呟いた。



 その頃、曽昇は照夜玉獅子とともに混戦の中を逃げまどっていた。
 次々と女真の兵が倒されていく中を、曽昇はなすすべもなく照夜玉獅子に運ばれていくしかなかった。遠く、馬上で鉄扇を振るう曽密が見えた。曽索は無数の雑兵に取り囲まれている。曽昇にも敵が迫った。落馬した時に挫いた足が腫れ上がり、焼けるように痛んだ。力が体から抜けていく。敵を突こうとして、視界がぼやけた。続々と敵は集まってくる。戦場の中で輝くような照夜玉獅子の姿が敵を呼び寄せるのだ。完全に取り囲まれ、もう駄目だと思った時、包囲を薙ぎ払い曽魁が飛び出してきた。
「四哥……!!」
 曽魁は片耳を失い、身には数えきれぬほど傷を負っていた。曽魁は狂ったように鉄錘を振り回し、取り囲む雑兵を薙ぎ倒した。
「お前の母は契丹の姫だ。契丹に逃げよ。そして、起死回生をはかれ。故国を追われた我が一族の……」
 敵の刃を受けながら、曽魁は玉獅子の尻を思い切り蹴った。
「行けッ」
 曽昇を一瞥で見送り、曽魁は雑兵の群れの中へ飛び込んでいった。
「我こそ女真の“黄鼠狼”──曽魁なり!!」



 戦いが終わったのは、夕刻だった。
 曽頭市、官軍の兵は多くが討たれ、生き延びた者もすでに啄鹿原から撤退していた。梁山泊の被害も少なくはなかった。
 燕青は、草原を覆う死体の中を彷徨っていた。血で赤黒く汚れた草の中に膝をつき、ひとつひとつ死体の顔を確かめていく。燕青は盧俊義を探していた。
 啄鹿原の空には夕闇が押し寄せていた。見渡すかぎりの死体の姿も、しだいに闇の中に呑み込まれていく。
 胸を朴刀で切り裂かれた曽密の死体があった。曽索は刃の折れた鎖鎌を握りしめたまま、左右から戟で突き殺されていた。“黄鼠狼”曽魁は、落馬したところを馬に踏み殺されたのだろう。頭は完全に潰れ、その巨体のために辛うじて曽魁と分かるだけだった。
 しかし、盧俊義はいなかった。
 燕青は顔を上げ、ふと川の方を見た。
 夕暮れの川原を、小さな影が森の方へ歩いていく。
(──女?)
 近隣の農村の女なのだろう。戦など、まるで別世界の出来事のように、女は腕に小さな籠を下げ、雑木林の中へと消えていった。






 林の中は、もう昏かった。
 女は、仰向けに、天を睨むようにして死んでいる曽弄の死体の脇を通り抜け、落ち葉の上に零れた血の後を辿って、森の奥へと踏み込んでいった。やがて、降り積もった枯葉の上に、うつ伏せに倒れた男を見つけた。背中には、一本の流れ矢が刺さっていた。
「あんた──死ぬの?」
“白骨猫”は、被っていた頭巾を除け、契丹の言葉で呼びかけた。蘇定はうっすらと目を開けた。
「これを……」
 蘇定は殆ど感覚のなくなった腕で、懐から小さな絵姿を取り出した。曽昇の母親である、遼の公主──天祥公主と呼ばれた人の絵姿だった。
「私は遼国の大将軍……兀顔光閣下の部下だ。主人の命により──公主を探すため、やって来た」
 かつて蘇定は契丹の武人であり、若き契丹貴族、兀顔光に仕えていた。曽昇の母である天祥公主は、その主人に嫁ぐはずの少女であった。
 兀顔光と天祥公主は幼馴染みであり、天生一対と呼ばれる契丹きっての英雄と佳人であった。その少女が、ある春の日、野遊びに出て、消えた。
 兀顔光は必死で姫の行方を探し、やがて、女真族に奪われたという情報を得た。しかし、遼国の貴族である兀顔光が、自ら他国へ探しに行くわけにはいかない。そこで、右腕と頼む蘇定に捜索を託したのである。
 彼はひとり草原を尋ね求めたが、女真の国に公主はいなかった。やがて、僅かな手掛かりを追い、曽頭市に辿り着いたが、その時、すでに公主は亡く、見つけたのは忘れ形見である曽昇だった。
 その事実を告げられた兀顔光は、公主の異境での死を悼み、せめて忘れ形見の息子を見守るよう蘇定に命じたのである。
『その子が幸せであれば、なにをも明かす必要はない』
 それが薄命の公主への供養であった。
「公子を、草原へ──連れ帰ってほしい」
 蘇定は白骨猫の顔を見上げ、契丹の言葉で託した。
「われわれの土地、金蓮花の咲く場所で……静かな暮らしを──」
 白骨猫へ伸ばそうとした蘇定の手から、公主の絵姿が枯れ葉の上に滑り落ちた。
 風が、かたかたと枯れた梢を揺らす。
「──ねえ、あんた、一緒に行かないの?」
 蘇定の傍らに座り、白骨猫は男に手をかけた。
 あの中秋の夜、曽頭市の北に広がる林の中で、蘇定は狼の群れの中から彼女を助けた。部族が滅びてから、ずっと一人で生きてきた彼女を助けてくれたのは、“梟”と蘇定だけだった。
 猫は冷えていく男の体に手をかけた。
 蘇定の意識はすでに混濁していた。
 故郷を出て二十年、長い、しかし、あっという間の歳月だった。異境を彷徨い、身分を隠し、ただ一人の人のために生きてきた。
 その旅はようやく終わり、今、やっと故郷へ帰ることができるのだ。
 一日たりとも忘れたことのない人の面影が、傍らで微笑み、彼を呼んでいた。
 輝く草原、咲き乱れる金蓮花。
 彼の半生を捧げ、命を捧げた天祥公主は、その花よりも美しかった。
「……月理朶」
 蘇定は、生涯、一度も呼ぶことなかった名を呼んだ。
 姫を探し、その子を見守るだけの人生を、虚しいと思ったことは、一度もなかった。
 風が吹いた。
 蘇定の魂はその風に乗り、一足先に還っているであろう公主を追って、北へ、草原で待つ主人のもとへと飛び去っていった。
 昏い林に、白骨猫がひとり残された。
 白骨猫は、長いことそのまま佇んでいた。やがて、背後で枯葉を踏む音がした。木立の陰から現れたのは、“険道神”郁保四だった。全身血まみれで、手には折れた槍を握っていた。女は、一瞬、それが誰だか思い出せような顔をした。
「ああ──あんた、生きていたの」
 次の命令を待つように、郁保四は女を見つめている。郁保四を雇ったのは“白骨猫”だ。
「“白骨猫”……」
「あたしの本当の名前はね、“烏蘭”というの」
 立ち上がり、暗い梢に聞かせるように呟いた。
「もう、あんたの仕事はないわ。どこへでも、好きなところへお行き」
“白骨猫”──契丹の女、烏蘭は、絵姿を拾うと、静まり返った森に背を向けた。
 後には、途方に暮れた郁保四ひとりが残された。
 郁保四は、女を追いかけようとしたが、大勢の人の気配に木陰に隠れた。覗いて見ると、すっかり暗くなった木立の間に、松明の光が行き来している。呼び交わす声が聞こえた。
「史文恭を──」
「史文恭を探せ!!」
 梁山泊が曽頭市の残党を探しているのだ。
 郁保四は木を背にして、息を殺した。すぐそばを梁山泊の兵士たちが駆け去っていく。
 すべての音が消えるまで、郁保四は身動きもせずに立っていた。このまま、永遠に動けないような気がした。
 早く誰かに命じてもらわなければならない。どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか。しかし、誰も命じる者はいなかった。
 森は暗く、静まり返り、頭上では真っ黒な木々が脅すように身を捩らせている。
 無性に寂しく、虚ろだった。恐ろしかった。
 それは、郁保四の心に生じた、はじめての“感情”と呼べるものであった。
 郁保四は嗚咽の声を漏らさないよう、口に枯葉を詰め込んだ。今度は苦しくなり、咳き込んで枯れ葉を吐き出した。
 森は再び闇と静寂に包まれた。
 やがて郁保四は木陰から這いだした。とにかく、どこかへ行かねばならない。動こうとして、郁保四はぎょっとして立ちすくんだ。
 彼方に、ぼんやりと光るものがあった。ゆっくりと、郁保四の方に近づいてくる。
「……おお」
 郁保四は唸った。



 それは、照夜玉獅子だった。鞍も手綱もなく、ただ純白の体が暗闇の中で輝いている。馬は郁保四の前で静かに首を垂れ、草を喰んだ。
 郁保四は、その裸の背に跨がった。すると馬はまたゆっくりと歩き出した。
 登ったばかりの月の下を、照夜玉獅子は翼を生やしたように駆け抜けていった。



 冷たい風が、月の光をあやしく移ろわせていた。
 闇に閉ざされた草原を、小さな影がよろめきながら彷徨っていた。陰は草の間の死体につまづき、草原の中に倒れた。それきり、立ち上がろうとはしなかった。
 曽昇は仰向けになり、空を見上げた。挫いた足は腿まで痺れ、もう一歩も歩くことはできなかった。すぐそばで、水の流れる音がするほか、聞こえるものは何もない。
 川の流れは、遠い子守歌のように聞こえた。曽昇の手が冷たいものに触れた。掴んでみると、折れた槍の先だった。
 曽昇は寝ころんだまま、血で汚れた槍を首筋に当てた。
 目を閉じて、川の流れに耳を澄ました。その音に、不思議な声が混じった。
 女の声──聞いたことのない言葉だった。
 曽昇は目を上げ、体をもたげた。ほの暗い月の光が、草原を銀色に照らしだしている。その中を、誰かが歌いながら近づいてくる。
「母上……?」
 曽昇は、絵姿を含んだ胸を抑えた。
 美しい女が、微笑み、曽昇を手招きしている。長い髪が風にたなびき、白い衣が雲のように体にまつわりついていた。
「──おいで、帰ろう」
 知らないはずの言葉なのに、その意味が曽昇にはなぜか分かった。
 それは彼の体内に流れる、今は亡き契丹公主の血の声であったのかもしれない。
 契丹の皇子、曽昇は、契丹の女、烏蘭に導かれ、草原の中に立ち上がった。
 そして、静かに包み込むような夜風の中を、二人は北へ向かって去っていった。




 この後、曽昇は遼国に戻り、やがて大将軍・兀顔光の養子となって、草原に勇名を馳せることになる。その武芸卓抜にして、飛刀の名手。契丹の民は彼を「小将軍」と呼び、その才を愛し、武勇を讃えた。
 彼の傍らには、烏蘭と名乗る女が常に影のごとく従っていたが、ある日、忽然と姿を消した。草原の北、金蓮花の咲く川のほとりで見たという者もいるが、その行方は、誰も知らない。



 草原をゆっくりと歩きながら、“金毛犬”段景住は歌っていた。
「みな──帰れ」
 馬を呼ぶ回回の歌である。草原や砂漠ではぐれた馬を、歌を呼ぶ。歌は風に乗って数十里を渡り、馬を呼び寄せるのだ。
 段景住は死体の中を、戦場から逃げ出した馬たちを呼びながら歩いて行った。遠くに、曽家の残党を探す松明の光が慌ただしげに行き来している。
 草原の片隅で、段景住は立ち止まり、空を見上げた。目を閉じて、段景住は耳を澄ました。そして、再び目を開けた時、段景住は彼方から近づいてくる一頭の馬を見た。
「おお……真主よ」
 月の光を集めたように、純白に輝く馬。
 彼が夢に見た神の馬、西の砂漠の果てから捜し求め、ついに金国で見つけた、“天馬”──照夜玉獅子にほかならなかった。
 馬上から郁保四が放心したように転がり落ちた。郁保四は逃げようとした。しかし、足が動かなかった。
 月の光をすくうように、段景住は静かに手を差し伸べた。



「天の馬、お前を、導く──恐れては、いけない」



 燕青は、まだ盧俊義を探し続けていた。
(ご主人様──)
 燕青は川原に下り、血で汚れた手を洗おうとした。済水の川原にも、いくつもの死体が散乱していた。燕青は土手に立って、月下の啄鹿原を見渡した。
 ようやく陥穽から引き上げられた北京軍が、縛られたままどこかへ連れていかれるのが見えた。落とし穴の底で死闘を演じた索超と登飛は、並んで担架に乗せられていた。
 風が弱々しい月の光を遮るように吹きすさぶ。
 燕青は、盧俊義の声が聞こえないかと耳を澄ませた。
 しかし、夜空には風が吹いているばかりで、燕青を呼ぶ声は聞こえなかった。



 その頃、盧俊義は暗い森の中を彷徨っていた。
 いつの間に、どうやってこの場所に来たのかは分からない。記憶はなかった。
 ただ、ひどく長い時間、戦い続けていたような気がした。馬もなく、甲冑も失っている。身も心も疲れ果てていた。
 しかし、まだ戦いは終わっていなかった。
 盧俊義は朴刀を構えた。
 暗闇の向こうに、“敵”がいた。この敵を、盧俊義はずっと追ってきたのだ。いつから追いかけていたのかも分からないほど、長い時を追ってきた。
 盧俊義が朴刀を構えると、“敵”もまた朴刀を構えた。その姿はぼんやりとして、どんな顔をしているのか、よく見えない。
 ただ、恐ろしく手ごわかった。すでに果てし無い時を戦い続けているのに、まるで疲れる気配もない。
 負けるわけにはいかなかった。
 打ち負かし、殺さなければならない。
 盧俊義は言葉にならない叫びを上げると、顔のない“敵”を追いかけていった。



 史文恭もまた、同じ森の中を彷徨っていた。
 どこからか水音が聞こえていた。
 それは、雨の音──嵐の音にも似ていた。しだいに水音は激しくなる。頭の中で猛り狂っているようだった。
 幻だ──と史文恭は思おうとした。しかし、それは幻ではなかった。
(やつが……)
 嵐が襲った。史文恭は荒れ狂う嵐の中を狂奔した。
 史文恭は、もうずっと“あれ”と戦い、逃げつづけていた。
 戦っても戦っても、それは諦めることをしない。史文恭を捕らえようと追ってくる。
 史文恭は走った。
 あの“ばけもの”が、近くにいる。
 嵐の彼方から、あの“ばけもの”が追ってくる。
 叫び、逃げ続け──見上げると、蠢く暗雲の彼方に、巨大な月が輝いていた。



 盧俊義は戦い続けた。
 一瞬、どこからか月の光が射し込み、盧俊義は、自分を殺そうとするものの正体を見た。
 朴刀を握り、虚ろな目をして、盧俊義を殺そうと迫るもの──それもまた、“盧俊義”だった。盧俊義の姿をし、盧俊義と同じ顔をしていた。
 盧俊義は、嵐の中で自分自身と戦い続けた。
“盧俊義”は強かった。
 自分が強いのか、相手が強いのか、もう盧俊義には分からない。
 ただ叫び、戦い続けた。
 殺さねばならない。
“こいつ”を倒し、殺し、勝たなければ──。



 盧俊義は朴刀を振り上げ、踏み込んだ。



 史文恭は戦い続けた。
“ばけもの”には目も口もなく、ただ史文恭を呑み込み、噛み砕こうと執拗に迫る。
 史文恭は、嵐の中で“ばけもの”と戦い続けた。
 もう逃げることはできなかった。
 彼は完全に“ばけもの”に捕らわれた。背を向けることも、逃げることも、もうできない。
 戦わなければ、呑み込まれる。
“こいつ”を倒し、殺し、勝たなければ──。



 史文恭は朴刀を振り上げ、踏み込んだ。



 朴刀を振り下ろすと同時に、盧俊義は胸を斬られ、倒れた。血が溢れ出るのを感じた。
 盧俊義は横たわり、目を閉じた。
(わたしは死ぬのだ──)
 しかし、気づくと、彼は荒野に佇んでいた。
 地平線まで続く赤黒い荒野、その上に、青と紅が入り交じった黄昏の空が広がっていた。
 足元に、男の死骸が仰向けに横たわっていた。
 盧俊義は、男の顔を見下ろした。
 胸から血を流し、死んでいるのもまた──盧俊義だった。



 史文恭は嵐の中に倒れていた。
 胸に傷を負っていた。
“ばけもの”の巨大な鉤爪に胸を切り裂かれたのだ。
 陰雲、冷気、黒霧、凶風──その向こうに“ばけもの”がいる。
 魍魎の淵のばけものだ。
 あの昏い淵から這い出し、兄を殺した“ばけもの”が、彼をも暗黒の底に引きずり込もうと追ってきた。
 逃げなければ──どこまでも逃げ続けなければ。
 史文恭は立とうとした。
 声が聞こえた。
──弟よ。
(兄さん)
 ふと体が軽くなり、どこからか光が射した。史文恭は立ち上がり、光の方へ歩いていった。しかし、その足はすぐに止まった。
(晁蓋!!)
 前方に輝く光の川が見えた。そのほとりに並んで佇む兄と晁蓋の姿が見えた。
 若く、幸福そうな、あの夏の日のふたりだった。
──早く来い。
──さぁ、おいで。
 二人は手を挙げ、史文恭を呼んでいた。
「でも、泳げない」
「大丈夫、おれたちがいる」
「来いよ」
「大丈夫だ」
 夏の光があふれ、世界が白銀に輝いた。
 眩しさに目を閉じ、史文恭は笑った。



(──兄さん)
 そして、ゆっくりと川へ向かって踏み出した。



 盧俊義は、放心したように自分の死体を見つめていた。
 その死体が、ふいに青白い炎に包まれた。炎は盧俊義の死体を包み、燃え上がらせた。炎はますます激しくなり、新たななにものかの形を作った。
 盧俊義は、炎の中に燃え上がる異形の神を見た。
「おお……」
 炎に包まれ、剣と宝塔を掲げる神の姿。
「“托塔天王”──」



 その神の名を、盧俊義は知っていた。
 神は剣を振るい、盧俊義の胸に触れた。
 傷の痛みに、盧俊義は我に返った。
 闇は去り、天から黄金の光が降り注いでいた。
 盧俊義は空を仰いだ。降り注ぐ光──その彼方の遙かな天空。
 天が告げた。
『お前は滅ぼすさだめ──救わんとして滅ぼす宿命の星』
 見下ろすと、盧俊義が殺したはずの“盧俊義”が、別の男となって横たわっていた。
 目から、鼻から、口から血を流して死んでいる男──その顔に見覚えがあった。
(“及時雨”宋江──)



 そこに横たわっているのは宋江だった。
 再び仰いだ空に黄金の光はなく、ただ漆黒の星がぽつりと見えた。
 星は輝いているはずなのに、漆黒の光を放っていた。
 放っているのは光ではなく、闇であるかもしれなかった。
「ああ、あれが私の星だ──」
 盧俊義は呟いた。
 あれが、わたしの宿命だ。
 救おうとして、滅ぼす宿命──。
 盧俊義は、笑った。
 声をあげ、狂ったように笑い続けた。



 啄鹿原森のはずれ、切り立った崖の上に立つ二つの影があった。
 芒湯山から消えた、“入雲龍”公孫勝と“混世魔王”樊瑞だった。
 樊瑞が、こわばった面持ちで傍らの公孫勝を窺った。公孫勝は、冷やかな眼差しの底に、かすかな戸惑いを含んで、対岸の盧俊義を見つめている。
 その足元に、史文恭の死体が横たわっていた。
 盧俊義は夜空を仰ぎ、痴人のように立ち尽くしている。
 笑い声が、済水を渡って聞こえた。
(“玉麒麟”──盧俊義)
 夜の闇のためだけではなく、公孫勝には、盧俊義の姿がぼんやりとしか見えなかった。
 盧俊義と史文恭は憑かれたように戦い続け、同時に相手の胸を斬り裂いた。
 倒れたのは、史文恭だった。
 なにかを迎え入れるように天に向かって両手を広げ、史文恭は、そのまま倒れた。
 立ち尽くす盧俊義の胸にも、横たわる史文恭の胸にも、右肩から左脇へ、まったく同じ傷跡が刻まれていた。
 盧俊義は胸から血を流したまま笑い続けている。
 盧俊義の見ているものを、公孫勝は知らない。しかし、彼が何かを見たことだけは分かった。
 公孫勝は魂が戦くのを感じた。
 梁山泊の空に降りそそぐ数多の流星を見た時、三巻の天書を手にした時、公孫勝は同じ戦慄を感じた。それは、宿命に触れた時だった。
(あの男……何者だ)
 吉凶を占おうとして、公孫勝は激しく咳き込んだ。
「師父!!」
 樊瑞が駆け寄った。口を覆った公孫勝の指の間から、鮮血が滴った。
“混世魔王”樊瑞を煉獄から引き上げるため、公孫勝は芒湯山で五雷天心の正法を使った。その時でさえ、公孫勝の内力はまだ十分に復活していなかったのだ。
「師父よ、また内力を損なわれたか──」
 芒湯山の戦いで、樊瑞はすべての法力を放出し、失った。今、再び公孫勝のもとで修練しているが、まだ、師の万分の一の力もない。
 樊瑞には、公孫勝が見たものも、見えなかったものも、分からなかった。
「一体、どのような術を使われたのだ」
「……いや」
 樊瑞に背を向けて、公孫勝は啄鹿原を後にした。
「儂は──術など使わなかった」
 公孫勝の背を、盧俊義の笑い声が追いかけてくる。公孫勝は夜明け前の空を仰いだ。忍び寄る暁の光を感じとるのか、北斗が頼り無く輝いている。
(“智多星”よ、お前の示した“遺言”に従えば、次の首領は“玉麒麟”盧俊義──)
 公孫勝は闇の彼方をかえりみた。



(本当に、よいのか──“智多星”!!)



 夜明け、燕青は疲れ果て、啄鹿原の野営地に戻った。
 梁山泊軍は、すでに出発の準備を整えている。楊志が燕青を見つけて近づいて来た。
「盧俊義殿は?」
 燕青は首を振った。一晩中探しても、盧俊義を見つけることはできなかった。
「そうか──しかし、死体もない」
 楊志に肩を叩かれて、燕青は曖昧に頷いた。
「すぐに出発するんですか」
「ああ。これで終わったわけではない」
「僕は──」
 燕青はなによりも、自分が盧俊義を見失い、見つけられなかったことが信じられなかった。
「ご主人様を見つけるまで、残ります」
「しかし」
 楊志が言いかけた時、済水のほうでざわめきが起こった。ふいに燕青が駆けだした。
「あれは──“玉麒麟”じゃないか」
 人々の声が聞こえた。燕青は人垣をかき分け飛び出した。
 朝日が輝く。昇ったばかりの朝日を全身に浴び、ひとりの男が梁山泊軍に向かって歩いてくる。
「ご主人さま……」



 まだ血の残る草原を、死体の原を、盧俊義はゆっくりと歩いてくる。
 その胸には交差する二条の傷が刻まれている。身には寸鉄も帯びず、一糸まとわぬ赤裸だった。
 燕青は駆け寄ろうとして、なにかに打たれたように立ち止まった。
 人々は遠巻きにして、無言で盧俊義を見守っている。
 盧俊義は人々の間を、燕青の前を、ゆっくりと通り過ぎていく。
 その横顔は、堂々として、無心であり、感情も理性も越えて、なにか強いものに護られているように見えた。
 燕青のよく知っている盧俊義ではない。しかし、やはり盧俊義のような気も、他の誰かのようにも思われた。
 燕青の横で、兵が手を合わせ、涙を流した。
「托塔天王──」



 空が抜けるように青かった。
 天の高みに、かすかな白い雲がたなびき、風が静かに吹いている。
 その下を、赤裸の盧俊義は真っ直ぐに歩いていく。
 南へ──梁山泊へ。
 燕青は恐怖でもなく、不安でもない──心がざわめきたつ感覚を覚えた。
 それは、“運命”に触れた時の感触かもしれない。
 燕青は、もう盧俊義を追わなかった。
 背後で林冲が蛇矛を掲げた。
「──帰ろう」
 まもなく閏一月が終わろうとしていた。
 晁蓋の喪があける日──“大刀”関勝との戦いが待っている。
「梁山泊へ──!!」
 梁山泊軍は啄鹿原を後に、一斉へ南へと帰還の歩を踏み出した。



「──こんな長い冬は初めてだ」
 単廷珪は北冥の畔に佇み、呟いた。
 湿地には氷が浮いて、草木は枯れはて、生き物の姿もない。空には灰色の雲が幾重にも垂れ込めていた。
「閏一月のある年は春の訪れが遅いもの。しかし、氷は解けず、雪さえ降るとは……」
 傍らの関勝は、黙って雪雲にかすむ梁山泊の峯のあたりを見ている。
 単廷珪の言葉は途切れた。彼も、話したいわけではない。ただ、なにか話してでもいなければ、やりきれない心地がしたのだ。
 すでに歳を越え、正月も過ぎ、閏一月に入っている。
 梁山泊との戦いは、思いのほか長引いた。
 兵の中にも不満が出始めている。寒さもあるが、朝廷からの補給が怠りがちになり、兵糧が不足している。朝廷に確認しても、規定の量を送らせているという。
 この長びく冬のため、今年は飢饉になるだろう。食料の値段が高騰することを予測した役人たちが途中で横領したのは明らかだった。倉庫で、輸送中に、関所で、物資をごまかす機会はいくらでもある。
 関勝は不足の分を徴発で賄うようなことはせず、運城県などに人をやって買い入れさせているが、それもいつまで保つか分からない。
 単廷珪は灰色の雲を睨んだ。
「この冬は、いつまで続くのだ」



 雲の下には、氷壁がそびえ立っている。
 通年ならば、二月は新芽がめばえ、花々が咲き誇る春たけなわの季節である。それなのに、氷壁は北風の中に揺るぎなく凍りついている。
 季節が冬で止まってしまったかのような、あり得ない光景だった。
「公孫一清の方術か、晁蓋の霊の仕業か……いや」
 単廷珪は首を振った。
 彼は水脈に通じ、砂漠に井戸を掘ることも、氾濫を繰り返す河を治めることもできる。荒れ地を緑の草原に変え、沼沢を干上がらせる。それを、人は“神の仕業”と云うが、決して、そんなものではない。
「方術、神霊……みな無学な民のすがるもの。信じられるものではない」
「──天、これを与う」
 関勝が言った。



 単廷珪は関勝に振り向いた。関勝は、まだ梁山の峯を見ている。その眼差しは遠く、実際に山を見ているのではないかもしれない。
 答えかねて、単廷珪は沈黙した。
 今日、関勝はふいに単廷珪の陣を訪れた。
 関勝自らが来るというのは、おそらく次の作戦にかかる機密の軍議のためであろう。
 関勝が囮となって南から船で攻め、その隙を衝いて単廷珪が北冥から攻める──という前回の作戦は、水牛船の輸送の失敗で変更を余儀なくされている。
 半数以上の船を失い、広大な梁山泊を制圧するには、絶対的に船が足りなくなってしまったからだ。梁山泊から奪った船は漁船など小舟が多く、また新たに作るにも、南冥の森を焼いてしまっため良材が求めにくい。
 船を失った“聖水将軍”は、翼をもがれた鳥も同じであった。
 これからどうする──と、関勝に問うべきか単廷珪は逡巡した。
 関勝は、何も言わない。
 単廷珪は、まだ関勝との“会話”に慣れていなかった。関勝の言葉は常に簡潔で、意味深く、容易に返答することができない。
 単廷珪は、またいつもの寡黙な男に戻った。
 孟子に曰く、『天これを与う──天もの言わず』
 天はそれを与えるが、その意味を人に告げることはない──関勝は、梁山泊に天佑のあることを憂えているのだろうか。
(まさか)
 単廷珪は心中に首を振った。
(天命は宋朝にあり、賊などに天の佑けがあるはずがない。我々が、十分な船さえ持っていれば……)
 単廷珪は彼方に見える梁山に眼をやった。梁山の峰々には巨木が聳え、船を作る音が北風に乗って湖の彼方から聞こえてくる。
(船さえ──あれば)



“醜郡馬”宣贊は、東平府太守・程万里に伴われて、済水を降っていた。
 梁山泊から流れ出た済水は、東平府の郊外を北東へ流れる。やがて、彼方の岸辺に砦のような土塁が見えてきた。
「あれが、わが東平府の造船所でございます」
 造船所は済水に接するように作られており、その前の河も水砦になっている。水中に張りめぐらされた頑丈な鉄柵と丸太の障壁が、造船所と桟橋を守っているのだ。
 水門は見上げるほど大きな扉で、門脇にある見張り櫓から鎖で閉開するようになっている。見張りの兵も多かった。
「ずいぶんと厳しい警戒ですな」
 宣贊は横の程万里に話しかけた。
「それはもう──関将軍のご命令ですからな」
 程太守はしかつめらしい顔で頷いた。
 船には、東平府兵馬都監、“風流双槍将”董平も同乗している。
 董平が銀の割符を見せると、櫓の兵はそれを自分のものと合わせて確かめ、それからようやく門を開いた。水飛沫をあげて水門が開き、二人を乗せた船はゆっくりと造船所の中へ入った。
 冬空に、船を作る音が賑やかに響いている。
 水牛船の輸送に失敗してから、間もなくのことである。宣贊は関勝の命を受け、東平府へと赴いた。
 東平府は梁山泊の北東にあり、大規模な造船所を持っている。宣贊の任務は、程太守に会い、船を借り、足りないぶんは造らせ、かつ兵の協力を要請するつもりであった。
 もっとも程万里は童貫の縁故で官僚となった男であるから、話し合いは難航することは覚悟していた。しかし、程太守の返答は意外なものだった。
「朝廷からの命令がなければ、軍を動かすことは出来ませぬ……が」
 程万里は宣贊の顔を窺った。
「関将軍のご依頼とあっては、お断りではきませぬな」
 童貫の失脚を受け、新たな保身の道を探っているのだろう。宣贊はあからさまに佞るような程万里の態度に嫌悪感を抱いたが、その表情が頭巾に隠れていたのは幸いであった。
「お約束の晦日までには、三百隻の戦船が揃いましょう」
 程万里は宣贊を連れ、建造中の船の間を歩いていった。
「船大工たちは作業場に寝泊まりさせ、期日まで休みなく働かせます」
 過酷な作業に逃げ出そうとする者もいるが、造船場は高い土塁で囲まれているから逃亡することはできないという。宣贊は眉をしかめた。
「しかし、それでも不満も出よう。いいかげんな船を造られては困る」
「ご心配なく。賃金も食事も、女も十分に支給しておりますので」
 そう言って、程万里は涼やかな笑みを浮かべた。
(信用できる男ではない。しかし、利用はできる)
 宣贊は程万里に協力に対する例を延べ、辞去を告げた。
「これから、どちらへ」
「──東昌府へ」
 程万里は、董平を顧みた。
「董平、お供せよ。有事の時だ、郡馬閣下の身に万一のことがあってはならぬ」



 宣贊は董平とは対岸の船着場で別れるつもりだったが、董平は東昌府まで同行すると譲らなかった。
 董平が東昌府までやって来たのは、上司の命令というだけでなく、彼自身が知りたいことがあったのだ。
 東平府にやって来た新しい将、“没羽箭”張清のことである。張清は、美女のようなたおやかな容貌をしながら、異相の二副将を連れ、竜舞虎踞山に巣くう山賊を一夜で平らげた男である。他人など眼中にない董平が、そのように人を気にするのは希有なことである。しかし、自分でも不思議なくらい、張清のことが気になっていた。
 宣贊と董平は船着場に隣接する宿場で馬を借り、東昌府の役所へ向かった。
 宣贊は、東昌府の太守へ、すでに何度か手紙を出している。
 閏一月も終わろうとしているのに、啄鹿原に行った魏定国が、まだ戻っていなかった。
 魏定国が戻ってこないのは、関勝軍にとって悪い兆候ではない。北京から戻る梁山泊軍も、まだ戻ってくる気配はない。だとすれば、啄鹿原で魏定国と戦っているに違いないのだ。
 北京へ行った梁山泊軍は、林冲、秦明、花栄が率いる精鋭だ。これが北から襲ってくれば、北冥の官軍は挟撃されることになる。
 宣贊は、もし魏定国が敗れ、北方から梁山泊軍が戻って来た時には、軍勢を出して阻止するように、東昌府太守に要請した。しかし、返事はなかった。
 東昌府の知府、陳文昭は、学識の高い清廉な人物だと聞いていた。読者人にありがちな、理想ばかり求める浮き世離れした人物ではなく、山野を歩いて民と触れ合うのを好み、優れた施政者として定評がある。
 政争や戦を嫌う、気難しい人物であるに違いない。
 その説得は、程万里よりも難しいに違いなかった。宣贊は、同行しようとする董平を取り次ぎの間に残し、一人で陳文昭に会った。



 実際に会ってみると、陳文昭は至極おだやかな人物だった。恰幅のよい白髯の老人で、細い眸は常に微笑している。
 協力を要請する宣贊に、陳文昭は穏やかに茶を勧めた。隣には“没羽箭”張清が静かに佇んでいる。
 宣贊は、言葉をつくして関勝への協力を説いた。
「──騒がしくなったものです」
 陳太守は微笑んだ。その微笑の中に、宣贊は背筋を正されるような厳しさを感じた。
 陳文昭のもとに手紙を寄越すのは、関勝、宣贊だけではない。この頃になって枢密使の童貫からも私的な書状が届くようになっていた。なぜか宰相の蔡京からも来る。童貫も蔡京も、今まで陳文昭など歯牙にもかけなかった者たちである。
 東昌府は東平府に比べれは小さな城市で、兵も三千余人に過ぎない。
 こんな大きくもない山東の府が、かくも脚光を浴びるとは可笑しなことだ。陳文昭はどちらの手紙も、読みかけで焼き捨てた。
「わたしももう、官界を退く年齢だ」
 陳文昭は胸まで届く白髯を撫ぜ、遠い日々を追憶するように言った。
 官僚は通常、七十で政界から退く。彼もまた五十年余りを民のために働き、ようやく穏やかな余生を送る時がやって来たのだ。
「蔡京とわしは同年──科挙に及第したのも同期だった」
 老人はゆっくりと茶をすすった。蔡京と彼は全く同じ地点から出発し、今は天と地ほど隔たっていた。
 宣贊はそれ以上、説得することもできず、席を立ちかけた。
「わしは官僚としての最後の仕事として、梁山泊を討伐し、民の憂いを除きたい」
 老人とは思えぬ声の力強さに、宣贊は思わず顔を上げた。
「陳太守……」
「関将軍のお心、たしかに承った」
 陳文昭は静かに茶碗を置いた。
「必要とあらば、東昌府は出陣する。その責は──わたしが負う」



(これで、わが策はなった)
 宣贊は張清と今後の作戦を取り決めると、また済水を渡り東平府へ戻っていった。董平とは、船着場で別れた。
 その船着場で、董平は一人の若者とすれ違った。
 粋な職人風に装った、“九紋竜”史進である。董平たちが見えなくなると、史進は近くの口入れ屋の門をくぐった。人足などの口を紹介する店である。



「おれは船大工なんだが、金になる仕事があると聞いた」
 鋭い眼つきの番頭が、じろりと史進の顔を見た。
「あんた、身元は確かか」
「華々楼の李瑞蘭からの紹介だ」
 華々楼は上級の妓楼から、下級の船女郎まで、東平府の華街を牛耳っている店である。李瑞蘭は上級の店の妓で、値も高い。身元の確かな金持ちしか馴染みになれない。
「ほう、お前さん、李瑞蘭の馴染みかい」
「おかげで親父の船問屋を食い潰し、いまは船大工の身の上だがな」
 番頭は口入れ屋を預かるだけあって人を見る眼には自信がある。確かに、この若造は身を持ち崩した大家の御曹司の風である。
「川下にある府の造船所だ」
 番頭は筆をとり、なかなかの達筆で斡旋状を書き上げた。
「ありがとうよ」
 史進は斡旋状を懐にねじ込むと、颯爽と口入れ屋を後にした。



 夕刻、呉用は宋江の部屋で夕焼けを見ていた。
 部屋の中は火もなく、ひどく寒かった。毒の回りを、少しでも遅くするためだ。宋江自身は、寒さも感じられないだろう。
 ただ静かに眠り続けている。
「……宋清」
 呉用は寝台の傍らにかがみこんでいる宋清に声をかけた。
「なにをしているのです」
「寿衣を縫います」
 宋清は兄の上に白い布を広げ、丈を計った。
「うちの村では、死んでから慌てて縫うのは縁起が悪いと云われているから……」
 布を断つ音が静かに響く。
「侯健に頼んでもいいけれど、やはり身内が縫ったほうがいい」
 宋清の言葉は、ひどく落ちついて聞こえた。
 宋清はすでに悟っていた。
 間もなく死ぬのは、宋江だけでなはい。梁山泊の死期も迫っていた。
 林冲たちが開戦の二月一日までに戻って来なければ、関勝軍が十分な船を手に入れれば、再び官軍の艦隊がやってくれば、気温が上がり氷壁が崩れれば、そして、このままに宋江が死ねば──なにひとつ、梁山泊に希望はない。
 晁蓋の喪は、最期の時をほんの少し伸ばしただけだ。
「──先生」
 宋清は布を断ちながら呉用に尋ねた。
「遺言には、本当は、なんと書いてあったのです」
 呉用は宋清の無表情な横顔を見た。



「僕も晁蓋殿のことは子供の頃からよく知っている。自分の仇をとった者を次の首領に──などと、自分の仇討ちを求めるようなことを、書き残す人ではなかった」
 部屋の片隅に蝋燭が一本だけ灯り、天井に呉用の巨大な影が伸びている。
「──ええ」
 長い沈黙の後、押し殺した呉用の声が、冷たい空気をほんの僅かに震わせた。
 宋清は顔を上げ、呉用を見た。
「私の寿衣も、お願いしていいでしょうか」
 呉用は立ち上がり、部屋を出ていった。
 外に出ると、風はさらに冷たかった。扉の前には、李逵が膝を抱えて座っていた。李逵は毎日、こうしている。
 廊下の向こうから、呉用を呼ぶ声が聞こえた。
「先生、誰か梁山泊から抜け出した」
 足早にやって来たのは、孟康だった。
「造船所で、見張りが気を失って倒れていた。出来たばかりの船も一叟なくなっている」
 続いて呼延灼の長女、剣娘がやって来た。
「昨夜から、父の姿がありません。何か、内密のご命令があったのでしょうか?」
 皆は顔を見合わせた。そこに、さらに剣娘の双子の妹である弓娘と箭娘が駆け込んできた。
「お姉様、威児もいないわ」
「剔雪烏騅も厩から消えてしまったわ」
 威児は呼延灼の幼い一人息子であり、剔雪烏騅は皇帝下賜の名馬である。どちらも、呼延灼掌中の玉だ。
 奪われた船、そして呼延灼失踪の報に、人々は語るべき言葉を失った。
 呼延灼は生粋の軍人であり、官軍において“軍神”とまで呼ばれた男だ。やむにやまれぬ事情で賊となり、心の底では官軍に戻りたいと望んでいたとしても不思議はない。
 その呼延灼が、梁山泊の命運が風前の灯火となった今、嫡子と愛馬を連れて、秘そかに湖を渡るとは──。
 呼延灼造反の文字が、人々の脳裏を駆け抜けた。
「……おい、鉄牛!!」
 孟康が止める間もなく、李逵は板斧を掴むと聚義庁を飛び出して行った。



 梁山泊の空に、急を知らせる銅鑼の音が響きわたっていた。
 夜明け、五丈河畔は時ならぬ緊張に包まれた。夜陰に紛れて梁山泊の将──“双鞭”呼延灼が官軍の陣に現れた。恩賜の名馬“剔雪烏騅”に跨がり、鞍の前には幼い長子を座らせていた。
 呼延灼は関勝に会見を申し入れ、関勝はそれを受け入れた。兵士たちが武器を持って並ぶ間を、呼延灼は息子を連れて関勝の幕屋へと案内された。
「父上」
 横を歩く威児が、不思議そうに父を見上げた。
「父上は、官軍の将に戻られるのですか」
 その言葉に、呼延灼は不思議な感覚に囚われた。
(官軍の──将)
 彼が連環馬を率いて梁山泊討伐にやって来たのは、わずか数年前のことだ。それが、今は、梁山泊の将として、梁山泊討伐にやって来た関勝に会おうとしている。
 関勝が先に攻めていれば、あるいは、立場は逆になっていたかもしれない。
(──いや)
 幕屋の中で向かい合い、呼延灼はその想像を打ち消した。
(この男は、決して敵に降る男ではない)
 幕屋の中で、関勝は表紙の擦れた『春秋』を書見していた。夜通し読んでいたのだろう、呼延灼が通されると、従卒が消えそうなほど短くなった蝋燭を新しいものに替えていった。
 呼延灼が現れても、関勝は書見を続けている。
 その傍らには宣贊が、扉の前では不安そうな少年の肩に手を置いた赫思文が、成り行きを見守っていた。
 やがて、関勝は静かに書を閉じた。
 張り詰めた空気の中に、“大刀”関勝と“双鞭”呼延灼は向かい合った。



 関勝と呼延灼は、ともに宋国の四天王と呼ばれた男である。
 十年前、官軍には四人の名将がいた。東の聞煥章、南の関勝、北の韓存保、西の呼延灼──彼らはそれぞれ各地の国境に散って戦った。枢密院に抜擢された聞煥章の他は、滅多に東京に上がることもなかった。
 関勝と呼延灼も、互いの名は知っていても、実際に会うのはこれが初めてだった。
 初老の呼延灼からすれば、関勝はだいぶ若い。しかし、その風貌、身に流れる古い武神の血のせいなのか、呼延灼は圧倒されるものを感じた。
 この幕屋の中だけ、別の時が流れているようだ。
 しかし、彼もまた“軍神”であった。泰然と関勝を見返していた。
 宣贊が、低く問うた。
「はからずも、貴君が吾が地へ渉らせられたは、いかなる理由か」
「──“いと高き兵車の上より、弓をもて我を招かる。馳せ参じんとの思いはあれど、我が友朋の謗りを畏る”」
『春秋』を引用した宣贊の問いに、呼延灼もまた『春秋』の言葉で返した。
 宣贊が冷やかに、疑いの目を向けた。
「なんと──降伏をすると云われるのか」
「宋江殿は、戦を望んではおらぬ──招安を、受けたい」
“招安”とは、朝廷が賊軍の罪を赦し、官軍に編入することである。朝廷にとっては討伐できぬ賊を懐柔し、また兵力を増やす一挙両得の策である。また賊にとっても、討伐の恐怖を免れられる上、官軍として俸祿を貰える身分は魅力だった。軟弱で狡猾な、双方にとっての逃げ道──と、かつての呼延灼の口からは、絶対に出ない言葉であった。
 招安と聞いても、関勝には何の反応も現れなかった。呼延灼は言葉を続けた。
「梁山泊に集まっている殆どの者は無頼の輩──もしくは、朝廷に罪を得た身だ。降伏、招安とあからさまに言えば、反対が出る。しかし、このままでは梁山泊は滅びる。元官軍であった者たちが、内応し、降伏させよう。ただし、条件がある。山塞の人間、すべての罪を許し、朝廷が勅令によって梁山泊を招安することだ。賊として処刑されるならば、最後の一人まで戦うことになるだろう」
 澱みなく語る自分の言葉が、妙に遠く、虚ろに響いた。
「官軍とて、このまま戦っても利はあるまい。招安は互いにとって最良の策。宋江殿は他の者に知られぬよう、まず密かに内意を将軍に伝えよと申された。関勝殿から、朝廷に意を伝えていただきたいのだ。承知なら──宋江殿は関将軍と面談し、招安のための条件を話し合いたいと望んでおられる」
 宣贊と赫思文が視線を交わした。赫思文が確かめるように言った。
「宋江と貴殿で、梁山泊を裏切る──と申されるのか」
「梁山泊を救うためだ」
「軍師、呉用の策略か」
 宣贊が割って入った。呼延灼は首を振った。
「呉用は狡猾な男。密かに盧俊義を次の首領に押そうとしているふしもある。これは、宋江殿とわしの間だけのこと」
「会見などと呼び出し、関兄を討つつもりではあるまいな」
「ならば、これを」
 呼延灼は泰然と懐から一巻の書を取り出した。
「これは───」
「梁山泊の水路の地図」
 宣贊と赫思文は顔を見合せた。
「たとえ五丈河から艦隊を送り込んでも、梁山泊には葦原の迷路、数えきれない浅瀬がある。小舟ならいざしらず、水路を知らねば官軍の戦船など梁山へ近づくこともできまい」
 地図を手に宣贊は睨むように呼延灼を見た。
 彼らも、まったく水路を知らずに攻めているわけではない。単廷珪は予め水練の達者な者に、梁山泊の水路を調べさせていた。もっとも、ほんの一部である。梁山泊の見張りに見つかったのか、戻ってこなかった者もいる。しかし、知り得たかぎりの情報と、呼延灼の地図は一致していた。
 関勝軍が梁山泊を攻めるのに一番知りたいのが水路であり、最も恐れるのが、連環馬と凌振の大砲であることは、呼延灼が一番よく知っている。
「ご存知であろうが、火砲を操る“轟天雷”凌振ももとは官軍の将。すでに気脈を通じている」
 関勝軍が欲しがるもの──そのすべてを、呼延灼は“手土産”に持って来たのだ。
 しかし、宣贊は容易には信じなかった。
「先には喪といい、今また招安という。信じられぬ」
「我等もまた、そう思っているのだ」
 呼延灼はかすかに笑った。
「官軍など信じられぬ──と。しかし、晁蓋殿の喪を重んじて停戦に応じた、関将軍の人物を信じて、宋江殿はこの申し出をされた」
 関勝は呼延灼に目を据えたまま、一言も発しなかった。
「宋江殿は、自分が官軍の人質となっても、必ず梁山泊を帰順させる──そうまで決意されている。その心を、信じる、信じないはそちらの自由だ。あなたがたが信じぬのなら、戦うだけだ」
 まるで戦場にいるようだ、と呼延灼は思った。それも背水の陣、一歩も退くことはできない。呼延灼は、一言にすべてを賭けた。
「──いかがか」



 関勝は、頷いた。
 よかろう、とも、信じよう、とも言わず、ただ無言で頷いた。それはほんの僅かな動きでありながら、神が何かの託宣を人に与えたかのような、重い、神妙な動作であった。
 返答を得て、呼延灼の不安はさらに増した。
「宋江殿は、病と聞いた」
 関勝が初めて口をひらいた。呼延灼は、背中に汗の流れるのを感じた。
「……快方に向かっている。ご心配には及ばぬ」
「会見の場所は」
「梁山と、この陣の中間──一月晦日、夜明け前に湖上では如何」
「関兄──」
 なお言おうとする宣贊を制し、関勝は再び書物に向かった。
 それきり、呼延灼など眼中にないようだった。
 呼延灼は赫思文に伴われて幕屋を出た。外の冷たい空気に触れ、ふとため息をついた。息をすることを忘れていたようだった。
「宿舎で休息されるといい」
 赫思文が労るように言った。威児はすっかり赫思文に懐き、井宿を象嵌した剣を珍しそうにいじっていた。
「この子は、人質とするため伴った。貴殿に預ける」
 赫思文には、呼延灼の苦衷が痛いほど分かった。
「……ご子息は、私が責任をもってお預かりしましょう」
 赫思文は穏やかに言って、威児の頭を撫ぜた。
「──父上」
 威児は大人びた様子で欠身の礼をした。
「御武運を」
 その言葉に、呼延灼の心は揺れた。
(さらば──息子よ)
 呼延灼は去っていく息子に背を向けた。
(関勝は……信じただろうか)
 呼延灼は、関勝の全く感情の読めぬ姿を思い起こした。
 もしも信じていなければ──いや、呼延灼の思惑を見抜いた上で、頷いたのだとしたら。
(梁山泊は終わりだ)
 関勝に会いに来たのは、すべて呼延灼の独断である。このままでは梁山泊は滅びる──そう判断し、苦肉の策を演じに来たのだ。
 関勝を宋江と会わせると偽って誘い出し、殺す。
 呉用に言えば、危険すぎる──と、必ず呼延灼を止めただろう。
 しかし、呼延灼はこの一策に賭けた。このままでは、梁山泊に勝ち目はない。
 彼は“官軍”というものを良く知っている。官軍は上からの命令によってしか動けない。将を失った官軍は、機能せず、崩壊するのだ。関勝が偉大な将であればあるほど、それが欠けた時の衝撃は大きいのだ。
 関勝は宋江に会うという。策の半分は成った。
(しかし、本当に関勝は行くだろうか)
 呼延灼の思索を、兵卒の敬礼が遮った。
「呼延将軍、宿舎に御案内いたします」
“将軍”と呼ばれたのが妙だった。
 呼延灼は、梁山泊にあっても官軍で使っていたものと同じ甲冑を作らせ、身につけている。あるいは、それが彼らに違和感を与えないのかもしれない。
 兵卒に案内され、呼延灼は陣内にある宿舎に向かった。見慣れぬ将軍の姿に、兵士たちが集まってきた。関勝が率いているのは、河北と山東の兵であるから、おもに西域で戦っていた呼延灼には馴染みがないのだ。しかし、中には呼延灼を知っているのか、驚いた様子で礼をする者もいた。呼延灼も目顔で返した。
 あたりは一般兵士の宿営らしく、夕餉の支度をするために、兵卒たちが忙しげに行き来していた。呼延灼は、不思議な感覚に捕らわれた。
 今、彼は“敵地”にいるのである。しかし、揃いの軍装を身につけた兵士たち、敬礼の仕方も、使う言葉も──みな懐かしい。
 かつては、ここ──官軍こそが呼延灼の生きる場所だった。
 長く西域で西夏と戦い、梁山泊討伐を命じられ、敗れた。青州で起死回生をかけたが、また敗れ──ついに、軍籍を捨てた。
 朝廷にも、軍にも、とうに彼は失望していた。
 腐敗した朝廷、脆弱な文人将軍たち。兵士たちは喰うために軍に身を投じ、戦うことの意味さえ知らない──それが、国を守るべき軍の今の姿だ。
 しかし、彼は“軍神”であった。兵士たちは彼に命を預け、民衆は彼の勝利に安堵した。宋国のために戦うこと──それは、彼の誇りであったのだ。
 関勝になにもかも告げ、本当に梁山泊を帰順させ、軍に戻れれば──心に浮かんだその考えに、呼延灼は驚き、動揺した。
 同時に、それこそが自分のとるべき道だと、心のどこかで何者かが囁いた。
 梁山泊こそ、すべてを失った彼が辿りつくべき場所だった。彼はそう信じていた。しかし、今、彼を受け入れてくれた晁蓋はすでに亡く、宋江も死の床についている──。
 呼延灼は、深く息をついた。
 低く詠じた。
“いと高き兵車の上より、弓をもて我を招かる──馳せ参じんとの思いはあれど、我が友朋の謗りを畏る……”
 与えられた宿舎の前には、剔雪烏騅が繋がれていた。梁山泊征討にあたり、天子から賜った千里の駒だ。
 雪まじりの風に烏騅がいななく。
「烏騅よ、烏騅よ」
 冷たい風の中に佇み、呼延灼は灰色の空を見上げた。



「わしは──どこへ帰るべきなのだ」


※文中の『啄鹿原』は、正しくはです。
※文中の『火眼俊猊』は、正しくはです。
※文中の『登飛』は、正しくはです。
※文中の『金燦斧』は、正しくはです。
※文中の『豊美』は、正しくはです。
※文中の『芒湯山』は、正しくはです。
※文中の『運城県』は、正しくはです。
※文中の『赫思文』は、正しくはです。
※文中の『剔雪烏騅』は、正しくはです。




BACK