水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第七十六回
梁山泊編
元宵(前編)


 その年は、近年にないほど雪が多かった。
 済水にかかる、小さな石橋も降り積もった雪に埋もれていた。午後、雪は小やみになり、薄い日差しが射している。
 一面の銀世界、淡く舞う雪花の中に、一人の佳人が佇んでいた。冬の精か、雪の仙女か、侍女の差しかける傘の下に俯けた横顔は、えもいわれぬ嫋々とした美貌である。明らかに情人を待つ風情であったが、その眼差しは憂いを含み、怯えているようでさえあった。
 間もなく、雪を蹴散らして一頭の駿馬が駆けてきた。手綱を取るのは、東平府兵馬都監、“風流双槍将”董平である。橋のたもとで馬から飛び下り、佳人のもとに歩みよった。
「──麗芝、来てくれたか」
 佳人は、董平の上司である東平府の知府、程万里の令嬢──程麗芝だった。
「久しぶりだ、会いたかったぞ」



 董平は麗芝の手をとった。玉細工のような手は、震えているようだった。董平は自分の斗篷を脱ぐと、佳人の華奢な躰をすっぽりと包み込んだ。
 二人は人目を忍ぶ仲である。出会ったのは夏の初め、董平は一目で麗芝を生涯の伴侶と定めた。すぐに結婚を申し込んだが、いまだ婚約は整っていなかった。
「しかし、ようやく許しを貰った」
 董平の顔は希望と自信に満ち溢れていた。
「今、“大刀”関勝が勅命を受け、梁山泊を攻めている。しかし、どうやら難航しているようだ。この機に、東平府が功を上げれば、その時こそ、お前を呉れると約束した」
 十日前のことである。
 梁山泊方面に炎が上がるのを見た董平は、援軍として出陣しようとした。東平府は長く梁山泊の害に苦しんでおり、董平は我こそ梁山泊を平らげる者と自負していたからだ。しかし、程太守は董平に出陣を許さなかった。
「間もなく童枢密閣下からの援軍が着く──しばし、待て」
 程万里は元は童貫の屋敷に雇われた門館先生──子弟の家庭教師である。童貫の推挙で知府にまでなったものだ。
 梁山泊討伐の指揮官として、最初に関勝の名を挙げたのは蔡京である。関勝がこのまま勝っても、蔡京の功となるばかりで、童貫には何の益もない。
『趙を囲んで魏を救う』の本意は、趙と魏、両方の戦力を消耗させ、最後は斉が利を得る──ということにある。関勝と梁山泊を戦わせ、両軍が消耗したところで、童貫が援軍として出陣し勝利すれば、すべての功は枢密使・童貫のものとなる。
「その時こそ、東平府も出撃する。お前が梁山泊討伐で手柄を立てれば、もちろん娘との結婚のことも考えよう」
 関勝軍、勝利得られず──そう報告が来たのは、それから間もなくのことだった。
「──案ずることはない、麗芝」
 雪のように白い肌、絹の黒髪、風にも耐えぬなよやかな姿は、まさに詩文から抜け出たごとき完璧なる美、天然の奇跡である。この佳人が自分ひとりを愛し、頼りとしている──そう思うと、董平の心は奮い立つ。
「お前の愛する、この董平を信じていろ」



 佳人は何か言いたげに顔をもたげたが、董平は、ただ恋人の震える肩を抱きしめた。
 降りしきる雪の向こうから、侍女の朱児が不安そうな目で二人を見守っていた。



 五丈河岸の関勝の陣にも、雪は果てもなく降りしきる。
 午後、赫思文と関勝は、偵察──とも云えぬ逍遙にでた。この雪では、人も馬も身動きできない。わずかに踏み固められた小道は、梁山泊のはずれの岸辺に続いていた。
「なぜ……卞河水軍が間に合わなかったのでしょう」
 凍てついた湖面を眺め、赫思文は誰にともなく呟いた。
 十日前、彼らが決戦と定めた日──勝敗の鍵を握っていた卞河水軍が来なかった。
 関勝の作戦は、こうであった。
 梁山泊が難攻不落といわれるのは、その湖のゆえである。葦原、岩礁、沼や絶壁という自然の要害、梁山泊の賊が築いた水寨や罠によって、艦隊が接舷できる岸がないのだ。しかし、童貫から与えられた一枚の未完成の地図に、活路があった。かつて梁山泊に潜入した刺客が作った未完成の地図である。
 広大な湖の中にある梁山を攻めるには、まず湖岸を制圧する必要があるが、船が出入りできる場所は、三箇所しかない。
 まず、梁山泊が小規模な出入りに使っている東岸、朱貴の居酒屋前の岸辺である。ここは迷路になった葦原と峻険な岩場があり、大型船や大艦隊を動かすことはできない。東岸の他の場所は、葦原や岩場、泥土の浅瀬などが、あらゆる船の出入りを阻んでいる。
 北冥鯤湖は底無しの泥沼で船を浮かべることはできないが、“聖水将軍”単廷珪によって湖と化し、船の航行が自由となった。
 そして、もう一か所が、南冥鵬森で守られていた南岸である。この岸辺は水深が深くて葦が生えず、最も無防備な岸だ。梁山泊はここに大規模な桟橋を築き、大型戦船の格納庫及び造船所として使用していた。
“神火将軍”魏定国は南冥鵬森を焼き払い、桟橋を一気に制圧して、卞河水軍の水城とする予定であった。
 関勝は梁山泊の生命線──彼らが輸送路に使っている五丈河を押さえ、自ら囮となって梁山泊軍を引きつけた。その間に、水火二将軍は北岸と南岸から梁山泊を挟撃する準備を進めていたのだ。
 準備が整った暁には、北からは単廷珪率いる水牛船団、南からは宣贊が蔡京に要請して借り受けた、天子直属の卞河水軍が梁山泊に攻め込む手はずであった。
 卞河水軍は開封郊外に停留する禁軍の水上部隊である。開封から梁山泊には、五丈河が直結している。それも、関勝が五丈河を抑えた理由のひとつであった。
 艦隊の動向は、梁山泊に知られてはならない。関勝は卞河水軍を上流の広済軍で待機させていた。決戦の日、夜陰に乗じて河を下り、南岸の桟橋で関勝、魏定国軍を乗せ、梁山泊へ侵攻するはずだったのだ。
 その艦隊が、来なかった。
「おおかた、蔡京と童貫のさや当てでしょうが……」
 赫思文は肩にかかる雪を払った。
 艦隊は、確かに広済軍までは来ていた。宣贊が確認している。作戦の時刻に絶対に間に合うはずだったのだ。
 今、北冥鯤湖は、氷の障壁が船の出入りを遮っている。
 南冥鵬森は消失したものの、岸辺は巨岩による九陣図の迷路が、水際には築城法の粋を集めた障壁が築かれている。
 もっとも、攻め込もうにも、関勝、魏定国軍には船がない。障壁を除いたとしても、南北から挟撃することができないのだ。単廷珪の船団だけでは、とても戦力は足りない。
「今なら、梁山泊にも船がないというのに……」
 赫思文は悔しがった。北冥で梁山泊の船はほぼ全滅、攻め込むならば、今だった。しかし、そのためには、どうしても船が必要なのだ。
 関勝は黙って湖面に落ちていく雪を見ている。
 雪は次第に激しくなり、梁山の姿はまったく見えなかった。






 雪の中に、燕青はひとり佇んでいた。
 すでに、ここ数日の日課のようになっている。四阿の欄干に寄り掛かり、降りしきる雪の彼方を眺める。目を閉じると、さまざまな音が聞こえた。
 雪風の中に、木を伐る音が響いている。単調に続いているのは、槌で杭を打つ音だろうか。遠い記憶の中にある祭の音を聞くような、不思議な懐かしさと胸の高鳴り──。
 今、梁山泊の状況は緊迫している、しかし、山は不思議な活気に満ち、張り詰めた緊張感を、みなが無頓着に楽しんでいるように見えた。
 北京の商人の世界、花柳界とは違う。あそこは華やかではあったが、誰もが人から侮られぬように、常に本当の心を隠していた。
 燕青もまた、盧俊義が喜ぶように、盧俊義に褒められるように──生きてきた。
 彼の人生から、盧俊義がいなくなることなど考えられない。燕青が今すべきことはただ一つ、盧俊義を助けることだ。
 しかし、梁山泊は雪と湖の中に閉じ込められて、盧俊義を助けることはできない。大海の空をひとり流浪う燕のように、燕青の心は頼り無かった。
「──燕青さん?」



 背後から呼ばれ、振り向くと、見知らぬ青年が立っていた。
 梁山泊には、戦のため泊外に出ていっている者を除いても一万以上の人間がいる。主立った頭領だけでも、百名近くがいるのだから、燕青が知らなくても仕方なかった。
「僕は楽和──呉用先生がお呼びだ」
 はっとするほど張りのある、美しい声で青年は言った。燕青は、“鉄叫子”とあだ名される歌の名手がいると聞いていた。燕青も音曲にかけては素人ではないと自負している。同じ年頃で、垢抜けた風采の楽和に、珍しく親近感を感じた。
「軍議かい」
「──多分」
 どことなく冷めた雰囲気なのも好感を持った。
「軍議に呼んでもらえるとは、俺も“仲間”になったのかい」
「さぁ──どうだろう」
 二人は並んで雪の中を歩いていった。山道から見下ろすと、金沙灘に梁山から切り出された材木が積み上げられていた。そのそばで、算盤を持った小柄な男が、背の高い男に向かって図面をつきつけ怒っている。
「計算どおりに作らぬか。船が沈むぞ」
「俺には俺の経験ってもんがあるんだ」
“神算子”の蒋敬が図面を引き、“玉旙竿”孟康が造船の指揮をとっているのだ。孟康は、元は長江水軍の船大工だった。
 梁山泊の船は、北冥の戦いで殆どが水没した。残っているのは、何隻かの輸送用の船だけだ。南冥に出陣していた燕青たちも、その船に分乗し、何十回にも分けて梁山泊に戻ってきた。いま、急いで船が造られているのだ。孟康の管轄していた南冥の造船所は、鵬森の火事が飛び火して焼け落ちた。その後には李雲と陶宗旺が障壁を築いているから、当分は使えないだろう。
「こんな所で一日三隻造れだと?」
「わしの計算通りにやれば出来るのだ」
 言い合う二人を後に、楽和は聚義庁への道を登っていった。中腹には、手下が家族と住む家やさまざまな作業場が集まった“村”が点在している。伐りだした木を製材する者、煉瓦を焼く者、盛んに火を焚き、湯気を上げているのは鍛冶屋だ。あばた顔の“金銭豹子”湯隆と、“挿翅虎”雷横が釘や鋲を作るのに忙しく働いていた。二人とも、もとは鍛冶屋なのだと楽和が燕青に教えた。
「人間、なにが役に立つか分からないものだな」
 燕青は“浪子”の経験は何の役にたつのか考えてみたが、あまり梁山泊では役に立ちそうもなかった。梁山泊には、楊志のような屈強な武人か、呉用のような策士、あとは特別な技術を持つ者ばかりがひしめいている。
 だから、楽和のような優しげな青年もいることに、燕青は少なからず驚いていた。
「楽さんは、元は歌手だったのかい?」
「僕?」
 振り返った楽和の眸が、その姿とは似つかわしくない光を放った。
「僕は、元は登州の牢番さ」
 返す言葉に詰まった燕青の傍らで、楽和がふっと息を吸い込んだ。
『“神算子”よ──口喧嘩で無駄にした時間を計算してみろ』
 響きわたった楽和に声に、燕青は思わず耳を押さえた。おそろしく響く、そして、美しい声だった。遙か麓の金沙灘で、孟康と蒋敬がぎょっとして立ちすくみ、あたりをきょろきょろと見回しているのが豆粒ほどに小さく見えた。
 楽和は黙って笑うと、そのまま山道を登っていった。
 やがて、二人は聚義庁の前に立った。燕青が礼を言って中に入ろうとすると、楽和も扉に手をかけた。
「──今日は、僕も呼ばれているんだ」
 楽和は、今度は囁くように言った。



 聚義庁には、造船と障壁作りの作業にかかっている者、出陣している者などを除いた、すべての頭領が集まっていた。
 中央の席には呉用がいるが、会議を取り仕切るのは“鉄面孔目”裴宣である。
「現在の状況を、李雲殿」
 金髪碧眼の“青眼虎”李雲が進み出た。
「北冥の氷城、南冥の障壁は完成した。今は、ほかの岸の作業にとりかかっている」
「造船の進行状況は」
「“神算子”の計算通りならば、年内に軽舟百隻、戦船は十隻程度作れるでしょう」
「輸送船も作ってもらわねば困る」
 李応が横から口を挟んだ。
「あの戦で、水軍の者たちが輸送船まで出し、それを座礁させてしまった。このままでは、物資の運搬ができん」
「その物資ですが、李応殿」
 李応は頷き、傍らの杜興を促した。杜興は懐から分厚い帳面を取り出し、頁を捲った。
「食料や物資は一年は十分に保ちますが、氷城を造るのに大量に使ったため、どうにも塩が足りませぬ」
「どれくらい保ちます」
「まぁ、節約して今年いっぱいといったところか」
 李応はため息をついた。梁山泊は物資の輸送や大軍の輸送に五丈河を使ってきた。それを関勝軍に封じられたため、李応が管轄する物資調達ができなくなっていた。
「どこかの城市を襲おうにも、湖岸には官軍がひしめている。闇塩を仕入れようにも水路は使えんし、どうにもならん」
 燕青は眉を顰めた。“軍議”などと恰好つけても、結局は略奪や闇塩の話だ。
(所詮、彼らは盗賊なのだ)
 そう思った時、ふいに呉用が燕青を呼んだ。
「燕青、あなたなら、どうします?」



「──え?」
 呉用がほんのわずかに微笑んだ。
「俺なら……」
 燕青は、呉用が自分を呼んだわけを悟った。
「塩なら──心当たりがないこともない。でも、ちょっと遠いぜ」
「どこでしょう」
「北京──さ!」



 翌日は猛吹雪だった。
 偵察に出た赫思文は、吹雪の彼方に梁山泊の軍旗がはためくのを確認した。
 梁山泊の兵力は二万余といわれるが、中でも精鋭なのは“霹靂火”秦明の率いる青州兵、“双鞭”呼延灼率いる連環馬軍、そして、“豹子頭”林冲率いる騎馬軍である。将と同じく白衣を身につけ、白馬もしくは葦毛に騎乗する。
(純白の軍か……)
 赫思文は、はっとして雪の彼方を見通した。降り続く雪の向こうに、色とりどりの旌旗が見える。雪風に舞う旗は、いつもとなんら変わりない。白い軍は、雪にまじってよく姿を見極めることができないのだ。
(まさか!)
 ふいに赫思文は走り出した。勘は、当たった。
「また──消えた」
 梁山泊の陣があった場所には、軍旗がたなびいているだけで、兵士一人いなかった。赫思文はすぐに陣に駆け戻り、関勝と宣贊に急を告げた。
「梁山泊に戻ったとも考えられるが、三千からの人馬が一度に輸送できるような船はないはずだ」
 宣贊は書見する関勝に向かい直った。
「──関兄、あの計画を始めて宜しいですな」



「呉用先生!!」
 偵察に出ていた李立が聚義庁に駆け上がってきた。
「船が──官軍の船が、歩いて移動している」
 呉用は聚義庁から出ると、花栄とともに櫓に登った。弓の名手である“小李広”花栄は遠目が効く。小やみになった雪の彼方に眼を凝らすと、西北岸を移動していく船の行列が小さく見えた。
「水牛の船──!」



 巨大な水牛が、車輪のついた船を引いて歩いている。これこそ、“聖水将軍”単廷珪の考案した、水陸両用の“爬山艦”である。
 その意図するところを、呉用はすぐに察した。
 梁山泊に攻め込むには、どうしても船がいる。北冥には、梁山泊から奪い取った船がある。だから、余剰の船を関勝軍に運び、南北呼応して攻める気なのだ。
 普通の船ならば、容易に陸路を運ぶことはできない。しかし、“爬山艦”ならば、自ら歩いて行ってくれるのだ。
「どうする、呉先生」
 船団はすでに西北岸を通り抜け、花栄の視界から消えていく。
「なんとしても阻止せねばなりません」
「しかし、先生。すぐに軍を渡せるだけの船はない」
 呉用は無言で櫓を降りて行く。
 櫓の下で、呼延灼が待っていた。北京に“呼延十二鞭”を影武者として赴かせた呼延灼は、秦明、林冲が不在の今、梁山泊の防衛をその一身に負っているのである。
「──呉用先生」
 呼延灼は常と変わらぬ泰然たる態度で言った。
「あの男を呼びましょう」



 雪の中を水牛はゆっくりと南へ歩いていく。本来は南国の生き物であるから、厳寒の中、その歩みは遅い。魏定国は陸の船団を守る兵士たちに赤々と燃える松明を持たせ、暖を取りながら南へ向かった。その時、忽然と空に雷鳴が轟いた。
 厳冬の今、雷鳴──のはずはない。
(火砲か)
 魏定国は空を見上げた。風に火薬に匂いが混じった。



「ばかめ、届くものか!!」
 火砲が岸に届くのは、かつて呼延灼が攻めた西北岸のみ。その事は、“轟天雷”凌振が一番よく知っているはずだった。
 梁山泊を攻めるにあたり、関勝が恐れていたものが三つある。“入雲龍”公孫勝の幻術と、“双鞭”呼延灼の連環馬、そして“轟天雷”凌振の火砲である。
 しかし、宣贊の調べによれば、公孫勝は、芒湯山で混世魔王と戦った時、五雷天心の正法を使っている。この術は内功を損じること甚だしく、ひとたび使えば半年から数年は術を使えないというのは周知の事実だ。残るは二つ。関勝は攻撃場所に連環馬の使えぬ河原、湿地、森の中を選び、火砲の届く西北岸を避けて布陣した。
 梁山泊の“奥の手”は三つとも封じられたのだ。
「怯むな、進め!!」
 魏定国は叱咤した。
“轟天雷”凌振の名は、“神火将軍”魏定国の上にのしかかる軛であった。
 魏定国も火薬を使うが、それは旧来の黒色火薬──燃えると真っ黒な煙を生ずる火薬である。しかし、凌振は新式の白色火薬を使う。煙は白く少量で、視界を遮る煙によって次の砲撃が妨げられることがない。その火薬の製法が、魏定国にはどうしても分からない。
(梁山泊を平らげれば、その秘密も──)
 ところが、今あたりには漆黒の煙が立ち込めている。風向きのため、梁山泊からこの岸へと吹き寄せられるのだ。刺激臭がきわめて強い。牛たちが悲鳴をあげていた。檄を飛ばそうと口を開いた魏定国も激しく咳き込んだ。



 爆発音は間断なく続いている。空に、湖に、梁山泊の峰に谺する。すさまじい轟音、振動、煙と悪臭である。雪中の行軍で苛立っていた牛たちは、角を振り立て、歯を剥いて、背に繋がれた船を振り払おうと足掻き始めた。
「進めッ!!」
 激しく揺れる船上から、魏定国は叫んだ。
「砲は届かぬ!!」



「──届かなくてもよいのです」
 呉用は白羽扇を静かに揺らし、煙を払った。
「どうぞ、派手にお願いします。“轟天雷”殿」



「“花火”ばかりではつまらん」
 凌振は“金輪”、“子母”、“風火”といった火砲を次々と放った。しかし、それらの砲身に詰められている砲弾は、鋼球でも石でもなく、弾に火薬や毒物を詰めた“丸薬”だ。破裂すれば、猛烈な臭気と煙を放つ。
「呉用先生、一発くらい、実弾を打ってもよかろう?」
「物資を無駄にしては、李応殿に叱られます」
「……つまらん」



 凌振はぼやきながら北京を脅すため新たに開発した“獅子吼”を放った。千の落雷にも勝る凄まじい砲声は千里の彼方まで響くだろう。水牛は狂ったように湖に向かって暴走を始めていた。
「水牛が湖に入っていきます!!」
 兵士が叫んだ。水牛は恐怖のあまり水中に逃れようとしているのだ。魏定国には為す術なかった。火の扱いは知っていても、“神火将軍”には水牛の扱いなど分からない。
「綱を切れッ……!!」
 魏定国は自ら剣を引き抜くと、水牛と船を繋いでいる綱を断ち切った。
 雪雲の彼方に黄昏が見え始める頃、あたりは漸く静けさを取り戻した。
 急変を聞いた単廷珪が駆けつけて来た時には、湖畔には切り離された百数隻の“爬山艦”と、放心したような兵士たちが雪の中に座り込んでいるばかりだった。
「幻術にでもやられたか」
 単廷珪は魏定国の前に立ち、いつもの無表情で言った。
 牛は一頭のこらず逃げ散っていた。遠くの岸辺に、雪から枯れ草を掘り起こしてのんびりと噛んでいるのが二、三頭見えるだけだった。
「牛が暴れた時は、目を塞ぎ、小刀で耳を切るのだ」
 単廷珪はそう言って、憮然とする魏定国に背を向けた。
「そうすれば痛みに恐怖を忘れる」
「──覚えておく」
 魏定国は斗篷を翻し、背を向けた。
 寡黙で冷静な単廷珪と、短気で潔癖な魏定国は、水と油──ならぬ、文字通り水と火のごとく相いれない間柄であった。
 火砲の音は関勝の陣まで届き、船団の輸送失敗はすぐに伝わった。報告を受けた赫思文は、宣贊とともに関勝のもとに向かった。この冬季、普通ならば近隣の村の家屋を徴発して宿舎にあてるところだが、関勝は毛織りの幕屋を宿舎としている。
 蝋燭がひとつだけ灯った室内は、外と変わらず寒かった。
「どうなさいます」
 言葉とともに、赫思文の口から真っ白な息が立ちのぼる。
「馬と人力で運ぶにしても……かなりの時間がかかりましょう」
 書見していた関勝が、ゆっくりと顔を上げた。
「──時間は、たっぷりとある」
 赫思文と宣贊は顔を見合わせた。
「あれは……何の声だ?」
 風に混じって、どこからか怪しい声が聞こえてくる。風のようにも、獣の咆哮のようにも聞こえる声だ。二人は急いで外に出た。やがて、偵察に出ていた宣贊の部下が駆けつけて来た。
「梁山泊に、白旗が上がりました」
「よもや、降伏か!!」
「宣贊──あれを聞け」
 赫思文は宣贊の腕をとった。耳を澄ますと、さきほど聞こえた声がいっそう激しく、はっきりと聞こえてきた。長く尾を引く不吉な叫び──。
「哭泣の声だ……」
 十一月晦日。
 梁山泊は“托塔天王”晁蓋の戦死を告知し、喪を発した。



 雪に覆われた梁山泊に、白い弔いの幡がたなびく。



 晁蓋の喪に服する──とは、呉用苦肉の策であったが、いつかは行わねばならないことでもあった。
 頭領たちも兵たちも、みな白い喪服をつけていた。香が焚かれ、紙銭が焼かれた。泊外から僧侶を呼ぶことができないため、魯智深が読経した。経文を読む声が山河を渡る。
 聚義庁の殯屋から晁蓋の柩が運び出され、頭領たち全員の手によって、山頂へと担ぎ上げられた。梁山の頂にある九天玄女廟の裏手には、宋江が植えた三本の棗の木が聳えている。その中央の棗の根元に、晁蓋の柩は葬られた。
 晁蓋を失って三月、梁山泊は嗚咽に満ちた。今まで、泣くことを禁じられていたのである。声を出して泣く者も、黙って涙を流す者もいた。阮小五は押し黙り、ただ懐の中で晁蓋が遺した銀の簪を握りしめていた。
 私物というものを持とうとしなかった晁蓋には、形見と言えるものは何もない。ただ、曽頭市に出陣する前に揮毫した『替天行道』の文字、それを刺繍した旗だけが、晁蓋が遺した全てであった。
『替天行道』の旗は、劉唐が曽頭市から持ち帰り、聚義庁の前にはためいている。純白に覆い尽くされた梁山泊の中で、その杏黄の色だけが鮮やかだった。
 葬儀の前、呉用は晁蓋が愛した四阿で劉唐を見た。傍らにある松の根元に座り、湖の彼方を見つめていた。あのまま、まだ座り続けているのだろう。
 呉用は、自分も泣ければいいと思った。晁蓋の死を告げられた時から、呉用は一粒の涙も零していない。
(山が走り、河が逆上らぬかぎり──我等の近いは永遠なり)
 北斗の党が血盟した時、呉用は天に誓言を述べた。
 晁蓋の死んだ嵐の夜、山が走ったという。
 いつか、河が逆上る時も来るのだろうか。
 誓いは破られた──呉用は、ふと梁山の峰に振り向いた。はるか彼方の岩峰に、公孫勝の白髪を見たような気がした。
 しかし、そこには雪が舞っているだけだった。
 呉用は晁蓋の真新しい墓を背に、みなの前に向かい合った。
 墓の前には、梁山泊に残っているすべての頭領が集まっている。いない者も多い。北京に出陣している秦明、柴進、扈三娘や時遷、北冥に捕らわれたままの張横、阮小七、行方知れずの燕順、欧鵬、登飛──そして、なによりも、宋江がいなかった。
 呉用は深く息を吸い込んだ。
(私は、梁山泊を守らねばならない)
 晁蓋が創り上げようとした梁山泊、宋江が守ろうとしている人々──呉用は懐から、一通の書状を取り出した。
「みなに──晁頭領の遺言を伝える」



 梁山泊の喪を告げる使者は、やがて関勝軍にも正式に遣わされてきた。
「赫思文よ、晁蓋の喪──信用できると思うか」
 赫思文の幕屋の中で、宣贊は赫思文と差し向かいで酒を飲んでいた。
「梁山泊とて、我等と同じ──時間が欲しいのだ」
「関兄は喪中の敵を攻めたりはせぬ。今頃になって晁蓋の喪を発すのは、我々を油断させ、隙を衝いて攻めるつもりかも知れぬ」
「それはどうかな」
 赫思文は宣贊の杯に酒を注いだ。
「彼らは、敵である関勝という男を信じた……“大刀”関勝は春秋の古君子、“晦日には兵を動かさず、戦中に敵に杯を献じる”男──礼に反することはせぬ、そう信じたとも言えるではないか」
「赫思文──お前は、本当に素直な男だ」
「まぁ、今夜は亡き敵の首領のために、乾杯でもしようじゃないか」
 宣贊がため息をついた時、外から声をかけた者があった。宣贊の部下の間諜だった。
「──戻りました、殿下」
 間諜は梁山泊の喪の真相を調べに行っていたのである。葬式の様子から、晁蓋の遺言の内容まで聞き込んでいた。
「仇を討った者を次の首領に──?」



 意外な内容に、宣贊と赫思文は顔を見合わせた。誰もが梁山泊の次の首領は“及時雨”宋江であると思っていた。もっとも、宋江がその姿を見せなくなって久しい。童貫の放った刺客が、宋江に毒を盛ったという話は、宣贊も聞きつけていた。
「やはり、宋江はすでに死んでいるのではないか」
「しかし、自分の仇を取った者を次の首領にしろなどと……」
 赫思文は首をかしげた。
「晁蓋とは、そんな男だったのだろうか」
 赫思文は、賊にも賊の信義、矜持があると考えていた。梁山泊という、これだけの規模を持つ山の基礎を創り上げた“托塔天王”晁蓋という男を、一度は会ってみたい人物──と、評価していたのである。
 それが、次の首領を決めず、部下の間に手柄争いを起こしかねない遺言を残すとは。
「宣贊よ、北京の梁山泊軍、そして、西北岸から消えた三千騎の行方はどうなった」
「──分からぬ」
“醜郡馬”宣贊は、子飼いの優秀な間諜を何人も抱えている。しかし、今度に限って、彼らにさえ探り出せない事が多すぎた。こんな戦は始めてだった。相手の動きは見通せず、こちらは、あてにならない朝廷の動きに翻弄されている。宣贊は酒を呷った。
「東京から──連絡が来た」
「ほう、枢密院が珍しく本当の情報をくれたのか」
「──太尉の宿元景殿が教えてくれたのだ」
 朝廷は、なぜ艦隊が来なかったのか──という宣贊の問いに、何ら明確な返答を与えなかった。宣贊は個人的な知り合いである太尉の宿元景に手紙を書いた。宿元景は今の朝廷には希有の高潔な人物である。
 その返答は、こうであった。
 蔡京は確かに勅書を頂き、天子直属の卞河水軍──御船を借り受けた。艦隊の司令官には自分の末息子を据えた。かつて江州の知府を務め、梁山泊の攻撃を受けた蔡九知府──蔡得章である。江州戦の後、責任を取る形で東京に戻り、その後は父親の七光で様々な官職を転々としていた。
 政権を一手に握ってきた蔡京ももう七十、本来ならば官僚が引退する年である。しかし、長男とは相性が悪く、自分の築いた政治地盤は溺愛する末息子に継がせたいと考えていた。
 蔡京は御前調練にも使う華麗な艦隊に末息子を乗せ、功名を立てよと広済軍へ送り出した。
 その後まもなく、今度は、童貫が上奏したというのである。
『陝西の国境地帯に西夏の大軍現るとの報あり。黄河に沿って南下中との情報ゆえ、至急、卞河水軍を呼び戻し、大艦隊をもって大宋国の威を示し、胡どもを追い払わん。これ、梁山泊の賊徒討伐よりも急務なり』
 西夏は宋の西北地域を圧迫している拓跋氏の国である。宋国とは一応の盟約関係にあるが、精強な西夏兵は常に国境を窺い、隙あらば京兆地方へ侵入しようと虎視眈々と狙っている。宋国は国境地帯に莫大な戦力を割いており、北方の遼とともに油断できない巨大な敵であった。皇帝は驚き、すぐに許可する勅書を下した。
 その勅書は急使によって広済軍の艦隊に届けられ、蔡得章は蔡得章は即刻、船首を西に転じるよう命を下した。
 陝西の国境警備隊から続報が届いたのは、艦隊が広済軍を去った翌日の事だった。“西夏の大軍”と見えたのは、西夏からの入貢団──朝貢のための使節団であった……と使者は告げたのだった。その知らせが蔡得章に届いた時には、艦隊はすでに開封郊外に到達していた。蔡京はなすすべなく、体面を保つため、そのまま艦隊を西へ、西夏の使節を迎えるために送り出したという。
『この茶番劇は、おそらく蔡京、蔡得章が手柄を立てるのを妬んだ童貫の仕業であろう』──宿元景の手紙は、そう結んであった。
「──くだらん」
 宣贊は吐き捨てた。
 そんなくだらない理由で、周到に準備した梁山泊攻略の機会を逃したのかと思うと、腸が煮えくり返る。童貫も蔡京も、自分の栄達のことしか考えていないのだ。
 宣贊は朝廷というものを信じていた自分の甘さを呪い、艦隊が来なかった理由を、いまだ関勝に告げられずにいた。
「しかし、さらに恐るべきことは、梁山泊がそのことを知っていた──という事だ」
 宣贊の声が曇った。
 梁山泊は、五丈河の艦隊には無頓着だった。所詮は山賊──そう、宣贊は侮った。
 しかし、彼らは蔡京と童貫の確執を、艦隊は来ないという情報を、宣贊の間諜よりも先に掴んでいたのだ。
 梁山泊には、“鶏狗”と呼ばれる異能の諜報集団があり、宮城にまで潜入している──という。おそらく、彼らの仕業であろう。
「──ただの山賊ではない」
 頭巾をつけた宣贊は、人前では決して飲食をしない。しかし、この夜だけは頭巾を傾け、赫思文の注いだ酒を口に運んだ。



 その日、北京大名府の上にも雪雲が厚く垂れ込めていた。
 朝のうちは晴れ間も見えていたのだが、昼を過ぎると粉雪がちらつき始めた。



 北京軍正牌軍、王定は五百騎の部下を従え、舞い散る雪の中、城外の警邏に出た。吹きつける風は冷たいが、妻が作ってくれた毛皮つきの頭巾が暖かい。
 北京を急襲した一万の梁山泊軍が忽然と姿を消して、一月余。その行方は杳として知れない。“大刀”関勝の急襲を受けた梁山泊の救援のため撤退したと考えるのが妥当だが、それも確証はない。北京軍は引き続き梁山泊に対する警戒を怠らなかった。
 王定は城外五十里まで偵察に出たが、なにも異常は発見できなかった。ただ、妙に乞食の姿か多かった。あちらの橋の下、こちらの古寺と、場所を見つけては小屋掛けして細々と暮らしている。
 帰路についた王定は、城門近くの虹橋のたもとで、冬だというのに子供たちが裸に筵一枚をまきつけて駆け回っているのに出会った。見れば、十数人の乞食たちが橋の下でからっぽの鍋を囲んでいる。
「お前たちはどこの者だ」
 年かさの乞食が、垢で汚れた顔を上げた。
「いろいろだぁな。わっちは洛州、こいつは遠くて真定だ、なあ」
「はァ、去年は蝗の害で、粟ひとつぶ実らなかったもんで、おっきな街なら喰えるべえと流れてきたんだ」
 北京はもともと乞食が多い。貧しい北方から流れてくるのだ。特に年末になると、借金を返せない貧民が故郷を逃げ出し、大量の流民となって集まってくる。北京ほどの都会であれば、物乞いするにも、残飯を漁るにも、どうにか生きていけるだけの実入りがある。
「そうか、怪しい者を見なかったか」
「怪しいって」
「たとえば武器を持った者……梁山泊の者などだ」
「さてなぁ」
 答えは一向に要領を得なかった。王定は諦め、城へ戻った。
 王定が去ると、流民たちは懐から欠けた茶碗を取り出した。王定と擦れ違うように、一団の乞食たちが街の方からやって来る。
「許大丐が来た!!」
 子供たちが歓声を上げて駆けだしていく。
「──みな、寒い中、難儀をさせるな」
 北京丐幇の幇主、許大丐は手下の乞食たちに大きな鍋をいくつも持たせていた。香ばし粥の匂いに、流民たちが続々と集まって来る。
 王定が“梁山泊軍”を見つけられなかったも、仕方ないことであった。
 北京を攻めた軍勢一万のうち、実際の梁山泊軍は老弱兵を含めて三千余、残りはこの乞食と流民たちであったのだ。解散すれば、すなわち乞食に戻って野に隠れる。初めから存在しない軍隊であった。そして、実際の梁山泊軍三千も山野に軍備を隠し、流民の群に溶け込んでいるのである。隠しようのない軍馬だけは、石勇と段景住が馬商人に変装して北方へ連れ去った。時期が来れば、北京に売りに行くふりをして、また連れ戻る手筈であった。
「“臘八万人粥”だ、たんと喰え」
 続々と集まってくる流民たちの欠け碗や割れ鍋の中に、許大丐は棗や胡桃のはいった粥を入れてやった。
「今日は一年で最も寒い臘月八日──臘八だ。しかし、この臘八粥を喰えば風邪などひかぬ」
「北京はええとこだ。もう暫く、いるべぇ」
 流民たちは争うように熱い粥をむさぼり喰う。
 そのそばを、華やかに飾りたてた馬車が何台も北京の方角へと通っていった。着飾った女たち、楽器を抱えた芸人たちを満載している。誇らしげに掲げられた幟には、『東京万竜千凰社』、『天下第一歌手 鶴楽仙』と大書されていた。
 最後を行く馬車には、ひとりの瀟洒な若者が腰掛けて、歌を口ずさんでいる。吹雪さえ息をひそめるような、凄艶な歌声だった。



  長安に男子あり
  二十にして、すでに心朽ちたり
 それが梁山泊の“鉄叫子”楽和であることを知る者はなかった。



 許大丐の臘八粥は、北京の牢獄の中にいる盧俊義と石秀にも届けられた。
 蔡慶と蔡福は、それに心尽くしの燗をした酒をつけた。冷血をもって鳴る“慶福”には前代未聞のことである。二人は石秀の耳に囁いた。
「梁山泊は、官軍の包囲を受けて、大変なことになっているらしい」
「あんたたちのことは、東京から何とも言ってこないし──様子を見るしかない」
 石秀は粥と酒を持って鉄格子を離れた。
“慶福”のおかげで牢内の待遇は良かったが、日の当たらない地下牢である。鼠や虱もどうしようもない。長い牢屋暮らしに盧俊義はすっかり憔悴して、別人のように窶れ果てていた。終日、藁の寝床に横たわり、ほとんど食事も取ろうとしない。
 石秀は盧俊義を起こし、口許に粥を運んだ。
「臘八粥だ。力がつく」
「──うむ」
 こぼした粥を拭ってやると、盧俊義は抗うように体を起こした。
「大丈夫だ……燕青」
「俺は燕青じゃないって」
 虚空を見つめる憔悴しきった眼差しに、石秀は楊雄のことを思い出した。ゆっくりと粥を食べながら、盧俊義は呟いた。
「さっき、夢を見ていたようだ……」
「どんな?」
「夏の……」
 ぼんやりと言葉が途切れた。
「燕青に、言わなねばならぬのを……ずっと、忘れていた……」
 盧俊義は碗を置いた。
「きっと、忙しすぎたのだな──」



 盧俊義は目を閉じ、藁の中に深く体を沈めた。
「ここを出たら、少し、ゆっくりと休もう……」



「そろそろ、元宵の準備をせねばならぬな」
 北京留守司・梁中書がそう言いだしたのは、正月も過ぎた日のことだった。
 元宵節は一月十五日、正月が過ぎて最初の満月の夜である。灯籠を飾り、人々は大いに楽しむ。北京の灯籠祭は大規模なことで有名で、全国から見物人が集まってくる。
 しかし、今年は梁山泊を警戒して、祭は取り止めようという意見があった。中心は、兵馬都監、李成、聞達の二人である。梁中書の意見は違った。
「梁山泊の賊どもは“大刀”関勝の討伐を受け、今にも滅ぼされようとしているそうではないか。関勝を推挙した舅殿がそう伝えて来たのだから、間違いはない。賊軍が北京から消えたのも、梁山泊に戻ったのであろう。これぞ、まさしく“趙を囲んで魏を救う”」
「しかし、万一のことも考えませんと」
「そう申すので、新年の行事も控えたが、何事もなかったではないか。このままでは、賊を恐れていると北京大名府の威信は地に落ちる」
 梁中書はいつになく頑強に言い張った。
「それに今年は閏一月のある年だ。一月が二度ある年は、春の訪れが遅いと決まっている。民は不作を憂いておろう。こういう時こそ、例年にも増して大規模な祭を行い、民心を安定させるべきではないか」
 その言葉の半分は、蔡夫人の入れ知恵である。蔡夫人は、そろそろ夫を朝廷の顕職に着け、東京に戻りたいと考えている。しかし、父親──すなわち蔡京の周囲には、要職にありつこうとする彼女の兄弟、甥、従兄弟たちがひしめいている。どうしても、身近にいる彼らが優遇されるのだ。しかし、この度の戦のおかげで、蔡夫人の泣き言に蔡京が珍しく動いてくれた。
「今年は、朝廷でも特に慰安の意味を込めて、小王都太尉をお遣わしになる」
「なんと、王都尉を」
 王都尉──小王都太尉とも呼ばれ、名を王晋卿という。天子の姉君の夫であり、かつ最も親しい遊び相手である。
 風流皇帝・趙佶は、政では蔡京、童貫を頼っている。しかし、この頃では、すでに老境にある二人に代わって、若い寵臣たちが台頭しはじめていた。蔡京の長男である蔡攸や宦官の梁師成、道士の林霊素などといった、同年代で趣味も合う者たちである。その中でも、最も信頼を得ているのが王都尉であった。
 王都尉は名家の出身で趣味も優れた人物だが、奇行を好む事でも知られていた。殿前太尉の高求がまだ街の一無頼漢“高毬”であった時、彼を取り立てたのも王都尉である。
 その附馬殿下が天子の名代として北京の慰問に来るとなれば、李成、聞達も頷かないわけにはいかなかった。



 一月十五日、元宵節ならば城内に人を送り込むことができるのではないか──そう教えたのは、燕青だった。近隣から集まる灯籠見物の人々のため、城門が一晩中、開け放たれているのである。どの城門にも見物客が行列をなし、それに紛れ込めば怪しまれることはない。
 昼過ぎ、“赤髪鬼”劉唐は赤毛を頭巾の中に押し込み、役人のなりをして北京に入った。三々五々、梁山泊を抜け出した者たちが、すでに先に潜行している。彼らが決められた位置に着いているかを確認するのが、劉唐に与えられた任務であった。



 留守司前の橋のたもとで、猟の獲物を竹にぶら下げて売っているのは、解珍、解宝の兄弟である。元宵節の御馳走を作ろうとする人々で、商売は繁盛のようだ。その先の城隍廟の門前では、僧形の二人──魯智深と武松が博打を打っている。劉唐は二人の勝負を覗き込みたい衝動にかられたが、我慢して辻を曲がった。そのまま東門へ歩いて行くと、物見遊山の若い旅人と擦れ違った。史家荘の御曹司、“九紋竜”史進である。いかにも暇そうな様子で、ぶらぶらと通り過ぎていく。
 東門から真っ直ぐ伸びる大通りは、北京一の繁華街である。留守司や梁中書の屋敷、州の役所も並んでいる。州役所の裏手が盧俊義たちが捕らえられている牢なので、梁山泊の配置はこの東大街に重点が置かれているのである。



 賑やかな通りを歩いて行くと、路傍の茶店に顧大嫂と孫新の姿を見つけた。田舎者の夫婦のなりで、顧大嫂はさかんに棗粽をぱくついている。斜め前の小間物屋では、令嬢風に装った扈三娘が下僕に扮した王英を連れて紅を見ている。
 その頃、白虎山の孔明と孔亮は乞食の恰好で表通りをうろついていた。ぼろぼろの羊の毛皮を身につけ、手には竹の杖と欠けた丼を持っている。
「貧は士の常、死は人の終わりなり──」
 乞食をするのに『論語』を使うわけにはいかないから、『列子』の歌を唄いながら物乞いをて歩いた。その肩を、後ろからいきなり掴まれた。
「──おい」
 びっくりして振り向くと、雑技芸人の恰好をした時遷が立っていた。鵞鳥の羽飾りを山ほどつけた、珍妙な帽子を被っている。時遷は首を振り振り、舌打ちをした。
「あかん、あかん。そんな生っちろい乞食がおるかいな」
 時遷は道端から泥を掴むと、兄弟の顔になすりつけた。
「一人でも見破られたら、この計画は──」
 言いかけた時遷の脇を、劉唐が擦れ違いざま殴りつけた。
「こんな所で口をきくな。役人に見とがめられたらどうする」
 劉唐はそのまま路地へ曲がった。近くから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「こんな布が五貫? 冗談じゃない」
 見れば、施恩が布を売る店に腰を据え、あれこれと品物を選んでいる。劉唐は施恩を引っ張って物陰に連れて行った。
「おい、買い物に来たんじゃないぞ」
「このほうが怪しまれないよ」
 施恩はすでに大きな買い物の包みを抱えていた。
「梁山泊じゃ、ろくな布地が手に入らないからね。蘇州の絹を手に入れたよ。侯健に袷を縫ってもらおう」
「自重しろ。俺だって一勝負したいのを我慢しているんだぞ、この俺が!」
 その時、劉唐の背後の妓楼から、妓に送られ二人の巨漢が現れた。商人に化けた杜遷と宋万である。施恩が二人を呼び止めた。
「ちょっと君達」
 ばつの悪そうな二人の姿を、施恩はじろじろと眺めまわした。
「なんだい、その恰好。そんな趣味の悪い北京者はいないよ」
「孔兄弟に選んでもらったんだがのう」
「孔兄弟? お話にならないな!」
 施恩は大げさにため息をついた。杜遷と宋万は顔を見合せ、施恩の後ろを指さした。
「だったら、あいつらは」
「あいつらは、どうじゃ」



 向こうの通りに、小さな灯籠をたくさん下げた天秤棒を担ぐ鄒淵、鄒潤の姿があった。可愛らしい灯籠と、二人の凶悪な面相がぞっとするほど不釣り合いである。
「お化け灯籠だぁ」
 子供たちが大喜びで二人の後をついていった。
 街は明るく、賑やかで、北京全体が祭の喧騒に酔いしれていた。
 その頃、燕青は張順とともに永済渠の水門から北京城内に潜入していた。“浪子”燕青は北京では顔を知られている。陸路からは入城できないので、張順とともに水路を隠れて行くことにしたのである。
 張順は、まさに一匹の鮠のごとくに暗い水路を泳いでいく。燕青も負けじと追った。
 水はまだ刃のように冷たい。
 しかし、さして寒さも感じなかったのは、盧俊義を助けようとする使命感のためか、それとも、こんな大胆な作戦の一翼を担うという高揚感のためか、燕青には分からなかった。



 決行は十五日の二更、街の中心にある翠雲楼に火の手が上がるのが合図である。
 翠雲楼は三層からなる壮麗な酒楼で、城内のどこからでも、また城外からもよく見える。北京一の高い格式を誇り、めったな客は二階以上には入れない。三階の上座敷に座ることができるのは、王侯貴族、県令以上の役人、商人では盧俊義くらいのものだ。借賃も一晩で銀百両という高値である。それでも元宵節ともなれば、一年も前から予約を入れておかねばならない。今年は盧俊義が予約していたのだが、本人が捕らえられたため取り消しとなり、梁中書の貸し切りとなった。
 宵闇が街を覆うと、北京の街に飾られた数えきれない灯籠に一斉に火が灯された。家々の門前には意匠を凝らした飾り灯籠、街路樹には謎々を書いた灯籠がずらりと吊り下げられている。大通りや広場、橋、役所前には、巨大な仕掛け灯籠も据えられている。口から水を吐く金銀の竜を模した灯籠、蓮花の中でくるくると仙女が回るもの、いずれも見事な細工である。
 祭の中心は翠雲楼のある広場と、広場から東門まで続く東大街である。広場にも通りにも露店や人が溢れていた。しかし、梁中書も翠雲楼を訪れるため、広場一帯には厳しい警戒体勢が敷かれていた。翠雲楼の門前には夕方から五百人余りの兵隊が陣取って、出入りする者に監視の目を光らせていた。身形の貧しいもの、怪しげな様子の者は店に近づくことも許さない。
 やがて、その門前に賑やかな歌声と囃子とともに数台の馬車が轎が乗り付けられた。乗っているのは、艶やかに装った踊り子、白塗りの道化、楽士や猿を連れた男など、一目で芸人と分かる者たちだ。
「待て」
 進路を遮った隊長の前に、恰幅のよい老人が進み出た。
「我々は東京から招かれました一座でございます」
「『万竜千凰社』の者か」
「さようでございます」
 梁中書が王都尉をもてなすため、東京から評判の芸人一座を招いているいう報告は聞いている。兵士たちは芸人を一列に並べた。芸人たちは武器など隠していないか念入りに調べられ、女たちの簪、眉切り鋏、道化が持っていた小さな火口も取り上げられた。小道具の類も調べられ、雑技に使う飛刀、小刀も没収である。その上で、芸人たちは一人一人、東京から送られて来た一座の名簿と突き合わされた。
「道化の“皮上鼠”劉侏儒……よし──行け」



「おおきに」
 顔を白く塗った“鼓上蚤”時遷がぺこりとお辞儀をして通りすぎていく。座長の老人は“八百先生”、芸人は“影法師”、“偸桃”ら、すべて“鶏狗”の面々であった。本物の『万竜千凰社』と途中で擦り代わったのである。もちろん書類の風貌と合うように抜かりなく変装している。最後に残った歌手──“天下第一歌手 鶴楽仙”は“鉄叫子”楽和であった。万能の“鶏狗”ではあるが、あいにく“天下第一”を謳えるほどの者がいなかったのだ。検分係の兵隊は書類を捲った。
「鶴楽仙は歳三十一とあるが……随分と若く見えるな」
 兵隊が眉をしかめると、横から踊り子たちが口を挟んだ。
「あら、兵隊さん。じゃあ、あたしは幾つに見える」
「二十二、三というところだろう」
「これでも四十よ!」
 女たちは笑いさざめく。
「芸人は歳を取らないからねぇ」
 隊長がやってきて、兵士の手から名簿を取った。名簿には、『鶴楽仙、三十一歳、歌手。中肉中背、髭はなく、色白で瀟洒な顔だち──』と記してある。姿形は間違いないが、目の前の男はどう見ても二十代の若者だ。
 その時、一頭の馬が兵士たちを蹴散らして翠雲楼の前に乗り付けた。兵士たちが武器をとって駆け寄っていく。
「止まれ、止まれ!!」
 兵士たちに取り囲まれたのは、駿馬に跨がった四十ほどの貴人である。花を飾った黄金の冠に錦の衣、黄金の太刀──馬上の人の高貴な様子に、兵士たちも手を出しかねていた。それを知ってか、貴人は面白そうに兵士たちの中を輪駆けする。
 梁中書はすでに三階の座敷に入っていたが、騒ぎを聞きつけて李成とともに階段を下りてきた。
「──王都尉殿下」



 やはり──という顔で、馬上の貴人を仰ぎ見た。騒ぎの元が、今夜の主賓、王都尉ではないかとは思ったが、まさか供も連れずに一人で馳せ参じてくるとは思わなかった。
「たいそうな警備だな、梁中書。戦でも始まるのか」
「ご冗談を」
「なんだ、つまらん」
 王都尉は馬から下りると、そばにいた李成にぽいと手綱を投げた。梁中書が東京にいた時分には、王都尉とは親しい往来があった。王都尉の気性を良く知っている梁中書は、努めて気さくに声をかけた。
「殿下のために、東京で評判の『天下第一歌手』──鶴楽仙を呼んでおきましたぞ」
 隊長が丁度よいと李成に言った。
「ところが、本人と確認できません」
「──ほう?」
 王都尉が“鶴楽仙”の顔を覗き込んだ。
「顔はよく覚えておらぬが、あの歌声は、一度聞けば忘れられるものではない。一くさり歌ってみよ」
 王都尉は楽和と目が合うと、にやりと笑った。
 楽和は進み出ると、すっと息を吸い込んだ。次の瞬間、楽和の喉から凝縮された空気が澄んだ歌声となって放出された。
   銀花の火樹 不夜の城
   陸地に擁出す 蓬莱の島
   燭竜 銜照して 夜光輝く
   人民 歌舞して 時安欣ぶ
 王都尉は、目を瞠った。
   王孫公子は まさに神仙
   高楼は、頃刻にして雲煙を生ず
「素晴らしい!」
 王都尉は盛んに手を打った。李成が楽和に行ってよいと合図した。
「間違いなく、“天下第一歌手”だ」
 楽和は王都尉に一礼し、翠雲楼に向かった。その耳に、王都尉が囁いた。
「これからは──な」

※文中の『赫思文』は、正しくはです。
※文中の『卞河』は、正しくはです。
※文中の『登飛』は、正しくはです。
※文中の『芒湯山』は、正しくはです。
※文中の『高求』は、正しくはです。
※文中の『附馬』は、正しくはです。


つづく



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