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「帰れや」
穆弘は、後ろを歩く柳絮に言った。

急峻な山道である。中秋、周囲には鬱蒼と樹木が繁っていた。緑を帯びた陰の中を、穆弘たちはもう長いこと歩き続けていた。穆弘の背には、傷だらけの張横が背負われている。傷に巻いた布にべったりと血が染みて、張横の全身は真っ黒に固まっていた。曽頭市で受けた凄惨な拷問のため、張横は廃人となっていた。
「もう、帰れや」
「どこに帰れというの」
柳絮は静かな声で答えた。その顔にも、緑の陰が落ちていた。
「どこにも帰るところはないわ」
確かに、今さら曽頭市に戻れるわけがない。
あの日──もう、何日前になるだろう。あの戦いの日、彼らは曽家の屋敷から逃げながら、空が真っ赤に染まるのを見た。ただならぬ色の空、そして、天地を揺るがした轟音は、街の北から聞こえてきた。何が起こっているのかは、誰にも分からなかった。穆弘たちは、ただ闇雲に屋敷から脱出した。止めようとする者はいなかった。曽家の者たちも、みな混乱していたからだ。穆弘たちは柳絮の導きによって、小さな勝手門から外に逃れた。そのまま北の砦に向かった。小魚が北から梁山泊軍が奇襲をかけると言ったからだ。この街から逃げるのならば、北しかなかった。
予想どおり、穆弘たちが辿りついた時、櫓には炎が燃えさかり、城門は開け放たれていた。しかし、その外には──なにもなかった。ただ雷鳴が轟き、嵐が吹き荒れ、なにか巨大なものが押し寄せ、通りすぎた跡だけが残されていた。穆弘は張横を背負ったまま、城門から駆けだした。なにがどうなったか。梁山泊のことも、阮兄弟のことも、誰がどうなったかは考えなかった。
闇にまぎれて曽頭市から逃れた穆弘たちは、山中に隠れた。木々がなぎ倒され、あちこちが川となった道なき山肌を、彼らは這うようにして進んだ。彼ら──穆弘、張横、柳絮……そして、もう一人、牢の見張りをしていた“険道神”郁保四が、曽頭市からずっと後を付いて来ていた。
「お前もぢゃ、でくのぼう」
柳絮の後ろをついてくる郁保四を、穆弘は怒鳴りつけた。
「ついて来るな!!」
郁保四は立ち止まったが、穆弘たちが再び歩きはじめると、また後をついてきた。
「けったいな奴ぢゃ」
穆弘は背中の張横をゆすりあげた。張横が呻いた。
「……“没遮闌”の」

「なんぢゃ」
「み、ず」
「水がほしいのか」
張横は咳き込んだ。背中にかかる重みが妙に頼りなかった。
「──潯陽江は、まだか」
わずかに沈黙があった。
「あほうが」
穆弘は再び歩きはじめた。歩きながら、あたりを見た。見えるのは延々と続く鬱蒼とした森だけだ。どこにも湧き水ひとつない。張横は穆弘の肩にぐったりと首を預けて、呟いた。
「江は、まだか」
その言葉の意味が、穆弘には分かった。江州の男ならば、分かるだろう。
江州の男に、墓はない。水の上で死ぬからだ。だから、名のある男の墓は地上にはない。墓のないことが、江州の男の誇りなのだ。死ぬ時は、水の上で死ぬ。しかし、今は茶碗いっぱいの水もない。
張横の体がどんどん冷たく、そして軽くなっていく。さっきまであれほど重たかったのに、この頼り無さはどうだ。穆弘は黙々と歩き続けた。ふたたび張横がつぶやいた。
「……水だ」
穆弘は答えなかった。張横の意識はすでに死の混濁にはいっている。穆弘は歩き続けた。張横が、もういちど言った。
「……水のにおいだ」
穆弘は顔を上げ、風を嗅いだ。鼻腔をくすぐるものがあった。何万という匂いのなかから、それははっきりと彼らに存在を訴えかけていた。水の匂いだった。嗅ぎ慣れた水とはどこか違う、しかし、確かに水の匂いだ。穆弘は積もった枯れ葉の上を走りはじめた。すると、ふいに森が途切れた。
「こいつは」

それは、不思議な世界だった。暗く繁った森が途絶え、空間が開けている。見上げると、丸く切り取られたような空が見えた。森が、そこだけ抜き取られたように枯れているのだ。その空間に、池があった。池か、泉か、湖といっていいのか、水になれ親しんできた穆弘にも判然としなかった。水は不思議な色をしていた。空の青、森の緑を映しているのか、ところどころ青く、また緑、あるいは金色に近い黄色に見えた。水はとても澄んでいる。そして、深い。近づくと、水底に立ち枯れた木が白骨のようになって沈んでいるのが見えた。その一方で、岸辺には羊歯のような植物がみっしりと繁殖している。周辺に生き物の気配はない。自然と声をひそめさせるような雰囲気が、あたりの空気に満ちていた。
「“船火児”の。水ぢゃ」
返事は無かった。穆弘は張横を背から下ろした。張横は目を閉じ、ぐったりと四肢を延ばしている。穆弘は、冷たくなった張横の体を両手で掲げ、きらめく淵に向かって放った。
「成仏せいや」
大きな水しぶきが上がり、張横の体がゆっくりと白骨樹の中へ沈んでいく。たくさんの気泡が湧いた。夏雲のように広がっていく真っ白の泡のなかに、張横の姿はゆっくりと包まれ、消えていった。

「“船火児”張横は死んだ。でくのぼうよ、これでお前の仕事も仕舞というわけぢゃ。もう、帰れや」
静かに沈んでいく張横をみつめたまま、穆弘は言った。柳絮がなにか言おうとした。
「女、お前も失せろや!!」
「どならないで」
柳絮の手が、穆弘の背中に触れた。
「お願い、どならないで」
穆弘は柳絮の手を振り払った。
「おめぇらが行かんのなら、わしが去ぬ」
ふいに泉が沸き立った。水面を覆うほどの夥しい気泡が湧いて、その真っ白な雲の中から、一本の腕が現れた。その腕が、去ろうとする穆弘の足を掴んだ。手は穆弘の足を掴み、そのまま淵の中に引きずり込んだ。柳絮が声をあげ、郁保四が淵に飛び込んだ。池は、一瞬だけしんと静まりかえった。やがて、穆弘の声が響いた。
「生き返りやがった!!」
大きな波を起こり、その中から郁保四の顔が現れた。郁保四は身のたけ一丈、かろうじて底に足がついた。郁保四は両腕に一人ずつ、穆弘と張横を掲げあげ、そのまま歩いて岸に向かった。張横が、叫んだ。
「熱い!! 体が……熱い!!」
張横はもがき、郁保四の腕から再び水中に落ちた。再び沈んでいく張横を、穆弘が追いかけた。
「こいつは水じゃねえ!!」
穆弘は張横の腕を掴み、水面に引き上げようとした。しかし、張横は首を振って抗った。
「このまま……このまま頼む」
「──好きにせい」
穆弘は張横の腕を離し、岸に上がった。その穆弘の体からは、白い湯気が立っていた。
柳絮は河原に膝をつき、淵の水に手をつけた。温かかった。さらに底のほうへ手を差し込むと、水は熱いほどだった。
「“還童泉”」
子供の頃に乳母から聞いた昔話だ。ある時、樵の老人が山のなかで道に迷い、七色に輝く不思議な泉にたどりついた。そして、そこに体をつけると、老人はみるみる若返り、最後には子供になってしまった──というおとぎ話だ。
(おとぎ話ではなかったのだわ)
張横は水中に横たわっている。水面に浮くのでもなく、水底に沈むのでもなく、魚のように水中に浮かび、目を閉じていた。全身は細かな泡に包まれていた。

それから三日三晩、張横は泉に漬かっていた。
泉の水は、日によって、時刻によってその色を変えた。青の時も緑の時も、赤と金、紫を帯びることもあった。張横の姿もまた、刻々と姿を変えたのである。一日目、包帯がゆっくりと解け、皮膚にこびりついていた血が溶けた。翌日には全身が黒くかわった。三日目には、干からびた木のように白くなった。白骨樹とまるで同じようになり、その一部になってしまったようだった。それきり、目に見えた変化は現れなかった。しかし、目をこらすと、張横の体から、細い白糸のようなものが滲み出しているのが見えた。肉なのか筋なのか皮膚なのか、糸は徐々に多くなり、張横の体を覆っていった。蛹になった蚕のようだと、柳絮が言った。
七日目に、張横は目を開けた。
いつの間にか、体のまわりに漂っていた糸が消え、傷口が生々しい血の色を見せていた。全身が、生まれたばかりの胎児のように紅かった。
張横は水中に横たわったまま、水ごしに空を見上げた。ゆらゆらと揺れる青い空。秋の日が静かな波を通して、張横の網膜に反射した。
張横は体を動かした。腕がほんの少し動いた。胸に鼓動を、足の裏に波を感じた。

(弟よ、俺は、生きているぞ!!)
張横は、声なき声で叫んだ。
水がまぶしいな、と張順は思った。


滔々と流れる長江。冬も近いというのに、水は江南の太陽を反射して、明るい。江の向こうは、ついに蘇州だ。
張順は宋江を救う薬を求め、“紫の髯”を探して、はるばる蘇州までやって来たのだ。蘇州は美しい街だった。街の西には太湖が広がり、街の中には運河が走る。水の都だ。その水も、黄河流域の濁った荒々しい水ではなく、静かに澄んでいる。そして、白い壁と黒い瓦屋根の家。運河を行き交う小舟。賑やかに笑う、丸顔で小柄な女たち。張順にとって、なつかしい長江の水、なつかしい江南の風景だった。風さえも肌にしっくりとくる。しかし、郷愁を味わっている暇はなかった。
懐には呉用から預かった百両の黄金がある。夏の終わりに出発し、すでに中秋。渡し船で長江を渡った張順の足は、自然と早まっていた。蘇州に入った張順は、手始めに薬屋に聞き込んだ。有名な医者ならばすぐに分かると思ったが、なかなか知っているという人間にはあたらなかった。
「“紫の髯”と呼ばれるお方……さて、聞いたことがありませんな」
みなが口を揃えて知らないと言う。蘇州中の薬屋を回ったが、答えは同じだった。ついに最後の一軒となった。お屋敷のような店構えの、蘇州でも一番の大店だ。軒先には『御用達』の看板がかかっている。庶民が出入りするような店ではない。張順は、思い切って敷居をまたいだ。
「ああ、“紫髯伯”皇甫端ですな」
何度となく繰り返した問を投げると、やぎひげの手代がすぐに言った。
「知っているのか」
「下々の薬屋は知らないでしょうな。あの先生は、皇族がたか高官か、やんごとなき方々しかお招きになれません。そういう方の紹介状がないと、会うこともできません」
「蘇州にいるのか」
「おります」
「どこに」
「先日まで王府のほうにおいでになりましたが、今は太守様のお客となっておられます」
薬屋を出た張順は、居酒屋に座り酒を頼んだ。久しぶりの江南の黄酒だったが、とても味わう気にはなれない。雑踏を眺めていると、捕り手役人の一団が通りかかった。張順はすばやく笠をまぶかに被った。江州はそう遠くない。張順はお尋ね者になっているはずだった。
(太守の屋敷か)
うかつには近づけない。役人の出入りも多いし、手配書などが回っていれば、見とがめられる。正面から訪ねていくわけにはいかない。思案しながら張順は役所に隣接する太守の屋敷を窺った。皇甫端らしき人物が出てきたら、何としても梁山泊へ連れていくつもりだった。しかし、いっこうにそれらしい人物が出入りする様子はない。数日目のことだった。その日も通りから屋敷の様子を窺うと、門が開いて人が慌ただしく行き来している。張順は一瞬、思案した。屋敷に入る好機である。
(いちかばちかだ)
「なにかあったのかい」
門番に尋ねると、太守が池の鯉を捕まえようしているのだが、どうしても捕まらなくて大変な騒ぎになっているという。
「そんなことか」
張順は笑った。
「俺なら、片手で捕まえてみせるんだが」
張順は門番に小粒銀を握らせた。よほど手を焼いていたのだろう、すぐに従僕がやってきて、張順は庭園に連れていかれた。広々とした池のある、それは見事な庭園だった。池の辺では大勢の家僕が網を手に右往左往している。その中に、太守らしい白髯の老人がいた。太守は髯を揉みながら、張順をそば近くに呼んだ。
「本当に片手で捕まえられると申すのか」
「二本の指でもいいですがね」
笑いながら、張順はさりげなく辺りを見回した。少し離れた四阿に、赤みががった髪の男が見えた。庭の騒ぎなど素知らぬ顔で、侍女となにやら話している。
(あれだな)
張順は太守に視線を戻した。
「どの鯉を捕まえるんです」
「この池に、全身が紅で、額に純白の星がある鯉がおる。その鯉を捕らえてほしいのだ。褒美はなんでもとらせるぞ」
「おやすいごようだ」
張順は上着を脱ぐと、ざぶりと池に飛び込んだ。太守たちが見守るなか、張順の白い体が瞬く間に池の中に消えていく。それきり、水面には波ひとつ立たなかった。
「どうした」
一行に浮かんでこない張順に太守が声を漏らした頃、池の中程にざっと波が上がった。
「おお」
人々が感嘆の声をあげた。水面から十歩ほどの高さに飛び上がった張順の手に、大きな錦鯉が抱えられていた。その鰓には、横一文字に短刀がぶっつりと刺さっている。張順は鯉を小脇に岸に上がった。
「こいつでしょう」

「おお……」
太守は目を皿のように見開いて、その手はぶるぶると震えていた。張順は不敵に笑った。
「この鯉は喰わないほうがいい。生きがわるい。腹をこわすぜ」
「わしの“紅衣仙女”が!! なんということを!!」
太守は絶望的な叫びをあげた。たちまち家僕たちが棒をとって張順を取り囲む。張順は鯉から匕首を引き抜き、身構えた。
「俺は鯉を捕まえろと言われただけだ。生きたまま、とは聞いていない」
捕らえろ、と太守が叫んだ。張順はぱっと後ろにとんぼを切ると、そのまま池の中に飛び込んだ。
「鯉を全部なますにしてやる!!」
匕首を手に池に潜っていこうとする張順を、太守があわてて引き止めた。
「待ってくれ。分かった、わしの可愛い鯉に手を出すな」
太守は兵隊たちを下がらせた。
「なにが望みだ」
張順は四阿を指さした。
「皇甫端先生と、二人きりで話したい」
すぐに太守は家僕を四阿に走らせた。しかし、なかなか戻ってこないもので、ついに太守みずからが行った。ひとしきり応酬があったあと、ようやく紫の髯の男がゆっくりと四阿からでてきた。碧眼紫髯、驚くほど背が高い。まさしく、異国の人間だった。

「なんの用だ。手短に言え」
“紫髯伯”皇甫端は不機嫌に言った。段景住よりよほど言葉がうまい。その背後には、護衛の兵が二十人ほども並んでいた。
(この医者、なにものかに命でも狙われているらしいな)
「まずは人払いをしてもらおう」
皇甫端はじろりと張順の顔を睨んだ。
「それとも、池の中で話しますかね」
「ふざけるな」
張順はひときわ大きな鯉に向かって匕首を振り上げた。太守が悲鳴をあげた。
「先生、どうか、どうか言うことを聞いてください」
医者は異国の言葉でなにか唸った。皇甫端の両側には、腕組みをした二人の禿頭の巨人が佇立している。二人とも異国の人間だろう。皇甫端がなにか命ずると、二人の巨人は肩を組んで膝をついた。その腕の上に皇甫端が腰を掛けると、巨人たちは立ち上がり、池に入った。
張順と、巨人に担がれた皇甫端は、池のなかほどで対峙した。
「この二人は心配ない」
張順が巨人に視線を投げると、皇甫端は顎をしゃくった。二人は大きく口を開けた。舌がなかった。張順は謹んで抱拳した。
「先生に頼みたいことがある」
「手短に話せ」
「あなたは、どのような毒も解毒できると聞いた」
「ふん、“いやしんぼう”が毒にあたったか」
流暢な漢語で皇甫端は言った。
「わしは波斯の王宮にも仕えた名医だぞ。診察料は高い」
「礼金として百金を持参している」
「はした金だな」
「治療してもらえるならば、礼はいくらでもする」
皇甫端は巨人に持たせていた煙管をとり、水煙草を一くち吸った。
「蘇州での用もなくなったし、行ってやらぬこともない」
「本当か。ああ、これで、宋江殿が救える」
皇甫端は紫の髯のあいだから、不思議な香りの煙を吐いた。
「宋江。ふん、その“宋江”というのは、馬か、犬か」
張順は皇甫端の顔を見返した。
「鸚鵡、孔雀の類かね」
「……」
「亀や蛙なら、ちと厄介だぞ」
「……宋江殿は人間だが」
皇甫端は煙管を吸い、ゆっくりと煙を吐き出した。
「わしは獣医だ」

「なんてこった」
張順は愕然として肩を落とした。異国の獣医は腹を抱えて笑った。おかしな小僧だ。治療すべき高価な錦鯉を殺したかと思えば、今度は人間の治療をせよという。
「笑うな!!」
張順が怒鳴ると、集まっていた鯉たちが逃げ散った。
「まぁ、そう怒るな。これも縁だ。どんな症状か言ってみるがいい」
「言っても無駄だ」
「小僧、わしがどんな毒でも解毒できるというのは、本当だぞ」
「……ならば言おう。ある毒を飲まされた。しばらくは何事もなかった。しかし、昏倒し、高熱に侵された。毒はやがて背中に集まって巣をつくり、胡人は、それが裂ければ死ぬと言っている」
「ふむ、藍蛇の毒か」
「ご存知か」
「当たり前だ」
皇甫端は大きな鼻をならした。張順は、ふと既視感におそわれた。昔、同じような話し方をする人に会ったことがあるような気がした。
「藍蛇の毒を解毒するには、方法はひとつしかない。闍婆国の摩娑石を使うのだ」
「摩娑石?」
「『開宝本草』に曰く、“南海に産し、一切の薬毒、瘴疫、熱悶を除く”。貴重な品だ。偽物は世間に出回っておるが、本物は宋国にもひとつしかない」
「どこに行けば手に入ります」
「ふん、やつには会わなかったのか」
「やつ?」
張順は皇甫端の顔を見返した。なにかを思い出しそうだった。なにか……いや、誰か。横柄な話し方、自尊心のやけに強い、この目つき──。
「やつとは……」
「あのやぶ医者だ」
「やぶ医者!!」
(……安道全!!)
「安先生!!」
「なんだ、知っているのか」
張順は皇甫端の顔を見返した。
「摩娑石はあいつが持っている。摩娑石は本来は猛毒だ。あれを処方できるのは、漢人では、やつ一人だけだ」
張順は豁然と悟った。似ていると思ったのは、“神医”と呼ばれる放浪の医者──安道全だったのだ。
「うかつだった。なぜ忘れていたんだろう」
“双竜”鐘剣に斬られた童威のために、張順は医者を探しに行き、潯陽江のほとりで安道全に出会った。風のように現れて、戦いが終わった時には消えていた。
「今、どこにいるかご存じですか」
「なぜ、わしが教えてやらねばならんのだ」
「あんた、何かから逃げているんだろう。あんたの居場所を言いふらすぞ」
「ふん、これだから漢人は嫌いだ」
皇甫端は水煙草の煙のむこうから、張順をじろりと睨んだ。
「建康で医院を開いているらしい。先日、手紙がきた」
皇甫端は横目で張順を見た。
「急いだほうがいいな。やつめ、摩娑石を売ろうとしているぞ」
鯉の戯れる池の中で、二人はなお暫く話を続けた。池のほとりの人々は手を拱いてそれを見守っていたが、突然、張順の姿が消えた。小さな波をたて、水中に消えたのだ。張順はいつまでも浮いてこなかった。太守は慌てて池を捜索させたが、張順はすでに逃れた後だった。運河に通じる小さな水門が破られていた。張順は“紅衣仙女”を追いかけた時、この池が外の運河に通じていることに気づいたのだ。
張順は水門から屋敷の外に逃れ出ると、そのまま船着場に向かい、水路を建康へと旅立った。長江を船で逆上れば、一両日の距離である。張順が去る前、皇甫端は安道全と開封で知り合った時の話をした。さる皇族の姫君が一匹の白い猩猩を飼っており、それが病気になっために二人が呼ばれた。二人は西方と東洋の医学の威信をかけて競った。しかし、いずれも猩猩を完治させるには至らなかった。二人はどちらからともなく、治療法を話し合うようになった。皇甫端が西方の薬を処方し、安道全が東洋の針や灸などを施すと、ほどなくして猩猩は癒えたのであった。
「相手がなんであれ、国がどうであれ、名医の道はおなじだ」
二人は不本意ながらそう認めた。以後も、時たま薬などを融通しあった。その安道全が、先日、摩娑石を売りたいと言ってきたという。その申し出を、皇甫端は断った。
「千金を投じて馬を治す物好きはおらんからな」
安道全の言い値は、摩娑石一つで千金。一生あそんで暮らしても残る金額だ。
(安先生になにかあったか)
張順の記憶にある安道全は、飄々とした、気難しい仙人のような人だった。金にこだわるようには見えなかった。もっとも、あの頃、張順はまだ子供だったし、あれから十数年たっているのだから、人も変わるのかもしれない。
張順が建康郊外の桟橋で客船を降りると、すでに夜になっていた。この先は、陸路か小舟で街まで行くことになる。この夜、ほかに旅客はなく星明りの中に張順はひとりで残された。川沿いに歩いていくと、葦の陰に一隻の漁船が停泊していた。
「おい兄弟、街まで行ってくれないか」
張順は舳先で寝ている若い男に声をかけた。背の高い、なかなか風采のよい男だった。

「今夜は波がある。朝になってからでいいかい」
「金ははずむ。急ぐんだ」
張順はひらりと船に飛び乗った。男は張順の顔に目をやった。
「あんた、泳げるか」
「いいや」
「なら、落ちないように気をつけてくれ」
船頭は船を漕ぎだした。星明りがあるものの、川面は墨を流したように暗い。遠くに人家の明かりがぽつぽつと見えた。どこからか、しゃがれた老人の舟歌が漂ってくる。
船にはもうひとり、ひょろりと痩せたどじょうひげの男がいた。男は篷の中から炊いたばかりの飯を出して、張順に勧めてくれた。江南の新米だ。張順は腹いっぱい食べた。懐かしい味だった。
(帰ってきたな)
ようやく、そう思う余裕がでてきた。張順は船縁に座り、流れる水に腕をひたした。このまま長江を逆上っていけば、半月もかからず江州だ。潯陽江を離れてから、もう何年になるだろう。故郷の様子はどんなだろう。魚河岸は彼なしでもちゃんと回っているだろうか。そして──兄はどうしているだろう。
張順はごろりと船板の上に寝ころがった。星が見えた。船底を通して伝わってくる、波の揺らぎがなつかしい。梁山泊でも毎日、船に乗っていたが、やはり湖である梁山泊と長江とでは、波の動きが違うのだ。長旅の疲れが、安心から一気にでたようだった。全身を包み込む穏やかな揺れに誘われて、張順はいつしか眠り込んでいた。
さっと冷たい風が頬をないだような気がした。
目を開けると、傍らに船頭が膝をついていた。殺気を感じて張順は懐の短刀を抜こうとした。しかし、いつの間にか両手が後ろ手に縛られていた。男が、うすく笑ったようだった。ぞっとするような酷薄な笑みだ。はじめに見た時とは、まるで別人だった。男が張順の枕元からひきずりだした風呂敷包みは、ずっしりと重い。呉用から預かった一百両の黄金だ。どじょうひげが、声をたてて笑った。
「“截江鬼”の兄貴──こいつぁ」
男がじろりと睨み付けると、どじょうひげは首をすくめて後ろに下がった。男の目が、張順に向けられた。男は黙っている。顔の筋ひとつ動かさない。頬に鱗の形の切り傷があった。
「金はやる」
張順の視界には、前も後ろも分からない真っ暗な川が広がっていた。
「せめて、五体満足で死なせてくれ」
張順が言うと同時に、男は張順の胸を刀で突いてきた。すんでのところで、張順は後ろ向きに川に落ちた。自由のきかない体は、見る間に川底に向かって沈んでいく。川の水は冷たく、真っ暗だった。張順は、胴と足の動きだけで体勢をたてなおした。真っ黒な流れの中を手を使わずに泳ぐ姿は、もしも見る人がいれば、一匹の鮠とも思っただろう。

張順は水底近くを泳ぎ渡って、船から離れたあたりに波を立てないようにして顔だけ浮かび上がった。それほど離れていない場所に、船はまだ止まっていた。と、船上にぎゃっと声があがった。どじょうひげの声だ。続いて何かが川に落ち、水にさっと血の匂いが混じった。
(あの野郎……)
張順は立ち泳ぎをしながら、船上の影を睨んだ。
(百両の金の分け前が惜しくなって、仲間を殺したな)
張順は音もなく対岸へ向かって泳ぎはじめた。ところが、船は張順のあとをついてくる。張順は泳ぐのをやめ、水中に頭を沈めた。そして船が通りすぎるのを待ってから、再び水面に浮かび上がった。どうやら、気づかずに行ったらしい。
と、今度は河岸から若い女の声が聞こえた。小さな提灯を振っている。“截江鬼”がおうと答えた。女が甘ったるい声で言った。
「ねぇ、いったい、いつ発つの」
「まだだ。金が足りない」
「お金なら、渡したじゃないの」
「まだ足りない」
「もう待てないわ」
「なら、好きにしな」
沈黙が流れた。提灯がゆらゆらと揺れていた。
「……今度は、いつ来る?」
「明日、行く」
必ずよ、と念を押して、女は足早に戻っていった。船も川上のほうへ遠ざかっていく。張順は櫓の音が消えるのを待って、対岸に泳ぎついた。水辺には葦かぎっしりと繁っている。その向こうに土手は一丈あまりもあるだろうか。さしもの張順も飛び上がれる高さではない。足掛かりを探していると、また頭上から声が響いた。
「おい、誰かいんのかィ」
ふいに顔に明かりが差した。顔を上げると、土手の上に破れ提灯と、やけに長い脛が見えた。
「なんだ、河に落ちなすったか」
張順は男の顔を見上げた。男が、笑った。

「あんた、鬼を見たんだネ」
男は張順の着物をつかんで土手から引き上げてくれた。男は帯から小刀を引き抜くと、張順の戒めを解き、先に立って手招きした。ついていくと、河岸の土手に、傾きかけた居酒屋があった。やっているのかいないのか分からないような店だったが、男の家らしかった。
男は、火をたいて張順の着物を乾かしたり、熱い酒をだしたりしてくれた。飄げた男だったが、どことなく油断できない感じもする。
「おれをやった“鬼”とは、だれだ」
「“截江鬼”の張旺サ」
「名のあるやつか」
「新顔だね。だが、よほどできるよ」
ここ一年で、二、三十も土左衛門を見た、と男は言った。いずれも心臓を一突きだ。女子供も容赦しない。顔を見たものは皆殺し──が掟のようだ。そんなことを、男は平然とした顔で言った。きなくさい男だと、張順は思った。
「あんた、何者だ」
「居酒屋の主人……には、見えませんかねェ」
「見えない」
男はまた笑って、温めた酒をついでくれた。
「にいさんは、どこから来なすった」
「山東から」
「言葉は南だ」
「生まれは潯陽江だが、今は、山東に住んでいる」
「じゃあ、魯智深という兄貴を知りゃあしませんか」
「魯智深?」
「オレの兄貴サ。出会った時は魯達といったがネ。忘れられねェお人サ」
「あんたは……」
張順は自分の名を名乗った。
「あんたがあの有名な“浪裏白跳”かィ。オレは“活閃婆”の王定六ってもんだが、知らねェだろうな」
「いや、聞いたことがある」
魯智深、楊志、時遷からも聞いたことがある。
「なんだ、みないるのかィ。なら、あの無口な兄弟もいるだろうね。そら、包丁を使う奴サ」
「曹正か」
「懐かしいねェ」
王定六は自分にも一杯ついだ。
開封から時遷、曹正とともに楊志を助けた王定六は、魯智深を尋ねていくうち、故郷の者に出会って、老父の危篤を知らさせれた。故郷には二十年も戻っていなかったが、最後の孝行と思って戻った。
「さんざ極道したから、死に水くらいはとってやらねェと」
ところが、と王定六は肩をゆすった。
「親父め、おれの顔をみたら、生きかえっちまってネ。あんまり喜ぶもんだから、こっちも出るに出られないし、またいつおっちぬかもわからないしで、そのまま家業の居酒屋をやってやったのサ。それが、夏のしまいにちょっとした風邪をひきこんで、ちょうど、四十九日が終わったところだ。こいつは、おやじの引き合わせだ。それで、兄弟はなんで建康に来なすった?」」
張順は建康に来たわけを話した。
「あんた、安先生の居場所を知ってるか」
王定六は首をふった。
「この街の人間は、みんな先生を探してるサ」
安道全は数年前に建康にやってきた旅医者だ。余命わずかと思われていた病人を何人も治療して、“神医”として評判をとったが、半年ばかり前、ふいに姿を隠してしまった。出ていった姿を見た者はいないから、建康にはいるらしい。しかし、どこにいるかが分からない。全国から治療を望むものがやってきて探すが、どうにも見つからないのだ。
(医者というのは、どうして自分の居場所を隠したがるんだ)
張順はいささかうんざりした。王定六は気の毒そうに言った。
「兄弟たちの兄貴分なら、おれも力を貸さねぇと、魯智深兄貴にぶんなぐられちまう」
「そいつは助かる」
「じゃ、今から行きますかネ」
王定六は立ち上がった。張順は驚いて王定六の顔を見上げた。
「居場所を知っているのか」
「先生を隠したのは、オレだからネ」
王定六は笑った。
建康の下町に、一軒のしもた屋がある。古びた二階家で、北側が長江に面している。門にはいちおう“天鵞楼”と屋号が記してあった。その二階、川をのぞむ欄干に、ひとりの老人がぼんやりと凭れていた。となりには若い女が座っている。
「ねぇ、先生」

この家のただひとりの妓女である李巧奴は、安道全にしなだれかかった。もっとも、今は商売をしていないから、囲い女というほうが正しいかもしれない。
「あたし、新しい着物がほしいわ。絹が二、三本あればいいんだけど」
安道全は黙って懐から銀を取り出して投げた。
「ありがと」
女は餌をついばむ小鳥のような素早さで、銀を懐に飲み込んだ。
「着物が新しいなら……あたらしい沓も欲しいわねぇ」
また銀が投げられた。
「ありがと」
巧奴は安道全に抱きついた。胸に、こつりと固いものがふれた。紅く染めた指先が安道全の懐を探る。老医者は首から小さな革袋を下げていた。
「いったい、何が入っているの?」
「薬だ」
「うそ」
酒を嘗める安道全の背を、巧奴は軽くつねった。
「どうして薬なんかを後生大事に下げるの。金の腕輪か、玉の首飾りじゃなくって? だったら、あたし、ほしいわ。それとも、だれか他の姐さんにあげるつもり?」
女は安道全を軽く睨んだ。掌に乗りそうな小さな顔だ。安道全は胸から下げていた革の袋をはずし、女の膝にぽんと投げた。
「なぁに、これ。石じゃない」
巧奴は棗ほどの黄色い石をつまみだした。表面はすべすべしている。
「磨いたって、耳飾りにもならないわ」
「お前には、この石の価値は分からん。これは摩娑石といって、どんな毒でも解毒できる妙薬だ」
「そうなの」
巧奴はもう興味なさそうで、石を革袋の中に戻した。
「ねぇ、あたし、真珠の簪もほしいわ」
安道全はまた銀を投げた。
「ありがと」
銀を懐にしまってから、巧奴は安道全の顔を窺った。老人は真っ暗な流れを見ている。巧奴は袖から小さな絹の手巾を取り出した。
「ほら、先生にあげようと思って、つくったの」
安道全の前に広げた。白い絹の真ん中におしどりの刺繍がしてある。
「どう?」
安道全は黙ったまま、また銀を投げた。
「先生は、本当に気前がよろしいわ。まぁ、ほんとうに」
女将が階段をあがってきた。でっぷりと太った女だ。頭には、造花を山ほどつけている。
「そんなに気前よくなすっちゃ、巧奴は自分で自分を身請けしちまいましょうよ」
“昔は鳴らした”という女将は、ぞっとするような流し目をくれた。
「先生もね、この娘を身請けしたいのなら、早くしたほうがよろしゅうござんすよ。冗談で言ってるのじゃあござんせんよ。自分の身は自分で買い戻す──なんてのが、当世のはやりでございましょ。ほんとうに、不義理な子ばっかりだ。あたしたちが食べさせて、着させてやった恩義なんて、これっぽっちも感じちゃあいないんですから」
ぺらぺらとしゃべる女将に、安道全は銀を投げた。おかみはほくほく顔で礼を言った。
(有名な医者か知らないけれど、変わり者の、妙な年寄りだ)
顔みしりの酒屋から頼まれて、あやしげな年寄りを預かったのは半年ほども前だ。もとより開店休業の妓楼だったから、十分な世話賃をもらえば異論はなかった。ただ一人いた妓女の巧奴は器量はよかったが、病気がちで商売にならなかったのだ。ところが、その年寄りが巧奴の病気を治してしまった。だから、商売を再開してもよかったのだが、その年寄りはまた十分な金を払った。すでに巧奴が買い取れるくらいの金を使っている。しかし、巧奴に言わせると、なにをするわけでもなく、ただぼんやりと酒を飲んだり、巧奴に歌わせたりしているだけらしい。
(まぁ、いい鴨だ)
粘るような女将の目をよそに、安道全は外を見ている。月が登った。月光に照らされた雄大な長江の流れだ。河は流れる。なにごともなく。なにも思わず、なにもせず。
(わしも、そのように生きたいものだ)
彼の人生は流浪のなかに過ぎたが、それは、決して流れ流されてきたわけではない。最近になって、それに気づいた。このまま、ぼんやりと過ごし、人知れず死ぬのがよい。
(歳はとりたくないもんだ)
江南は酒も肴もうまい。女もきれいだ。このまま何もせずに死んでいくには、もってこいな土地なのだ。そう思って建康にやってきたのに、“神医”の看板が邪魔をする。どこへ行っても治療してくれという者がひきもきらない。のんびりと風景を楽しむ暇もない。
安道全は、このまま医者をやめるつもりだった。
(わしも少々、疲れたわい)
すっかり冷たくなった酒を干した。体の中に砂がつまり、それがさらさらと崩れていくような虚しい感覚がある。あれほど好きだった酒も、まえほど旨くは感じられない。もっとも、無邪気な巧奴といっしょに飲む酒には、味がある。巧奴を身請けして、どこか山奥に隠遁して、余生を送るのも悪くない。ついに、そういう時期がきたのだ。胸に下がっているものは千金の価値がある。その気になれば、巧奴の百人くらいすぐに身請けできるのだ。
ただ、今まで延ばし延ばしてにしてきたのは、これを手放すことは、なにか──医者として、大切なものを手放すような気がしたせいだ。どんな人間でも必ず治す──それは彼の存在する理由であり、人々の希望でもある。しかし、もうよい潮時だ。
(馬医者は買わないと言ってきた。けちめ)
安道全は立ち上がった。
「どうしたの、先生」
「街へ行く」
「え?」
巧奴はきょとんとして医者を見た。
「だって、もう暗いわよ」
「わしは、医者をやめるんだ」
安道全は懐の摩娑石を叩いた。
「これは千金にも値する石だ。これを売る」
「千金ですって?」
女は目をぱちくりとした。手にした銀の杯から、ぽたぽたと酒が零れて膝を濡らした。
「そうだ。本物はごくまれにしかない。馬鹿者がよく偽物をつかまされておる」
「ああ、先生」
巧奴は杯を放り投げ、立ち上がった。
「そう……ええ、早く、帰ってね。あたし、待っているから」
女は医者を見送ると、窓辺に走った。妓楼の窓は河に面している。窓の外は真っ暗だ。身を乗り出すと、暗い道をすたすたと歩き去っていく安道全の背中が見えた。
「千金……」

女はにっこりと笑い、ほうとため息をついた。そして、赤い蝋燭を取り上げると、外の闇に向かって、くるくると炎で円を描いた。
安道全は川沿いの道を歩いていた。朝を待っても良かったのだが、決心が鈍らないうちにと思った。建康には知り合いの薬屋が多いから、千金とはいかなくても、一番高く買ってくれるところに売り払おう。そして、さっぱりして四川か雲南か、どこか誰も知る人のいない秘境に隠れ住んでしまうのだ。
夜空に浮かぶ月を見上げて、安道全はため息をついた。まもなく渡し場が見えてきた。安道全は立ち止まった。ふいに、今までに自分が治してやった患者の顔が頭に浮かんだ。はじめての患者は、十二の時。まだ薬屋の見習いだった。炎天下で死にかけていた老婆を、見よう見まねで助けた。それから、いったい、どれくらいの患者を見ただろう。一年も熱病で苦しみ、木乃伊のようになってしまった女もいた。江州で疵を縫ってやった膾のように切られた少年。土を食って死にかけた乞食のあかんぼう。熊に片足を食われた老人の手術は、一晩かかった。それから、あの男──。
(林冲といったか)
治せなかった病人がいるとすれば、あの男だけだ。あの病は“絶望”というものだ。いまならば、分かる。しかし、治療法はない。今の自分にもないように。
(わしは神ではない)
安道全は再び歩きはじめた。背後の闇もまた無言で動き、その中から真っ黒な影が五、六も現れた。全身を黒い布で包み込み、ただ目ばかりが白く闇に浮いている。彼らは無言で安道全の背後にしのびよると、いっせいに襲いかかった。武器は持っていなかった。ただ手には大きな布と鎖を持っていた。安道全は頭から布を被せられ、抵抗すると、ぐっと急所を殴られた。安道全は手足をばたつかせ叫び続けた。息が切れ、心臓が苦しくなった。脈が乱れる。
(このままでは血が濁り、気が詰まって心臓が──)
安道全は声を絞った。
「なにをする」
出た声は、蚊の鳴くように細かった。相手は有無を言わさず安道全を担ぎあげ、いずこへか運び去ろうとする。
「わしは医者だぞ。金はない。人ちがいするな」
押さえつけていた力がふいに緩んだ。ぎゃっという叫びが聞こえ、安道全は固い土の上に放り出された。安道全は急いで布をめくって這いだした。黒衣の男たちが顔を抑えて逃げ散っていく。
安道全が振り向くと、月光を浴びて流れる長江の、その青白い流れを背景に一人の男が佇んでいた。小さな男だ。その唇が、きらりと光った。針だった。


「ちょいと目を縫ってやったのさ」
“通臂猿”侯健はくわえていた針を襟に戻すと、安道全の顔を覗き込んだ。
「あんた──医者だって?」
「実はネ、先生をここに隠したのは、おれサ」
“天鵞楼”と書かれた粗末の看板の前で、王定六は言った。
「話せば、長くなるがネ」
建康にやって来た安道全は、ある時、ふらりと王定六の居酒屋にやってきた。
「びんぼうくさい店だ」
そう言いながら、何日も居すわった。
「ほかに客のないのがいい」
安道全は店を閉めさせ、ほかの客を断らせた。訪ねて来る者がいても、いないように言えという。理由は聞いても答えなかった。二人はとりとめもない話しをした。そのうちに、安道全は王定六の名前を思い出した。滄州の柴大官人の屋敷にいた時、魯智深という破戒坊主から聞いたという。奇遇だ、と王定六は喜んだ。
「どこか、静かに身を隠せるところはないか──と、聞かれましてネ」
張順は首をかしげた。
「なぜだ。人でも殺したか」
「反対サ。あの先生は、人を助けすぎて、有名になりすぎた。どこへ行っても、なにをしてても、助けてくれって人がおしかける。それで、ちとイヤになりなすったんだナ」
「しかし、それが医者の仕事だろう」
「医者だって、人間サ」
王定六は寂れた下町の女郎屋に安道全をかくまった。すると、今度はそこの女にいれあげて、おしてもひいても、家から出なくなってしまったという。
「オレは居場所は教えるがネ、本人に治療する気がないんだから、あとはあんたの腕しだいだ」
王定六は扉を叩いた。まもなく女将が顔をのぞかせた。半分だけ化粧をおとし、化け物のような顔になっていた。
「おや、定六さんかい」
「先生はいるかい」
「でかけましたよ」
「そいつは、どういった風の吹きまわしだ」
「あたしも驚きましたけど」
「いったい、どこへ行きなすった」
「さぁね。天竺やら闍婆やらね。戻ってきますよ。巧奴にぞっこんなんだから。定六さんのおかげで、あたしも極楽が見られるってもんだ」
王定六が女将と話していると、階段の上に巧奴が現れた。
「なぁに、先生がどうしたの」
張順は女の顔をじっとみつめた。巧奴はそわそわした様子で帯を揉んでいる。女将は巧奴に向かって手を振った。
「ひっこんどいで、巧奴」
大切な金蔓に悪い虫がついたらたまらない。
「先生はそのうち戻るでしょ。さぁ、もう灯を消しますからね」
女将は張順たちを外に押し出した。ところが、そこに安道全が背負われて戻ってきた。
「先生、どうしなすった」
「あんたは」
王定六と張順が同時に言った。王定六は背負われている安道全を、張順は背負っている男を見ていた。
「“仕立屋”」
「張順兄貴か」
侯健も張順に気がついて声をあげた。
「俺はあんたを探していたんだ。まさか女郎屋で会えるとはな」
侯健は呉用の命令で張順を探して建康までやって来て、その渡し船から降りたとたん、襲われている年寄りをみつけ、助けたのだった。
「途中までは戴宗兄貴と一緒に来た。潤州で、あんたが建康行の船に乗ったと噂を聞いたものだから、俺はこっちに、戴宗兄貴は蘇州に行ってる」
「何かあったか。まさか、宋江兄貴が」
「いや、宋江さんは大丈夫だ。いまのところは、ね」
侯健は天鵞楼の扉を叩いた。渋る女将を押し退けて、みなは巧奴の部屋にあがった。ひとしきり挨拶を交わしたが、安道全はむっつりと黙り込んでいた。
「先生、だいじょうぶ?」
「薬嚢をよこせ」
巧奴が渡した袋を大儀そうにさぐり、安道全は膏薬を取り出して自分の頭に塗り付けた。王定六が慰めた。
「医者が怪我をしたからって、恥ずかしかることはないサ」
「お前、なぜ客を連れてきた。治療はしないと言っただろう」
「そうですがネェ」
王定六は頭をかいた。
「先生とも、無関係のお人じゃないから」
王定六は張順を引き合わせた。
「先生、俺をお忘れですか」

安道全は、張順の顔をみつめた。張順をいぶかしげに眺めている安道全は、彼の記憶の中そのままの、鼻の大きな、気難しそうな年寄りだった。
「江州でお会いしました」
「ああ」
安道全は張順のことを覚えていた。
「あの別嬪は達者か」
「亡くなりました」
「──そうか」
張順は、自分が江州を出て梁山泊に入ったこと、梁山泊の頭領の宋江が藍蛇の毒にあたったこと、それを解毒できる摩娑石を持っているのが、宋国では安道全ひとりであると皇甫端から聞いたことを手短に話した。安道全は何も言わず、膏薬を片づけている。
「先生、いったい、誰にやられたんだネ」
「知らんわい」
「人を助けるのが仕事のお人だ。命を狙われるとは、おかしな話サ」
「金めのものも持っていないしな」
そう言ってから、安道全は急いで胸をさぐった。そして、ほっとした様子を見せた。
「どうしました」
「治療はせん。しかし、薬なら売るぞ」
巧奴が声をあげた。
「薬があるの?」
安道全は懐から摩娑石を取り出した。黄褐色の表面に金色の星が散った極上の摩娑石だ。
「これは、わしの生涯の稼ぎを全てつぎ込んで買った摩娑石だ。欲しければ、千金だ」
「千金?」
張順の懐には、いまや一金もない。
「梁山泊に来てくれれば、千金でも万金でも払う」
「いま払え」
「どうしたんだ、安先生」
張順は立ち上がった。
「俺の知っている安先生は、そんな人じゃなかった」
安道全はじろりと張順をにらみ上げた。
「わしは、今日、医者をやめたのだ」
「張順も、怒るんだな」
ぽつりと侯健が呟いた。
その夜は、安道全は巧奴の部屋に、張順たちは隣の小さな部屋で寝た。壁の向こうからは、巧奴の甘えた声が聞こえてくる。さかんに酒を勧めているようだった。侯健は舌打ちした。
「張順兄貴、どうする」
「今、考えている」
張順は寝返りをうった。
「どんな手段をつかっても、先生を梁山泊へ連れていく」
家はすでにしんと静まりかえっている。張順の顔に、消えかけた蝋燭の光が揺れた。
「侯健」
「なんだい」
「梁山泊になにかあったのか」
侯健は、ちらりと王定六のほうを見た。王定六はいびきをかいて眠っている。
「実は、晁蓋の旦那が──」
その時だった。隣の部屋からなにかの壊れる音が響きわたった。三人は飛び起きると部屋を飛び出し、扉を蹴破って巧奴の部屋に駆け込んだ。
「安先生!!」
扉の横に安道全が倒れていた。女は寝台の中で震えている。そして、大きく開け放たれた窓に、痩せた男の影があった。
「薬が」
安道全がうめいた。
「薬をとられた」
窓框に足をかけ、男は張順たちを振り向いた。薄く笑った男の顔を、雲間から覗いた月が照らした。
「てめぇは!!」

張順と侯健が同時に叫んだ。
「“截江鬼”!!」
「“毒蝦蟇”!!」
頬の傷をゆがめ、男は笑った。そして、そのまま真っ暗な長江の流れに身を踊らせた。
張順と侯健は男を追ったが、まもなく手ぶらで戻ってきた。張順は、戻るなり巧奴の襟首を掴み上げた。
「手引きしたのは、お前だな」
「なんのこと」
「しらを切る気か」
張順は、ずっと女をどこか見たような気がしたが、思い出せなかった。そうだ、確かに顔は知らない。ただ、声を聞いたのだ。“截江鬼”張旺と話していた女の声だった。張順はさっと匕首をひきぬくと、女の胸元につきつけた。
「お前、間男に先生の薬の話をして、盗ませたな」
「でも、でも、あたし、先生の命だけは助けてって、いっしょけんめい、頼んだのよ」
巧奴はわっと泣きだした。
「そんなに怒るなんて、ひどいじゃない」
「“截江鬼”はどこだ」
「知らないわ」
「殺すぞ」
「待ってくれ」
侯健が言った。
「あいつは、“截江鬼”じゃねえ」
「なんだと」
「あいつは巣湖の湖賊“無影帆”の首領だ。“毒蝦蟇”と呼ばれていた酷い野郎だ。俺は、帆を縫ってやったことがあるから知っているんだ」
建康の南にある巣湖には、“無影帆”と呼ばれる水賊が巣くっていた。なぜそう呼ばれるか、姿を見せずに忍び寄り、風のごとくに消えるからだ。その仕事は俊敏で、冷酷だった。商人、旅人、官僚、軍人、なんでも襲う。仕事を終えたほかの賊を襲うことすらあった。襲ったら、相手が誰であれ皆殺しだ。仲間同士はみな義兄弟の契りを結んでおり、結束は鉄のごとくに固い。しかし、朝廷の誇る劉夢竜将軍率いる水軍に隠し砦を攻撃され、“無影帆”は壊滅した。去年のことだ。駿足を誇る船はすべて焼き払われ、生き残った仲間は散り散りになって全国に隠れたという。
潯陽江だけで生きていた張順とちがい、侯健は商売柄あちこちを旅していたから、裏の事情にも通じていた。
「奴らはほとぼりがさめるのを待って、再起を図るという噂だ。そのために、あちこちで手荒な“稼ぎ”をしているらしい」
「うそよ」
巧奴は侯健をにらみつけた。
「あの人、かたぎよ。お金をためて商売をするって。だから、お金がいるって言ったのよ。商売を始めたら、あたしを身請けして、奥さんにしてくれるって。そして、合肥に帰るって」
「合肥」
「あたしの故郷なの。子供がいるの。もう五つよ。会いたいの」
「お前、十六じゃなかったのか」
巧奴ははっとして顔をそむけた。
安道全は、笑った。
「お前、ほかにはどんな嘘をついている」
「……ないわ」
「子供がいるのか」
巧奴はこくりと頷いた。
「会いたいのか」
父親のいない子供を生んで、子供を預けて、建康に売られてきたのだと、巧奴は言った。
安道全は、ふと新鮮な感動を覚えた。
「そうか」
病人は、病気が治ればそれまでだ。彼は何百、何千という病人を治したが、彼らのことはなにも知らない。どんな人間で、なにを考え、病が治りどうやって生きているのか、それからどうなったのか、なにも知らない。
(病が治るとは、こういうことか)
下町の妓女の命など、とるにたらないものかもしれない。彼とて、なにげなく助けてやったにすぎない。しかし、この女にとっては、なにより大事な──文字通り、命そのものだったというわけだ。
目の前に、酒肴を置いた卓があった。汚れた卓を見ていると、ずっと昔の夏の日の、柴進の屋敷であった宴会のことを思い出した。死にかけた男、命そのものような坊主、こそどろに大金持ち、卓の上で無心に落花生を剥いていた鼠──。
生きているとは、ああいうことだ。
「医者とは、ありがたいものだ」
そんなことを安道全は我知らずに呟いていた。そして、また気難しい顔に戻り、張順を見た。
「そんなに、治してほしいのか」
「治してくれるのか」
安道全はため息をついた。
「医者など、なにもいいことはない。お前たちは、医者は病気を治すのが当たり前だと思っている。診なければ恨み、診てもすぐ治らんと文句を言う。病は一月かかるもの、十年かかるものもある。治らないものもある」
治療とは、病との戦いだ。神の指が、病を消すわけではない。それなのに、見ず知らずの人間が死んだことさえ、まるで自分のせいにように言われるのだ。あの先生が診ていてさえくれたなら──と。
「知らんわい」
安道全は呟いた。
「人はいつかは死ぬものだ。寿命であれば、わしにもどうにもならん」
「そんな筈はない」
張順はなにかに抗うように叫んだ。
「宋江殿が、こんなことで死ぬはずはない」
二人は、潯陽江のほとり、抜けるような夏空の下で出会った。宋江が、張順を広い世界へと導いてくれた。みんなをだ。それが、こんなところで、終わりになるはずがない。
安道全はため息をついた。
「よかろう」
安道全は立ち上がった。
「では、行くか」
「どこに」
「決まっておる。病人のところだ」
「しかし、薬がありません」
「薬など、いるか」

安道全は乾ききって今にも崩れ落ちそうだった体内に、ひそやかに潤いが満ちていくのを感じた。まだまだ、死ぬのは早いのかもしれない。そんな気になる、わずかに熱いものだった。
(これが、すべの病に効く妙薬だ)
「薬があっても、医者がいなければ病は治らん。わしがいれば、薬などなくても治せる。だから、わしは“神医”なのだ」
立ち上がった安道全の腕に、巧奴が慌ててしがみついた。
「待って、あたしのことは?」
身請けして、自由にしてよ、と巧奴は言った。
「金がない」
「ひどいわ」
罵る女を、侯健が安道全からひきはがした。
「姐さんよ、あの色男に頼むんだな」
「だって、あの人、いないじゃない」
巧奴は泣いた。安道全は懐から残りの銀を全部出して女に投げた。
「これをやるから、待っていろ。梁山泊で稼いだら、お前を自由にしてやる」
「うそ、うそよ」
女は銀を放り投げた。
「これっぽっちで、あたしを捨てるつもりでしょ。そうだ、あたし、あの人の居場所を知ってるわよ。蘇州よ。太湖の、なんとかって……そう、王廟島に集まるのよ。全国の手下が、満月の夜に集まるって。あたし、そう手紙を書いてやったのよ。だから、一緒に連れてってよ」
男たちは顔を見合わせた。張順が言った。
「先生は薬がなくても治すと言うが、藍蛇の毒だ。やはり摩娑石があったほうがいい。それに、奴には──借りがある」
侯健が頷いた。
「よし、行こう。蘇州だ」
「ねぇ、あたしは? 先生、あたしは?」
「あとで、迎えをよこしてやる」
「教えてあげたのに!!」
すがりつく女を振り払って、男たちは天鵞楼を後にした。女将が何の騒ぎかと聞いてきたが、誰も答える者はいなかった。二階から、巧奴の泣きわめく声が聞こえていた。侯健が安道全に囁いた。
「先生、あれはいけない女だぜ」
「小僧に色恋の機微が分かるか」
安道全は大きな鼻を鳴らすと、すたすたと土手を歩いて行った。
一行を照らす月は、すでに丸々と太っていた。
再び長江を下り潤州へ、それから運河を南下して蘇州。そのように水路を行くのが早道だ、と侯健は提案した。一行は船着場に向かい、朝一番の客船に乗り込んだ。夜明けの桟橋を踏み、張順はふと後ろを振り返った。王定六が脚をとめた。
「どうしたィ?」
「いや」
誰かに見られているような気がした。しかし、川辺には朝の光が差し込むばかりで、何者の姿もみつけることはできなかった。

その日、太湖の波は穏やかだったが、行き来する船の姿はまばらだった。
「おかしいな」
張順は首をかしげた。この前に来た時は、遊覧船やら漁船やらがさかんに行き交っていた。張順たちが辺りの漁民の家を訪ね、王廟島へ行く船を雇おうとしても、船を出そうというものはいなかった。
「今日は、いけません」
実直そうな老漁夫は、飴色に日焼けした首を振った。
「今日は太湖に血の雨が振ると、もっぱらの噂です」
いいや、噂じゃねぇ──と、婿らしい若者が言った。
「俺は見た。“龍王幇”の連中が、戦の準備をしているのをな」
「“龍王幇”が?」
張順は思わず聞き返した。太湖は名高い老侠客“東海龍王”に率いられた“龍王幇”のなわばりだ。彼らは、数多くある長江の幇会のなかでも特に仁義を重んじる。むやみに戦をするような幇ではなかった。
「なぜ“龍王幇”が戦の準備を」
「余所者が入り込んでいるということだ」
ここ数日、不穏な動きがあるという。商船や遊覧の客が襲われて、何人も殺された。“龍王幇”のしわざではない。
物騒で漁にも出られない──と、漁師はこぼした。張順はもう一度、王廟島という島まで渡してくれないかと頼んで見た。
「金はいくらでもはずむ」
「王廟島?」
若い漁師はぞっとした顔で首を振った。
「あそこは呪われた島だ。昔の王様、夫差の墓がある島だ。こんな時でなくたって、近づくものはいやしない」
王廟島には漁民も盗賊も、だれひとり近づく者はない。近づいた者は死ぬ。その者だけでなく、大勢の人間が死ぬ。大昔から、そういう伝説があるのだという。
「どうする、張順」
夕焼けの浜に立ち、侯健が途方に暮れた様子で言った。王廟島は太湖のなかほどにある小島だという。
「俺だけなら、泳いで王廟島まで渡れるが……」
張順は夕焼けを映した太湖を睨んだ。その時、背後からぽんと張順の肩を叩いたものがいた。
「あんたがた、王廟島に何の用だね」

振り返ると、真っ黒な顔をした、長髯の男が立っていた。
「あんたは?」
「遊覧船の船頭なんだがね、見てのとおり、今日は商売あがったりだ。王廟島でもどこへでも、喜んで船を出しますぜ」
張順は、男の顔をみつめた。ひどく目の細い男だ。木に鑿で穿ったような一文字の目は、眠っているようにも、笑っているようにも見える。
「あんた──“龍王幇”の人間か」
船頭の右目がわずかに開いた。まぶたから僅かに覗いた眼球は、蛇のように薄青かった。男はすぐに目を閉じた。
「お客さん、冗談はいけねぇ」
男は歯を剥いてにやりと笑った。
「渡りに船。呉越同舟、なんでもいいサ」
王定六は懐から財布を取り出した。前金を懐にねじ込むと、船頭は四人を湖畔の船着場に連れていった。湖に張り出した桟橋に派手な画舫が何隻も停泊している。色鮮やかな彫刻を施した、竜や鳳凰をかたどった遊覧船だ。蘇州にやってくる田舎者の遊山客が喜ぶのだろう。桟橋は、いつもは船頭や客で賑わっているのだろうが、今日ばかりは閑散と静まり返っている。ただ一人、もやい綱の間を行き来している女がいた。
「巧奴」
「あら、先生!!」
巧奴は安道全に気がつくと、駆け寄ってきて抱きついた。
「あたし、来ちゃったの。ねぇ、先生たちは、あのなんとか島に行くんでしょ。ねぇねぇ、あたしも連れてって」
「おい、姐ちゃん」
侯健は女を安道全から引き剥がした。
「おとしなく待っていな。あんたの色男は俺たちが連れてきてやるさ」
「あたしは先生に頼んでいるのよ」
安道全が答えに窮していると、船頭が横から取りなした。
「旦那、連れていきなさい。実は、ほら、あれをご覧なさい」
船頭は湖上をゆっくりと行き交う船を指さした。一見、遊覧船や漁船なのだが、同じ場所を漂うばかりだ。
「あれは、本当は官軍の船だ。湖に出れば、きっと尋問されるでしょう。女づれのほうが都合がいい。芸者がいれば、怪しまれることはないからな」
「どうやら、あんたもあの島に用があるらしいな」
船頭はもやい綱を解きながら、ちらりと張順に視線を投げた。その目がかすかに笑ったようだったが、船頭はすぐに黒い毛織の帽子を目深に下ろした。
一行は巧奴を連れて、先頭に龍の飾りがついた遊覧船に乗り込んだ。湖に出ると、まもなく一隻の漁船が近づいてきた。漁師を装った兵隊たちは船を接すると、船の雇い主と思われる安道全に素性を尋ねた。物見遊山の建康の医者だという答えを聞くと、漁船はまた離れていった。その後も何度か船を止められて尋問されたが、いずれも巧奴の機転で切り抜けた。妓女を連れて遊覧する小金持ちの年寄りは、太湖を遊覧する客では一番多い取り合わせだったのだ。
(たいそうな警戒ぶりだ)
張順は船縁に寄り掛かり、櫓を漕ぐ船頭に目をやった。しかし、その顔は半ば帽子にかくされ、表情を窺うことはできなかった。
広大な太湖の中には、いくつもの小島が浮かんでいる。張順たちの乗る遊覧船は、夕闇に紛れるようにして、王廟島に近づいた。満月の登った空に、ぎいぎいと櫓の音が響く。湖面は静まり返っていた。岸辺に連なる街の灯が、小さく、星のように見えた。
「あれだ」

船頭が指さす波の彼方に、黒く島の姿が見えてきた。島は殆どが山になっており、鬱蒼とした森に覆われている。ただ山頂だけ木が剥げていて、崩れかけた王廟が見えた。船頭は船を岸に上げると、砂利の多い浜に降り立った。
「どうやら、間に合ったようだ」
男はかぶっていた帽子を取った。浜辺には大勢の男たちが武器を手にして集まっていた。百人ほどもいるだろう。身につけているのは藍染の褌ひとつ。いずれも真っ黒に日焼けした、屈強な男達だった。その中央には、赤い鬚をたくわえた巨漢が立っていた。
「“太湖蛟”、遅いじゃねぇか」
「すまねぇ、ちと手間取ってな」
「役人どもの様子は」
「王廟島とは気づかれてねぇ」
“赤髯竜”費保は頷いた。太い眉までが赤い。その眉が、つり上がるようにぐっと動いた。
「客人か」
“太湖蛟”が振り向くと、張順たちが船から下りて来るところだった。“赤髯竜”はじっと彼らの動きを見据えている。
「連中のおかげで、官軍に見とがめらずに済んだ。わけありらしい」
費保は真っ赤な髯を捩じった。
「官の狗には見えねぇが……」
“赤鬚竜”は髯を放すと、波打ち際まで足を運んだ。日焼けた太股に古い青龍の刺青があった。
「客人」

蘇州なまりの野太い声で費保は言った。
「兄弟が世話になった。もてなしてぇところだが、ご覧のように取り込み中だ。暫く、その辺に隠れていてくれ。なぁに、すぐ終わる」
「そうとも、思えんがな」
浜辺に迫る森の中から、いずれも黒い鉢巻きをした百余人の男たちが現れた。男たちの先頭を来るのは、“無影帆”の張旺だ。
「“赤鬚竜”費保だな」
冷やかな声が響いた。
「“東海龍王”はどうした」
「貴様のような追剥の相手をするのに、竜王のおでましを願うまでもない」
「東海龍王が死にかけているというのは、本当らしいな」
“赤鬚竜”費保が飛び出した。三人の頭目が後を追う。“捲毛虎”倪雲、“痩臉熊”狄青、“太湖蛟”上青。“赤鬚竜”をあわせ人は彼らを“太湖四獣”と呼びならわす。彼らに百人の手下が咆哮をあげて続いた。無影帆は龍王幇をぎりぎりまで引きつけて、それから一斉に襲いかかった。島の静寂は破られた。空気が一気に爆発したように、喧騒が満月の島に満ちた。二百人の男たちが、月光の下でぶつかり合う。一方は縄張りの存亡をかけ、一方は、縄張りを奪おうとする。戦況は一進一退を繰り返し、勝敗は容易に決しなかった。浜辺の砂利に、傷ついた双方の男たちが次々と倒れていった。
月が西に傾いて、王廟の屋根を白く照らした。ふいに爆竹の音が轟いた。
「官軍の船が来る!!」
梢から見張りの声が響いた。
「気づかれたぞ!!」
木々の間から湖を見ると、水上にたくさんの火が見えた。官軍の艦隊だ。松明が蹴り倒され、辺りは闇に包まれた。二百余人の水賊たちは蜘蛛の子を散らしたように、辺りの森へと駆けこんでいった。
太湖の空には満月が浮き、湖面には青白く輝く道が延びていた。張旺は辺りを窺いながら、岩場に隠した舟に向かって走っていた。すぐに浜は官軍に抑えられてしまうだろう。こんな不測の事態にそなえて、張旺は小舟を険しい岩場に隠していた。木立の向こうに、月光に浮かび上がる岩礁が見えた。足を速めた張旺の前に、ひとりの女が飛び出してきた。
「巧奴?」
「ああ、あんたなのね!!」
巧奴は男の胸に身を投げた。
「会いたかったわ」
「お前、どうしてここが分かった」
「手紙を書いてあげたでしょ」
巧奴は男の顔を見上げて笑った。
「満月の夜、太湖のなんとか島に集まれって。あたし、あんたに会いたくて、来ちゃったのよ」
岩礁に波が砕けた。風が出てきたようだった。
「あたし……おかあさんを殺しちゃったの」
「なんだって?」
「だって、あんたに会いにいくのを、どうしても止めようとするんだもの。殺す気はなかったのよ」
巧奴はちらちらと男を見ながら、猫のようにすりよった。
「でもね、あたし、壁に書いておいたの。『殺人者安道全也』って。先生には悪いんだけど。それと、血まみれになった、あたしの上着。ずたずたに切り裂いて、窓から河に投げといたの。役人はきっとあたしも殺されたと思うでしょうよ。ねぇ、合肥に連れてって。子供を連れて、それから、どっかに逃げましょう。あんただって、おたずね者なんだから」
「お前、ひとりでここまで来たのか」
「え、あたし……」
突然、男の声が響いた。
「そんなわけねぇだろう」

張旺は巧奴をつきとばし、刀を構えた。岩礁を背に張順が立っていた。侯健、王定六、安道全の姿もある。張順は刀を抜いた。
「待っていたぜ」
「たいした女だ」
侯健が巧奴を罵った。
「先生よ、だから俺が言っただろう」
「ふん、若造に何が判るか」
巧奴は張旺に駆け寄ると、その首から革袋をもぎとった。
「ねぇ、お願い、この石あげるから見逃してよ」
巧奴は摩娑石を差し出した。
「これは大切なものなんでしょ。これをあげるから──」
言いかけた巧奴の首に、背後から張旺の刀が突きつけられた。
「そこをどけ。女を殺すぞ」
張順たちは後ずさった。巧奴を人質にとったまま、張旺は小舟に向かった。岩の間に隠しておいた小舟が波に揺れている。張旺は薄く笑った。
「そら、受け取りな!!」

張旺は巧奴を突き飛ばすや、大きく刀を振り上げた。背中から斬られた巧奴は、声もたてずに倒れた。その手から落ちた摩娑石を張旺は素早く拾い上げ、舟に向かって駆け出した。
「“毒蝦蟇”!!」
侯健が呼んだ。昔の名を呼ばれ思わず振り向いた張旺の目に、侯健の毒針が刺さった。張旺は呻いて膝をついた。張順がゆっくりと近づいていく。
「待ってくれ」
張旺は摩娑石を握った手を振り上げた。
「石を渡す。見逃してくれ」
「いいだろう──と言いたいところだが、俺も張、お前も張、同じ姓っていうのが気に入らねぇ」
張順の刀が動き、張旺の胸を貫いた。摩娑石が軽い音をたてて波間に落ちた。月光を浴びた湖面に浮かび、摩娑石はきらきらと不思議な光を放っていた。
岩場に静寂が訪れた。波の音しか聞こえない。島の何処かで人の叫ぶ声が聞こえていたが、それも波に紛れてしまった。侯健が岩場を伝って舟に飛び乗り、岸辺に寄せた。王定六がとも綱を巻く。
安道全は、波打ち際に横たわる巧奴と張旺の死骸を見つめていた。安道全には、人の体内を流れる生命が見える。血や気となって体のなかをめぐる命の川だ。それが断ち切られるというのは、耐えがたいことだった。それなのに、生きようとする者、殺す者、死にゆく者は、みな同じ人間なのだ。
安道全は懐から手巾をとりだした。白い絹のまんなかに、おしどりの刺繍がしてある。安道全は、深い深いため息を、ついた。
張順たちは、張旺が隠していた小舟に乗って王廟島を後にした。闇にまぎれて湖を渡り、太湖の寂れた岸辺に着いた。澄んだ波が寄る夜明けの浜に、張順と安道全は並んで立った。
「二度と、江南には足を踏み入れられないな」
「“殺人者安道全也”、か──」
安道全は呟いた。
「それもいい」
安道全は太湖に背を向けて、夜明けの道へ踏み出した。
「よし、オレが背負っていきましょう」
王定六が安道全の前にしゃがみこんだ。
「夜明けに船が出ますから、走らないと間に合わねェ」
江南から山東の梁山泊に戻るには、南北に走る運河を使うのが早い。運河は江東を南北に貫いており、蘇州付近にも船着場がいくつかあった。一番近い船着場に向かって駆けだそうとする王定六に、侯健が言った。
「船で梁山泊までは行けねぇだろう。俺は蘇州で戴宗兄貴を探してから行く。楚州の船宿で落ち合おう」
「では、次に会うのは楚州ですナ」
王定六は安道全を背負うと、太湖沿いの道を東へと駆けだした。張順が追おうとすると、侯健が引き止めた。
「あんたはいけねェ」
「そうだった」
張順は蘇州太守の鯉を殺して逃げている。手配されている恐れがあった。
「俺は途中の潤州まで陸路を行って、船に乗る」
侯健と張順は太湖のほとりで袂を分かった。
東の空はもう明けはじめている。水辺の空気が清々しかった。
王定六は、爽やかな朝の空気の中を駆けていた。人間がこれほど速く走れるものかと、安道全は不思議に思った。安道全のまわりを風がびゅうびゅうと駆け抜けていく。
「先生、オレのあだ名を知ってるかィ」

“活閃婆”──走ること、まさに“閃き”のごとし。夜明けの空がどんどん後ろに飛び去っていく。
「昔から、逃げ足だけは速くってネ」
王定六は安道全を背負ったまま、船着場へ向かって走った。浜辺を駆け抜け、まだ眠っている漁村を抜けた。村を過ぎると、こんもりとした林があった。その中から、ふいに五、六人の黒衣の男たちが飛び出してきた。安道全が叫んだ。
「逃げろ──」
建康の船着場で安道全を襲った者たちだった。王定六は竹棒を引き抜いたが、間に合わなかった。男の手刀を首筋に受け、王定六は昏倒した。逃げようとした安道全は、背後からまたあの真っ黒な袋を被せられた。声をあげる暇もなく、安道全は袋の上からみぞおちに一発うけて、気を失った。
気がついた時、安道全はどこか暗い場所に横たわっていた。
「いったい、どうなっておるのだ!!」
安道全は寝台の上に転がされているようだった。手足は縛られていない。寝台は、不安定に揺れている。安道全は体を起こすと、手さぐりで薄く光の差し込んでいる扉に向かった。扉にはしっかりと鍵がかかっている。しかし、その隙間から、外の音が漏れていた。鴎の泣き声、波の音。そして、それらの音に混じって聞こえてきた言葉に、安道全は愕然とした。
(異国の──言葉か)
安道全は胸の摩娑石を握りしめた。
扉の隙間に目をつけて、外を覗いた。きらきらと輝く水が見えた。果てのない水──海だった。
その日、梁山泊は晴天で、聚義庁から見る湖は、銀色の鏡のように輝いていた。しかし、呉用の心は晴れなかった。風が冷たい。輝く湖は遠く、ひどく無情に見えた。
呉用の手には、ちいさな錦の袋が握られている。晁蓋から、万一の時に、と託された袋だ。
万一の時。
それは、今だろうか。
今が、そうなのだろうか。
晁蓋の死を知った瞬間から、呉用は問いつづけている。
宋江は、ふたたび昏睡に入っていた。今までは、数日おきに目覚めていた。眠りながらも、薬や重湯を口にしていた。しかし、今度の昏睡は長い。もう十日にも及んでいる。薬も、水すら口にしない。その顔は、すでに死人のようだった。もう誰も、宋江の病に触れようとする者はいなかった。
呉用は人の気配に振り向いた。花栄だった。花栄の顔に、見たことのない狼狽が現れていた。呉用は、風が唸るのを聞いた。
「先生──宋江が」
吹きすさぶ風の中で、呉用は錦の袋を握りしめた。
文中の『没遮闌』の表記は、正しくは です。
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