
|
孟州牢城の施典獄の若様は、人には見えぬものが見える。
そんな噂があった。
あながち、根も葉もない風聞──とは、言えない。
たとえばこうだ。
若様の父上が預かっている牢城には、日々、数多くの囚人が送られてくる。若様は幼児の頃より、彼らの罪状を見ただけでぴたりと当てた。聞くと、人を殺した者には、その背後に灰色の影が、人を傷つけた者には、その者の身の上に血が見えるという。無罪の者には、むろん、なにも見えない。父親の典獄殿は正義の人であったので、息子の不思議な力によって囚人の冤罪を晴らしてやることもある……。
噂である。
とはいえ、実際、若様の眸はひどく色が薄らいでおり、闇の中ではほのかに金色に光って見える。その光を目の当たりにすれば、人はさもありなんと納得せずにはいられない。そして、後ろ暗い者ならば逃げ、そうでないものは、いつか冤罪を受けるようなことあれば、きっと若様が助けてくれる、と、頼もしく思うのだった。
もっとも、若様自身はそんな噂を意に介しもせず、ぶらぶらと悠々自適な毎日を送っていた。
ある時、若様は客の訪問を受けた。昨年に赴任してきたばかりの苓水県の知県で、姓を裘という。良く言えば清廉潔癖、悪く言えば融通がきかない堅物、という評判の人物だ。
その堅物が、
「頼む」
と、ひどく切羽詰まった様子で言った。
夏の盛りの夕方で、空気は煮えたように暑かった。
「ぜひとも、若様のお力を貸していただきたい」
若様の父親ほどの年頃で、知県という軽くはない地位にいる人である。それが、無官の若様にそう言って頭をさげたのだから、よほど困っているのだろう。しかし、当の若様は興味もなさそうな顔で、ぱたぱたと扇を使っている。
「一体、どうしたのさ」
金色の目の若様は、誰に対しても、そんな気安い話しぶりをした。息子ほどの年頃の若様にそんな話し方をされて、知県はややむっとしたようだった。それをぐっと我慢して、実は、と、知県閣下は次第を語った。話によると、裘知県は都の人だが、たまたま赴任してきた孟州の地が気に入り、この正月に月橋巷の古い屋敷を買い求めたのだという。苓水県は孟州のすぐ隣の県である。
「若様も御存知でしょう。西域で戦死された尹将軍の旧宅です。長いこと空き家だったので、いささか手を入れました。しかし、住み心地は悪くない。それに、どういうわけだか、引っ越すなり十年もできなかった子供ができて」
「そりゃおめでとう」
「そのとたん、妻の気がふれました」
「へえ」
「ばかばかしい話で、一日中、寝台にこもって泣いている。時には怒ってものを投げたりもする」
「浮気がばれたな」
「まさか。私は蓄妾などという風潮には反対だし、妓楼などにも出入りはしない。それなのに、それはすさまじい有り様で、手の施しようがない。そのうえ、噂を耳にした知人たちが、祟りではないかと道士などを連れてくるのです」
「方角でも悪いのかい。北が低いのはよくないらいしよ」
「私は風水も道士も信じてはおりません」
裘知県は背筋を伸ばし、きっぱりと言い切った。
「君子は怪力乱神を語らずと云いますからな。しかし、知人や隣人、家人や役所の下役などが次々と道士や僧侶を連れてきて、それらがまた、口を揃えて言う。由緒ある屋敷に手を入れたため、住み着いていた幽鬼がたたりをしているなどと。それも、ばかばかしい、赤子の幽鬼がいるらしい」
「きたな」
若様は眉を寄せた。
このごろ、そんな相談が多くて困る、と若様は苦い顔をした。
「僕は、坊主でも道士でも呪い師でもないからね、幽鬼を追い払うなんてできないよ」
「私も幽鬼など信じません」
ばかばかしい、と知県は何度も繰り返した。どうやら、それが口癖らしい。
「その証拠に、それらの道士、僧侶めらがどんな祈祷や法要を行っても、まるで効果があがらなかった。それどころか、幽鬼と聞いて妻の病状は悪くなる一方だ」
辟易した知県は道士たちを叩き出したが、もとより医者も薬も役にたたず、藁にもすがりたい気持ちで来たという。
「家僕どもも怯えているし、ここは若様に、幽鬼などいない──と、証言していただきたいのです」
裘知県は部下に命じて、ずらりと贈り物を並べさせた。
「妻はおそらく妊婦にある気鬱のやまい。そのうえ新しい屋敷になじめずに、幽鬼などを心でつくりだすのに違いない。とはいえ、このままでは妻の身も腹の子も案じられてならぬので、若様に頼むのです。評判の若様が幽鬼などいないと太鼓判をおしてくれれば、誰もが納得するでしょうからな」
並べられた盆の上には、絹、綾、錦から最新流行の靴や頭巾、佩玉などがきらきらと輝いている。若様が並外れた洒落者というのは、街ではそうとうの評判だ。
若様は贈り物をちらりと見た。
そろそろ秋用の衣装を拵えたいと思っていたところではある。しかし、典獄殿は若様が浪費しすぎると、小遣いを減らしてしまった。若様は心の中の算盤をぱちぱちとはじいてみた。
「ふうん。なら、ちょっと行って見てみようか」
「おお、助けていただけるか」
「勘違いをしては、困るね」
若様は伊達者だ。贈り物に目がくらんで助けるというのは、伊達ではない。若様はぱちりと扇を閉じて、涼しく言った。
「面白そうだから、見に行くだけさ」
薄暗い部屋の寝台に、奥方は静かに眠っていた。空気は冷たく、濃い薬草の匂いがした。屋敷の中には人気があるのに、ここだけは、ひっそりとした静寂に包まれていた。
しかし、床や壁には喧騒の名残がある。奥方が投げて割った陶器のかけらや、かしいだ家具、それを打ちつけたらしい壁の穴……寝台にかかった紗もびりびりに引き裂かれ、老人のひげのようになっていた。それが風もないのにゆらゆら揺れる。
たしかに、幽鬼がいそうな雰囲気だ。
「何か、見えましたかな?」
部屋に入った若様に、知県は尋ねた。若様はくるりと顔を巡らして、
「いや、見えないな」
と軽く答えた。
「確かに?」
知県は後ろに控える家僕たちに聞かせるように、かさねて聞いた。
「本当に、なにもおりませんな」
「本当さ。幽霊なんか、いやしない」
若様はふんと小さく鼻をならした。その目が、薄い闇のなかで金色に光った。
「聞いたか、みな。やはり幽鬼などというものは……ばかばかしい……」
裘知県が言いかけた時、ふいに奥方の狂乱が始まった。
寝台の垂れ布を引きちぎり、奥方は布団の中から獣のように飛び出してきた。おそろしいす速さだった。卓に体当たりしてそれを壊すと、そのまま床の上を転げ回って、声を放って泣きだした。
「奥や、奥や、しっかりしなさい。気を確かに……」
知県が慌てて駆け寄り呼びかけると、奥方はいっそう激しく泣きじゃくる。まるで赤ん坊がひきつけを起こしたようだ。床の上をいざりながら、奥方はわんわんと泣き続けていた。
「よしなさい、腹の子に悪い……いたい!!」
奥方の爪が知県の顔に傷をつけた。知県はしゃにむに縋りついてくる妻をつきはなすこともできず、ただうろたえているばかりだ。
若様は、そんな様子を壁によりかかったまま、だまって見ていた。
奥方の狂乱は、四半時も続いただろうか。使用人たちは幽鬼を恐れて逃げてしまった。あとに残っているのは、知県と奥方、若様と、奥方の実家からついてきた老いた乳母だけだった。
知県が冠も服もぼろぼろになった頃、若様はようやく声をかけた。
「ねぇ」
奥方も疲れたのか、床に上にぺたりと座り、なにか子供をあやすような仕種をはじめていた。とぎれとぎれの呟きは、子守歌らしい。老乳母が奥方を寝台へ連れていった。子守歌は続いている。
若様は、呆然と妻を眺めている知県に尋ねた。
「奥方は、どうして人形なんか抱いているんだろう?」
「人形? 人形など、ないでしょう」
裘知県は考えもせずに否定した。
ただ、奥方を介抱している老乳母が、けげんな顔で若様を見ただけだった。
『知県閣下が不義の子を殺して捨てた』
そんな剣呑な噂を若様が耳にしたのは、屋敷を訪ねた数日後のことだった。
奥方が赤子の亡霊を見て乱心したという噂におひれがついて、そんな話になったものらしい。追い払われた道士たちが、声高に喧伝したのかもしれない。噂はやがておおいに広がり、ついに州知事の耳まで入った。融通のきかない裘知県には敵も少なからずおり、それらの者が道士たちの言葉や、裘家の元使用人などの証言をつけ、事件をまことしやかに注進したのだ。そうなれば、知州も放っておけない。裘知県のもとに捕縛の兵がつかわされた。
知県は捕らえられ、州の役所へ送られた。
やがて裁判となり、知県は知州の前に引き出された。証人として奥方も侍女につきそわれて出廷した。堅物でとおった裘知県の犯罪に、見物人が大勢つめかけていた。その中には、施の若様の姿もあった。
「白状するなら今のうちだぞ。お前が赤子の死体を捨てるのを見たという者もいるのだ」
「ばかばかしい!! わたしには妻の腹におります子供のほかは、子はありません」
頑として無罪を主張する裘知県に、知州閣下も困り果てた。実際、告発と証言はあるが、物証がない。
肝心の奥方は、しくしくと泣きつづけている。知州がなにを尋ねても、言葉もなく泣くばかり。裘家になにか“事件”があったことは、間違いない。
「しかたない、打て」
知州の命に、殺威棒を掲げた屈強な刑吏が進み出た。裘知県は青ざめた。多く打たれれば死ぬ者もある。しかし、裘知県は恐怖に屈せず、あくまでも冤罪だと譲らなかった。
「打つならば、打っていただこう」
ぴしり。と、空気が鋭く鳴って、知県の背中に棒が当たった。
奥方が、はっとした顔で若様を振り向いた。
若様はそしらぬ顔をした。
もう一発。さすがの裘知県もうっと唸った。
奥方は、縋るような眼で若様をみつめた。
若様は、しかたないなという顔で扇子をしまい、見物人の人垣の中から歩みでた。
「許してやるの?」
若様は奥方の傍らに歩み寄り、顔を覗き込んでそう聞いた。
「もう、許してやるのかい?」
奥方は、とまどいがちに若様の顔を見上げた。その顔はまるで大人のようでなく、幼い子供のようだった。奥方の頬にぽろぽろと涙がこぼれた。若様は、その頭をぽんぽんと撫で、立ち上がった。
「もう、いいってさ」
若様は知州閣下に向かって言った。
「もう打つのはよしてやってよ」
「そなた、施典獄の息子ではないか」
「おひさしぶり」
「また──何か見たのか」
知州は刑吏を下がらせた。
そこへ、ひとりの老婆が下役に付き添われておずおずと姿を現した。裘家に仕える奥方の老乳母だ。若様は老婆を前へ呼び寄せた。
「やあ、連れてきたか」
老婆は胸に赤い布包みを抱いていた。
「この子に、なにか御用でしょうか」
布の中には、まるまると太った赤ん坊が包まれていた。思いがけない展開に、見物人たちがどよめいた。
「知県が捨てた子供の死体か」
知州閣下も身を乗り出した。
「まさか」
若様は赤ん坊を受け取ると、知州の机の上に置いた。
それは、ほんものの赤ん坊そっくりの、ふるびた陶器の人形だった。赤いはらがけをして、にこにこ笑って座っている。その右足は欠けてなくなっていた。
若様は老婆に尋ねた。
「お前は、これをどうしたの?」
「はい、旦那様から壊れたので捨てるように言われましたが、なにやら捨てかねて残しておいたのでございます」
裘夫妻の、鍾愛していた人形だという。
夫妻には結婚してずっと子供がなかった。薬を飲んだり、寺に願掛けをしても益はなかった。離縁や側女をおくことを勧める人が大勢いたが、知県は相手にしなかった。子供など縁だと思っていたし、できなければ養子をとればいいからだ。しかし、夫人はひどく気に病んで、しばしば寝付くようになってしまった。そこで知県は、夫人を慰めるため、廟会でたまたまみつけた人形を子供がわりに買い与えた。
「名前までつけて可愛がっていたものを、本当のお子ができたとたん、壊れたからと捨ててしまうのは哀れと思って取りおきました。罪になりますでしょうか?」
「いいや、たいへんな忠義者さ」
若様は裘知県に眼を向けた。
「幽鬼なんかいない、と言っただろ?」
「まさか……」
「そうさ。あんたは、この子を殺して、捨てたのさ」
「そんな、たかが人形が」
読書人である裘知県には、捨てられた人形がそれを恨んで、奥方について悲憤を訴えているのだなど、とうてい信じられるはずはなかった。
「ばかばかしい、ばかばかしい」
「なら、この場で床に投げて割ってしまいなよ」
若様は壊れた人形を裘知県に向かって投げた。
知県は思わず腕を延ばし、胸に人形を受け止めた。ひんやりとした滑らかな感触と、曇りのない愛らしい笑顔が、知県の記憶を呼び起こした。十年という月日。はじめは、ちょっとした思いつきだったのに、夫人は人形をひどく気に入り、わが子のように可愛がった。湯浴みさせ、着物をきせかけ、食膳を並べ、ともに寝るほどだった。知県もそれにつきあった。ばかばかしいと思いながら、いつしか日常の一部になった。
しかし、奥方が懐妊したと分かってすぐ、人形の足が欠けた。知県は何も考えず、人形を捨てさせた。翌日、それを知った奥方は、何か言いたそうだったが、黙っていた。まもなく、奥方の病がはじまった。
裘知県は悟った。
自分はやはり、なにかを殺し、捨てたのだろう。
若様は、悄然とする知県に尋ねた。
「“この子”の名前は?」
「小鶯子──」
言葉とともに、奥方の顔がほころんだ。輝くような、幸せな笑顔だった。
「小鶯子!」
その瞬間、人形は知県の腕の中で粉々に砕け散った。
軽い風が起こった。
なにか小さなものが、ざわめく人々の頭上を駆け抜け、開け放した扉からすべりでたような気配があった。
見送る若様の頭巾のすそを、風は、涼やかに揺らしていった。
裘知県の裁判は、誰もが毒気を抜かれたようで、うやむやに終わってしまった。屋敷に戻った知県は、後日あらためて若様を招き、感謝の意を表した。奥方の体調はよく、子供も順調に育っているという。
「小鶯子も──」
裘知県は、まるで娘を嫁に出した父親のような顔をして言った。
「きっと、次は我が家の本当の子供に生まれ変わるにちがいない」
「それは無理だよ。人形だもの」
裘知県の感傷など興味なさげに、若様は涼しい顔で酒を飲んでいる。知県は納得できない様子でなお言った。
「そうでしょうか」
「そうさ」
「しかし」
「あの子は、きっと鶯に生まれ変わるよ」
若様は、酒を運んできた奥方に声をかけた。
小鶯子が言ったという。
“春になったら、お庭の木に飛んでいきます。そして、お二人にご挨拶いたします。お元気ですか。私の弟はすこやかでしょうか。毎年、春が来るたびに、お二人は庭のあずまやに座り、わたしの声を聞いてください”
「本当さ。そう言っていた」
若様は笑った。
初冬、裘知県の家に待望の男子が生まれた。
次の春、月橋巷の裘家の梅には、たくさんの鶯が飛んできた。鶯たちは美しい声で一春を囀って過ごし、夏が来るころ、どこかへとまた飛び去って行った。
鶯は何羽もいて、どれが“小鶯子”かは、さすがの若様にも分からなかった。

|

|