水滸伝絵巻-graphies-

第四章
地獄羅漢

第六章 月下天堂

 対岸に水しぶきが白く上がるのを、史進は眺めた。
 手には、槍を持っている。少林寺からの脱出で死んだ武器商人“烏鴉嘴”たちの遺品である。商人たちは、最後まで商売道具を捨てなかった。
 史進は額に風を感じた。
 隣には、金山大師と、魯智深が立っている。
 史進は、背後の石窟を振り仰ぎ、それから、また対岸に目をやった。
 ぴくりと史進の腕が動いた。背中の龍は、躍り出すのを待っている。
(まだだ)
 史進は乾いた唇を舐めた。
 いまは、待つことが戦いなのだ。

 その時、石秀は対岸にいた。
 夜明け前、ひそかに上流で伊水を渡り、南岸の岩山を迂回したのだ。
 石秀に、李忠、陳達、楊春、その配下。合わせて百人程度の決死隊だ。主戦場となる北岸に史進と魯智深を残し、奇襲に戦いに慣れた梁山泊兵のみ連れていた。
 楊春が岩山のへりまで体を乗り出し、北方を窺っている。
「敵軍は半分が渡河中だ。残りの半分も川岸に密集している」
 石秀は頷いた。
「残るは──林霊素を守る道士軍、一万五千」
 官軍は伊水を押し渡り、一息に僧たちを全滅させるつもりである。数を頼んで油断しており、その目は北岸に集中している。
 そこへ、背後から奇襲をかけるのだ。
 そのために、北岸に残った史進たちは、官軍が河を渡るまで攻撃をしかけない手筈になっていた。
 石秀たちの狙いは、ひとり。“通真達霊元妙先生”──林霊素。
 林霊素こそ法難の元凶であり、それを殺せば、残る道士に何ら吸引力はない。
(天子も目をさますだろう。そうでなくとも、溜飲は下るさ)
 本陣のしるしが巨大な“太極旗”であることは、昨夜のうちに王定六が探っていた。石秀たちは、朝焼けに照らしだされる太極旗を確認すると、岩山を下りはじめた。
 岩場の道を下っていくと、もう敵陣の様子は見えない。岩山の麓には、まだ朝もやが低くたなびいている。石秀たちは気配を殺し、慎重に進んで行った。だいたいの方角は、太陽の位置から把握している。
 あたりは、岩と林が複雑に入り組んだ地形だった。ここを抜ければ平地に出て、ほどなく本陣があるはずだ。実際、靄の向こうから軍勢の気配が伝わってくる。
 しかし、どれほど歩いても、太極旗は見えず、官軍の陣に近づけなかった。
 楊春が、大桿刀の石突きで地面を示した。
 李忠が覗き込む。
「足跡だ。官軍の靴じゃねぇな、誰のだ」
 自分の足を当てると、いくつ目かの足跡にぴたりと合った。
「俺たちの足跡だぞ」
 やはりな、と唸ったのは、陳達だった。
「迷路だ。いいや、こいつは」
 陳達と楊春は頷き合った。
「“幻術”だ」

 石秀は同意しなかった。
「林霊素は、ペテン師だ。そうだろう」
「そうとも言い切れなくなった、ってことよ」
 陳達の虎鬚は、朝もやのせいで湿っている。それを鬱陶しそうに掻いて、陳達は雑木林を見回した。
 陳達と楊春は、“神機軍師”朱武の弟分である。朱武の操る八陣図、八卦陣など、摩訶不思議な兵法を間近に見てきた。また、史進とともに芒湯山で“混世魔王”樊瑞とも戦ったこともある。
「この林には、あの時と同じ匂いがプンプンするぜ」
 石秀は黙り込んだ。梁山泊だって、葦を使って湖に迷路を作る。祝家荘戦では、石秀も迷路に苦しめられた。
「なんてこった」
 石秀は、地面に何重にもなって連なる自分たちの足跡を見た。
「史進が、俺たちの奇襲を待っているんだぞ」
 天を仰ぐと、鬱蒼とした梢がかぶさり、太陽すら見えなくなっていた。



 金山大師は北岸にいて、伊水を押し渡る洛陽軍の矢面に立っていた。
 法衣は、血に汚れ、刃によって千々に裂けて、川風に細くたなびいている。
 魯智深は肌脱ぎになり、禅杖を大地についていた。
 二人法師は、朝日きらめく川辺に並んだ。
 魯智深の筋骨たくましい背に、紅の牡丹が輝いている。金山大師はそれに気づくと、般若雷を片手に握り、残る片手で牡丹を拝んだ。
「“一切衆生悉有仏性”──すべての人間の内に、仏はおわす」

 水しぶきが弾け、魯智深の禅杖にぱしゃりとかかった。
 戦いが始まった。

 禅杖が横に動いて、先頭を来る兵士を薙いだ。兵は飛び、水際に叩きつけられた。丐幇の男たちが奇声を発して、水に飛び込む。彼らの武器は雑多である。棒、鉈、農具、天秤棒、拾った柄の折れた武器。痩せていても、手足の力は常人以上だ。その勢い、獰猛さは野犬の群れだ。
 南北少林寺の武術僧たちは、拳法で容赦なく相手を倒した。“白光尊師”を失った護国禅僧も、八人が生き残っていた。彼らが錫杖を手に跳躍するたび、周囲で三十人の敵が倒れる。
 少林寺にて一度は激戦を繰り広げた両軍である。洛陽軍を率いていた宇文将軍は戦死し、兵の半数が戦闘不能となった。ついに正都指揮使が出陣したが、本人は本陣に林霊素とともにいて、部将たちが実際の指揮をとっている。
 莫志は矢を射続けた。その狙いは百発百中、いずれも喉を射抜かれていた。
(人も鳥も、変わらないな)
 莫志は次々に矢をつがえ、つがえては狙う間もなく射た。軽快な弦音に鼓膜を震わせ、莫志はいつしか微笑んでいた。
 伊水に血が流れ、河原に人が倒れていく。
 磨崖仏は、仁慈の笑みでそれを見下ろす。
 仏の微笑を背に、魯智深は敵を薙いでいく。
 人が生まれるには、奇跡ほどの偶然が重ならねばならぬと云う。
「それなのに、死ぬのは、なんと、たやすいことか」
 魯智深は、敵を殴り倒し、叫んだ。
「南無、阿弥陀仏!」

 史進たちは水際を防衛線として、夏枯れの伊水を渡る官軍を迎え撃った。背後の岩窟には、負傷者と読経する僧尼が隠れている。
 史進の眼前には、絶え間なく敵が押し寄せる。槍が唸り、たわみ、勢いよく跳ねて、敵が倒れる。史進の耳には、もう自分の鼓動と、息づかいしか聞こえない。
 敵は多かった。史進は囲まれ、槍が折れた。
 槍も棒も、手近に何本も集めて置いていた。死んだ武器商人たちの槍、倒れた少林僧たちの棒だった。折れては次の武器を足先で蹴りあげて取る史進の手足は一瞬も止まることはなかった。
「石秀はなにをしている」
 敵は増える一方だ。
「奇襲はまだか!」
 対岸を見ようとしたが、襲いかかる敵に邪魔された。
 敵は史進を取り囲み、八方から槍を繰り出してくる。史進は避けた。背後からも敵が斬りかかってくる。王定六の匕首が、そのさらに背後から敵を倒した。
(追いつかねェ!)
 匕首が稲光のように閃いて、またひとり敵を倒した。倒しても、倒しても、きりがない。
 洛陽軍が上陸し、禁軍も岸辺に迫ってくる。もう河の水も見えない。見えるものは、敵だけだ。
 王定六は、生き残り、この戦いの行方を見届け、梁山泊に知らせる役目がある。しかし、もう、生き残ることは忘れた。

 官軍の上陸は続く。
 兵法は、『渡河中の敵を攻めよ』と教える。しかし、石秀たちの奇襲を待っていたために、迎撃が遅れ、官軍の上陸を許してしまったのだ。史進たちは、どんどん石窟の方へ押されていた。背後は切り立つ岩山で、逃げ場はない。石窟に隠れた怪我人や尼が、必死で石を投げていた。供物台、石仏の頭、壁画の欠片が空中に弧を描いて飛んでいく。読経の声が天地に轟きわたっている。
 白馬寺の高弟たちは聖典『四十二章経』を取り囲み、一心に仏の救いを念じていた。その念仏の輪に向けて、官軍が火矢を放った。炎があがり、この国に伝わった最初の経典は、めらめらと燃え上がった。
 僧侶たちは悲鳴をあげた。
「これが、末世か」
 いよいよ最期と、僧尼たちは覚悟を決めた。が、金山大師は諦めていなかった。般若雷を手にぐっと踏み出し、前面の敵を押し返した。彼らは、岸と石窟のなかほどにいた。大師の前では、魯智深が禅杖を振るっている。魯智深はぐるりと囲まれていたが、大地を踏む足は土に貼りついたように重く、一歩として後退しなかった。なお、進もうとする。
 魯智深は丐幇軍と矢面に立ち、敵の圧力を一身に受け止めている。
 その時、おそろしい鯨波が龍門石窟を震わせた。
「禁軍が上陸したぞ!!」
 先鋒である五千の洛陽軍に続き、一万の禁軍が伊水の北岸に上陸した。
 対岸にも一万五千の六甲神軍が無傷のまま控えている。
 莫志は逃げ道を求めて頭上を仰いだ。岩山を登ってなら逃げられるかもしれない。しかし、そこにも、彼は見たのだ。
 崖の上に、『宋』の旗が現れるのを見たのである。
「敵の援軍……!!」
 さらに伊水の川下からも、漕ぎ上げてくる船団がある。その甲板にも『宋』の軍旗がたなびいていた。
 今度こそ莫志は絶望した。官の援軍ならば、間違いなく節度使軍だ。“薬師”徐京、“老風流”王煥──数いる節度使の中でも名の知られた豪傑が、ついに出陣命令に応えたのだ。
 莫志はうろたえ、最後の希望である金山大師のもとへ駆け寄った。
 般若雷を地について、金山大師は立っている。
 その背後では、巨大な盧遮那仏が不変の慈悲をたたえて微笑んでいた。
(ああ、終わりなんだ)
 莫志は、空に聳える盧遮那仏を見上げた。
 不殺生戒を破った自分にも、慈悲を垂れたまうだろうか。やはり地獄の輪廻に堕ちるのだろうか。それならば、金山大師も、天窮和尚も、みんな一緒だ。
 いっしょに地獄へ落ちるのだ。
 莫志は死のうと、最後の一矢を握った。鏃を首筋にあて、莫志の目が、史進へ、それから魯智深へと動いた。
(みんな地獄へ落ちるのに、どうして、あの“和尚”は笑っているのだろう)
 魯智深は嬉々として戦っている。血の赤も、牡丹の赤も交じり合い、赤身が輝いている。放った声が、響き渡った。
「勝てるぞ! 立て! 立って戦え!!」
 鏃の上に倒れようとした莫志の手が、止まった。諦めたはずの目に、その光景が飛び込んできた。
(あれは、流れ星──?)

 蒼穹に、きらりと輝く五つの光が見えた。すぐに、それは矢だと分かった。天上より飛来した五本の矢だ。それが美しい銀色の弧を描いて、五人の官兵を同時に倒した。
 莫志には、それが川下から遡上してくる船団から射られたものだと分かった。先頭の船の舳先に、ひとりの武人が颯爽と立っている。秀麗な姿、華麗な甲冑、なによりその手に大きく引き絞られた紅の弓──。
(あれは!)

 梁山泊席次第九位、“小李広”花栄。愛弓・朱雁の弦を唸らせ、花栄は再び五箭を射て五人を倒した。さらに五箭、川岸の官兵を射倒すと、船団は次々に接岸した。上陸した『宋国軍』は、北岸の禁軍に襲いかかった。真っ先に飛び下りたのは、二丁の板斧を振りかざす真っ黒な大男。

“黒旋風”李逵。梁山泊の席次は第二十二位、人を殺すために生まれてきた天殺の星である。
 さらに山上から駆け下りた『宋国軍』も、北岸の洛陽軍へ攻めかかった。
「行くぞ!!」

 山を駆け下りる新手の軍は、『宋』の旗を掲げた歩兵である。先頭に立つのは、“行者”武松。景陽岡にて人喰い虎を殴り殺した壮士である。続くのは、清風山の“親分”、“錦毛虎”燕順。そして、“打虎将”李忠の舎弟、桃花山の“小覇王”周通である。彼らは無抵抗の僧尼を襲う洛陽軍へ、その頭上から跳ぶようにして躍り込んだ。
 伊水を漕ぎ登る船を操るのは、“立地太歳”阮小二、“玉旛竿”孟康である。接岸した船から半裸の男たちが続々と上陸してくる。舳先では、道案内の“鼓上蚤”時遷が大きく腕を振り回し、仲間に合図を送っていた。
「間に合ったでぇ!!」
『宋』を掲げた新手は、山東より密かに結集した梁山泊軍だったのだ。
 さらに岩山の上に、旗が立った。
 石窟の東の岩山には、街道へ抜ける小道がある。そこへ、一群の騎兵が現れた。馬上には、ひとりの禁軍将校が剣を掲げている。

 官の援軍──と思った武術兵たちが阻もうとするのを、魯智深が止めた。
「待て!」
 魯智深は、その男の顔をよく知っている。見紛うことなき、顔面の半分を覆う青痣──“青面獣”楊志。

 梁山泊席次は第十七位。伝説の英雄“楊無敵”こと楊令公の直系にして、宝剣・吹毛剣を伝承する無双の剣客である。
 かつての“楊制使”の勇姿もかくや、楊志は官軍の装束の部下を引き連れていた。その装束を、一斉に脱ぎ捨てた。
 さらに右翼には、“金鎗手”徐寧。

 梁山泊第十八位、もと禁軍金鎗班師範にして鈎鎌鎗の伝承者。神鎧“賽唐猊”を身にまとう英傑である。
 左翼は梁山泊席次第十五位、“風流双槍将”董平。
『英雄双槍将』『風流万戸侯』の二筋の旗を背に負って、また二本の槍を自在に操る。

文武両道を自負する俊英である。
 二人の華麗な軍装は、戦場に燦然と輝いている。
 彼らは分散して梁山泊を出ると、西へ向かい、途中で官軍から奪った軍装に変装した。そして、“智多星”呉用の神のごとき知謀によって、また梁山泊の誇る情報伝達網によって、“梁山泊軍”は、ぴたりとこの時、この地に出現した。
 混乱する戦場の空に、一羽の烏が輪を描く。“錦豹子”楊林は、分散して梁山泊を発した仲間たちを、情報網を駆使して龍門まで導いたのである。
「役者は揃った──さぁ、お立会い。御覧じろ!」

 梁山泊騎兵軍が険しい崖道を駆け下りていく。
 この時、ようやく史進も事態に気づいた。
「あれは! 盧の副首領まで来ているのか!」
 殿軍の将は、梁山泊副首領“玉麒麟”盧俊義である。梁山泊の重鎮であり、またかつては北京一の富豪として“河北の三絶”とまで称賛された。養い子“浪子”燕青が、その轡をとっている。
 盧俊義は“通臂猿”侯健が縫った『宋』の青い旗を見上げた。
 本来、『宋国軍』の旗は赤い。相生説では、宋国の色は赤なのだ。
「この『宋』は、梁山泊首領“及時雨”宋江の、『宋』だ」
 青空よりも青い旗である。
「が、あいにく宋江殿はお忙しい。ゆけ、燕青よ!」

「お任せを」

 燕青が旗を手に崖を駆け下りていく。



 その時、石秀は視界が揺らぐのを感じた。その前の視界に、べつの風景が重なっているような幻影だ。
「道が見える!」
 日陰に光が当ったように、水面に移った影のように、密集する木々のあいだに道が見えた。
「行けるぞ」
 石秀は駆けだした。戦の喧騒は、もうずっと前から聞こえているのだ。戦いは始まっている。
「待っていろ、史進!」
 李忠は止めようとした。
「これも“まぼろし”かもしれん」
「かまうもんか!」
 陳達が石秀を追った。石秀は揺らぐ視界の中を、駆けた。木の幹が眼前に迫る。石秀は幹の中を駆け抜けた。
 次の瞬間、石秀の前に数人の黒衣の道士が現れた。みな銅剣を構えている。
「敵だ!」
 石秀は斬りかかった。道士が受けた。火花が散った。また、視界が大きく揺らめいた。厳しい老人の声が聞こえた。
「見誤るな! 我等は敵に非ず」
 その声に打たれたように、石秀は動きを止めた。同時に、道士たちが四方へ飛んだ。
「看破!」
 道士たちは梢へ跳ぶと、剣先で幹に貼られた呪符を突き刺した。血で書かれた呪符である。茫然とする石秀たちの前に、いずこからか飄然と白髯の長老が現れた。子供のように小柄で、顔色は玉のように輝いている。
「結界が弱まった……術者め、うろたえている」
 石秀は長老の顔を睨んだ。
「あんたは?」
「崋山より来たりしもの」
 崋山は河南道教の最高峰である。彼らは、崋山の無酔長老と、その弟子の崋山十子であった。彼らは“反逆児”林霊素の悪行を憎み、駆けつけてきたのである。
 無酔長老は払子を掲げ、頭上の虚空を大きく払った。

 その頭上に、無数の燃え上がる呪符が舞い落ちる。途端に、視界は洗われたごとく鮮明になった。森は途絶え、その先に道が伸びている。彼方には、林霊素の太極旗がたなびいていた。
 石秀は不敵に笑った。
「あんたたちも道士だろう」
「“徳は孤ならず、必ず隣あり”──儒教の言葉だ。“正義”に、門なし」
「それなら礼は言わないぜ」
 石秀らは森を抜け、岩山を駆け下りてまっしぐらに道士軍の背後に奇襲をしかけた。林霊素の本陣は、一万五千の六甲神軍の中から選んだ精鋭で守られている。その殆どは、武芸者や軍人あがりといった、腕に自身のある野心家だ。それが更なる栄達を願い、道教に身を投じたのである。
 彼らも北岸の混乱に気づいていたが、さほど動揺していなかった。林霊素さえ守れば、洛陽軍、禁軍が全滅しようと前途は明るいと信じている。
「敵襲だ、“通真達霊元妙先生”をお護りせよ!」
 金甲の道士兵が石秀たちの迎撃に走った。先頭をきるのは、軍人あがりの壮漢である。軍では、ひとかどの将であった。大刀を手に、冷静に石秀らの兵力を目測した。
「少ないぞ、一気に潰せ!」
 石秀は舌打ちした。もともと、彼らは少ない兵力で敵を混乱させるため、薄明を隠れ蓑にするつもりだった。百人の部隊を四つに分けて、道士兵を攪乱しながら林霊素を目指すはずだった。しかし、すでにあたりはすっかり明るい。石秀たちが寡兵であるのは、白日のもとに明らかだった。
 道士兵は勢いづき、先頭の道士将軍は大刀を振り上げた。その首が、音をたてて空へと飛んだ。
 はっとした石秀の目が、次の瞬間、にやりと笑った。
 道士将軍の首を刎ねたのは、顔色の悪い隻腕の男だった。
 梁山泊席次第三十二位──石秀の義兄にして、薊州の“首切り楊雄”、“病関索”楊雄である。
「待たせたな、石秀」

「待ってたぜ、雄さん」
 楊雄と石秀は二人並んで、六甲神軍の中へ飛び込んでいく。
 道士軍は狂奔した。“六甲神兵”と名乗り、一万五千の数がいても、殆どは“にわか道士”である。一分の精兵をのぞき、初めから戦うつもりなど毛頭ない。この機に“通真達霊元妙先生”に取り入るのが目的なのだ。
 道士たちは逃げまどった。彼らは何が起こっているのか分からず、大軍に背後を襲われたと錯覚した。石秀、楊雄らの奮戦に、さらに崋山の道士たちが加勢していた。
「大軍の奇襲だ!」
「道士がいるぞ、また敵が紛れ込んでいたんだ!」
 官軍の動揺は、北岸にいる金山大師や史進にも伝わった。
 金山大師は、まだ茫然としている諸僧を一喝した。
「この勝機を逃してはならぬ!」
 大師は人々を鼓舞し、反撃に出た。般若雷が唸りを上げ、敵に向って一歩を踏み出した。
 が、その足は動かなかった。背後から、急所・命門に剣を突きつけられていた。“張神剣”が叫んだ。
「あの男は!」
 裏切り者、満天星が信徒に紛れ込んでいたのだ。
「『精武大宝経典』を渡してもらおう!」
 金山大師は足を後ろに蹴り上げた。が、空を切った。満天星は妖狐のごとく空中で身を翻し、金山大師の前へ回った。
「『精武大宝経典』、もらった!!」
 満天星は法衣の襟を握り、大師の首へ斬りつけた。その刃を、棒が防いだ。
「この“九紋竜”が相手だ」
「相手にとって不足はない」
 史進は素早く棒を回し、満天星に打ちかかった。満天星は刀を大上段に振りかざし、史進の正面へ斬り込んでいく。史進は満天星の長大な刀を避け、後ろへ跳んだ。棒を握り直したが、満天星の刀に阻まれ攻め込めない。
「届くまい!」
 満天星はさらに踏み込んだ。刹那、さっと風が起きたと思うと、満天星は動きを止めた。

 満天星の胸を、“夕照流星”──史進の棒が貫いていた。
 そのまま、ぐらりと満天星は金山大師の足元に崩れ落ちた。
 倒れた満天星の手から、大師は一巻の古びた経典を取った。
「そなた、この内容を知っているか」
「武術書だ……会得すれば、天下無双」
「いかにも」
 大師は秘経を額に押しいただいた。
「これは、敦煌の砂漠から発掘された天竺の経典なのだ。魂を磨き、身を鍛え、悟りに達する──その時、武は無用となると、説かれている」
 満天星が、かすかに呻いた。大師は静かに念ずるように、言葉を続けた。
「無明はなく、無明の尽きることもなし──武がなければ、その強弱の区別があろうか。請われれば、見せてやったものを」
「では、消息を断った武芸者は……」
「みな、そのまま僧侶となった」
 満天星は、虚ろな眼差しを史進へ向けた。
「梁山泊の、“九紋竜”……拝めて、嬉しいよ」
 息絶えた若者の目を閉じて、金山大師は呟いた。
「しかし、『精武大宝蔵経』を真に会得した者は、まだこの世に一人もいないのだ」
 立ち上がった大師の手から、般若雷が滑り落ちた。足元には鮮血が池となっている。満天星の剣が、大師の命門を抉っていたのだ。

 戦いは続いている。
 史進ははぐれ馬を捕らえて飛び乗り、伊水の流れへ駆け込んだ。
「林霊素はどこだ!」
 水しぶきを蹴って南岸に躍り上がると、彼方に林霊素の本営が見えた。すでに石秀、李忠、陳達、楊春らの部隊の襲撃を受け、太極旗は傾いている。官軍の将軍たちに守られた、二人の道士の姿が見えた。ひとりは瀟洒な道服を身につけた男で、もう一人は頭から布をかぶっている。
 史進の目が、瀟洒な方の道士へ走った。
「林霊素だな!」
 その瞬間、怪道士が衣の下から湾曲した刀を投げた。史進は巧みに湾刀を避け、そのまま林霊素へ斬りかかった。
 石秀の声が聞こえた。
「史進、後ろだ!」
 気づいた時には、避けたはずの湾刀が空中で弧を描き、すぐ背後に戻ってきていた。風が首筋に当った。防ごうとした史進の棒が、鞍に当たって大きく逸れた。刃が迫る。が、史進の喉を切る寸前に、どこからか飛来した一本の棒が、湾刀を叩き落とした。
 史進は、棒の飛来した方を見た。
(師父!)
 しかし、どこもかしこも敵味方が入り乱れ、その姿を捉えることはできなかった。

 太極旗が倒れた。
 林霊素は叫んだ。
「あいつらは何者だ! いったい、何が起こっているのだ!」
 真っ黒な大男が両手に板斧を振りかざし、嵐のように迫ってくる。李逵の姿を見た林霊素の胸に、忽然と憤怒が湧き上がった。
(あんな卑しい人間どもに、殺されなどしてなるものか!)
 林霊素の執念に燃える目が、背後で蓮華座を組む怪道士を捉えた。
「なんとかしろ!!」
 林霊素は怪道士の首を両手で掴んだ。
「やつらを、殺せ!!」
 その言葉を吐くと同時に、なにか巨大かつ邪悪な力が、林霊素の口から体内へと一気に流れ込んだ。漆黒の気が林霊素の体内に満ち、魂を掴み取り、自由を封じた。
 林霊素は硬直した。“存在”を感じた。怪道士が、彼の体内に満ちている。
(お前は──)
 林霊素は、道士を名乗っているが、一切の法力を信じていなかった。しかし、いま、彼は自分がその法力の虜となったのを肌で感じた。
 林霊素は、自分の頭頂から一条の青白い煙が立ちのぼり、その雲が巨大な神仙を生んだのを天空のどこかから“見た”。青い衣を身にまとい、双眸は群青色に光っている。冷たい殺戮の光である。手には天を衝く長大な氷の杖を握り、その杖には風雪がまとわりついていた。道士たちはおののき、その名を叫んだ。
「おお、青華帝君!」

 超人力を持つ万能の神であり、従えば、なにも恐れることはない──究極の神である。そして、顔をもたげ、両眼を見開いたその神の顔は“通真達霊元妙先生”林霊素だった。道士軍“六甲神兵”は色めきたった。戦場では足手まといであった彼らが、武器を掲げ、猛然と前進を始めた。彼らは、自分が無敵の神兵であると幻惑されたのだ。
 天空に立つ林霊素の頭の中に、怪道士──ようやくその正体と真の能力を現した、“金華魔人”包道乙の声が響いた。

『お前は“神”になりたいのだろう。ならば、“力”に、身をゆだねよ!!』



 僧侶たちは武器を取り落とし、絶望して大地に伏した。
 戦っていた僧侶たちは、自分たちがすでに地獄に落ちていることを知っている。
 ついに、その“迎え”が来たのだ。
 七色の雲に乗った菩薩ではなく、火焔を踏んだ巨大な悪鬼が。
「末法だ──末世だ」
 青華帝君に従って“六甲神兵”の大軍も伊水を押し渡ってくる。
 彼らには、盧遮那仏が燃え上がるのが見えていた。その体は業火に焼かれ、ひび割れていく。僧侶たちは逃げまどい、ついに盧遮那仏の足元に取りすがった。経文は悲鳴に変わり、断末魔となった。
「大師よ、お救いください!」
 金山大師こそ、彼らの最後の希望である。その法力で、武術によって、悪の魔神を止めるであろう。
 若い見習い僧の莫志は、口に経文を唱えつつ、手には弓矢を握っていた。母の願い、龍門大禅師の教えは心にある。しかし、それでは、眼前の命を救えないのだ。
 衆生を救済する弥勒仏が下生するのは、五十六億七千万年も後の話だ。
 莫志は歯を食いしばり、青華帝君を射た。目を狙ったが、帝君が巨大な口をあけると矢は木の葉のように呑み込まれていった。
 負傷者の護衛についていた“張神剣”が、脚を切られて倒れた。
 青華帝君は杖を掲げ、盧遮那仏へと進んでいく。
 その時、金山大師が青華帝君の前に立ちはだかった。
「さがれ、天魔」
 武器も持たず、身を守りもせず、ただ片掌を大きく開いて、さしのべた。
 その胸を、青華帝君の杖が抉った。
 史進は、世界が暗くなったのを感じた。魯智深は、大気が、ばちばちと火花を散らすのを見た。
 一瞬、その場のすべての人間の息が、止まった。
 すべての人が発した感情──“恐怖”が、極限まで凝縮され、次の瞬間、大爆発し、雷鳴となって轟いた。
 もう、なにも聞こえない。
 天地を覆う、未曾有の雷鳴であった。



 雷鳴が天空を揺るがした。
 林霊素の意識は、包道乙に支配されていた。自分が青華帝君となり、武器を振り上げ、金山大師へ振り下ろしたのを、どこかから眺めていた。
「林霊素が金山大師を殺した!!」
 林霊素は、自分の中で包道乙がほくそ笑むのを感じた。同時に、大勢の人間が発した憤怒を浴びた。
 憤怒は天空を貫いた。空を歪め、風を切り裂き、落雷となって金山大師の胸へと奔った。黄金の光が弾け、四散して、龍門全体を包み込んだ。光が渦巻いていた。金山大師の胸から放たれた光芒が、奔流となって身をよじり、一条の巨龍となった。龍はうねり、石窟に刻まれた毘沙門天像に絡みついた。
「おお……!!」
 人々は息を呑んだ。
 龍に巻きつかれたまま、毘沙門天がカッと眼を開いた。

 双眸は嚇怒に燃えている。龍は炎となって燃え上がり、毘沙門天の剣にとぐろを巻いた。剣が火焔を吹き上げる。火焔は天空にまで達し、毘沙門天の、足が動いた。
 諸手に剣と宝塔を掲げ、毘沙門天は崖から降りると大地を踏んだ。頭を巡らせ、青華帝君を睨み据えた。青華帝君は一瞬、身構え、逃げようとした。その前を、突如として湧いた黒雲の中から躍り出た黄金の魔人が遮った。

 逃げ場を失った青華帝君の頭頂へ、毘沙門天が剣を振り上げ、鳩尾まで一文字に斬り下げた。
 青華帝君の青い肌が裂けると、中は虚空の洞だった。その空虚なる闇の奥より、一輪の蓮華の蕾が咲き出でた。
 蓮華は八方に黄金の後光を放ちながら茎を伸ばし、天中にまで達すると、ぽんという快い響きとともに花開いた。そして、満開の蓮華のうてなには、豊かな白眉、白髯──満面に慈愛の笑みを浮かべる老神仙が立っていた。手には払子、七寸の耳、額には三筋の皺を刻んだ姿に、道士たちはその名を叫んだ。
「道徳天尊──太上老君!」

 道教の祖、最高神仙──老子の、神となった姿である。
 毘沙門天は再び歩いた。宝塔を掲げると、血を流し、苦悶していた盧遮那仏が崩れ落ちた。岩が崩れ、その中から現れたのは、穏やかな微笑を浮かべた聖者・釈迦の姿であった。足元より芽吹いた黄金の蓮華に座して、“目覚めた人”釈迦菩薩は空中へと舞い上がる。七色の彩雲がたなびくなかに、釈迦と老子は蓮華を並べた。

 二人はともに、聖なる母の脇から生まれ、凡人には辿りがたい道をたどって、神となった人である。
 輝かしい光輪に包まれた二尊を見上げる人々は、恍惚とした。仙女、天人が奏でる楽を聞いていた。
 敵も味方も、言葉もなく。



“入雲龍”公孫勝は、雲気の蟠る岩山の頂に佇んでいた。その双眸は閉じられていたが、脳裏には“怪道士”包道乙の姿を鮮明に捉えていた。

(外法道士──死んだか)
 包道乙は、公孫勝の壮絶な法力に叩きのめされ、血を吐いて倒れていた。
 公孫勝は龍杖を収め、背を向けた。
 その気配が空中から去ると、包道乙の体が、ぴくりと動いた。
 彼は息を殺し、死んだふりをしていたのだ。
(……これは二仙山の、森羅万象の気)
 そして、“気配”は、もうひとつあった。
(黄金の魔人を使役せし、邪法の者──)
 二仙山の法とは、相容れないはずの外法である。
 包道乙は横たわったまま、自分の力が消滅していくのを感じた。奪われていくのだ。何者かが、いや、この場をとりまくすべての存在が、彼の気を奪い去っていく。
 彼の正体は、金華山で修行した老練なる道士である。優れた素質を持つゆえに、究極の法力を求めて外法に手を染めた。彼の力は、天然の気ではなく、人の心によって増幅する。
 傍らには、彼の術の“よりまし”である林霊素が、失神していた。
「お前などの力では、まるで足りぬ」
 包道乙は、這いつくばってその場を離れ、折り重なる死体に紛れながら逃げた。
 二仙山の術こそ、真の法力。人の心の恐怖を映すのではなく、自然の気を、実際にそこに存在するが、通常には見えない力を、ありありと可視させるのだ。
 無我となり、世界と一体化してこそ使える力なのだ。
(逃げねば。羅真人の目が届かぬほど遠く、南へ……そして)
 怪人の目が妖しく光った。
(もっと、強い弟子が必要だ)
 もっと、“強力な人間”が──。



 林霊素は正気づき、起き上がってあたりを見回した。
(夢か?)
 いつの間にか、虚空から神仏たちは消え、地上には、放心した人間たちが立ちすくんでいる。
 みなぽかんとして、自分がすべきことを忘れていた。
 梁山泊軍の姿も、まるで魔術のように忽然と消えていた。
 その時、石窟の上、岩山の灰色の崖の上に、色鮮やかな旌旗が現れた。錦の旗は、皇室の龍旗である。旗がたなびき、それを掲げる儀仗が進み出ると、朗々とした声が空に響いた。
『勅使駕到──みなの者、慎んで聖旨の前に跪け』
 それは人の声とも思えぬほど、戦場の喧騒を圧して響きわたった。
 その場にいた数万の人間が、遠い者も、近い者も、はっきりとその声を聞いた。人々は崖を仰いだ。太陽の光が照りつけていた。
 岩山の上に龍旗が並び、天子の親衛軍が整列した。青年将校・曹晟が率いる軽騎五十。いずれも華麗な宮廷警護の金吾兵の装いだが、人馬ともに全身が旅塵で白くくすんでいた。彼らは東京から龍門まで、駿足の軍馬を駅亭ごとに乗り換えて駆け通してきたのである。

 曹晟将軍の傍らには、白い駿馬が並んでいる。乗っているのは金奴姫──銀樹だった。史進も誰も、それが銀樹だとはすぐに分からなかった。髪を結い上げ、帝姫の装束に身を包んでいるためではない。禁衛の兵士に取り囲まれ、銀樹の顔は青白く、強張っていた。
 白馬に付き添う侍従は、千里も響く美声の持ち主だった。
「栄徳帝姫殿下のおなり!」
 人々が見守る中、銀樹は曹将軍に助けられて馬から下りた。そのまま体を支えられ、銀樹は危なげな足取りで崖のへりまで進み出た。
 そして、思い切り息を吸い込むと、声を絞った。
「聞け──戦いは、おしまいだ!」

 つづいて、銀樹を支えていた侍従の声が、戦場に朗々と響きわたった。
「廃仏令は撤廃された! 武器を捨てよ!!」
 銀樹──金奴姫は、両手で高く勅書を掲げた。皇帝の親筆、玉璽が押された正真正銘の勅書である。
 勅書を掲げながら、銀樹の目は戦場を彷徨った。入り乱れる数万の人間の中に、たった一人の姿を探した。そして、見つけた。太白が吠えたのだ。
「薛永! 生きていたな!」

 銀樹は、声を限りにその名を呼んだ。
「薛永!!」
 薛永は負傷していたが、銀樹の声を聞くと、自分の足で立った。
 彼は一人で街道に踏み止まり、銀樹を逃がそうとして、敵に呑まれた。限界まで戦い、力尽きかけた時、薛永はひとりで戦っているのではないことに気がついた。鉄鍬が、鉄算盤が、鉄笛が、鉄棒が、薛永を守って戦っていた。
「──“黄門四怪”」

“九尾亀”陶宗旺、“神算子”蒋敬、“鉄笛仙”馬麟、そして“摩雲金翅”欧鵬が、淡々と、黙々と戦っていた。
 その先は、記憶が曖昧だ。
 気がつくと、薛永は陶宗旺の馬に乗せられ、龍門にいた。馬麟が傷の手当てをしてくれて、彼らは龍門を救うため、あの街道を進んでいたのだ──と教えた。
 銀樹が手を振っている。幻ではない。
 侍従の姿で付き添っているのは、“鉄叫子”楽和だ。銀樹の従者は、梁山泊一、いや宋国一の喉を持つ“鉄叫子”楽和だったのだ。
 彼は呉用の命をうけて王都尉に接近し、智真長老を救うべく奔走した。王都尉にまた“借り”ができるのが嫌だったが、王都尉は『今回は、こちらが借りることになる』と、“北京での約束”──王都尉のお抱え歌手になる、という約束は先伸ばしにしてくれた。
 一行の中には、伝令として東京と梁山泊の間を駆け回った“神行太保”戴宗の姿もあった。
(梁山泊が、銀樹を助けてくれたんだ)
 薛永は、彼方の銀樹を見つめ、眩しくて目を細めた。
 本当に眩しかったのだ。帝姫の可憐な装いが、きらめく宝石が、その迸るような笑顔が。
(よかった)
 心からそう思うのに、幻を見ているようで、薛永には、手を振り返すことができなかった。

 林霊素は、世界の動きが一瞬、止まったかのように感じた。
 空虚で、足元にぽかりと暗黒の淵が口を開けている──自分で術をかけたわけでもないのに、そんな幻影を見た。
 郭道士が林霊素に駆け寄ってきた。策が破れたと悟り、東京から逃げてきたのだ。
「“通真達霊元妙先生”、どうしましょう」
「──殺せ」
 林霊素は、自分の声を遠くに聞いた。
「帝姫も、金吾も、まとめて殺せ!」
 そして、“反乱軍”のせいにするのだ。それを、林霊素元帥が鎮圧したと──。
 林霊素は、自分にそれほどの勇気、野望があるとは、この瞬間まで知らなかった。耳元で、あの妖しい慕容貴妃が囁いているのかもしれない。
 護衛の金吾将軍・曹晟は林霊素に不穏な気配を感じ、衛兵に金奴姫を取り囲ませた。
「林元帥、撤兵の命令を!」
 憑かれたような林霊素の目が、鋭く曹晟将軍を射た。護衛は僅か五十人。林霊素の言いなりになる道士軍“六甲神兵”は、まだ数千が残っている。
 その時、二人の伝令が林霊素のもとへ駆けつけてきた。ひとりは節度使軍へ出陣の催促にやった使者で、ひとりは慕容貴妃を追跡させた密偵だった。
 使者のひとりが告げた。
「王煥が屋敷を出ました!」
「今頃、来たのか」
「従う者たちは、口々に“南無阿弥陀仏”を唱えております」
「なんだと」
 困惑する林霊素の耳へ、今度は慕容貴妃を追っていた密偵がひどく焦った様子で囁いた。
「慕容貴妃は国境を越え、遼国内へ……砂漠には遼国軍が布陣しておりました!」
 思わぬ報告に、林霊素は今度こそ正気付いた。
 密偵がこれほど遅くなったのは、慕容貴妃が国境を越えて遼国に入ったからだった。
(あの女、遼国の手先となったのか!)
 これですべて合点がいった。猫児が節度使軍にこだわる理由も分かった。節度使が国境を留守にしたら、遼国軍は侵略する計画だったのだ。王煥が動いたなら、遼国軍が侵略を始めるだろう。
(宋国が滅びては、神になって何の意味がある)
 それを見誤るほど、林霊素は血迷ってはいなかった。
「──貧道・林霊素、慎んで勅使帝姫殿下をお迎えいたします」
 金奴姫を仰ぎ見て、林霊素は恭しく膝を折った。



 戦いは終り、道士たちは武器を捨てた。
 銀樹は後の処理を曹将軍に任せ、金山大師の臨終に駆けつけた。
 銀樹が東京に現れた時、彼は王都尉に従って艮嶽にいた。銀樹が出した“慕容貴妃”の名に、王都尉は法難以上の危機、事の重大さに気づいた。彼は、山西国境に遼国軍が動いているという報告を受けていたのだ。節度使が動けば侵略が始まる──と、皇帝に決断を促した。
 皇帝は、娘を信じた。
 金山大師に謀叛の意志などない──と聞かされて、却って安堵したのである。
 大師は地に横たわり、僧侶たちが見守っていた。銀樹は大師の手を取った。氷のように冷たかった。銀樹は大師の耳に顔を寄せ、はっきりと告げた。
「廃仏は中止です。すぐに全国に発令され、智真長老もご無事です」
 銀樹の言葉を聞きながら、金山大師は息絶えた。
 なんの奇跡もおこらなかった。
 百羽の鶴も飛ばず、七色の瑞雲もたなびかなかった。
 ただ人々は、しんと澄み渡った風が吹き抜けるのを感じ、精気に満ちた日差しが降り注いでいるのに気づいた。
 そして、何人かの者は、見上げた青空を、一羽の白鳩が悠然と飛び去っていくのを見たのだった。




 その頃、山西代州郊外──国境地帯。
 空に一羽の海東青が輪を描いていた。北方の精悍な猛禽である。
 南方の視界を塞ぐ長城に向け、遼国の大貴族にして大将軍──兀顔光は、鋭い目を光らせていた。

 砂まじりの朔風に吹かれるその姿は、金髪碧眼の壮士である。重厚な甲冑に身を包み、馬上で“報せ”を待っている。
 狼煙が上がるのを、今かと待ち構えているのである。
 その背後には、三万の騎兵が集結している。何れも契丹の精兵である。
 彼らは、狼煙が見え次第、眼前の雁門関で長城を越え、山西へ侵入する心づもりだ。南下すれば、五台山。一帯は、五台山の長老・智真の受難により、宋朝に対する反発が高まっている。“護法”の旗を掲げれば、進撃は容易であろう。
 防衛の要は、二人の節度使、太原の“薬師”徐京と、洛陽の“老風流”王煥である。兀顔光は、宋国軍を恐れていない。数と装備は立派だが、兵は惰弱だ。百人いても、契丹騎兵一人の敵ではない。
(しかし、“節度使”は違う)
 徐京、王煥の強者二人は鍛えぬいた私兵を養い、ずっと遼国軍の侵入を阻んできた。
 今、その二人が、龍門へおびき出されているはずだった。
 兀顔光が待っているのは、『節度使、動く』の一報なのだ。
 彼らが任地を留守にすれば、すかさず国境を侵し、太原府を得る。そのままさらに西行して、後続の部隊と合流して洛陽城を落とせば、宋国の西方地域を把握できる。周辺を取り巻く西夏国、大理国、吐蕃国は敬虔な仏教国だから、“仏法を救う”という大義名分を支持するはずだ。
(宋国の童子皇帝は、なんと愚かな)
 もちろん、遼国人も、皇帝はじめ貴族から庶民に到るまで仏教徒である。兀顔光は、遼国帝より、僧侶の救済と領土の獲得という一挙両得の戦を命じられ、はるばる岩砂漠を越えて来た。
 風が吹く。やや強くなったようだった。
 その音をたてて吹きすさぶ風の中を、一騎の早馬が駆けてきた。
「報告!」
 使者は兀顔光の前に膝をついた。
「徐京、王煥、両名の節度使軍は、駐屯地より動く気配ありません」
 東京からの伝令がたびたび出陣を促したが、ついに軍は一兵も動かなかった──と、使者は内偵の結果を報告した。
 聞いていた兀顔光の顔に、落胆と、安堵がないまぜになった複雑な表情が浮かんでいた。
(好機は惜しいが、“あの女”に手柄を与えずに済んだのは良い)
 程なく、別の使者が龍門で戦いが決着し、法難が終了したことを報告してきた。
 兀顔光が軍の後方へ目をやると、青衣の侍女たちに守られた女馬車が、失敗を悟ったのか北方へ戻っていくところだった。
 女は、ある時、ふらりと遼国に現れた。その美貌と、不思議な才知で貴族に取り入り、今では朝廷に出入りするまでに成り上がったが、来歴は依然として謎のままなのだ。
 兀顔光は馬首を返した。
「建前とはいえ、両国は同盟中。宋国軍に見とがめられては厄介だ」
 長城へ背を向けて、兀顔光は風の中へ黄金の剣を掲げた。
「全軍、燕京へ帰投せよ!」



 兀顔光率いる遼国軍は風のごとく北へ去り、再び西北の荒野は静寂に包まれた。
 そこに颯爽と現れたのは、“老風流”王煥であった。
「このわし一人で、千人の悪道士を成敗してくれようぞ!」
 しかし、龍門を視界に捕らえるや、王煥はむっと唸って馬を止めた。
「どうした、もう終りか」
 王煥は馬上に白髯をたなびかせ、手にした愛用の槍を横たえた。

「ふがいない! もう少し粘ればよいものを」
 その背後には、同じく白髯をたくわえた老人たちが古めかしい甲冑姿も凛々しく並んでいた。王煥とともに戦い、すでに引退した洛陽周辺の古武士たちである。兜で隠れてはいるが、いずれも頭を丸めている。戦場で多くの敵を殺した老兵たちは、引退とともに後生を願って出家したのだ。彼らは往年の情報網を保っており、“王煥出奔”の報に古櫃から武器甲冑を引っ張りだしてきたのである。
 石窟の周囲、伊水のほとりには、道士や官軍が夥しく倒れている。生きて呻いている者たちを、僧侶や尼たちが敵味方の区別なく介抱していた。
 微笑む盧遮那仏の周囲には、供花と見紛う色鮮やかな『宋』の旗がぎっしりと立てられている。仏が勝利したことは疑いようもない。
 王煥は声を出して笑った。
「仏罰だ、仏罰だ」
 王煥の亡き愛妻、賀憐憐は洛陽の美女である。若い日、二人は清明節に白馬寺で出会い、その牡丹亭にて愛を誓った。横恋慕した高官の陰謀で引き裂かれ、王煥が山賊に身を落とした時も、信心深い憐憐は寺への参詣を欠かさず、やがて再会の願が叶って、二人は結ばれたのである。
 その憐憐も佳人薄命──臨終の時に遺言した。
『どうぞ、戦の時も、お寺はお焼きにならないで』
 王煥は愛妻の形見の櫛を、甲冑の胸から取り出した。
「“風流”王煥、国への義理は欠くことあっても、女との約束を違えたことはない」
 王煥は馬上の風る豊かな白髯をたなびかせ、呵々と笑った。
 国が無道なことをすれば、いつでも賊に戻ろうという情熱は、青春の日から絶えることなく王煥の胸に燃え続けているのである。
「では、帰るか。女たちが心配している」
 馬首を返した王煥を、古武士たちが整然と並び見送った。
「われら老将軍のご下命あらば、何時なりとこの白髪首を献上しますぞ!」
 節度使軍は動かず、王煥の“密かな叛乱”が罪に問われることはなかった。
 その後──王煥は白髪の腹心たちに命じて金満の道観から“保護料”を徴収し、焼かれた諸寺の再建を行なった。
 法難が終り、寺の仕返しを恐れた道士たちは、喜んで“協力”したと云う。



 伊水の岸には孟康の船が停泊して、帰りの“客”を待っている。
 船には、すでに“鉄叫子”楽和が乗り込んでいた。
 夏の船旅は心地よい。楽和は、一曲、歌おうかと思ったが、やめた。
 龍門石窟の戦場には、まだ無数の人々の命が明滅し、様々な思いが交錯している。飛び交う心象が余りに多くて、この場所にどんな歌がふさわしいか、楽和には分からなかったのだ。
 かわりに、川岸の石秀に声をかけた。
「石秀さんは、まだ帰らないんですか」
「どうする、雄さん」
 石秀は、隣に座っている楊雄に尋ねた。
「洛陽は、雄さんの古巣じゃないか。寄ってみるかい?」
「……いや、いい。旅は、疲れる。もう、こりごりだ」
「じゃあ、帰るとするか」
 石秀は楊雄を背負い、勢いよく船に飛び乗った。水しぶきが飛び散って、孟康がぶつぶつと文句を言った。
「船頭さん、船を出してくれ。急ぎで頼むぜ」
 石秀は、疲れた体を甲板に横たえた。
 船が龍門を遠ざかる。
 風景が遠ざかっていく。空が、特別に青かった。



 史進は、小さな木竜を手に、そびえる石窟群を見上げていた。
「──さて、帰るか」
“張神剣”は落ちていた槍を杖にして立つと、主を失った軍馬を一頭、つかまえた。手下も何人かは生き残っていたし、達磨堂でもらった報酬もある。
「割に合わない仕事だったが、いつか孫に自慢できると思えば、悪くない」
“張神剣”は、そのあだ名の由来となった長剣を掲げた。
「さらば、“史進”」

 史進は僧侶たちの間を周り、石窟をひとつひとつ調べたが、木竜行者も、王進も、見つけることは出来なかった。
 無人の小さな石窟に、この木竜がひとつ納められていただけだ。石窟の仏は彫りかけで、まだ顔も出来上がっていなかった。
「あれは確かに師父だった」
 史進は、龍門に王進がいたと信じていた。
「また、逃げられたようだ」
 李忠が疲れた顔を史進に向けた。
 怪我した足に裂いた布を巻きながら、李忠は慰めるでもなく言った。
「お前は、卒業したんだよ。教えられることを教えたら、師匠ってのは、黙って去るんだ」
「もう二度と会えないのか?」
「“恩師”ってのは、そういうもんだろ」
 何度も会ったり別れたりするものじゃない──と、李忠は棒を杖にして、座っていた石から腰をあげた。
 陳達と楊春が迎えに来た。道士や官軍から頂戴した戦利品で、陳達の懐はぱんぱんにふくらんでいる。
「おい、史進。朱武の兄貴は、あれで意外と情がある。土産のひとつも渡せば、説教が短くなる」
「土産なら──もっといいモノがあるぜ」
 みなが伊水のほとりへ目を向けた。

 青空の下、二人と一匹の姿が逆光で影絵のように見えていた。



「お父様が、尼にならなくてもよいと約束してくれたぞ」
 銀樹は、薛永の腕を取った。帝姫の装いをして、別人のように美しかった。
「薛永、お前はもう芸人などしなくてよい。お父様に頼んで、将軍にしてもらうことにした」
 薛永は微笑んだ。
「これを」
 首にかけていた玉の守り札をはずし、銀樹の首にかけた。
「くれるのか?」
 銀樹の笑顔が眩しくて、薛永は目を逸らした。
「ほら、みなが探していますよ」
 銀樹は薛永の腕を離した。
「そうだった」
 彼女は“勅使”として忙しかった。戦の後処理のほか、彭尼や負傷者のために太医を呼ばねばならないし、侍従たちには金山大師の柩を準備するよう命じている。もちろん曹晟将軍に慕容貴妃の行方も探させていた。
 しかし、不思議と銀樹は、もうそれほど彼女を気にしていなかった。
 あんな悪人が、無事に生き延びられるはずがない、よい終りを迎えることは絶対にないと、今は信じられるのだ。
「薛永、ここで待っておれ。すぐに戻る。そして、ともに東京へ行くのだ。よいな」
「ええ」
「きっとだぞ」
「ええ、必ず」
 銀樹は護衛兵たちに囲まれ、振り返り、笑いながら手を振った。

「好漢は嘘をつかない!」


 ひとり佇んでいる薛永に、史進は声をかけた。
「よう、色男」
「史進さん」
「好きなんだろう」
「からかわないでください。あの人は……」
 薛永は自分に言い聞かせるように言った。
「あの人は、皇室の、帝姫なんだ」
 史進は薛永の腕を掴んだ。
「よし! さらっていくぞ!」
「さらうって?」
「梁山泊に連れて行く。そして、お前の嫁にするんだ」
 薛永はしばらく沈黙し、それから二人は声をだして笑った。
 岸辺で船が待っていた。薛永は歩き始める。史進も河原への道を下りていった。
「史進さんは、王進師父には会えたんですか?」
「ああ、会えた」
 史進は、懐にしまった木竜をぽんと叩くと、龍門の青い空を見上げた。
 彭尼が運ばれていくのが見えた。その手には、一輪の紅い曼珠沙華が握られていた。
 涼やかな川風を、史進は胸いっぱいに吸い込んだ。
「さあ、帰るぞ!」
 阮小二の操る船が、岸を離れる。
 東へ向って去りゆく船を、石窟の仏たちが穏やかな微笑みをたたえて見送っている。
 薛永は、遠ざかる龍門をいつまでも見つめていた。人々の間に、ちいさく銀樹の姿が見えた。
 もう声は届かない。
 しかし、その笑顔は七里の彼方まで光で照らす。薛永には、それが見えた。
「さようなら──幸せに」



 大勢の人が行き交う混乱の中、莫志は史進を探していた。
 莫志の手には、天窮和尚より与えられた弓矢がある。“破煩宝弓宝箭”──天窮和尚の思いはどうあれ、この弓矢は若き莫志の迷いを断った。
 しかし、史進は見つからなかった。死者の中にも、負傷者の中にもいない。名を呼んでも、答える者はいなかった。
 その代わりに、莫志は白馬寺の先輩僧たちに出会った。『四十二章経』とともに龍門に赴いた僧たちである。白馬寺の至宝『四十二章経』は失われたが、彼らは全員が生き延びていた。
 先輩僧は、莫志の手の弓矢を睨んだ。
「莫志よ、そなたは懲りずにまた不殺戒を破ったな」
「はい」
 莫志は、羞じることもなく答えた。相手を非難する気持ちもなかった。
 ただ、清々しく、言った。
「僕は、もう“莫志”ではありません。志が“有る”」
 莫志は堂々と胸を張って、手にした弓矢を天に掲げた。
「僕は、不正と戦います。あらゆる不正を、敵を、この弓矢で倒すのだ」
 そして、いつか“梁山泊の花栄”より、優れた射手に──宋国一ではなく、この世で、すべての人間の中で最強の。
 そして、この国を変えるのだ。この、不正と欺瞞と矛盾に満ちた宋国を。
 若き射手は理想に燃え、僧衣を捨てた。その手には、弓矢とともに、血塗られた『精武大宝蔵経』が握られていた。
「還俗し、もとの名に戻ります。僕の名は──ホウ万春だ」



 岩山の最も高い頂に、二人の怪人が立っていた。

 黒衣の道士と、三眼の異形者である。
“幻魔君”喬道清と、その弟子の“神駒子”馬霊──山西に叛乱の狼煙を上げた“晋王”田虎配下の重臣である。晋国を建て、宋国を滅ぼさんと画策していた。
 彼らは道士軍に混じって有用な人材を探し、あるいは林霊素を利用して宋国を乗っ取る可能性を探っていたのである。
 しかし、失望しただけだった。
「林霊素など、我々の兵卒にも足りぬ」
 喬道清は呪った。
「仕掛けばかり大げさな、くだらぬ茶番を見せられた」
「師よ。あの怪人は、何者……」
「おそらく、金華山あたりの邪法であろう」
「宋国を助けてやって、良かったでしょうか」
 青華帝君の前を阻んだ金色の魔人は、“幻魔君”喬道清が召還したものであった。
「わざわざ来たのだ。少しくらい遊んでもよかろう。契丹人が我等の国土に侵入すれば、晋国の建国にも大いなる障害となる」
 遼国が山西の国境を窺い、徐京、王煥の目が国境に向いていたからこそ、田虎はここまで勢力を伸ばすことができたのだ。
「宋国を内部から崩す策は捨てよう。やはり、国は力ずくで建てるしかない。穏健派の卞祥は嫌がるだろうが」
 そのためには、もっと同志が──強い味方が必要だと、喬道清は改めて思った。
 包道乙とかいう怪道士が、傷ついた体で這うように去っていくのが眼下に見えた。
「帰るか、馬霊」
 馬霊は、背後の空を振り返った。蒼穹には、すでに雲の影も見えない。
「あの毘沙門天を現したのは……」
 馬霊の額が、まだぴくぴくと痙攣していた。第三の目に、空気に残る“気”に反応するのだ。
 喬道清も、感じている。これほどの強烈な波動を放つ者は、喬道清は二人しか思い当たらない。
「この波動、まぎれもなく二仙山の五雷天心正法──羅真人か、いや、恐らく、公孫一清──“入雲龍”」
「一清道人は、梁山泊では」
「『宋』の旗を立てていても、あれは“梁山泊”だったのだ。わしの目は、ごまかされぬ。来たかいが、あったぞ馬霊」
 梁山泊がなぜ僧に味方したかは、喬道清にも分からない。
(あやつらは、予測のできぬことをするのだ)
 敵に回したくない連中、いや敵にしてはならぬ、と喬道清は背筋に寒いものを感じた。
「“梁山泊”──彼らの名を、わが盟友“竜公”孫安に伝えねばならぬ」
 虚空に立つ喬道清の漆黒の法衣に、不穏な風が巻きついていた。



 東京開封──その中心には、皇帝の住まう皇城がある。
 広大な、ひとつの街ほどの大きさがある宮殿の一角、人気もない、忘れられた庭に、その樹は今も立ち続けていた。
 しなやかな幹、艶やかな緑の葉、星のような白い花々。銀木犀の甘い香りが、かすかな風にも匂い立つ。
 銀樹──趙金奴は、公主の装いで再び銀木犀の下に立っていた。
 絶望のうちに宮殿を去って十年。あの事件以来、封印されていた皇后宮はかつてのままで、すっかり大人になった実兄の太子にも会った。しかし、金奴、永徳帝姫ともとの名で呼ばれても、他人の名のようにしか感じなかった。
 侍女たちが、金奴を探しに来た。
「帝姫様、お上がお呼びでございます」
「薛永という者が来なかったか?」
 金奴は、今日もう何回目かの同じ質問をした。
「大きな犬を連れて……わたしを訪ねて来る約束なのだ」
「帝姫様、そのような方は参りません」
 金奴は懐かしい庭に別れを告げた。
 目を閉じても、子供の頃のような果てしない幻の世界は見えない。
 金奴は、母親が出ることのなかった皇后宮を後にした。侍女たちに付き添われ、父のもとに赴くと、兄の太子に付き添われた智真長老が待っていた。
 断食のやつれはあったが、智真長老はあくまで静謐な姿を保ち、天子から何度か椅子を勧められて、ようやく浅く腰掛けた。
 皇帝は自らの不明を詫び、長老を労った。この後、禁衛に守られて丁重に五台山へ送り届けられることになっている。
 金奴は、智真長老の前に進み出た。
 金奴には確かめたいことがあった。出生の時の“不吉な預言”の意味を、金山大師からは聞くことができなかった。
 金奴は金山大師の偈を示し、長老に解釈を求めた。
「長老にお尋ねいたします。わたくしは、本当に“不吉な子”なのでしょうか」
 長老は数珠を手に、じっと金奴の瞳を見つめた。
「“天に三日あり、望月輝く”──帝姫よ、あなたの運命は、三つの太陽に照らされるごとき過酷なもの。しかし、太陽に焼かれた大地にも清涼な夜が訪れ、雲の彼方にも満月が輝くように、しなやかに、強く──強く、生きてゆかれるでありましょう」


 栄徳帝姫・趙金奴は宋国滅亡の後、北方の金国に連れ去られた。父や兄、殆どの皇族が金国の捕虜となったのである。その境遇は過酷であり、苦難に満ちた北行と、異国での逆境により、多くの后妃、帝姫が命を落とした。
 金奴は、その時、二十五才。亡国の混乱を生き延びた。最初の夫となった左衛将軍・曹晟を失い、金国で皇族の完顔昌の側室となるが、それも政変により誅殺された。
 最後は金国皇帝の夫人として皇后に準じる待遇を受け、父である徽宗の待遇改善につくして──異国に、その波瀾の生涯を終えた。



 河南に“出陣”していた者たちが帰り、梁山泊にまた平和な日々が戻った。
 晁蓋の命日でもある中秋の夜は、聚議庁にみなが集まり、大宴会となった。
 山に残っていた者たちは、みな武勇伝を聞きたがり、史進の周りに集まった。史進は仲間たちと喋りつくし、ひとりひとりと心ゆくまで乾杯した。
 林冲と史進は、無言で杯を交わした。その席には、もう一つ、ここにはいない人のための杯が置かれてあった。
 すっかり酔って、酔い醒ましに外に出ると、まんまるな月が出ていた。
 湖に、月の光が白く道を作っている。薛永と太白が、それを見ていた。
「楽しいな」
 声をかけると、薛永は振り向いて、にこりと笑った。
「──はい」
 宴会は続いている。
 史進も並んで、湖に浮かぶ光を眺めた。
 王進にも、きっと、どこかで──心穏やかな日があるだろう。
 一杯の酒を楽しむ時が。
 誰かと、月を仰ぐ日が。


 宣和年間──それは、宋国と梁山泊に与えられた、最後の平和な時であった。



※文中の「芒湯山」は、正しくは芒【石+易】山です。
※文中の「ホウ万春」は、正しくは【unicode:9f90】万春です。




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