水滸伝絵巻-graphies-

第一章
中秋望月

第三章 少林戦雲

 少林寺の夜。空には銀河が輝いていた。

 夜明け前、薛永はもの悲しい夢を見て、目がさめた。
 目覚めても夢の記憶はなく、ただひとり、取り残されたような寂しさが、胸のどこかに漂っていた。
 無意識に手を床へ伸ばすと、そこに眠っているはずの太白がいなかった。
 小さな四阿の天井が、星明りに白く浮かんでいる。
 薛永は、同宿の史進と石秀を起こさぬように、寝台がわりの長椅子を離れた。
 山の夜気は、もう冷たい。
 宿舎として与えられた四阿の外に出ると、地上の闇と天の星、夜風が一斉に薛永へ押し寄せてきた。
 風に混じり、柵を立てる槌音がする。少林寺は、眠っていなかった。鐘楼のあたりに篝火が立ち、人々が行き交う気配が伝わってくる。官軍の攻撃に備えているのだ。
 天窮和尚らしい声が聞こえた。
「小参道がまだ使える、逃げてくる者たちを誘導せよ」
 麓のあたりに、蛍のような光が乱舞している。官軍の松明だ。
 戦いは、朝にも始まるだろう。
 緊迫した気配から逃がれ、薛永は山の方へ少し登った。険しい岩場に石仏が並んでいる──と思ったら、座禅する十数人の痩せた僧たちだった。
 彼らの脇を通り抜け、薛永は、さらに進んだ。
 風に混じって、カラカラと不思議な音がする。辿っていくと、竹林に出た。空まで幹を伸ばした竹が、風に揺れ、互いにぶつかり幽玄な音を響かせている。
 薛永は、しばらく風が奏でる竹の調べに耳を傾けた。
 そして、なにかの気配に顔をもたげ、薛永は竹林の奥へ目をやった。
 林立する竹の向こうに、白い衣がたなびいている。長い黒髪が、夜風の中に踊っていた。
 その横顔を見ても、薛永には、それが誰なのか分からなかった。
 竹の枝葉が、波のようにざわめいている。
(銀樹──いや、金奴姫)

 しかし、お転婆な少女の面影はない。いつものおさげ髪を解いたせいで、そう見えているわけではなかった。
 死せる皇后の高貴な亡霊が、そこに毅然として佇んでいる──そう錯覚させる空気が、銀樹の体を取り巻いていた。
 薛永は、声をかけるのをためらった。
 先に気づいたのは、銀樹の足元に座っていた太白だった。
 太白が鼻を鳴らすと、銀樹も薛永へ振り向いた。薛永は、やっと何歩か銀樹の方へ歩みを進めた。銀樹は、薛永を見つめている。
「……寒くはありませんか」
 銀樹はこたえず、ただ首を横に振った。
 帝姫の身分が知られてから、同じように振る舞っていても、銀樹はどこか違って見えた。子供のような無邪気さは変わらないのに、その無邪気さが、却って薛永を戸惑わせるのだ。
「部屋に戻りましょう。きっと彭尼が心配している」
「もう少し、ここにいたい」
 声だけは、いつもと同じで、薛永はほっとした。
 二人は、高い崖の上に立っていた。崖から吹き上げる荒々しい風が、竹林を騒がせている。竹の葉が舞い、その彼方で、星がちらちらと瞬いている。見下ろせば、真っ暗な夜の底で、戦の篝火が燃えていた。
 破滅に向う不安定な世界の中に、二人はぽつんと並んで立っている。
 薛永は、何か言わなければと思った。
「あなたは帝姫だから……官軍に名乗り出れば、保護してくれます」
 銀樹がかすかに笑ったようで、薛永は訝しんだ。
「こわくはないんですか?」
「なぜ、こわいのだ」
「間もなく戦が始まるのに……」
 わずかの風にも、竹の梢は激しくうごめく。
 銀樹は、また夜空に向った。その眼差しは、星よりも遠くを見ていた。
「ここは、わたしが育った孤女峰に似ている。あそこは、本当に山しか見えない。山と空しか。わたしは、いつもひとりで、山から雲が湧き上がるのを眺めていた。とても静かで、一日じゅう耳を澄ましても、風の音と、鳥の声と、お経しか聞こえない」
 軽く目を閉じた銀樹のまわりを、竹の葉が小鳥のように飛び交っていた。
「だから、わたしは“ともだち”を作った。彼女は、“銀樹”。銀木犀の精霊で、いつもわたしに言ってくれる。『金奴、あなたは悪くない。お母様を殺したのは、あなたじゃない』」
 薛永は、彭尼が語った金奴姫の生い立ちを思い出していた。
 いま薛永が見ているのは、傷つき、家族から棄てられた、孤独な少女──“銀樹”が誰にも見せなかった、金奴姫の本当の姿なのかもしれない。
「天子は……あなたの父親は、なにも?」
「父には、六十人も子供がいる。わたしのことなど、きっと名前も覚えていない。覚えていても、仇討ちは許さない。東京に帰れば、わたしはまたお寺に送られ、“母親を殺した不吉な子”として、尼にされる。お経を読んで、年を取って、誰からも忘れられて、死んでいく」
 たなびく髪を、銀樹は細い指でおさえた。
「わたしの望みは、お母様の仇討ちをすることだけ。そのあとは、もう、なにもない」
 顔を上げ、銀樹は笑った。
 薛永を見つめる銀樹の大きな瞳の奥に、星の光がきらめいていた。
「わたしは──今、とても幸せだ」
 激しい風が吹き抜けた。風が銀樹をさらっていくような気がして、薛永は、思わず銀樹を抱きしめた。
 舞い狂う竹の葉の中に、二人は長い間そうして立っていた。
 銀樹の声が囁いた。
「強くならねば……もっと、強く」
 竹が鳴る。
 その静かな囁きは、音楽のようでも、警鐘のようでもあった。




 早朝、まだ薄暗い街道を、ふたつの人影が西に向って進んでいた。
 前を行くひとつは大きく、やや後ろを歩く影はひょろ長い。道端には、どこかの寺から持ち出されたらしい、仏像や経典が捨てられていた。
「ひどいもんだネ」
“活閃婆”王定六は、歩きながら甘い黍を噛んでいる。
「仏教と道教は兄弟みたいなもので、まぁ、ちょっと仏教が兄貴サ。それを親が弟を贔屓して、兄弟喧嘩をさせるとはネ」
 王定六のいう“親”とはすなわち、朝廷である。
 もともと民衆の心には、仏教と道教のあいだの優劣はない。心の安息を求めれば寺に、現世利益を求めれば道観に──という風だった。歴史を見ても、どちらも朝廷に弾圧されて叛乱の温床となったこともあれば、国教として保護されたこともある。“皇帝菩薩”梁の武帝は仏教に傾倒して国を傾け、唐の武宗は道士の勧める丹薬に凝って早世した。
「坊主も道士も、山で修行している時はいいがネ。俗世に混じると、人並みに甘い汁を吸いたくなるのサ」
 魯智深は黙々と前を行く。二人は連れ立って東京を発ち、西に向っているのである。気心の知れた二人だが、しゃべっているのは王定六ばかりだ。
「分かってるヨ、アニキは、坊主だから助けるんじゃない……恩のある智真長老だから助けるのサ」
 それに──と、王定六は埃っぽい道に目をやった。
「オレにだってわかるヨ。道士は現世利益、金儲けに縁結び。坊さんは安楽に死ぬためには、その欲を捨てろという。酒を飲んで、肉を喰って、金儲けをして女を抱いて、そのうえ安楽に死ねればいいが、坊さんはそれはできぬと言う。お釈迦様という人は、王子の身分も、妻子も捨てて、出家なさったそうだからナ。凡人には無理な話サ」
 途中、魂の救済を説く僧が石を投げられるのを見たし、僧形の魯智深も何度か道士にからまれた。地方で貧困にあえぐ人々は、道観がほどこす僅かな銭や粥のため、道士たちのいいなりだった。
「強欲坊主は、さっさと道教に鞍替えして、まだ抵抗しているのは、真面目に修行している貧乏な坊さんばかり……おっと、知らせだ」
 日が昇り、街道は活気づきはじめている。
 道端の辻の木陰に、乞食たちが集まっていた。ちょっとした広場に何軒かの露店が出ていて、朝飯を食う旅人や芸人の姿も見えた。
 乞食たちは魯智深に気づくと、立ち上がって頭を下げた。配下の東京丐幇をはじめ、全国の丐幇が協力して情報を集めては、こうして伝えてくるのである。
「智真長老の消息は?」
 伝令は歯抜けの乞食で、風采は悪いが能弁だった。
「朝廷の地下牢に、捕らえられておりやす。改宗を拒んで、断食の業に入られたと。遠からず刺配になるという噂もありやすが、あるいは、その前に入滅されるおつもりでは──との風聞も」
 魯智深は憤然と禅杖を地に突き立てた。
「そうはさせん!」
「高僧を刺配など前代未聞、僧侶側にも反発が高まっとりやす。特に、この先の河南は昔から仏教がさかんな土地柄。坊さんたちは廃仏に抵抗して、多くの寺が官軍に焼かれとりやす。残党は少林寺に集まって、それが、最後の大いくさになるだろう──と、みなが噂を」
 王定六は魯智深の顔を窺った。
「アニキ、心配ご無用。少林寺は、みな武術僧だから、“闘い”には慣れているヨ。そのうえ、史進が探している“王師父”がいるなら、そりゃ、簡単にはいかないサ」
「それが」
 歯抜けの乞食は、肩に止まった蠅を払った。
「すでに、一万の大軍が、少林寺のある嵩山の麓を取り巻いとりやす」
 魯智深の眉が、ぐっと上がった。
「どこの軍だ」
「西京洛陽」
「承知した。魯智深より、河南の幇主に宜しく伝えろ」
 魯智深は禅杖を担ぎ、頭をさげる乞食たちの前を大股で通りすぎた。そして、その先の宿屋の前で、地べたにかがんで飯を喰っている中年男の後ろに立った。
 中年男は、箸で飯粒をかき込みながら、同様にしょぼくれた武芸者が棒を振るうのを眺めている。
「“山の伝言”はなんだ」
 魯智深の声に、男は飯を喰いながら振り向いた。魯智深には古馴染の男、梁山泊の李忠だった。

“打虎将”李忠──梁山泊の席次八十六位。武芸者として各地を流浪し、ついには桃花山の山塞に五百人の手下を従える頭目となった男である。
「懐かしくてな、つい見ちまったよ」
 李忠は顎についた飯粒をつまんで食うと、億劫そうに立ち上がった。李忠は懐から財布を出すと、武芸者が手にしたからっぽの笊に銀粒を投げた。
「ほう、李忠が奮発したな」
「あの男は、昔の俺さ」
 思わぬ銀をもらった武芸者は、礼も忘れて茫然と立っている。不運が染みついたその顔には、喜びより、不安が濃かった。
 李忠は露店に碗を返すと、井戸端で顔を洗った。
「山からの伝言──枢密使の童貫が、洛陽軍に出陣命令を出した」
 魯智深の目が、大きく動いた。
「呉先生が掴んだ、確かな情報だ」
「数は」
「一万」
「多いな」
「廃仏に逆らう坊主が、全国から少林寺に集結している。朝廷にしてみれば、野放しにしては民にしめしがつかんだろう」
「それにしても動きが早い」
「呉先生は、黒幕がいるんじゃないかと疑っている」
「誰だ」
「今、調べている」
 魯智深はむっと唸ると、黄色い道の彼方を睨んだ。
「戦になるな」
 いかに少林寺の武術僧が強くても、しょせんは僧侶だ。対する洛陽軍は精鋭である。少林寺と官軍の戦になれば、勝敗は火を見るより明らかなのだ。
「少林寺が敗れれば、この国から仏法は一掃される」
 智真長老の命も消える。
 魯智深の掌には、達磨大師を刻んだ智真長老の数珠玉が握られている。
「先に嵩山へ行け、李忠」
「伝言は?」
 魯智深は禅杖を担ぎ、黄砂の中へ踏み出した。

「わしが“援軍”を連れて行く。それまで、耐えよ!」



 同じ朝。嵩山には、真っ白な靄がかかっていた。
 寺の朝は早い。麓を一万の洛陽軍に包囲された少林寺も、例外ではなかった。
 くたびれた僧衣をまとった老僧が、昇る朝日に向って誦経を始める。それが、起床の合図だった。
 史進が目を覚ました時には、すでに僧尼たちは洗面を終え、朝の座禅と勤行を済ませ、朝餉の支度にかかっていた。
「賑やかだな」
 史進は、宿舎にあてがわれた小さな四阿の窓を開けた。
 隣には蔵経塔があり、その前では薛永が銀樹に棒を教えてやっていた。蔵経塔は銀樹の宿舎に当てられており、彭尼や尼たちがかしづいている。
 振り返ると、狭い床に石秀が布団をかぶって眠っていた。時遷は斥候として金山大師の手元に置かれ、昨夜は帰ってこなかった。
 史進は朝の風を吸い込んだ。
 風には、まだ焦げ臭い匂いが混じっている。飯の炊ける匂いもしていて、不思議な活気が少林寺を包み込んでいた。
 史進は大きく伸びをして、朝靄の中へ出ていった。
 銀樹は棒を使うのは初めてらしく、真剣な顔で薛永の型を真似している。
「筋がいい。薛永、自慢の弟子が手に入ったな」
 薛永は、曖昧な笑みを浮かべた。
 昨夜、銀樹が薛永に棒術を習いたいと言ったのだ。銀樹は剣しか使えない。棒を学べは、槍や長柄の武器も使えるようになるから──と。
「どうだ、薛永。これで合っているか?」
 おさげを編み直した少女は、やはり、薛永が知っている無邪気な王銀樹だった。
 それでも、どこか昨日とは別人のようで、その笑顔が薛永には眩しかった。

 二人を後に、史進は大雄殿の方へ歩いていった。
 昨夜、史進たちは疲れて早々に寝てしまったが、夜通し、槌音が聞こえていたのを夢うつつで聞いている。
(──ほう)
 史進は境内を見回した。昨日とは様子がすっかり変わり、一晩で少林寺は“要塞”に変貌していた。
 少林寺の敷地は広く、嵩山のあちこちに大小の寺院が点在している。中心になるのは昨日、焼けた大雄殿で、周囲には多くの御堂、仏塔、鐘楼などが並んでいる。
 その一帯が“本営”に改修されていた。山門は封鎖され、参道にも障壁や柵が築かれている。仏塔には見張りが立って麓の官軍を監視し、全山に命令を伝達する鐘楼には屈強な寺男が配備されていた。
(さすが少林寺、看板に偽りはないな)
 境内を行き来する僧の数も増えている。
(王師父はいないか?)
 史進はすれ違う僧に目を走らせた。少林寺の武術僧ばかりではなく、他の宗派の僧尼も多い。昨夜、官軍の追跡を逃れ、命の危険を冒して少林寺に逃れてきた者たちだ。
 少林寺には、もともと普陀山、九華山、廬山などから、本寺の改宗に反発した僧たちが身を寄せていた。そこに今回、官軍の攻撃を受けた陜西や河南の僧が加わった。大慈恩寺、香積寺、長武昭仁寺といった名刹の高僧もいれば、小さな村寺の住持もいた。
 背後に、快活な声が聞こえた。
「史進さん、おはようございます」
 振り返ると、莫志が駆け寄ってきた。莫志は昨夜のうちに少林寺に入門し、天窮和尚の弟子になったと、嬉しそうに史進に語った。
「天窮師父は金山大師の片腕ですから、とても名誉なことなんです。大師が、白馬寺に敬意を表して、特別にご配慮くださったんです」
 広場の鐘楼の前では、その天窮和尚が書記僧を何人も連れ、到来した他寺の僧尼の名簿を作っていた。
「金山大師のご命令です。どの寺から何人来たのかを把握せよと」
「見かけによらず、几帳面だな。あいつらは?」
 史進は赤い衣の一団を指さした。
 大勢いる僧の中でも、特に目立つ集団である。朝食の支度なのか、両手に水桶を提げ、頭頂には野菜を山盛りにした籠を載せて、軽々と歩いていく。脚力が卓越して強いのだ。
「ああ、あれは南少林寺の方々ですね。かつてこの少林寺から別れた分派ですが、本山の危機を知って、長江を渡ってきたそうです。江南では有名な武闘派ですよ。それだけじゃありません。ほら、純白の布で全身を包んでいるのは、西域の諸寺から砂塵をまいて駆けつけてきた碧眼の僧たちです。興教寺の高麗僧、大福先寺や青竜寺の日本僧もいます」
「へぇ」
 史進が異国の僧たちを眺めていると、見張り塔から声があがった。
「また逃げてきた! 尼たちだ!」
 閉じられていた山門が素早く開けられ、二、三十人の尼たちが駆け込んできた。史進は、その先頭を走る男に目を止めた。

 尼たちを護衛してきたのは、巨大な刀を掲げた若い美青年だった。黒髪を粋にひとつに結び、武芸者風だが身なりは瀟洒だ。抜かりなく後方を警戒し、尼たちが山門に入るのを助けている。そして、素早く引き返したと思ったら、遅れていた老尼を背負って戻ってきた。
「これで全部だ、山門を閉じられよ!」
 張りのある美声が響いた。
「官軍は、“小鵝嶺口”も封鎖しましたぞ!」
 青年は刀を収めると、駆けつけてきた天窮和尚に優美なしぐさで抱拳した。
「“一塊雲”満天星と申す若輩者。武者修行の途上にて、難儀する尼たちと出会い、義侠心からお護りして参った次第」
 一分の隙もない風采、身ごなしである。ただ、左手の薬指の先がちぎれたように欠けており、それが唯一の僅かな欠損となっていた。
「それは功徳を積まれましたな」
 天窮和尚が労った。汝州から逃げて来たという尼たちも、感涙して満天星を拝んでいる。満天星は慎み深くそれに応えていたが、史進に気づくと、会釈して近づいてきた。
「ご同輩か」
「ただの“通りすがり”さ」
「貴殿、ご尊名は」
「わざわざ名乗るほどの者じゃない」
「ご謙遜のお人柄だ」
 満天星は、涼しい目元に上品な笑みを浮かべた。
「あちらは、お仲間か?」
 満天星に示され、史進は境内の一角へ目を向けた。

 柵にする材木が積まれた前に、武器を携えた男たちが屯していた。僧の中で有髪の男たちの姿は目立ち、史進も気になっていた一団だ。いかにもな荒くれ者揃いで、配られた朝餉を遠慮なく喰い散らかしている。僧たちが合掌してから粗食を有り難く食べているのに、不満を言って自分で獲ってきた野鳥を焼いている男もいた。
 興奮気味だった莫志も、声を落とした。
「あれは、票客や武芸者たちです。傭兵ですよ。少林寺に味方すれば、大金が手に入ると専らの噂だそうなんです」
「賞金? だれから」
「それが、“秘密”らしいんです」
 莫志は首をかしげた。有髪の男たちは三百人あまり、厳つい顔で青い戦袍を着た男と、口元に裂けたような傷がある男が頭領格だ。
 満天星は、彼らに見覚えがあるようだった。
「あれは、江湖では有名な男たちですよ。青い服の男は、甘粛の傭兵隊長“神剣”張覇道。唇に傷があるのは、三門峡の票局長“草上飛”律大談だ」
 どちらも、この地域では名前の知れた豪傑だという。
「賞金稼ぎの“十年老”“王鉄子”“黄再生”の顔も見えるな。いずれも、金でしか動かない男たち……よく少林寺に入れたものだ」
「ああ、それなら」
 莫志が答えた。
「あなたと同じです。あの人たちは、僧侶たちを護衛したり、信徒を連れてやって来たんです。本当に、どこからかお金をもらっているみたいです」
 物陰から、含み笑いが聞こえた。
「おや、満天星の若旦那までやってきたよ」
 荷車の陰に座っているのは、鴉のような二人組だった。卑屈な目をして、背中を丸めて笑っている。莫志が史進に囁いた。
「あれは、咸陽の武器商人です。戦になると聞きつけて、武器を売りに来たんです。でも、大師はお買いになりませんでした」
 二人組の荷車には、さまざまな武器が山盛りになっていた。満天星は彼らのことも知っていた。
「“烏鴉嘴”と“風涼話”か、商売は繁盛しているかね」
“烏鴉嘴”とは不吉なことばかりいう口、“風涼話”とは無責任な噂話だ。戦があるところに烏のように現れる二人組は、江湖でも嫌われ者だった。
「おかげさまでね」
 二人は顔を見合わせて、皮肉に笑った。
「少林寺が勝てば、大金がもらえるというのは本当らしいな。手付けでいくら、成功したらいくら……と、証文をもらっている者もいる。もっとも、誰からもらえるかは、誰も口にしないがね」
 満天星は端正な顔を赤らめた。
「私は、彼らとは違う」
「ああ、若旦那の実家は金持ちだものな。また、武名を上げようというわけか」
 満天星はそれ以上は二人を相手にせず、史進に向って釈明した。
「お恥ずかしい……私は、無抵抗の尼たちが迫害されるのを、黙って見ていられなかっただけなのです」
「俺も、似たようなものさ」
「あなたとは、いい友人になれそうだ」
「“史進”と呼んでくれ」
 史進が名乗ると、たむろしていた男たちが一斉に振り向いた。

「“史進”!!」
「“史進”──と言やぁ……」
 賞金稼ぎの“黄再生”が、黄色く濁った片目を歪めた。
「少華山の“九紋竜”……今は、山賊の楽園“梁山泊”の頭領だ」
「この俺が、山賊に見えるかい?」
「見えるな」
“十年老”も鬚に半分覆われた顔で頷いた。
「見える」
 男たちは腰を上げ、にやにやと笑いながら史進の周りを取り巻いた。
“王鉄子”が史進に擦り寄った。
「“史進”どの、ひとつ背中の“九紋竜”を拝ませちゃくれねぇか」
「断る。俺は恥ずかしがり屋なんだ」
“風涼話”が割り込んできた。
「“九紋竜”を彫るとなりゃ、特別に値が張るらしいぜ」
「おかげで俺の仲間の“史進”は、“五紋竜”だ」
「俺の知ってる“史進”はハゲてたぜ」
 男たちが口々に盛り上がっていると、そこに、ぶらぶらと石秀がやって来た。
「──朝っぱらから、賑やかだな」
「よう、石秀にしては早起きじゃないか」
「“石秀”!!」
 また男たちの目の色が変わった。

「“命知らず”の石秀!」
「“史進”に“石秀”! こいつは大盤振る舞いだ!!」
「するってぇと、もうひとりの優男、あいつはさしずめ“浪子”燕青!!」
「残念、はずれだ」
 史進は肩をすくめた。
「あいつは、“薛永”っていうんだ」
“王鉄子”と“黄再生”が顔を見合せ、首をかしげた。
「薛永? 聞かねぇ名だ」
「つまんねぇな!」
 男たちはどっと笑うと、口々に“自己紹介”した。
「あっしは虎殺しの“武松”ってモンだ。よろしくな」
「天下の義人、“及時雨”宋江とはワシのことよ!」
 男たちはてんでに史進の背中を叩き、それぞれの場所へ戻っていった。最後に、“張神剣”が意味ありげにニヤリと笑った。
「気に入ったぞ、“史進”のだんな」
 騒ぎがおさまり、石秀は朝飯をもらいに行った。二人になると、莫志が史進の袖を引いた。
「そうだ、史進さん。さっき言いかけたのは、南少林寺の僧兵の中に……あ、また後で」
 そこまで言うと、莫志は慌てて去っていった。石秀が飯の丼を二つ持って、もう戻ってきたのである。丼には、麦飯に豆腐と木耳の炒めものが山盛りになっている。石秀は満天星をちらりと見たが、丼を史進に渡し、自分は立ったまま食い始めた。
「おまえも食えよ、今日は、忙しくなるだろうぜ」
「違いない」
 しかし、史進が一口も食べないうちに、見張りの塔から鐃の音が響き渡った。
「敵襲だ!!」
 石秀は一気に飯をかきこんだ。
「どいつもこいつも、早起きだな!」



 朝もやをついて、官軍が動きはじめた。
 史進たちが鐘楼に向うと、すぐに金山大師が広場に姿を現した。

 背後に従うのは、五百人の武術僧である。僧衣をまとい、武器は、あくまでも棒である。他山の僧や、傭兵たちも駆けつけてきた。
 衆目の中に立った金山大師は、昨日よりさらに大きく見えた。
「官軍は“西郭店口”から正面の大参道を攻め寄せてくる。その数は、およそ五千」
 時遷や身軽な僧を斥候に使い、大師は情報を正確に把握していた。
「山は、守らねばならぬ」
 金山大師は力強い声で僧兵たちに迎撃を告げた。
「戦も“方便”、衆生を導く菩薩道である」
 それから、有髪の傭兵たちに目を向けた。
「俗世の者よ、そなたらは出家ではない。官軍に降伏し、山を下りよ」
 傭兵たちが不満の声をあげた。
「俺たちは、あんたたちの手助けに来てやったんだぜ!」
 口々の喚く男たちの中から、“張神剣”が進み出た。
「僧たちを護衛してきたのを、官軍に見られている。はいそうですか──と、出すわけがない」
「ならば、山の洞窟にでも隠れていよ。飯くらいは、食わせてやろう」
 金山大師は鋭い眼光で男たちを沈黙させると、鐘楼に登っていった。そして、両手に二本の般若雷を掲げ、開山以来の大梵鐘を打ち鳴らした。
「南無阿弥陀仏──諸師、精進せよ!」
 先頭に立ったのは、布衣の僧衣に身を包んだ少林寺の武術僧だった。担いだ棒が林のように、山門へ向っていく。赤衣の南少林寺僧が続いた。彼らは体術の精鋭である。
 天窮和尚も肌脱ぎになった。筋骨逞しい胸と背に、大きな刀傷があった。一段と太い樫の棒を手に、天窮和尚は莫志を呼んだ。
「若き弟子よ。わしと随流は金山大師をお守りする『阿吽』であった。いま“阿“随流が輪廻した。そなた、莫志よ」
 天窮和尚は、一組の弓矢を莫志に渡した。
「“破煩宝弓宝箭”──その命にかえて、大師をお護りするのだ」

 天窮が僧兵を率いて山門へ向う。
 莫志は弓矢を手にして鐘楼の広場へ駆け戻った。他山の僧たちも続々と広場に集まってくる。その中から、金山大師は銀樹を呼び寄せた。
「栄徳帝姫、あなたは山をお下りなさい」
 僧尼たちは、もう戦うよりほかはない。しかし、銀樹には少林寺を守る理由はないのだ。
 銀樹は、金山大師の顔を見上げた。
「いいえ」
 銀樹は、はっきりと答えた。
「わたしも、みなと戦います」
 金山大師は、少女の澄んだ眼差しを見返した。あどけなさの残る目に、揺るぎない意志が秘められていた。
「……されど」
「ご案じなさいますな」
 逡巡する金山大師に微笑み、銀樹は傍らの薛永を指し示した。
「この者が、わたくしを守ってくれます」

 僧兵たちが打ち出していく。
「史進さん」
 弓矢を手にした莫志が、史進のそばに駆け寄ってきた。
「さっきの話の続きですが、南少林寺の僧兵の中に“王無傷”と呼ばれる槍棒の達人がいるそうです」
「なんだって?」
「無傷といいつつ、顔にはひどい傷跡があって、前科者だから、わざと顔を変えたという噂もあるとか」
「少林寺は少林寺でも、南だったか」
 ちょうど赤衣の僧兵たちが、集結して山門に向うところだった。追いかけようとする史進の腕を、石秀が掴んだ。
「まてよ。人探しは、後だ」
 少林寺にいるすべての人が、いま、この戦いに集中している。
 生きるか死ぬか、仏法が滅びるか滅びぬか──彼らは、“この世の終り”を見据えているのだ。人々の祈りや恐れが渦巻いている。
 その中心に屹立する須弥山が、金山大師、その人であった。
“無住所涅槃”──悟りを得ながら俗世に留まり、衆生を導く阿羅漢である。
 史進の目が、金山大師に注がれた。
 広場に金山大師の声が響いた。
「金剛曼陀羅陣を敷け!」


 嵩山は、東西に二つの山が連なり、東を太室山、西を少室山と呼ぶ。少林寺は、この少室山五乳峰に建てられた寺である。参道は北側にあり、南側は険しい山と渓谷である。官軍は正面の参道を大軍で押し進んでいた。
 洛陽軍を率いる宇文将軍は壮年の武官で、戦の経験も豊富だった。しかし、家柄が低いため、長年“副”都指揮使で甘んじている。今回は、正都指揮使が出陣を渋ったため、機会を得た。
 朝廷から少林寺討伐の命令を受けた正都指揮使は、信心深い祖母が激怒して轡を離さず、やむなく出陣を断念したのだ。
 馬上の宇文将軍は、無神論者だ。仏教も道教も信じていない。戦功だけで、ここまで出世してきた男である。
「少林武術僧といえども、戦は知らぬ。僧どもが山門を出れば、勝利は必然」
 障壁の向こうで少林寺の山門が開かれ、僧侶たちが打ち出してくるのが見えた。

 戦いは早朝の参道で始まった。
 何百年と善男善女が歩んだ道が、戦場となったのである。
 洛陽軍は陣地に半分の兵を残し、五千で正面から押し寄せた。まず弓兵を前面に出し、駆け下ってくる僧兵に矢を浴びせた。僧たちもそれは予測している。手にした戸板や棒で矢を払いのけながら進んだ。
 その動きは、見事に統率されていた。幼少期から何十年と寝食を共にしてきた同門なのだ。一糸乱れぬ隊列である。
 その少林寺僧に加え、到来した僧の数を把握した金山大師は、即座に彼らを六つの部隊に編成した。すなわち、“四王天”“刀利天”“夜摩天”“兜率天”“楽変化天”“他化自在天”の六天部である。
 先鋒“四王天部”を率いるのは、“吽”天窮和尚である。兵は南北少林寺の武術僧、一千人。進軍は、軽装の僧の方が官軍よりも速かった。盾を掲げた僧侶軍が雪崩を打つ形で、両軍は山腹に激突した。
 史進たちは、鐘楼にいた。鐘楼は高みにあって、戦場を見渡せる。金山大師の指揮台となっていた。
(“王無傷”はどこだ?)
 多くの僧と兵が入り乱れ、その人を見つけることができない。
 戦いは激しい。僧侶たちの武術は棒術も拳法も卓越していた。しかし、彼らは不殺生戒のため、敵に致命傷を与えてはならない。倒し、手足を折るのみである。数の少なさは、参道を塞ぎ、一度に大勢が交戦できないことで補っている。
 ついに、陣頭に立っていた天窮和尚の棒が折れた。莫志は咄嗟に弓矢を取ろうとした。が、それより早く、天窮和尚は棒を捨てると、両膝を開き、軽くまげ、両手を水平に前へ突き出すと、裂帛の気合を発した。

 と同時に、その眼前に迫っていた官兵が一丈あまりもふっ飛んだ。天窮和尚はじめ少林寺の高弟たちは、いずれも気功の達人なのだ。
 南少林寺の僧兵たちは拳法の使い手だ。とくに足技に優れている。胸を蹴って敵の呼吸を止め、頭を蹴って昏倒させる。さらに一人、卓越した棒の使い手がいた。長くしなる棒を手に、重厚な技を使った。棒を払うと、群がる官兵が麦のように薙ぎ払われた。
(“王無傷”か)
 史進は目を凝らした。
 官兵の数は多く、進軍が途絶えることはない。僧兵たちは押されていた。
 境内にいた僧侶たちは、すでに姿を消しており、彭尼と薛永も寺の守備を命じられていた。銀樹も彼らについていき、残っているのは史進と石秀、満天星ら“俗人”の男たちだけだ。石秀は刀を握っていた。
「俺たちも行こう!」
 その前を、金山大師の手が遮った。
「しばし、待たれよ」
 その時、史進は山肌を覆っていた竹林がざわめくのを見た。少林寺の名の由来ともなった豊かな竹林である。その緑の葉に風が吹き荒れた──かと思うと、その葉のごとく痩身、剽悍な僧たちが、官軍の頭上より攻めかかった。

「第二陣──“刀利天部”」
 白衣の僧たちは、両手に錫杖と羂索を握っている。
「梵浄山の“護国禅僧”。超俗の秘境で修行する幻の僧たちだ。めったに人前に姿をあらわさぬ隠士が、この法難に紅雲金頂を下りたのだ」
 風のごとく、鳥のごとく身軽な僧侶たちである。僧侶というより、隠士のような風貌で、刺客のごとき身ごなしだった。潜んでいた竹から飛ぶや、錫杖の音を響かせて官兵に襲いかかり、手にした羂索で敵の四肢を縛り上げていく。
 率いるのは、“白光尊師”。眉も睫毛も純白で、暁の目をもつ神僧である。
「衆生を済度せよ!」
 身ごなしは、目にも止まらぬ速さであった。

 僧侶たちの抵抗に、官軍は進みあぐねた。
「宇文将軍、これ以上、進めません!」
 最前線から駆け戻ってきた伝令に、宇文将軍は沈着に次の命令を下した。
「中軍を出す。脇道を行け」
 参道から脇に入った南の急斜面に、かなり広い畑があるのを調べている。夏野菜が収穫するまでに育っており、そこから山頂へ向う作業用の小道があるのだ。
「畑を踏み荒らしてしまえば、敵の食料を奪うことにもなる」
 すぐに副将に率いられた中軍のうち千人を割いて、参道を迂回して斜面を登り始めた。徒歩である。が、進むと野菜畑はなく、朝日が茶色の山肌に照りつけているばかりである。昨夜のうちに、食べられるものはすべて僧たちによって収穫されていたのだ。その土の堀り跡も瑞々しい畑の真ん中に、ひとりの和尚が悠然として眠っていた。

 弥勒仏と見紛うでっぷりと太った和尚だ。裸の太鼓腹をさらし、右脇を下にして居眠りしている。その周囲には、収穫されたばかりの食料が山と積まれていた。
「あやしい和尚だ、用心しろ!」
 官軍は躊躇した。しかし、遮るものもない農地である。
「こけおどしだ。戦力が少ないのを、こんな“空城の計”で補おうというのだ。進め!!」
 官軍側も、少林寺の兵力を把握している。参道にあれだけの戦力を集中すれば、嵩山のほかの道を守るだけの余力はない。それを見越しての行動であった。
 官軍が押し寄せると、太鼓腹の和尚も起き上がり、寺の方へ戻りだした。肥満した和尚の足は遅い。官軍は勢いづいた。
「追いかけろ、寺に案内してくれる」
 踏み出した兵の足が、地面に敷いてあった藁と野菜柄を踏んだ。踏み抜くと、その下は落とし穴だった。竹槍か、刀か──恐怖しつつ落ちていった兵たちは、もっと恐ろしいものに襲われた。
 落とし穴の中は、たっぷりと肥料が詰まった巨大な肥え溜だったのだ。
 太った和尚が振り返り、指さして呵々大笑した。
「厭穢欣浄!」
 この太鼓腹の和尚こそ、ひとり埋伏“夜摩天部”。“天水の奇山”麦積山よりふらりと訪れた“天三奇”本覚上人──日に三つの奇妙をなすという奇僧であった。
 竹槍を埋めた針山地獄に落とすこともできたのだが、黄金色の肥えにしたのは上人の菩提心である。
 中軍は悪臭芬々たる陥穽を避け、細い農道を縦列になって進むよりない。道の先は、寺に通じる通用門だ。丸太や石燈籠で補強され、塀の内には石礫が積み上げられていた。寺を巡る門、塀を守るのは“兜率天部”。境内に残った老弱の僧尼、小坊主たちで組織され、彭尼が指揮をとっていた。
 敵が迫ると、見張りが木魚を打ち鳴らす。待ち構えていた寺男、小坊主、尼たちが敵に石を投げつける。口々に念仏を唱え、入れ替わりに腕を振り上げた。老尼といえども、ふだん水汲み、掃除、畑仕事などで身体を鍛えている者たちである。さらに寺内の有り合わせの布と縄で投石器を作っていた。
 石は勢いよく飛び、官兵の接近を許さない。薛永は塀の上にいて、手薄な場所がないか目を光らせていた。彭尼も鉞を手にしていた。精悍な横顔には、殺生戒をものともしない気迫があった。腰に吊った瓢箪の酒を、ひとくち啜った。
「私は十三歳の時、山で、父を襲った虎を殺したの。後悔はしていないわ」
 薛永の横には、銀樹が石を握って立っていた。
「銀樹、うしろへ」
「へいきだ! 薛永、わたしを守れ!」
 銀樹は勢いをつけ石を投げた。しかし、力が足りず、石は途中で落ちてしまった。
「もう一回!」
 銀樹は投石器を握り直して、思い切り投げた。その隣で、彭尼は拳ほどもある石を選ぶと、頭上たかく振りかぶった。彭尼の石は空を切り、先頭を進む官兵に血を噴かせた。
 それを期に、怯んでいた小坊主や尼たちも石を投げ始めた。相手を法敵とみなしての投擲である。生き延びるための決死の礫だ。官兵の足が止まった。
 官軍の副将が命じた。
「隊列を整え、盾をかざせ!」
 その盾にも、激しく礫が突き立った。日本僧たちは後方で瓦を割っていたが、効果を高めるよう工夫を始めた。地蔵経を唱えながら、切り口が鋭角になるよう石を割り、当れば刃のように盾を貫通した。
 官軍は進むことができず、狭い農道に足止めされた。
 鐘楼の鐘が、響いた。すると、その背後から、錫杖を鳴らして風のごとく白い僧団が襲いかかった。
 東の参道より駆けつけた、“白光尊師”ら護国禅僧たちである。

 見張りの塔から、莫志が報告に戻ってきた。
「農道の敵は“輪廻”しました」
 人員の配置や、守備の指示は、すべて境内の鐘楼にいる金山大師の采配である。その本営へ、斥候部隊である“楽変化天部”の僧が時遷と一緒に駆けつけてきた。
「あかんでぇ、北の参道を敵軍が登ってくるわ。小鵝嶺口を封鎖していた官軍が、動きだしたんや」
「大参道、畑の脇道が思うように進めぬと見て、伝令を発したな。麓の門を護っていた者たちは」
「あかん、やられた。全滅や」
 小参道は、逃げてくる僧侶、信徒の入り口である。官軍の監視もゆるかった。それは、反対派を少林寺に集めるため、故意にゆるくしているのだと、金山大師は看破していた。
(それを攻撃したということは、もう逃げてくる信徒はいないということか)
 仏法の灯明は、かくもか細くなったのか──と、金山大師は戦雲に包まれる嵩山に目をやった。
 が、それも一瞬だった。大師はもうひとつ“誤算”を犯していたのである。官軍が、少林寺を本当に滅ぼすとは考えていなかった。脅しをかけ、降伏を促すだろうと予測していた。蔡京さえ廃仏に反対して宰相を罷免になったほど、朝廷内にも保守勢力は少なくないのだ。
(宋国は、本当に仏を棄てたのか)
 大師は、自分の見通しの甘かったことを悔やんだ。小参道が破られれば、ほどなく敵はここまで攻め寄せてくる。少林寺は堕ち、仏法は滅びる。
 しかし、彼はこのような不測の危機に備え、もう一部隊──“他化自在天部”を残していた。
 金山大師は、般若雷を手に床几より立った。身辺に残っているのは、莫志と、数人の長老たちである。
(釈迦仏は身を棄てて虎を養い、わが身を献じて鹿を救った)
“般若”とは、智慧の梵語である。人を救う道である。いま、それを武器として、金山大師は死を決めた。
「われ、法とともに去らん」
 その時、莫志が、あっと叫んで、麓へ続く道を指さした。
 史進たちの後ろ姿が見えた。
「待て!」
 大師は声を張った。
「殺生は、ならぬ!」
 史進は振り向き、手にした槍を掲げた。
「官軍にも、そう言ってやれ」
 一笑して、史進は山道を駆けていった。



“小鵝嶺口”から登る小参道は、細道である。乾いた茶色い山肌に、深い緑の松柏が、ぽつぽつと生えている。太陽は昇りきり、熱気が立ちはじめていた。
 逃亡してくる僧侶、信徒を入れるため、この道の防備は遅れた。今朝、その“小鵝嶺口”を官軍は二千の勢力で封鎖した。その軍勢が、縦列を組んで道を登り始めていた。
 まもなく、“西郭店口”から宇文将軍が援軍を連れて駆けつけてくるはずである。しかし、兵たちの足どりは重い。彼らは、洛陽からやってきた兵である。洛陽は、北魏朝の時代には“城内一千寺”、すなわち城壁の中だけでも千を越える寺があったと云われる仏教の一大聖地である。
『僧侶を皆殺しにせよ』という命令は、彼らの良心に重くのしかかっていた。
 道は、つづら折りになり、なだらかに続いてた。
 山頂の寺からは、清澄な誦経の声が聞こえてくる。山の風景、寺の瓦、僧侶たちの荘厳な読経がこだまし、洛陽軍の兵たちは動揺した。これは、極楽に到るの十万億土か、地獄への二十四万由旬──どちらの道か。
 誰かが、溜め息をついた。

 史進と石秀は、満天星ら“俗世の兵”とともに山道を下っていた。
 その人数は、三百五十。史進が先頭を行き、石秀と満天星がぴたりと続く。
 道の向こうに、敵兵の気配がした。史進は駆け下りる勢いに乗り、そのまま官軍に襲いかかった。跳躍し、着地とともに棒が最初の兵を倒した。続けて左右の兵を地面に叩き伏せた。
 石秀が二番手だった。満天星が続く。
「遅れるな!」
“一塊雲”満天星が刀を抜き、“張神剣”は剣を、“草上飛”は戟を握った。史進の手には、一本の棒が握られている。武器商人の“烏鴉嘴”が槍を投げて寄越した。
「使いな。金山大師につけておく」
 よくしなる上等の槍だった。
 山上では、梵鐘が打ち鳴らされている。
“神剣”張覇道、“草上飛”律大談は老練な猛者たちだ。手下もよく訓練されていた。辺境に転戦するのを常として、相当に荒っぽい戦法だった。
「俺たちは坊主じゃねぇ。手加減なしだ!」
“十年老”“王鉄子”“黄再生”らも玄人である。江湖を生き延びてきた男たちは、特に遊撃戦を得意とする。今日、初めて会った者ばかりでも、玄人には独特の勝負勘が備わっている。官軍が備える前に襲いかかり、当たるはしから確実に息の根を止めた。

 史進はひたすら前へ進んだ。山道に死傷者が折り重なっていく。味方の犠牲も少なくなかった。“黄再生”が倒れ、“草上飛”も腕を切られた。
 満天星は、全身が朱にまみれていた。しかし、自分の血ではない。すべて返り血、血を浴びるのも厭わずに、斬り込んでいく。その容貌とは裏腹な戦い方だった。
 官軍は続々と登ってくる。史進と石秀は背中合わせに戦っていた。最前線に立った二人の周囲は敵しかいない。壮絶な戦いだった。味方が倒れても、助ける余裕さえない。入り乱れ、体をぶつけて、武器をふるった。その武器が、味方にあたるほどの密集した戦場だった。
 史進は折れた槍を投げ捨てて、落ちていた鉄槍を足で拾った。
 すでに半分の味方が倒れている。このままでは突破されるのは時間の問題だ。
「ここは俺ひとりで十分だ。石秀、みなを連れていったん退き、山から側面を襲え」
「俺が?」

 石秀は敵兵を斬り伏せると、血まみれの上着を投げ捨てた。
「俺の体には、数えきれない傷がある。だがな、背中にはひとつもねぇ。ぜんぶ前だ!」
 石秀は左右に敵兵を薙ぎ払い、全身が赤く染まった。
「敵に後ろを見せたことなぞ一度もねぇんだ!!」
 戦いながら、史進もいつの間にか肌脱ぎになっていた。すでに汗ばんだその背中には、目にも鮮やかな九匹の竜が躍動している。
 満天星が、二人の横に加わった。
「私もお仲間に加えていただこう」
 太陽がまぶしく照りつけている。
 満天星は、駆けながら竜を数えた。

(“九紋竜”!! “史進”は本物だったか)
 出鼻をくじかれた官軍も犠牲が多い。しだいに後退し、史進たちとの距離を取った。その間に、“神剣”張覇道が隊列を整える。互い違いに配置して、数を多く見せる“影子陣”だ。槍を構えた官兵がじりじりと迫る。
 史進と石秀は、道の真ん中に並んで立った。
「ここから先は、一歩も通さん!」
 官軍の後方に、将軍旗が見えていた。宇文将軍率いる二千の援軍が到着したのだ。将軍は馬上で叱咤した。
「坊主どもを皆殺しにしろ!」
 いったん退いた官軍が、援軍の到着を知って勢いづき、再び前進をはじめる。
「ここの坊主は人を殺すぞ、情は無用!」
 太陽がきらりと光った。
 と、官軍の側面へ、斜面の松林から二人の男が躍り出た。そして、叫んだ。
「こっちだ!! ここだ!!」
 その声に、史進は叫んだ。
「陳達、楊春!」
 道なき道を登ってきたのは、少華山以来の仲間──。

“跳澗虎”陳達。梁山泊席次七十二位。“谷川を跳び越える虎”の呼び名のごとく、点鋼槍の使い手にして、卓抜の脚力を誇る豪傑である。

“白花蛇”楊春。梁山泊席次七十三位。噛まれたら三歩と歩かずに死ぬ、と云う猛毒の蛇の名を冠された、青白き男である。
 二人は少華山の手下を率いている。さらに“打虎将”李忠の顔が見えた。
「史進、無事か」
 すでに陳達たちは槍をふるい、官兵を血祭りに上げている。相手は坊主と甘く見ていた官軍は、ふいを衝かれて恐慌した。
「敵の援軍だ!!」
 森がざわざわと揺れていた。どれほどの大軍が隠れているか分からない。官軍は浮足立ち、宇文将軍を先頭に麓へ向って逃げ始めた。
 史進は追った。
 右往左往する官兵を追い散らし、山道を飛ぶように駆けた。遮るものは打ち倒した。配下の悲鳴に振り向いた宇文将軍は、迫りくる男の姿に悲鳴をあげた。
「お慈悲を!」
「“阿弥陀仏”」
 史進の槍が唸りをあげ、宇文将軍の胸を貫いた。



 その朝は、梁山泊の軍師“智多星”呉用も忙しかった。
 呉用の書斎は聚議庁の離れにあるが、ほぼ終日、聚議庁の脇部屋に詰めている。その机に、ひっきりなしに伝令と指示を求める者が出入りしていた。
 全国の“店”や“鶏狗”ら間者からの情報は、まず呉用のもとに集められるのだ。
 それが一段落した頃、宋江がやってきた。弟の“鉄扇子”宋清が昼食の膳を持っている。呉用は、すでに昼時もだいぶ過ぎていることに気がついた。
「もう、こんな時刻でしたか」
 呉用は宋江に椅子を進めた。半分ほど開けた窓から、机の上まで日差しが差し込んでいる。
「呉先生の、おっしゃるとおりになりましたな」
 宋江は椅子に腰掛けると、机の上に乱雑に置かれている報告書や密書のたぐいを目で追った。重なった紙の中には、魯智深についている“活閃婆”王定六や、史進についている“鼓上蚤”時遷からの報告もある。それらの膨大な情報を分析し、再構築して、“智多星”呉用は頭脳の中に鮮明な未来図を描くのである。
 宋江は心配そうに言った。
「今頃、戦が始まっているでしょうか」
 呉用は、最初からこの“法難”は官軍と僧侶の戦になると予測していた。抵抗の中心が少林寺であることは、すべての情報が一致している。
「ええ。“援軍”も到着しているでしょう」
 少林寺に加勢した者には賞金が出る──と、流布したのも、この呉用だ。
 梁山泊軍を動かそうにも、山東と河南では距離がある。途中には駐屯軍の多い東京開封があり、通り抜けても、山西には十節度使の“薬師”徐京、河南地域には“老風流”王煥がいる。特に山西地方は最近、田虎という山賊が勢力を伸ばしており、官軍の警戒が厳しい。
“賞金”は、そのために編み出した奇策であった。
「石勇の人脈で密かに噂を流しましたが、賞金稼ぎたちは、騙されたと知ったら怒るでしょう」
「賞金は、わたしから出しますよ」
 宋江は笑って、呉用の書きさしを覗き込んだ。こまごまと何かの予定が書かれている。
「これは?」
「中秋節の準備です。中秋節は、晁蓋殿の命日……今年は三回忌、盛大に催さねば。ちょうど、宋江殿にご相談しようと思ったのです。僧侶を呼び法要を主とするか、なにか催しを行なうか……」
「賑やかにしましょう。盛大に月見の酒宴を。晁蓋殿は、しんみりしたのはお嫌いだから」
 宋江は、まるで晁蓋が生きているかのように言った。
 呉用は頷き、宋清が碗についだ暖かいわんたんを匙ですくった。澄んだ汁に、やわらかなわんたんが、ふわふわと漂っている。
 それを口に運ぶ前に、また伝令が報告を届けてきた。
「“鼓上蚤”からの報告です」
 呉用は書き付けに目を走らせた。
「慕容貴妃が動いている?」
 その名前を聞いて、宋江の顔色が曇った。
「死んだはずでは?」
「生きていたようです。おおかた、“風流天子”がまた風流心を起こして、女を断罪できなかったのでしょう。林霊素は、もともと慕容貴妃が取り立てた男……」
「いったい、なんの符丁でしょう。慕容貴妃は、後宮に返り咲く気なのか」
「彼女には王皇后暗殺、青州謀叛の罪があります。朝廷には、王皇后の兄・王都尉や遺児の皇太子もいる。慕容貴妃の復帰は不可能です」
「では、彼女の目的は?」
 呉用の羽扇が動きはじめ、昼食のわんたんは永遠にその頭脳から忘れ去られた。



 梵鐘がゆっくりと三度、鳴り響いた。
 僧兵たちが負傷者をかばいながら寺に戻ると、少林寺の山門は再び堅く閉じられた。
 将を討ち取られた官軍は、すでに山裾まで撤退している。
「ひさしぶりだな、陳達、楊春、それに李忠師匠」
 負傷者の治療や、炊き出しで慌ただしい境内で、史進は懐かしい顔を眺め回した。
「そんな顔でも、久しぶりに見ると懐かしいぜ」
「ぬかしやがる」
 陳達は頬を汚した血を、拳でぬぐった。
 彼らは軍師・呉用の命令を受け、少林寺に加勢するためやって来た。その途中で王定六と連絡をつけ、李忠とも合流したのだ。
 到着した時、参道はすでに官軍に封鎖されていたが、嵩山は広く、抜け道はある。
 史進は少華山の手下どもへ目をやった。見知った顔が、百ばかり並んでいる。
「百人とは、心強い“援軍”だ」
「そう言うな」
 陳達が頭を掻いた。
「官軍に隠れて、こっそりと動けるのは、こんなもんだ」
 もとより予想外の加勢である。百だろうが二百だろうが、史進には不満はない。
「和尚がいれば、もっと心強いがな。李忠師匠、魯智深はどうしている」
「後から来るとさ」
 李忠は仏塔を見上げている。
「“援軍”を連れてくる、との伝言だ」

 境内では読経が始まっていた。
 僧侶側に死者が多かった。参道に放置されたままの遺体もある。敵味方、すべての死者のため、生き残った僧尼たちがひとり、またひとりと読経に加わり、嵩山にこだまするほどの大音声となった。
 陳達たちと久闊を叙する史進のもとに、莫志が駆けつけてきた。
「お前はいつも走っているな」
「史進さん、たいへんです。“王無傷”が」
「どうした」
「やられたそうです、遺体はあちらに」
 莫志について、史進は駆けだした。
 境内に遺体が集められている場所があり、その一角に赤衣の僧が集まっていた。
「最後に三十六人の敵を殺して……哀れ、修羅道に落ちる」
「地蔵経を読み、救済を」
 史進は読経の輪に割り込んだ。
「どいてくれ!」

 史進は、その遺体にかけてあった筵をはがした。背格好は、王進に似ているようだった。顔を見た。返り血が黒くこびりついた顔は、目を閉じて、眠っているようだった。
 史進は、布でその血を拭った。顔全体に傷がある。火傷が、なにかの病の跡か、顔の半分が爛れたようになっていた。
 史進のあとを、石秀が追ってきた。
「──どうだ、史進」
 史進は、王無傷の右手を取った。武芸者らしい、骨ばった大きな手だった。
「違う。王師父じゃない」
 手を離し、史進は立ち上がった。
「確かか?」
「ああ。俺が、間違えるはずがない」
 史進は死体を布で覆った。そして、王無傷──死に顔しか知らぬ達人の、生涯のことを思った。この男にも、親がいて、師がいて、弟子も何人かはいたことだろう。
 しかし、いまここで彼が息絶えたことを、誰ひとり知る者はいないのだ。

 梵浄山の護国禅僧たちは竹林に戻り、また瞑想を始めた。
 読経は続き、鐘楼の本営の周囲は、陰鬱な空気に包まれていた。広場で、金山大師が、天窮和尚や彭尼、本覚上人らから報告を受けている。僧兵も傭兵も、半数ちかくを失っていた。官軍は麓まで兵を退き、参道口の封鎖を続けている。
 僧たちは、返り血を浴び、殺伐とした気を放っている傭兵たちから、忌まわしげに目をそらしている。
「なんと大勢、殺したことか──地獄に堕ちる」
 そんな囁く声が聞こえた。
 一方の傭兵たちは、陳達たちの登場で抜け道があると知り、ざわついていた。
 すべての報告が終わっても、金山大師は沈黙している。
 己に問うているようであった。
 ひとまず、官軍は退けた。
 しかし、再び攻め寄せるであろう。
 林霊素は仏教を廃して、宗教を統一し、それを支配することで絶対的な権威を得ようとしている。さらに遼国は僧侶と官軍を戦わせ、宋国を混乱に陥れようと陰謀している。
(護法と護国──ふたつを全うすること、それは、可能か?)
 金山大師のまわりには、人も寄らず、ぽかりと空間ができている。
 静寂の中、金山大師は袈裟を払い、合掌した。
「無念寂静──“不戦不従”」
 執着を手放し、戦わず、また廃仏にも従わない。そのように金山大師は決断を下した。
「われらは少林寺を護法の最後の灯明として、全国の仏弟子の希望となす。籠城して山をさらに固く守り、決して官軍の進入を許すな。そうして、法難の去るのを待つのだ」
 夕闇が迫り、麓には官軍の篝火が赤々と燃え盛っている。
 僧たちは不安げだった。
「廃仏は勅令……逆らえば“逆賊”。風向きが変わることがありましょうや」
 金山大師は数珠を揉んだ。
「“一道清浄妙蓮不染”──すべては仏の御心である」



※文中の「票客・票局」は、正しくは【金+票】客・【金+票】局です。
※文中の「刀利天」は、正しくは【u+5fc9】利天です。            




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