水滸伝絵巻-graphies-

第一章
中秋望月

第二章 宣和法難

 女馬車の逃げ足は早かった。
(礼金をもらいそこねた)
 面倒なことになった──と、史進は思った。少女は、まだ怒っている。
「ようやく追いついたというのに、そなたらのせいで逃げられたではないか!」
「そいつは悪かったな」
 史進は襟巻きを外すと、胸元を気にしている“大柄な方の追剥”に投げてやった。
 覆面を取ると、あの居酒屋で会った尼だった。
「お嬢様、一息いれましょう」
「やっぱり、あんたか。思った通り、腕が立つ」
 尼が瓢箪を手渡すと、娘はごくごくと喉を鳴らして飲んだ。

「あやつを殺し、お母様のかたきをとって、祝い酒のはずだったのだ!」
「たいした飲みっぷりだ」
 史進は笑った。
「しかし、腕前の方は、まだまだだな」
「失敬な。わたしが何年、修行したと思っているのだ。十年だぞ」
「そいつはお見逸れした、お嬢様」
 少女は史進に何か言い返そうとしたが、足元で尻尾を振っている太白に気づき、あっと叫んで飛びのいた。薛永が、慌てて太白の首を押さえた。
「だいじょうぶ、噛みませんよ」
「これは、“犬”だな?」
(へんな娘だ)
 育ちがよいのは見れば分かるが、あまりに浮世離れがしている。
(“仇”というのも、尋常じゃない)
 史進の手には、小間使いが投げてよこした剣があった。作りが、宋国のものとやや異なり、繊細な金属の象嵌がほどこされている。
(異国のものだな)
 だとすれば、あまり関わりたい相手ではない。しかし、本当に“お嬢様”なら、十分な金は持っているだろう。
 史進は、さっそく“商談”を始めた。
「あんた、名前は。なんであの馬車を襲った?」
「それは“秘密”だ。見知らぬ者には教えられぬ」
「俺は史進、こいつは薛永。俺たちは……」
 薛永が慌てて遮り、後を続けた。
「僕たちは、旅の武芸者なんです。洛陽へ稼ぎに行く途中です」
 少女はふたりの正体より、犬の方に関心があるようだった。
「この子は、太白。撫でてもいいですよ」
「この犬は、なぜこんなに大きいのだ?」
「それほど大きいわけでは……」
 少女は恐る恐る手を伸ばし、太白の首のあたりをそっと撫でた。
 その間に、史進は尼に話しかけた。
「あんたがたの“秘密”しだいでは、手助けしてやってもいい。話してみないか」
 少女が口を開きかけると、尼は史進の顔をちらりと見て、止めた。
「お嬢様、うかつに信じてはいけません」
「かまわぬ。犬は、悪人には懐かぬもの。わたしは、銀樹。これお付きの彭尼だ。二人で、悪者を追っている」
「姓は?」
「王」
「王銀樹、豪勢な名前だな。それで“秘密”とは?」
「そなたら、本当に役に立つのか?」
「任せろ、腕前は見ただろう。俺たちは、“玄人”だ」
「なんの玄人か」
「仇討ちのさ」
 銀樹は唇をとがらせ、二人の顔をじっと見つめた。
「よろしい。あの馬車には、お母親の仇が乗っていたのだ。お父様の妾の、ものすごく悪い女だ。お母親に毒をもって殺したうえ、邪魔なわたしを尼寺へ追い払った。そなたらが逃がしたのは、そのような大悪人なのだ」
「驚いた。大した“秘密”だ。その妾も、家から追い出されたのか?」
「そうだ。それで、そなたらいくらほしい。なにかするのに、“ここ”ではお金がいるのだろう」
 銀樹が話してしまったので、彭尼も観念したようだった。
「お嬢様は尼寺でお育ちになったので、世間のことには疎くていらっしゃるのです。失礼の段はお許しを。仇討ちは本当ですが、我々二人でやりとげます」
「あんたは尼さんにしては、世間を知っているようだ」
 彭尼は答えず、史進に襟巻きを返した。その手は、彭尼が相当の鍛練を積んでいることを示していた。破れた僧衣を剣の紐でたすき掛けに縛り、彭尼は銀樹を促した。
「参りましょう、馬車を追います」
「まあ、待てよ」
 史進は彭尼の腕をつかんだ。
「俺たちは、金では動かない。しかし、気に入った相手は、命がけで助ける」
 銀樹が二人の間に割り込んだ。
「それは、まことであろうな?」
「好漢に二言はない」
「“好漢”とは?」

「嘘をつかない男のことだ」
「本当に手伝ってくれるのか?」
「ああ」
「よかった!」
 銀樹はぴょんと跳ね上がり、にっこり笑った。
「彭尼、喜べ。用心棒が、ただで二人も手に入ったぞ」
「なんだって?」
「実は、我らは“一文なし”なのだ。では、急いで馬車を追おう」
 銀樹は先頭に立ち、元気よく荒野の道へ駆けだした。
「必ずや、あの女の化けの皮をはがしてやるぞ!」



 梁山泊から抜け出したのは、史進だけではなかった。
 史進の足取りは簡単に掴めたが、同日に魯智深も姿を消し、その行方は梁山泊の情報網をもってしても、容易に判明しなかった。
 宋国は広く、店に立ち寄らなければ、そう簡単に行方はつかめないのだ。しかし、呉用は、魯智深についてはさほど心配していなかった。
 長く放浪し、軍人、僧侶、乞食とさまざまな経歴をもつ魯智深は顔が広い。助ける者、匿う者が多いのだ。
 それでも一応──と、宋江の依頼を受けて探しに出た“神行太保”戴宗は、魯智深の行方とは別の、意外な情報をつかんで戻って来た。
「梁山泊の外は、たいへんな騒ぎになっている。法難だ、法難」

 聚議庁に、宋江、呉用のほか、副首領“玉麒麟”盧俊義、“神機軍師”朱武ら首脳陣が集まっていた。
 戴宗は掴んできた情報を詳細に語った。
「天子の“道教狂い”は有名だが、ついに仏教を廃止して、道教とひとつにすると決めたそうだ。釈迦如来を大覚真仙と呼び名を変える。その他の仏も、仙人、大士と改名し、僧侶は徳士、行童を徳童、尼は女徳と呼ぶそうだ。もちろん、みな髪を伸ばして道服と冠服をつけ、寺院も道観にするんだと」
 東京で始まった“廃仏”の風潮は、すでに呉用も掴んでいた。しかし、長い歴史があり、信徒も多い仏教を廃し、すべて道教に吸収してしまおうとは無茶な話だ。
「大臣たちにも仏教徒は多い。実現は、不可能でしょう」
「ところが、だ」
 戴宗は、一応“道士”の仲間である。
「近頃、朝廷では、後宮から火が出て宮女が何人も焼け死んだり、宋貴妃、王貴妃が続けて死んだり、不吉続きだ。そこで“通真達霊元妙先生”林霊素が八百人の弟子を集め、天神をくだす玉清神宵秘法の儀式を行なった。するとだ、なんと、あの有名な仙人の呂洞賓が降下して、相次ぐ国難は道教への信仰が足りないから──だとかなんとか、託宣したんだそうな。廃仏は護国のためなのだと、天子はすっかり乗り気だ」
“智多星”呉用の手でうちで、羽扇が揺れた。
「そもそも、道教とは、四奸が天子に与えた“おもちゃ”です。天子の目が政治から離れるよう、蔡京、童貫たちは、林霊素を利用し、『天子も大臣たちも神仙の生まれ変わり、国難は天上の神仙が奇跡を起こして助けてくれる。だから、なにも案ずることはない』──と天子に信じさせているのです。廃仏は、林霊素がさらなる権力を欲したからでしょう。林霊素とやら、想像以上に大胆な男だ」
 呉用は、なにか思いをめぐらすように言葉を切った。
「あるいは……誰か黒幕がいるかもしれません。戴院長、ほかに情報は?」
「廃仏を阻止しようとして、僧侶の代表が東京で道士と法を闘わすことになった」
“闘法”と聞いて、宋江はさらに尋ねた。
「戴院長、その“闘法”ですが、道士は林霊素でしょう。では、僧侶の代表は誰なのです」
「確か、五台山の高僧、智真長老──」
 呉用の顔色が変わった。智真長老は、魯智深の恩人である。
 まだ彼が魯達といった頃、義憤から殺人者となり、逃げるため五台山で出家した。暴れ者、厄介者の花和尚に、智真長老だけが目をかけてくれた──と聞いている。
「なるほど、これで合点がいきました」
 魯智深は、酒を飲みにふらりと飛び出したわけではないのだ。
「消えた魯智深の行方、“東京開封”で間違いないでしょう」
「“東京開封”!」
 大宋国の都である。戴宗は、天を仰いだ。
「こいつは……大事になるぞ!」



 宋国の都、東京開封。
 その繁華を極めた城内に、不釣り合いな寂れた寺があった。朽ちかけた境内には、獣の巣のような掘っ建て小屋が並び、蚤とねずみ、野良猫と、乞食たちの楽園となっていた。
 今朝は、特に大勢の乞食が集まっている。その中心に、“花和尚”魯智深がどっかりと腰をすえていた。
 倒れた燈籠を床几がわりに、魯智深は取り囲む乞食たちを睥睨している。狸のような目をした乞食がその傍らにかしこまり、魯智深が手にした欠け茶碗に酒を注いでいた。
 魯智深はぐいぐいと酒を干す。彼は真に酒を愛し、味わい、愛しんで飲むのが常である。今、そうでないのは、いらだっているのである。
 まだ朝だが、日差しは燦々と降り注ぐ。今年は日照りだ──と、乞食たちは日陰を取り合うように身を寄せていた。
 ほどなく、待っていた報せが届いた。痩せた乞食が駆け込んできたのである。
「まもなくです。準備が整い、あとは長老を待つばかり」

 魯智深は茶碗を投げ、立ち上がった。
 それに応じて、境内を埋めていた乞食たちも、いっせいに散った。
 魯智深は傾いた門を、ひとりで出た。城壁に近い下町の、さびれた貧民街である。はだか同然の子供がうろうろする路地を、魯智深は勝手知った様子で歩いていった。
 梁山泊を出た魯智深は、東京の城内に潜入した。彼は、ゆえあって“東京丐幇”の陰の幇主なのである。丐幇とは、城内に数千いる乞食たちの幇会である。彼らは物乞いをしながら城内のあらゆる場所に入り込み、高官の秘密から隣家の晩飯の内容まで、なんでも知っているといわれている。魯智深は、かつて相国寺を追い出され、乞食坊主に身を落としていた時に、ひょんなことから東京丐幇の主に祭り上げられた。
 乞食たちは、智真長老が魯智深の恩人だと知っている。
 彼らからの報せで、魯智深は東京にやって来たのだ。

 町では、すでに仏教の迫害が始まっていた。東京の僧侶は、庶民より格段にいい暮らしをしてきた特権階級である。この機に民衆は境内に入り込み、金目のものを奪ったり、仏像を壊し、僧侶を殴るなどして鬱憤をはらしている。その乱暴から逃れようと、いちはやく、寺の名を“観”に改め、道服に着替える僧も多かった。
 魯智深は、それが気に入らない。
(青坊主どめも!)
 魯智深は大通りにでた。巡邏の兵が、魯智深を見とがめた。
「乞食坊主、坊主は道士にならねばならんのだぞ!」
「なんだと」
「髪を伸ばして冠をかぶれ。数珠も袈裟も捨てて、道服を着るんだ」
 その兵も、八卦やら太極やら神仙の護符やらを、じゃらじゃらと身につけている。今時は、それも権力者におもねる方便だ。坊主を迫害するのも、出世への早道なのだ。
 魯智深は無視して歩きだした。
「今さら髪が生えるものか」
「逆らうか!」
「今日の法くらべで、僧が負けてからの話だろう」
「坊主など、負けは明らかだ」
「なんだと」
 殴り掛かろうとした魯智深の肘を、背後からすばやく押さえた男があった。
「アニキ、まだそんな格好かィ。いまは道士の方がもらいが多いヨ」
 振り返ると、梁山泊の情報屋のひとり“活閃婆”王定六が痩せた脇腹をバリバリと掻いていた。兵士たちは、蚤でもうつるのが怖いのか、数歩さがった。
「乞食坊主かと思ったら、ただの乞食か」
 兵士たちがなにか捨て台詞を吐いて去っていった。魯智深は黙々と歩いていく。王定六と魯智深は長いつきあいだ。王定六には、魯智深の心がちゃんと分かっている。
「なぜここに、と聞かないネ。お察しの通り、山が和尚を心配してオレをよこしたのサ。ずいぶんと走らされたヨ」

“活閃婆”王定六──梁山泊百四位の好漢である。“走るいなづま”とあだ名される王定六は、梁山泊が誇る諜報屋のひとりで、特技を二つ持っている。駿足と、スリの技である。かつて五台山の河のほとりで、行き倒れた“アニキ”を助け、それが後の魯智深であった。五台山は、王定六にも忘れがたい場所なのだ。
 王定六は黙って魯智深の後をついていった。
 人波も、みなそちらへ向かっている。
“道士と僧侶の奇跡くらべ”が、まもなく宮城の門前広場で始まるのだ。

 五台山の智真長老は、魯智深の導師である。
 暴れ者の魯智深に根気よく作法を教え、文字を教え、経を教えた。
「仁王門を打ち壊し、寺を追われた時も、ただひとり見送りにきてくれた」
 夜に小さな提灯を提げ、魯智深の行く先も見えぬ道を照らしてくれたのだ。
 群衆にまじり、道士や道教信者は自慢顔だ。
「坊主は、奇跡などは起こせないからな。負けることは目に見えている」
 人々は好奇心と不安がないまぜになった顔で囁いている。
「負ければどうなるか分からないし……長老は現れないのではないかねぇ」
 しかし、魯智深は、長老は来ると信じていた。
 はたして、間もなく人込みが分かれ、ひとりの小柄な老僧が立っていた。
 墨染めの衣、質素な袈裟、裸足に草鞋という姿で、ゆっくりと人垣の間を歩いてくる。供は、足元の影のほかは、ひとりもいなかった。
 魯智深は、長老の姿を凝視している。
 広場の中央では、すでに林霊素が百人の道士を従えて待っていた。勝負は、雨乞いの勝負と決まっていた。このごろは干天続きで、雨が待たれているのである。
 まず、大げさな儀式があったが、長老は木鶏のごとく佇んでいるだけだった。
 天子は背後の楼閣上に寵愛する劉貴妃を連れておでましになり、勝負を見守っていた。
 儀式の進行役を仰せつかった宦官の楊センが告げた。
「では、先に智真長老が法を行なう。大線香が燃え尽きるまでに、雨が降ればよし」
 広場の中央に空の鼎が据えられていた。
「仏法の霊験あらたかであるなら、この鼎が満杯になるほどの雨が降るであろう……始めよ!」
 数千の目が、炎天下、ひとりの老僧に注がれている。
 智真長老は、静かに石畳に座禅した。
 懐から、その痩身には不釣り合いな無骨な数珠を取り出し、長老は初めて言葉を発した。
「文殊菩薩は菩提を求め 衆生を捨てず」
 それは、低く、厳かな、慈愛に満ちた言葉であった。
 そして、長老は読経をはじめた。

  剣は智慧、蓮華は悟り
  真理のほかに不変なし
 五台山の本尊である文殊菩薩の経文である。文殊菩薩は智慧により、人々を悟りへ導く。
 風のような、あるいは波のような誦経の声が、広場を流れた。人々の心を鎮め、魂を清める声だった。
 そして、間もなく異変があった。
 広場には石畳が敷かれ、多くの見物客が集まっていた。その地面がふいに崩れて、人々が下の空洞に呑まれたのである。悲鳴が上がった。智真長老は端座して誦経を続ける。逃げようとした人々は、別の異変を発見して、また恐怖の叫びをあげた。
「あれを見ろ! 血が流れている!!」
 天子が座す楼閣の門前には、信奉する青華帝君や聖祖趙玄朗といった神々の巨大な銅像が飾られている。その目から、たらたらと鮮血が流れ、さらに、どこからか不気味な慟哭の声が響きわたった。誦経の声をかき消す奇怪な泣き声である。
 次々に不吉な現象が起こり、人々は言葉を失い逃げまどった。楼閣上の皇帝も龍顔に不快をあらわにし、立ち去ろうとする気配を見せた。
 その時だった。
 りんりんと、軽快な鈴の音が鳴り渡った。 

 続いて、林霊素が青い神牛に乗って広場の中央に現れた。そして、厳かになにか呪文を唱え始めると、床の崩落、流血、妖しい慟哭のすべての怪異がぴたりとおさまった。
「あれを!」
 民衆は空を指さし、歓呼が響いた。楼閣の空に数十羽の鶴が舞い飛び、宮殿の屋根に五色の雲がたなびいていた。さらに、広場に置かれた空の大鼎にも、こんこんと水が湧きだしたのである。
「奇跡だ、奇跡が起こったぞ!!」
 すぐに宣旨が下され、楊センは天子に代わって林霊素の勝利を讃え、道教の勝利を宣言した。
「道教を大宋国の国教とし、仏教は廃して僧侶はすべて道士とする」
「いかさまだ!!」
 魯智深の声が轟いた。続いて僧や信徒、乞食たちが騒ぎ始めた。
「仕掛けがあるに違いない。神像を打ち壊せ、鼎を調べろ!!」
「鶴は仕込んでおいたんだろう!!」
 人々が神像に押しかけ、暴動になりかけた時だった。
 ふいに空が真っ暗にかき曇り、雷鳴が轟いた。そして、ざっと広場の石畳を打ち、驟雨が襲った。道教派の者たちが叫びをあげた。

「雨だ! 奇跡だ!!」
 林霊素は雨雲に向って両手を広げ、勝ち誇り、声高に叫んだ。
「智真は国に仇なす妖人である。捕らえて、牢に下すべし!」

 魯智深が動いた。その動きは、智真長老に向かった兵士たちより速かった。乞食たちが続く。その時──木像のごとく微動だにしなかった智真長老が、雨の中に、すっくと立った。
 そして、駆け寄らんとする魯智深を押しとどめるかに、片手を胸ほどに挙げた。自然と、魯智深の足が止まった。相当の距離があったのに、胸を押さえられたように足が動かなかった。
「なぜ、止めなさる」
 魯智深が問いを発しようとした、その時、智真長老の手の中で数珠が砕け、百八の珠が四方に飛び散った。
 飛び散る数珠玉の雨の中、長老は魯智深を見据え、一喝した。

「問金山!」
 小柄な姿が、天を衝く巨人のごとくに見えた。

 魯智深の足元に、ひとつぶの数珠が転がった。
 魯智深が珠を拾っている間に、智真長老は捕らえられ、連行されていった。王定六と乞食たちが魯智深を取り巻いていた。
 雨はあがり、また青空が見えていた。観衆は、どこかぽかんとして散っていった。
 王定六は、林霊素が弟子たちに囲まれ宮城内へ戻っていくのを眺めていた。青牛の手綱を、頭からボロ布を被った道士が牽いていた。

 華やかな衣装の道士たちの中で、その姿が妙に目立った。
(貧乏くさい道士もいるんだナ)
 魯智深に目を向けると、じっと掌の珠を睨んでいる。
「アニキ、長老をお助けしないのかィ」
 王定六も、なにげなく魯智深の掌を覗き込んだ。
「オヤ、達磨大師だ」
 珠には、異相の苦行者が刻まれていた。
「達磨大師といえば、河南の少林寺で座禅した異国のエライお人だネ」
 魯智深は珠を握りしめた手で、連れ去られる智真長老を遠目に拝んだ。そして、いまだ熱狂さめやらぬ広場に背を向けた。
「アニキ、どちらへ?」
 問う王定六に、魯智深は腹に響く声で答えた。
「西方浄土だ!」



 大宋国は、西へ行くほど乾燥し、大地は荒涼とする。長安、洛陽といった古都を擁し、歴史と文化は豊かだが、黄土が広がり、空さえ黄色い時がある。
 河南、陜西──仏教が初めて西方より伝来したのもこの地域であり、発展したのも、やはりこの地域である。
 洛陽には仏教伝来の白馬寺があり、龍門の大石窟があり、達磨大師が禅宗を開いた少林寺がある。長安には玄奘三蔵が天竺より持ち帰った教典を納めた大慈音寺、指舎利を納めた法門寺など仏教の聖地があまたある。
 その聖域でも、早くも法難が始まっていた。
 寺は道観とされ、僧侶も尼も、道士、道姑となるか、還俗を強制されたのである。しかし、この一帯では抵抗が根強く、命懸けで諫めようとする高僧も少なくなかった。朝廷は、それを武力で押さえつけようとしていた。
 午後。空には少し雲が出ていたが、雨の気配はなく、暑かった。
 街道沿いの宿屋の前にも、廃仏を命ずる高札が立ち、砂まじりに風に吹かれていた。その告知を、若い僧侶が破り棄て、砂塵の中へと去っていった。
 宿屋の二階の小窓には、一人の年若い小間使いが立っていた。顔だちは美しいが、物腰には隙がなかった。やや吊りぎみの目で、破られた告知の紙が風に散っていくのを眺めていた。
「猫児」
 呼ばれて、小間使いは部屋の中へ視線を戻した。この鄙びた宿屋でも、最上等の部屋である。一角には木製の浴槽が置かれ、ひとりの美女が湯気の中で寛いでいた。
「あの暴漢、正体は知れたか。女ではないかと思うが、宋国の刺客ではあるまいな」
「こちらも注意しておりますので、あれから姿を見かけませぬ。女とすれば、あるいは、峨眉山の生き残りかも。それとも、奥様になにか怨みを抱く者……お心当たりは」
「猫児よ。そなた、わらわに仕えて何年になる。わらわを恨んでおる女など、流れ星の数より多い。消えた星屑のことなど、いちいち覚えておるものか」

 湯気の中で、美女は凄惨な笑みを浮かべた。湯には真っ赤な花弁が浮かべられ、その色は血のように鮮やかだ。
「埃っぽいこと。早く都に戻りたい」
「間もなくですわ。この“お役目”が済めば……」
「そうじゃな。おや、あの声は」
 こういう宿屋の構造として、一階は食堂になっている。その方から、鈴の音と、なにかの口上が聞こえてきた。すぐに猫児が見に行った。
「人相見が来たようです。運命をぴたりと当てると言っております」
「呼んでまいれ」
「奥様、ご用心を」
「呼べ」
 猫児はすぐに一人の老婆を連れて部屋へ上がってきた。乞食のような身なりの老婆だが、目は鋭い。美女は、湯に身を任せたまま、老婆に側へ寄るよう命じた。
「どうじゃ、わらわの相をなんと見る」
「おお……なんという高貴な相」
 老婆は目を見開いた。それから、何か聞き取れない呟きを洩らした。美女は婉然と微笑んでいる。老婆は続けた。
「あなた様は、女人として位人臣を極めましょう。しかし、ご注意なさいませ。そのお命を奪うのは──年若き高貴な少女でございます」
「褒美をとらそう、猫児」
 膝をつき、手を伸ばした老婆の心臓を、背後から猫児の短刀が差し貫いた。すぐに控えていた青衣の侍女たちが現れ、老婆を布で包んで運び去り、血の跡を拭った。
 美女はまた浴槽に豊満な体を横たえ、目を閉じた。
「女人として位人臣……とな」
 ぞっとする笑いが荒野の月を震わせた。湯を足そうとした猫児が、水面に動いた影を見て、さっと天井へ短刀を放った。短刀は梁に突き刺さり、チュウという声と、逃げていく足音がした。
「ねずみか」
 美女は興ざめした顔で湯から上がり、侍女たちに体を拭かせた。
「明日は、朝いちばんに出立する。このような貧乏くさい宿に、長居は無用じゃ」



 西京河南──洛陽郊外。
 河南府まで、あと一日という宿場である。その橋のたもとで、一組の芸人が棒を披露していた。賑やかな宿場だから、芸人は珍しくない。行き交う旅人も、宿場で働いている旅籠の男衆、女たち、馬子まで目が肥えている。だから、そうそう立ち止まるものではないのだが、今日は違った。二三十人の人垣が、熱心に芸人たちを取り巻いていた。
「こいつは、うまいな」
 武術の心得がある若旦那が誉める。酒楼の女たちは、もう投げ銭を握っていた。

 史進は肌脱ぎになり、目にも鮮やかな九匹の竜を見せつける。それだけで、立ち止まる者が何人もいた。史進は棒を手に、跳躍し、足を振り上げ、華々しい技を次々に披露する。裂帛の気合を発し、技が決まれば見栄を切ることも忘れない。もう一人は薛永である。こちらは繊細な技だ。全身を使い、棒を風車のように素早く回す。片足立って四方を払い、倒立して棒だけで体を支える。
 男たちは喝采し、女たちは嬌声をあげた。
「珠珠姐さんはどっちがお好み? あたしは、あっちの刺青のひと」
「多福ちゃんはヤンチャな男がすきだね! あたしは、あの犬を連れたひとが、かわいいわ」
 ひとしきり派手な技を見せると、史進はさっと後ろに下った。あとは薛永と太白の出番である。
「家伝の膏薬がずいぶんと売れました」
 汗を拭く史進のところへ、薛永が嬉しそうに戻ってきた。薛永はいつも家伝の膏薬を持ち歩いている。それが殆ど売り切れていた。太白がくわえた笊の中にも、かなりの投げ銭が集まっている。史進は儲けを掌でざらりとすくった。
「よし、飯を喰いに行こう。このへんの川魚は土くさいから、肉だ、肉を食うぞ」
 二人は羊を売っている店に入って、肉と焼餅、漬け物などを買い込んだ。史進は地元の濁り酒を買い、薛永は菓子を買い足した。そして、二人は町外れの“隠れ家”に戻っていった。
「待ちかねたぞ!」
 無人になった古い廟で、銀樹がひとり出迎えた。
「ほう、たくさん買ってきたな」
 銀樹は薛永から籠を受け取ると、抱えて床に座り込んだ。
「これは粽、これは……」
 食べ物を取り出しては、銀樹は手づかみで食べ始めた。史進が籠を取り上げた。
「彭尼を待てよ。独り占めとは、お行儀が悪いぜ」
 銀樹は、ふんと顔をそむけた。それから薛永の横に座って、小声で言った。
「すまぬ、お腹がすいていたのだ」
 彭尼は、洛陽方面へ馬車の行方を探りに行っている。
 銀樹は膝を抱えて座わり、ため息をついた。薛永は、懐からお菓子の包みを取り出した。
「これをどうぞ」
「よいのか?」
「あなたのために買ったんです。まだ暖かい」

 銀樹はぱっと頬を輝かせると、包みを開いてお菓子を口いっぱいに頬張った。
「薛永、これはなにか?」
「油であげた、肉入りの甘いお団子です」
「こんな美味しいものは、初めて食べた」
 薛永は落ちていた枝を削って箸を作り、銀樹に持たせた。いかにも令嬢風の銀樹が、埃だらけの床に座って、手づかみでものを食べるのを見ていられなかったのだ。
 薛永も元は良家の生まれで、没落して芸人に身を落とした経歴をもっている。江州で宋江に出会わなかったら、今頃はどうなっていたかも分からない。
(強がっているけど、よほど苦労をしたんだろう)
 銀樹の横では、太白が前足を揃えて行儀よく座っていた。それに気づくと、銀樹は菓子を半分に割り、太白の前に置いてやった。
「最後の一個だが、おまえに半分やろう」
 史進は銀樹に言った。
「“お嬢様のご実家”から援助があれば、そんな菓子くらい腹いっぱい食えるぜ。浮気者の父上に頼んで、仇討ちの資金をもらえないのかい」
「お父様には、もう十年も会っていない。わたしのことなど、忘れている」
「そんなことは」
 薛永は銀樹を慰めた。
「自分の子を忘れる親などいません。家はどこです、送りましょう」
「それは言えぬ」
 銀樹はきゅっと口を結んだ。
「聞けば、驚いて引っくり返るぞ。そもそも、お父様などまるであてにならぬのだ。わたしがここにいると知られたら、尼寺に連れ戻されるだけで、良いことなどひとつもない」
 そこへ、ようやく彭尼が足早に戻ってきた。史進は、彭尼の微妙な表情を見逃さなかった。
「どうした、見つかったのか」
「あの女は、洛陽周辺の寺を訪ねて回っています。それらしい馬車を追ったのですが、隙を見て覗くと、中は無人でした」
「囮か。ずいぶんと用心しているな。しかし、寺を回っているとは、どこかの尼寺にでも隠れるつもりか? その妾は、証拠がなくてうやむやになっているとはいえ、殺人犯なんだろう」
 彭尼も、銀樹も、史進の問いには答えなかった。二人が、まだ“秘密”を隠していることを、史進も薛永も気がついている。
「まあ、いい。このぶんだと、まだ時間がかかるだろう。薛永、お嬢様は任せたぞ」
 史進は自分の荷物をまとめはじめた。銀樹が驚いて尋ねた。
「どこへ行く?」
「俺は、少林寺に師父を探しにいく」
「仇討ちを手伝うと言ったではないか」
「師父を見つけたら、すぐに帰る。道中、仇の行方も探ってやる」
 じゃあな──と棒を手に取って、史進は祠を出て行った。



「本当に行ってしまったぞ!」
 銀樹は、しばらく史進が戻って来ないかと、半開きの扉を見つめていた。しかし、足音は遠ざかり、すきま風が扉を揺らすだけだった。
 銀樹は溜め息をついて、薛永に振り向いた。
「薛永も行くのか?」
「僕は……」
 薛永は、ふいに扉へ向け棒を繰り出した。扉の外から、中を窺う気配を感じ取ったのだ。棒が唸り、朽ちかけた扉を貫いた。外に潜んでいた人影は、身をそらして棒をかわすと、素早く軒へ飛び上がった。
 薛永が咄嗟に銀樹を背後にかばい、彭尼が外へ飛び出した。彭尼の鉞が軒を打ち割り、瓦ががらがらと落ちる。瓦と一緒に落ちてきた小柄な人影に、薛永は棒を振り上げた。
 悲鳴があがった。
「やめてぇな。わいや、わい!」
「──時遷さん」

“鼓上蚤”時遷──軒を飛び塀を走る、神出鬼没の“こそどろ”である。梁山泊百七位。隠密としての能力は、宋国でも五本の指に入る男だ。彼も宋江に頼まれて、史進を追ってきたのである。
「あれ、史進はんは? なんや、入れ違いか」
 銀樹はちょび鬚をはやした小男の顔を、不思議そうに眺めている。
「ネズミに似ている」
「口のききかたを知らん嬢ちゃんやな。ええか、わいは仲間に挨拶する間も惜しんで、女の後をつけといたんやで。囮の馬車を使っとるけど、わいの目はごまかせへんで」
 聡明な彭尼は、すでに状況を呑み込んでいるようだった。
「それで、時遷さん。なにか分かりましたか」
「それがな、ちとおかしいで。あの女馬車は、このあたりの寺を順繰りに訪ねとる。すると、その寺は、とたんに……」
「廃仏の命令に逆らい、道教への改宗を拒むのですね?」
「なんや、知っとるんかいな。ほな、これはどうや。わいが手下を使って……わいの手下は全国にぎょうさんおるからな、そいつらに調べさせたところでは、四川から陝西、河南、山西の名刹を回っとる。それらの寺が、みんな反廃仏になっとるんや。そのせいで、今にも坊主と官軍の戦が起こりそうな勢いやでぇ」
 薛永は、銀樹に目を向けた。
「本当に、あれはただの“妾”ですか?」
 銀樹は答えない。彭尼が時遷に尋ねた。
「次の行き先も、お分かりでしょうね」
「あの道筋は、嵩山に向っとると読んで間違いないで」
 銀樹の目が輝いた。
「少林寺か!」
「せや、はよ史進はんにも知らせんと」
「すぐに追うぞ!」
 銀樹は剣を手にとると、勢いよく祠を飛び出していった。腐っていた蝶番がとび、ついに扉が音を立てて倒れた。
「威勢のいい嬢ちゃんやな。少林寺がどこか、知ってはるんかいな」
「御存知ないでしょうね」
 彭尼は出口をふさぐ扉の残骸を蹴散らすと、急いで銀樹のあとを追った。



 一方、史進はひとり祠を後にして、少林寺を目指して街道を急いでいた。
 少林寺は洛陽からは東へ道を戻ることになる。
(どこかで街道を曲がって、少し南へ行くんだったな)
 有名な寺だし、嵩山にあるというから、その山を目指せばいいのだ。
 気軽に考えていたが、史進は生来、やや方向音痴の気味があった。人に聞いても、そう詳しく教えてくれるわけではないし、地図があるわけでもない。
 とにかく、教えられた方角へ歩いていった。
 街道は、なんとなくざわついている。宿場では、道士が大手を振るっていて、兵士の姿も多かった。後ろ手に縛られたまま連行されていく僧侶や尼の姿も見られた。
「改宗に抵抗したお坊さんたちだ。洛陽に連行されて、みな死罪になるそうだぞ」
「高徳の龍門大禅師さまも亡くなって……この世に仏はいないのか」
 人々が関わりを避けるように囁いていた。
 どうやら、この一帯では廃仏に対する反発が強く、官軍と抵抗する寺との間で衝突も起こっているらしい。
 史進は神も仏も信じないが、魯智深とは親友だし、おとなしそうな僧形の者たちが、口汚く罵られながら牛馬のごとく追い立てられたり、柵に押し込められているのを見るのは気分が悪かった。
(しかし、今はまず師父だ)
 また歩いていくと、僧侶が縛られて牽かれてくるのとすれ違った。負傷者が多く、武装した兵士に監視されていた。史進は道端によって、一行が通りすぎていくのを眺めた。百人くらいいるだろう。みな絶望した顔をしていた。歩きながら経文を唱えては、兵士たちに殴られている。
「おい、よせ!」
 史進は思わず兵をどなりつけた。
「なんだ、武芸者が坊主の味方をするのか」
「お前のツラを見たら無性に殴りたくなった」
 言うと同時に、史進は兵を殴り倒した。
 もう夕方が近く、人通りも絶えている。史進は棒を握り直し、手早く兵の数を数えた。騎馬の隊長が一人に、手下が百人ほど。数え終わる前には、半分を殴り倒した。ぎょっとした隊長が、僧たちを置き去りにして逃げていく。残った兵士たちもてんでに逃げた。
「さぁ、あんたたちも逃げろ」
 史進は短刀を抜き、坊さんたちの縄を切ってやった。ところが、僧侶たちは逃げるのではなく、逃げた隊長を追いかけていく。しかし、馬に追いつけるはずもない。それでも僧侶たちは駆け、転んでも、起き上がってなお駆けていく。
 史進にはわけが分からない。その時、ひとりの若い見習い僧が叫んだ。
「私の縄も解いてください!」
 その見習い僧だけ、両手をがんじがらめに縛られていた。
「あんたも追うのか?」
「いえ、追いつけない」
 史進が縄を切ってやると、見習い僧は倒れて呻いている兵を足で転がし、背負っていた弓矢をとった。そして、素早く構え、引き絞った。
(おっ)

 武芸十八般を修めた史進は、弓にも覚えがある。
(こいつ、できる)
 しかし、見習い僧は最後の最後で、動きを止め、道の彼方を見つめている。
 史進は見習い僧から弓矢を奪うと、さっと絞って、矢を放った。矢は風を切り裂いて飛び、駆け去る隊長の項を射た。隊長は鞍から転げ落ち、馬はそのまま駆け去っていく。僧侶たちが悲鳴をあげた。
「馬を逃がすな!!」
 史進は馬を射るのを躊躇した。
「僕が!」
 見習い僧が、史進の弓矢に手をかけた時、疾走する馬の進路にひとりの男が現れた。男は暴れ馬が眼前まで迫るのを待ち、鼻面に布をかぶせた。そして素早く轡を握ると、そのまま力任せに押さえ込む。よほど家畜の扱いに慣れているのだ。
 僧侶たちが馬に追いつき、鞍袋から何か錦の包みを取り出した。
「聖典『四十二章教』を取り返したぞ!」
 史進は見習い僧に弓矢を返した。
「なるほど、あれを取り返したかったのか」
 見習い僧は、安堵したように史進の顔を見上げている。年頃は、王進と出会った頃の史進と同じくらいだろう。弓の名手に多い澄んだ目をしていたが、その表情は、とりとめがない。
 史進は、馬を止めた男の方へ向かい直った。馬を牽いて、ぶらぶらとこちらへ歩いてくる。
「遅かったな、史進。待ちくたびれて、居眠りをしていたぜ」
「石秀」

 男は、梁山泊一の“命知らず”、石秀だった。
「あんたも、お節介を焼きに来たのか」
「たいくつなんでね。呉軍師からも、ちょっとした用事を頼まれている」
 石秀は笑った。
 僧侶たちは、聖典を取り返すと、史進たちの方へ振り返り、厳しい声で叫んだ。
「莫志よ、殺生戒を破ったな!」
 見習い僧の手から、弓矢が落ちた。
「ちがいます、射たのは僕ではありません」
「妄語すな。おまえは、破門だ!」



 白馬寺は洛陽郊外にあり、後漢の時代に仏教が伝来した時に建立された中国最古の寺である。二人の僧侶が白馬に乗り、教典『四十二章経』をもたらしたという。門前にはそれを記念した白馬の石像が、いまも据えられている。唐代の名僧、天竺より教典をもたらした玄奘三蔵も修行した名刹である。
 河南の各寺院は、道教への改宗をよしとせず、その抵抗の象徴となっているのが、この白馬寺であった。

 白馬寺は静謐に包まれていた。
 その伽藍は、すでに燃え落ちていたのである。
「門前には白馬の石像があると聞いていたが」
 史進は、門前に焼け残っているずんぐりとした白馬の石像を撫でた。
「あんがい、小さいな」
 史進は少林寺への道すがら、若い見習い僧──莫志とともに、白馬寺に立ち寄ったのである。そこはもう聖域ではく、戦場の跡地である。
 史進が助けた僧たちは、白馬寺の“生き残り”だったのだ。
 しかし、解放された僧たちは、喜ぶ様子も見せなかった。戻ってくると、落ちていた棒で、びしびしと莫志を叩いた。
「莫志よ、殺生を行なったそなたは破門だ。我々は禅師のご遺言通り、龍門石窟へ聖典を隠しに行く。法難が終わるまで、盧遮那仏が聖典をお守りくださるだろう。そなたは、いずこなりとも去るがよい」
 そして、取り返した錦の包みを抱え、僧たちは道なき荒野へと去っていったのである。隊長を射殺したのは俺だ──と、史進がいくら説明しても、聞き入れなかった。
 ひとり残された莫志は、焼け跡に向って手を合わせた。
「龍門禅師をお救いできず、戒律に背き、聖典を守れというご遺言まで……僕は、役立たずです」
「だったら、あの時、射ればよかったんだ」
「それは、できません」
「なぜ」
「僕は、小さな頃から弓が好きで、あまりにも鳥獣を殺したものだから、母親が畜生道に落ちると心配して寺に入れたのです。白馬寺の長老、龍門大禅師にも、殺生は厳しく禁じられておりました。大禅師はお優しい方で、歩く時にも地の虫を殺さぬよう、箒を手にするほどの御方でした。母や師の教えに背くことはできません」
「だが、その大禅師は殺されたんだろう」
 そう言うと、莫志の顔が別人のように険しくなった。
「禅師は廃仏には反対でしたが、あくまで平和的に解決なさろうとしていました。東京へ赴いて、自ら天子に廃仏の非を説こうと寺を出られたのです。このままでは、戦になると……。しかし、途中で捕らえられ、あくまでも改宗を拒んで刑死されました。まもなく寺にも兵が来て……」
「坊さんを殺すとは、宋の天子は地獄に落ちるな。取り返した包みはなんだ?」
「聖典『四十二章経』です。禅師は東京に赴くにあたり、なにかあれば聖典を龍門石窟に隠して、法難の去るのを待つようおっしゃられました」
 人望高い大禅師の殉難を知り、一帯の寺院ではますます反廃仏の機運が高まっているという。そのため、たびたび官軍が出動する騒ぎとなっているのだ──と莫志は教えた。
「わたしも、義勇軍に加わるつもりです」
「そんなものがあるのか」
「はい。官軍に攻められて寺を焼かれた僧たちが、続々と少林寺に集まっているという噂なんです」
「少林寺? いやな予感がするな」
 少林寺は武術で有名な寺だが、官軍との戦になればただではすまない。王進も、いれば必ず巻き込まれるだろう。
「おい、石秀、急ごう」
 史進は、離れて立っていた石秀に声をかけた。二人の後を、莫志が小犬のように追ってきた。
 石秀は肩ごしに振り返った。
「ついてくるな」

「えっ」
 莫志は上目づかいに石秀を見た。史進が二人の間に割って入った。
「すまんな、莫志。こいつは、子供が嫌いなんだ」
「僕は子供じゃありません」
「おまえの、目つきが気にいらねぇ」
「よせよ、石秀。大人げないぜ」
 石秀は返事もせず、隊長の馬を捕まえている。史進は笑って、莫志の肩に手をかけた。
「来いよ、坊主のひとり歩きは危ない。一緒に行こう」
 石秀は史進を一瞥すると、ひとりで先に立って歩き始めた。



 少林寺は嵩山に築かれた寺院である。
 ここに天竺から菩提達磨が渡来して、壁に面して座して九年。禅宗の始まりであった。また、修行の一環として武術の鍛練を行い、座禅と武術──その二点に於いて全国に名を知られた名刹なのだ。
 その山門は、厳重に僧兵によって守られていた。最近の法難で、寺を焼かれたり、弾圧された僧侶たちが、多く少林寺に逃げてきている。白馬寺が焼かれた後、その数はますます多くなっていた。
 いつもなら、武術鍛練の掛け声も勇ましい寺院内は、張りつめた緊張に覆われていた。そして、その日、夕刻。緊張はさらに高まった。“勅使”を名乗る女馬車が到着したのだ。
「勅使とは、あの、噂の──か」
 僧たちは、不安な顔を見合わせた。
 美しい侍女が厳重に封をされた名刺を渡すと、長老たちは顔色を変え、高弟たちを招集する鐘を鳴らした。
「近隣の寺にも、同様の密使が訪れていると聞くが……はたして、敵か、味方か?」
 鐘が、嵩山の峰々を揺るがしている。
 その鐘の音がやんだ時、大雄殿の本堂にて、“勅使”と、少林寺住持“黙和尚”が対面した。
“密使”は、寺には似つかわしくない美女だった。その携えて来た勅書を見て、修行を積んだ高僧たちも気色を変えた。勅書とは、天子が発する命令である。その文書には、大宋国皇帝の玉璽ではなく、大遼国──すなわら、宋国の北にある契丹人の皇帝の玉璽が押されてあったのである。
「噂は本当だったのだ!」
 勅使は慈愛に満ちた微笑をたたえ、僧侶たちを労った。
「わが大遼国の皇帝は仏教を信奉すること篤く、大臣、民もみな敬虔な仏教徒である。ゆえ、陛下は宋国の法難にいたく心をお痛めになり、聖典が焼かれ、僧尼が虐げられることを憂いておられる。僧尼が教典とともに我が国に到れば、必ずや厚く保護しようとの御意であるぞ」
 大雄殿に全山から高僧たちが集められていた。その上座に座り、美女は悠然と語った。その前には、床に置いた椅子輿に座したままの老僧の姿があった。“黙和尚”と呼ばれる少林寺を統べる大長老である。座禅三昧で、めったに人前に現れることはない。それが現れたのは、少林寺の危機であるからだ。

「廃仏に逆らう寺は、ことごとく官軍の討伐を受けておる。しかし、案ずるにはおよばぬ。かならずや我が遼国が助けようから、このままかたく山門を守っておいでなされ。遼国帝は、仏法が滅びることをなによりも案じておられる。宋と遼は同盟のあいだがら。宋国の天子を諫め、それでも聞かぬとあれば、我々が僧尼を守って遼国にお連れいたしましょう。ゆめゆめ、廃仏の悪法に屈してはなりませぬ。わらわは、そのことをお伝えに諸寺を回っておるのです」
 高弟たちは安堵した。契丹人が仏法を崇敬することは知られている。その後ろ盾があれば、十分に廃仏に抵抗できるはずだった。
 しかし、大長老の“黙和尚”は、ひとことも発しなかった。
 ひどく老齢に見えた。まとっているのは、ボロボロの衣が一枚だけ、灰色の布を頭からかぶり、身じろぎもせずに座っている。顔は見えず、痩せ衰えた体がわずかに覗いているだけだ。椅子輿の左右には、二人の高弟が脇侍仏のごとく付き添っていた。
「いかがした、“黙和尚”。すでに白馬寺は滅ぼされ、長安の大慈恩寺も改宗を拒んで、制圧された。その生き残りが、続々とこの寺に集まっているはず……よもや、その少林寺が、屈するわけではあるまいな? 峨眉山は滅び、普陀山、九華山は道教に宗旨替えした。このままでは、宋国の仏法は滅びるぞ。わらわは、善意で言っておるのじゃ」
 美女の背後に佇む猫児は、心の中で笑った。
 ボロ布からかいま見える“黙和尚”の腹は、骨がすけるほどに薄い。ゆっくりと呼吸するたび、灰色の肌がふるえた。
(少林寺の武術は有名だけど、この“黙和尚”は即身仏と変わらない。火をつければ、めらめらと燃え上がりそうね)
「なぜ答えぬ。異国の天子とはいえ、勅書を前にその態度は、不敬であろう」
 美女の叱責に、大師に付き添う弟子が言い訳した。
「“黙和尚”は苦行中でいらしたのです。山頂の岩屋で座禅と沈黙の行を続けて九年……」
「それは、ご立派なこと。そのような高徳の師が抵抗の先頭に立たれれば、必ずやこの大いなる禍は去るでありましょう。それでこそ、智真長老、龍門大禅師も浮かばれるというものじゃ」
 その時、“黙和尚”が顔をあげ、声を発した。
「そなたこそ、“大いなる禍”である」
 美女がはっとして身をこわばらせた。
「怨憎会苦──“羅刹女”よ、蘇ったな」
「きさま、なにもの!」
 侍女たちが主人を取り囲んだ。“黙和尚”が立ち上がった。足萎えではなかったのだ。
「その前に、そなたの名を、教えてやろう。慕容嫣輝、かつて貴妃の位にあり、皇后の位を奪わんと、時の王皇后を暗殺した。そうであろう」
「なぜそれを」
「この顔を忘れたか」
 さっとはらった衣の下から、爛々と光る目が女を睨み据えていた。

「金山大師!」
「いかにも。朝廷に仕えていた時、お前にも法話をしてやったことがあろう。道士の台頭とともに朝廷を去り、金山寺に戻ったのだ。十年前、凶報を聞いて東京に駆けつけた時、すでに王皇后の事件は闇に葬られ、母殺しの嫌疑をうけた帝姫は東京を追われていた。死期を悟った皇后より、救いを求める書簡をもらっていたのに、救えなかった」
「それで? わらわは貴様らを助けてやろうと言っているのじゃぞ」
「ならば、そなたの野心も教えてやろう。お前は童貫ら“四奸”と結託して天子を酒色に溺れさせ、政を乱した悪人である。さらに、兄の慕容彦達とともに青州で謀叛をたくらみ、天子の寵愛を失った。尼寺に幽閉されたはずが、逃げ出して、遼国へ走ったな。このたびは密使として廃仏への反抗をそそのかす──その目的はなにか。必ずや宋国に害をなすたくらみがあろう。今度こそ、調伏せん!」
「できるものなら、やってごらん」
 猫児を筆頭に侍女たちが襲いかかった。高弟たちが、進路をふさぐ。猫児は鴛鴦環を手にしていた。刺を打った小ぶりのものだ。襲うと見せて、金山大師に向けて放った。
 大師は動かず、腕を伸ばして、座椅子の二本の担ぎ棒を引き抜いた。
 それは六角に削った極太の棍棒であった。弟子たちが拝んだ。
「大師が“般若雷”をお取りになった!」
 大師が両手で棒をつかみ、大きく振るうと、鴛鴦環をはね飛ばし風が起こった。般若雷は共鳴し、その音は、まさしく万人を打ちすえる涅槃の雷鳴であった。
 打たれた鴛鴦環は天井近くまで跳んだ。猫児も飛んでそれを掴んだ。再び投げる。
 本堂に集まっていた僧侶たちが出口をふさぐ。それを侍女たちが剣を抜いて薙ぎ払った。その間に、慕容貴妃はほかの侍女に守られて窓から廊下へ逃げ出した。
 その頭上に、梁から人影か飛び下りてきた。
「今度こそ、逃がさぬぞ!」
 覆面の“刺客”は王銀樹である。続いて、彭尼と薛永が飛び下りた。彼らは寺に入り込み、梁づたいに本堂まで忍び込んだのだ。
 猫児が銀樹に襲いかかる。銀樹は仇を目の前にして、完全に我を忘れていた。がむしゃらに突っ込んでいく銀樹に、猫児は剣を抜いて斬りかかった。薛永が銀樹をかばい、彭尼に借りた刀で受けた。彭尼は侍女たちを相手に鉞を振るった。
 侍女たちは身を挺して慕容貴妃をかばい、瞬く間に本堂が血で染まった。いつの間にか慕容貴妃の姿は消えていた。
 金山大師が二人の高弟の名を呼んだ。
「随流! 天窮!」

 二人の高弟が本堂を抜け出した慕容貴妃を追う。どちらも壮年の、屈強な僧である。他の弟子が加わり、追った。が、本堂を出たところに貴妃が待ち構えてた。先頭をきって飛び出した随流が飛刀に倒れた。随流和尚は肩に飛刀を受けたまま、なお追ったが、五、六走って、膝を折った。
「猫児の毒は、よく効くこと」
 慕容貴妃は笑い、また逃げていく。数人の侍女が守り、すぐに銀樹たちをふりきって猫児も追いついてきた。
 天窮和尚は少林寺きっての達人である。
「随流よ!」
「われ、流れのままに逝かん。金山大師をお守りしてくれ」
 随流和尚はかっと血を吐き絶命した。そこへ、小坊主たちが駆けつけてきた。
「大雄殿のあちこちから、火が出ております!」
 天窮は金山大師のもとへ駆け戻った。
「境内に配下を潜ませていたに違いありません」
 金山大師は死せる随流に合掌すると、負傷者を助けさせて全員が建物の外に避難するように命じた。建物には火が回り、廊下にも黒煙が満ち始めていた。
「羅刹女め、我等を本堂に集め、焼き殺して、自分の秘密を守る気だな」
 金山大師は銀樹たちに目を向けた。
「そなたたちは、何者か」
 彭尼が覆面を取り、合掌して答えた。
「話は後で……我々も、あの女を敵とするもの」
 僧たちは金山大師を守り、燃え上がる大雄殿から脱出しようとした。しかし、どの扉も厳重に外から鍵がかけられていた。
「扉が開きません!」
 背後もすでに火の海が迫っている。
 金山大師と数十人の僧たちは、業火の中に取り残された。しかし、いちばん幼い小坊主まで、泣きだすものはいなかった。
 金山大師は座禅した。
 経文の声が、熱風の中に響いた。激しくもなく、勇ましくもなく、淡々と、それでいて全身に共鳴する声である。
 般若波羅蜜多──動じるなかれ。
 天窮が続き、弟子たちもひとりふたりと座禅を組み、燃え上がる扉に対座した。
 寿自在、心自在、財自在、業自在、生自在、勝解自在、願自在。
 銀樹はふるえて、ぎゅっと薛永の腕にしがみついた。
「わたしは、死ぬのか?」
「大丈夫です」
 彭尼は逃げ道を探している。しかし、どこにも抜け道はない。銀樹は、暑そうに覆面をとった。
「苦しい……」
 薛永はせめて降りかかる火の粉と熱風から守ってやろうと、銀樹を懐に抱いてかばった。どこかで、犬が鳴いていた。顔をあげると、風が、回廊の破風から抜けていく。
「そうだ、梁に登って、屋根まで出たら逃げられるかもしれない。僕の肩に乗って……誰か、この子だけでも助けてください」
 その声に、金山大師が振り返り、はっと目を見開いた。
 そして、やおら立ち上がると、般若雷をとって燃え上がる扉に向った。
 しかし、しょせんは棍棒である。般若雷は鳴り響いたが、扉はびくともしなかった。
 が、扉の向こうで、かすかに太白の鳴き声がした。
 そして、衝撃とともに扉が多く揺れたと思うと、外側から大破した。
「ここか!」

 境内の鐘楼にさがっていた撞木で扉を破り、飛び込んできたのは史進、そして石秀だった。



 薛永は銀樹を守り、炎上する大雄殿から脱出した。
 地面には何人かの青衣の侍女が倒れていたが、その中に慕容貴妃と猫児の姿はなかった。
「史進さん、いいところに」
 石秀が薛永に声をかけた。
「よう、薛永」
「石秀さんまで」
 彼らは手に入れた隊長の馬のほかもにも、通りがかりの役人の馬を奪って、ここまで駆けつけて来たのである。大雄殿の外で見張っていた時遷の姿もあった。
「史進はんを見つけたんで、こっちや言うて案内したんや。あぶなかったわぁ」
 史進は少林寺の僧をつかまえて、王進の行方を尋ねた。
「棒が使える、すごい武芸者がいるだろう。どこにいる」
「少林寺僧は、みな棒を使います」
「その中でも達人だ。来歴不明の、ものすごい使い手がいると聞いたぞ」
「そう言われましても」
 史進は別の僧に尋ねたが、やはり要領を得ない。それでも諦めず、史進は手当たり次第に尋ねて回った。
 金山大師は、銀樹の前へ進み出ると、深々と頭をたれた。
「皇室に嫁がれた頃の、母上様にうりふたつ。よくぞ、ご無事で」
 金山大師は彭尼に尋ねた。
「そなたが孤女峰の“坎虎彭尼”か。会うのは初めてだな。よく今まで帝姫を守ってくれた。孤女峰の“風の九尼”は息災か」
 冷静な彭尼の顔に、珍しく感慨深い表情が現れた。
「少林寺の“黙和尚”が金山大師とは存じあげず、ご無礼を。孤女峰の九人の老尼は、この十年に次々亡くなり、残るは三尼。いずれもご高齢のため、下働きの私めが、帝姫を護って峨眉山にお連れいたしました」
 彭尼は続けた。
「十五で得度させ尼とせよ──との天子のご意向。そこで孤女峰を下り、蛾眉山の本寺に入りましたところ、“あの女”が遼国の密使としてやって来たのです」
 銀樹は事情を呑み込むと、金山大師の前に進み出た。
「お母様のお導きです、大師様」
 金山大師のことは、ぼんやりと覚えていた。不吉な預言をしたのも、この僧なのだ。しかし、銀樹はそのことには触れなかった。
「わたくしが、必ずお母様の仇をとります」
 金山大師は、孫娘に再会したように目を細めた。
「お苦しみのなかで、強く、賢くお育ちになった。愚僧は安堵いたしましたぞ」
 彭尼以外の、その場にいた誰もが銀樹を見ていた。顔は煤け、髪も焦げてぼさぼさだ。顔だちこそ美しいが、とても高貴な身分には見えない。
 金山大師は銀樹の肩に手を置き、人々に告げた。

「この御方は、天子の第二皇女、“栄徳帝姫”趙金奴様である。前の皇后、王氏のひとり娘にして、皇太子の妹君。ながく峨眉山の尼寺に預けられておられたのだ」
 いちばん驚いたのは、薛永だった。育ちがいいとは思ったが、まさか帝姫とまでは思わなかった。神妙な顔で立っている銀樹は、まる知らない少女のようだ。
 薛永はなぜか寂しいような気がして、史進たちのところへ行った。
「王進教頭は見つかりましたか」
「いや、いないんだ」
 薛永は莫志のことを尋ねた。
「この子は?」
「白馬寺の見習い僧だ。破門されたばかりだが」
 莫志は薛永に丁寧におじぎした。
「二度と弓矢をとってはならぬという、母との約束も破ってしまいました。これから、どうすればいいでしょう」
「気にするな、どうにでもなるさ」
 史進が慰めてやると、莫志は憧れの目で史進を見上げた。
「本当は僕、史進さんのように、もっと弓がうまくなりたいんです。僕は、故郷ではいちばんうまかったけれど、史進さんの弓は天下一だ」
「よせよ。俺よりうまい男なんぞ、この世にはごまんといるぜ」
「嘘でしょう」
「飛んでいる雁の目を射る、百歩離れて柳の葉を射抜く……そんな“天下無双の弓の名手”も知っているぜ」
「そんな方がいるのですか?」
「梁山泊の“小李広”花栄」
「梁山泊の、“小李広”花栄」
 梁山泊の名を出した史進を、薛永が慌てて遮った。
 莫志は、もう一度その名を呟いた。

「梁山泊の……“小李広”花栄」

  鐘楼の鐘が打ち鳴らされた。雷のような連打である。
 かつて唐の時代の廃仏以来、鳴らされたことのない、危急を告げる大警鐘であった。
 続々と僧たちが集まってくる。嵩山の各所にある大小の寺院の僧たちである。寺男、小僧も混じっている。近隣の寺から逃げてきた各派の僧尼の姿もあった。
 僧侶たちは僧侶の位ごとに金山大師のまわりに集まり、今後のことを協議した。その中に、体格のよい、いかにも屈強な僧兵たちの一団がいる。手には棍棒を持っていた。有名な少林寺の武術僧が、金山大師を守るべく鉄壁を築いているのだ。
 史進は武術僧たちに歩み寄ると、王進のことを尋ねて回った。
「王進という棒の達人を知らないか。王進とは名乗っていないかもしれないが」
「存じあげぬが、ご法名は?」
「知らん」
「それでは、お答えのしようがござらぬ」
 史進は懸命に探したが、集まってきた僧の中に王進の姿はなかった。金山大師に尋ねようと、史進は大雄殿の前へ戻った。そこでは、金山大師が莫志が白馬寺の生き残りと知り、そば近くに呼び寄せていた。
「龍門禅師は遷化され、寺は焼かれたと聞いた。聖典『四十二章経』は、失われたか」
「いえ。ご遺言で、法難が去るまで、龍門石窟に隠せと」
「さすが、龍門大禅師。わが国に伝わった最初の教典、『四十二章経』があれば、必ずや仏法は護られる」
 金山大師は黒檀の数珠をたぐって合掌した。無骨な手には、不釣り合いな繊細なものである。
「大禅師は、東京へ直訴に行かれる途中で捕らえられたのだな。その前に、女が来たな」
「はい。“勅使”と名乗り、大禅師だけがお会いになりました」
「話を聞いたか?」
「いえ。大禅師は勅使を帰したあと、しばらく一人で悩んでおいででした。そして、“このままでは戦になる、宋国が滅びる”と、ひどくお苦しみの有り様で、東京へ向かわれたのです。我々は、そのご様子を不思議に思っていたのですが……」
「理由は簡単。その女は、遼国帝の勅使だったのだ。反廃仏を支援するので、官軍に抵抗せよと伝えて回っている。多くの寺が、それを信じて官軍に抵抗している。しかし、禅師は、その先を憂えられたのだ。寺と国が争えば、戦になる。犠牲がでないわけにはいかぬ。それに……」
「遼国が、善意で助けるとも思えないな」
 史進が言うと、金山大師が初めて彼らに目を向けた。
「いかにも。これは遼国の罠であろう。法難の混乱に乗じ、宋国の領土を奪う奸計なのだ」
「しかし、この状態では、少林寺は官軍と戦わざるを得ない」
「そなたらは?」
「旅のお節介さ。人を探して少林寺を訪ねる途中、このお姫様に雇われたんだ。まだ一文ももらっていないが」
「探し人は?」
「王進」
「聞いたことのない名だ」
「どうやら、ここにはいないらしいな」
「では、早々に立ち去るがよい。この山は、間もなく戦場となる」
 金山大師は般若雷を杖に立っている。眼光は並々ならぬ鋭さだが、苦行者の体は貧相だ。史進は僧兵たちを見回したが、いずれもいかにも篤実な顔である。
 莫志は少林寺には“義勇軍”があると言っていたが、とてもそんなふうには見えなかった。
「志は立派だが、虫も殺せない出家が戦えるのか? 」
「出家には、出家の戦いがある」
「そうかい、それなら安心してお暇しよう。俺も、暇じゃないんでね」
 踵を返した史進の腹が、派手に鳴った。昨日は何も食べずに祠を飛び出し、馬で駆け通しに駆けてきたのだ。
 金山大師は役僧を呼んだ。
「庫裏は無事か。みなにふるまえ」
 役僧たちは庫裏に走ると、鍋や釜ごと料理を運んできた。
「ちょうど夕餉の支度をしていたところでございました」
 火の粉が舞い、焦げ臭い風が吹きすさぶ境内で、急作りの野宴となった。釜にはいっぱいの飯が炊けており、鍋には野菜、豆腐、蒟蒻、茸をふんだんに使った精進料理が満ちている。僧侶たちは譲り合いながら食べ、史進たちも遠慮なく食べた。
 薛永は、銀樹に碗を渡してやった。銀樹は薛永の隣に座り、史進たちといっしょに釜から飯をすくって食べた。時遷がどこからか酒も少々、調達してきた。
 史進は彭尼に酒瓶の杓を渡してやった。
「肩の荷が下りたって顔だ」
「ええ」
「いったい、どこに隠しておいたんだ? あの世間知らずは、普通じゃない」
「はじめは洛陽郊外の尼寺に送られるはずだったけれど、金山大師が身を案じて、蛾眉山の尼寺に移したの。孤女峰と呼ばれる、絶壁の上の小さな庵よ。そこに、天涯孤独の武術尼──“風の九尼”が呼び集められ、密かに守り育てたの」
「なるほどな。あの武芸は、蛾眉山仕込みか」
「蛾眉派の普賢尼は“変成男子”……男と同じよ。“風の九尼”たちは姫を不憫がって、みなで立派な尼にしようと薫陶したの」
「あんたも“変成男子”なのか」
 彭尼はちらりと史進を見ると、軽く笑って、紅の唇を酒杯へ運んだ。
「どうやって、仇を見つけた?」
「“勅使”は、蛾眉山にもやって来たわ。抵抗を支援するから、廃仏に屈するなと告げにね。長老たちは、その言葉を信じた。そして、勅使が帰る時、その姿を見た下働きの尼が……その尼は、全身傷だらけで“砕尼”と呼ばれていたわ。心にも、深い傷を負っていた。その“砕尼”が、狂ったように泣きだしたの。“砕尼”は、ある寺の生き残りだった。そこには一人の高貴な女が幽閉されていて、ある夜、謎の一団に襲われた。女を奪われ、尼たちは全滅……“砕尼”だけが生き残って、蛾眉山へ逃れてきたのよ」
「その幽閉されていた女が、慕容貴妃だったのか」
「でも、それを“砕尼”から聞き出した時には、もう勅使は山を下りていた」
「それで、二人で追ってきたのか」
「話を聞くなり、帝姫様が飛び出してしまったものだから」
「蛾眉山はどうなった」
「その後、官軍に攻められたと聞いた。蛾眉山の普賢尼たちは武術に秀で、簡単に負けるはずはないのに……寺の井戸に毒が入れられたという噂もある」
「正体を知られたと思った慕容貴妃が、手を打ったんだな」
 彭尼は酒を飲み干し、ほっと息をついた。
「私は、俗世が煩わしくて出家したの。帝姫を金山大師にお返ししたら、今度こそ、ひっそりと暮らしたい」
「そいつが、なかなか難しいのさ」
 そうね──と呟き、彭尼は使い慣れた鉞の刃を指でなぞった。たくさんの傷が刻まれていた。
「これから、どうなるのかしら」
「さてな。宋の天子に、遼国が陰謀をめぐらしているから、廃仏はやめろ……と言って、聞くだろうか」
「無理でしょうね。信じさせるには、“あの女”を捕らえるしかない」
 二人は酒の入った碗をあげ、乾杯した。
「金山大師も、同じ考えかもしれないな。しかし、相手は千年の女狐だ。出家が相手にするには、分が悪いぜ」
 史進は金山大師に目をやって、思わず、その食べっぷりに目を見張った。
 湯気の立つ大釜を胡座の上に抱きかかえ、杓子で飯を片づけていく。付き添う天窮和尚が、飯に料理を乗せるとそれも平らげていく。驚くべきはその量ではなく、食べるほどに腹がふくらみ、肌もつやつやと輝いて、全身が精気に満ち、まるで別人のように変化していくことだった。
 ついに、大師は箸を置いた。
「袈裟を!」
 僧たちが石櫃に入れられた袈裟を運んできた。座禅していた岩屋に修められていたものだ。黄金の袈裟をつけ、手に般若雷をとって立ち上がった金山大師は、見違えるような壮健な巨漢であった。史進は感心した。
「即身仏じゃなかったようだな」

 そばにいた僧が、大師を拝みながら教えた。
「大師は座禅行のあいだにも、たゆまず瑜伽行を行なっていたのです」
 瑜伽行とは、天竺から伝わった修行法である。逆立ちや片手立ち、または頭で立つなど、超人的な姿勢を保持して肉体を鍛練しつつ、瞑想を行なうのである。
「なるほど、ではあとは大師にお任せして、俺たちはお暇しよう」
 銀樹が顔色を変え、薛永の袖を掴んだ。
「みな、どこへ行くのだ」
 史進が答えた。

「あんたの仇討ちを手伝うと約束しただろう。あの女を探し出し、化けの皮をはがしてやる!」
 史進は山門へ向って駆けだした。石秀、薛永、時遷が続く。銀樹の瞳が輝いた。
「好漢はうそをつかない!」
 銀樹は駆けだそうした。その腕を、彭尼が掴んだ。
 山門を出る前に、史進たちの足も止まった。黄昏の山道を、大勢の人間が登ってくる。何千人もいるだろう。ほとんどが、僧侶か尼だ。仏像や法具を担いだ信徒たちもいる。
「あれは?」
 すぐに天窮和尚と時遷が調べに行った。
「四川、陜西、河南、山西の諸寺から逃げて来た者たちでございます。廃仏に抵抗する寺を官軍が次々に襲い、なお抵抗しようとする者たちが、この少林寺を最後の砦と目指しているのです」
 山門が開かれ、難民たちが続々と少林寺に逃げ込んできた。
「大師、あれを!」
 仏塔の上で見張りに立っていた僧兵が叫んだ。
 すでに下界はほの暗い。その海の底のような闇の中を、いく筋もの松明の光が、この少林寺に向って進んでいる。小川が集まり、大河となるように、炎の河は次第に太く合流し、やがて、嵩山の麓を包囲した。偵察に行った時遷が慌てふためいて戻ってきた。
「官軍や、官軍! ぎょうさんいるで!」
 粛々と少林寺を取り囲んだのは、洛陽の旗を掲げた大軍だった。
「朝廷の命令に逆らう少林寺を討伐せよ!」
 鯨波が嵩山の峰々に轟いた。



※文中の「楊セン」は、正しくは楊センです。
※文中の「坎虎彭尼」は、正しくは【u780d】虎彭尼です。             




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