水滸伝絵巻-graphies-

第百三十二回
星の章〜水のほとりの物語(四)黄昏が世界を照らす・後篇

 夜明け、気温が下がり、濃い靄が出た。
 靄は川となって地表を覆い、日が差すと、溶けるように消えていった。
 そのあとには、いつもの川岸の風景が、なにごともなかった顔で現れる。
 ただ──いま、目覚めた船人が手に取った菅笠に、うっすらと朝露の名残があるだけだ。
「──あっけないな」
 裴宣はひとりごちた。
 こんな早朝に、ざわめく郊外の船着場に立っていても、その身なりは最も厳めしい役所から出てきたばかりのように整っている。一本のほつれ髪もなく、衣服にも一筋も皺もない。しかし、すでに彼は役人の冠とも、官服とも無縁であった。
 官位を返し、庶民になったのだ。

 開封城から流れ出る五丈河のほとり──大小の船が行き交う河にかかった橋のたもとに、裴宣は暫く立っていた。
 その目は、遠ざかる船の後ろ姿を、追うでもなく、眺めている。
 船尾にいるのは、宋江と、弟の宋清だ。彼らは、故郷に帰るのだ。
 見送ったのは、裴宣ひとりだ。
 呉用も去り、花栄もすでに家族を連れて応天府へ赴任していった。官に就く者も、それを望まず庶民に戻った者も、それぞれの道へと散った。
 それを見届け、宋江も宋清とともに運城県へ発ったのである。
 故郷に老父と妻子をもつ宋清は、辞令を返上し、許可された。宋江は老父を見舞ってから、任地の楚州へ赴くという。
 彼らの船は、野菜や家畜を満載して城内の市場へ向かう船の群れに紛れ、もう見えない。
「あっけない」
 裴宣はもう一度、呟いた。梁山泊の主であった宋江を見送るのが自分ひとり──というのは、あまりに寂しいではないか。
 もっとも、それは宋江が望んだことだ。
 宋江の心が、裴宣にはよく分かっている。
 そして、裴宣もまた、それを見届けるのが自分の務めだと信じている。
 誰が、いつ、どこへ去ったか。それを記し──それが、梁山泊軍政司“鉄面孔目”裴宣の最後の仕事だ。

 川べりの風は冷たい。
 裴宣は城内に戻った。城門をくぐると、もう風の冷たさは感じなかった。高楼が風を遮り、朝飯を売る店からは、濛々と熱い湯気が吹き出している。
 人込みを抜け、裴宣は馬行街まで行って、小さな料理屋に入った。
 ここで楊林と落ち合うことになっていた。
 奥の卓で、楊林が入り口の方を向いて朝飯の麺をたぐっていた。窓枠には相棒の小烏龍がとまり、肩に手拭いをかけた給仕が鳴きまねをしてからかうのを、そしらぬ顔して羽を繕っている。
 裴宣は給仕に定食を頼むと、帳面を開いて筆を取った。
「いくつか変更があったので、書いておかねば」
「きちょうめんですな」
 もう“梁山泊”はないのに──とは、楊林も口に出さなかった。
 かつて、一人また一人と梁山泊に集まったように、今また、一人また一人と去っていく。“梁山泊”の物語は終わり、これからは、皆それぞれの旅──それぞれの“話”が始まる。それを知ることはできない。寂しいが、しかたがない。すべての物語を、目撃し、記録することは不可能なのだ。
 楊林は、最後の麺を勢いよく啜り込んだ。
「これから、どうしますかなぁ。講談をしながら旅をするか、どこかに落ち着いて、のんびりと本を書くか……“鉄面”、どうです、ご一緒に」
 裴宣は姿勢を正したまま、運ばれてきた定食を手際よく片づけていく。
「ありがとう。しかし、まだ行かねばならぬ所がある」
「どちらへ」
「呼延家です」
 食事を終えた裴宣は、楊林のぶんまで支払いを済ませ、料理屋を出ていった。
「こいつは……なんと」
 講談師の目が輝いたが、楊林はあわてて頭を振った。
「よせよせ、友人を講談の“ネタ”にするなど……しかし、気になる」

 呼延家の屋敷は、東京城内の閑静な一角にある。
 門には、喪中を示す白い挽聯が貼られている。顔見知りの門番の案内で奥に通ると、いつものように、階で呼延剣娘が出迎えた。
「ご足労、おそれいります」

 礼儀正しく挨拶して、剣娘は裴宣を応接の間に坐らせた。すぐに、彭己の娘で屋敷に寄宿している萌児が茶菓を運んできた。
「どうぞ」
 萌児は茶菓を並べると、頭を下げて出て行った。
 屋敷は森閑として、初冬という季節のためばかりでなく、寒々としていた。
 裴宣は、持参した紙挟みから書類の束を取り出すと、剣娘の前に置いた。
 戦死した威児の埋葬も終わり、各方面への届け出や、葬儀屋や墓の地代の支払い、養子となった小魚の登記も済んだ。それらの書類一式だった。
 当主の呼延灼は、すでに御営に入って軍務に忙殺されている。いかに剣娘がしっかり者でも、そういう外向きの仕事には、やはり男手が必要だった。
 剣娘は書類を受け取り、丁寧に礼を述べた。
 書類を揃え、文箱にしまい、蓋をした。挙措には少しの乱れもなかった。

 弟の戦死を聞いた時も、剣娘は気丈だった。
 裴宣の詫びを遮り、却って労りの言葉を口にした。その態度は、さすが“軍神”呼延灼の長女と──と思わせたが、いざ葬儀の手配が始まると、剣娘らしくない小さな手抜かりがいくつかあった。
 裴宣は、さりげなく手を貸した。
 そして、納棺が終わった真夜中、柩に寄り添い、ひとり静かに涙を流す剣娘を見た。
 裴宣は声をかけず、立ち去った。
 剣娘が、そうしてほしいだろうと、思ったからだ。

「──おかげさまで、すべて、つつがなく終えることができました」
 剣娘の声は、秋の湖のように静かだった。
「裴宣様には、お手数をおかけいたしました。本当に助かりました」
 家のなかは殺風景で、がらんとしていた。
 もともと呼延灼の人柄のまま、飾りけのない屋敷だった。
 それでも、剣娘が季節の花や、こまごまとした飾りものなどを置いていたものだ。
 そういうものが、なくなっていた。
 剣娘も、いつにもまして色味のない簡素な衣装だった。
「──妹たちが」
 寂しい空気を払うように、剣娘が口を開いた。
 聞煥章に預けられた双子の妹たちは、威児の葬儀には遠路のため来ることができなかった。
「聞様から、どちらかを夫人にと言っていただいておりましたの。喪中ですので、いまは保留になっておりますけれど」
「それは、よい話です。彼の人物は確かですから」
「わたくしも、そう思っております」
「しかし、寂しくなりますな」
 剣娘は、寂しいような嬉しいような、不思議な笑みをかすかに浮かべた。
「それが、忙しくて……寂しがっている暇もありません」
 剣娘は、梁山泊が長い戦に出ている間も、ずっと残された家族たちの面倒を見ていた。韓滔の老父母を見取ったのをはじめ、戦死した兵の妻たちの落ち着く先を探したり、孤児たちには仕事や寄宿先を見つけてやった──と、裴宣も人づてに聞いていた。
「あとまだ、彭将軍の娘たちを嫁がせる大仕事が残っておりますの。滅多な家にはやれませんから、しっかりと選ばなければ……六人もおりますし」
 そう言っておくれ毛をかきあげた剣娘の指が、以前よりずっと細くなっていることを、裴宣は見逃さなかった。
 小魚が、心配そうに言っていたのを思い出した。
『剣娘お嬢さん……いや、姉上は、俺に食べさせるばかりで、自分はちっとも食べない』
 剣娘は冷めた茶を淹れかえるため、席を立った。
「それは、たいへんな仕事です」
 剣娘の華奢な背中へ、裴宣は、あくまで礼儀正しく申し出た。
「私も、お手伝いしましょう」

 枢密院の奥の小部屋から、紙の上を走る筆の音が聞こえていた。
 紙を擦る筆の穂音は、苛立った力を帯びて、せわしなく小部屋に響く。
 筆を取っているのは、童貫の腹心──王稟だった。
「よし、できた」
 彼は武人で、文章は得意ではなかったが、無心で筆を動かし、一気にそれを書き上げた。
 阮小七の謀叛の罪を弾劾する上奏文である。
 王稟は、梁山泊軍、特に阮小七という男の存在を腹にすえかねていた。
 方臘討伐では随分と働いたつもりである。烏竜嶺では、賊将・景徳を討ち取った。しかし、童貫には、飼い犬が兎を取ってきた程度にも評価されず、手柄は後から来た者にさらわれた。同僚の趙譚は手柄争いから脱落したが、方聖宮で略奪した財貨で金持ちになり、豪華な邸宅を買ったらしい。
 王稟だけが、割りを食ったのだ。
(あいつのせいだ)
 阮小七とかいう山賊あがりが、方臘の格好をして惑わした。あそこで無駄な足止めを食らわなければ、彼が方臘を捕らえていたはずなのだ。
 そうでなくとも、梁山泊は、たびたび彼を侮辱し、愚弄し、嘲笑した。
(あいつが方臘の龍服を身につけ、天子になりすましたのは大逆罪だ。方臘になりかわろうとする野心があるのだ。訴えてやる)
 その上で“反逆者”を捕らえれば、溜飲も下がるし、手柄にもなる。
「“阮某が任官した蓋天軍は僻遠の地で、民は野蛮。容易に謀叛に加担して、国家を危うくするのは火を見るより明らかである。速やかに官位を剥奪し、獄に下すべし──”と。よし」
 王稟は意気揚々と、弾劾文をまず童貫のところへ持っていった。自分から天子に奏上することはできないから、童貫から申し上げてもらうつもりだ。
(梁山泊は、閣下にとっても目の中の針。きっと喜んでいただけるだろう)
 しかし、弾劾文に目を通した童貫は、煩わしそうに秘書に回した。秘書は何か別の書類をめくってから、王稟に冷やかに告げた。
「その者は、もうおりません」
「なんと?」
「その、阮小七という男は、確かに蓋天軍の都統制に任命されましたが、自ら辞令を返上し、故郷で庶民となりました」
 秘書は笑った。
「今は、石碣村とかいう寒村の、漁師ですな」
 王稟は弾劾文を手に立ち尽くした。
 秘書は、梁山泊軍の名簿を王稟に見せた。名前の上に、何本も除籍の線が引かれていた。
「ほかにも大勢おります。梁山泊の者共には、官位など塵芥同然らしい」
 童貫は、追い払うように手を振った。
「行け。わしは金国との折衝で忙しい」
 遼国への出兵を催促する使者が会見を待っている。
 目障りな“梁山泊”を東京から追い払っても、童貫には気の休まる暇もないのだ。

「のんびりとした旅は、いいものですなぁ。旦那様」
 杜興は手綱を取っている。
 見上げれば、初冬の空が澄んでいた。
 浮雲が、ひとつ、ふたつと流れていく。
「今日は暖かくて、まことにようございました」
 杜興の心も、あの雲のように軽かった。
 馬上の李応も機嫌がいい。その隣には、柴進も悠然と駒を進めている。
 一行の後ろには、東京などで買い求めた土産の品を積んだ驢馬が続いていた。
 いかにも“お大尽”の一行に同行するのは、戴宗である。いずれも、辞令を返上し、山東へ向かう道連れだ。
 李応は杜興とともに李家荘の家族のもとへ、柴進は滄州の代々の領地へ帰る。彼らの土地は落草の時に没収されたが、招安を受けた後に朝廷より返還された。帰れば、以前通りの暮らしが待っているだろう。
 李応は流れ行く雲を見送りながら、柴進に声をかけた。
「──柴大官人は、お役目をお断りになったそうですな」
「行軍の疲れか、たびたび風疾の発作が起こるのですよ」
「奇遇ですな。わしも、どうも体がすぐれませんでな。とても難しいお役目は務まらぬ」
「それはいけませんな。よくよく養生なされよ」
「あなたも」
 二人は馬に揺られながら、鷹揚に互いを労った。
 彼らは元より官職を受ける気はなかったし、王稟が阮小七を弾劾しようとした──という噂も聞いている。柴進も方臘の女婿となった身であり、いつ禍が降りかからぬとも限らない。
 李応は戴宗に目を向けた。
 戴宗は江州には戻らず、泰山で道士になる心づもりだという。
「あなたは元から“神行太保”と呼ばれる術者だが、本当に出家するとは思わなかった」
「待っている女もいないものでね」
 いつものように自嘲ぎみに言いながら、戴宗は芒で驢馬を追っている。
「辞令が出た夜なんだがね、夢に泰山府君が現れて、出家しろと厳しいおおせだ。逆らえん」
 柴進は、戴宗の横顔を窺っている。
「その夜、呉用先生に呼ばれていなかったかね?」
「俺が?」
 戴宗は、眉をひそめた。
「どうだったかな……なにかと忙しくて、よく覚えていないが」
「そうか」
 柴進は、それ以上、追及しなかった。
 彼方に、巨大な山塊が見えて来ていた。
「──泰山だ」
 五岳の中でも、もっとも高貴かつ神聖な山である。天子が即位を天に告げるために登り、山神である泰山府君は人の生死を司る。巨大な岩山がどこまでも続く様は、まさにこの世の奇観であった。
 麓にある岱廟で行われた奉納相撲では、燕青が力士・任原を投げ飛ばした。
 その時と同じ泰山の空を、今、戴宗は、複雑な思いで見上げた。
 この山を越えれば──懐かしい“山東”だ。
 泰山の麓で、戴宗は李応たちと別れた。
 そして、ひとり、参詣客や道士に混じって、つづら折りの岩山の間の道を昇っていった。
 登るほどに視界が開け、空が大きくなっていく。
 はるかまで見通せる空、そびえる雄大な山。それに負けぬほどの巨大な雲が、谷間から生まれては、どこまでも流れていく。

「世界は──広いな」
 戴宗は岩に立ち、思い切り風を吸い込んだ。
 どんなに泰山が高くても、梁山泊までは見えない。
(呉先生、俺はもう、“銀の壺”を持っちゃいない)
 戴宗は、柴進の目ざとさに驚いた。呉用に呼ばれたのは本当だ。ちょっと頼みごとがあるから──と。
(“智多星”呉用の頼みごとが、“ちょっと”なわけねぇだろう)
 戴宗が都統制に任命されたエン州は山東にあり、梁山泊にほど近い。軍職についた他の誰より、梁山泊に近かった。
 だから、呉用は、他の者には秘密にしている“計画”を戴宗だけに打ち明けた。いや、他には花栄だけが知っているという。
(冗談じゃねぇ)
 李俊も、呉用も、気軽に戴宗を巻き込んでくる。
 だから、戴宗は呉用が東京を離れた後、“夢の御告げ”と苦しい言い訳をして、急いで辞令を返上した。
(俺は、もう自由だ。自分が望めば、あの雲の彼方まで走っていける)
 どこへでも──どこまでも。
 戴宗は、懐の中にしまっていた“呉用の餞別”を取り出した。最後に別れる時、呉用が渡してきた紙だ。
『エン州に行くのなら、泰山に寄るでしょう。この願文を、私の代わりに泰山府君に奉納してくれませんか』
(──とか、言っていたが)
 本来なら廟に香華を捧げて代読すべきだが、そのへんの祠に投げ入れておけばいい。そう思ったが、戴宗は躊躇した。
(一応、目を通しておくか)
 呉用の“お願い”は断るが、これくらいは代行してやってもいいだろう。
 願文を開き、そして、戴宗は後悔した。
 呉用の端正な文字で書かれた宛て名が、『泰山府君』ではなく、『神行太保 戴宗殿』になっていたからだ。

 それぞれの旅路が続く。
 李応と柴進も泰山の麓で別れ、杜興とともに李家荘へ向かった。
 久しぶりに見る“我が家”は、なにひとつ変わっていないように見えた。田畑は生前と広がり、屋敷にはきちんと手入れがされている。杜興が選んだ家管代理が、きちんとやっている証拠だ。杜興も顔をほころばせた。
「おお、旦那様、門前に」
 道の彼方にそびえる門、その前に賑やかな人影がある。
「お帰りよ!」
「ご無事でよかったこと!」
「ほら、坊や!」
「ごらん、お父様がお土産をたくさん持って!」
 四人の夫人が、幼い跡取りの息子を中心に、嬉しげに手を振っていた。
「杜興よ……」
 李応は一瞬、難しい顔をしたが、そのまま、門へと馬を進めていった。

 柴進も、ほどなく滄州に到着した。
 久しぶりに帰った屋敷は、以前通りに整えられていた。執事や家僕、小作人たちも戻って来ていて、門前に勢ぞろいして主人の帰還を出迎えた。
 ただひとつ違うことは、庭園の奥まった場所に、新しい離れが建てられていることである。高い壁に囲まれた一角に花園と林があり、その奥に美しい建物がひっそりとある。出入りの門は柴進の館に通じるひとつだけで、屋敷に出入りするものから、絶対に目につかぬ場所だった。
 柴進は奥に通り、人々の挨拶を受けると、やがて人払いして、庭園の小さな門をくぐった。
 彼は官に着くことを望まなかった。それどころか、それは、絶対に避けなければならないことであった。
 竹林と、いまは華を落とした金木犀に囲まれた離れは、柴進が密かに建てさせたものだ。扉を開けると、青い服の年若い侍女が出迎えた。微笑みながらも、涙で瞳を潤ませているのは──“星の宮”の銀泉だった。
「──あちらに」
 部屋の奥に、金芝公主が立っていた。大きな窓を背景に、髪を結い、金色の絹の衣装に身を包んだ公主は、仙女のように美しかった。

 柴進と公主は言葉もなく見つめ合い、やがて静かに歩み寄って、かたく抱き合った。
「私は──知ったわ」
“最後のひとりになった時、お前はそれを知るであろう”
 かつて、公主は自分でそう予言した。
 今、自分がその方一族の“最後のひとり”だ。
「人は……誰でも、何があっても、幸せになれる」
 公主は、絹の手巾で涙をぬぐった。
 そこには、一羽の蝶が刺繍されていた。薄い羽は、空の青が透けているかのようにはかない。
“金芝公主”方零蝶。彼女は、広い虚空を、ただ一匹で漂う蝶だった。
 どちらの名も、もう必要ないものだ。
「“白鶺鴒”」
 柴進は公主の名を呼び、その体を袖に包んだ。
「そうとも。我々は、ともに、いつまでも静かに暮らそう」
 政治にも、軍事にも関わりなく。力も富も求めず──平穏に。
(この世に、周世宗・柴栄と、方聖公・方臘の血を引く子供がいる──など、誰にも知られてはならぬ)
 この幸福こそが、帝位より、百万の富より、貴重なものだ。
 この手と手が、確かに結ばれている事だけが。

 花嫁の駕籠が、門を出ていく。
 ひっそりとだが、祝福されて、彭己の五人の娘たちは呼延灼の家から嫁いでいった。
 それぞれに、良縁だった。
 縁談を取り仕切ったのは、剣娘と裴宣である。相手を選び、仲人をたて、結納を整えて、恥ずかしくない道具をつけて送り出した。呼延灼の養女の身分で嫁ぐので、婚家で肩身の狭い思いをすることもないだろう。
 ただ、末娘の萌児だけは、まだ幼いということで、子供のない宿元景が養女に取ることになった。
 萌児は生まれてすぐ母親を亡くし、赤ん坊の時に梁山泊にやってきたので、ほとんど剣娘が育てた娘だ。姉妹の中でも特に武芸を好み、また優れた素質を備えていた。剣娘も特に萌児の行く末を案じていたし、本人も嫁ぐのを望んでいなかったので、この縁組は誰からも歓迎された。いずれは、宿元景が名門の子弟を婿に選んでくれるだろう。
 最後の日、無口な萌児が、珍しく自分のことを話した。
「私の母は、なんとか男の子を生もうとして、父の駐屯先まで押しかけたこともあったそうです。でも、私が生まれて、病になり、もう息子が生めないと分かると、私を男の子として育てるように言い残して、亡くなったのです。剣娘ねえさんがいなければ、きっと、男のようになっていたでしょう」
 萌児は見送る剣娘と裴宣に世話になった礼を述べ、颯爽と呼延家を出ていった。

 男装して、手には三尖両刀を持っている。背取った小さな荷物の中には、呼延灼から渡された韓滔と彭己の形見である仮面もはいっていた。
 養女となる“彭お嬢様”を迎えるつもりの宿家では、さぞ面食らうことだろう。

 萌児の後ろ姿が遠ざかる。
「彭将軍も喜んでいることでしょう」
 裴宣はしみじみと言った。
 隣に立つ剣娘は、魂が抜けたように、どこともない遠くを見ている。
「お疲れですか」
 剣娘は我に返ると、ほっと深いため息をついた。
「これで──すべて、終わりました」
 二人は門を閉じ、屋敷に戻った。
 萌児を送り出すと、屋敷の中は更にがらんとして、寂しげになっていた。どの部屋も、すでに住む人がいないかのように片づいている。
 しんとした居間の床に、冬の午後の日差しが明るく差し込んでいる。その静かな明るさが、さらに寂しさを際立たせた。
 裴宣は卓に帳面を広げ、彭己の項に娘たちの行く末を記そうとした。
 空気が冷えて、筆を持つ指がかじかむ。指を揉んでいると、剣娘が酒を温める壺に湯を入れて持ってきた。
「どうぞ、これを」
 裴宣は壺に掌を添え、冷えた指を温めた。
 そして、萌児が宿元景の養女になったことを記し、帳面を閉じた。
 今度こそ、すべてが終わった。
 もう、この帳面になにかを書き込むことはない。
 この先は、それぞれの旅路、それぞれの物語が始まり、それを裴宣が見届けることは──ない。

 その日、夕刻。
 剣娘はささやかな宴をととのえて、裴宣の労に感謝した。
 肩の荷をおろして安堵したのか、剣娘にしては珍しく快活で、言葉数も多かった。
「陝州から手紙が来たのですが、妹たちが、どちらも“聞にいさまのお嫁になる”と言って譲りませんの。ですので、父と相談して、二人一緒に聞様にもらっていただくことになりました」
「それは、めでたい」
 浮世離れした聞煥章が、美しい双子の幼な妻に挟まれている様を想像し、裴宣は可笑しく思った。それもまた、浮世離れしていていいかもしれない。
 笑いかけて、裴宣は、軽く咳をした。
「お待ちください」
 すぐに剣娘が花梨を蜜で煮たものを小鉢に入れて持ってきた。
「花梨は喉の乾燥を癒します」
 透明な果実の汁に、赤い枸杞の実が浮いている。匙で掬うと、ほのかに甘かった。
 剣娘が、落ち着いた声で尋ねた。
「──これから、どうなさるのですか」
「楊林と飲馬川に戻るつもりです」
「飲馬川は国境近く……危険ではありませんか」
「あの地方の、雑多な風俗が合うようです。交易も盛んですし、なにか店でもやれば流行るでしょう」
「楽しそう」
「あなたは」
「知り合いの寺で、尼になるつもりです」
 空気が止まり、裴宣の匙が、音もなく器に置かれた。
「惜しいことです。あなたのように才覚のある方が……」
「才覚のある尼になりますわ」
 微笑んだ剣娘の顔が、月下の萩のように美しかった。

 初更のうちに、裴宣は呼延家を辞した。
 剣娘は灯を持ち、門まで見送ると言ってきかなかった。
「忘れ物はございませんか」
「はい」
「そうですか」
 門が開く。剣娘は、裴宣を送り出した。
「お健やかに──どうぞ」
「あなたも」
 裴宣は門を出た。
 その後ろ姿を暫く見送り、剣娘は、門を閉じた。

 空に細い月が出ていた。

 頼りない月の光の下を、裴宣は歩いていった。
 向こうに、賑やかな通りが見えてきた。
 東京の賑やかな繁華街だ。この喧騒が煩わしくて、裴宣は飲馬川へ戻ることにした。仲間だった孟康も登飛もいないが、楊林が一緒に行くという。
 二人で、代書屋でも、芝居小屋でもやろう──と気軽なことを話している。
 すでに宿賃の清算も済んだ宿屋で、楊林が荷物をまとめて待っているだろう。
 明日にも、東京を離れるつもりだ。
 裴宣はいつものように背筋を伸ばし、黙々と歩みを進め、立ち止まった。

 そして、くるりと踵を返し、来た道を戻った。
 呼延家の門を叩くと、すぐに剣娘が驚いた顔をして現れた。
「どうなさいました」
「忘れ物です」
「まぁ、なんでしょう。部屋には……なにも」
「もう一件、縁談が残っていました」
「え、どの娘でしょう」
「あなたと、私のです」

 空の月が、笑いかけるように輝いていた。


 赤ん坊は、母親の腕のなかでニコニコと笑っていた。
 丸い頬の、よく太った男の子だ。
「ほら、兄さん」
 父親の宋清も、笑っていた。
「兄さんの、甥っ子です」
 宋江は、丸々とした赤ん坊を、腕に抱いた。

 子供は、ずしりと重かった。

 宋江と宋清は、連れ立って故郷に帰った。
 懐かしい運城県宋家村。
 父親は達者で、嫁の阿梨とともに二人を出迎えた。宋清の嫁の阿梨は、村一番の器量良しだが、おとなしい娘だ。招安後、宋清が村に帰って娶り、その後、男の子が生まれていた。
 阿梨の腕の中で、よく太った子供が眠っている。
 宋清が、初めて見る我が子である。何度も夢には見たはずなのに──宋清は戸惑い、子供の寝顔を見つめ、それから妻の阿梨に視線を移した。
 その時、ふいに子供が目を開いた。
 きらきらと輝く瞳が、まっすぐに宋清を見つめ──笑った。
 その瞬間、溢れるように宋清は叫んだ。
「私の子だ」
 その声は決して大きくなかったが、宋清は心から叫んだ。
 そして、子供を抱きあげ、胸でその重みとぬくもりを確かめ、それから、兄に振り向いた。
「ほら、兄さん。兄さんの甥っ子です──名前は“安平”」
 宋清は宋江の腕に子供を渡した。
 子供は、不思議なものを見たように、宋江の顔を見上げていた。

 久しぶりに家族が居間に揃い、父親はご機嫌だった。
「嫁の阿梨がよくしてくれて、なにひとつ不自由はない」
 父親は酒杯を挙げた。
「安平も賢い子だ。これで宋家も安泰だ」
 老父の笑い声と、幼子の笑い声が、居間に響いた。
 外は木枯らしが吹いているが、部屋の中には火鉢が焚かれ、暖かい。卓上には、阿梨手作りのご馳走が所狭しと並んでいる。安平はよちよち歩きをはじめたところで、宋清と宋江の間を、嬉しそうに行き来していた。
 父親が酔って寝に行っても、外にはまだ陽があった。
 宋江と宋清は、酔い醒ましの散歩に出た。
 屋敷の裏には宋家の昔ながらの田畑と、桑畑が広がっている。宋清は、朝廷からもらった褒美はすべて家に送って、かつて宋江のために売った田畑をすべて買い戻していた。
「養蚕がうまくいっているので、来年は桑畑を広げるつもりです。阿梨は蚕を孵化させるのがうまい」
「それはよかった」
 宋江たちは桑畑を抜け、昔よく遊んだ川まで行った。
 家を離れて、ずいぶん長く経ってしまったのに、岸辺の様子も、川の流れも、なにひとつ変わっていなかった。
 宋江は冬枯れの河畔に佇み、水が流れていくさまを、じっと見ていた。
「──兄さん、風が冷たい。帰ろう」
 宋清が促しても、宋江は水の去りゆく彼方を見つめている。
 宋清には、兄が考えていることが分かっていた。
「明日は、梁山泊に行ってみましょう。人をやって、船を準備させておきます」
 その時、はじめて宋江は、宋清の声に気づいたように顔を上げた。
「そうだ、梁山泊に……」
 この水は──梁山泊に続いているのだ。
 あの湖に。

 翌日は、いい天気だった。
 宋江と宋清は朝早く家を出て、梁山泊の岸沿いに石碣村の方へ歩いていった。
 湖は朝日を浴びて、銀色に輝いている。
 なにもなかったかのように、湖は美しく、静かだった。
 何隻かの小さな漁船が波間に浮かび、少し霞んだ水平線には──梁山の嶺が浮かんでいる。

 本当に、なにも変わっていないようで、宋清は、拍子抜けしたような、寂しいような、哀しいような気持ちになった。
 宋江は、落ち着いた足どりで、よく知った小道をたどっていく。
 やがて、湖畔の船着場に出た。
 枯れた葦の間に、小舟が一艘待っていた。竿を握った船頭が、二人に気づいて、立ち上がる。
「小七さん」

 宋江の声が、明るくはずんだ。
 小七も、軽く笑って頭を下げた。
 阮小七は朝廷の辞令を返上し、石碣村に帰ってきたのだ。途中で南竹山によって老母を引き取り、父親が建てた古い家も、阮小二が使っていた漁船も修理し、もとのような暮らしを始めた。
 湖岸の家から、尼姿の老母が劉祥児に手を引かれて出てきて、宋江に挨拶した。
「ほら、お弁当」
 祥児は阮小七に弁当の包みを手渡すと、愛想よく宋江たちに微笑みかけた。
「うちの人をよろしく」
 宋江と目が合うと、阮小七は船に飛び乗り、にやりと笑った。
「おふくろが、孫の顔を見たがるもんでね」
 やり手の祥児は阮小七との約束通り老母の世話をするかたわら、南竹山の麓で茶店を繁盛させていた。それを畳んで、一緒に引っ越してきたのである。
 宋江も笑って小舟に乗り込んだ。
「小七さんは、本当にてきぱきした人だ」
 船が岸辺を離れていく。
 祥児も老母の手を引いて、小さな家に帰っていった。
「ほんとよ、おかあさん。小五さんは、また賭場ですって。小二さんは、遠くの川まで大きな魚を捕りに行きましたわよ。じきに帰ってくるでしょう」

 船は銀色の湖面を滑るように進み、やがて、金沙灘に着いた。
 青空に、梁山の峰が輝いている。
 宋江は、阮小七に抱えられ、岸に足を下ろした。
 しっとりとした砂の感触、波の音──水の匂い。
 宋江は、しばらく砂浜に佇み、梁山の峰を、その空を、見つめていた。
 阮小七は船をもやい、宋清は少し離れて、やはり梁山を見上げていた。
 不思議だった。
 今いつなのか──分からなくなる。
 あの黄金の年月は、戦いの日々は、本当にあったことなのだろうか。
 あったのだとしたら、なぜ、山も空も水も、なにひとつ変わらないのだろう。
 今にも、あの小道から、誰かよく知った顔が駆け降りてくる。
 振り返れば、波間から懐かしい顔が手を振っている──。
 耐えがたく、宋清は兄へ視線を向けた。
 宋江は、まだ山を見ている。
 その小道を、今しも、小さな人影が降りてくるところだった。

「──宋江さま!」
 若く、明るい声が響いた。

 杓児は袈裟をたなびかせ、梁山の道を登っていった。
「僕は五台山で一年修行して、南竹寺に戻ってきたんです。大きなお寺もいいけど、やっぱり小さなお寺が好きなんでしょうね。南竹寺は尼寺だから、麓にあった古いお寺を修理してそこに住んでいたんですけど、阮小七さんと一緒に梁山泊に戻ってきました」
 杓児はすっかり背が伸び、宋江より高いくらいだった。顔だちも大人びて、変わりなく快活に見える瞳にも、思慮深さが備わっている。
「宋江さま、剣は?」
 宋江に尋ねる声も、僧侶らしく穏やかだった。
「もういらないので、江南に置いてきましたよ」
「立派な黄金の剣だったのに」
「わたしは、もう戦わないので、重いだけだから」
 杓児は微笑んだ。
「五台山で、笑い話を教えてもらいましたよ。自分の頭を血眼で探している男の話なんです。自分の頭を見ようとしても、どうしても見えない。いったい、どこに落としてきちまったんだ?って。宋江さまは、自分の頭を探し回ったりしない人ですね」
 杓児は振り返り、手を伸ばして、宋江が崩れた石段を登るのを助けた。
「小魚兄さんは、どうしましたか」
「彼は呼延灼将軍の養子になって、今の名前は呼延玉※だ」
「良かった。僕も、智真長老から“智縁”の法名を頂いたんです」
 四人はかつて登り慣れた道を伝い、燃え落ちた聚義庁を通り過ぎて、頂にある晁蓋の廟まで登っていった。
 その廟も、九天玄女廟も焼けて廃墟となっていたが、その跡に廃材を集めた小さな庵が建っていた。
「ここが、僕のお寺です。僕はこれからもここに住んで、母さんや、白勝おじさんや、小狗にいさん、梁山泊のみんなのために、朝晩お経を読むつもりです」
「ありがとう──この山を、守ってくれるのだね」
 梁山泊は、招安をめぐる官軍との戦いで炎上し、滅びた。しかし、焼き尽くされたはずの山にも緑が戻りはじめていた。焼けた棗の根元からは蘖が伸び、山の裏手の野原には、まだら毛の兎が、子ウサギをつれて跳ねていた。
 湖を見下ろせば、水牛が葦原に群れ、波間に大亀が悠然と浮かんでいる。
「ああ、梁山泊は──まだ、生きている」
 宋江の目を、一粒の涙が伝った。

 その日、宋江は杓児の庵に泊まり、一晩を梁山泊で過ごすことを望んだ。
 夕方、阮小七が必要な品を取りに村へ戻り、夕食と朝食をつめた桶と酒、布団を担いで帰ってきた。
 その夜は、月が明るかった。

 焚き火を燃やし、宋江と宋清、阮小七と杓児が真っ赤に燃える炎を囲んだ。
 夜の中では、まるで以前の通りの梁山泊にいるように錯覚した。
 誰も、多くは語らなかった。そして、言葉は、必要なかった。
 闇が濃ければ濃いほど、そこに、“彼ら”を、“梁山泊”を、あの日々を、確かに感じる。
 静かな湖に、銀色の月が映っている。
「──“如水中月”」
 杓児──智縁小和尚が呟いた。
「“心は水中の月のごとし”──すべての人の心の中に、不変に輝くものは、なんだろうね」
 空の月、湖の月。
 宋江の手の中の酒杯にも、同じ月が揺れている。
 この世の、すべての水面に、ひとつの月が輝いている。
「ここに、九天玄女の廟を建てよう」
 その隻眼にも月を映して、宋江が言った。
「九天玄女と托塔天王を祀り、いつまでも皆を──梁山泊を、見守ってほしい」

 宋江が寄進した九天玄女廟は、周辺の村人、漁民たちが力を合わせ、その年の大晦日に落成した。
 小さな廟で、まだ神像もない、建物だけの廟である。宋江が東京の蕭譲と金大堅に手紙を書き、扁額と神像は出来次第、運ばれてくる手筈になっていた。
 大晦日。廟の屋根には赤い布が飾られ、爆竹が賑やかに弾け続ける。ながく静まり返っていた梁山泊に、人々が小舟で集まった。すべての扉に赤い『福』の字が逆さまに貼られ、広場には寄せ集めの酒とご馳走が並び、楽団が村々の音楽を奏でた。
 大晦日は夜通し起きて飲み食いして、“守歳”するのだ。
 老人たちは宋江に挨拶し、子供たちが駆け回る。
 落成式が終わるころには日が傾き、やがて、花火が始まった。金大堅から廟が建つことを聞いた凌振が、簡単に打ち上げられる花火を送ってくれたのだ。
 阮小七と宋清が湖に浮かべた船から花火を打ち上げ、宋江は安平を抱いて、岸から皆とともに夜空を見上げた。
 夜空に、金色の火花が弾ける。
「おほしさま、おほしさま」

 安平は大喜びして、小さな手を空に伸ばした。きらきらと輝くながら降る星を取ろうとして、子供は宋江の胸から伸び上がる。
 しかし、すぐに取れないと悟って、じっと金色の雨を見つめた。
 宋江は頭を撫でた。
「かしこい子だ」
 黄金の華が空を彩り、星が降る。
 湖も輝いていた。
 宋清は、隣に控えめに佇む阿梨の手を、そっと握った。
 子供の頃から知っている娘だが、婚礼の翌日には、宋清は出陣した。再び生きて会えるとは思えず、もし子供ができたら──と、その名前を遺言がわりに言い残した。
 いま、彼は家に帰った。妻がいて、幻のように感じていた子供に会った。
 宋清は、こみあげる涙のかわりに、言った。
「ありがとう──阿梨」
 阿梨が、やはり控えめに、こくりと頷くのを指に感じた。
 花火が上がり、爆竹が響く。
 邪を払い、新しい年を迎えるために。
 誰かが叫んだ。
「──新年だ!」
 湖の彼方から、どこかの寺の鐘が聞こえてくる。
 あちらからも、こちらからも。
 その音は百八回。
 世界に、あらゆる鐘が鳴り響いていた。

 その年の元旦を、みなが、それぞれの地で、それぞれの人と迎えていた。
 東京では、呼延家の門が開き──また閉じられた。
「老将軍が、よくお許しになりましたな」
 楊林は荷物をかつぎ、肩に小烏龍をのせて笑った。
 旅装束の裴宣と剣娘が、門前に並んで立っている。剣娘の手には威児の形見の剣が、しっかりと握られていた。
 裴宣と剣娘の“婚礼”は簡単なもので、呼延灼と小魚、楊林が立ち会った。
 呼延灼は、娘と梁山泊きっての硬骨漢の縁談に驚きはしたが、なにも言わずに承知した。さすがに飲馬川へ──というのには渋い顔をしたそうだが、剣娘の意思の強さは父親譲りだ。姉の今日の旅立ちを、威児も喜んでいるだろう。
 楊林の心も軽い。
「お邪魔ですかな?」
「まさか」
 裴宣と剣娘が同時に言った。
 三人は並んで、東京の通りを歩いて言った。剣娘の顔は、朝日を浴びて生き生きと輝いていた。
「楊林さん。私たち、書肆を開いてはどうでしょう」
「そいつは妙案ですな。“水のほとりの物語”を、本にまとめているところです。前に作った講談をまとめ、少し色恋の花も添えて……こいつは売れる本になりますぞ!」
 三人は連れ立って、北への道へ踏み出した。

 新年──元旦。
 最初の太陽が天に輝き、地上の万物をあまねく照らす。
 宮城の瑠璃屋根も、路地裏の泥も──江南の深山も。
 それは、一年で最も神聖な光である。
 奥山の険しい岩場に隠された聖域で、明教徒たちは太陽を礼拝した。明教を棄てることを拒み、弾圧から逃れてきた人々である。
 みな貧しく、痩せ細り、疲れ果てている。しかし、その顔には、喜びがあった。
 彼らは、ここに密かに匿われ、守られているのだ。
「光の王よ──我々の救い主よ」

 太陽を拝む人々の中央で、盧俊義は──目を閉じ、祈るでもなく、諭すでもなく、ただ光を全身に浴びていた。
 助けておくれ──その声に、我が身を捧げるように。

 雪が降る。
 暖かな新年のあと、また少し寒くなる。
 春になる前に、寒が戻り、最後の雪が降るのだ。
 花逢春は南京応天府の役宅で、中庭に降る雪を見ていた。
 幼いいとこの紅児と藍児が、その裾を両側から握っている。
 秦家が喪中なので、同居する花家にも、対聨や晴れ着はない。それでも、元旦はご馳走を食べ、子供たちには圧歳銭が配られた。
「明日は、みんなでお寺参りに行こう。まだ、ちっとも街の見物をしていないし」
 逢春が言うと、子供たちは手を打って喜んだ。
「紅児、お寺、行きたい!」
「藍児に飴を買ってね、春にいちゃま」
 この姉弟には、父親の秦明の記憶はない。死というものも、理解できない。父親を失った──その哀しみを感じることがないことが、幸せなのかどうなのか、まだ逢春には分からない。
「よし。父上に頼んでくる」
 逢春は回廊を駆けだした。
 花栄の部屋は回廊の突き当たりにある。前は小さな庭になっていて、裏庭に通じる木戸があった。その小さな戸が閉じた音がしたようだったが、見ても、人影はない。
(誰か来たのかな)
 それ以上は気にせず、逢春は部屋の扉を敲こうとした。扉は少し開いていた。今しも、誰かが去っていったように──何気なく隙間を覗くと、父親がこちらに向かって机に座り、真剣な顔で何かを読んでいた。
 その顔はあまりに険しく、深刻で、逢春が知っている自信に溢れた父親とは別人のようだった。

「いいのだろうか、これで」
 朱武が呻くように呟いた。
 樊瑞は黙々と歩いていく。狭い路地──雪に濡れた春聨が破れて風に揺れていた。
 午後の太陽は、熱い雲に覆われている。
「断れぬ」
 やがて、樊瑞が言った。
「童貫らが、宋江殿を見逃しておくとは思えぬ。呉用先生の杞憂ではあるまい」
 朱武はため息をついた。
 樊瑞と二仙山へ“道士修行”に行くはずが、はからずも呉用に呼び止められた。
「我等はすでに死んだも同然の身──最後まで、梁山泊の行方を見届けよう。そういえば、戴院長はどうした」
「あの男は、別行動をしているようだ」
「そうか……」
 風雪が路地を渦になって駆け抜けていく。
 朱武は道服の襟をかき寄せた。
「まずは、どこかで一杯やろう」

 火鉢に炭が燃えていた。
“鶏尾”が炭を継ぎ足していったばかりなので、火はあかあかと燃え、書斎のなかは暖かい。気の利く“鶏尾”は、客人のために熱い茶を運んでくることも忘れなかった。
 南陽武勝軍の承宣使として赴任した呉用は、城内には住まず、郊外に茅屋を求めて閑居している。特に仕事らしい仕事もなく、晴耕雨読の日々である。近隣の村人は、“臥龍先生”と呼んでいるらしい。
 その草庵に、新年早々、珍しく客があった。
「──届けたぜ、確かに」
 戴宗は、呉用の前に一冊の帳面を置いた。
「几帳面な裴鉄面が、ご丁寧に、みんなが最終的にどこへ落ち着いたか書き留めている。あんたが、お見通しだったようにな」
 声に皮肉が混じっていた。
 呉用はこんな田舎にいて、戴宗が泰山で出家するのも、裴宣が細々と記録をとっているのもお見通しだったというわけだ。だから、戴宗に裴宣の帳面を届けるよう、“願文”にかこつけて頼んできた。
 戴宗が裴宣を訪ね、帳面を借りたいと言うと、すでに東京を去る支度を整えていた裴宣は、なにも問わず、黙って帳面をさしだした。
 呉用は、戴宗の言葉のトゲには気づかぬふりで、帳面をめくっている。
「阮小七は、石碣村に帰ったのですね。これで、山東には、柴進、李応、宋清、阮小七と揃いました。いずれ、山東の壮士を率いて義勇軍を起こしてもらうことになるでしょう。青州の黄信、登州の孫一族も頼りになる」
「よしてくれ。俺は、聞きたくない」
 呉用は帳面を閉じ、鍵のついた文箱にしまった。
「計画はできました、あとは時を待つだけです」
 遠からず、宋と金の間で戦が始まる。その危機が高まった時、人々の朝廷に対する不満、戦に対する不安が極限に達した時が──“その時”だ。
 その時がくれば、三顧を待たずして、臥龍──自ら動く。
 もっとも、花栄とは連絡をとっているが、他の者にはまだ内密に事を進めている。しかし、“その時”がくれば、全国に散った彼らも、必ず動く。呉用は、そう確信していた。
(“梁山泊”のため、宋江殿のためならば)
 勝てる計算はある。呼延灼は東京、関勝は北京、花栄は南京──その江南にも盧俊義、李逵、そして宋江がいる。梁山泊の者たちを全国の要地に散り散りにしたのは、童貫たちのためではなく、梁山泊のためだ。
 宋江は、最後まで何も知らなくていい。あの陳橋で、今度は彼らが宋江に天子の黄袍を着せ掛けるのだ。
 物思いにふける呉用に、戴宗は背を向けた。
「じゃあな」
「どこへ?」
「俺は泰山で出家するんだ、本気でな」
「今ですか?」
「俺は、もう壺に銀を溜め込んでいない」
「どういう意味でしょう」
「あんたに握られるような“弱み”はもうない、って意味だ」
「そうでしょうか?」
 呉用は微笑んだ。戴宗は言葉に詰まった。呉用の、このなにもかも見透かした顔が苦手なのだ。
「今後も、なにか動きがあれば教えてください。誰がどこで何をしているかを把握しておきたい」
「よしてくれ!」
 戴宗は手にした笠を床に叩きつけた。
「どいつもこいつも……俺は便利屋か? 伝書鳩か? なぜ、いつも俺に頼むんだ」
「あなたが、私と同じだからです」
 戴宗は、か細い針で胸を刺されたような顔をして、呉用を見返した。
 呉用もまた、どこか傷ついたような顔をしていた。
「失うものはなにもない──“梁山泊”の他には」
「よしてくれよ……」
「お願いします、戴院長」
 雪がしんしんと降り積もる。
 冷たく、清く。
 ひっそりとした裏木戸から、戴宗は雪降る路地へ滑り出た。

 天は白く覆われ、道の行く先も見えない。
 背中をまるめ、襟巻きをかき寄せて、“神行太保”は小雪舞う黄昏のなかを歩き去っていった。

 一人きりの書斎で、呉用は卓上の地図を見ていた。
 部屋の中は、薄暗く、暖かい。
 外の雪も、ここでは無縁だ。
 呉用は、地図を見つめている。
 宋国の北には、契丹人に奪われた燕雲十六州があり、長城を越えれば遼国。そして、この気息奄々たる国に、北東から覆い被さるように台頭した女真人の金国がある。
“海上の盟”により、宋と金は、連携して遼を挟撃することになっている。方臘の乱鎮圧に兵力を割いた宋は、ずっとその約束を保留している。金は苛立ち、宋への不信を募らせているはずだ。
(今後、たとえ両国の約束が履行されても、されなくても、結局は金は宋を侵略する)
 遼が滅びれば、次は宋──呉用はそう予測している。
“唇亡びて、歯寒し”の言葉を引かずとも、歴史がそれを証明している。北の剽悍な異民族は、つねに中原の豊かな富を虎視眈々と狙っているのだ。
 呉用の目が、地図上の城を、街道を、澱みなく辿っていく。
(彼らが南下する時は、おそらく、二手に別れて進軍してくる)
 ひとつは、西京大同から太原へ草原を踏破。
 もう一方は、おそらく北──海沿いに平州に入り、燕山の長城を越えてくる。
(激戦地は、太原になる)
 宋国は要衝・太原城を防壁として敵をくい止めようとするだろう。
 しかし、もはや“薬師”徐京はおらず、“介子”卞祥ら山西の英雄たちも斃れた。
 宋国軍など、防壁の役にもたたない。
 南下した金国軍は破竹の勢いで南下を続け、三カ月もかからずに東京開封の城下に迫るに違いない。その光景が、呉用には見えた。
 予想される二つの金軍進軍路の中間には、朱仝が赴任している保定府がある。
 この要衝に朱仝が配属されたのは、朝廷の“美髯公”朱仝に対する高い評価の現れだ。朱仝が我が子をもって滄州知府に罪を贖ったことは、今や官僚中では有名な美談になっている。梁山泊中の人格者──として、朱仝は警戒されていないのだ。
 その朱仝から金軍の動きを王都尉らに急報し、上奏すれば、童貫らも天子の目を欺くことはできない。朱仝を信頼する劉光世、その父親の劉将軍も同調するだろう。
(その時、天子は蒙塵する。おそらく、南に逃げて揚州に向かう。天子の一行には、御営兵馬指揮使の呼延灼が護衛につき、王都尉と宿元景も同行するはずだ。近衛軍には梁山泊軍の兵卒が多く編入されているから、掌握はたやすい。これと同時に、関勝と花栄が、北京と南京の兵を率いて、御駕護衛のために合流する。この軍が無事に江南に到着すれば、宋江殿と盧俊義殿が天子を保護し、天子を推戴して抗金の兵を指揮する)
“勅令”さえあれば、他の官軍にも号令できる。韓存保が真っ先に応じるだろう。
 その間に、東京は陥落する。その責任で、蔡京、童貫らを罷免すればよい。
 そこまでは、王都尉らも喜んで協力するだろう。
(そのあとこそ)
 呉用は我知らず、地図を見る眼差しに力がこもった。
(金軍を打ち破った者に、民心は集まる──その時こそ)

“梁山泊”は、蘇るのだ。
(我々は、無力ではない。水泊を去り、仲間を失い、散り散りになっても──けっして、無力ではない)
 扉が開いた。
「あれ、先生。なんだか楽しそうだね」
“鶏尾”が夕食を運んできた。
 呉用はやや躊躇った。
「そうですか?」
「うん。だって、そりゃ、お正月だものな」
“鶏尾”はさっさと卓上の地図を片づけ、夕飯の皿を並べた。肉料理のついた正月のご馳走だ。“鶏尾”もお相伴に預かれるので、ご機嫌だった。
「ああ、こんないい新年は、はじめてだ。腹は一杯だし、火はあるし、戦はないし」
 呉用は、少しほてった頭を冷やすため、小窓を開けた。
 外はもうすっかり暗く、空気はしんしんと冷えている。
 雪が世界の塵をぬぐい、澄みとおった、なんの汚れもない空気だ。
 炭火で手をあぶりながら、“鶏尾”がしみじみと言った。
「今年は、いい年になるといいねぇ」

 新年には、すべての門が開け放たれる。
 東京開封府、皇宮の門も例外ではない。
 元旦には大慶殿の門が開かれ、百官と外国の使節を集めて新年を祝う朝賀の儀式が執り行われる。全国の諸州からも進奏の役人たちが参内し、それぞれの土地の名産を献上した。
 その後も祝賀の行事が続き、元旦から元宵節まで、東京をあげて賑やかなお祭り騒ぎが続くのである。
 その日、宮廷内の控えの間では、蔡京も久しぶりに寛いだ姿を見せていた。
「方臘は成敗され、梁山泊の者どももおとなしくしている。今年は、久しぶりに美味い祝い酒を飲んだ」
 童貫は頷いたが、その顔色はさほど冴えない。金国の大使に、また出兵を促されたばかりなのだ。高求は、なにか言いたげな様子で座っている。
「いかがした、高太尉」
 童貫は、そういう気配には敏感だ。
「なにやら面白い話をお持ちか」
「実は……参内した盧州の役人から、妙な噂を聞きまして」
 蔡京は白い眉をひそめた。
「待たれよ。正月から耳障りな噂話は聞きとうない」
 童貫は続きを促した。
「あとで面倒になるよりは良い。高太尉、申されよ」
「では」
 高求は咳払いして、声をひそめた。
「深い山中に明教徒が隠れ住み、“光の王”を崇めているという噂なのです」
「聞き捨てならぬ。方臘めは、今も菜市に梟首されているではないか」
「そこです、蔡太師。もうひとつ、こちらの方が見逃せない」
「早く申せ」
「盧州の民の間で囁かれている噂……あくまで、噂ですが、“光の王”方臘と、盧州兵馬副総管の盧俊義は、瓜二つだ──と」
 扉から風が吹き込み、部屋の空気が一瞬にして凍えたようだった。

 元宵節は、正月十五日。
 その一年で、初めての満月だ。
 その夜を家族で祝い、翌十六日、宋江は故郷を後にした。
 早朝──空には、明るい春が兆していた。
 門前には、宋大公、宋清、阿梨と安平が見送りに出た。
「父上、どうぞお健やかで」
「安堵せい、安平が嫁をとるまで生きる」
 宋大公に抱かれた安平が、笑って宋江へ手を伸ばす。
 宋江も笑って手をさし出すと、安平はぎゅっと伯父の指を握りしめた。
 柔らかく暖かい皮膚を通して、宋江は、自分とこの子供の間に、同じ血が流れているのを感じた。
 その血は、宋清とも、父親とも、死んだ母親、祖父たち、曾祖父たちとも繋がっている。安平を通じて阿梨とも繋がっている。そして、安平によって、その子へ、孫へ。
 星の数ほどの祖先へ、子孫へ──永遠に繋がっている。
 木々の枝のように、地下を流れる水脈のように、どこまでも。人も馬も、虫も鳥も魚も木々も、草花も、水も風も──そのように続いていくのだ。
 宋江は優しく安平の指をはずし、宋清が牽いている照夜玉獅子に目を向けた。
「この馬は、安平、お前にあげよう」
 宋清が、驚いて尋ねた。
「本当に一人で、歩いて行くのですか」
「大丈夫──ひとりの旅には、慣れているから」
 宋江は踏み出した。
 かつて、石勇とともに後にした門。江州へ行くために出た門を、いま三度、旅立った。
 楚州へ。
 時は初春。
 南に行くほど、空は明るく、風は暖かく──鳥が歌う。
 川が流れ、岸辺には見渡す限りの菜の花が揺れている。
 太陽が傾くと、黄金の野は、光を浴びて輝く。
 なにひとつ見えなくなるほどの、光が溢れる。
 世界に満ちた光のなかで、黄金の大地のなかで、行き交う人の姿は、影絵となる。
(わたしの願いは、ただひとつ)
 宋江は、風の声を聞いた。
(すべての命が、希望をもって生き、満ち足りて死んでいくこと)
 花々の歌を聞いた。
(ひとりの愛しき子のために、よい世界を)
 金色に輝く野原を、その狭間の細道を、宋江は確かな足どりで歩いていった。
(すべての、命あるもののために、よい世界を)
 それだけを願い、たったひとり──黄昏が照らす、その道を。




※文中の「運城県」は、正しくは運州城県です。
※文中の「彭己」は、正しくは彭彭己です。
※文中の「登飛」は、正しくは登飛飛です。
※文中の「玉※」は、正しくは玉※です。
※文中の「高求」は、正しくは高高求です。




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