水滸伝絵巻-graphies-

第百三十回
及時雨(四)道はその樹の下を・後篇



 ちいさな蝋燭は燃え尽きると、部屋の中は、真っ暗だった。
 呉用は、“死”と戦っていた。
 自分のではない。あるいは、自分のかもしれない。
 粗末な寝台で眠る宋江の体からは、血が流れ続けている。
 方聖宮の薬草園は無人で、医者を探しに行った花栄も李逵も、まだ戻らない。
 外からは──人々の叫喚の声が響いている。
 さきほど、光明峰に行った朱武が、方臘が逃げたらしいことと、官軍の乱入を伝えてきた。
「盧俊義殿は?」
 呉用の問いに、朱武は首を振り、ため息をついた。
「なぜ、こんなことに」
 呉用は自ら血止めの薬草を集め、宋江を救おうとした。薬草を揉んで傷口に貼り、袖を引き裂いた布で、きつく縛った。
「なぜ」
 滅びるのは、方臘のはずではないか。
「なぜ──宋江殿が」
 薬草が、呉用の手の中で、かすかな匂いを放っていた。
“死”が近づいてくる。
 それは──彼が最も恐れている、“梁山泊”の死だ。
 方臘がいなければ、この戦いは終わらない。
 そして、“盧俊義と同じ顔の男”を生かしておいては、必ず梁山泊にとって、よくないことが起こるだろう。童貫たちは、梁山泊の僅かな瑕疵を虎視眈々と探しているのだ。
 絶望が足元に忍び寄る。宋江は死に、梁山泊は滅びる──それは、決まった“運命”なのだ。
 呉用が絶望に屈伏しそうになった時、宋江が、かすかに呻いた。

 宋江は、まだ、生きている。
 呉用は、立った。
 彼を捩じ伏せようとする闇の中から呉用が立ち上がった時、戴宗の声とともに、扉が、開いた。
「呉先生!」
 薬草が、ぱらぱらと足元に散った。
「方臘の洞窟に、抜け道があった!!」
 扉から、金色の光がまっすぐに足元まで差し込んでいた。

 呉用が洞窟へ行くと、すでに関勝や呼延灼など梁山泊の者たちが集まって来ていた。洞窟の中が狭くて、大勢が入ることはできないという。
 呉用が洞窟の中に踏み込むと、時遷が蝋燭を持って立っていた。
「洞窟の奥が、ずうっと先に通じてるんや」
 はじめ、梁山泊の人々は手分けして洞窟の周囲をくまなく探した。しかし、方臘を見つけることはできなかった。その間、所在なくうろついていた“鶏尾”が、みなが行き止まりだとばかり思っていた洞窟に、“先”があることを見つけたという。
「“鶏尾”は?」
「潜っていったわ」
 時遷は岩壁に蝋燭を近づけた。
「一見、行き止まりのようやけど、ふさいでいた石をどけたら、人ひとりがなんとか潜りこめるくらいの隙間があったんや」
 呉用が中を覗いてみると、内部は腰をかがめて歩けないほど狭く、蝋燭をさがしても、先は見えない。
 ほどなく、奥から人の気配がして、隙間から“鶏尾”の足だけが現れた。時遷が裸足の足を掴んで、砂だらけの“鶏尾”を引きずりだした。
「どうや、ホンマに通れるんか」
「うん、すごく狭いけどな。目をつむると、奥の方から、つめたい風が吹いてくるよ。でも、狭くて、まっくらだ。おれは、ちょっとこわくなって、戻ってきた」
 呉用は洞窟の外に向かった。
「方臘を追いましょう。まだ間に合う」
 それでも、抜け道はあまりに狭い。関勝や朱武と相談するつもりだった。そこへ、李逵が駆け込んできた。
「方臘め。こんなところから逃げやがったな!」
 李逵は時遷から蝋燭をひったくり、抜け道に首を突っ込んだ。しかし、すぐに肩をつかえてしまった。
「くそ、狭くて通れねぇ!!」
 李逵は穴から首を引き抜くと、勢いをつけて板斧を岩に叩きつけた。何度か叩くと、さほど硬くない岩に亀裂が入った。
「よし!!」
 もう一発、李逵は渾身の力で斧を振るった。洞窟の奥から風が吹き出し、時遷が持っていた蝋燭がかき消された。
「あっ」
 時遷が咄嗟に李逵の帯を掴むと同時に、抜け道の岩天井が音をたてて崩落した。崩れ落ちた岩は入り口を塞ぎ、李逵が蹴っても、叩いても、もうぴくりとも動かなかった。

 遠くで雷のような音がして、空気が震えた。
 しかし、すぐに、静かになった。
 完全な闇と──静寂が戻った。
 その道を導くものは、ほんのかすかな、冷たい空気の流れのみ。指と膝だけで蛇のように進み、進むほど、静けさは増し、やがて無音、無明となる。
 やがて自分の体が闇に融け、時の感覚も消えていく。
 そして、自分が何者で、何をしようとしているのかも忘れそうになった時、彼方に、一粒の星を見る。
 針の先ほどの、地中の星だ。
 それが、少しずつ大きくなり、顔に強い風を感じたかと思うと、光があふれて──冷たい風が全身を洗い清めた。
 しばらくは、何も見えない。
 やがて目が明るさに慣れると、眼前にそびえる断崖を清らかな滝が滑り落ちていくのが見えた。

 滝は白い飛沫を散らしながら、はるか下方の青緑の滝壺へ落ちていく。見上げると、切り取られたように丸い空に、岩肌から枝を伸ばす老松の影が黒かった。
 戦いの声も届かない、別世界だった。
 ここは、古代の瞑想の場だ。古代、ここで修行していた者たちが、この峰を貫く道を穿ったのだ。
 その抜け道は、真っ暗で、曲がりくねり、延々と闇と静寂が続く。その恐怖に打ち勝った者だけだが、ここに辿りつけるのだ。
 しかし、長い年月を経て、途中で岩が崩れていた。
 方臘は一本の鑿をたよりに、その道を少しず、掘り広げた。
(娘よ、お前は“星の声”を聞いたはずだ。しかし、それは、実は私が岩を穿つ鑿の音だった)
 それを見つけたのは、偶然か、摩尼仏の導きである。
 修行しても、座禅しても、瞑想しても、彼は封印を解けず、預言も悟りも得ることができなかった。
(なぜだ)
(これほど、世界を救いたいと願っているのに)
 ある夜、ふとかすかな風を感じた気がして、洞窟をどこまでも奥へ奥へと進んでいった。胎児が産道を下りていくように、どこまでも。
 やがて、道は這うように狭くなり、まもなく落石によって行き止まりになった。
 それでも彼は諦めなかった。鑿を見つけてきて、道をふさぐ岩を削り始めた。
 それから毎晩、夢中で道を掘り続けた。
 掘っていると、すべてを忘れた。
 この世の汚濁も、人の不正も、明教の理想も忘れた。
 瞑想では得られなかった平穏と静寂が、その狭い闇の中に満ちていた。
 ひたすらに掘り進め、忘我の境地に達した時、彼方に、ぽつりと光が見えた。
 しかし、この清らかな場所で、どれほど瞑想を続けても、やはり、摩尼の預言も、星の声も聞こえなかった。
 ただ、風景が美しいだけだ。
 岩場のかたすみに、枯れ木のように摘んである無数の骨は、ここで果てた苦行者たちの屍だ。
(わしは、死なぬ)
 この絶壁から下りれば、この世界の果てまで行ける。そこで新たな教団をつくり、今度こそ。
 ふと、誰かに呼ばれたようで、方臘は、今しも這い出してきた穴の方へ目を向けた。
(百華よ、娘よ、おまえたちは、犠牲だ)
 この穴の彼方にあるのは、彼が憎む、救い得ぬ人々の世界である。
 不正が栄え、虚飾がもてはやされる、滅びゆく魔物の国だ。
 方臘は、風を吸い込んだ。
 そして、意を決すると、崖の淵に手をかけた。
 裸足の指先で足場をさぐり、ゆっくりと崖を下りはじめた。
 全身に、水まじりの風が叩きつける。指をかけられるような、突起はほぼなかった。爪に精神と力を集中し、方臘は少しずつ降りた。崖は高く、はるか下には青々とした滝壺が口をあけている。
「天よ、日輪よ」
 方臘は遥か天空の光に祈った。
「世を救いたいならば、わしを生かせ」
 方臘は次の足場を求めて、足を伸ばした。
 行ける──と思った時、手が滑った。
 方臘の体は支えを失い、そのまま彼方の滝壺へ向かって落下していった。


 その頃、方聖宮では、官軍と梁山泊軍とのあいだで、新たな戦いが始まっていた。
「あいつは方臘ではないぞ!」
 王稟たちが指さす屋根の上で、竜袍をまとった男が躍り上がった。
「そうとも! 俺は“活閻羅”──この世の閻魔大王よ!!」
 怒り狂う王稟を見下ろし、阮小七は大笑いした。
「てめえら、まとめて地獄行きだ!」
「降りてこい!!」
「そんなにお宝がほしいかい?」
 阮小七は黄金の冠を投げ捨てた。
「拾え、下衆やろう!」
 黄金と見て、官兵たちが冠に群がっていく。
「俺のだ!」
「よこせ!」
 そこへ、官軍の伝令兵が駆けつけてきた。
「王将軍、梁山泊軍はあの峰に集まっています。方臘は、あの峰です!」
 王稟は、金切り声で叫んだ。
「天子の格好をするなど、大胆な謀反人め! 捕らえろ、死刑にしてやる!!」
「やってみやがれ!」

 阮小七は突き出された兵の槍を奪うと、屋根から飛び下り、王稟に襲いかかった。
 騒ぎを聞いて駆けつけた呼延灼が、間一髪、刺し殺すところを止めた。
「なぜ止める」
「今は、それどころではない」
 呼延灼の鞭が、血で汚れていた。
 それは──明教徒たちのものでは、なかった。

 方聖宮では、略奪と同時に信徒の虐殺が始まっていた。
 梁山泊軍が投降させた明教徒に、官軍は容赦なく襲いかかった。財貨を略奪し、信徒たちを閉じ込めた建物に火をつけた。
“方臘の乱”は敗北したのだ。それに与した信徒には、なにをしてもいい。いや──虐待すればするほど、“手柄”になる。
 美しく、清浄だった方聖宮の面影は破壊され、地獄となった。
 凌振は李俊ら水軍の兵とともに、投降した信徒たちを一カ所に集めて警護した。童兄弟や許船頭らが、官軍と対峙している。
 梁山泊軍は、官軍から明教徒たちを守るために戦わねばならなくなったのだ。
「梁山泊、捕虜を渡せ!」
「取れるものら、取ってみやがれ、官軍め!!」
 両軍は睨み合い、一触即発の状態だった。
 凌振は狂奔する官軍を睨み付けた。
「このバカどもを、わしの火砲でぶっとばしてやりたいわ!」

 神殿周辺で明教徒を保護していた朱仝のもとに、劉光世がやって来た。
「俺と一緒にいたら、いいぜ」
 劉光世は、訝る朱仝に耳打ちした。
「親切で教えるんだが、童枢密は、方臘と一緒に梁山泊も片づける気だ」

 朱仝の顔色が変わった。親切で教えてやったつもりの劉光世は、その険しさにたじろいで、足早に去っていった。
 常に平静を保つ朱仝の顔が、関羽のごとく赤く染まった。怒りのためだ。
「“狡兎死して、走狗烹らる”──方臘が消えれば、梁山泊は目障りなだけというわけか」
 それが、この官軍の蛮行の“後ろ楯”なのだ。童貫には、明教徒も、梁山泊も、同じ“邪魔者”にすぎない。
「童貫は、この騒乱に乗じて、梁山泊をも殲滅する気か!」
 悲鳴が聞こえた。
 蒋敬の声だった。

「しっかりしろ、裴宣!!」
 蒋敬は自分の袖を裂き、裴宣の傷を抑えた。布が、見る間に赤く染まった。
「私は、大丈夫だ……それより、彼らを」
 裴宣は気丈に体を起こした。投降した明教徒たちを、暴徒と化した官軍が取り囲んでいる。
「信徒を逃がすな!」
 官軍が明教徒に襲いかかった。蒋敬は鉄算盤をふりかざし、官兵を殴り倒した。
「きさまらの罪過、この“神算子”が清算してやる!!」
 信徒たちが逃げまどい、さらに官軍が集まってきた。光明峰に向かおうとしていた王稟の部隊だった。
「方臘が紛れ込んでいるかもしれん、ひとりも逃がすな!!」
 王稟は、逃げようとする明教徒を手当たり次第に斬り捨てた。
「邪魔するなら、梁山泊の山賊どもも一緒に殺せ!」
 方臘を捕らえれば、梁山泊軍に用はない──童貫はそう考えている。方臘捕縛を確認ししだい、宋江を殺せ、と、王稟は童貫から密命を与えられていた。
 方聖宮の陥落は、同時に梁山泊の終末なのだ。
 王稟は次々と明教徒を殺していった。
「よせ」
 蒋敬は戦いながら叫んだ。
 官兵は明教徒たちに襲いかかる。抵抗もできず、次々に殺されていく。
(欧鵬よ)
 蒋敬は戦いながら助けを求めた。
(欧鵬よ、馬麟よ、陶宗旺よ──)
 彼らは、もういない。
「誰か──止めてくれ!!」
 明教徒へ振り下ろされた王稟の剣を、横あいから突き出された槍が阻んだ。
「お前は──!」
 王稟は、今しも飛び込んできた男の顔を睨んだ。
「楊温!!」

“闌路虎”楊温、かつて江夏零陵節度使の任にあった男である。
「来たのは、俺だけだと思うなよ」
「あれは! 梅展!!」

 御曹司──“梅大郎”梅展の足元には、“梅花九節鞭”を受けた数人の官兵が悶絶している。
「なぜここに。お前は、官を辞したのではなかったか」
「そうとも。俺はもう官軍じゃない。あんたに“お前”呼ばわりされる覚えはない」
 楊温、梅展の背後には、配下の傭兵たちが並んでいる。王稟は見下した目で一瞥した。
「援軍に雇われたのか」
「まさか。女子供を殺すクズなど、どうなろうと知らん」
「では、なぜここにいる!」
「知りたいか? 」
 楊温は、不敵な眼差しで王稟を睨み返した。

「“梁山泊”を、助けにきた」
「なんだと」
「そして、お前のようなクズを懲らしめにな!」
 王稟は部下に命じた。
「こいつを殺せ!」
「それはどうかな」
 楊温が目を向けた先に、新たに乱入してきた男たちの姿があった。

“龍王幇”四天王、“捲毛虎”倪雲と“痩臉熊”狄成のふたりは、配下百人を従えていた。さらに崋山から無酔長老が、五人の道士とともに風の如く現れた。
「信心に貴賤なし──道は須らく太極に通ず」
 白毛の払子で官兵を打ち据え、長老は明教徒たちを救っていく。
「梁山泊の危難と聞いて、馳せ参じた。少林寺も、間もなく着こう」
 王稟は叫んだ。
「くそっ、敵を守ろうとする奴は、みな反逆者だ!!」
「上等だ。野郎ども、やっちまえ!!」
 無酔長老の目が、王稟を射すくめた。
 王稟は叫んだ。
「くそっ、敵を守ろうとする奴は、みな反逆者だ!!」
「上等だ。野郎ども、やっちまえ!!」
 楊温が号令すると、傭兵たちは雪崩をうって官兵に襲いかかった。両軍がぶつかり合う──その上に、声が響いた。
「やめなさい」
 感情の昂りも、厳めしさもない声だった。しかし、人々は耳をそばだてた。
 雷鳴よりも、突風よりも、屋根を打つ一粒の雨音が、より強く人の耳を打った。今しも武器を交えようとしていた人々は、動きを止め、その声の方を見た。

 驚いたのは、蒋敬だった。
 顔の半分に繃帯を巻いた宋江が、花栄に支えられて立っていた。
 宋江は王稟の前へ進み、静かに言った。
「童枢密は──どこですか」

 方聖宮の混乱は、王宮の中心から離れつつあった。中央にある建物の略奪が終り、方聖宮のはずれにある信徒たちの宿舎や作業場にも広がりはじめた。
 めぼしい略奪を終えた趙譚と劉光世は、星の宮を探していた。
「公主の宮殿だ、きっと宝石がたんとあるぞ」
「美女は俺が救い出すぞ」
 笑いながらうろつく官軍が、その嫌悪感が、柴進を打ちのめした。
 こんな奴らのために、梁山泊を勝たせたのではない。
 金芝公主を、裏切ったのではない。
 自分に対する嫌悪が、柴進に襲いかかった。自分を殺したくなるほどの羞恥と嫌悪感の中で、金芝公主の濡れた瞳、囁く優しい声だけが、柴進に清らかな手をさしのべていた。
 星の宮の老侍女が、負傷して倒れていた。柴進と気づくと、虫の息で告げた。
「公主さまは……星の宮に」
 それだけ呟いて、息絶えた。
 趙譚たちが騒いでいた。
「あの森の中だそうだぞ」
 彼らより早く、柴進は駆け出した。
(私は、なにを考えていたのだ)
 たくさんの“鶏狗”が私のために死んだ。それは──私が命令したから、それだけなのか?
「違う」
 梁山泊と私を結びつけたもの。“鶏狗”と私をつないでいたもの。私と彼女のあいだに、確かにあった──この愛情こそ、この世界で最も貴いものではないのか。
(なぜ、私はあなたを見捨てようとなどしたのだ)
 高唐州の枯井戸の底を知っている私が。
 柴進は獣のように走った。
 彼の高貴な生涯のなかで、はじめて、あらゆる高貴さを擲って、森へと走った。

 我が家であった宮殿、二人が暮らした部屋は、なにひとつ変わっていなかった。
 その寝台の中に、死体が横たわっていた。
 銀泉が泣いている。燕青が、呆然として寝台の傍らに立っていた。
 柴進は、ゆっくりと寝台に近づいていった。

 そして、横たわる青白い顔を見て、柴進は立ちすくんだ。
 その背後で荒々しく扉が押し開けられ、趙譚と劉光世が先を争うように入ってきた。
 劉光世が、いたましそうにいった。
「遅かったか」
 趙譚は、にくにくしげに柴進を睨んだ。
「貴様、方臘の女婿となった裏切り者だな」
 燕青が、鋭い目をあげた。
「お言葉だな。誰のおかげで、方聖宮に入れたと思っているんだ? お手柄だろう」
 燕青らしくない、刺々しい声だった。
「公主はすっかり騙されて──この通り自害したんだ」
 さすがの趙譚も、美女の遺体を目の当たりにすると、勢いがなくなった。それでも、居丈高にそばにいる侍女に尋ねた。
「これは本当に公主か?」
 明教徒は、嘘がつけないことを知っている。
 尋ねられた侍女──銀泉は、涙を浮かべ、ふるえる声で、頷いた。
「はい──この方は、公主様です」
 劉光世は素直に惜しんだ。
「おしいな……こんな美女が」
 趙譚は、なにか金目のものがないかと室内を見回したが、燕青の殺気だった目に気圧された。忌ま忌ましそうにつばを吐き、趙譚はまた宮殿の略奪に向かっていった。
 粗野な足音が遠ざかる。
 柴進は、寝台の足元に置かれた衣装櫃に目をやった。その中から、かすかに、金木犀の香りがした。
 柴進が、燕青を見つめていた。
 燕青は呟いた。
「……どのみち、助からない傷だったんだ」

 寝台に横たわっているのは“百華公主”──それは、彼女が方臘から与えられた身分だった。
“公主”は、確かに、死んだのだ。
 自分のために喜ぶことも、燕青のために悲しむこともできず、柴進は百華のために拝礼した。
 目を閉じたその顔が、安らかなことだけが、救いだった。

 宋江は、制圧した王宮に設けられた本営に赴き、童貫と会った。
 方聖宮のあちこちで、捕らえられた明教徒が犬のように鎖でつながれ、兵士たちの虐待をうけていた。殺されたものも数多くいた。いずれも、いちどは梁山泊に投降した信徒たちだ。
 童貫は、すべて殺すつもりだった。
「いけません」
 宋江は信徒たちの釈放を求めた。
「彼らは投降したのです、殺してはなりません」
「ならぬ。奴らは反逆者だ。許せば、必ずまた反する。方臘が逃げたいま、全国の信徒もひとり残らず、見つけ次第に処刑する」
「わたしが、方臘を捕らえます」
 童貫の顔色が、すこし動いた。
「できるのか?」
 首魁の方臘がいないことには、東京に“凱旋”する格好がつかないのも事実である。方臘が本当に逃げ延びて、またどこかで叛乱の狼煙をあげたら、童貫の手柄は水泡に帰す。
 方臘を崇拝する明教徒は、梁山泊軍が奪還した六州五十二県のほかにもいる。不満を持つ民の間に水面下で結びつき、いまや信徒は全国に広がっているのである。
 しかし、この山地のなかで、人間ひとりを見つけるのは容易ではない。
(だが、梁山泊なら、やるかもしれぬ)
 その後のことは、その後だ。
「いいだろう。方臘を捕らえ、やつが信徒どもの前で棄教を宣言すれば、許してもよい。しかし、条件がある」
「なんなりと」
「方臘を捕らえたのは、梁山泊ではなく、我々“官軍”だ。方聖宮を攻め落としたのも、官軍だ。そう、陛下には上奏する」
 童貫の背後で、王稟と趙譚が露骨に笑った。
 宋江は、その意味が分かってもいないように、答えた。
「かまいません」
「お前の功績は、方臘討伐の戦いに加わった一将軍の功にすぎない。それでも、よいか」
 本来なら、宋江の軍功は、節度使か、中央に地位を与えられるほどのものだ。
「わたしはもともと、保義郎ほどの者。彼らが助かれば、満足です」
 童貫は、この場で宋江を殺したい衝動にかられた。
「期限は、五日だ」
 童貫は冷酷に言い放った。
「たがえれば、方臘を逃がした大罪を、お前に問う」
 それまで耐えていた呉用と花栄の顔色が、険しく変わった。
 童貫は、梁山泊の功績を奪ったうえ、さらに宋江を罪に陥れようとしているのだ。
 それでも、宋江には、なんの反応もなかった。

「なにもかも、宋江に責任をかぶせる気だ」
 花栄は激怒していた。
「どうする、宋江。この山のなかで、方臘を捕らえるなどは無理難題だ」
 呉用の羽扇も、動かない。
 宋江は、彼方の山を見ている。この果てしない山々が、宋江の一つだけの眸に映り、ちいさなひとつの世界のように、すっぽりと収まっている。
「花栄──わたしを、ひとりにしてください」
「宋江」
「少し……休みたい」
 呉用が花栄を促して、二人は軍営へ去っていった。
 山々の黄昏をみわたす場所に佇み、宋江は、今も覚えているあの言葉を繰り返した。
   風に当たって雁影翩り
   東闕けて団円ならず
   隻眼功労足り
   双林に福寿全し
 いつの間にか、燕青がすこし離れた岩の上に座っていた。
「前にも聞きました。そう、山西で」
 宋江が五台山の智真長老から授けられた偈だ。宋江に与えられた言葉なのに、なぜか燕青は気にかかる。
「その、“双林”とはなんですか」
「これは、仏教の言葉です。釈迦牟尼が涅槃した時、その四方には沙羅双樹が生えていた。その事ですよ。この木は、二本が一緒に生えるのです」
「それなら、その偈はいい意味でしょう」
 宋江の体から、ふっと力が抜けたように見えた。そのまま倒れるのでは──と思ったが、宋江は、変わらずに立っていた。
「──委ねましょう」
 宋江が言った。
 黄昏の雲が、流れていく。
「なにに?」
 宋江は、遠い山を見ていた。

 遥かな稜線に、雲が流れ去る。
 燕青には見通せない、雲の流れ行く先が、宋江には見えているようだった。

 呉用は花栄と諮り、翌朝から山中に全軍を繰り出した。
 方臘を捕らえる期限は、五日。
 梁山泊の者たちは、山に散り、方臘の行方を血眼になって探した。
 しかし、山はあまりに広くて、方臘の行方を掴むことなど、不可能だった。
 山は無情だ。
 それは、誰にとっても、同じであった。
 岩は尖り、藪は遮り、一滴の水も、一粒の木の実もなかった。
 冷たい岩と、無言で枝を伸ばす木々の間を、方臘はさまよっていた。
 星と太陽を頼りに、ひたすら西へ向かった。歩き続ければ、いつかはこの山を抜け、人里に出るはずだった。
 滝壺から這い上がってから、夢中で歩き続けたが、その間にも礼拝は欠かさなかった。
 今ほど、真剣に祈ったことはなかった。
 昼はさまよい、夜は岩影が落ち葉のなかに横たわって、一日がたち、二日がたった。
 三日目は、死を意識した。
 それでも彼は諦めず、露をすすり、草を噛みながら西へ向かった。
 どこかの人里に出れば、助かる。そして、また信徒を集め、次こそ必ず、宋国を倒して、光明清浄世界を実現させる。
 その一念で、道なき道を乗り越えた。
 そして、四日目。谷川を見つけた方臘は、それに沿って山を下りはじめた。
 川は、かならず人里に流れ着くはずだ。
 一日、膝まで水につかって歩き、やがて、ついに彼方に人影を見た。
 彼らが掲げているのは──宋国の旗だった。
「──なぜだ」

 広い山に、四方から人が集まりはじめていた。それは、東西南北、あらゆる方角からやって来る。
 呼延灼は、東から来た旧友と出会った。
「おお、韓存保」

 裏返しにした皮で造った無骨な甲冑、黒柄の画戟、かわらぬ仏頂面の武人は、“あだ名なき”──韓存保。潤州に駐屯していた韓存保は、一万の兵を連れて援軍にやってきた。
「高求も、今度ばかりは承知した。我々も方臘の追跡に加わろう」
 方聖宮陥落の急報が朝廷に届き、各地の軍にも移動の許可がおりたのだ。迅速に動いたのは、宿元景と王都尉である。
 他にも、駐屯地から駆けつけた部隊がいくつもあった。韓世忠もそのひとりだ。一足先に到着していた“闌路虎”楊温、“梅大郎”梅展の姿もあった。
 韓世忠は、かつての上官である楊温に尋ねた。
「ここに来たのは、誰の命令です」
 楊温は、すでに官軍をやめている。雇い主がいるはずだ。
「誰の命令でもない。雇われたのでもない。俺は、もう自由だからな」
「俺は金をもらったぜ」
 梅展は千人の手下を引き連れていた。
「俺は軍をやめて、票局を立ち上げたんだ。おかげさまで、大繁盛だ。こいつは大きなヤマだから、近くの同業者にも片端から声をかけた。もちろん、仲介料もいただいている」
「雇い主は?」
「やんごとなき御方なんで、名は出せん」
 もちろん、王都尉、宿元景らである。
 かつて梁山泊とともに戦った張招討、陳安撫、侯参謀、羅教諭らも協力してくれた。
 東京から脱出した彭己の六人の娘たちは、聞煥章が作った名簿に従って各地へ散った。そして、梁山泊への“義兵”求め、彼らが、さらに各地の有志に早馬で伝えてくれたのだ。
 そこから先は、誰も把握することはできない。馬で、船で、伝書鳩で、殆どは人づてに、すさまじい速度で、宋国全土へ広まったのだ。
「みな、自分の意思で来た」
 楊温は言った。
「誰かの“命令”ならば、来なかった」
“梁山泊を救え!”──その報らせは、風を得た雨雲のように広がり続けた。
 山東へ、河北へ。
 田虎に苦しめられた山西へ、王慶から解放された淮西へ。
 江州へ、江南の諸城へ。
 人々は、八方からこの山へ向かった。
 東京、北京からは丐幇が。山西河北の民兵や、淮西の義勇軍が。“小白竜”胡俊兄弟は今は官職を辞し、長江の水賊を引き連れていた。

 崋山の道士、少林寺の僧、蛾眉山の尼。彼らに一報を届けた二仙山の一濁道人の姿もあった。
 しかし、名もなき人々──彼らが、最も多かった。
「方臘がいいか悪いか、それはよく分からんけど、あの梁山泊が危ないって聞いた」
「宋江さまは恩人だ。お助けしないと」
 わけも分からず来た者もいた。
「ここに来ると、雨が降るって聞いた」
「何か、いい物がもらえるんだろう?」
 東から、西から、南から北──山を越え、小道をつたって、あらゆる方向から、彼らは来たのだ。
 彼らは互いに遠く離れ、互いにその存在を知らない。
 その声は、ひとりひとりは小さいが、千丈の山にこだまし、千里の風に運ばれた。

 耳元で、柔らかな声が呼んでいる。
 滑らかな絹の布団が、彼の体を包んでいた。
「あなた──あなた」
 妻が、彼を呼んでいた。
 彫刻をした、黒檀の大きな寝台の中だった。
 開け放した扉から、外の光が燦々と注ぎ込んでいる。
 眩く輝く光の中で、いくつもの親しい顔が、微笑み、彼を覗き込んでいた。
「夢を見ていた」
 ほっとして、体を起こした。手を添えてくれた妻の邵氏の体から、なつかしい梔子の花の香りがした。
「どのような夢ですの、こんなに汗をおかきになって」
「わしが財産をすべて失い、お前たちも死んでしまって……大叛乱をおこすのだ」
「まぁ、こわい」
 髪に桂花を飾った少女が笑った。懐にちいさな弟を抱いていた。
「ご安心なさって、おとうさま。ほら、みんな、ここにいますわ」
 彼を取り巻き、家族が笑いさざめいた。
「ああ、そうだった」
 窓の遠くに、銭塘江を見下ろす六和寺の塔が立っていた。
 いつも通りだ。
 それなのに──あの轟きはなんだろう?
 銭塘江が遡る海嘯だろうか──。

 方臘は、湿った落ち葉の中で、夢から目覚めた。
 この“現実”の方が、悪夢のようだ。
 山が揺れている。
 空が叫んでいる。
 風が雲が──世界のすべてが、唸りをあげ、震えていた。
 方臘は、立ち上がった。
 力を振り絞り、また歩き始めた。礼拝のことは、忘れていた。
(負けてなるか)
 宋国への憎しみだけが、疲れはてた、傷だらけの足を動かした。
 広大な漆園を経営する富裕な家に生まれ、優れた容貌と才覚を持ち、なに不自由ない暮しを送った。それを、国の命令のもとに、役人どもが“花石綱”の書類ひとつで奪った。
 代々、収集した奇岩や美術品を徴収し、それを、船を作り、人を雇って、自費で東京まで運べという。破産するのは明らかだった。金を使っても、役人は許さなかった。人脈を駆使しても、国は動かなかった。
 万能であるはずの彼が、はじめて出会った“敵”──それが、この国だった。
 すべてを奪われ、名誉を失い、苦しみを無視され、怒りを嘲笑われ、悲しみを踏みにじられた。
 その不正を、ただしたかった。理想の世界を、創ろうとした。
 そのために、あらゆるものを犠牲にした。
(それなのに、なぜだ?)
 なぜ、この世界を“救おう”とした自分が、このような目に遇うのか。
(天は、なぜ我をこれほど苦しめたまう)
 なぜ──天はわたしを愛さないのだ。
 疲れはて、方臘は倒れた。
 深い山の奥──木の下の枯れ葉に埋もれた。
 鳥の声が聞こえた。
 彼が死に、光明清浄世界が滅びようとしているのに──花は咲き、鳥は歌う。
 心地よい笑い声が聞こえた。
 向こうの山の小さな谷間に、一軒の家が見えた。
 土と木でできた、粗末な家だ。屋根には草が生えている。
 庭先で、貧しいみなりの若い夫婦が、赤ん坊をあやしていた。
 笑いながら駆け回る幼い兄弟。おそろいの毛皮の帽子をかぶっていた。
 老女が籠を編み、老人が畑を耕す。足元で兎が跳ねている。
 粗末な竈には柴が燃え、こうばしい料理の匂いが、谷を渡って吹いてきた。
 自分が夢を見ているのだと、方臘は思った。夢ならば、自分も、あの家へ飛んで行けるのではないか。
 そう願い、手を伸ばした時、門の前にいた黒い犬が、こちらを見て大きく吼えた。

 手も声も届くはずはないのに、方臘は再び逃げた。
 敵からではなく、いましも目にした、ささやかで幸福な光景から逃げ出したのだ。
 方臘は、再び山へ這い込んだ。谷川を渡り、茨の藪をさまよい、やがて、崖の上に辿り着いた。世界と断絶した場所だった。誰もいない。ただ、山々と空と、そのあいだに、一本の大樹が立っているだけだ。
 方臘は倒れた。
 気が遠くなる。冷たく、暗い。

(摩尼よ、おしえてくれ)
 信じた古の人に問いかけた。
(天よ、いったい、なぜなのだ)
 方臘は最後の力を振り絞り、大樹を目指した。
 声もなく慟哭した。
 空は青く、風は澄んでいる。
 誰でもいい。
 救ってくれ。
(国ではなく、世ではなく、人ではなく──)
“わたし”の、この苦しみを。
 この耐えがたい悲しみから。
「解放してくれ……!」
 風が唸り、大樹が、応えた。
「──南無、阿弥陀仏!」
 一喝とともに、拳が方臘を殴り倒した。

 大きな木の下で、座禅していた者は、目を見開いた。
 足元に、男が倒れている。
 座禅者──“花和尚”魯智深は、息をついた。
 背後に、西へ傾きかけた太陽が光が放つ。
 魯智深は、殴り倒した男の顔を見下ろした。
「……盧俊義に似ているようだが」
 魯智深は蓮華座を組んだ。
 小猿が、その膝に青い桃を運んできた。
「ありがたく頂戴しよう」
 魯智深は片手で拝み、桃を男の前に置いて、目を閉じた。
 明教徒の男は、身動きする力もなく、しばらく呻いていたが、やがて気を失った。
 山はまた、静かになった。雲が流れる。

“狩人”夏侯成を追って山に入った魯智深は、夏侯成を討ち取ったあと深山に迷い込み、この万年の松の木の下で、座禅していたのである。
 雨露をすすり、茸をもぎり、猿や鳥が落としていく果実を食べた。
 やがて、霧が身を潤すにまかせ、食わなくても平気になった。
 絶食して只だ座りつづけた。それでも、心身は強靱で、冴えわたり、精気に満ちていた。
 この山々と一帯となり、風にのり、雲となった。
 無念無想、三昧の境地のなかに、ひとりの老僧の姿を見た。智真長老のようでも、莫知寺の禅師のようでもある老僧は、なにかを繰り返し念じていた。
 その言葉は、理解できない言語だった。
 知らないが、知っている──その意味は、魂に刻まれていた。
“来るところより来て、去るところより去れ”
 老僧が、闇の彼方を指さした。
 はっとして両目を開くと、眼前に広がる青空のなかに、助けを求める声が聞こえた。
 立ち上がり、幹を巡ると、木の下に男が倒れていた。
 ぼろぼろの白衣に、振り分けた長い髪──明教徒だ。
 その顔を見た刹那、魯智深の拳骨が、雷のごとく動いた。
  南無、阿弥陀仏
“悟り、めでたし”

 魯智深は、座禅を続けた。
 風は無心に吹く。雨は無心に降る。
 彼をとりまく森羅万象は、渾然として澄み渡り、自分もその懐へ、融けて拡がっていくのを感じる。
 その顔には、無辺の笑みが浮かんでいた。

 そのまま忘我──となりかけた時、どこからか声が聞こえてきた。
 何人かの話し声がする。足元では、男が死にかけていた。
 魯智深は、息をついた。
 立ち上がり、魯智深は男を肩に担いだ。そして、四方を見渡してから、気の向くままに歩き始めた。どれほどか進んでいくと、数人の兵を連れた男に出会った。
 若い将──“万人敵”韓世忠は、忽然と山中に現れた僧に驚いたようだったが、その肩に担いでいる男を見逃さなかった。
「その男、方臘では」
「そうなのか?」
 魯智深は、気を失っている男の首根っこを掴み、血まみれの顔を覗き込んだ。目のあたりがひどい痣になり、鼻の骨も折れている。盧俊義──と思った顔とは、まるで容貌が変わっていた。
「なるほど、盧頭領なら、もうちと骨があるだろう」
 そして、韓世忠の腰に、目をやった。その拵えに見覚えがある。
「それは、吹毛剣ではないか」
 陰気な痣のある顔──二竜山の痛快な日々、梁山泊が、真夏の夜風のごとく、さわやかに魯智深の懐に吹き込んだ。

「楊志が、お前に遺したのか」
「いや」
 丹徒県で病死した楊志が肌身離さず持っていた吹毛剣は、楊家の祖“令公”楊業の遺品である。それを、楊家の末裔である楊温は、受け継がなかった。
『これは、憂国の英雄の剣だ。俺は、器ではない』
 荷が重い──と、楊志の墓に供えられた剣を、韓世忠が手に入れた。一度は丹徒県を去りながら、自分でも分からぬ衝動に突き動かされて、墓に戻り、吹毛剣を掴んでしまった。
 憂国の英雄の剣──この名剣とともに、巨大な義務を背負ってしまった予感があった。
 怯む韓世忠に、魯智深は、力強い笑顔を見せた。
「お前に、この男をやろう」
「いや、これは御坊の手柄だ」
「うけとれ!」
 魯智深は血まみれの男を、韓世忠の懐へ放り込んだ。
「死んだ楊志が、お前にくれてやれと言っている」
 魯智深の心は軽かった。
 自分が、巨大な木になったようだ。
 大地に根を張り、枝は天空へどこまでも豊かに伸びていく。
 風が遊び、鳥が囀る。
 なにも憂えることはない。
 魯智深は胸をくつろげ、声を放った。

「善哉──善哉!!」

 夕刻、清渓県の宋国軍本営に、“方臘”が連行されてきた。
 その顔は、魯智深に殴られ、腫れ上がり、鼻も折れて、もとの顔とはまったくの別人になっていた。
 燕青は、半分は安堵し、半分は、なにも感じなかった。
 ただ、長い夢から醒めたようで、胸の奥がうつろだった。どんな夢を見ていたのか、それさえも、ぼんやりとして、ただ感情の片鱗だけが残っている、寝覚めの悪い朝の気分だ。
 王稟の不愉快な声も、燕青を現実に引き戻すことはできなかった。
「俺は童枢密にお知らせしてくる」
 相手は劉光世だった。
「殺すなよ、生きたまま東京に連行して、天子の御前で華々しく死刑にするのだからな」
「分かった分かった、心配ご無用」
 劉光世が、調子よく返事をしている。彼は方臘探しには興味がなく、もうずっと祝勝気分で宴会だ。
 傍らには、今や彼の目付け役のようになった朱仝が、厳しい顔で立っていた。劉光世は、なぜか朱仝に逆らえない。急いで王稟に言った。
「王将軍、捕らえている信徒たちは、解放していいのだな」
「好きにしろ、どうせ娘と老弱の者ばかりだ。方臘さえいればいい」
 これだけ梁山泊の“味方”が集まっていては、もう迂闊に手を出すこともできない。
 それでも、方臘を東京へ連行すれば、歴史に残る大手柄だ。
「方臘は絶対に逃がすな!!」
 王稟は顔を紅潮させ、一目散に駆けていった。

 方臘は、手足を縛られたまま、家畜用の柵の中に倒れていた。
 柵の周囲には、官軍の見張りが立っていた。
 篝火の光は、柵の中までは届かない。
 捕らえられた娘たちが、朱仝の部隊に付き添われてやって来た。方臘が捕まるまで、監禁されていたのである。
 土の上に伏したまま、方臘は、その行列を眺めた。
 方臘と娘たちの行列のあいだには、一株の大きな木が生えていた。彼女たちは、その幹の向こうに“方聖公”が捕らわれていることには、気づかなかった。
 松明の光に、娘たちの姿が浮かび上がる。
 光明乙女や百華兵の中に、二人の、星の宮に仕える宮女が混じっていた。ひとりは、銀泉。もうひとり、銀泉と同じ装束を身につけ、彼女にかばわれるように腕を支えられている娘がいた。
(“蝶児”)
 方臘は、娘の名を、無言で呼んだ。

 金芝公主は、いちどだけ柵の方を振り返り、娘たちとともに去っていった。
 大きな樹の下の道を。

 方臘は、目を閉じた。
 自分の命が、消えかけているのを知っていた。
 真夜中、篝火が燃え尽き、歩哨たちが居眠りを始めた頃、方臘の柵のそばに、宋江が立っていた。
 宋江は顔に繃帯を巻いていた。
「わたしの負けだ」
「“戦い”には、勝者も、敗者もない」
 宋江の静かな声が、やわらかな闇のなかを流れていった。
「ただ、変わっていくだけなのです。願わくば、よりよく……“時”は続く。たとえ、われわれが明日死ぬことが決まっていても、諦めることはない。過去に生きていたものも、未来に生きるものも、常に、ともに生きているのですから」
 方臘の頬に、笑みが浮かんだ。
 滔々と流れる時の大河に、去っていった兄弟たち。しかし、道は生命の大樹の下をたどって、再び、約束の地に我等を導く。
 方臘の息が、次第に穏やかになっていく。
 方臘は、祈った。
 どれほど瞑想しようとも見えなかった──闇に降り注ぐ無限の光が、今、方臘には見えていた。
「あなたに、託す」
 宋江が応えた。
「あなたは、わたしだ」

 闇は光。
 光は闇。
 封印は消え去り、扉が開いて、光があふれる。
 扉の彼方に、未来が見えた。
 天にも、国にも、娘にすら愛されなかった男に、光の粒が降り注ぐ。
 全身を包み、世界を潤す、光かがやく慈雨であった。


 二人を夜空が照らしていた。
 息絶えた方臘の掌は、なにかを受取り、掬いとろうとするように、空に向かって開かれていた。
 月と星が、光を放つ。
 宋江が見上げると、その光が、涙のように長く、流れて──雨のように見えた。

 この暗い夜に降る黄金の雨。
 星から──地上へ。
 宋江に、方臘に、童貫に。
 梁山泊の上に、官軍の上に、民衆の上に。
 愛し合うものの上にも、憎しみあうものの上にも。
 山に、森に、人に、獣に──。
 清め、潤す。
 雨は、万物の上に降り注ぐ。




※文中の「闌路虎」は、正しくは闌路虎です。
※文中の「高求」は、正しくは高求です。
※文中の「票局」は、正しくは票局です。
※文中の「彭己」は、正しくは彭己です。




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