水滸伝絵巻-graphies-

第百三十回
聖者の敵(四)祝福の鐘





 魯智深は山の中を駆けていた。
 裸足の足が、岩を踏む。
   行く者よ
   行ける者よ
   彼岸へ辿り着く者よ
   悟り、めでたし
 天と地のはざま、雲と風のあいだに、そびえる山だ。
 道はなく、標もなく、ゆえに、山はどこまでも続いていた。
 魯智深は駆けた。
 駆け続け、疲れれば、谷川の水を啜り、滝に打たれた。
 草の実を食らい、花の蜜を吸った。
 どこまで行っても、人の姿はひとつもなかった。
 老松が友であり、鳥と獣が仲間であった。
 清々しい峰を、荒々しい崖を、魯智深は真っ直ぐに進んでいった。
 雲が呼び、風が彼の体を運ぶ。
   行く者よ
   行ける者よ
   彼岸へ辿り着く者よ
   悟り、めでたし!
 天のどこかで、遠雷が虹を震わせた。
 夜も昼もなく走り続けて、やがて、魯智深は、その峰のふもとに辿り着いた。
 蒼天を衝き、そびえ立つ、灯明のごとき白き絶峰──その孤独な峰を仰いだ時、魯智深の足は、ようやく止まった。
 魯智深は、息を吸った。
 そして、天空に巨大な仏を見た。
 頭頂は天の星まで届き、脚は九泉の水を踏んでいた。
 その姿は、天という鏡に映った、至大なる魯智深の姿であった。

 魯智深は、大きく胸を膨らませ、天を吸うように、思い切り息を吸い込んだ。
 星が見えた。渦巻く銀河は後光であり、散華はおびただしい流星である。
 魯智深は墨染めの衣を脱ぎ捨て、断崖に腰を落とした。
 蓮華座を組み、眼を閉じると、梵鐘が鳴り響き、合唱する声が聞こえた。
 仏か、星か。
 魔物か、天女か。
 宇宙にひしめく万物が笑いさざめき、澄んだ声で、嗄れ声で、歌っている。
   行く者よ
   行ける者よ
   彼岸へ辿り着く者よ
   悟り、めでたし!!

 その瞬間、世界は色を失い、呼延威は、言葉を失った。
 喉に灼熱の塊がこみあげて、悲鳴すら出すことができなかった。
 清渓県──郊外。
“霹靂火”秦明は、あと少しで方杰を倒すところだった。あと一撃、そこまで攻め抜いたところで、死角から現れた男が秦明に向かって飛刀をに投げた。秦明はその飛刀をかわし、同時に方杰の画戟を胸に受けて、落馬した。
 呼延威は、叫ぼうとした。声にならない叫びをあげながら、秦明を助けようとした。しかし、近づくことすらできなかった。群がる敵兵と戦い、進もうと足掻きながら、呼延威は却って秦明から離れていった。
 夏の終りに聞く遠雷のように、秦明の声が轟き──途絶えた。
 そうして、秦明は、死んだ。
 彼のために出来ることは、もう、なにもなかった。
 父がなぜ──“また会おう”と言わないのか。
 呼延威は身をもって知ったのだ。

 戦いは続く。
 戦場にいる者たちには、永遠に終わらないように感じる戦いだった。
 しかし、上空から戦場を俯瞰すれば、戦況は激しく動いていた。
 人間の流れは、二つある。ひとつは、方臘へ迫ろうとする梁山泊軍の流れ。もうひとつは宋江へ向かう方臘軍の流れである。二つの流れはぶつかり合い、梁山泊軍の方が強かった。方臘軍は宋江を捕らえようと猛進したが、宋江はそれを避けるのではなく、却って直進を命じたのである。
 方臘へ!!
 梁山泊軍全軍が、その一念で進んでいた。
 花栄が前面の敵兵を連射で倒し、道を作る。蔡慶、蔡福、蒋敬と裴宣が宋江の四方を守っている。
 宋江の手は、強く手綱を握りしめていた。
 彼もまた、秦明の、最後の霹靂を、聞いたのだ。戦場を進む一歩一歩が、人の命を犠牲にした一歩なのだ。宋江は、俯きそうになる顔を、あげた。
(わたしが、挫けては)
 萎えそうになる手足に、力を込めた。
(戦いが、終わらない)
 その時、宋江のすぐ前を進んでいた“険道神”郁保四が立ち止まった。
 “でくのぼう”と呼ばれ、誰かの命令がなければ進むことも、退くこともできない郁保四が、誰から命令されたわけでもなく立ち止まり、地面に落ちていた旗を拾った。
 踏みにじられ、綻びた、秦明の南斗六星旗だった。

“地健星”──郁保四。『健』とは、人がすっくと我が身を立てた姿である。
 旗竿を手に、郁保四は宋江の前を歩き始めた。
 ぼろぼろの軍旗が、はためく。
『替天行道旗』、『帥字旗』なき梁山泊軍に、ただひとつ掲げられた軍旗であった。
 旗めがけ、方臘軍が群がってくる。梁山泊軍は、方臘軍の攻撃を四方から受けながら進んだ。荒波を乗り越えていく、小魚の群れである。
 “霹靂火”秦明の旗が、彼らを導く。

 南斗は、いのちを司る星。秦明の最初の妻であり、黄信の姉であった黄貞香が、一針一針、縫い取った生命の星座だ。
“小李広”花栄は旗を見上げた。金色の星を数え、猛り狂っていた心が、凪いだ。
 秦明は、死なないような気がしていた。
 ほかの誰が死んでも、秦明は死なない。
 秦明ほどの男が死ぬ──そんなことが、あっていいのか。
 妹のことを思った。黄信のことを思った。
 彼らを思いながら、花栄は矢を放った。飛んで行く矢の彼方に、倒れていく方臘兵の向こうに──方臘の黄色い天蓋が見えた。
 郁保四が、秦明の旗を掲げたまま突撃していく。梁山泊軍の兵士たちが悪鬼のごとく後を追う。蔡兄弟の斬首刀が血煙とともに道を穿ち、花栄は矢を射続けた。
 その矢面へ、方杰が斬り込んでいく。
「魔物ども!!」
 李逵が飛び出し、方杰に躍りかかっていく。
「へっ、どきやがれ!!」
 画戟と板斧がぶつかった。方杰の馬は、秦明との戦いですでに疲れ果てている。板斧を受け止めた衝撃で馬の足が崩れ、方杰は大きく後退した。その隙に、郁保四は旗竿で金吾兵を薙ぎ倒し、方臘の馬車へ迫った。満身に傷を負いながら、巨漢は進んだ。翻る馬車の紗幕の向こうに、人影が見えた。
「むう!!」
 郁保四は踏み込み、旗竿を打ち下ろさんとした。

 その眉間を、どこからか現れた杜微の飛刀が割った。
「方聖公を城内へ!」
 方臘の輿が反転し、彼方の城門を目指して走り始める。
 血を流しながら、郁保四は進んだ。
 声が聞こえた。
“進め!!”
 天の声か、宋江の声か、自分の──声か。
“どこまでも、進め!!”
 生を讃える軍旗を掲げ、葬列を先導する“険道神”は進んだ。
 その歩みは次第に遅くなり、おぼつかなくなり、人々が彼を追い抜いていく。
 それでも、郁保四は進み続けた。
 そして、その命が尽き、足が止まり、心臓が止まる時、郁保四は最後の力をもって、旗竿を地面深くに突き立てた。

 死してなお、郁保四の腕は旗竿を離さず、南斗の旗を空へ掲げ続けていたのである。


 兵士たちの怒号が天地に渦巻く。
「方臘が逃げるぞ!!」
 金吾軍が馬車の周囲に壁を作り、身を盾にして梁山泊軍の攻撃から方臘を守っている。方杰も李逵から逃れると、方臘の馬車を先導して、乱戦の中から脱出した。
 金吾兵たちの犠牲によって、方臘の馬車は清渓県城へと走り去った。
 清渓県の城門は、馬車を収容すべく、開かれている。

 その時、李俊は城門へ向っていた。梁山泊軍がやってくるのは、南門のはずである。
「城門を奪い、扉を開け」
 李俊の命令は、それだけだった。
 童威、童猛、阮兄弟、許船頭と男たちが武器を掲げて、無人の街を駆け抜ける。
 家々は固く門を閉ざしている。住民がいるのかいないのかも分からない。風が、磨り減った石敷きの道を通りすぎていった。
 李俊は男たちのあとから、門に向かった。その足どりは、ゆっくりと、重かった。
 方臘が親征し、清渓県に入ったことは、見張りたちの言葉から察していた。
 しかし、“左丞相”婁敏中は、李俊と方臘を会わせなかった。梁山泊軍と和議をする気など、微塵もないのだ。
 方臘が救おうとする人々の中に、創ろうとしている光明清浄世界に──“梁山泊”は存在しない。
(そうはいかない)
 李俊の双眸が、目に見えぬ炎を発した。

 南門周辺に砂塵が舞い、わっと喧騒がわき上がった。
 白馬の牽く黄色い天蓋の鳳輦が、車輪の音もけたたましく城門へ駆け込んでくる。方杰ら金吾兵に守られた方臘の馬車だ。
 方杰は、このまま鳳輦を城の中心にある県の役所へ入れるつもりだった。傍らには、副先鋒の杜微がいた。方杰は杜微に命じた。
「俺は猊下をお護りして行く。お前はここに踏みとどまり、城門を守れ」
 杜微が冷笑したように感じ、方杰は念を押した。
「逃げるなよ。お前は、軍にいなければ、ただのクズだ」
「そのクズが、あんたたちの役に立つのさ。城門を閉じろ!」
 杜微は撤退してくる外の方臘兵を閉め出したまま、強引に門を閉じさせた。馬車は方杰たちに取り囲まれ、役所へ向って駆け去っていく。
 閉じられた門扉を背に、杜微は方臘たちを見送った。門楼に上がって外を見ると、取り残された方臘兵たちが円陣を組み、健気に門を守っている。
 その円陣へ、梁山泊軍は容赦なく矢を射かけ、突撃を繰り返す。
「しっかり守れよ」
 眼下で死にゆく兵士たちに背を向けて、杜微は門楼を下りていった。城門の内側では、外の防御が突破された時のために、障害物を積んで壁を作っている。城壁には弓兵も集まり始めた。
「よし、外の奴らに向けて」
 どんどん射かけろ──と言いかけた時、ひとりの弓兵が背後から矢を受けて、城外に転がり落ちた。
 驚いて振り返った杜微は仰天した。城内へ通じる大通りを、半裸の男の一団が突進してくる。

 李俊たちは南門へ突進した。童威は奪った弓矢を手にしていた。有り合わせの得物を握っていた阮小五たちも、手近な兵を殴り倒して武器を奪った。
 城門の前には、石や丸太が積まれているが、門扉は外から激しく揺さぶられている。さらに何かが激しく当たる音もする。
 声が聞こえた。
「方臘を討て!!」
 童猛の顔が輝いた。
「旦那、仲間だ」
 振り向くと、李俊が杜微の飛刀を刀で叩き落とすところだった。
「しくじった」
 杜微はすばやく横道に逃げ込んだ。
「クズで結構」
“献上米”の話は聞いていた。くさい話だと思っていたが、城内に“敵”がいるなら、城門が破られるのは、もう時間の問題だ。
(婁敏中め、ツメが甘いぜ!)
 ほどなく阮小七らによって城門が開かれ、関勝と楊雄が飛び込んできた。関勝が、道の真ん中に──倒れた方臘兵のただなかに立っている李俊を見つけた。
 李俊は腕組みをして、佇んでいる。
 関勝もなにも言わなかった。
 開いた門から、外に残っていた方臘兵と梁山泊軍が混ざり合ってなだれ込んでくる。城内にも、僅かながら守備兵が残されていた。それが南門に集まり始めた。
 戦いは、城門周辺から城内へと拡大していった。

 方杰は方臘を護衛し、役所に入った。しかし、すぐに南門が破られたという知らせが届いた。方杰の決断は早かった。
「北門から城外へ。急ぎ幇源洞に戻りましょう」
 清渓県が破られたからには、あとは幇源洞の方聖宮で敵を迎え撃つしかない。
「山道は険しく、敵は地理を知りません。石門の備えがあり、多くの信徒も残っております。一万程度の宋国軍を防ぐことが、どうして不可能と言えましょう」
 さらに──と方杰は続けた。
「方聖宮に籠城して時間をかせぎ、一方で全国の信徒に檄文を送れば、各地から続々と援軍が集まりましょう。その時こそ、反撃の好機。内外から梁山泊軍を挟撃するのです」
 すぐに方臘を乗せた馬車は役所の裏門へ向かった。方杰と金吾兵の百騎が従い、婁敏中は残って防戦の指揮を執ることになった。
 役所の北門で見送る婁敏中の顔には、動揺も、恐慌もない。
 方臘が婁敏中を輿の近くに呼んだ。
「“梁山泊”を、この地で滅ぼせ。あの者どもは、聖者の敵──世界を滅ぼす邪悪な魔物だ」
 喧騒が南から急速に近づいてくる。城内では火も出たようだった。
 去りゆく鳳輦の中から、方臘は最後の命令を告げた。
「“祝福の鐘”を鳴らせ」
 婁敏中の顔に、はじめて微かな不安が過った。

 空に、風があやしく吹きはじめていた。
 城内に鐘が鳴り響く。
 その音は、“一・三・三”と繰り返す。
 明教の祖・摩尼が獄死した時に、架せられていた鉄鎖の数だ。
 首に一つ、手と足に、それぞれ三つ。
 七つの鐘の音が繰り返し、やがてそれは城城に広がっていった。
 町の中心にある鐘楼を手始めに、城内にある大小の寺院、そのすべての鐘が打ち鳴らされる。そして、その音に操られるように、静まり返っていた家々の扉が開いて、清渓県の住民たちが武器を持って現れた。
「“祝福の鐘”だ」
「ついに、この世の終りがやってきた」
「早く、魔物を殺して、光化せねば」
“光明清浄大力智慧”の聖句とともに、殉教を求める住民が梁山泊軍に襲いかかった。彼らは、男はもちろん、女子供、老人も、槍や刀といった武器を持っていた。
 街中の鐘が狂ったように鳴り響き、“梁山泊を滅ぼせ”と命じているのだ。
 市街戦となり、朱仝は住民の群れに囲まれ、身動きができなくなった。彼は、人々に武器を向けることができなかった。その包囲を崩したのは、樊瑞の流星鎚だった。人々を薙ぎ倒し、樊瑞は道を作った。
 李応と杜興は、素手で住民たちを殴り倒した。阮小五が、一組の家族を袋小路の奥に追い詰めた。杖をついた老人、子供を背負った母親までいた。
「武器を、捨てろ」
 子供が叫んだ。
「魔物がくるよぅ!」
 すると家族は互いに刺し違え、阮小五が止める間もなく、母親は子供を殺し、返す刀で自分の胸を突いた。
“清浄光明大力智慧”──死に切れない母親の呻く声が、暗い袋小路に響く。どこからか血まみれの武松が現れて、戒刀のひと振りで母親の息を止めてやった。
 それでも、聖句は清渓県の空にこだましている。
「よしやがれ……」
 阮小五は、路地の上の空を睨んだ。
 殉教の鐘が鳴り響いている。
 いちばん最初に鳴り始め、ひときわ音高く響く鐘がある。彼らが閉じ込められていた役所の前──鐘楼にあった大鐘にちがいない。
 その鐘が、この呪いの音楽の元凶だ。

「あの、クソいまいましい鐘をぶっ壊してやる!」


 方臘を乗せた二頭立ての馬車は、住民を防壁にして城内を北へ進んでいた。
 方臘が連れてきた三万の援軍のうち、すでに半数以上が城外の戦いで戦闘不能となっていた。それでも、兵と住民とを合わせて二万近くの者が城内の戦いに参加していた。
 住民は、町ごとに“火父”“火母”とよばれる“聖頭”に指揮されている。彼らの目的はひとつ、方聖公を護り、殉教して光と化すことである。城内のあらゆる建物には、漆喰が塗られ、彩色で壁画が描かれている。明教徒の画家が描いたもので、筆の巧みな、精緻な絵だ。どの壁画も対になり、右側は闇の世界、左側は光の世界だ。
 闇の部では、俗世の欲望に負け、戒律が禁じる“四不”“十不正当”の悪事をなした堕落信者が、どんなおそろしい罰を受けるかが精密に描かれている。生きたまま魔物に喰われ、炎で焼かれ、体を切り刻まれる破戒者たちの苦悶の表情、流れる血の生々しさ──。
 一方の光の世界は、美しい花園である。信仰を貫いて死んだ者の魂は、月の宮を通り、日の宮に至り、その彼方の楽園で笑いさざめき、歌い、踊る。
 明教はこうやって、人の心に闇の魔物の恐ろしさ、殉教の素晴らしさを教え込むのだ。
 それゆえに──城内で繰り広げられた戦いは、酸鼻を極めた。地獄絵図であった。その阿鼻叫喚のなかで、白馬が牽く黄蓋の鳳輦だけが、違う世界から来たものように輝いていた。
 馬車は城内に張りめぐらされた道を縦横無尽に駆け抜けていく。方杰と百騎の金吾兵が護衛につき、整然と進む行列は人目を引いた。
 屋根に登った蒋敬が、すばやく一行を見つけ、合図を送った。
「方臘はここにおりますぞ!」
 追ったのは、宋江だった。照夜玉獅子が馳せる前には、まだ遮る住民も兵も集まってきていなかった。花栄と李逵、蔡慶と蔡福が宋江を追う。
「宋江、さがれ」
 花栄は敵の矢を警戒した。呉用も後ろから追いすがり、玉獅子の轡を握った。
「宋江殿、お待ちを」
 その時、前方に黄蓋がきらりと光った。
「あれだ!」
 花栄が放った矢が、護衛の金吾兵を続けざまに射倒した。
 李逵が駆けだす。
「ぶっころしてやる!!」
 その足を、路地の物陰から放たれた杜微の飛刀が切り裂いた。
「いてえ!!」
 李逵が転がる。さらに飛刀が宋江を狙い、裴宣が双剣で二本を、花栄が弓で一本を叩き落とした。
 花栄は朱雁に矢をつがえ、狙撃手の姿を探した。しかし、家や塀に隠れ、杜微の姿はまるで見えない。
 蔡兄弟が宋江の回りに円陣を組む。
「宋江殿を守れ!」
 その間に、すでに方臘の馬車はいずこへか走り去っていた。

 城内は迷路である。中原の諸城のように枡目状に道があるのではなく、起伏のある地形に沿って街路は曲がり、細い路地や袋小路も多くある。
 方臘の馬車は、その複雑な道を縫って逃げていく。追いかける梁山泊軍を住民や方臘兵が身を挺して遮った。
 やがて、蒋敬も方臘を見失った。屋根の上で、蒋敬は荒い息をつき、四方を見回す。
「方臘はどこだ」
 宋江たちも立ち往生した。そこへ、旋風のような速さで駆けつけてきた男がいた。
「間に合ったか!」
 分水県から駆け戻った戴宗だった。宋江が戴宗を近くへ呼んだ。
「戴院長、黄色い天蓋の馬車を探してください」
「お安い御用だ」
 戴宗は駆けだした。あらゆる道を駆け抜けながら、戴宗は、宋江が、盧俊義軍はどうした──と聞かなかったことに気がついた。彼も報告する暇もなかった。
(なるようになれ!)
 馬霊直伝の金輪神駒法を使えば、城内をくまなく走り回るのにさほどの時間はかからない。やがて戴宗は馬車を見つけた。戴宗は手近な屋根に登ると、懐から信号用の火箭を出して、携帯火口で火をつけた。放つと、空に真っ赤な火花“流星”が弾ける。
「方臘は北門へ向かっている!!」
 戴宗は声のかぎりに叫んだ。
「急げ、方臘が北へ逃げるぞ!!」
 宋江たちも“流星”の合図を見た。城内に散っていた蒋敬はじめ伝令兵が、“北”の一語を伝達する。
 宋江は玉獅子の手綱をとり、呉用に尋ねた。
「先生、北はどちらです」
 彼らは建物に囲まれた路地にいる。太陽は見えない。呉用は塀から伸びている、秋咲きの木蓮に目を止めた。
「木蓮は北を向いて咲くもの、あちらが北です」
 すぐさま一行は駆けだした。しかし、すでに城内の敵も北へ通じる街路を封鎖しはじめていた。宋江たちの進路は決死の方臘兵、および住民たちが築く障害物に阻まれた。
 方臘兵、特に選抜された親衛軍である金吾兵は、死を厭わない。彼らはいずれも殉教を理とする、若く純粋な兵士たちだ。
“祝福の鐘”は鳴り続けている。
 魔を滅ぼし、光となれ──と、彼らの死を讃えているのだ。
「猊下をお護りせよ!!」
 朱仝も李応も、北への道を阻まれていた。
「魔物を通すな!」
 方臘兵が、住民たちが、叫んでいた。
 北への道を護る彼らの前へ、宋江は馬を進めようとした。その馬の轡を、呉用もまた必死で握りしめていた。
 宋江と、方臘を会わせたくない、会わせてはならない──と、呉用は感じた。
「方臘が門を出た!!」
 ついに戴宗の声が告げた。道術を会得している戴宗の声は、その足のごとく遠くまで駆け抜ける。
「方臘が門を出たぞ!!」
「宋江殿──」
 諦めましょう、と呉用は言いかけた。 
 その時、呉用は聞いたのだ。
 北方の空をどよもす、すさまじい鯨波を。

 北門は、先行した金吾兵によって開けられていた。
「よし!」
 方杰は先にたって門を出た。途端、馬の手綱をしぼった。
 前方の山裾に、砂塵がもうもうと立ち込めている。
「あれは──梁山泊北路軍!!」

 賀従竜はしくじったのだ。
 方杰はすばやく視線を走らせた。すでに先行する敵の騎兵は、顔が見えそうなところまで接近している。全身を鉄鎧で覆った騎兵は、魔物のような勢いだ。このまま北の街道を逃げても、馬車では簡単に追いつかれてしまう。
「ひとまず、城内へ戻れ!!」
 馬車は城内に戻り、方杰は城門を閉めさせた。
「門を守れ! 入れるなよ!!」
 方杰は残りの金吾兵に命令すると、馬車と腹心の百騎だけを連れて人気のない街路へ駆け込んでいった。

 清渓県、北郊。
 盧俊義は県城を見下ろす崖に立っていた。
 その手の槍は、賀従竜を一撃で討ち果たした槍である。“引率の師”を失った方臘軍の新兵たちは、盧俊義軍が蹴散らすまでもなく逃げ散った。
 山裾には、清渓県の名の由来となった美しい谷川が流れている。
 先行する呼延灼軍は、すでにその川を越え、城に迫らんとしている。黄信の部隊が続くのを見て、朱武は苦い顔をした。
「黄信め。副首領の護衛というのに、先陣争いか」
「許してやれ。秦明に会うのが待ち遠しいのだ」
 盧俊義は快活に笑った。下り道は、山の鼻を巻くように蛇行している。
「回り道だな!」
 盧俊義は“転山飛”を崖から跳躍させ、一気に麓まで滑り降りた。
「軍師も跳べ!!」
 盧俊義に言われるまでもなく、朱武は跳んだ。視界の端で、谷川がきらりと光った。鄒淵、鄒潤ら歩兵たちも奇声をあげて崖を滑り降りていく。
 清渓県の北門は閉じられ、門の前には、防御の金吾兵が残っていた。その数は一千あまり。もとより死を覚悟した兵たちである。武器を掲げ、鉄壁の守りをなしていた。
 手強いぞ──と、朱武は思った。たとえあの兵を蹴散らしても、盧俊義軍には攻城具の備えはない。城内からは激しい戦闘の声が聞こえる。その叫喚は、空に交差し、山々にこだましていた。城門の向こうにも敵は満ちているだろう。しかし、猶予はない。この城門は、開けねばならぬ。
「呼延灼軍、前へ!」
 連環馬軍が敵と交戦する間に、歩兵は城壁を登れ──朱武は命じようとした。
 その時、盧俊義が悠然と馬を進めた。
「開門!!」
 朗々たる一声が、清渓県の空気を震わせた。

 一瞬の間があり、城門が内側から木っ端微塵に砕け散った。城門の内側を守っていた方臘軍の兵士たちが、門の残骸とともに飛び散った。
「開いた……!」
 目を疑う朱武たちの眼前を呼延灼の連環馬軍が駆け抜けていく。開門の理由は、そこに味方がいるからだ。呼延灼は瞬時にそう判断し、蹄鉄をもって門前に残る方臘軍を蹂躙した。
 門をくぐると、急ごしらえの投石機と凌振が見えた。
「“轟天雷”!!」

「将軍、お待ちしておりましたぞ!!」
 火薬の不足に悩む凌振は、ふんだんにある木と岩で投石機を作っていたのだ。かつて、李雲が考案し、焦挺が扱っていた“大鉄風箏”と同じものである。当時は、鼻で笑っていたが、石でも十分、門を死守する方臘兵を粉砕できた。
「門扉を壊すまでは想定外でしたがな」
 砲石がわりの庭石や石獅子の頭を、宋清が運んできていた。
「城内に方臘がいます! 追ってください!!」
 宋清は踏み石を投石機に設置しながら、盧俊義軍に向かって叫んだ。
 おう──と、男たちの声が轟いた。
「方臘はどこだ!」
 孫立が尋ねた。
「蒋敬さん、戴宗さんが探しています。居場所を見つけたら、合図があります」
「宋江殿は?」
「方臘を追っているはずです」
 凌振の前を、呼延灼が、盧俊義が、黄信が次々と駆け抜けていく。
 新手の敵の入城を阻止しようと、方臘軍も集まってくる。投石機が唸りをあげた。投石が拓いた道を、男たちが城内へ駆けていく。
「原始的な兵器というのは、こういう時に便利だな。風を切る音も、悪くない」
 凌振は、砕けた門扉と投石機を見比べた。
「李雲に見せてやろう。李雲はどこだ?」
 凌振は駆け込んでくる盧俊義軍の中に、“青眼虎”李雲を探した。騎兵に続いて、歩兵たちも続々と到着していた。
 凌振は今しも駆け込んできた李立をつかえまて聞いた。
「李雲はどうした」

「死んだ」
 答えた李立の目は、あだ名の“催命判官”のごとく血走っていた。
「陳達、楊春、石勇、単廷珪、魏定国、丁得孫、李忠、薛永──欧鵬も死んだ、史進も、石秀も、みな死んだ!」
 凌振は、ぞっとした。そして、駆け込んでくる男たちが、みな、血に飢えた野獣のような目をしていることに気がついた。
 李立が宋清に詰め寄った。
「旦那はどこだ、李俊の旦那は生きているのか」
「李俊さんは、南門です」
 宋清は、彼らがあまりにも過酷な戦いをへて、ここまで辿り着いたことを察した。盧俊義隊の歩兵たちは、獲物を求めて、思い思いの方向へ突っ込んでいく。

 李立も包丁を抜き放ち、南へと駆け去っていった。
「李立さん!」
 呼んだ宋清の背筋に、ふと冷ややかな風が吹いた。振り返ると、すぐ後ろに楊雄が立っていた。
 杭州を出る時、梁山泊軍は二つに別れ、楊雄は盧俊義隊に配属された。しかし、ほどなく過酷な行軍に楊雄は倒れ、戦線を離脱した。杭州へ戻り、後に、童貫軍とともに宋江隊に合流したのだ。
 この清渓県で、盧俊義隊とも合流できるはずだった。
「楊雄さん……」
 楊雄は、無言で宋清に背を向けた。
 一度だけ、誰かを探すように肩ごしに北門を振り返り、楊雄はひとり戦場へ消えた。

 方杰と方臘の馬車は、城内を脱出路を求めて彷徨っていた。
 敵は南北から殺到している。隠れる場所を探したが、すでに県役所からは火の手が上がっている。
 方杰は巧みに馬車が通れるぎりぎりの小道をすりぬけ、逃げた。彼らは地理を知り、数万の兵と民が防壁になっている。城から出さえすれば、彼らが敵を足止めしているあいだに、幇源洞まで逃げられるはずだった。
 時遷は軒を走っている。方臘の馬車を追っていた。
「あれや! 方臘がおったでぇ!」
 時遷の声を、戴宗と蒋敬らが全軍へ伝達していく。呼延灼、孫立、黄信、李応らが、南北からそれぞれ方臘を追っていた。盧俊義隊の湯隆、鄒淵、鄒潤たちも、住民たちの妨害を突破しながら方臘を追う。
 方臘の馬車は城内を迷走していた。
 その前を武松が阻んだ。隻腕に握った戒刀が、がたがたと震えている。すっと、武松は一歩踏み出した。
「横道を行け!」
 方杰は配下に馬車を任せると、画戟をとって武松の面前に飛び出した。
 目が合った。その瞬間、方杰は悪寒に襲われた。全身を切り裂かれるような冷気だった。
(なにものだ、こいつは)

 武松は戒刀を手に、方杰を見据えて、立っている。
 その姿が、巨大な人食い虎に見えた。
 傷つき、あらゆるものを傷つけようとする、狂った虎だ。
 ただ立っているだけなのに、方杰は斬り込むことができなかった。馬が怯えて、あとずさる。
 武松が動いた。両目を見開いたまま、一歩すばやく、方杰へと踏み出した。
(妖魔!)
 方杰は逃げた。
 一太刀も交えることなく、方杰は武松に背を向けて逃げた。
(あれは闇の化け物──あれこそ、魔物だ)
“皇甥”方杰、神聖なる方一族の生き残りでありながら、彼は明教を心から信じていなかった。世界を救う光よりも、美しい金芝公主を愛したし、光明清浄世界よりも、戦場での栄光が欲しかった。
 しかし、この日。教典の中にも、精舎の講義の中にも、見いだすことのできなかった“闇の魔物”を、方杰は初めて我が目で見たのだ。
「くそっ、杜微め、なにをしている」
 方杰は罵った。
(こんな化け物どもから、俺ひとりで方聖公を守れというのか!)

 その頃、杜微はなんとか城から脱出しようと、城内をうろついていた。しかし、行く先々に梁山泊軍がいる。その数はどんどん増えていくようだ。
 やがて、北の方から地響きとともに馬蹄の音が響いてきた。
「まさか、噂に聞く連環馬か?」
 杜微は狭い路地裏へ飛び込んだ。
「やってられるか、生きてりゃ、楽しいことがある」
 笑った眼前に、研ぎ澄まされた包丁がきらめいた。
「そうかい?」

“母夜叉”孫二娘が、あでやかに微笑んだ。



 城内は殺戮の坩堝と化していた。
 方杰とはぐれた馬車は、裏道を逃げまどった。
 見つけたのは杜興だった。先の道を横切っていく馬車に気づいた。
「旦那様!」
 同時に李応が飛刀を投げ、御者が倒れて馬車から落ちた。しかし、馬車は止まらずに、護衛の金吾兵を置き去りにして暴走をはじめた。延々と続く戦いの激しさに、馬たちは怯え、興奮しきっていたのである。
 石畳に車輪が軋む。方臘は暴走する馬車の中で瞑想し、振動に身をゆだねていた。馬車は左右に揺れ、壁にぶつかり、天蓋の柱が折れた。車軸は今にも裂けそうだった。方臘は、忽然と眼を開けた。車がかしぎ、思わず添え木に手をついた。周囲には、すでに一人の金吾兵もいなかった。方臘は激しく上下する鳳輦から身を乗り出し、馬の背中で跳ねている手綱を掴もうとした。しかし、何度ためしても、手綱は指をすりぬける。
 前方に壁が迫っていた。
 方臘がなにかに──摩尼ではないなにかに祈ろうとした時、馬車が、止まった。
 振り向くと、ひとりの雲を衝くような大男が、車の後ろ木に手をかけていた。

「杜遷が馬車を止めましたぞ!!」
 屋根の上で、蒋敬は叫んだ。手にした銅鑼を、鉄算盤でじゃんじゃんと叩いた。
 馬たちは、なお駆けようと石畳を蹄で掻く。杜遷は両腕に力を込め、両足を踏みしめた。

「宋万よ!」
 馬車は地面にぴたりと釘付けになった。
 車輪は動かず、馬たちも、しだいに落ち着きを取り戻し始めた。方臘は、馬車の中で身じろぎもせず、座っていた。その姿は紗幕の奥に隠れていたが、冠の下の双眸は、前方から進み来る人──宋江を凝視していた。
 馬車と馬が、対峙した。

 宋江は馬上から、静かに方臘を見つめていた。ふたりは、同じ目の高さで見つめ合い、誰も二人の邪魔をする者はいなかった。
 しかし、ふたりの間には玉旒と玉簾があり、宋江から方臘の顔は見えない。
 方臘の唇が、動いた。
「これほど──」
 秋の日が、路地の片隅に射していた。
「すべてを擲ち、人を損ない、これほど切に祈っても、魔物よ、なぜわが光明清浄世界の到来を阻むのか」

 宋江は答えなかった。
 答えるかわりに、宋江の眼から、涙がこぼれた。
 方臘は、その悲しみの、憐れみ深さに愕然とした。そして、狂ったように、叫んだ。
「宋江を、殺せ!!」

“祝福の鐘”が鳴る。
『宋江を、殺せ』
 方臘の声は、その音よりも鋭く空気を震わせた。
「お前は、わが影の兄弟などではない」
 その声には、恐怖に近い怒りが込められていた。
 方臘の──彼が自ら禁じたはずの“感情”が、濃霧のように人々の心へ押し寄せた。
 それは、天の声である。
「方聖公のご命令だ」
「あの男を殺せ!」
 沸き上がる吶喊のなかで、花栄は反射的に弓矢を構えた。照準は方臘の輿だ。その奥へ矢を射ろうとした時、背後の路地から一頭の馬が駆け込んできた。方杰だった。
 方杰は馬車を抑えている杜遷の背中を馬で踏み越えると、方臘の馬車の御者台へ飛び移った。
 倒れた杜遷の体の上を、生き残りの方臘兵や住民たちが続々と進んでいく。方杰が糾合してきた者たちだった。
「方聖公をお守りせよ!」
 そう言い残し、方杰は方臘を乗せた馬車を御して脇道へと駆け込んだ。
 残された住民たちが、宋江へ刃を向ける。その輪がじりじりと縮まっていく。
 蔡慶と蔡福が盾になり、宋江を守った。彼らは処刑人である。迷わず処刑刀を構えた時、二人の耳に、宋江の声が響いた。
「殺してはなりません」
 囁くような宋江の声が、二人の腕の動きを止めた。その一瞬、鶏を絞める力もなさそうな老人が、鉈とともに倒れこんできて、蔡福は腹を切られた。
 宋江が馬を下り、蔡福に駆け寄ろうとした。それを、蔡慶が止めた。
「福兄は大事ない。肉が厚くて、刃がはらわたまで届かない」

「少し、痛いがな」
 蔡福は平然と答えた。切り付けた老人のほうが、腰を抜かしてへたりこんでいる。
 刀を握り直した蔡福へ、また横から誰かが突っ込んできた。刃物が視界の隅をよぎり、蔡福は反射的に斬り払った。
 悲痛な哭き声をあげて、“敵”は倒れた。
 それは、兵士ではなく、男でさえなく、さっきまで台所に立っていたような、平凡な中年の女だった。何人もの子を育てたであろう胸から、真っ赤な血が流れていた。
 女は泣きわめき、地面を転げ回っていた。
 その声が、血の色が、人々の足を止めた。
 宋江の周囲には、数人が円陣を組んでいた。花栄は弓矢を構え、李逵は板斧を握っている。裴宣が剣を抜いて、呉用の傍らを守っていた。人々を牽制する双剣に、青い房飾りが揺れている。
 李逵は杜微の飛刀で足をやられていた。腿から血が流れているが、痛みなど少しも感じない。たとえ相手が誰であろうが、宋江を守るためなら何百人でも殺してやる。
 しかし、板斧を握った李逵の腕を、宋江が抑えていた。軽く手を置いているだけなのに、李逵は動くことができなかった。
 屋根の上で蒋敬が叫んでいた。
「宋江殿が危ない! 誰か来てくれ!」
 ほかの仲間はどこにいるのか、群衆はどんどん集まってくる。道の前後は完全に塞がれ、両側は家の塀になっている。逃げ道はない。
(欧鵬よ)
 蒋敬は救いを求め、空を仰いだ。神出鬼没の友はまだ現れず、黄金の鷹の影は見えない。
 群衆の輪は、袋の口を絞めるように縮まっていく。その数は増え続けている。
 宋江は人々に向かい合い、立ちつくしている。
 花栄は弓を構えた。
「あきらめるな、宋江」
「花栄、いけない」
 遮ろうとする宋江の手を、花栄は弓の先で振り払った。
 花栄の矢が放たれ、群衆の先頭にいた男が倒れた。
「急所ははずした。文句はあるまい」
 腿に矢を受けた男の悲鳴が、群衆の足を止めた。かわりに、石礫が飛んだ。瓦のかけらや、道端に落ちていた石ころが降り注ぎ、宋江の額を打った。
 鐘が鳴り響き、人々が叫ぶ。
『宋江を殺せ』
 その声が、突如として、かき消された。
 轟音があたりの建物を震わせ、すぐそばに建っていた三階建ての建物が崩れた。群衆の頭上に瓦礫が押し寄せ、一瞬で数十人が下敷きになった。
 この時、呉用は宋江と背中合わせ立っていた。呉用は降り注ぐ瓦礫と砂塵の向こうで、巨大な砲石が別の建物の屋根に落下するのを見た。建物は崩壊し、瓦をまき散らしながら道に屋根が落ちてきた。
 逃げ道を塞がれた──と思った時、覚えのある声が聞こえた。
「こっちだ!」
 戴宗の声に振り向くと、目の前の塀が崩れた。塀の向こうは、どこかの家の庭になっていて、戴宗と、工兵とともに投石機を操作する“轟天雷”凌振の姿が見えた。
「もっとでかい石はないのか!」
 凌振は、蒋敬の呼ぶ声に導かれ、裏道づたいに投石機を牽いて駆けつけたのだ。
 前後の道を塞いでいた群衆が瓦礫に押しつぶされ、断末魔のうめき声をあげている。
 戴宗が崩れた煉瓦塀の向こうから、宋江へ手を伸ばした。
「宋江殿、いまのうちに」
 蔡慶と蔡福が刀を振るって、群衆を牽制した。
「後は我ら兄弟にお任せあれ」
「めでたや、慶福!」
 裴宣が呉用を助けて塀を乗り越えていく。花栄も宋江を促した。
「行こう、宋江」
 宋江の足元には、杜遷が血を吐いて倒れている。

「彼を助けなければ」
 宋江は杜遷を抱え起こそうとした。
 群衆は瓦礫を踏んで迫って来る。花栄は続けざまに矢を放ち、迫りくる人々を倒した。矢を放ちながら、花栄が叫んだ。
「戴宗!」
「まかせろ」
 戴宗は塀を飛び越え、有無を言わせず宋江を背負った。そのまま庭を横切り、裏門から脇道へと逃げていく。
「こちらへ!」
 裏路地で蒋敬が待っていた。
「北門に盧頭領の軍が到着しましたぞ!」
 蒋敬は先にたって駆けだした。みなが後に続いていく。
「──戴院長」
 戴宗は背中で宋江の声を聞いた。
「おろしてください、自分で歩けます」
 戴宗が、宋江を下ろした時だった。
 薄暗い路地から、ひとりの男が宋江をめがけて飛び出してきた。
 手には短刀を握りしめていた。
 晴れた空から、雨粒が、ぽつりと落ちた。

 盧俊義軍が入城し、清渓県はさらに混乱を極めた。
 城内の人々は、今日こそ“終末”、最後の日だと狂信した。
「いまこそ死ねば、光となれるぞ。生き残れば、魔物に喰われて、同じ魔物になってしまう」
 それが、日常、精舎で彼らに教え込まれてきた“終末”の姿であった。
 鐘が響き、人々の信仰と勇気を鼓舞した。
 実際、盧俊義軍は魔物であった。野獣である。彼らは直前、多大な犠牲をもって歙州を落とした。その勢いのまま、ここまで来た。
 仲間たちの死に顔が、死にざまが、まぶたに鮮明に焼きついている。彼らは、仲間であり、友であり、肉親であった。
 ならば、相手は、どうなのだ。
 兵だろうと、民だろうと、武器を握った以上は、同じく“敵”だ。生きるために戦うことに、躊躇はなかった。
 その尖兵が、盧俊義であった。彼らは、抵抗する住民を殺戮した。
 側溝に、血が川となって流れていく。
 鄒淵と鄒潤は、数えきれない住民たちを殺した。李立は、無数の救いようのない魂を冥土へ送った。あきらかに非力な男が、人を殴ったこともないであろう女が、誰も、武器を捨てなかった。
 鐘は、鳴り続けている。
 ひとつ、ふたつと城内の鐘が沈黙しても、城の中心にある鐘楼の大鐘は、いまだ高らかな祝福の音を轟かせている。
 朱仝が悪寒を感じて背後の街路へ振り向くと、楊雄が通り過ぎていくところだった。
 その足取りは、速くもなく、緩くもなく──通り過ぎた後には、首を失った死体が点々と道に倒れていた。
「もう、たくさんだ」
 朱仝は、鳴り響く葬送の調べに抗うように、声をあげた。
「こんなことは、もうたくさんだ!」
 しかし、方臘を捕らえぬまで、この戦いは、終わらないのだ。

 時遷は死に物狂いで屋根から屋根へ駆け回っていた。
(方臘はどこや、方臘は!)
 目印は、黄色い天蓋だ。
(どこや!!)
 息があがり、喉がからからに乾いていた。何度も瓦の上に倒れそうになりながら、時遷は走った。
「あっ!」
 何軒か先に、大きな屋敷があった。その裏門から、一台の馬車が走り出て行く。黄蓋が見えた。
「方臘を見つけたで!!」
 馬車は太陽が進む方角へ、西へ向かって去っていく。

『方臘は西へ逃げた。全軍西門へ!!』
 指令が梁山泊軍へ伝わっていく。呼延威も伝令となって城内を駆け回った。そして、城市の真ん中あたりで、連環馬軍──呼延灼と小魚に出会った。
「父上!」
 呼延灼は息子の顔を一瞥した。呼延威の甲冑は血で汚れ、顔にも刀傷がある。しかし、呼延灼はなにも言わなかった。呼延威は言いなおした。
「呼延将軍、方臘が逃げます!」
「どこだ」
「西門です!」
 冷徹な父親の問いに、息子も勇敢に答えた。
「ついてこい」
 呼延灼は馬を西に向けた。駆けだすと、背後で呼延威の声が響いた。
「あっ」

 呼延灼が振り返ると、呼延威が近くの建物から射られた矢を受けて、馬から落ちるところだった。
「威児!!」
 矢が連環馬軍に向けて降り注ぐ。しかし、彼らは鉄鎧を身につけている。呼延灼は、迷わなかった。
「西へ!」
 小魚が、ひとり馬首を返した。
「将軍、ここは僕が」
 小魚が倒れた呼延威へと駆けてゆき、“軍神”呼延灼は、軍とともに西へ向かった。
 戦いは激しさを増している。
 すべての殺気が、闘志が、西門に集中していた。

 朱武は冷静な男だ。
 山賊の首領を務めたが、性格的には平凡でさえあったかもしれない。彼の興味は陣形とその運用のみにあり、自分の感情すら、俯瞰して見る癖があった。
 朱武は盧俊義とともに北門から入城し、城内を南へと向かった。宋江軍と合流するためだ。盧俊義は先行し、朱武は後続の歩兵軍が到着したのを見届けてから、城の中心部へと馬を進めた。一番最後に入城した歩兵部隊が朱武に従っていた。
 傷だらけの、汗と垢にまみれた屈強な歩兵たちだ。過酷な歙州攻め、山越えを経ても、彼らの気力はいささかも衰えていなかった。
「くそっ、さっさと終わらせて、水浴びしてから、たらふく酒が呑みたいぜ!」
 城内は戦いの喧騒と、それを圧するほどの鐘の音が渦巻いている。朱武はその煩さに目眩を感じ、外界から意識を逸らそうとした。集中すれば、朱武は聴覚を閉じることができる。
 しかし、その鼓膜を閉じようとする朱武の耳に、“方臘”と叫ぶ声が突き刺さった。見れば、ばらばらと梁山泊軍の兵士が通りを駆けていく。宋江隊の兵だった。
「方臘が西門から逃げるぞ!」
 そう聞き取るや、朱武は馬をそちらへ向けた。道の先は、広場だった。日常は市場として使っている場所だろう。
「この先が西門だ! 馬車が逃げるぞ!」
 朱武について来た盧俊義隊の歩兵たちが飛び出した。
 真っ先に広場へ駆け込んだ勇敢な歩兵たちが、何歩も行かずに矢を浴びて倒れた。思わずあっと声をあげると、次の矢が来た。へたくそな矢だった。
 市場に並ぶ差しかけ小屋や、露台の陰から、住民とおぼしき射手たちの姿が見えた。武器を手にした老若男女が、物陰からぞろぞろと現れてくる。広場の半分ほどを埋める数だった。心張り棒や、煉瓦のかけらを握っているだけの者もいた。彼らが頭に巻いた白い布切れのために、市場は中途半端な雪が降ったよう白く見えた。
 馬上の朱武からは、彼らの向こうに、駆け去っていく馬車が見えた。
(あれが、方臘!)
 気がつくと、朱武は剣を抜き、広場へ躍り込んでいた。
 朱武は肩のあたりに矢を受けた。痛みと同時に、脳裏に激しい電光が閃いた。

 陳達、楊春、少華山の峰──ともに過ごした長い日々。すべての日の、風の匂いと、日の光と、あらゆるものが、朱武の中で膨れ上がり、爆発した。
 朱武の剣が、道を遮るものを斬った。倒れた相手を馬で踏み越えて進んだ。そして、また次の敵を殺した。方臘と彼の間を遮るものを倒しながら、朱武は進んだ。その血の道の果てに、彼が失ったものが、あるはずだった。方臘を殺せば、それが取り返せるはずだ。
 この道は、あの──少華山に続く道だ。
(陳達、楊春。待っていろ)
 朱武と歩兵たちは、方臘が逃がそうとする清渓県の人々を、道を遮る住民たちを、殺し続けた。

 その気配を、すさまじい殺気を感じながら、方臘の馬車は西門に向かって逃げた。城内から集まってきた二十騎ほどの金吾兵が、その周囲を固めている。
 背後には、魔物の軍団が迫っている。その牙の触れ合う音を、生臭い息を、方臘は項に感じた。
 すでに黄蓋も壊れ、玉簾は飛び散り、紗幕もびりびりに引き裂かれている。
「魔物ども、魔物ども……!」
 無残な乗り物のなかで、方臘は震えた。
 摩尼光仏は、光の王は、なぜここに降臨して、魔物どもに鉄槌を下さないのか?
 なぜ、あのような闇の魔物を、この世界に野放しにしておくのか。
 なぜ、自分には、闇を払う力がないのか。
 これほど光を、救いを、光明清浄世界を、求めているのに!

 馬車は激しく揺れながら走り続ける。
(世界よ、お前は、救われたくないのか)
 方臘は、震える両手で顔を覆った。
(人よ、お前たちは、清められたくはないのか)
 御者台から方杰の声が聞こえた。
「前方に敵だ!」
(まだ──犠牲が足りないというのか)

 梁山泊軍も、方臘軍も、明教徒の住民も、みなが西に向かい始めた。
「方臘は西へ逃げたぞ!」
 梁山泊軍は方臘を捕らえるため、明教徒は方臘を逃がすためである。ただ、彼らには、もうひとつ、目的があった。
「宋江を殺せ!」
 その男は、住民の中でも“勇者”だったに違いない。
 手にした短刀は、安物だが、よく研いである。
 頭の中には、祝福の鐘が音高く鳴り続けている。鐘は唱える。
”清浄光明大力智慧至上至尊摩尼光仏”
 男は短刀の柄を自分の腹に当てるようにして、宋江めがけて駆けだした。
 宋江は、その男を見た。平凡な、ふつうの人間だった。
 宋江と明教徒の男は、腕を伸ばせば接するほどに近づいていた。
 宋江の足が動いた。
 宋江は、ただ、彼を抱き止めようとした。

 導くのでも、救うのでもなく、この一人の人間へ、その両腕をさしのべた。
 それだけだった。それなのに、男の足は突如として力を失った。男の両目が見開かれ、短刀が落ちた。男は、恐怖でもなく驚きでもなく、母の懐に戻った赤子のような、無情の喜悦、まさに清浄な光明に包まれた。
 男の体は無力となり、大いなるものの懐へ、自ら身を投げかけた。
 しかし──男は、宋江の腕に触れる寸前で、前のめりに倒れた。
 男の背には、槍が深々と刺さっていた。やがて悠然と蹄の音が近づいてきて、路地の闇から現れたのは、盧俊義だった。
「危なかったな、宋江殿」
 すべては、一瞬のできごとだった。
 宋江は、馬上の盧俊義を見上げることなく、駆け寄ってきた呉用たちに振り返ることもなく、足元で息絶えた名も知らぬ男の死に顔を、呆然として見つめていた。

 蔡福は、目を開けた。
 なにかが、ぽつりと額に落ちた。
 涙だろうか。
 泣いているのは──自分だった。腹に、刀が六本、刺さっていた。背中と、肩にも誰かが斬りつけた傷があった。体中に、無数の傷がある。
 そばには、蔡慶が倒れていた。彼の双子の弟は、死んだように動かなかった。しかし、まだ生きていることが、蔡福には分かった。
 弟を助けようと、蔡福は起き上がろうとした。その体に、また群衆が斬りつけた。
 蔡福は抵抗しようとした。腕を動かそうとしたが、鉄腕には、もう力が入らなかった。腕には、無数の小刀が突き立っていた。
 蔡福は、腹に刺さっていた刀を一本ずつ抜くと、弟の体の上に、覆いかぶさるように倒れた。
 家々の台所や、道具箱から持ってきたような、小さな武器が、次々と、蔡福の大きな体を埋めていった。
 また、どこかを刺された。もう体の感覚はないのに、ただ痛みだけを感じる。
  痛い
  痛い
  痛い
 視界は暗く、なにも見えない。声が聞こえる。
『魔物を殺せ』
『ひるむな』
『なんと、まだ動いているぞ』
『ばあさん、それ、あんたも』
 耐えがたい苦しみと寒さの中で、喜ぶ人々の声が聞こえた。
『やったぞ』
 自分を殺して、喜び合う人々の声だった。
『やったやった、まものをたおした!』
 蔡福も、笑った。
『めでたや──慶福』



※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。




back