水滸伝絵巻-graphies-

第百三十回
聖者の敵(三)影の兄弟





 この日、杭州は晴れていた。

 夏の眩しさと、秋の穏やかさが混ざり合った朝の光が、銭塘江に降り注いでいた。
 空には、綿を引いたような雲が幾筋か。
 河を見下ろす寺の窓にも、白い光が射していた。
 その窓に、細かな葉を繁らせる枝が伸びていた。
 墨色の木の影が、白い窓紙に揺れている。その枝を、一匹の虫の影が歩いていた。
 触覚と足をしきりに動かし、葉の隙間を登っていく。
 半開きの窓の外に目をやると、合歓の枝を一匹の小さな象虫が這っていた。
「……ふしぎだ」
 朱富は傾いた椅子に腰掛けたまま、登り続ける象虫の影を目で追った。
 影になって初めて、そこに象虫がいるのに気がついた。
 ほんとうの象虫は、その影よりも、ずっと小さく、枝の色に紛れていた。
「影絵のほうが、虫も葉も、ものの形が、よく見える」
 寺の鐘が、ぼんやり鳴った。

「ふしぎだな、兄さん」
 朱富の傍らの寝台には、兄の朱貴が眠っていた。
 昏々と眠り、もう何日も目覚めていない。
 そんな病人が何人もいる。しかし、病人の数は日毎に減った。
 そして、墓の数が増えていく。
 杭州城内の毒水にあたり、梁山泊軍から離脱した病人たちは、みなこの銭塘江を見下ろす小高い丘に建てられた、六和寺に収容されていた。頭領の中では、楊林、白勝、朱貴と穆弘が倒れ、すでに白勝は亡く、そして、昨日、孔明が死んだ。
 次は朱貴だ──と、朱富は漠然と覚悟していた。
 朱貴の顔は黒ずみ、頬骨が浮いて、ほとんど息の気配もない。
 仲間を救う薬を求めて、朱貴は、自らの身であらゆる解毒薬を試したのだ。そして、その劇薬が、さらに朱貴の命を蝕んだ。
(そこまでしなくとも)
 朱富は思った。同時に、朱貴が止めないことも知っていた。
 子供の頃から、二人は似ていない兄弟だった。顔も、性格も、生き方も似ていなかった。朱富は武術を一日で諦めて家業の居酒屋を継ぎ、朱貴は弓矢を手に故郷を捨てて江湖へと旅立った。
(兄さんは、頑固だ)
“地囚星”の朱貴はいつも何かに囚われ、“地蔵星”の朱富はいつも蔵れた。
 しかし、辿りついたのは、同じ梁山泊だった。
 朱富の顔に笑みが浮かびかけた時、朱貴が、うすく目を開けた。
「……聞け」
 朱貴の掠れた声が、朱富に命じた。鋭い目が、枕元の碗を睨んでいた。
 碗の中には、異臭を放つ薬が半分ほど残っている。この薬を飲んだ朱貴は、夥しい汚血を吐いて昏倒したのだ。
「この調合は、毒だしの効果がある……しかし、強すぎる。あとは──お前が続けろ」
 朱貴の骨だけになった指が動いて、朱富の手首に食い込んだ。

「お前が、必ず、この薬を完成させろ」
 見開いた朱貴の目に、朱富の姿が、鏡のように映っていた。
 朱富は、笑った。
 朱貴の目の中の、朱富も、笑った。
 この日、“旱地忽律”朱貴が死んだ。
 窓の外には透明な光が満ちて、木々の葉が、静かな風に揺れていた。

 小さな黄色い蝶々が二羽、たわむれながら合歓の枝をすりぬけて、ひらひらと、どこかへ飛び去って行った。



 童猛は、方臘兵に囲まれて、湿った地面に座っていた。
 鮮やかな色の花をつけた、見たことのない植え込みのそばだった。花は赤くて可憐だったが、枝には刺がたくさんあった。身動きすると肌を刺すので、童猛はじっと座っていた。目の前を、小さな蝶が飛んでいた。
 蝶は、童猛から、童威へ、それから李俊の肩に止まった。
 李俊は、やはり地面に座り、じっと目を閉じている。
 阮小五から受けた李俊の傷は、浅くなかった。胸からは、花より赤い血が、いまも流れ続けていた。
 阮小五の傷も、軽くはなかった。同じく地面に座らされ、阮小七が支えていた。
 彼らは、今朝、閉じ込められていた建物から連れ出され、この庭へ連れてこられた。尋問があるのだと察し、阮小七は油断なくあたりの様子をうかがった。
 ここは、清渓県の城内──県の役所だ。船ごと捕まったあと、縛られ、連行されたのだ。阮小五は最後まで激しく抵抗して、体中に青痣ができ、肋骨も折れていた。
 方臘軍は、いちおう傷の手当てはしてくれていた。彼らの態度からは、李俊たちをどう扱っていいのか、戸惑っているのが感じられる。
 李俊の表情は、読めない。
(いつも通りだ)
 だからといって、安心できるわけではない。
 やがて、庭に面した建物の中で、人々が動く気配がした。まもなく、庭を見下ろす石段の上に、ひとりの小柄な老人が疲れた様子で現れた。
「婁丞相、彼らが“投降者”です」
 李俊たちを捕らえた将が、報告した。
「身分のある将のようなので、梁山泊軍との交渉材料になるかと捕虜にしました。方聖公の威徳を慕い、投降を望んでおります」
 軽く頷き、ゆっくりと階段を下りてきたのは、到着したばかりの丞相・婁敏中だった。間近でみると、老人というほどではないようだった。

「米を手みやげに、投降……よくある手だ」
 婁敏中は感情のない目で、李俊を手招きした。
「梁山泊軍は次々に我が軍を打ち破り、この県にも迫ろうとしている。なぜ、この時に、投降を?」
 李俊は婁敏中の前に進んだ。上半身は裸で、胸の傷に布を巻いている。背中には、混江竜の刺青が鮮やかだったが、それを背後から見つめる童威と童猛には、明らかに不安があった。
 彼らにも、李俊は本心を語ることはないのだ。
「このままでは、梁山泊は、勝てない」
 その李俊が、口を開いた。
「梁山泊軍は兵も少なく、食料の補給も断たれている。このままでは、梁山泊軍は全滅する」
 婁敏中は、見かけよりも聡い。
 そのあたりの事情は、婁敏中もうっすらと掴んでいた。
 梁山泊は、招安には乗り気ではなかった。また招安にあたっては、朝廷内で意見がわかれ、東京に入城した梁山泊軍幹部を暗殺しようとする動きもあったという。
 内紛からの離反──も、歴史上によくあることだ。
(だが)
「宋江が、投降を望んでいるのかね」
「いや」
「では、なぜ」
「これは、あたしの独断です」
 婁敏中は、かすかに笑った。
「梁山泊軍は、よく詐術を使う」
「そうとも、てめえを殺しにきたんだ!」
 その時、阮小五が大声をだした。
「ぶざけるな、李俊! 宋江兄貴が方臘なんぞと手を組むか!!」
 婁敏中は、はじめて阮小五に気がついた。
「あの男は?」

「俺は、てめえらが殺した“立地太歳”阮小二の弟だ、“短命二郎”の阮小五と覚えておけ!」
 阮小五は兵士たちに押さえつけられながら、婁敏中を睨み付けた。
「アニキは富春江で死んだ! 死体もあがらねぇ、嬉しいか!!」
 叫びながら、阮小五の脳裏には、帆柱の上で、たったひとり敵に囲まれ、自刎して果てた阮小二の姿がまざまざと蘇っていた。
『この体内の血は、最後の一滴まで、俺を知る者たちのものだ』
 その言葉が、阮小五の体内でこだましている。
「くそっ、殺せ! 俺もここで殺してみろ!!」
 婁敏中の顔色がやや変わり、遠い目をした。
 李俊の語る“道理”よりも、婁敏中は阮小五の“憎悪”を信じた。
 彼もまた、闇を知り、闇に生きる人間だった。
 捨てられ、疲れ果てて、なお家路を辿らんとする老犬のごとく、婁敏中は李俊へ視線を向けた。
「お前の望みは?」
「“救いたい”」
 李俊が嘘をつかないことを、童威と童猛は知っている。“混江竜”は、嘘をつくなら沈黙する。
「この戦いを終わらせて、梁山泊を救いたい。盧頭領が本当に投降したなら、会わせてくれ」
 婁敏中は悲しげな目をしたが、反論はしなかった。
「方聖公に、お伺いをたてよう」
 兵士に命じた。
「奥の建物に閉じ込めておけ。その男も」
 婁敏中は、阮小五を指で示した。
「宋江を投降させるなら──仲間を殺してはよくなかろう」
 そして──と、去っていく婁敏中の背中が続けた。
「“李俊一党も、梁山泊軍から離反して、投降した”と喧伝せよ」

 婁敏中が去ると、李俊と阮兄弟は、別々の建物に連れて行かれた。
 李俊は童兄弟ととともに客間に軟禁され、阮兄弟は役所の中の牢だった。許船頭はじめ水夫や漕ぎ手は、また別の建物に入れられた。
 阮小七は、床に倒れ込んだ兄を支え、粗末な寝台に寝かせた。
「いい芝居だったろう」
「ああ、一目置くぜ」
「アニキが、最後に言いやがったもんよ。“おまえはすぐカッとなるからダメだ”とな」
 方臘軍が憎いのは本当だ。怒りも演技ではない。しかし、阮小五は分かっていた。
 李俊は、勝負をかけたのだ。
 命懸けで、清渓県に飛び込んだ。梁山泊軍が攻め寄せれば、内応できる。その“芝居”を方臘軍が信じるように、阮小五も“仲間割れ”の芝居で手を貸したのだ。
「あとは李俊がうまくやる」
「梁山泊にこの報が伝われば、驚くだろうな」
「まさか。誰も李俊が裏切ったなど、信じるか」
 阮小五は横たわり、息をついた。阮小七は黙っている。
「どうした、小七」

「李俊だが……まさか」
 阮小七は、婁敏中と向き合った時の、李俊の横顔を思い出していた。
「本当に──ってことは、ねぇよな。本当に、方臘軍に」
 体を起こそうとして、阮小五は肋骨の痛みに顔を歪めた。そのまま、また横たわり、阮小五はぼんやりと天井の梁を眺めた。
「じょうだんはよしやがれ」



 時遷は、壁を探っていた。
 朝飯が来たばかりだから、夕飯までは、だれもこの地下牢にはこない。
 丈夫な壁だ。天井はどうか。
 岩盤を掘り抜いた牢で、とても抜け出せそうにない。
 出入り口は頑丈な鉄の扉だけで、前には見張りが立っている。
(わいとしたことが……面目ない)
 寝台にあぐらをかいて、時遷はがっくりと肩を落とした。
(鼓上蚤、失格や)
 もう、何日もここに閉じ込められている。
 盧俊義は歙州に駐屯中だ。それを宋江に報告すべく、時遷は睦州へ出発した。近道は、山越えをして分水県から桐盧県に出て、睦州だ。しかし、途中の分水県で官軍に捕まった。すでに睦州も落ちて、そこまで宋国軍が入ってきていた。
 時遷は手形を見せたが、拘束され、この離れに監禁された。
(こんなこっちゃ、あかんで)
 この地下牢は、まるで鉄でできた箱のように抜け出せる綻びがない。
「どないしょ、ネズ公」
 時遷には、“こそどろ”の直感があるのだ。
(なにか、ヤバイことがおこっとるでぇ……かくなるうえは)
 時遷は鉄の扉に体当たりして、泣き声をあげた。
「たすけてくれぇ……腹が痛くて死にそうやぁ……」
 しかし、いくら泣いても、叫んでも、扉の外から反応はない。
 時遷はだんだんと、本当に哀しくなってきた。宋江隊はどうなっているか。盧俊義隊はどうなるのか。このまま、自分はここで朽ちていくのか。本当に腹まで痛くなってきた。
(わいはコソ泥もやめたから、泥棒の神様も助けてくれへん)
 時遷は蚤のように背中をまるめ、シクシクと泣いた。
(わいが死んでカミサマになったら、泥棒をやめた奴でも、助けてやろ)
 そんなことまで考えはじめたとき、扉が開いて、看守がぬっと顔をだした。
「出ろ」
 時遷はきょとんとして座り直した。
「あ、ハライタ……」
 看守は、時遷を地下牢から追い出した。
 外に出ると、時遷を拘束した田舎者の軍官が待っていた。
「行き違いがあったようだ、知らせがあった。行っていいぞ」
 なんの説明もなく、時遷は解放された。
「けったいなこっちゃ」
 時遷はわけが分からないまま、睦州に向かうことにした。分水県から桐盧県に向うのは山中の一本道だ。夕刻、空に星が輝く頃、道端で弁当を使っていた時遷は、目の前を走り抜けていく人影に向って声をかけた。
「あっ、戴宗はん」

 走りすぎた人影が、砂塵を蹴って戻ってきた。
「時遷か、よく会えた。分水県に行けと言った軍師の炯眼はさすがだな」
 戴宗は呉用の命令で、盧俊義の動向を探りに行くところだった。
 二人は早速、お互いの情報を交換した。
「南路軍は睦州を落としたが、童貫の横槍で宋江殿は拘束された。盧頭領が方臘軍に投じたという噂があってな。梁山泊軍は宋江殿ぬきで清渓県を攻めることになるだろう。死にに行くようなものだ」
「北路軍も歙州を落としたで。ぎょうさんの兄弟が死んでなぁ……。盧頭領が方臘軍に投じたんやのうて、明教徒に盧頭領に協力する者たちがおるんや。そいで、これからどないしょ」
「とにかく、清渓県に攻め込むように伝えてくれ。俺も、急いで睦州に戻る」
 戴宗は水を一口飲むと、駆けだした。
「軍がそろえば、勝つ見込みはある!」
 時遷も食いかけの弁当を懐につっこんだ。
「走るで、ネズ公!」
 太陽は、頭上にぐんぐんと昇っていく。



 睦州を発った梁山泊軍は、疲労を残さぬよう無理のない進軍速度を保ち、一昼夜をかけて無事に山越えを果たした。
 未明に出発し、清渓県側の麓に下りたのは、翌日、昼すぎのことだった。麓から県城までは、馬も通れる街道が通じており、その後も行軍は順調だった。
 風は清らかに澄み、時折、秋の花の蜜を求める蝶たちが、呉用の馬に寄ってはまた飛び去った。
 関勝、花栄、秦明、朱仝を前軍として進み、呉用は宋江を擁する後軍にいた。
 歩兵が主で、李逵と蔡福、蔡慶の兄弟が宋江の馬の前後を守っている。呉用の馬の手綱は、樊瑞が取っていた。
 馬前に揺れる白髪が、呉用を複雑な気持ちにさせた。
 風が途絶えた。
 樊瑞もなにか感じたのか、ふと振り向いた。
「樊瑞、なにか……感じますか?」
「いいや、なにも」
 呉用は樊瑞の白髪に、公孫勝を見ようとした自分を、寂しく思った。
 樊瑞の首には、流星鎚がかかっている。
 樊瑞は、もうなにも感じない。法力は完全に失われた。あるいは、この世界から消え失せたのかもしれない。
 しかし、樊瑞は、憂えていない。
 彼はいま、理解したのだ。
 師であった“混沌子”が、なぜ法力とともに、武器を与えたか。
 毘沙門天が、なぜ、宝塔と剣を掲げているのか。
 法力も武力も、同じものだ。混沌から生まれ、混沌に還る、森羅万象と同じものだ。
 公孫一清はどちらも信じ、混沌子は、どちらも信じていなかった。
 それも、結局は、同じことだ。

(すべての力は、おのれの内にあるものだけ。目には見えぬ)
 それは、真昼の星のようなもの。
 見えねども、ある。
 会えねども、いる。
 力は枯れはて、ともがらを失い、廃人になりかけた今こそ、樊瑞は自分の力の有り様を知った。その強さも弱さも、大きさも、小ささも。
 それが──樊瑞の星、“然”の姿であった。
 前軍が平地へ下りていく。
 ほどなく敵襲を告げる銅鑼が打たれ、彼方に砂塵を目視した。
「方臘軍だ!」
 戦いが始まった。
 一万の方臘軍が地平を埋める。先陣には二人の将がいた。
 金吾上将軍“皇甥”方杰、驃騎上将軍“火老鴉”杜微。
 対する梁山泊軍からは、“霹靂火”秦明が飛び出していく。巨大な背中が、方臘軍を押し返す壁のようだ。狼牙棒の刺が太陽を乱反射して、燦然たる光を放つ。
(あっ)
 呼延威は驚いた。
 梁山泊にいた時よりも、秦明が大きく見えた。
 梁山泊にいた時よりも、その声は、世界に轟く。
“霹靂火”秦明の咆哮が告げた。
 夏の終り、秋のはじめ──白昼の決戦の火蓋は切られた、と。




 初秋の空に轟いた“霹靂火”秦明の咆哮が、戦場を燃え上がらせた。
 それは、まさしく“晴天の霹靂”であった。
 山麓の空気は、すでに涼しい。
 その清澄な大気の層が、一瞬、凝固し、電光を帯びて、赤く燃え上がったようであった。
 清渓県東郊の野。山から流れ出た谷川に沿うように、街道が県城に向かって伸びている。裾野の彼方には、何軒かの白壁の民家がある。ささやかな畑が作られ、池には石橋がかかっているが、人影はない。
 取り残された雄鳥が一羽、草むらへ飛び込むと、突如として鯨波が起こり、梁山泊南路軍と方臘軍の戦闘が始まった。
 両軍は西から方臘軍、東から梁山泊軍。山裾の石の多い街道でぶつかった。
“霹靂火”秦明が梁山泊軍の先鋒を担っている。元青州軍都統制にして、梁山泊軍五虎将の一人である。従う股肱、青州兵の生き残りたちが、南斗の旗を掲げていた。秦明の最初の妻、黄貞香が手ずから縫い上げた軍旗である。

 黒地に金糸で南斗六星を縫い取った旗が、梁山泊軍の陣頭に翻る。その旗を背に、秦明は敵の正面へ愛馬・朱雀を躍り込ませた。狼牙棒が空に大きな輪を描き、そのたびに敵が倒れた。
 秦明の古傷を宿した左足は、鐙に革紐で固定されている。しかし、彼の卓越した武芸を邪魔する要因とはなりえなかった。鋼の脚をもつ朱雀と、鋼の腕をもつ秦明が人馬一体となり、彼らの力は倍増した。馬体を備えた魔物とさえ、方臘軍には見えたのだ。
 両軍の喚声が、山々に谺している。
 秦明と、彼が率いる先鋒軍の猛然たる一撃を受け、方臘軍の正面は大きく崩れた。その亀裂をさらに広げるべく、関勝と朱仝が左右から秦明軍を援護している。花栄の弓隊は乱箭を放ち、先鋒軍を包囲しようとする敵軍の動きを牽制した。
 敵の采配も機敏に動く。秦明に崩された前軍の体勢を立て直し、同時に後方の部隊を両翼へ展開させる。梁山泊軍の進軍を阻む布陣だ。
 呉用は後方の高所にいて、敵軍の動きを凝視していた。
「あの敵は、戦いに慣れている」
 宋江軍の兵力は、一万余り。敵の数はその倍はある。清渓県方面から陸続と到着する隊列が、左右に伸長する鶴翼の陣形を増強すべく整然と流れ込んでいく。
 よく訓練された兵だった。すでに方臘軍には精鋭は残っていないはずだから、おそらく、後方──方聖宮からの援軍だろう。全軍から選抜された金吾軍であるかもしれない。
(いままでの方臘軍とは、どこか違う)
 強さや、必死さではなく、なにかが、違った。
(将のためか?)
 呉用は後方に翻る敵将の旗へ目を向けた。
 方臘軍を率いている将は、二人。どちらも若く、そして、手強い相手だった。
 通常、方臘軍は明教を象徴する純白の旗を立てるのみで、将の名などは記さない。しかし、この敵将は異なった。

 敵前軍を指揮している将は巨躯で、方天画戟を使っていた。その旗印には、金色の太陽が輝き、金吾上将軍・方杰の名が記されていた。方臘の甥にして、方臘軍の総帥である。彼が戦巧者で知られることは、呉用も情報を掴んでいた。
“皇甥”方杰は前軍が崩れたと見るや、勇躍、馬を前進させ、大振りの画戟をもって秦明の狼牙棒へ挑みかかった。
 秦明と方杰は、ともに巨躯大力の猛者である。秦明が熟練の技ならば、方杰には青春の気迫があった。ふたつの武器が陣頭に三十余合を激しく交え、火花が乱れ飛ぶ鳥のごとく秋天に弾けた。

 方杰は果敢に打ち込んでいく。その剛力に、刃を受け止めた秦明の馬の足が乱れた。が、馬上の秦明は寸分の隙も見せない。沈着かつ猛烈な打撃が、次第に方杰を圧倒した。
 もうひとりの将は、方杰の背後で宝剣を手に兵の指揮をとっている。

 それが、副先鋒“火老鴉”──舞い飛んで延焼させる巨大な火花──と呼ばれる男であることは、梁山泊軍の誰も知らない。
 両軍は狭い野に広がり、せめぎ合いとなっている。数にまかせて壁を作る方臘軍に対して、梁山泊軍は突破口を開くべく体当たりを繰り返す。
 宋江、呉用らの後軍は、山の麓近くの高くなった場所に立っていた。帥字旗はない。王稟に没収されたままだった。しかし、誰もが、自分たちの後ろには必ず宋江がいることを知っている。
 梁山泊軍の士気は、戦うほどに増していく。
 街道の中央に陣取る方杰を秦明に任せ、関勝が動いた。敵軍の左翼が薄い。そこを狙って邁進する関勝の意を察し、朱仝と李応が加勢に続いた。
「左翼を破れ!」
 関勝の突破を阻まんと集結する方臘軍に、樊瑞の流星鎚が襲いかかる。楊雄が隻腕に斬首刀を握りしめ、幽鬼のごとく斬り込んでいく。
 関勝の声が響いた。
「突破できる所を突破せよ!」
 それぞれ部隊が、それぞれの男たちが、それぞれの道をたどって清渓県を目指していた。
 彼らは、まだ見えぬ清渓県の門を脳裏に見ている。あの城を落とせば、あとは方臘の本拠地・幇源洞へ進むのみ。
 方臘軍も勿論それを知っている。抵抗は鉄壁のごとく堅く、両軍の死傷者が街道に、路傍に折り重なる。戦況は一進一退、どちらも半歩も道を譲らない。
 呉用の目が、戦場を越え、県城を越え、北方の空を見つめた。
「盧俊義隊は、まだか」
 地上の熱気を知らぬげに、空は、どこまでも無情に澄んでいる。



 その同じ蒼天を、盧俊義も見ていた。

 前日、分水県から駆け戻った時遷の報告を得た盧俊義は、すぐに朱武に出陣を命じた。童貫の怪しい動き、宋江と梁山泊南路軍の危機──盧俊義の決断は早かった。
「清渓県を攻め落とす」
 軍師・朱武はすでに全軍に出陣の準備を終えさせ、いつでも出発できるよう待機させていた。
「山を越え、清渓県へ」
 決戦である。それよりも、あの山を越えれば、南北に分かれた友軍と合流できる──宋江に会える。
 その期待、安堵、喜びが、郁嶺関で多くの仲間を失った盧俊義軍を力づけた。
 林冲と孫新、千余りの兵を歙州の抑えに残して、全軍が歙州を出た。
 目指すは、歙州と清渓県を隔てる山々である。間には街道が通じており、梁山泊軍は山間の隘路を快走した。
 盧俊義が先頭を行く。彼が騎乗するのは、名馬“転山飛”である。林冲が王寅を倒した後、主なき馬となった“転山飛”は猛り狂い、捕らえようとした何人もの兵に傷を負わせた。
「この馬は、殺すしかない」
 人々が諦めかけた時、盧俊義が歩み寄った。
 両者は、しばらく睨み合った。それから盧俊義が甘い瓜を割って差し出すと、“転山飛”はおずおずと匂いをかぎ、やがて貪るように喰ったのだった。
 山中を行くこと飛ぶがごとき“転山飛”にとって、山間の街道など平地も同じだ。馬は夜目の効く動物だが、“転山飛”は特に優れ、闇夜でも迷わず道を進んだ。
 梁山泊軍は疾走する盧俊義を追いかけ、終日、足を止めることなく進み、兵糧も走りながらとった。山を越え、谷を渡り、最後の峠にさしかかった時だった。
 先頭を進んでいた黄信が、空に立ち上る砂塵を目にした。
「方臘軍だ!」
 前方は、右手から左へ、剃刀のような鋭い角度で傾斜がついている。
 その稜線から、おびただしい白旗が現れた。
 方聖宮から派遣されてきた賀従竜率いる方臘軍である。
 場所は砂礫の多い急斜面で、手前には灌木がまばらに生えている。灰色の砂礫場の向こうに身をひそめ、方臘軍は盧俊義たちを待ち構えていた。
 彼らは初め、近隣の明教徒を糾合して兵力を増すつもりだった。そして、盧俊義の出陣前に歙州を包囲し、城内に残っている明教徒に内応させ、城門を開かせるべし──と、輝かしい勝利の地図を描いていた。武術教師の賀従竜らしい、周到な策と思われたが、結果は“机上の空論”であった。
 周辺の明教徒たちが、逃げ散るか、従わなかったのである。彼らは、疑り深い目を賀従竜に向けた。
「幇源洞で謀叛があり、方聖公が歙州に蒙塵なさったと聞いた」
「婁丞相が、方聖公を追放したということだ」
「謀叛の片棒を担ぐことはできぬ」
 その噂は、梁山泊軍および竜渓村の生き残りの村人たちが、道すがらまき散らしたものだった。
 賀従竜は兵力を増やせず、却って遅れをとっただけだった。
 そのせいで、歙州へ着く前に、諜者が盧俊義出陣を伝えてきた。かくなる上は、力と力で決戦を──と、この場所に潜んでいたのである。
 梁山泊南路軍と方臘軍の戦端が開かれた時、北路を進む盧俊義軍も、清渓県まで山ひとつの場所に迫っていた。
 進路を遮るのは、賀従竜軍およそ一万。兵数は、郁嶺関での被害甚大であった盧俊義軍とほぼ同じである。灰色の稜線に旗を押し立て、白日の下に姿を現した。
「雲のようだな」
 盧俊義は馬上から、眼前の峠にたなびく方臘軍の純白の軍旗を眺めた。悠揚迫らざる盧俊義の顔色、口調が、前進を焦る黄信らの熱を、秋風のごとく冷却した。

「一兵も損なえん。任せたぞ、朱軍師!」
「──お任せを」
 答えた朱武の目付きが、異様であった。
 陳達、楊春も見たことのなかったであろう、底光りする冷徹な目──それは、有象無象の魔物を率いる地魁星の魔眼であった。
「敵の上空にあがる砂塵の乱れは、兵の歩調が乱れているため……そわそわと動き、落ち着きがない。熟練の兵ではない。しかし、陣容全体は、まとまっている。将の統率力が強いのだ。将軍は、未熟な兵の調練に慣れたものだろう」
 賀従竜が武術教師であることまで、朱武は見抜いた。
「弟子は、師を頼りにするもの」
 盧俊義の唇に、笑みのようなものが過った。
「子鴨のようにか?」
「麒麟が鷹となり、親鴨を捕らえれば、子鴨は四散するでしょう」
「上策だ」
 盧俊義は一笑すると、梁山泊軍の中から駆けだした。
 後方で命令を待っていた呼延灼は、驚いて馬を朱武のともに飛ばした。平地ならば、呼延灼軍が敵陣に突入するところである。しかし、敵は有利な高所に陣取っている。朱武がどう出るか、号令を今かと待っていたのだ。
「なぜ副首領が出る」
「車軸を折れば、車は倒れる」
 朱武の払子が、敵将の旗を指した。その意味を、呼延灼は一瞬で理解した。
「あの軍の要は、あの将のみ、か」
 呼延灼は敵の陣容を一瞥した。
「しかし、敵将、出るか? 」
「敵は、自分の兵力に自信がない。将が動かねば、兵が動かぬ」
「よし。車が傾いたら、即座に車全体を粉砕する」
  呼延灼は全軍に号令した。
「盧頭領に続き、前進!」
  梁山泊軍が動きはじめた。盧俊義が先頭を行く。賀従竜もそれが敵の主将であると気づいた。“摸着天”杜遷が盧俊義の旗を掲げて、すぐ後ろに従っている。
「“玉麒麟”盧俊義。みずから挑むとは、豪胆な」
  賀従竜は沈着な勇士であり、自軍の兵力が頼りないことも知っていた。
「盧俊義を討ち取れば、わが軍は勢いづく。その上で高所から動揺する敵軍に襲いかかれば、弱兵といえど勝ち目はある」
  賀従竜は、乾坤一擲の一騎討ちに臨むべく、戦場へ馬を乗り出した。
「わしに続け!」

  賀従竜を師と仰ぐ方臘兵たちが、親鳥にはぐれまいとする子鴨のように動き出す。
  秋の峠に、二万の軍勢が肉薄した。
「進め!」
  呼延灼は鞭を掲げた。
「盧頭領に遅れをとるな!」
  鄒淵と鄒潤が歩兵を率いて山道を駆ける。
「宋江様がお待ちだよ!」
  顧大嫂が棒を振るって兵を励ます。
  黄信は、進みながら、敵軍の彼方の空を見ていた。
“時間がない”
 予感がした。
 あの空の彼方で、きっと、すでに戦いは始まっている。



 風が唸りを上げている。
 その中に、盧俊義軍の喚声を聞いた気がして、呉用は耳をそばだてた。
(空耳か)
 北方に“玉麒麟”の旗は、いまだ見えない。
(盧俊義軍は、まだか)
 宋江は、彼方を──戦場の彼方を見ている。
 彼方に連なる山並みは、この戦場とは別世界のごとく静かだ。
「宋江殿」
 呉用が言いかけた時、方臘軍の圧力がぐっと高まった。清渓県から新手の軍が到着したのだ。同時に、方臘軍から大勢の唱和する声が起こった。
「聞け! 副首領の“玉麒麟”盧俊義は明教に投じたぞ!」
「水軍総帥の“混江竜”李俊も宋国を見限り、仲間になった!」
 呼延威がはっとして、傍らの宋江を見た。
 宋江は、白馬の上に泰然と座っている。その目は彼方を見据え、その耳は、風を聞いている。方臘軍は繰り返す。
「副首領の“玉麒麟”盧俊義は明教に投じたぞ!」
「水軍総帥の“混江竜”李俊も宋国を見限り、仲間になった!」
“黒旋風”李逵が吠えるように笑った。
「うるせえ!!」

 板斧を振りかざして駆けだしていく。梁山泊軍の前進する力が強まった。あらゆるものを押し返し、前へ進もうとする力だった。呼延威は顔を上げ、手綱を握った。
「僕も行きます!」

「待ちなさい、威児」
 裴宣の声を振り切って、呼延威は馬を走らせた。心臓が早鐘を打っていた。汗が流れる。この恐怖に打ち勝つには、戦うしかない。しかし、初めての戦場で、なにをすればいいのか分からない。あたりには、敵と味方が入り乱れている。
(どこへ行けば)
 迷った、その時。戦場のただ中から、秦明の巨大な背中が彼を招いた。
 敵に囲まれ、過酷な戦いを続けていても、その背中は揺るぎなく、強かった。
 秦明は方杰と戦いながら、さらに方臘兵に囲まれている。嵐の目のようだった。狼牙棒が旋回するたび、敵の血飛沫が四方に飛び散る。
 もう呼延威に恐怖はなかった。
 呼延威は鞭を引き抜いた。父親の半分の重さの鞭だ。
 その時、方臘軍が動いた。後方の軍が、扉が開くように道を開けたのだ。その新手の軍のただ中に、黄色い天蓋が輝いている。
 その輝きに気づいた呉用は、顔色を変えた。
「あれは──まさか、方臘」

 黄色い天蓋は、“天子”のしるしだ。
 それは、幇源洞を出て親征に赴いた“方聖公”──まさしく、方臘その人であった。

 聖者の証である三筋の旗印、太陽、月、星を掲げ、方臘は金吾軍の精兵に守られていた。二頭立ての白馬に牽かれ、紗幕のかかった鳳輦の奥に鎮座して、戦場を睥睨している。
 その眼差しは、戦場に向いている。しかし、“戦闘”は見ていなかった。
 梁山泊軍が、魔物のように蠢いて、彼に迫らんと血の道を切り拓いている。天を衝く黒い熱気が、もうもうと立ち上っている。
「妖星ども──」
 方臘の口許に、恐怖か、憎悪、あるいは羨望のようなものが過った。その感情を、自分が否定しつづけてきたものを、白衣の聖人は毅然として押し殺した。
 はるか彼方──山の麓にある、宋江の陣を見据えていた。旗はなく、姿も見えねど、その一群れの人馬のなかに“宋江”がいることを、彼は感じた。
「おまえは、“影の兄弟”か? わが“伴う者”なのか? 」

 風が幕を舞いあげて、一瞬、方臘の顔に光が差した。
「宋江は、殺してはならぬ。しかし、梁山泊軍は、いらぬ」
 その言葉が、天の預言のように金吾兵たちの上に響いた。
「宋江を、わがもとに!」



 李俊は目を閉じていた。
“待つ時”の、李俊のくせだ。
 童威は、窓辺で耳を澄ましている。
「──聞こえた」
 弟の童猛は、扉の前に立っていた。
「旦那……」
 童猛は振り向き、目顔で廊下に人の気配がないことを示した。
 李俊が目を開け、立ち上がる。それは、人生の半分を李俊のそばで過ごしてきた童兄弟さえ、改めて瞠目させられる姿である。

(竜が、目覚めた)
 そこに李俊がいるだけで、静寂な空気の中に、緊張と、精気が充ちていく。
 外の状況は分からない。
 しかし、李俊には聞こえているのだ。
 あの──梁山泊の喚声が。
 童兄弟が動いた。童威が扉に体当たりし、童猛は机の足をへし折って、武器にした。扉の頑丈な蝶番には、毎日の食事のたびに油を注ぎ、釘が抜けやすく細工してある。
 童威が二度、体当たりを繰り返すと蝶番が弾け飛び、扉が開いた。
 三人は軟禁されていた客間から飛び出した。外の廊下は薄暗く、いつもは二人いるはずの見張りが一人しかいなかった。逃げようとする見張りを、童猛が後ろから机の足で殴り倒した。
 城外の喚声は続いている。
 童猛の胸は高鳴った。
(梁山泊が、そこまで来ている!)
 童威が先にたって駆けだした。童猛、そして、李俊が続く。
 許船頭と水夫たちが裏庭の厩に軟禁されていることは、食事を運ぶ兵卒から聞き出している。道筋は分からないが、役所はたいてい南が正面になっている。北に向かった。
 役所の中は、殆ど無人だ。ありったけの兵力を梁山泊との戦いに投入したのだ。
「兄さん、こっちだ!」
 童猛が呼んだ。夥しく馬糞が落ちている道がある。駆けていくと、厩があった。いくつも厩舎が並んでいたが、馬は一頭も残っていない。
「許船頭!」
 童威が呼ぶと、閂のかかった扉が中から押し破られ、許船頭と藍染めの褌を締めた竜王幇の男たちが飛び出してきた。
 許船頭は、まず李俊の顔を見た。
「やりなさるんで?」
 許船頭は、李俊の真意を確かめるように言った。彼は、李俊が方臘に投じてこの戦いから抜けるつもりか、梁山泊軍に内応するつもりなのか、判断しかねていたのである。
 李俊は静かな声で答えた。
「梁山泊を救う、と言ったはずですが」
 童威が居並ぶ竜王幇の男たちに号令した。
「阮兄弟を助けるんだ。そして、城門を押し開く!」
 許船頭の反応も早かった。手下に命じた。
「武器を探せ。なんでもいい」
 男たちは、馬栓棒や閂、飼い葉切りや秣用の鉄叉を手にとった。
 騒ぎを聞きつけ、残っていた方臘軍の兵士たちが駆けつけてくる。そのひとりを殴り倒し、襟首を掴んで、童威は叫んだ。
「阮兄弟はどこだ!?」

 その時、役所の牢でも動きがあった。
「兄貴、外で騒ぎが」
 阮小七がいち早く気づいた。牢は厩からほど近くにあり、男たちが喚く声が伝わってくる。
 阮小五は鉄格子を蹴りつけた。鉄格子は頑丈で、びくともしない。阮小七が、寝床用の藁をなって作った縄を、懐から取り出した。片方の端には、煉瓦の欠片が結びつけられている。
「石を投げて魚を獲るのは、俺がいちばん得意だった」
 阮小七は狙いを定めて縄を投げた。屋根の近くに、明かり取りの小窓がある。一発で煉瓦が枠にひっかかり、あとは小舟から敵船に乗り移る要領で、縄を握って壁を登った。
 阮小七は窓まで辿り着くと、枠に手をかけ、古い煉瓦を蹴り崩して頭を外に突き出した。
「ここだ!」
 叫ぶと、塀の向こうの中庭で、童猛が手を振るのが見えた。



 清渓県東郊、“霹靂”とともに始まった戦闘は、激しさを増していく。
「宋江を、わがもとに!」
 方臘の声に従い、白衣に金の縫い取りをした親衛兵たちが進軍を始めた。方臘軍は、すべての兵力をこの戦場に投入した。
 梁山泊軍の本陣でも、“智多星”呉用の白羽扇が敵に向かって大きく振られた。

「方臘を捕らえよ!」
 梁山泊軍から、李応と楊雄が騎兵を率いて突出していく。両軍がぶつかり、戦場に血風とともに道ができた。互いに敵陣を突破しようと、ふたつの軍が猛進し、戦場はさらに混乱を極めていく。
 戦いの中心となっているのは、依然として秦明、および彼の部隊である。
 押し寄せる敵を倒しながら進むという荒技を、開戦よりたゆみなく続けている。
 秦明も、その兵も、限界がない。秦明の超人的な強さが、常人である兵に限界を越えさせる。
 呼延威も、その兵の中にいた。初めての実戦だ。恐怖を感じる余裕もなかった。はじめは心臓が飛び出しそうだった。しかし、次第になにかが麻痺してゆき、自分が消え、巨大な熱の塊の一部になった。体が自然に動きはじめて、戦い、敵を倒し、傷を負い──無限に強くなっていくように感じた。
(これが、父上がいつも言っていた“軍”なのか)
 戦っているのは、自分であって、自分でなはい。
 秦明と、彼の率いる兵士たちは、一体となっていた。秦明の勇猛さ、堅牢さが全体に憑依して、彼らは敵の怒濤を塞き止める不動の堤防となった。
 秦明がいるかぎり、負けない。それは、兵士たちの信念ではなく、本能であり、信仰であった。
 その秦明は極限まで上半身を鍛え、馬も十分に肥えさせている。秦明と朱雀は人馬一体となり、敵の眼に映る巨大さは、人とは思えぬほどである。
 対する方杰は我が意を励まし、心中に聖句を唱えながら秦明に挑み続ける。その聖句とは、『光明清浄大力智慧』の八字でなはく、美麗なる金芝公主の面影である。
 彼の率いる金吾軍の精兵たちも、秦明を円に取り囲み、方杰を援護しようと隙を狙う。
 この時、戦場のただ中にいた秦明は、方臘が戦場に現れたことを知らない。しかし、自分の後方にいた梁山泊軍の、前進しようとする圧力がぐっと高まったことは背中に感じた。
 戦況が動いた。それを察した秦明は、梁山泊軍の前進を阻んでいる要──方杰に的を絞った。
 敵の主力は方杰と、彼が率いる精鋭部隊だ。それを秦明が足止めした。梁山泊軍が方臘を求めてじりじりと進む。
「方臘を討て!」
 梁山泊後軍から、突入を命じる銅鑼が轟く。
 秦明は朱雀を励ました。群がる方臘兵を蹴散らし、狼牙棒で叩き伏せる。方杰の画戟が、その進撃を阻まんとする。
 戦場は沸き立っていた。
 血煙の中を、梁山泊軍は進み続ける。
 関勝が、楊雄、樊瑞が、それぞれに道を切り拓いて進んでいく。
「方臘を討て!」
 秦明は、方杰をさらに激しく攻めはじめた。馬ごと体当たりするように狼牙棒を振り下ろす。裂帛の気合、秦明の燃える眼力が、方杰を圧倒した。秦明は絶え間なく攻め、ついに方杰が受けあぐねて、一瞬、退いた。その瞬間を、秦明は待っていた。もう一撃せんとする秦明の気迫につられ、方杰が防御の画戟を振り上げる。その勢いを脇に流して、秦明は一気に距離をつめ、狼牙棒を一閃させた。

 秦明の狼牙棒が突風を起こし、方杰の馬が怯んだ。秦明は朱雀をさらに乗り入れた。防ごうとした画戟の刃は、狼牙棒の刺の隙間に絡めとられた。方杰は動きを封じられ、鞍の上で体勢を大きく崩した。
 止めの一撃──と、秦明が上腕に力を込めた時だった。

 方杰の馬の後ろ──死角から、ひとりの徒歩の男が飄然と現れた。一人の敵将──と気づくより早く、男の手から秦明の顔に向かって一本の飛刀が放たれた。

 秦明は避けた。
 同時に、方杰の画戟が秦明の胸を突いた。

 秦明は落馬した。鐙と足を縛っていた革紐がちぎれ、甲冑と地面のぶつかる音が、にぶく響いた。地に倒れた秦明へ、方杰が止めの一突きを繰り出す。その一撃を、秦明は倒れたまま払った。

 戦場に、秦明の霹靂が万雷のごとく轟いた。
 画戟を払いのけ、秦明は立とうとした。あがき、傷つき、猛り狂う獣のように、倒れようとする我が身に抗い続けた。
 朱雀が嘶き、主人のもとへ駆け寄っていく。
 秦明は鞍に手をかけようとしたが、膝がひしゃげたように崩れた。
 狼牙棒を杖に、秦明は体を支えた。その背に、杜微が投げた四本の飛刀が次々と突き刺さった。
 秦明は立った。

 その胸を、方杰の画戟が貫いた。

 朱雀が啼いた。
 倒れた秦明の血まみれの手が、大地に生えた車前草を握りしめていた。

 体の下の車前草が血を浴びて、赤い色に染まっていく。
 その鮮やかな赤い色は、止まることなく、どこまでも、どこまでも大地に広がっていった。



※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。
※文中の「郁嶺関」は、正しくは郁嶺関です。




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