水滸伝絵巻-graphies-

第百三十回
聖者の敵(二)星々の歌



 彼方に山が見えていた。
 涼しげな色をした、綺麗な山だ。あの薄蒼い山並みの向こうに、まもなく梁山泊軍が向かうことになる清渓県があるはずだった。
 秦明は、土手に立ったまま汗を拭いていた。
 向こう岸を、関勝と関鈴が馬を並べて駆けていく。関勝が、幼い義子の乗馬の技を鍛えているのだ。
 秦明は手拭いを握った手の中に、赤ん坊の軽さと重さを思い出した。彼が自分の子供を抱いたのは、ほんの数回。生まれたばかりの時だけだ。最後は、遼国への出陣を控えた陳橋だった。木の葉のように軽い体から、力強い心臓の音が掌に伝わってきた。
 その子供も、東京で歩きはじめているだろう。もう喋っているかもしれない。
 馬ならば、二歳で一人前だ。しかし、秦明は、人間の子供というのが、何歳で、どれくらいの成長を見せるのか、知らなかった。
 秦明は膝をかばいながら草に座り、足元の草をちぎった。口にふくむと、じわりと苦い味がした。
「車前草ですね」
 若者の声は、呼延威だった。
 呼延威の軍での名目は“童貫の護衛”だが、具体的な役割はない。実際は“童貫の人質”だとしても、誰も彼が逃げるとは思っていないし、若年ということで警戒もされていない。
(そして、今は)
 呼延威は静かに思う。
(今は、宋江様がいるから)
 童貫が宋江を握っているかぎり、梁山泊軍は逆らえないのだ。援軍が来るとしても、童貫には梁山泊軍一万を捨てるのは惜しい。尖兵として使い、見殺しにする気なのは明らかだ。
 城内にある本営では、不愉快なことばかり見聞きする。
 だから、時間があれば、呼延威は“馬に水を飲ませる”という口実で散歩に出た。梁山泊陣営に入ることは許されていないので、梁山泊陣営に近いこの河原が、呼延威と梁山泊軍、そして、彼の父親をつなぐ細い水脈なのだった。
「お風邪ですか」
 呼延威は秦明のとなりに座った。この地味な雑草が咳に効くことを、呼延威は姉から教えられて知っていた。
「故郷では、どんな時も、これを食う。ほかに薬などはない」
 秦明は、草を食った。
 彼は、呼延威の年頃には、すでに軍隊にいた。その後は、軍隊以外の世界を知らない。
 もっとも、その前も、知っている世界はひとつだけだ。懐かしく思い出すこともなかった。しかし、呼延威が尋ねた。
「どんな故郷なのですか」
 梁山泊にいた時は、子供心に秦明を恐く感じていた。父親とは別の怖さだ。いま、目の前にいる秦明は、やや背を丸め、声は少しかすれていた。
「きっと、よい所なのでしょう」
 若者の礼儀正しい質問に、秦明も、真面目に答えた。
「開州の雪宝山のふもとだ」

「四川ですね」
「標高が高く、気候は寒冷で、雪山のふもとに草原が広がっている。馬の放牧場だ。馬を育て、売る」
 秦明は、そこで牧童として育った。親も牧馬人だったが、物心つくころには孤児だった。
 東京育ちの呼延威は、好奇心が旺盛だった。
「どんな暮らしを?」
「人間よりも、馬の方が多い。夜は、狼が集団で馬を狙って襲ってくる」
 秦明は、忘れていた記憶をいくつか忘却の淵から拾い上げた。
「だから、夜は眠らない」
「それは辛いな」
「それほどではない」
 呼延威は、父親とは、そんな思い出話をしたことはない。もっと色々、昔話を聞きたかったが、彼は、あくまでしつけのよい子供だった。
「行ってみたいな」
 行儀よく言って、口を閉じた。
 関勝と関鈴は、まだ駆けている。関鈴は、呼延威よりいくつも小さい。しかし、もう立派に軍馬を乗りこなしていた。
「──行きたいのか?」
「えっ?」
 関鈴たちを見ていた呼延威は、我に返った。
「雪宝山」
 呼延威は微笑んだ。
「ええ。いつか、宝燕さんや、紅児、藍児たちと一緒に行きましょう」
 突然、妻や子供の名を聞いて、秦明は妙な顔をした。そして、梁山泊から東京に移った呼延威が、同じく東京にいる花家の人々と親しく行き来しているのは当然のことだと思い当たった。
 秦明は、また車前草を摘み取った。その手は骨が太く、掌は呼延威の頭をすっぽりと握れそうに大きかった。
「この草は、進む」
 秦明は川を眺めて言った。
「草を踏んだ馬の蹄に種がついて、運ばれていく。なにもない荒野にも、馬が入れば、草が生える。それを喰って、また馬が進む。車前草は、踏まれても、枯れることはない」

 ふたりは、しばらく並んで座って、関鈴の乗馬や、流れる川を眺めていた。
 やがて、呼延威が、あっと小さく言って立ち上がった。 
「あれは、東京から戻った使者です」
 東から、数騎の早馬が駆けてくる。使者は、童貫の腹心、“たいこもち”の趙譚だった。
「何かあれば、すぐ伝えます」
 呼延威は急いで城内へ帰っていった。
 彼は、表向きは従順に童貫に装っている。
 しかし、心の中で、ことあらば父に代わって梁山泊のために働く──と若い決意を固めているのだ。



「なぜ李俊が」
 花栄には青天の霹靂だった。
 李応も動揺を隠せない。
「とにかく、知らせを聞いた阮兄弟が、手勢を率いて追っている」
「王稟の奴に嗅ぎつかれたら、厄介なことになる。どうする、先生」
 花栄に聞かれて、呉用がようやく口を開いた。
「童貫たちに気取られぬよう、このことは内密にしてください。阮兄弟の報告を待ちましょう」
「分かった」
 李応と杜興が去っていく。
 花栄は苛立ちを隠せない。
「いったい李俊はどういうつもりだ? なにか策があってのことなのか」
「はたして、“策”でしょうか」
 花栄は呉用を見返した。いつもの、“智多星”呉用の顔だった。
「あんた、まさか、李俊が本当に、出奔したとでも」
「とにかく……“心づもり”はしておきましょう」
 李逵は、また寝ころんだ。
 花栄は、李逵の暴走を警戒したが、李逵は、いつもの李逵のようではなかった。
 李逵は、焦挺、鮑旭、項充、李袞と、歯止めになっていた者たちをすべて失った。張順も死に、燕青という抑えのきく男も不在だ。
 宋江もいない。
 それなのに、李逵は、そこにじっと横たわっていた。

「オレは、兄貴が生きていろといえば生きているし、死ねといえば、童貫の野郎をぶったぎって、死ぬ」
 蝉の声がうるさかった。
 一本しかないこの木のどこかに、一匹だけ蝉がいるようだ。
 その蝉が、今日を命の限りと鳴いている。
 李逵はその声を聞きながら、目を閉じた。



 幽谷の川を、数十隻の船が遡っていた。
「この谷川を遡れば、清渓県まで行けます」
 地元の水路に詳しい、許船頭が案内人だ。
「江南は温暖でね、場所によって、一年に二度も三度も米がとれる。魚米の郷だ。それが、こんな痩せたクズ米ばかり……たいした“聖戦”だ」
 先頭の船には、この許船頭と、李俊、童兄弟が乗り込んでいる。
 続く船はどれも地元の輸送船で、積み荷は、各地から幇源洞に納めるために集められた米である。
 睦州が戦場になったため、郊外に停泊していた船を接収した。船にいた明教徒たちは、梁山泊軍が現れると逃げ散った。
 梁山泊軍に運ぶはずの船を、清渓県に向けさせたのは、李俊である。
 童威たちは驚いたが、抑えた。連れてきている手勢は、藍染めの褌を締めた竜王幇の手の者が殆どだった。江州勢で、李俊に逆らう者はいない。その他のものは、船には乗せず、岸に残された。
 船は谷川を漕ぎ上る。
 誰も、李俊に“理由”を尋ねはしなかった。李俊も言わない。
 許船頭は舳先に立って、水流を読むだけだった。
「従いましょう。あなたが、“幇主”だ」
 太湖にて、李俊は竜王幇の主を継ぎ、“最後の東海竜王”となったのだ。
 許船頭は、その竜王幇からの使者である。宋国に愛想を尽かした“赤鬚竜”費保らは、大海を渡れる大船を準備して、李俊が戻るのを待っている。折しも、李俊の生国であるシャムでは、大臣の専横による大乱が起こり、若い王が李俊に救援を求めてきていた。
 童威は、李俊には何か考えがあるはずだと思った。
 梁山泊のために、決死の行動をするはずだ。兵糧米を餌に、敵陣に潜入するのは、今まで何度も使った手だ。
 船団には、『献上米』の旗が掲げられている。船にあったものを、そのまま掲げているのである。
(しかし、方臘軍が、また同じ手にかかるだろうか?)
 童威は不安を払拭することができない。
(呉先生とは、打ち合わせができているのだろうか?)
「兄さん」
 童猛の声にも不安が混じっていた。
「追手だ」
 振り返ると、梁山泊水軍の早舟が白波の彼方に見えた。阮小五と阮小七が手勢を引き連れて追ってきたのだ。
「まて、李俊!」
 阮小五の声が風間に聞こえた。
「どういうつもりだ!!」

 李俊は振り返らなかった。
「船足を」
 上げろ、というのだ。銅鑼が響いて、漕ぎ手たちが櫓を握る手に力を込める。
 両側は江南の渓谷にありがちな切り立った灰色の断崖である。その隙間を滔々と流れる川を、船団は一列になって遡って行く。
 上流に、方臘軍の水砦が見えてきていた。白い旗が幾筋もたなびき、柵を巡らせた中に、何隻かの戦船が停泊している。
 李俊たちに気づいた方臘兵が、銅鑼を打ち、武器を持って集まっていた。
 水砦の上の崖から見れば、ある程度の状況は遠望できる。
『献上米』の旗を掲げた輸送船。しかし、船上にいる者たちは、明らかに明教徒ではない。追ってくる快速船は、宋国軍だ。
 方臘軍はしばらく様子を見ていたが、やがて柵が開いて兵を乗せた船が出てきた。船縁には、弓を構えた兵士たちが立っている。

「兄貴、方臘軍が出た!」
 阮小七は帆柱の上から、阮小五に向って叫んだ。輸送船団の後尾が目の前に迫ってきている。その彼方に、水砦と、方臘軍の船が見える。
 李俊が、その砦を目指しているのは、もう間違いない。
「射程に入るとまずい」
「かまうか、擦り抜けろ!」
 二人が載っているのは小型の海鰍船である。速度をあげて、後続の輸送船のあいだを擦り抜けた。飛ぶように波に乗り、すぐに李俊の船を視界に捕らえた。
「ぶつけろ」
 阮小五は身構えた。船腹が当たると同時に飛んで、船縁を片手で掴んだ。そのまま身をねじるように甲板へ体を上げると、阮小五は李俊を探した。
「水くさいぜ、李俊」
 探すまでもなく、李俊は、そこに立っていた。
「江州勢と石碣村勢が張り合っていたのは、昔の話だ。考えがあるなら、言ってくれ」
「言うことは、ない」
「なら、しかたねぇ!!」

 阮小五は正面から斬りかかった。
 続いて乗り移ってきた阮小七は、あっと声を洩らした。
 阮小五は本気で李俊に斬りつけた。李俊は微動だにしなかった。阮小五を見るでもなく、ただそこに立っている。
 童威が叫んだ。
「旦那!」
 李俊の胸が裂け、血が飛び散った。
 驚いたのは、斬りつけた阮小五だった。
 李俊の腕は認めている。一撃を避けながら、阮小五を斬り伏せることも簡単なはずだった。身構えたままの阮小五の刃から、血がぽたりと甲板に落ちた。
 その時、すでに李俊たちの船団は方臘軍の船に取り囲まれ、無数の矢が彼らに照準を合わせていた。


 呉用は古い農家を宿にしていた。
 灰色の煉瓦作りの家である。
 ながく無人だったようで、建物は荒れていたが、雨露はしのぐことができた。
 これが、今のところ梁山泊軍の“本営”である。
 二人は、その薄暗い土間で、密談していた。
 宋江を奪還する計画である。彼らは、この計画を内密に進めることを決めていた。
 王稟たちの間諜がどこに潜んでいるか分からないし、宋江が不在のいま、強行手段に反対意見がでる可能性もある。
「こういう時は、“命知らず”の石秀や、忍びが得意な石勇がいれば頼りになるが、しかたあるまい」
 どちらも、宋江のためならば黙って動いてくれる男たちだ。しかし、残念ながら盧俊義軍に従っている。
 花栄は、みずから危険な役目を引き受けた。
「俺が呼延威に手引きさせ、潜入して宋江を助け出す。城門外に、宋清と馬を待機させておこう。あんたは陣営で軍を準備し、城内に火の手があがったら、有無を言わせず軍を突入させてくれ」
 呉用から見ても、妥当な策だ。しかし、心もとない感じがした。かつて、いくらも無茶な奇策を実現してきたが、その時にあったような、“確信”がない。
「うまくいくといいのですが」
「関勝や朱仝は渋い顔をするだろうが、尻に火がつけば、走るよりない」
「そのあとは」
「凌州を襲って童貫を殺し、どこかで盧俊義軍と合流しよう。方臘軍との同盟は無理だろうから、戦って領土を奪ってもいいが……どう思う」
「杭州を占領できれば、江南で自立も可能です。しかし、住民が明教徒となると支配は難しいでしょう。山西地方に向かうほうがいいかもしれません。田虎の残党がいれば吸収できるし、梁山泊にも……」
 帰れるかもしれない、と言いかけて、呉用はやめた。さすがに、夢を見すぎていると思ったのだ。
 遼国と戦った時のような情熱は、すでに呉用にはない。あの頃の“夢”と現実は、もうずいぶんと違ってしまった。
 花栄が黙り込んだ呉用の顔を窺った。
「あんたが乗らないなら、俺はひとりでも宋江を連れて逃げる」
 夕暮れの光は、部屋の奥まで届かず、室内はひどく暗かった。



 呼延威は城内に戻ると、本営へ直行した。
 童貫の執務室は人払いがされていたが、呼延威は他の護衛とともに前庭に控え、動向を注意深く見守ることにした。
 本営のなかは、ざわついている。
 東京に援軍を要請に行っていた趙譚が、ようやく戻ってきたのである。援軍が到着すれば、いよいよ童貫を総帥として清渓県、幇源洞へ軍が進む。
 方臘を討ち取り、童貫は殊勲者となるのである。
 しかし、趙譚の帰還が予想外に遅いことに、童貫はこのところ苛立ちを見せていた。
 方臘の乱の勃発以来、江南全土に大小の叛乱が頻発している。官軍はその鎮圧と城市の防衛に大軍を投入し続け、すでに余剰の兵力はない。だからこそ、梁山泊軍を方臘軍の主力に当てたのだ。
 それでも、高求なら、どうにかするだろうと考えていた。
「趙譚は援軍を連れてきたのか」
 それが、帰還を知った童貫の第一声だった。そばには王稟が控えている。
「いえ、単独で戻りました」
 童貫が眉を険しくした時、旅塵を払った趙譚が勿体ぶって入ってきた。
「童閣下にはご機嫌うるわしゅう……」
 挨拶をはじめた趙譚を、童貫は手を振って遮った。
「高太尉はなんと申した」
「それが」
「一言で述べよ」
「兵はない、と申されました」
 間があった。
「梁山泊を潰す好機と、言わなかったのか」
「再三、申し上げましてございます。それはもう、舌がちぎれるほど」
「では、なぜお前の舌はまだあるのだ」
 趙譚は目を逸らし、悲しげに頭を垂れた。童貫は、趙譚の性質は呑み込んでいる。
「許す、ありのままに伝えよ」
「閣下が援軍をお求めだと、再三、高太尉に申し上げました。そのたびに、兵はないとの一点ばり。何日も通い、準備できれば送ると申していただきましたので、その期日を切ってほしいとお願いしますと、分からぬとの仰せ。わたくしは、閣下より、必ず返答を持ち帰れと言われておりますので、はっきりとした期日が分からぬうちは帰れぬ、と」
 恩きせがましい趙譚の台詞を、童貫は頷いて聞いている。
「すると、ついに高太尉は申されました」
「なんと」
「“うるせえ”」

 王稟がぎょっとして、趙譚と童貫を交互に見た。
「貴様、なにを」
「いや、太尉は、掌で荒々しく卓を一打ちし、“うるせぇ、本当にもう兵がねえんだ!”と仰せになりました」
 無頼漢時代の“高毬”を知らない趙譚は、水をかけられた犬のような目をして、童貫を見上げていた。
「“梁山泊は布団についた虱だ。ひねり潰せば、さぞ気持ちよく眠れるだろう。しかし、道端に落ちてる棒っきれみたいな男まで兵にした。もう石ころも落ちていねえ”──だそうでございます」
 童貫は無言だった。
 彼は、ヤクザあがりの高求が、不遜な態度をとったことなど意に介さない。事態は、童貫が思っていた以上に悪いのだ。
 遼国を挟撃するという“海上の盟”の実行を求め、金国からは軍を送れと矢の催促だ。その兵は、方臘の乱平定に投入している。各地で大小の叛乱も続いている。
 各地の戦線から官軍を移動させることはできない。梁山泊軍が奪還した諸都市に駐屯する軍も然り。宋国軍が動けば、潜在する明教軍が方聖宮救援のため清渓県へ集結する恐れがあるからだ。
 宋国は兵の多さを誇っていたのだが、それとて無尽蔵ではない。実際、志願する者はすべて志願し、徴兵できる男はほとんど徴兵してしまった。いまや、国都・東京の防備さえ手薄になっている──高求は、態度でそう示したのだ。
「──わかった」
 童貫は決断した。
「盧俊義からの使者は、分水県に足止めしていると言ったな」
「はい。適当な理由をつけて、軟禁しております」
「ならば、適当な理由をつけて、解放せよ」
「“計画”は失敗ですか」
 童貫は、王稟の愚かさを笑った。
「わしには、“失敗”はない」
 ただ、“次の手”があるだけだ。



 夕暮れ、地上は黄金に染まる。
 世界が夜の闇に覆われる前の、ひとときの楽園の姿である。すべてが光に包まれて、罪も穢れも燃え尽くされる。
 金芝公主は、空に張り出した崖に立ち、ひとり消えていく光を見送った。
 光は金から赤へ儚くうつろい、紫のなかへ溶けていく。
 やがて、公主は岩にうがたれた石段を、方聖宮へと戻っていった。
「また──ひとり」
 振り返ると、光明峰の頂に銀の明星が輝いていた。


「──では、御林軍を出陣させることで、よろしいか」
 方聖宮の謁見の間で、婁敏中がいつものように事務的に告げた。
“歙州が落ち、皇叔大王が光化した”──凶報は、“火老鴉”杜微がもたらした。
 驃騎上将軍であり、歙州郊外に駐屯していた男である。元は歙州城内の鍛冶屋で、武器を鍛えることに長じ、飛刀を使うのを得意とした。
 方臘の瞑想が終わるのを待って始まった軍議は、夕方になって漸く一段落する様子を見せた。
 すでに、睦州落城の報も届いている。
 婁敏中は、清渓県を最終防衛の地と定め、即座に軍を派遣することに決めた。
 先鋒は、殿前の金吾上将軍“皇姪”方杰である。年若いが、方天画戟を使いこなす豪傑として知られている。
 彼は歙州で殺された方厚の長孫で、祖父の殉教を知るや仇討ちに燃えた。
「よくも年老いたおじいさまを……必ずや、梁山泊軍を殲滅します」
 方杰は涙を滲ませ、御簾の向こうに座る方臘に誓った。方杰は、感情を悪とする明教徒としては“未熟”だった。自分でもそれを認めているし、咎め立てする者もいない。武人としては、優秀だった。
 軍議の末席に連なっていた燕青は、この場にもうひとり、“異端”がいるのに気づいていた。
 杜微である。
 背中に六本の飛刀を隠し、いつも徒歩で戦う──という。
 教団内で“嫌われ者”であることは、百華の態度や、ほかの者たち──特に娘たちの目付きで明らかだった。
 ここにくる途中ですれ違った百華兵や、光明乙女たちは、疫病神に会ったように顔をそむけ、道を避けた。
(気に入らない男だ)
 その杜微が、副先鋒として方杰について清渓県に出陣することになった。
 さらに歙州に駐屯中の盧俊義軍には、御林護駕の都教師・賀従竜という男が、御林軍一万を率いて向うことと決められた。
 賀従竜は筋骨隆々たる武人だが、精兵は清渓県に送るため、率いるのは平凡な兵だった。
 燕青は、盧俊義のために安堵した。
 長く梁山泊軍の動向が知れなかったが、彼らは着実に南北の軍の合流地点である清渓県に近づいている。
 その安堵を、杜微の耳障りな声が乱した。
「賀将軍が連れていく兵は、二流だ。近隣の民衆を動員して城を包囲し、足止めをするのがよかろう。連中は南北二路に別れて、清渓県で合流するつもりだろう。お互いの兵力を頼りにしている。足止めしておけば、戦いはかなり有利になる」
(顔に似合わず、策士じゃないか)
「そのうえで、盧俊義とかいう北路の将軍が、我々に投降したという噂を流せば、敵は動揺するだろう。北と南では距離があり、間の連絡も途絶えているだろうから、信じるぞ」
 婁敏中は、杜微の得意気な顔を上目づかいにちらりと見た。
「すでに、宋国軍の間には、そういう噂があるようだ」
「そいつはいい。あいつらは、互いの足をひっぱるのが大好きだからな」
「石宝、ホウ万春らの健闘のおかげで、梁山泊軍の数も大いに減じている。清渓県で、食い止めるのだ」
 婁敏中は事務的に議題をまとめ、方臘に伺いを立てた。
「以上で、宜しいでしょうか」
 沈黙があり、方臘がおもむろに口を開いた。
「──公主よ、星はなんと告げている」
 金芝公主が戻ってきたのは、その時だった。
「申し上げます」
 公主は御簾の前に進み出て、まっすぐに父を見つめた。
「参りますわ──ついに。“影の兄弟”、“伴う者”が、すぐそこに」

 謁見の間がざわめいた。
“影の兄弟”あるいは“伴う者”とは、明教における最も重要な奇跡である。教祖・摩尼は、自分とそっくりの天使に出会い、預言者として覚醒したと伝えられている。
 真の聖者となるのには、その訪れが不可欠なのだ。方臘は、いまだそれを迎えていない。
「宋国の侵攻とともに、ふたつに分かれていた北極星が、今はぴったりと一つに戻っています。ついに、光の王国より、天使が降臨するのです」
「梁山泊のあるじ、“宋江”が、我が“影の兄弟”と申すのか」
「それは、わたくしには分かりません。自分の“影の兄弟”は、自分にしか分からないのですもの。しかし、その姿を見れば──自分だけには、すぐに分かるはず。まるで、鏡に映った自分を見たように」
 座はしんと静まり返った。
 燕青が妙な顔をしたのを、上座にいた柴進は気づかなかった。なぜ、公主がそんなことを言い出したのか考えていたからだ。
 燕青は、胸騒ぎを感じていた。
 口をきく者もない謁見の間に、時が流れた。次に聞こえたのは、方臘の声だった。
「婁丞相──聖輿の支度を」
 婁敏中は、背中をまるめ、御簾の内側をのぞきこんだ。
「なんと、猊下?」
「行かねばならぬ、我が“影の兄弟”を迎えに」
「危険です」
「時間が──ないのだ」
 御簾の向こうで、方臘はおごそかに告げた。
 その声には、かすかな期待と、それ以上の畏れが混じっていた。
 それは、確かな予感であった。
“もう、時間がない”



「──そいつはいい、名案です」
 杜微が言った。
「実は、明教徒どもが……いや、信徒たちが、梁山泊軍に協力しているフシがある。清らかな生活を嫌うんでしょうな。方聖公が親征されれば、そんな連中も目を覚まして悔い改める」
 婁敏中も方杰も、実際は宋国軍に勝つ確固たる自信はない。殉教の覚悟は決めているが、勝てるものなら勝ちたいというのが本音である。
「負ければ、明教の灯が消える」
 婁敏中も決意した。
 明教は、文字通り彼の希望だ。理想の世界を作るために、明教の灯を消すわけにはいかない。
 ついに、方臘親征の決議がなされた。
 結局、幇源洞には五千の兵だけを残して、三万の軍で清渓県に向かうことになった。
軍が整う間、婁敏中は杜微とともに先に清渓県に戻り、城の防備を固める。準備ができしだい、方杰が方臘の輿を守って行くことに決まった。
「留守は、百華将軍と、柯付馬に任せよう。金芝公主を、我が代理となすように」
 方臘はそのように命じ、瞑想の場に帰っていった。

 方臘親征が決まると、杜微と婁敏中は早急に清渓県へ出発することになった。そのため、方杰と百華を交えて軍議が続いた。
 柴進は金芝公主とともに星の宮へ戻ったが、燕青をその場に残すことを忘れなかった。
「お前はここに残って、公主のかわりに軍議をよく聞いておくのだ」
 燕青は頷いて、出口のあたりに立っていた。
 方臘親征は、衝撃的な決定だ。
 梁山泊軍にとって、方臘を捕らえる好機である。しかし、今はそれを梁山泊軍に知らせる方法がない。
(もしくは、軍が不在の間に、ここで、なにか騒ぎを起こすか?)
 あとの守りには、百華が残ることになっていた。
 その百華が、軍議が終わった後も、杜微につきまとわれていた。
「お前が一緒に来ないのは残念だ」
「私も、お前が死ぬところが見られなくて残念だ」
「俺が死んだら、あんたの“おにいさま”も危ないぜ、いいのか?」
 公主のおつきの侍女・銀泉が、心配そうに百華を見ていた。柴進たちについて戻ろうとする少女に、燕青はさりげなく声をかけた。
「なんだい、あの杜微って男は。ずいぶんと“異色”じゃないか」
 銀泉は性格の明るい少女だ。それが、めずらしく眉をひそめた。燕青は、気づかないように続ける。
「たいした女好きのようだが、よく明教に投じたな」
 すると、こんどは敵意を露にした。
「人を殺して、逃げ込んだんです。戦ができるからって、重用されて……でも、百華のおねえさまも、わたしたちも、あの人、だいきらいです」
「なぜ」
「あの人は、前に清渓県で私たちに飛刀を教えていて……」
 銀泉は唇をきゅっとむすんで、俯いた。
「光明乙女が……何人も、ひどい目に遇ったんです」
「帰ろう」
 燕青は、銀泉の手を引いて、謁見の間を出た。
 杜微が、せせら笑うような視線を投げたのが分かった。
 星の宮に向かいながら、燕青は気になったことを思い出し、銀泉に尋ねた。
「あの杜微とかいう奴がいっていた、“おにいさま”とはどういう意味だい?」
「ああ、それは」
 銀泉は、特に秘密でもないという様子で教えた。
「百華のおねえさまは、本当は“百華公主”でいらっしゃいます。杭州起義の時の功績で、方聖公が妹の身分になさったのです」
「つまり、方聖公の“義理の妹”というわけか」
 はい、と銀泉は無邪気に頷いた。


 燕青が戻ってほどなく、方杰と百華が星の宮へやってきた。
 方杰が金芝公主に出陣の挨拶に来たのである。
「俺も明日には、清渓県へ出陣します」
 百華は諦めきれない顔だった。
「私も同行したいのですが、方聖公のご命令では」
「金吾兵が全軍で行くのだから、あとの守りは、百華将軍と、百華兵に任せるほかない。固く石門を閉じ、ネズミ一匹通さぬようにしてくれ」
 方杰は、そばに控える銀泉にも声をかけた。
「お前たち百華兵も、しっかりと公主をお守りしてくれ。怪しいものは、容赦なく殺せ」
「お任せください。命にかえてお守りいたします」
 燕青と柴進は、視線をかわした。
(この娘たちを相手に、なにができる?)
 幇源洞の乗っ取りなどは不可能なことだ。
 百華を懐柔するなど、方杰の何倍も難しい。切り札は金芝公主だが、彼女は、方臘の実の娘だ。

「焦るな、小乙」

 夜、みなが去って二人きりになり、柴進は燕青に言った。
 燕青を小乙と呼ぶのは、養い親である盧俊義だけだった。それも、ずいぶん長いこと呼ばれていないような気がする。
 柴進は、余裕のある笑みを浮かべている。
「遠からず、梁山泊軍はここまで来る。我々の仕事は、その時だ」
 それまで、待て──と告げて、柴進は公主のもとに戻っていった。
 宮の外に出ると、山のあちこちから、出陣のしたくをする喧騒が響いていた。
 篝火が明るく、星々も暗く見えた。
 燕青は星の宮の森を抜けて、山を上っていった。
 光明峰の中腹にある石像を見に行った。
 今夜は、百華はいなかった。
 石像が、巨大な篝火に照らしだされている。
 ゆらめる陰影が、盧俊義そっくりの顔に、生きているような精気を与えていた。

(面倒な事にならねばいいが)
 燕青の心も、篝火の落とす影のように目まぐるしく揺らめいていた。
 いよいよ、本当に始まったのだ。
 戦いが、そして、戦いの終りが。



 闇の中に、宋江が座っていた。
 明かりが消えて、室内は真っ暗だった。
 どこまでも広がっているような、濃い闇だった。
 星の光も届かない。
 宋江は静かに──息をして、そして、はっきりと、感じていた。


 武松は、ともしびの下で二振りの戒刀を出した。自ら断ち切った左腕には、まだ布が巻かれている。
 武松は陣営の土の上にあぐらをかき、鞘をくわえて、片腕で雌雄の戒刀を抜いた。

 右手に、雄刀を握った。二三度、振ったが、以前より重く感じた。次に雌刀を握ると、しっくりと掌になじみ、軽く振るえた。
 武松は二本の戒刀を再び鞘に収め、雌刀を帯に差すと、雄刀をもって立ち上がった。ほど近くを、蒋敬が通り掛かるのが見えた。
「これを、孫二娘に渡してくれ。会った時でいい」
 武松は蒋敬に雄の戒刀を差し出した。
 蒋敬は少し訝しげな様子を見せたが、引き受けて戒刀を受け取った。
「ありがとうよ」
 武松が立ち去っていく。蒋敬は声をかけた。
「あんたは、どこへ?」
 答えもせず、振り返ることもなく、武松は闇の中へと去っていった。


 呉用と花栄は密談していた。
「明日の早朝、呼延威がまた河原にやってくるだろう。俺が一緒に城内に入り、宋江を連れ出す。火を放ったら、全軍で突入してくれ」
 いつでも出陣できるようにしておけ──といわれた梁山泊軍の準備は整っている。
 ただ、だれも、本当はどこへ攻めていくのかを知らない。


 星が世界を照らしている。
 宋江が座る蔵の中には、その光は届かない。
 しかし、息づく闇が、その息吹が、星のようにきらめいていた。
 宋江の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。

 夜の湖に映り込む星の光のような、浜に寄せるさざなみのような、人の目には、見分けられぬほどの笑みだった。
 扉が開いた。
 誰のとも知れぬ、声が聞こえた。
「──宋先鋒、出られませい」



 宋江が解放されたという知らせを、武松は夜明けの睦州城門で、花栄は朝日の射す轅門外の河原で聞いた。
 出陣準備は、整っていた。
 その朝、花栄は呼延威がやって来るのを河原で待ち受け、“計画”を打ち明けるより先に、その知らせを聞いたのだった。
「宋先鋒が解放されました。まもなく、こちらに到着します」
 若者は頬を紅潮させ、そう告げた。
 その言葉通り、兵たちが朝飯を済ませる頃、宋江を伴い、王稟がやってきた。意外なことには、童貫の姿もあった。
 呉用と花栄は、目くばせした。
 梁山泊軍に、清渓県への出陣が命じられるのだ。
 王稟は呉用たちのもとに歩み寄った。
「盧副先鋒の使者が、分水県まで来たようだ。先の報告は誤報であったと、早馬で知らせがあった」
 王稟は悪びれも、弁解もせずに言った。
「謀叛の噂は、敵の奸計であったのだろう。宋先鋒と梁山泊軍は、即刻、清渓県へ向うよう。童枢密とわれわれは睦州に駐屯し、後方の支援にあたる」
 童貫はなにも言わず、すべて王稟が代弁した。
「みごと清渓県を攻め落とし、汚名をそそぐ機会とせよ」
 なんの汚名か──と花栄は腹立たしく思った。
 しかし、ここは黙っているほかはない。
 李俊のことが知られれば、また厄介なことになる。
 結局、兵の補充も、兵糧の補給もなかった。
 凌振が、李応に火薬の補給の有無を尋ねに来た。
「北路軍にも分けたから、わしの手元にはもうないぞ。火薬を持たない“轟天雷”など、生きている価値があるのか」
「なんとか生きてくれ。食い物さえ、ないのでな」
 李応は、杜興と蒋敬に算盤をはじかせた。
「食糧は三日分。山越えに一日、攻めて二日……その後のことは、その時に考えるしかありませんな」
 呉用は頷いた。
 彼は、宋江が気になっていた。
 宋江は、宋清の介添えで馬からおりて、そこに静かに立っている。
 王稟の言葉も聞かず、なにも見ず、ただ、そこに立っていた。
 あるいは、もっと遠い声に耳を澄ませ、もっと広い世界を見つめているのかもしれない。



 王稟が話している間、呼延威は裴宣のところへ行った。
「童枢密から、ご許可をいただきました。僕も行きます」
 梁山泊軍が全軍で出陣していけば、もう人質も必要ない。童貫は、梁山泊軍は勝っても負けても、ほぼ全滅だろうと考えている。いや、そう、願っているのだ。
 裴宣は案じたが、口には出さない。
「梁山泊軍のために、僕ができることは少ないかもしれません。でも、僕は」
 呼延威は若い瞳で、彼方に聳え立つ山々を見た。
「あの山を越えて、父に再会した時、“よくやった”と言って欲しい。僕を、息子として誇りに思って欲しいのです」
 裴宣と呼延威、二人の剣には、呼延剣娘が編んだおそろいの柄飾りが揺れていた。
「宋江殿のそばにいなさい」
 裴宣は、少年の肩に手を添えた。思っていたより、その肩は逞しかった。

 王稟が梁山泊軍を整列させると、ようやく童貫が輿から現れた。
「呼延威のような若者も決戦に志願したのだ。身命を捨てて、宋国のために奮励努力してもらいたい。戦勝の暁には、上は将、下は卒に至るまで重く賞し、朝廷に功を奏して、全員に富貴を約束しよう」
 童貫は自分でも白々しいことを、滔々と述べた。
 王稟は、宋江を解放することに反対だった。宋江を戻せば、梁山泊軍が離反する懸念がある──というのが理由だった。実際は、自分が梁山泊軍の指揮を執り、軍功をあげたいというのが本心だ。
 童貫は、梁山泊軍は、宋江がいてこそ戦うと思っている。増援がない今となっては、宋江の名のもとに、梁山泊軍に死力を尽くしてもらわなければ、童貫の立場が危うくなるのだ。
 宋江は、最後まで戦う。そして、宋江が戦えば、梁山泊軍は戦う。
 童貫はある意味では、宋江を評価し、梁山泊軍を理解していた。
 ただ、そこに、なんら恩愛や、尊重する気持ちはない。
「宋国のため、赤心もて励んでほしい。増援があれば、即座に送ろう」
 宋江は、静かに目を伏せた。
 それは、至極、穏やかなしぐさだった。
 それなのに、童貫は、自分があざ笑われたように感じた。
「宋江兄貴!」
 李逵が大股で歩み寄ってきた。
「おいらは約束を守ったぞ」
 王稟がとがめた。
「無礼な、閣下の御前だぞ」
 李逵は無視して、宋江の横に立った。

 武松が、関勝が、楊雄、李応、花栄たちが、ひとりまたひとりと、宋江のまわりに集う。
 そのさまが、童貫の憎しみをかきたてた。
 宋江は、彼らは、童貫など“相手にしていない”のだ。
 王稟が童貫に耳打ちした。
「没収した物品は、いかがしましょう」
「なんのことだ」
「梁山泊軍の旗などです」
「燃やしてしまえ」
 童貫が味わっていた拳が震えるほどの感情は、あえて名付ければ、“嫉妬”であったかもしれない。



 梁山泊軍はその日のうちに出陣の準備を終え、翌日の夜明け前に発つことになった。
 慌ただしく行き交う人々の間に、郁保四が棒のように立っていた。裴宣がやってきて、残念そうに告げた。
「没収された旌旗類は、紛失したそうだ」
 王稟が、『見つかったら、方聖宮まで運んでやろう』と冷笑したことは、裴宣は自分の胸に収めていた。
「侯健がいれば、器用に作ったのだろうが……」
“仕立屋”は、もういない。
「落ち着いたら、また作ろう」
 裴宣は、郁保四を慰めた。

 夜半、出陣準備を終えた朱仝を、劉光世が訪ねてきた。
「酒を持ってきた」
 劉光世は、荷車一台分の酒瓶を従卒に牽かせていた。東管で見つけた瓶もあれば、別の瓶もあった。
「餞だから、遠慮なく受け取ってくれ。出陣なんだ、飲みたい奴もいるだろう」
 朱仝が黙っていると、劉光世は気まずそうに続けた。官軍内では、“梁山泊軍は全滅する”と、他人事のように言われているのだ。
「増援があれば、俺も行くし……なにか、必要なものがあれば、親父に頼もうか」
 朱仝は、劉光世の屈託のない顔を眺めた。何不自由なく、後悔も、屈辱も知らずに育った顔だ。
 愚かなだけで、悪人でも、善人でもない。これは、こういう人間なのだ。
 朱仝は兵に酒を運ばせた。
「感謝します」
「あんたには、また会いたいな」
 劉光世は、嬉しそうな顔で笑った。

 篝火が燃えている。
 関鈴は馬で軽々と柵を跳びこえ、関勝に上達したところを見せようとした。
 しかし、関勝は誉めもせず、もう一度、跳びにいこうとする関鈴に尋ねた。
「“仁者に敵なし”、と習ったか」
「はい、家塾で」
「どう理解した」
「“仁愛ある者は、みなに慕われて、敵などいない”という意味です」
「わしの考えは異なる」
 関勝は自分にも言い聞かせるように続けた。

「仁愛ある者は、すべてを、この世を形作る存在として認め、受けいれて、愛す。ゆえに、仁者は自らなにかに敵対することはなく、ゆえに、敵はいないのだ」
「自分に、ひどいことをする人でもですか?」
 関鈴は納得できず、口をすぼめた。
 関勝は頷き、息子に無限の慈愛をこめた眼差しを向けた。
「人が覚悟を決める時は、生涯に、何度も訪れるものではない。お前が覚悟を決める時がきたら、それを恐れるのではなく──己が人生の誇りとせよ」

 花栄はそれを耳にして、ため息をついた。
「俺も、息子に……そう上手く言えたらよかったよ」
 かたわらの呉用は、李俊のことを考えていた。
「彼の気持ちも分かります」
「誰のことだ」
「李俊です。童貫のいいように動かされ、ご褒美が“宋国の役人として栄達”では……李俊でなくとも辟易する」
「だとしても、方臘軍はそれを知らない。投降など信じまい」
「どうでしょうか」
「どっちだ、呉用先生。あんたは、李俊が本当に裏切ったと思っているのか、それとも、李俊ならば、敵を信じさせる──と言いたいのか」
「私にも分からない」
「あんたに? まさか」
「分からなくても、もう、よいではないですか」
 呉用は羽扇をとって、歩きだした。
 視線の先に、宋江がいた。
 花栄が言った。
「俺は、なにがあっても宋江を守るぞ」
「私は、梁山泊を守りましょう」
「同じことさ」
「ええ」

 花栄は呉用とともに宋江の左右に立った。
 宋江は、再び馬上の人となった。
 同じ宋江であり、別人のようにも呉用は感じた。宋江には、何度もそういうことがあった。
 そして、どれも“宋江”なのだ。
「盧俊義殿は必ず来ます」
 宋江は言った。
 李俊のことも、伝えてある。
「李俊さんにも、必ず会えます」
 ひとが言えば気休めに聞こえる言葉が、呉用の胸に素直に沁みた。
 状況には、ひとつも楽観できるところはない。
 未来は不確かで、人の心は見通せない。
 それでいいと、呉用は思う。
 誰にも、天にも、何がどうなるかなど、分からないのだ。
 道なき道──天がいまだ作らぬ道を、梁山泊は進むのだから。

 夜明け前、餞別の酒を酌み交わし梁山泊軍は歩き始めた。
 軍が静かに轅門を出ていく。
 宋江は、烏竜嶺を振り返った。

 多くの兄弟、人々が死んだ山は、夜明け前の闇のなかに沈んでいる。
 宋江は、阮小二、孟康、解珍、解宝、王英、扈三娘、項充、李袞、燕順、馬麟、呂方、郭盛──彼らの存在を、はっきり感じた。
 宋江は、烏竜嶺の空に、ちいさく光るものを見た。
 それは小さな白い羽のようでも、銀色の流星のようでもあった。
 その光に、あるいは世界のすべてに、宋江は語りかけた。

「さあ、我々の道を進もう」
 車前草の繁る荒野の道を、西へ。
 梁山泊軍南路宋先鋒隊。
 総員一万三千。騎兵五千、歩兵八千。
 兵糧三日。
 頭上には、初秋の銀河が輝いていた。



※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。
※文中の「高求」は、正しくは高求です。
※文中の「方厚」は、正しくは方厚です。
※文中の「ホウ万春」は、正しくはホウ万春です。
※文中の「付馬」は、正しくは付馬です。




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