水滸伝絵巻-graphies-

第百二十九回
ならずもの達の凱歌(四)



 馬が行く。人が歩む。車が進む。
 蹄の下に、足跡に、轍の上に、這いつくばる草は車前草(オオバコ)。
 踏みつけられ、蹴られても、緑の葉が枯れることはない。
 蹄に、足に、車輪に小さな種をはりつけて、車前草は運ばれていく。
 馬が老い、人が死に、車が朽ちても、埃の立つ乾いた道を、どこまでも。
『車前草は、踏まれて、進む』
 そう彼に教えたのは──“霹靂火”秦明だった。

 秦明の狼牙棒が空に大きく旋回し、またひとり、敵が倒れた。
 晴れた午後。
 太陽が大地に照りつけ、風は乾いて、涼しかった。
 両軍の喚声が、山々に谺している。
 幾重にも連なる稜線が美しい。この山々を越え、梁山泊軍南路軍──宋江隊は清渓県へ攻め寄せた。
 呼延威は宋江を守る後軍にいて、前軍の戦闘を固唾を飲んで見つめていた。
 方臘軍の迎撃を受けたのは、前軍が平地に降り、彼方に清渓県を認めて間もなくだった。
 梁山泊軍の先鋒は、“霹靂火”秦明。戦闘は、すぐに始まった。
 秦明は狼牙棒を取り、愛馬・朱雀の馬腹を蹴った。古傷を宿した左足は、鐙に革紐で固定されている。文字通り人馬一体となり、秦明は敵の正面に猛然と一撃をくらわせた。
 関勝と朱仝が左右から秦明を援護している。花栄の弓隊は乱箭を放ち、前軍を包囲しようとする敵の動きを牽制した。
 宋江軍の兵力は、一万余り。敵はその倍はあろうかと見えた。左右に伸長する鶴翼の陣形を取ろうと動いている。
 呉用は見抜いた。
「あの敵は、戦いに慣れている」
 そして、必死だ。
 方臘軍を率いている将は二人。どちらも若い。そして、手強い相手だった。
(いままでの方臘軍とは、どこか違う)
 強さや、必死さではなく、なにかが、違った。
(将のためか?)
 秦明が相手どっている巨躯の将は、旗印から、方臘の甥にして金吾上将軍・方杰と知れた。大振りの画戟を振るい、果敢に狼牙棒に挑んでいく。

 方杰は熟練の技で秦明と三十合を打ち合った。鉄を裂きそうなほどの膂力で、時に、画戟を受け止めた秦明の馬の足が乱れた。
 馬上の秦明は、寸分の隙も見せない。間断なく打ち込んで、次第に方杰を圧倒した。
 もうひとりの将は後方にいて、宝剣を手に兵の指揮を執っている。用兵は、的確だった。
 両軍は狭い平野に広がり、せめぎ合いとなった。数を頼りに壁を作る方臘軍に対し、梁山泊軍は突破口を開くべく体当たりを繰り返す。
 宋江、呉用らの後軍は、山の麓ちかくの高くなった場所にいた。
 街道の中央に陣取る方杰を秦明に任せ、関勝が動いた。敵軍の左翼が薄い。そこを狙って邁進する関勝の意を察し、朱仝と李応が加勢に続いた。さらに樊瑞の流星鎚が旋回して血の道を切り拓く。
 梁山泊軍は這うように城を目指して進んだ。
 目指すは、清渓県の城門である。あの城を落とせば、あとは方臘の本拠地・幇源洞へ進むのみ。方臘軍もそれを知っている。抵抗は激しく、両軍の死傷者が街道に、路傍に折り重なって倒れていく。
 呉用の目は、戦場を越え、県城を越え、北方の空を見ている。
「盧俊義隊は、まだ来ないか」
 彼方の山並みは、この戦場とは別世界のごとく静かだ。稜線は、横たわる美女を思わせる。
「この喚声が、聞こえないのか」
 北路から同じく清渓県を攻めるはずだった盧俊義隊からは、今だ何ひとつ消息はない。それどころか、不穏な噂さえ漂っている。
 折しも、方臘軍の後方から大勢の唱和する声が起こった。
「聞け! 副首領の“玉麒麟”盧俊義は明教に投じたぞ!」
「水軍総帥の“混江竜”李俊も宋国を見限り、仲間になった!」
 呼延威ははっとして、傍らの宋江を見た。
 宋江は、白馬の上に泰然と座っている。その目は彼方を見据え、その耳は、風を聞いている。
 吠えたのは、“黒旋風”李逵だった。
「うるせえ!!」
 李逵が板斧を振りかざして駆けだしていく。呼延威も手綱を握った。
「僕も行きます!」

「待ちなさい、威児」
 裴宣の声を振り切って、呼延威は馬を走らせた。彼は“軍神”呼延灼の嫡子である。しかし、初めての戦場で、何をすればいいのか分からない。
 あたりには、敵と味方が入り乱れている。視界が歪み、焦点さえ定まらない。
 その時、彼方から、秦明の巨大な背中が、彼を招いた。
 敵に囲まれ、過酷な戦いを続けていても、その背中は揺るぎなく、強かった。方杰と戦いながら、背後を狙う敵兵を、見もせずに打ち倒していく。血飛沫が四方に飛び、顔に、鎧に赤く飛び散る。恐ろしい光景だった。しかし、呼延威は勇気づけられた。秦明から感じるのは、強さだけだ。秦明は、猛る強さそのものなのだ。
(僕も!)
 呼延威は鞭を引き抜いた。父親の半分の重さの鞭だ。
 その時、方臘軍が動いた。後方の軍が、扉が開くように道を開けたのだ。その新手の軍のただ中に、黄色い天蓋が輝いている。
 気づいた呉用は顔色を変えた。
「あれは──まさか、方臘」

 黄色い天蓋は、“天子”のしるしだ。
 それは、幇源洞を出て親征に赴いた“方聖公”──まさしく、方臘その人である。聖者の証である三筋の旗印、太陽、月、星を掲げ、金吾軍の精兵に守られている。
 方臘は二頭だての白馬が牽く鳳輦の紗幕の奥に端座して、その眼差しは、戦場に向いている。しかし、戦闘は見ていない。
 はるか彼方──山の麓にある、宋江の陣を見据えていた。
「おまえは、“影の兄弟”か? わが“伴う者”なのか? 」

 風が幕を舞いあげて、一瞬、方臘の顔に光が差した。が、すぐにその姿は覆われた。
「宋江を、わがもとに!」
 方臘の声に従い、白衣に金の縫い取りをした親衛兵たちが進軍を始めた。方臘軍は、すべての兵力をこの戦場に投入している。
 梁山泊軍の本陣でも、“智多星”呉用の白羽扇が敵に向かって大きく振られた。
「方臘を捕らえよ!」
 梁山泊軍後軍から、李応と楊雄が手勢を率いて馬で駆けだしていく。血の道ができた。互いに敵陣を突破しようと、両軍は猛進し、戦場はさらに混乱した。
 城内からは陸続と新しい兵が出てくる。いずれも方臘とともに幇源洞を出た金吾の精兵──最強の親衛軍である。
 血煙の中を、梁山泊軍は方臘を目指して進んだ。関勝が、楊雄、樊瑞が、それぞれに道を切り拓いて進んだ。
「方臘を討て!」
 梁山泊後軍から、突入を命じる銅鑼が轟く。
 戦場は沸き立っていた。
 秦明が朱雀を馳せる。群がる方臘兵を蹴散らし、叩き伏せる。方杰が画戟を振るい、その進撃を阻まんとする。
「どけ!!」
 秦明の狼牙棒が突風を起こし、方杰の馬が怯んだ。方杰が鞍にのけぞる。秦明は止めの一撃を打ち下ろさんと、朱雀を進めた。

 その時、鞍に伏せた方杰の馬の後ろ──死角から、ひとりの徒歩の男が飄然と現れた。一人の敵将──と気づくより早く、男は秦明の顔に向かって飛刀を放った。

 秦明は避けた。
 同時に、方杰の画戟が秦明の胸を突いた。

 秦明は落馬した。鐙と足を縛っていた革紐がちぎれ、甲冑と地面のぶつかる音が、にぶく響いた。地に倒れた秦明へ、方杰が止めの一突きを繰り出す。その一撃を、秦明は倒れたまま払った。
 画戟を払いのけ、狼牙棒を杖に、秦明は立とうとした。
 戦場に、秦明の霹靂が万雷のごとく轟き渡った。


 秦明の足元に、一群らの車前草が生えていた。
 呼延威は、その葉が赤く濡れていくのを、呆然と眺めていた。
『車前草は、踏まれて、進む』
 そう呼延威に教えたのは、秦明だった。
 あれは、まだ──たった、三日前のことなのだ。
(そう、まだ、たった三日前の──)



 三日前。
 梁山泊軍はまだ、睦州にいた。
 川岸を、朝靄が静かに流れていた。
 その向こうから、押し殺した咳が聞こえた。
 呼延威は、声のした方へ目を向けた。
 睦州郊外──梁山泊軍が駐屯する轅門の向こうに、澄んだ小川が流れている。その下草の繁る土手に、大きな背中が座っていた。
 傍らでは、馬が雑草を噛んでいる。
 大きな背中は、秦明だった。
 腕を伸ばして、ひとつかみの車前草をもぎり、口に運んだ。
 太陽は、まだ登らない。
 夜と朝の狭間の時──呼延威にとって、いちばん好きな時間だった。
 誰よりも早起きして、涼しい空気のなかを散歩するのが楽しみなのだ。朝の空気は新鮮で、まだ誰の気配も混じっていない。澄んだ風を浴びながら、北路にいる父のこと、東京にいる姉のこと……自分の未来のことを考えるのが、好きだった。
(あの人も、そうなのだろうか)
 秦明が、馬とともに去っていく。
 秦明の愛馬、朱雀は変わった馬だ。その毛色は黒く見えるが、光が当たると赤く輝く。
 馬は手綱を引かれなくとも、秦明の横にぴったりついて、同じ速度で歩いていた。
(あの人は、あんなに小さかったかな?)
 呼延威は不思議な気持ちで、秦明の背中を見送った。梁山泊にいる時は、泰山のように大きく感じた。子供たちは、怖くて近くを通ることもできなかった。
 呼延威は川辺まで行って、何気なく、足元の草を摘んだ。
 口に運ぶと、苦い味が広がって、呼延威は草を吐き出した。
 見上げると──世界は、まだ青紫に染まって、明日のことも、未来のことも、見通せない。
 宋江率いる梁山泊軍南路隊は、多大な犠牲のうえに要衝・烏竜嶺を落とした。多くの兵を失い、軍糧は乏しく、さらに北路の盧俊義隊との連絡は長く途絶えている。
 届いたのは、『盧俊義反』──の風聞だけだ。童貫配下の官軍幹部は、宋江にも疑いの目を向けている。
 この状況で、どうやって敵の本拠地を攻めるのか。梁山泊軍が苦境にある事は、呼延威にも容易に分かる。
 しかし、彼は恐れなかった。
(梁山泊は強い)
 日が登れば、世界は再び鮮やかな色を取り戻し、人々が目覚め、すべてが、未来に向って動き始める。
 まだ若い彼は、未来には、光以外は見いだせないのだ。



 予感の天使は、いつも、夜明け前に訪れる。
 予言は星が届けるからだ。
 最も鋭い星の光を翼にして、そっと地上に舞い降りる──。
「ほら……聞こえる」
 囁いて、金芝公主は瞳を閉じた。
 星の宮を包む森は、まだ昏い。早咲きの金木犀もすでに散り、深い海の底に沈んだようだった。
 銀の星が、梢の彼方に輝いている。
「今日は、星たちが、とても歌うわ」
 しかし、柴進には、梢を渡る風の音しか聞こえなかった。

 四阿で、二人は細くなった灯火の下に寄り添っている。
 無辺の宇宙で身を寄せ輝く、ふたつぶの星屑のごとく──自分がそんな詩人だったかと、柴進は不思議に思う。
 そんな空想が起こるのも、すべて、この金芝公主という運命の巫女のなせる技だろう。
 星空に顔をあげると、彼方の空に光明峰がうっすら見えた。
 金色の火が、その中腹に燃えている。
「方聖公も、あそこで星の歌を聞いているのかね?」
「いいえ。おとうさまは、星の声を聞くことができない。だから、星は、わたしに“封印の書”を伝えたの」
“封印の書”とは、明教の教祖である摩尼が遺言として残した書である。そこには、世界を救う秘密が書かれていると、明教徒は信じていた。星の巫女たる金芝公主は、星に祈り、星から託宣を受けたのである。
 曰く、
『方一族の最後のひとりとなった時、汝はそれを知るであろう』──と。
 柴進は、そんな迷信を信じてはいない。しかし、敢えて否定する必要もないことだった。
 時とともに沈黙が流れ、やがて、公主は柴進の腕に身を預けた。
 司天監の蒲文英が鄭彪に殺されてから、金芝公主の存在は教団の中でひときわ重要になっている。誰もが、その神秘の言葉を待っている。
 深い夜空を見つめていると、柴進も、星の声が聞こえたような錯覚に陥った。星たちが、言葉ではなく、楽器でもなく、なにか不思議な音楽を奏でている。それは、かすかな──かげろうの羽が触れ合うほどの密かな歌だ。
「ひみつよ。あなただけに、打ち明ける」
 公主の声も、星の歌と同じ響きをもっていた。
「“最後のひとり”は、かならずしも、おとうさまではないわ。生き残った最後のひとりが、“それ”を知るの。生き残っているのは、おとうさま、杰、わたしと、もうひとり……歙州のおじいさま」
 星がきらめき、風が渡る。
 金芝公主は、憂えを込めて峰を見上げた。
「だから、今はまだ……わたしも封印を解くことはできないの」

 ぽつりと冷たい夜露が落ちて、燕青ははっと目を醒ました。
 瞼に落ちた露をぬぐうと、完成したばかりの三体の石像が見えた。
 光明峰中腹の崖を削った、方臘と、その夫人、太子をかたどった巨大仏である。
 その先には、深い洞窟の入り口があり、中で、夜通し方臘が瞑想をしているはずだった。
 燕青が寄り掛かっていた木には、もうひとり、百華が夜露をしのいでいる。燕青に半分背を向けて座り、洞窟の口を見守っていた。
 いつものように剣を抱き、片時も洞窟から目を離さない。
「方聖公は、なんのために瞑想するんだい」
「変わるためよ」
「どう変わる」
「自分ではないものになるのよ。感情を捨て、我欲を捨て、怒りも、苦しみ、悲しみも、憎しみも捨てて……救われる」
 へぇと、燕青は気のない声をだした。
「あんたも瞑想をするのかい」
 百華は答えなかった。燕青が、また眠りかけた頃、ぽつりと言った。
「私は……だめよ」
 そして、祈りの言葉を口にした。
  炎よ、光よ。
  我らの穢れを消し去りたまえ
 低く祈って、百華は灯火に照らし出される三体仏を見つめた。
 方臘、劭夫人、方天定──それぞれ現在、過去、未来を現す。しかし、もう方天定太子はいない。
(ならば、私たちの“未来”は?)
 答えを探し、百華は剣を抜いて立ち上がった。
「誰!?」
 燕青も驚いて目を開けた。
 麓に通じる道の方から、男の声で返事があった。
「俺さ」
 燕青は眉をひそめた。耳に粘つく、いやな感じの声だった。
 百華の声にも、嫌悪感が露わだった。
「──杜微」
 薄明の中へ、にやついた男の顔が現れた。
「百華、ごぶさただったな。歙州にいても、その綺麗な顔が恋しかったぜ」

「なぜ戻ってきた」
「おまえが寂しいだろうと思ってな」
 杜微と呼ばれた男は、陰のある目で燕青を一瞥した。
「間男は教義違反だぜ」
 百華は冷笑し、杜微に剣をつきつけた。
「お前は“異端”だ。殺しても、罪にはならない」
「俺を殺すと、あんたの大切な“おにいさま”がお困りになるかもな」
 杜微は皮肉な笑みを浮かべたまま、百華の剣先を指で撫で上げた。
「急ぎの知らせだ。歙州が、落ちた」


 星が巡る。
 公主が、ゆっくりと顔をもたげた。
「どうした」
「……来る」
「なにが来るのだ」
 灰色の夜明けを見つめる公主の瞳に、消えてゆく星の光が揺れていた。
「──ああ」
 ため息が、嘆いた。
「星が告げる」
「なんと?」
「ああ──“もう、時間がない”」



 夜明けから、陣営は活気づいていた。
 大勢の人間が生活をする活気である。人が寝床から起き出し、顔を洗い、湯を沸かし、がやがやと喋り始める。その熱気が、朝を呼び寄せるのだ。
 花栄は、見慣れた朝の風景を、しばらく立ったまま眺めていた。
 朝の風には、どことなく夏の終りの匂いがある。実際、暦のうえでは、もう秋だ。
 梁山泊軍宋江隊は、睦州に駐屯していた。城外を流れる川ほとりに、陣営を設けるのにちょうどよい草地があった。
 見慣れた風景──と思ったが、違う点もあった。
 いつもたなびいていた『替天行道』の旗がない。宋江の帥字旗もない。
 花栄は轅門を出て、荒れ地を横切り、流れていく蒼い流れを見下ろした。足元の雑草の間に、雀が賑やかに群れている。
 夏草が匂う土手のなかほどには、きちんと結った髷がひとつ見えていた。
「威児か、早いな」
 声をかけると、呼延威はすぐに立ち上がり、花栄に向って礼儀正しく挨拶をした。

「花将軍、おはようございます」
(しつけのいい子だ)
 呼延威は、呼延灼の一人息子だ。しかし、“軍神”の厳めしい顔を、この若者の温和な笑顔に重ねることは難しい。呼延威の瞳は純粋さに輝き、紅の頬はうっすらと汗ばんでいる。
「なにを見ていた? ああ、秦明か」
 河原では、秦明がひとり狼牙棒の鍛練をしていた。
 花栄には見慣れた光景である。秦明は、暇さえあれば鍛練を怠らない。他の人間のように、酒や博打、おしゃべりなどで時間を潰すことはない。この朝のわずかな時間にも、実践と同じ真剣さで、黙々と狼牙棒を振るうのだ。
 しかし、一つだけ、花栄にも見慣れない点があった。秦明は河原の岩に座ったまま、狼牙棒を振っているのだ。
「ああいう鍛練法もあるのですね」
 呼延威は感銘を受けていた。
「腕を鍛えるには、効果的なのでしょう。さすがです」
「なにが」
「秦将軍はあんなにお強いのに、まだ厳しい鍛練を怠らない」
「鍛練は、終わることはない。戦うかぎりな」
 答えてから、花栄は、自分の言い方がひどく優等生的だと面はゆく感じた。
 秦明は、不調なのだ。
 秦明の左膝は、かつて“復讐鬼”史文恭によって、完治することのない傷を受けた。その傷が、絶え間ない戦闘で悪化している。思うように足が使えず、相当な痛みもあるはずだった。
 しかし、秦明は、弱音らしいことは隻句も口にすることはない。かわりに、黙々と上半身を鍛え抜いているのである。
 どんな苦戦を強いられた時も、秦明は常に磐石であった。
(わが義兄ながら、たいした男だ)
 秦明の妻は、花栄の妹だ。子供も二人生まれている。その家族のことさえ口にせず、秦明は、淡々と、黙々と、戦い続ける。
 花栄は、熱心に秦明を見つめている呼延威に尋ねた。
「父親のことが、懐かしいか?」
「はい」
 あまりに率直に答えたので、花栄は少しばかり面くらった。彼の息子の望春なら、きっと生意気な返事をするだろう。
 常に心は青春にある花栄は、家庭や、年齢を感じさせない。それが、珍しく父親らしい表情を見せた。
「間もなく、会えるさ」
 呼延威は頷いた。
 その背に、花栄は軽く手をかけた。
「──送っていこう」
 呼延威は、一瞬、花栄を見上げた。しかし、何も問わず、土手の道を歩き始めた。

 二人は並んで、梁山泊軍の陣営とは反対の、睦州城へ向かって歩いていった。
 花栄の足取りは、いつものように軽快ではなかった。
“間もなく、会える”
 それは、確信でも、予想でもなく、彼の切実な願いだったのだ。
 花栄はまた、風に秋の匂いを嗅いだ。
 らしくないぞ、花栄──そう自分を笑いながら、花栄は接収したばかりの睦州城の城門をくぐった。凌振の砲撃によって、城門はなかば崩れたままだ。
 その城内には、童貫とその配下の官軍が駐屯している。城内は官軍による略奪が猖獗を極め、荒れ果てていた。
 花栄と呼延威は、官軍が大手を振るって闊歩する、汚れた街路を通り抜け、城内の中央にある州府に向った。童貫が本営を設けている建物である。
 彼の宿舎は、童貫らが宿にしている建物の一角にある。その区画は高い塀に囲われて、外部の喧騒から隔絶している。
 呼延威も、童貫の随身のひとりとして、ここに宿舎を持っていた。
「裏に回りましょう」
 呼延威は正門を迂回して、人通りのすくない脇門に向った。
「今日の番兵は、新入りの“ぼんやり”です」
 花栄は無言でついていった。早朝のことで、花栄は簡素な便服姿である。弓矢も持っていなかった。
「呼延の若将軍、おかえりなさい」
 門番は、なるほど“ぼんやり”した顔つきの、人のよさそうな兵だった。呼延威に頭を下げながら、ちらりと花栄をうかがった。
「こちらは?」
「東京の叔父だ。わざわざ訪ねてきてくれた」
 平然と答えながら、呼延威は懐から油紙に包んだ脂身つきの豚肉を取り出した。
「朝食の残りだ、とっておいて食べるといい」
「こいつは、いつも結構なものを……」
“ぼんやり”の目は、たちまち豚肉に釘付けになった。

 どこか裏暗い方へ続く、細く湿った通路が伸びていた。
 両側は建物の壁で、朝日も届かない。足元の煉瓦には、雑草と苔がはびこっていた。
 花栄は足早に、しかし、慎重に足音をしのばせて、その通路を突っ切った。なんの変哲もない、四方が壁に囲まれた場所に出た。
「──ここです」
 呼延威は、一方の灰色の壁を示した。
 低い場所に、柵をした煉瓦ひとつほどの横長の通気孔があった。
「宋江」
 地面に膝をつき、花栄は声をひそめて呼んだ。しばらくすると、返答があった。
「魯智深は、戻りましたか?」
 宋江だった。
 花栄の顔に、安堵と焦燥が同時に浮かんだ。
「戻らない。それどころでは、ない」
 宋江は、童貫により監禁された。
 罪状は、“叛した盧俊義と通謀した疑い”だ。北路を攻めているはずの盧俊義が明教に投じたという報告が、複数あったため──である。
「童貫は東京に増援を依頼し、兵が整いしだい清渓県を攻めるつもりだ。ここまで来れば確実に勝てると思って、強引に手柄を取る心づもりだ」
「そうですか」
「梁山泊軍は、童貫の指揮下に入った。我々を先鋒に配するようだ」
「そうですか」
「宋江? 体が悪いのか?」
「わたしは、だいじょうぶです」
「盧俊義の謀叛の噂は、おそらく方臘軍による攪乱だ。我々の意志を挫き、内訌を誘おうとして……」
 ほんのわずかな、間があった。宋江が、ひどく静かに言った。
「方臘軍だけとは、限らない」
 花栄の秀でた眉が曇った。薄い壁の向こうにいるのは、本当に“宋江”だろうか。
 花栄は、突如拘束された宋江の無事を確かめ、励ますつもりだった。疑いが晴れれば解放されるだろう──と。
 しかし、宋江は、“噂”が方臘軍だけではなく、梁山泊軍の手柄を損なおうとする“味方”による工作でもあることに、気がついている。
 花栄は、この灰色の建物のなかに、名も知れぬ巨大な生き物が閉じ込められているように感じた。その生き物は、部屋一杯に、はちきれそうなほど膨れ上がり、じっと目を閉じ──ゆっくりと息をしている。
「宋江」
 通気孔に顔を寄せ、花栄は薄暗い闇の奥を覗いた。
 ぼんやりと、人影が見えた。

 こちらを向いて座っている、小さき人──そこにいるのは、たしかに、宋江に違いなかった。
「諦めるな、宋江」
 なぜ、自分がその言葉を口にしたのか、花栄は、ずいぶん後まで分からなかった。
 やがて、宋江が、花栄を呼んだ。
「──花栄」
 それは、やはり宋江の声だった。
「われわれは、われわれの道を進みましょう」
 その声が、あまりに遠くから聞こえるようで、花栄は胸元に寒けを感じた。
 ならば、どこへ、と花栄は問いたかった。
 その道は、どこにあり、どこへ通じているのか、と。
 花栄には、道が見えない。
 それなのに、なぜ、問い返すことができなかったのか──花栄は、後々まで、この時の宋江の小さな影を、繰り返し、繰り返し、夢に見た。



 呉用の朝は、いつも早い。
 しかし、この朝は、なかなか宿舎から出なかった。
 顔色にも言葉にも出さないが、梁山泊軍の状況は良くなかった。極めて悪い、と言っていい。
 今後の展開について、楽観できる点はひとつもなかった。
 宿舎を出ると、呉用はさらに見たくない顔と鉢合わせした。
 童貫の腰巾着──王稟が、また呉用を煩わせに来たのである。後ろ手を組んで、鶏を吟味する料理人のようにやって来る。
「これは呉軍師、よいところでお会いした。童枢密が、盧俊義が歙州に入城したという報告はあったかと、お尋ねなのだ」
「報告は、まだありません」
「昨日も盧俊義が方臘に投降したという急報があった。分水県からだ。歙州にほど近い」
 呉用は黙っている。
 朝飯を担いだ兵たちが、挨拶しながら二人の傍らを通りすぎていく。鍋の中身は、飯とわずかな炒めものだ。
「つましいな」
 王稟は童貫に相伴し、卓いっぱいに皿と碗を並べた豪勢な朝食を済ませたばかりだ。
 兵たちの恨みがましい目つきを、王稟は不愉快そうに一瞥した。
「謀叛の疑いのある軍に、飯を食わせるのはお上の慈悲だ。お前たちは、そもそも招安には反対だったのだから、疑われても、しかたあるまい」
 呉用は王稟の言葉を遮った。
「では、我々が後方に戻り、清渓県攻めは王将軍に任せれば、童枢密もご安心でしょう」
「清渓県攻めの先鋒は、梁山泊軍と決まっている。神妙に童枢密のご下命に従え」
 王稟は、すでに調理するべき“鶏”を捕らえ、その首をしっかりと握っているのだ。
 実際、彼は宋江を拘束し、梁山泊軍の象徴である旌旗まで没収していた。
 宋江を人質にして、すでに梁山泊軍を支配しているつもりなのだ。宋江もおらず、さらに三万の援兵が来れば、なにもできないと考えている。
 呉用が立ち去る口実を考えていると、ちょうど戴宗が外から戻ってきた。戴宗は呉用を見つけると、足早に近づいてきた。
「戴院長、魯智深の消息はありましたか」
 戴宗は首を振った。何日も外を駆け回って、真っ黒に日焼けしていた。
「天に登ったか、地に潜ったか……坊主は目立つはずなんだが」
 魯智深は、先の戦いで“狩人”夏侯成を追って山に入ったまま、行方しれずになっていた。明教の支配地域なので、僧がいれば目立つはずだが、里にも山にも、それらしい和尚を見たという者はいなかった。
「きっと、無事です。魯智深のことだ」
 呉用は戴宗を労った。王稟は、次の獲物を探している。
「逃亡兵か」
「魯智深は、出家です。戦いに嫌気がさして、寺に帰っていったのでしょう」
「軍の秘密をもって、盧俊義に通じたのではないのか」
 呉用は王稟を相手にせず、袖の中で銅鏈を弄んでいた。
 嫌気がさしているのは、呉用の方だ。
「聞こえたか。逃亡は貴様の責任だ」
「では、私が探しに行きましょう」
「なに人たりとも、軍を離れることは許さん。逃げれば、連帯責任に問う」
 銅鏈の鎖が触れ合う音が、王稟も気づきそうなほど大きく響いた。
「飯を喰ったら、もう一走りしてきましょう」
 戴宗は呉用に向って言うと、王稟にも神妙な態度で伺いを立てた。難しい上役への対応ならば、江州牢城時代に会得している。
「それで如何でございましょうか?」
 王稟の得意気な頬に、飯粒がついている。戴宗は笑いをこらえるのに苦労していた。
 飯粒をつけたまま、王稟は横柄に戴宗を上から下まで眺め回した。
「お前は……」
 言いかけて、王稟は急に顔色を変えた。
「いいか、三日以内に見つけてこい」
 彼としては、もう少し梁山泊陣営を“視察指導”したかったのだが、向こうから真っ黒な巨漢が大股で歩いてくるのが見えたのである。
 王稟は踵を返し、捨てぜりふを残して去っていった。
「いつでも出陣できる準備をしておけ。閣下の命令がありしだい、清渓県に向うのだ。指揮は、俺がとる」

「院長!!」
 李逵が吠えるように戴宗を呼んだ。
「おう、鉄牛。元気か」
「じゃあな!! ヘッ!!」
 李逵はそのまま大股で通りすぎていった。
 宋江は、童貫に呼び出されたまま拘束された。その時、宋江には、なにか予感があったのだろう。ついていくと駄々をこねる李逵に、言った。
『鉄牛よ、わたしが戻ってくるまで、寝ていなさい。寝られなかったら、歩きなさい。そうすれば、わたしは早く戻ってこられます』
 守らなかったら、どうなるんだ──と、その時、李逵は聞いた。
『守らなかったら』
 宋江は、当たり前のように言った。
『もう、二度と会えません』 
 李逵は、それを信じて、今朝も早くから歩き回っているのである。
 戴宗は呉用と並んで、李逵の後ろ姿を見送った。

「あいつ、変わったな」
「そうなのですか?」
 戴宗は呉用の顔を見て、苦笑した。
「先生が、あの飯粒野郎に殴りかかるんじゃないかと、冷や汗をかいた」
「まさか」
 呉用は戴宗が本当に汗をかいているのを見て、自分の手拭いを差し出した。
「殴りかかったら、院長はどうしたんです」
「止めませんよ。そのかわり、いよいよ“謀叛”がほんとうになりますな」


 呉用と戴宗が話す声は、川でとれた魚を届けにきた童威の耳にも、ちらりと入った。
 前を行く李俊は、そのまま黙って歩いていく。
「……旦那」
 童威と童猛は、何かの気配を感じたのだが、それが何かは分からなかった。
 李俊も振り返らない。
 李俊の横には、許船頭が影のように従っている。さらに、藍染めの褌を締めた新しい“手下”たちが、魚の籠を抱えて続く。
 童兄弟も、彼らが太湖の竜王幇から派遣された男たちだということは気づいている。心強い味方ではある。
 ただ、李俊は、そのことを、宋江にも、呉用にも告げなかった。彼らの存在が、李俊と童兄弟との間、梁山泊との間に、薄い膜を張っている。
 むかし、李俊の妻である慧鳳が、言っていた。
『あの人は、少しだけ江から借りている人──いつか、海に帰る』
 その言葉が、童威には忘れられない。
 慧鳳すら繋ぎ止められなかった李俊を、誰が繋ぎ止めることができるだろう。
 童威の足が止まった。
「兄さん……」
 童猛の足も止まった。
 李俊は歩き去っていく。
(旦那はいつも、こうして黙って行ってしまう)
 しかし、今朝は、違った。
 李俊は立ち止まり、童兄弟へ振り向いた。

 その目が、“ついてこい”と言っているのを、童威と童猛は“聞いた”のだ。


「出る前に、もう一度、私のところに来てください」
 呉用は戴宗にそう告げると、去っていった。
 戴宗は野外に設けられた食堂に朝飯を食いに行った。
 ちょうど朝飯時で、どの腰掛けも人でいっぱいだった。
 ひとつ隙間を見つけたが、戴宗は通りすぎた。蔡慶と蔡福の兄弟、凌振と蒋敬が相席だった。
「昨夜、盧俊義軍が歙州を落とした夢を見た」
 蔡慶が粥をすすりながら言った。最近、菜食を始め、顔色がさえない。目印の花もしおれていた。
「俺も見た。間もなく、時遷あたりがやって来るだろう」
 兄の蔡福は、あいかわらず福々しい。彼らは似ていないが双子で、同じ夢を見るのである。
 戦場暮らしが性に合って、鉄腕はますます逞しくなり、箸が楊枝に見えるほどだった。炒めた麺が、絶え間なく口に吸い込まれていく。
 凌振も食欲旺盛で、包子を碗に山盛りもらっていた。箸の先で、双子を指した。
「どうだ、柴大官人と燕青の夢は見たか。あちらも音沙汰がないぞ」
 蒋敬は、行儀よく漬け物をのせては飯を食っている。
「あの二人が、しくじるとは思えぬが」
「色男も明教に投じたか?」
「孟康の皮肉口が乗り移りましたかな」
「愚痴のひとつも、言いたくなるわい」
 戴宗は食欲の湧かない話題をさけて、別の卓を探しにいった。隣の卓には、郁保四と樊瑞、阮小五と阮小七が向かい合って座っていた。郁保四は大きな碗に顔を突っ込むようにして、無心で飯を喰らっている。樊瑞は白髪をひとつに縛り、虚ろな目を空の彼方に向けていた。阮兄弟は顔を寄せ、低い声で密談中だ。
(飯がまずくなりそうだ)
 戴宗が困っていると、少し離れた木陰の卓から、朱仝が自分の場所へ呼んでくれた。
「わしはもう済んだところだ」
「ありがとうよ」
「和尚は?」
「さっぱり」
 戴宗は卓に汁麺の碗を置き、長椅子に腰を下ろした。
「飯を喰ったら、また行かにゃならん」
 戴宗は、朱仝が武装しているのに気づいた。
「あんたは、どこへ?」
「劉光世の“護衛”だ。近隣へ、方臘軍の物資を接収に行く」
 官軍の兵は少ない。千五百ほどしかいないのだ。援軍が到着するまで、梁山泊軍を便利に使おうという腹が露骨だった。
 戴宗は麺に酢を入れ、乱暴にまぜた。
「宋江さんがいないと、俺たちはどうにでもなると思っていやがるな」
「あながち、間違いではないな」
「なんだ、もう酢がないぞ」
 戴宗は酢の小瓶を振った。朱仝が隣の卓の瓶をとったが、それも空になっていた。
「劉光世の手元から、いくらか物資を回せればいいのだが」
「そんなに苦しいのか」
「黴びた備蓄米と、砂まじりの官塩ならば、ある」
「盧頭領の疑いが晴れなきゃ、飢え死にだな」
「──院長」
 後ろの卓から、楊雄が酢の小瓶を回してくれた。
「ありがとうよ」
「謀叛など、ありえない」
 戴宗は、楊雄の青白い顔を見返した。
「そうだろうとも」
 麺にありったけの酢をかけた。疲れているのだ。
「あっちには、石秀がいるからな」
 朱貴も、呼延灼も林冲も孫立もいる──みながいるのだ。風聞を信じる者など、ひとりもいない。
 それだから、余計にこの“陰謀”が、やりきれないのだ。
(俺は、静かな暮らしに憧れてたんじゃなかったか。それが、汗だくで駆けずりまわって……それでも、実は面白かった。梁山泊が、このままつまらんことになったら、俺は風をくらって逃げ去るぞ)
 戴宗は勢いよく麺をすすった。
 心の中で、もうひとりの自分の声が尋ねた。
『仲間を捨てて?』
 戴宗は麺をたぐった。
(そうとも、みんな逃げりゃいい。そして、また面白くなってきたら、集まるんだ)
 戴宗は箸を止めた。
 朱仝が轅門を馬で出て行く。
 戴宗は、その後ろ姿をしばらくぼんやりと眺めていた。
 木陰には、かすかな涼風が吹いていた。



 朱仝は、穏健な人柄だ。
 梁山泊軍の不穏な空気を案じていた。
(大事にならねばよいが)
 しかし、内には、誰よりも厳しいものを秘めているのが朱仝である。
(万が一の時は、なんとかせねばなるまい)
 それが、ここまで共に歩んできた自分の、梁山泊への義理である。朱仝は、やや張りつめた面持ちで、その人の前に到着した。

「よう、“お鬚さん”。今日は頼むぜ」
 劉光世は、なんの悩みもないようだった。彼は無能で、享楽的な人物だ。育ちがよいので、王稟たちのように裏表がないのが、長所とえば長所だった。
 からの荷車を引いた数人の兵卒を連れて、二人は郊外の村に向った。劉光世はご機嫌で喋りつづける。
「なにしろ、補給が細いからな。食い扶持は、自分でどうにかせにゃならん。明教徒どもは、一見、しょぼい暮らしをしているが、金持ちにかぎってケチなのは世の常だからな」
 睦州城内で得た方臘軍の物資は、童貫が殆ど押収した。自分たちで独占して、今後の用に備えているのだ。梁山泊には、腐った米と劣悪な塩が渡っただけだ。
 劉光世には、それなりに物資が渡っているはずだったが、この“敗家子”には、足りないのだ。
「酒も肉も、歯の隙間にはさまるほどしかないんだからな。まいるよ。童枢密に直談判したら、自分でなんとかしろと言うし」
 つまりは、“略奪”の許可を得たというわけだ。しかし、彼の手勢は少なく、また周辺の民情も不穏なので、梁山泊軍に案内と護衛の兵を出せと要請してきた。
 朱仝が引き受けたのは、略奪の災禍を少しでも抑制するためだった。
 朱仝は事前に調べ、方臘軍の砦があった東管へ劉光世を連れて行った。方臘軍の物資なら、劉光世に“略奪”させてもよいだろうと思ったからだ。
「さて、どこにお宝を隠しているかな」
 東管の街に入ると、劉光世は意気揚々と砦を隅々まで調べた。住民はすでに逃げ散っている。
 砦では、いくらかの兵糧を見つけただけだったが、街の宿屋の地下蔵では、埃をかぶった大きな酒瓶をかなり見つけた。これは劉光世には米や塩よりも“収穫”だった。
「明教になるまえに仕込んで、そのまま忘れていたんだな。どれ……うん、いい具合に古酒になってる」
 さっそく、封を切って飲み始めた。朱仝が離れて眺めていると、機嫌よく瓶を差し出した。
「あんたも、やれよ。俺は、賑やかに飲むのが好きなんだ。まぁ、美人の酌が一番だがな」
 朱仝は無言で断った。
「そうかい? そういえば、明教徒の捕虜がしゃべったんだが、方臘には、どえらい美人の娘がいるらしいぞ。殺すのは惜しいから、俺にもらえるよう童枢密に頼んでおこう」
 劉光世の無駄なおしゃべりの間にも、兵たちは家捜しを続けていた。
 閑散とした街は、調べ尽くすのにたいした時間はかからなかった。方臘軍の蔵や、民家の床下まであさって、荷車十台ほどの物資を得た。
「たいしてないな」
 劉光世は酒瓶を片手に、不満げな顔で荷車を眺めた。
「住民が、持ち出して逃げたんだろう。奴らは山に逃げ込んだんだろうから、探してみるか」
 今にも兵に命じようとする劉光世を、朱仝は言葉静かにたしなめた。
「ここは、すでに宋国に復帰した土地です。住民は慰撫しなければなりません」
「そうなのか?」
「父上が知ったら、お怒りになるでしょう」
“父上”、と聞いて、劉光世は叩かれた犬のように首を縮めた。
「そうか、うん、そうだな」
 彼の父親の劉延慶は、童貫の腹心の将軍のひとりである。西夏戦線などで多くの武功を立て、位は保信軍節度使、馬軍副都指揮使。現在、各地で展開している方臘戦にも、軍団を率いて参戦している。
 武門の家柄を誇る劉延慶は、この出来の悪い跡取り息子を戦場に送り出し、なんとかいっぱしの武人に鍛えようとしているのだ。
 本人も、その気はあるらしい。だらだらと飲んでいる言い訳なのか、単なる酒の肴のつもりか、荷車の端に腰掛けて、急に戦の話を始めた。
「童枢密は、三万の増援を寄越せと高太尉に要請している。梁山泊軍を合わせれば、五万はくだらないだろう。清渓県など、簡単に落とせるな」
「梁山泊軍は被害が多く、従軍できる兵は一万しかいません」
「そんなに死んだのか?」
 劉光世は、すこし気まずそうな顔をした。
 朱仝は、足元の草を眺めていた。
 名もなき雑草──ではなく、これは車前草だと、朱仝は古い記憶をたぐりよせた。
 子供がまだ幼い頃、妻がこの草の花を摘んで、一本を自分で、もう一本を子供に持たせた。その茎を互い違いにひっかけて、ひっぱり合うと、片方がプツリとちぎれる。
『ほうら、坊やの勝ちよ』
 子供に頬をすりよせて、妻が笑った。
 そんな光景を思い出していると、劉光世が酒瓶をひとつ、朱仝の馬の蔵に載せてきた。
「持ってけよ、あんただって喉がかわくだろう」
「いりません」
「明教徒が捨てた酒を拾ったんだ、親父だって、文句は言わん」
「それでも、いりません」
 朱仝は酒瓶を、荷車に置いた。
 これが、“梁山泊”のやり方だ。
 悪人からは容赦なく奪い、無辜の民には惜しみなく与える。
 目の前にいる、悪人というほどでもなく、無辜でもない男に、朱仝は言った。
「帰りましょう」

 炎天下の帰り道、山の上から、蛇行して流れる銀色の谷川が見えた。

 数隻の船が、ゆっくりと水面を下っていく。
 梁山泊水軍の旗を掲げた船だった。
(李俊?)
 朱仝は目を凝らしたが、船はみるみる遠ざかる。
 静かな川面を連なって進む船影は、水鳥の親子のようだった。



 その日の午後、呉用と花栄は陣営の中にある空き地にいた。
 茶色い土が剥き出しの広場である。もともとは輜重の置き場になっており、食糧や物資を積んでいたが、駐屯中にどんどん物資は消費され、片隅に荷車が何十台が並んでいるだけになっていた。
 空き地には一本の大きな合歓の木があり、下は木陰になっている。その下で、呉用と花栄は話していた。
 そんな開けた場所にいるのは、官軍の間諜を警戒してのことである。二人がいる木の裏側では、李逵が斧を枕に居眠りしている。
「それで、宋江をどうする」
 花栄の憂いは、その一点である。苦労して面会した宋江は、まるですべてを諦めているように、花栄には見えた。
「このまま宋江が東京に送還されるようなことになれば、俺にも考えがある。童貫に援軍が来れば、すべてが手遅れだ。取り戻すなら、今のうちしかない」
 花栄はある程度の図面をすでに描いていた。
「呼延威に手引きをさせ、力ずくで奪還する。童貫の手勢は、千五百程度だから、十分に制圧できる」
 呉用もとうに覚悟を決めているが、やはり慎重だった。
「それから、どうします。童貫を殺して、宋国に反旗を翻しますか」
「呉用先生からみて、勝算はどうだ」
「方臘討伐に当たっている官軍が、一斉に我々に向ってくるでしょう」
「となると、方臘と手を組むしかないか」
 呉用は即答しなかった。
 梁山泊軍は多くの仲間を方臘軍に殺されている。
「おそらく、それは無理でしょう。それに、そうなれば、花栄、東京にいるあなたの家族は」
 今度は、花栄が口をつぐんだ。
 呉用にも、花栄の焦りは分かる。
「もう少し待ちましょう。宋江殿が、東京に護送されることは当分はありません。あの招安戦で、宋江殿が童貫に捕らえられた時とは状況が違う。いまは、宋江殿を切り札に、我々を動かすことができますから、童貫は宋江殿を手放しません」
 花栄は納得できなかった。
 同時に、自分が、梁山泊のことよりも、宋江の身ひとつを案じていることも分かっていた。
「俺は、宋江が心配なのだ。宋江が諦めて、死ぬつもりなのではないかと。あまりにも多くの仲間を殺し──そう、宋江は、自分が殺したと、自分のことを責めているのだ」
「そんなわけがあるか」
 李逵がむくりと体を起こした。
「宋江兄貴は、おいら達をおいて、勝手に死んだりしねぇ!」
 もう少し待とう──と、呉用は重ねて花栄に言った。
「魯智深を探すという名目で、戴宗を歙州へやりました。いずれ盧頭領の状況も分かるでしょう」
「その前に、童貫は梁山泊軍を清渓県に当てる気だ。全滅させる計算でな。目障りな梁山泊軍を潰し、方臘軍の勢力を削いで、漁夫の利を得る──童貫は確かに戦略家だ」
「そう簡単には、やられはしません」
「俺は、“心づもり”だけはしておくぞ。兵糧はなんとかなりそうなんだな?」
 昨日、物資が不足している梁山泊軍には、珍しく朗報があった。
 密かに食糧の調達を画策していた李応と杜興が、東管郊外の船着場で、上納用の米を積んだ船団を発見したのだ。清渓県に収める年貢米が、戦のために足止めを食ったままになっていたのだ。
「童貫には内密に、李俊が水軍を差配して接収に向っています。その米があれば、清渓県攻めの間の用に足ります」
「戦の前に、飢死ではたまらんからな」
 花栄もやっと愁眉を開いた。
 そこに李応と杜興が足早にやってきた。
「もう米が着いたのか。王稟に見つからんうちに、うまく隠そう」
 しかし、杜興が近づいてくると、呉用はすぐに異変に気づいた。
「どうしました、李応殿」
「ありえないことが起こりました。いま、李俊についていった水軍の小者がひとり、逃げ帰ってきたのだが……」
 花栄の顔色が変わった。
「敵襲か」
「杜興よ、お前から言うがいい」
 促され、杜興は揉み手をしていた顔をあげた。
「信じていただけないでしょうが、その小者が言うには」
 いつも歯切れのいい杜興らしくなかった。彼自身、なにをどう伝えればいいのか分からないのだ。
 結局、杜興はありのままを言うほかなかった。
「李俊殿が──米を持って、逃げました」




※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。




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