水滸伝絵巻-graphies-

第百二十九回
ならずもの達の凱歌(四)



 王寅は竜渓村から別の道を歙州に向っていた。
 明教の白い戦袍が、紅花で染めたように赤かった。
 真夜中と夜明けの狭間、本来ならばもっとも静かな山の空気が、あちこちで湧きあがる悲鳴、喚声、鯨波や銅鑼で揺らいでいる。
 しかし、王寅は落ち着いていた。
(村は全滅、秘密は守られた)
 夜襲の失敗よりも、その方が重要なのだ。
「城へ急げ、敵が次に襲うのは歙州城だ」
 戦闘が起こっているらしい本来の道筋を避け、王寅は山中の隘路を歙州へ駆けた。
 転山飛が、岩場も崖も跳び越えていく。村で何人かの部下は倒れたが、生き残った者も、誰も転山飛についてくることはできなかった。



 梁山泊軍は歙州軍を敗走させた。
 将を失った兵たちは、統率を失って、ひたすら歙州へ逃げていく。
 梁山泊軍の侵攻以来、歙州軍は多くの兵を杭州など各地の戦線、あるいは幇源洞の防備へ送っていた。王寅が竜渓村の石工まで徴発したように、兵士は民間の男が多く、訓練された精鋭は少ない。
 戦乱の続く江東地域ならば、一般の明教徒も戦いに慣れている。しかし、方臘が“悟った”とされるこの一帯は“聖地”であり、民衆も明教がまだ平和的な宗教集団だった頃の雰囲気を色濃く残して、戦いより祈りを重視してきた。
 そんな方臘兵たちを、朱武はあらゆる手を使って攪乱した。極限まで怯えさせ、混乱させて、必死で城へ駆け込むように仕向けたのだ。
「彼らを追って、歙州城へ接近する」
 再び集結した梁山泊軍に、喪の旗が押し立てられた。
 兵士たちも裂いた白絹を喪章として頭に巻いている。夜通し戦ってきた将兵は、顧大嫂たちが運んできた炊き出しに群がった。
 孫立と黄信が将兵を点検している。
「林冲が、戻っていない」
 黄信の報告に、孫立は顔を曇らせた。
「見た者は?」
「山中で戦い、方臘軍の中に消えたと……」
 そこに、竜渓村から凶報が届いた。若い女で、血まみれの子供を抱いていた。女は、盧俊義の足元に倒れ込んだ。
「村は全滅しました。生き残ったのは、老人と女が七人と、この子だけです」
 竜渓村の女が来たと聞いて、孫二娘がやって来た。
「うちの亭主は」
 女は、一瞬、孫二娘の顔を無言で見つめた。
「襲ってきた兵を何人か倒して……この子をかばって……」
「死んだんだね」
 女は頷いた。

「そうかい」
 孫二娘は、女にしがみついている子供の頬を、指で撫でた。
「そうかい」
 孫二娘は、女たちに背を向けた。
 炊事兵たちは、飯を配るのに余念がない。鍋釜から、まだ緩く湯気が立っている。
「お前たち」
 孫二娘の声が、しずかに響いた。
「ありったけの包丁をもっておいで!!」
 孫二娘は、運ばれて来たすべての包丁を帯にさした。
「行くよ」
「姐御、どちらへ」
「“料理”さ」
 その声を合図に、梁山泊軍は再び動き始めた。

 朱武は呼延灼たちを呼び、急いで最後の指示を与えた。
「急げ、しかし、敗走する敵とは適切な距離を保つのだ」
 梁山泊軍が出ていく。白旗を掲げ、喪章を巻いた梁山泊軍は、闇の中では方臘軍と区別がつかない。
 陣には、食べ散らかされた鍋釜と、少し離れて、欧鵬の遺体が残されていた。そのそばには、誰が置いたのか、一匹の太ったねずみが死んでいた。
 かたわらの梢に、一羽の鷹が止まっていた。
 黄門山からついてきた兵卒が、穴を堀り、鉄棒とともに欧鵬を埋葬した。
 それを見届けたかのように、夜明け、鷹は大きく翼を広げた。そして、悠然と空へ舞い上がり、いずこかへ、飛び去っていった。



 暁に染まる山のどこかで、祈りが響いた。
  闇は光 光は闇
  闇こそ光の揺りかご
  太陽を生み出すもの
  もっとも深き闇が、もっとも強き光を発する
 それはこの原初の聖域に伝わる、明教最初の詠歌である。
 その時、明教徒は弾圧を受けて傷つき、打ちひしがれて、それでもわずかな希望をいだいて、この深山に逃れ、隠れた。
 生き残った竜渓村の信者たちは、さらに深い山を求めて、夜明けの道を旅立っていった。
 その峰のはるか下方──麓の道には、敗走する歙州軍の姿と、それを追う梁山泊軍の姿があった。
 去りゆく民も、戦う兵も、おなじ美しい曙のもとにいた。
 おなじ朝焼けが、歙州城の上にも広がっている。
 方厚は急報を受けて城門に登った。
 まだ地上には薄い闇が残っている。その彼方から、続々と敗残兵が現れたところであった。
 敗走してくる歙州軍である。一万の軍勢が出陣したが、半分もいないようだ。遠目にも、その恐慌、混乱ぶりが伺える。
「いったい、なにが起こったのだ。王寅、高玉は」
 城門が開き、続々と兵が逃げ込んでくる。兵たちは尋常ではなく混乱していた。
「夜襲は罠だった、将軍たちはみな討ち取られた!」
 その恐慌が、方厚にも伝染した。
 方厚は、この状況の中から何か自分に有利なものを見つけようとした。
 城内には一万の兵が残っている。しかし、敵は三万と聞いている。
「孫は、杰の援軍はまだか……」
 その時、城門の前にひとりの白衣白髯の老人が現れた。杖を持った、明教徒の長老である。
 老人は白き蓬髪を朝焼けの風にたなびかせ、杖で東方──朝日を指した。
 方厚は思わず、その杖の示す方を見た。いましも自軍が敗走してくる、東への道。郁嶺関へ通じる道である。その峰に、朝日が登る。
 郁嶺関の足元に連なる山々の狭間から、道はやがてなだらかな丘陵地に出て、歙州城へと伸びている。その山あいから、敗残の兵とは明らかに違う騎兵たちが現れたところであった。
 朝日に白絹の旗が雲のごとく輝いている。
「おお、援軍だ。しかし、なぜ北東の道から?」
 孫の上将軍・方杰は、方聖宮の守りについている。ならば、援軍は東南から来るはずだ。
(わしが知らぬ間に、金吾軍は移動していたのか。敵軍は、南の睦州方面にいるとの情報もあった……それとも、誰か別の?)
 深山の奥にある方聖宮と、歙州の間の連絡は密ではなかった。すでに白い騎馬隊は城近くまで迫っている。城内の兵も集まっていたが、方厚はいかに命令すべきか迷った。
 その時、白髯の老人が、杖をひときわ高く杖を掲げた。
「道を開けよ、“猊下”がこの地にご帰還なされた!!」
 まさか──と思った方厚の目が、白旗に取り巻かれた馬上の貴人に釘付けになった。
「おお、あの姿は」

 堂々と馬を進める盧俊義であった。
「まさに甥、なんと、自ら来てくれたのか」
 老人の声が、いかづちのごとく響いた。
「方聖公を城に迎えよ!!」
 次の瞬間、竜渓村の生き残りであった老人は、ふいに背後から現れた王寅の鋼鎗に突かれて倒れた。
「だまされるな。あれは、梁山泊軍だ!!」
 王寅は叫んだ。
「城門を閉じろ!!」
 慌てて番兵が門を閉じようとした。しかし、歙州の兵が続々と逃げ込んでくる。なかのひとりが、門扉を押す番兵に斬りつけた。歙州兵に変装し、敗残軍の中に混じっていた石勇だった。さらに、鄒淵、鄒潤、杜遷、李雲の姿もある。みな、白装束を脱ぎ捨てた。
 李雲は、もう一人の番兵へ迫った。門扉を押す番兵に槍を向ける。が、昨日受けた傷のためか、動きが遅れた。刀を抜いた番兵に、横合いから孫二娘の包丁が襲いかかった。
 首が飛んだ。
 そのまま孫二娘は敵の中へ飛び込んでいく。
 包丁を振るうたびに首が飛んだ。倒れた兵士の首に刃が食い込むと、踏みつけて抜き、次の兵に襲いかかった。血煙の中を飛び交う、一匹の女夜叉であった。

(足りないねぇ)
 刃のこぼれた包丁を投げ、孫二娘は次の包丁を帯から引き抜いた。張青が使い込んだ包丁だった。きれいに研ぎあげられていた。毎晩、包丁を研ぐのが張青の何十年も続いた日課だった。首が飛ぶ。
(ぜんぜん、足りない)
 血飛沫を浴び、李雲の足元に首が転がった。
 李雲は我に返ると、懐から大工道具を取り出した。
 杜遷が閉じかけた扉を押し開き、李雲が楔を打ち込んで、閉じないように細工した。同じく歙州兵にまじって城門を入った鄒淵、鄒潤が援護する。
 まわりの歙州兵には、なにが起こったか分かっていない。城内に逃げ込もうとする兵、門を閉じようとする兵、誰と戦ってよいの分からず右往左往する兵が入り乱れている。

 城門が近づくと、魏定国と単廷珪の部隊が突出した。
 城門周辺では、すでに戦いが始まっている。魏定国は馬に激しく鞭を入れた。
「このまま突っ込め!」
 城門は開け放たれ、周囲では歙州兵と紛れ込んだ梁山泊兵の混戦になっている。

「突撃!!」
 魏定国は馳せた。単廷珪が一千の軽騎を率いて続く。
 先に飛び込んだのは、魏定国だった。城門を巡って両軍の歩兵たちが戦う間を突破して、城内に突入した。方臘軍の変装は、とっくに投げ捨てている。
 真っ赤な甲冑が、陰気な歙州城に鮮やかだった。
 その前に、王寅が立ちふさがった。彼は歙州城の防備も一手に担い、城のことは方厚以上に知り尽くしている。別の脇門から入城し、歩兵の戦いを援護しょうと城内を突っ切ってきたのである。
 城門に通じる道を、王寅が鋼鎗を掲げて駆けてくる。魏定国も、それに気づいた。王寅は、城内で糾合した守備兵を率いていた。王府の守備をになう精鋭である。魏定国の部隊とぶつかり、合戦となった。相手が城兵の精鋭とみて、魏定国は号令した。
「火槍を構えよ!」
 後軍の火兵が一斉に火鎗を構える。
「点火!!」
 火槍が火を吹き、火花を散らして街路を飛ぶ。それを見た王寅は、馬を返して逃げ出した。
「追えッ!!」
 魏定国は追った。城門から城内に伸びる道は、幅があり、平坦な土の道だった。路傍には何軒かの建物があったが、人はすでに逃げたようで、扉も窓も閉まっていた。
 そのしんとした街路を王寅を先頭に方臘軍の騎兵部隊が逃げていく。
 魏定国は全力で王寅を追いかけた。単廷珪も部隊を率いて追撃していく。冷静な単廷珪は、敵は防御の拠点となる王府へ撤退するのだと読んだ。おそらく、この間に城内の他の方臘軍も王府に集結するだろう。
 その前に城の中心まで進撃し、王府を落とせば、城内を制圧できる。
「距離をつめろ」
 単廷珪は魏定国に警告した。
 敵と距離を詰めておけば、陥穽にかかる恐れはない。
 魏定国は速度をあげた。
 追撃される方臘軍騎兵は城の中心に向って駆けながら、しだいに数を減らしていた。横道にそれて逃げていくのだ。魏定国の眼前に、王寅の背中が迫った。王寅の馬がようやく疲れを見せはじめ、速度を落した。魏定国は、難なくその後ろについた。
 魏定国は槍を掲げた。その時だった。
 ふいに、眼前の馬が飛んだ。
 まるで別の馬のように全身に力を漲らせ、舞い上がるように一丈も飛んだのだ。
 同時に、魏定国の足元が、音をたてて崩れた。

 陥穽──と、叫ぶ暇もなく、魏定国は馬もろとも穴の中へ転げ落ちた。続いていた騎兵たちも落ちていく。ぞっとする馬の悲鳴と人間の絶叫が街に響いた。
 このような日のために、あらかじめ掘ってあった陥穽である。ふだんは厚い板で封じて人々を通行させ、ことあらば、それを土をかぶせた筵に替える。
 阿鼻叫喚の坩堝となった穴の向こうで、王寅は愛馬の首を撫でた。
 魏定国のすぐ後ろには単廷珪が、やや遅れて、孫新、黄信らの部隊が続いていた。
 単廷珪の眼前で、魏定国らは陥穽に消えた。底には刀が埋めてあり、壁からは槍の穂先が無数に飛び出していた。飛び込んだものは、切り刻まれて、息絶えた。血の匂いが、あたりを染めた。
「おお、魏定国……!」
 単廷珪は後退を命じた。
「さがれ! 罠だ!!」
 しかし、全速で疾走してきた後続の馬は勢いづいて、すぐに止まることなどできない。下ろうとする馬に後続の馬がぶつかり、そのまま入り乱れながら停滞した。
 さらに無人だと思っていた路傍の建物の窓が開き、弓兵が現れた。落下を免れた梁山泊軍の兵士たちが、矢を浴びて倒れていく。
(退路を断たれた)
 単廷珪は、馬から下りた。すでに彼は陥穽の縁まで押されていた。陥穽の中は、落ちた人馬で中程までが埋まっている。
(落ち着け)
 単廷珪は、手あたりしだいに、倒れた兵士、死んだ馬を陥穽に投げ込みはじめた。
「穴を埋めよ!」
 矢の雨の中、単廷珪は“作業”を続けた。矢が腕に刺さり、脚に当った。投げるものがなくなると、自分の馬を刺して投げ込んだ。そして、最後に首に矢を受け、単廷珪は力尽きた。

後方にいた黄信は、入り乱れる兵の彼方に、単廷珪の声を聞いた。
「俺を踏み越えて、進め!!」
 混乱の中を駆け抜けた黄信は、単廷珪が穴に落ちていくのを見た。彼の部下たちも、ひとりまたひとりと落ちていく。そして、彼らは陥穽を埋めたのだ。
 孫新、黄信の部隊は、射かけられる矢をくぐって走り続けた。梁山泊軍の死体が、陥穽の縁まで埋めていた。
 地奇星──単廷珪。
 その屍を踏んで、彼らは進んだ。
「“奇”なり──」
 思わず嘆じた黄信の蹄の下で、死せる単廷珪の死に顔が、友軍が進んで行くのを祝福していた。

 その同じ頃、李雲は石勇とともに、城壁沿いに外から西門に向っていた。朱武から、東門を奪ったあと、西門に行き、そこを封鎖するよう命じられていたのである。
「逃げてくる貴人があれば、捕らえよ」
 それが朱武の命令である。朱武は、梁山泊軍が歙州を襲えば、“皇叔大王”方厚は西門から清渓県幇源洞の甥・方臘のもとへ逃げるだろうと予測していた。
 空には、太鼓の乱打が轟いている。歙州城の鼓楼の太鼓が打たれているのだ。これは城内の急を告げる警報である。城内に分散していた歙州軍が、西方へ移動していく。
「急げ、軍勢が集まってくるぞ」
 李雲は直感した。
 事実、それは『全軍、西門へ集結せよ』という、最終の指令であった。朱武が見抜いた通り、方厚を護衛して脱出するためである。
 いま、まだ西門は歙州軍の一部隊が守っていた。李雲は石勇とともに、風のごとく攻撃をしかけた。配下が三百人従っている。守備隊もほほ同数がいた。
 先陣は、石勇だった。縄票では、大勢の敵は相手にできない。敏捷な石勇には、馬が却って邪魔になる。石勇は馬から飛び下り、刀を抜いて斬り込んだ。
「門を奪え!」
 李雲は短槍を武器にしていた。彼はどんな武器でも使える。しかし、“不殺”の誓いをたて、常に刃のない朴刀を武器にしていた。今は、その誓いも破られ、最も効果的な武器を選んだ。
 半分の守備兵を、李雲と石勇が倒した。この日、李雲は別人のように自ら敵の渦中に飛び込み、数え切れぬ敵を倒した。淡々と斬り込み、確実に止めを刺した。李雲が通ったあとに、生きている者はいなかった。金の髪が血を浴びて、赤く染まり、たてがみのように逆立っていた。

 李雲は、倒れていく方臘兵を、閃く自分の武器を、他人の夢のように眺めていた。自分ではないものに支配されていた。それとも、それが、自分なのか。
 巨大な獣の目が、彼をじっと見つめている。
 丁得孫の目のようにも、自分の目のようにも感じる。
 彼自身もまた──一匹の虎であったのだ。
 また敵が、音をたてて地面に倒れた。
 それが、“敵”かどうかさえ、李雲には分からなかった。
 眼前には、巨大な門が開いている。
(あの門を、閉じなければ)
 その時、一頭の馬が、西門を目指して城内を駆けてくるのが見えた。
 王寅だった。
 陥穽を突破された王寅は、梁山泊軍が攻め寄せた東門とは反対側の西門から脱出しようと、城内を突っ切った。
 手練──と見て、李雲は槍を握る手に力を込めた。李雲は徒歩だ。槍を構え、王寅の馬の前に立ちはだかった。
 二人の男の刃が交わり、火花を散らす。続けて打ち合い、次第に二人の距離が詰まった。
(いまだ)
 李雲は馬に体当たりするように踏み込んだ。

 その首もとに、転山飛が噛みついた。甲冑が引きちぎられるほどの力だった。
「“青眼虎”!」
 石勇が救いに走った。倒れた李雲の腹を、転山飛の蹄が踏みしだく。李雲へ腕を伸ばした石勇にも、転山飛は襲いかかった。後脚で顔を蹴り上げられ、石勇は城壁に叩きつけられた。片目がつぶれ、顎が砕かれて、歯が飛んだ。

 血を吐いて、石勇の動きが止まった。
 李雲は、まだ生きていた。周囲には、李雲が殺した方臘兵が累々と横たわっている。
 その血だまりの中に、李雲は起き上がろうともがいた。
 胸の骨が折れ、息をすることができない。喉から血が泡になって溢れだした。その背中を、さらに馬が踏みつけた。
 槍はどこかに飛び、腰に吊っていた大工道具が散乱していた。不殺の証──墨家の象徴である道具たちだった。
 李雲の青い目が、一瞬、赤く光って見えた。
 李雲は腕を伸ばし、血まみれの鑿を掴んだ。その神聖な鑿で、彼を殺そうとしているものを、殺そうとした。

 同時に、王寅の鋼鎗がその背を地面まで串刺しにした。

 王寅は李雲の背から、鋼鎗を引き抜くと、再び西門に向った。邪魔する梁山泊兵は、ことごとく餌食となった。
 背後から敵が迫っている。孫立と黄信が王寅を追って来たのだ。
「逃がすな!」
 王寅は笑った。
 この転山飛に追いつける馬はいない。馬腹を蹴り、王寅は門に向った。
 その門が、閉まっていく。
「なにもの!」
 王寅は愕然とした。
 すでに死んだと思っていた男──石勇だった。
 顔半分が醜く崩れ、血まみれのまま、石勇は門の外に立っていた。そして、両手で門扉を閉めた。門外にあった大きな石を動かして門前に据え、さらに周囲に散乱していた死体を門前に積み上げた。
 王寅は馬で体当たりした。しかし、扉は動かなかった。
 石勇は、門を背に立った。門の隙間から突き出された王寅の鎗が、石勇の背中を突いた。

 彼方に、砂塵が舞っている。
 城外で警邏や索敵を行っていた歙州軍が、太鼓の乱打を聞きつけて、続々と集まってくるのだ。
 その将は、顔に無数の傷を持つ男だった。石勇を見ると馬から飛び下り、隠し持っていた飛刀を放った。石勇は、縄票でそれを払い落した。
 男の手には、もう五本の飛刀が握られていた。

 それでも、石勇は立っていた。

 たったひとり、死体の山の頂きで門を守り、石勇は、最後まで、一歩も動くことはなかった。

 門の中で、ついに王寅は反転した。
 別の退路を探すつもりだったが、孫立と黄信により道を断たれた。鞭と喪門剣が王寅を攻めたてる。鄒淵と鄒潤も追いついて、左右から王寅に攻め寄せていく。
 王寅は四人を相手どっても怯みもせず、飄然と戦い続けた。人馬が一体となり、何倍もの戦力となっていた。誰も勝ちを制せない。
 鄒淵たちは馬を倒そうとするが、逆に蹄が襲いかかった。触れれば大きな傷ができた。山中を進むのに便利なよう、蹄鉄に刺があるのだ。
 李雲は、激痛に朦朧としながら、動くこともできず、目に映る戦いを見ていた。痛みと、震えと、寒さが、津波のように間断なく押し寄せ、それが、やがて遠ざかる。
 視界が砂嵐のように乱れ、心地よく薄れていく意識の彼方に、白く輝くものが見えた。
 今しも、駆けて寄せて来るひとりの騎士──。
 その人の姿を確認し、李雲は、ほっと最期の息を吐いた。
“殺す者は、殺される”
 李雲の瞳は、再び湖の青さを取り戻し──ほどなく、安堵したように、閉じられた。

 駆けてくる一頭の白馬に、その馬上の男に、黄信も気づいた。
「林冲! 生きていたのか!!」

 血にまみれ、土に汚れ、駆けてくる蒼白の幽鬼は、山中にて行方不明となった“豹子頭”林冲だった。
 林冲は真っ直ぐに王寅に攻め寄せた。鬼気せまる姿であった。
 加勢しようとする黄信を、孫立が止めた。
「手を出すな。却って、邪魔になる」
 王寅は鋼鎗を身構えた。敵は明らかに憔悴している。しかし、距離を隔てても、尋常ではない気を感じた。
 先に斬り込んだのは王寅だった。馬がぶつかる。しかし、転山飛の勢いが、林冲の白馬には通じなかった。二頭の馬は、吸いついたようにぴたりとその横腹を合わせた。王寅は突き込んだ。林冲は、倒れるように避けた。続いて右に斬り込んだが、蛇矛に防がれた。まるで手応えがないのが不気味だった。王寅は続けざまに斬り込んだ。
 林冲は、よけなかった。刃があたる瀬戸際で、鞍上で体の均衡を失った。王寅には、そう見えた。王寅は攻めこんだ。林冲は半ば落馬したような不自然な体勢だった。視点も定まっていなかった。その頭上に、蛇矛が浮遊するように旋回し、王寅の胸を払った。
 孫立は、蛇矛が大蛇となって自ら動き、王寅を斬ったのではないかと錯覚した。
 肩から胸に傷が走り、王寅は馬上から落ちた。すかさず鄒淵たちが襲いかかり、めった斬りに斬りつけた。
 その傍らで、林冲が、微かな息を吐いたのを、孫立は聞いた。
 孫立は、後まで、その時の林冲の姿を家人に語った。
 名にし負う“豹子頭”林冲。
 鮮血に染まる戦場にて、その全身だけが、白く、淡く輝いていた。
 それは、宋国最強と謳われた彼の、最後にして、永遠となった輝きであった──と。

 林冲の周囲だけが、静かで、遠く、この血腥い戦場とは、別世界のようだった。
 涼しい風が、血の匂いを運びさっていく。
 林冲は、自分が消えていくのを感じた。
 雪蘭のことも、陸謙のことも、晁蓋も、梁山泊も──遠ざかり、ひとつに溶け合い、彼の虚しい世界を満たしていく。
 悲しみもなく、喜びもなく、心は、ただ穏やかだった。

(私の今生は──終わった)
 林冲の手から、ゆっくりと蛇矛が滑り落ち、音もなく、地上に落ちた。



 方厚は、いちはやく裏道を王府へと逃げていた。
 王寅が敵を足止めしている間に、特に出来のよい歙硯をもって方聖宮へ逃げるつもりだ。
 しかし、方厚が荷物をまとめ終わる前に、梁山泊軍は王府になだれ込んできた。護衛の兵は、街中で梁山泊軍と戦っている。王府の守りは、呼延灼が一蹴した。
 方厚は捕らえられ、盧俊義の前に連れて行かれた。この時、ようやく方厚は盧俊義が方臘ではなく、瓜二つの敵将だったことを知った。
 方厚は、戸惑い、怒り、それから腹を決めたようだった。
「取引しよう。悪い話ではない。お前は、甥にそっくりだ。ずいぶんと助けてやったのに、甥はわしの言うことを聞かない。丞相の婁敏中は田舎者で、現実の厳しさを知らん。どうだ、お前、甥の“影武者”となれ。わしが天子にしてやるぞ。新しい国の皇帝陛下だ。遼国に宋を滅ぼさせ、ともに江南を支配しよう」
「面白い話だった」
 盧俊義の顔色を見て、老人は語調を変えた。老練な商人である方厚は、常に複数の切り札を準備している。
「梁山泊軍を率いる宋江は、私欲なく、天下の義人と聞いている。早く戦を終わらせて、世を平和にしたいだろう。そのためにも、我等と手を組み……」
「つまらん話だ」
 盧俊義は遮った。
「仕事をして、飯を食って、寝る。また朝が来る。それが、“平和”だ」
 盧俊義は一刀のもとに、老人を斬った。


 歙州城の方面から、幾筋かの煙が立ち昇っていた。
 煙は、夕暮れの空に吸い込まれていく。
「空だけ見ていると……」
 顧大嫂は、前掛けで涙をぬぐった。隣には、夫の孫新が立っている。
「ほんとうに……今日、戦いがあったことなんて、嘘みだいだねぇ」
 彼らは、竜渓村のはずれに立っていた。
 城門前で殺された老人の遺体を運んできたのだ。同胞とともに、弔うためだ。
 孫二娘も竜渓村に戻り、死体の山の中から張青を探し出していた。
 無抵抗で殺された村人たちの遺体は、致命傷だけで、きれいだった。張青の遺体だけが、全身が傷だらけだった。
 方臘兵は、十人が死んでいた。傷は、すべて包丁がつけたものだった。
 張青の遺体は村で荼毘に付されることになった。
 顧大嫂夫婦が、焼け跡の竈で湯を沸かす孫二娘に声をかけた。
「俺たちがやろうか?」
 孫新の申し出を、孫二娘は礼を言って断った。
「亭主の始末は、女房がつけなきゃね」
 孫二娘は湯で張青の体を清め、新しい着物で包み、積み上げた薪の壇に運んだ。
 配下の老炊事兵が言った。
「旦那が先に死んだら、女房の着物の切れ端を棺桶に入れにゃいかん。うちの田舎ではそうする。でないと、一緒に連れていかれちまう」
「そうかい」
 孫二娘が張青に抱かせてやったのは、村でみつけた鍬だけだった。
 張青の骨灰を、孫二娘は夕暮れの山に撒いた。
「おや、うさぎだ」
 草むらから茶色い兎が顔をだし、逃げていった。
「かわいいねぇ……」
 孫二娘は灰を撒く。骨を撒く。
 夕日が照らし、風が吹く。
(もう会えないのかい)

 灰は風に乗り、土に還り、やがて、草になって、木になるだろう。
 風の中で、孫二娘はひとり──泣いた。



 歙州城に凱歌があがる。
“石将軍”石勇の遺体は見つからなかった。
 西門外に到達した郊外の歙州軍は、王府から急行した呼延灼軍によって駆逐された。彼らが去ったあと、そこに、石勇の姿はなかった。
 門前には、山となった死体とともに、ひとつの大きな石敢当があった。その上に、血まみれの縄票が巻きついているのを、時遷が見つけた。
 石勇は、死んで、石敢当になったのだ──時遷は、なぜかそう思った。
「石勇はん」
 時遷は、石敢当に向って手を合わせた。

 その石は、戦いが終わってなお、無言でその門を守っているかのようだった。


 凱歌が黄昏を染めていく。
 歙州城、陥落。
 それは、勝利には違いない。
 多大な犠牲の上の勝利──屍の山の頂に掲げられた、勝利であった。



 その夕刻、天子は安道全に会うと、完成したばかりの猫の絵を見せた。
「なかなか、よく描けたと思うのだ」
 丸まるとした、幸せそうな猫だった。
 天子は側近くの者たちにも、遠慮なく新作を見るようにと告げたので、宦官や侍女たちが絵の周りに集まっていた。後方の小宦官や小宮女たちは、なんとか絵を見ようと背伸びしている。
 天子はそれに気づくと、自ら人々に声をかけた。
「少しあけて、後ろの小さい者たちにも絵を見せてやりなさい」
 天子の善良な微笑みが、今日も、安道全の“決心”を打ちのめした。
 庵に戻り、安道全は呻吟した。
(なぜ、できぬ)
 阿虎は、またいなかった。
(人の病は治しても、国の病は治せぬというのか)
 薄暗い部屋で身動きもせずに、瑠璃の小瓶を睨んでいた。
 隣の部屋から、こっそりと戻ってきた阿虎が、薬棚を探っている気配が伝わってきた。上の方の棚をこじ開ける音がして、ほどなく、阿虎はまた庵を出ていった。
 安道全は瑠璃の瓶を懐にしまい、後をつけた。悪い遊びを覚えたのなら、証拠を掴んで、家に追い返さなければならない。
 阿虎は繁華街に出ると、軒を連ねる質屋や酒楼の前を通りすぎて、卞河の岸辺に降りていった。橋の下を覗こうとした安道全の耳に、かすれた、しかし必死な声が飛び込んできた。
「先生、くすりを!」
 はっとして下を覗くと、橋の下には東京の豊穣から弾き出された貧しく病んだ人々が息も絶え絶えに蠢いていた。
 彼らの中に、阿虎はためらいもせずに降りていった。
「待っておいで。いま、くすりを煎じるから」
 阿虎は河原に落ちている枯れ葉を集めて、欠けた土瓶を火にかけた。そばには、死にかけた赤ん坊を抱いた女が座っている。
「これを飲めば、お乳が出るよ」
 土瓶に薬草を入れようとした阿虎の手首を、安道全は強く掴んだ。
「その薬では血虚は補えるが、肝気の気滞なら別の処方だ」
「あっ、先生」
 阿虎はびっくりして飛び上がり、土瓶の水を河原にこぼした。

「薬草を盗み、こんなことをしていたのか。なぜわしに言わない。わしが、金持ちしか診ないとでも言うのか」
「そうじゃないよ」
「では、なぜだ」
 阿虎は泣きそうな顔をした。
「だって、先生は東京に来てから、いつも、こわい顔をしてるよ。病気を診るのが、いやそうにしているじゃないか」
 阿虎は口を結んで、下を向いた。その足元に、全身がただれた男がいざってきた。男は濁った目をあげて、阿虎の足にすがりついた。
「あ、いま薬をやるよ」
 阿虎は懐から、安道全が最も大切に保管している万能の丸薬、神農丹を取り出した。
「そんなものまで盗み出しおって」
「この人は重症だから」
 阿虎は男に神薬を飲ませようと、膝をついた。
 隣の橋桁の下には、菰をまとった痩せた老婆がうずくまっていた。片目がつぶれ、歯もなかった。老婆は阿虎に向って石を投げた。
「およし。そいつは、“ならずもの”なんだ。女房を売ったり、恩人の家で盗みをしたり……おおぜいを苦しめたんだ」
 かすれ声で呻く男に、老婆は憎々しげな目を向けた。
「死んだほうがいい。助かったら、またきっと悪事をする」
 それでも、阿虎は男の口に丸薬を入れてやった。
 安道全は、その様子をぼんやりと見守っていた。病人が、ぞくぞくと集まってくる。
「阿虎よ、なぜ彼らの病気を治してやろうと思うのだ」
「だって、かわいそうだろう」
「──そうか」
 安道全は、阿虎に薬を飲ませてもらっている男を見つめた。
「そうだな」
 安道全は懐に手を差し込むと、瑠璃色の小瓶を河に捨てた。
 立ち上がると、夕日が眩しい。

「……うつくしいな」
 夕暮れの金の光が、薄汚い河原を別世界に見せていた。
「おい、薬嚢をよこせ。わしは、天子も乞食も、人の病ならなんでも治す。“神医”だからな」
「そうこなくっちゃ」
 阿虎が、笑った。
「先生だって、おいらと同じ年頃に、薬屋の見習いになって、乞食のばあさんを治してやったんだろ。それで、お医者になったんだね」
「そうとも」
 人々が救いを求める。
 今日の命を。ひと時の安らぎを。
 阿虎の顔に、人々の顔に、安道全は、また、なぜか宋江の顔を重ねた。
 国を救うことなど、誰にもできない。
 救いは、希望は──人が善良であることだけだ。
 善良である勇気を、持ち続けることだけなのだ。




※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。
※文中の「方厚」は、正しくは方厚です。
※文中の「郁嶺関」は、正しくは郁嶺関です。
※文中の「縄票」は、正しくは縄票です。
※文中の「卞河」は、正しくは卞河です。




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