水滸伝絵巻-graphies-

第百二十八回
魔対魔(三)


 戴宗の体は、沈まなかった。
 足が、水中の岩を踏んだのだ。
「天のご加護!」
 流れが急で、僅かな足場に留まっていることはできない。戴宗は岩を踏み、再び思い切り飛んだ。そこにも波に隠れた岩があった。飛んだ足も、また水中の何かを踏んだ。
(妙だぞ! こんな都合よく岩があるわけがない!!)
 その時、背中の宋江が言った。
「大丈夫、戴宗さん。走りなさい」
 戴宗は飛んだ。視界が揺らぎ、風が唸った。すでに“神駒子”馬霊の火輪法を会得している戴宗は、甲馬なくして日に八百里、千里も走れる。足は風を踏むように、体には羽が生じたように、軽々と進む。戴宗は空を飛び、岩を伝って走り続けた。水煙が雲と沸き立ち、戴宗は、いつしか水面を駆けていた。

「こいつは、すごいぞ」
 対岸はもう目の前だ。その時、戴宗は梁山泊軍の中から、李逵が川へ向かって飛び出してくるのを見た。
「ばけものどもは皆殺しだ!」
 李逵は水しぶきを上げ、浅瀬を押し渡ってくる。戴宗はすれ違いざまに叫んだ。
「気をつけろ、川は深いぞ! 流れも速い!」
「へっ、河なぞ見えねぇ! 戴宗の兄貴は頭がおかしくなったのか」
 李逵はそのまま深みへと突き進んでいった。
 戴宗は、ついに呉用らが待つ対岸の浅瀬に辿りついた。花栄が駆け寄り、宋江を岸に引き上げる。一方、李逵は眼前にまっすぐ伸びている“道”に向かって駆けていく。
「李逵、戻りなさい!」
 呉用の言葉も、李逵の耳には届かなかった。李逵の目には、ただ一本道だけが見えていた。道の先には、真っ黒な魔物の群れがひしめいている。

 呉用は、李逵がすでに法術の虜となっているのに気づいた。明教徒である方臘軍が法術を操るなど、呉用も予想していなかった。
 しかし、戴宗たちが現れたとたん、あたりの空気が一変したのは事実だった。この場の空気は、今まで感じていた不気味さとは、比べ物にならない妖気だ。空気の濃度が薄くなり、全身の血が逆流するように息苦しい。耳鳴りがして、体が重い。
 その異様な状態の中で、呉用たちは、魔神を目の当たりにしたのである。
 逃げる戴宗と宋江を追って、向こう岸に黄金の鎧の神兵たちが迫っている。さらに、その頭上に立ち上がる、巨大な両面の神将。喜怒の二つの顔をもち、両腕には稲光を発する金剛の杵を掲げて、宋江を突き殺そうと身構えている。
 呉用は目を閉じ、心を落ち着け、目を開けた。それでも、幻影は消えなかった。
 呉用は、この情況を理解しようとした。公孫勝との交流で、少なからぬ“知識”が彼にはあるのだ。公孫勝が、あらゆるものを、自分の命さえ犠牲にして得ようとしていた“力”のことを、呉用も理解したいと努めた時期もあった。しかし、結局、それは呉用が求めている“力”ではなかった。だから、公孫勝に二仙山へ誘われた時、迷うこともなく、断った。
(巨大な魔神──これは、恐怖の大きさだ)
 呉用は知っている。彼の恐怖の正体は、“梁山泊を失うこと”。
 その恐怖で身動きができなくなり、敗北し、その恐怖が現実となる。それが、この魔神の正体だ。
 関勝には、呉用が笑っているように見えた。
 呉用は、もうなにも恐れていない。彼は、書物から得た知識ではなく、恐怖といかに戦うかを、梁山泊で身をもって体得したのだ。
(“恐怖”に勝つ方法はひとつだけ、戦うことだ)
 その時、風の一瞬の間隙を裂き、一本の矢が魔神の目を貫いた。
 合図を見た花栄たちが到着したのだ。
「まやかしめ!」
 魔神の目を貫いたかに見えた矢は、そのまま彼方へ飛び去った。
 花栄と秦明の後ろには、二千あまりの梁山泊兵が続いている。郁保四は満身創痍で、それでも旗を掲げていた。その傍らに立つ樊瑞の表情は険しく、かつての“魔王”に戻ったかのようだった。
 羽扇を手に、呉用は嵐の中に立った。
(頼れるのは、“梁山泊”のみ)
 替天行道の旗のもとに、今、梁山泊軍は集結した。
 魔神の足元にも、神兵軍が立ち上がる。それは妖しい茸のように、闇の中から生じた。金甲をつけ、燃え上がる槍を振り回していた。銀色に輝く魔軍の群れは、ついに水際に到達した。
 花栄は対岸の神兵に狙いを定め、矢を放った。今度は手応えがあった。矢を受けた神兵は、幻影ではなく、方臘軍の御林兵だった。谷から撤退した方臘軍の残兵が、鄭彪に糾合されたのだ。続いて、花栄はもう一矢を射た。当たると、それは岸辺に生えた松の木だった。敵の大軍は、岸辺を埋め尽くしているが、どれが本物で、どれが幻影なのか分からない。
 その時、項充の声があがった。
「李逵を救え」

 川に飛び込んだ李逵は、どんどん下流に流されていた。両腕の板斧を振り回し、沈みながら、なお幻の道を進もうと足を動かしている。
「この道は、おかしいぞ! 体がめりこむ!!」
 李逵は頭まで水につかった。浮かび上がろうともがいたが、流れは速い。団牌兵たちも、李逵と同じ“幻の道”を見て、次々に水に飛び込んでいたが、彼らも同様に流されていた。ただ、李袞と項充だけが、無事だった。
 李袞は河に飛び込もうとして、項充に腕を掴まれた。樊瑞のもとに長くいた項充は、幻影を見ない。術も、魔神も、人が生み出す虚像にすぎないと知っているのだ。
 項充に止められ、李袞も我に返った。
 二人は、河に飛び込むと、李逵を救うべく泳ぎ始めた。流れは速いが、木製の団牌が浮きになる。また、李袞の懐から飛び出した小猿が彼らを助けた。小猿はまず李袞の頭によじ登り、主人が深みに沈みかけると、跳躍して手近な岩へと飛んだ。李袞たちがその岩に泳ぎ着くと、また次の岩へと跳躍して、巧みに李逵のもとへ導いた。

 彼らは、“地飛星”項充であり、“地走星”李袞である。“八臂那托”、“飛天大聖”、神の名をもつ二人である。深く急な渓谷を飛び、荒れ狂う波間を走り、李逵を救わんと進んだ。
 その時、李逵は幻惑されたまま、対岸近くの岩にしがみついていた。水面から、わずかに頭だけを出している岩である。水は容赦なく李逵の頭を洗い、身体を押し流そうとする。しかし、その岩が、李逵には敵の巨人に見えているのだ。
「ばけものめ、捕まえたぞ!」
 李逵は狂ったように岩へ板斧を振り下ろし、項充たちも近づけない。対岸には、今や方臘軍が満ちている。
 その方臘兵が、岸近くの岩にいる李逵を見つけた。
 項充は波間から李逵に叫んだ。
「李逵、戻るぞ!」
 李逵が顔を上げた。もう一度叫んだ。
「戻れ、鉄牛!」
 しかし、李逵は掴まっていた岩を蹴ると、方臘軍がひしめく岸に向かって泳ぎ始めた。“道”は、いつしか押し寄せる神兵の大群に見えていた。
「一人残らず、ぶっ殺してやる!!」
 その方臘軍もまた、術によって幻惑され、李逵が“ばけもの”に見えていた。“真っ黒なばけもの”を打ち倒そうと、数百の方臘兵が李逵に向かって殺到していく。
 項充と李袞は、李逵を止められぬと見ると、川を泳ぎ、李逵より先に岸に向かった。
 李袞はいち早く浅瀬に足をつけると、李逵へ襲いかかろうとする敵に飛槍を投げた。その足元は柔らかい泥がたまって、進もうとすると、ずぶずぶと足が沈んだ。泥に足をとられたまま、李袞はまた飛槍を投げた。
 その背後では、李逵が焦点の合わない目を見開いて、虚空に向かって板斧を振りかざしている。李逵は、空中を舞う妖兵を見ているのだ。
 項充は飛刀で敵を防ぎながら、李逵のもとへ急いだ。敵兵はどんどん増えていく。項充は水を蹴りながら、飛刀を投げた。李袞は槍を投げ続けた。李袞のもとにも、敵兵が群がっていく。
 その時、李逵が早瀬に足をとられ、ふいに水に沈んだかと思うと、下流へと流されていった。気づいた項充が、李袞を呼んだ。
「李逵は下流に流された! 敵にかまうな、退け!」
 李袞は、自分が持っていた団牌を李逵に向かって投げた。沈みかけた李逵の手が水に浮かんだ団牌を掴み、そのまま川下へと流れ去る。それを見届け、李袞は対岸へ戻ろうとした。しかし、足が思うように動かなかった。もがけばもがくほど、体が泥に沈んでいく。
「逃げろ、李袞!!」

 李袞は一瞬、項充へ肩ごしに振り向いた。そして、何か叫んだ。もはや両足は膝までが泥に呑まれて、ぴくりとも動かなかった。飛槍を恐れた方臘兵が、矢を放った。身動きのできない李袞の体に、矢が五本、六本と突き立った。
 李袞の小猿が懐へ逃げ込んでいく。
 李袞は槍を投げ尽くし、最後の一本を手に、襲いかかる敵に立ち向かった。

 呉用たち梁山泊軍がいる側の岸でも、川上方面に方臘軍が出現した。
 さきほどの戦いで山間に散っていた方臘兵が、梁山泊軍の“合図”を見て集まってきたのだ。彼らは、渡れる浅瀬の場所を知っている。
 押し寄せる白い旗印を見据え、呉用は命じた。
「河を背に円陣を!」
 一万余りの梁山泊軍が、狭い川沿いの岸に密集している。それが一斉に動き、宋江を守るべく、河岸に鉄壁の守りを築いた。

 対岸では、李袞が最後の槍を手に握り、取り囲む敵と戦っていた。戦えば戦うほど、李袞の体は沈んでいく。彼の周囲には敵兵の死体が積み重なり、それを踏んで、次の敵が襲いかかった。
 項充は泥濘を避け、砂利の浅瀬伝いに李袞のもとへ行こうとした。進みながら、飛刀を放った。流れが強くて、足は思うように進まない。飛刀だけが頼りだった。団牌に装着した飛刀は、二十四本。すでに二十三人の敵を倒していた。
 項充も敵の追撃を受けていた。しかし、項充を追う方臘兵は、飛刀を恐れて近づかない。矢も団牌で防がれる。彼らは項充を遠巻きにして、飛刀が尽きるのを待っていた。
 ついに項充の飛刀が李袞を取り囲む二十四人目の敵を倒した。その瞬間、方臘兵たちは背後から項充に襲いかかった。が、振り返りざま、項充はさっと飛刀を放った。
 懐に、帯の間に、靴の中に、装着できるすべての場所に、項充は飛刀を隠していたのだ。
 項充は、飛刀を投げ続けた。項充は両手に飛刀を握っていた。もう少しで、李袞のもとに辿り着く。
 李袞の懐の小猿が、悲鳴をあげた。

 矢に貫かれ、その矢は、李袞の胸を貫いていた。李袞は悲痛な叫びをあげた。そして、一瞬、空を見つめて、泥濘の中に倒れた。
「李袞!」

 項充は次々に飛刀を投げ、敵を倒し、道を作った。李袞を連れて河に飛び込み、味方の軍に合流すれば、助かる。まだ李袞は助かるはずだ。
 進もうとする項充の足を、背後から、方臘兵の槍が突いた。
 項充は振り返り、飛刀を投げた。あらゆる場所から飛刀を引き抜き、引き抜いては投げた。八本の腕でも足りないくらい、その技は速く、正確だった。

(右に三人、左に二人)
 項充の両手から五本の飛刀が放たれ、確実に敵を倒した。“地飛星”項充の放つ飛刀は、彼の分身と同じであった。
 続いて前後左右から一斉に敵が襲いかかった。項充は左右の敵を飛刀で倒した。
(前に三人、後ろに四人)
 項充は兜の前立てを外し、放った。銀の牙月が空を飛び、弧を描いて前後の敵を一度に倒した。
 次の飛刀を投げようとして、項充の右腕が、空を切った。
 腕がなかった。
 背後の方臘兵が振りおろした刀が、項充の右手を肩から断ち落としたのだ。項充は左手で飛刀を掴もうとした。その手も、肘から先がなかった。

 水際を、項充の血が赤く染める。真っ赤な水の中へ、項充は倒れた。項充は立とうとした。しかし、立てなかった。
 足がなかった。
 方臘兵たちは、浅瀬に倒れた項充へ殺到し、その体を、生きたまま切り刻んでいった。

 巨大な魔神は、暗い虚空で笑い続ける。
 山間の河のほとりで、壮絶な戦いが始まっていた。狭い場所に、両軍あわせて一万あまりがひしめいている。河原に、山腹に、松林に散開し、逃げ場もなく、ただ戦い続けるしかない戦場だった。
 大勢の人間が死んだ。人が死ぬほど、鄭彪の力は増した。人はどんな凡人でも、死ぬ時に濃厚な精気を放つ。明教が“光”と称するものだ。
 人が死ぬほど、魔神の姿は巨大になる。ついに、魔神の姿は天空を覆い、世界を包んだ。
 その前に、ひとりの男が立ちはだかった。
“大刀”関勝──神と呼ばれた男である。

 風に長髯をたなびかせ、青龍偃月刀を、厳かに掲げた。

 呉用は、辿り着いた宋江をすぐに戦場から離脱させた。
 下流では、李俊らが船を守って待機している。いざとなれば、宋江だけでも逃すようにと、呉用は戴宗に厳命した。
 負傷者も、歩けるものは下流へ向かった。部隊の指揮は李応がとった。武松も戴宗に支えられて歩いて行く。戴宗は自分の襟巻きをとって、武松の傷を何重にも縛ってやった。黄色い襟巻きは、瞬く間に朱に染まった。
(助かってくれ)
 それは、武松に、自分に、すべての人に向けた祈りだ。

 燕順は、また負傷していた。しかし、下流には向かわなかった。彼は混乱する戦場を彷徨いながら、王英と扈三娘を探していた。必ず、どこかにいるはずだ。この戦場で戦っているはずなのだ。
「あいつらは、必ず、近くにいる!」
 燕順の目には幻影も見えず、魔神も見えず、ただ二人の姿だけを探し求めた。馬麟が燕順を掩護していた。
 馬麟には、魔神は見えなかった。彼には“渓谷”が見えていた。それは、彼の、すでにない故郷の風景だった。最後に見たのは、いまと同じ戦いの光景だ。同族は死に絶え、馬麟ひとりが生き残った。
(今度こそ、仲間を守らなければ)
 その思いが、“鉄笛仙”馬麟を現実に繋ぎ止めていた。

 世界が歪み、ぎしぎしと音をたてていた。
 樊瑞は、心を封じていた。
 それなのに、なにかが彼の内に入り込み、魂を掴みだそうとしている。大勢の人間の命が──永劫の闇に引きずり込まれていく。
 どこかに吸い込まれていくような悪寒が絶え間なく襲い、頭が割れるように痛い。“それ”は樊瑞の体内に入り込み、魂を奪い、支配しようとしているのだ。
(来るな。術は、すでに俺とは無縁のものだ)
 術を捨て、樊瑞は、はじめて人間らしい心の平穏を得た。
 それこそ、彼が、項充、李袞とともに求めた彼らのための“福地”ではないか。
 術は、彼を救わなかった。
(そうだ)
 飢えから樊瑞を救ったのは、術ではなく“混沌子”であり、闇から掬いあげてくれたのは、術ではなく“公孫一清”だった。人間にしたのは、項充であり、李袞であった。
 では、“術”とはなんなのか。
“師”よ──。
 昔、彼は、最初の師であった“混沌子”に問うたことがある。
『そもそも、“術”とはなんなのか』
 師は答えた。
『それは人が編み出した、“わざ”であり、人が辿ろうとする“みち”である』
『あらゆものを包含した姿が──混沌。ならば、その前にも“術”はあったのか』
 あかざの杖をついた老道士は、狂気を沈めた双眸で樊瑞を睨み据えていた。
『混沌の前に人はなく、人なくしては、術もない』

 天の魔神と地の関勝は、暗黒の中で対峙していた。
 関勝は憤怒とともに、打ち下ろされる燃え上がる杵を青龍刀で受け止めた。

 受け止めた──と思った事が、すでに幻影であった。関勝は身を貫いた膨大な気に圧倒され、一瞬、気を失いかけた。それまでの人生が、飛び去るように脳裏を過った。関勝は、膝をついた。
 なにかが、関勝の頭を押さえつけ、捩じ伏せようとしている。その力は、あまりに強大で、関勝は小さく、無力だった。
(そうとも、わしは、常に無力だった)
 誰も救えず、宣贊、赫思文さえ救えなかった。
(わしは“武神”などではなく、ただの、無力な人間だ)
 そう考えた時、関勝は、自分を押さえつける力が、弱まったのを感じた。
 関勝は、立った。
 同時に振り下ろした大刀が、眼前の方臘兵を斬り伏せた。
 魔神は、もうどこにもいなかった。
 そこには、白い衣をたなびかす、陰陽眼の魔人がいるだけだった。
「お前か」
 関勝は大刀の血を振るい、その刃を鄭彪に突きつけた。
 そして、本当の戦いが始まった。梁山泊軍は、方臘軍に包囲されていた。それは幻影ではなく、現実であった。

 李応は戴宗とともに宋江を守り、樊瑞を伴って川下へ向かって逃げた。
 下流の湾に、梁山泊軍の船団が停泊している。途中には、梁山泊軍の後軍が分散して、いくつかの小陣地を築いている。大軍では行軍が不自由なためだ。
(船団までたどりつけば)
 宋江たちを李俊にまかせ、李応は戻るつもりだった。待機している後軍を指揮して戻り、敵に当たる。李応は、前方に梁山泊水軍の姿を探した。しかし、見たものは、進路を塞いで布陣する方臘軍の白い姿だった。幻影ではなく、現実だった。
 方臘軍は渓谷を渡る場所や、山中の道を知っているのだ。方臘軍は待機していた梁山泊軍の後軍を殲滅し、李応と船団の間を分断して布陣していた。それは、呉用ら本隊の退路を断つことでもある。
 李応は進むことも、退くこともできなかった。
 後方の上流から、河を、たくさんの死体が浮き沈みしながら流れてきていた。
 後陣を襲った方臘軍は、李応らに気づくと猛然と攻め寄せてきた。
 李応は槍を握ったが、かなわないのは分かっていた。数千の敵に、こちらは数百。その殆どが負傷兵だ。
 逃げ道はない。河を死体が流れていく。その数と、水の濁りが、上流の戦いの激しさを物語っていた。
(“撲天鳥”李応、ここで果てるか)
 李応は、不思議と静かな気持ちだった。妻子のことは、杜興に任せれば安心だ。
(しかし、悔しい)
“撲天鳥”李応ともあろうものが、こんな人知れぬ辺境の山、名も知らぬ河のほとりで終わることが口惜しい。
 ならば、と、李応は鷹揚に微笑んだ。
 ならば、せいぜい華々しく戦おう。李応は宋江を背後に守り、ひときわ強く、槍を握った。二、三十人は、倒せるだろう。
 戴宗は、諦めなかった。
(宋江さんを、背負って走るか?)
 そう思ったが、前には方臘軍がひしめいている。後方からは、梁山泊軍と方臘軍が激しくぶつかる喧騒が響く。戴宗は、樊瑞の襟を掴んだ。
「おい、なんとかしろ!」
 戴宗は樊瑞に迫った。
「お前、道士のはしくれだろう、なんとかしてくれ!」
 樊瑞の反応はなかった。ただぎりぎりと歯を噛みしめている。眉間が痙攣し、唇からひとすじの血が流れ出ていた。
 宋江の嘆く声が聞こえた。
「ああ──」
 それはもう言葉にならない、深すぎる嘆きの声だった。

 樊瑞は目を開けた。
 その瞬間、雷鳴の一喝が脳裏に響いた。
『こたえよ、樊瑞!!』
 樊瑞は、いまこそはっきりと目を開けた。そして、見た。

 それは、眼前の河を流れくだる、李袞の無残な死体であった。
 李袞も、その胸で死んだ小猿も、虚ろな目を樊瑞に向けて、ゆっくりと流れ去っていく。
 樊瑞の内で、なにか巨大なものが弾けた。その時、その山にいたものたちは、全員が目には見えない“衝撃”に包まれた。
「ああ!!」

 太古──天が裂けたことがあったという。天は裂け、地は歪み、世界は崩壊の危機に瀕した。それほどの衝撃だった。
 樊瑞の世界は、崩壊した。
 懐かしい芒湯山、項充、李袞、彼らの“七十三番目の福地”──樊瑞が、人でなくなった時にも、彼をこの世に繋ぎ止めていたものたち。
 李応には、樊瑞が発狂したと見えた。そのまま倒れ、死ぬのではないかと。
 しかし、樊瑞は倒れず、くずれかけた片足を踏みしめ、立った。
 樊瑞の髪が空中に逆立ち、銀色の光を放つ乱髪の間に、金色の雷光が閃いていた。

 俯いていた顔がもたげられ、乱れた髪の間に、雷光よりも炯々と光る双眸を見た。
(あれは!)
 李応は、そこに別人の面影を見た。

 そして、次の瞬間、樊瑞の身体は真っ白な雲につつまれ──見えなくなった。

 関勝は、戦っていた。
 鄭彪を討とうとして、無数の兵に囲まれていた。大刀は血にまみれている。
 朱仝は、呉用を守って敵に包囲されていた。燕順は戦いながら倒れ、馬麟は燕順を守り続けた。
 花栄も、秦明も、戦うことをやめなかった。
 梁山泊の者たちは、狭い場所で敵軍に取り囲まれ、分断されて、それぞれが孤立して戦っていた。果てしない戦いだった。
 疲れた者から殺され、強いものが戦い続けた。
 赤兎馬は狂ったように跳ねている。人間の狂気が馬をも狂わせるのだ。
 関勝は群がる兵を打ちひしぎ、河に向かっていた。そこに、ひとりの男が立っているのが見えている。幻影入り乱れる戦場の光景の中で、狂乱する人々のなかで、その男だけが、微笑を浮かべて立っている。
「ゆるすまじ!」
 関勝は大刀を振り上げた。
 その頭頂に、ふいに一条の雷が落ちた。関勝の姿は赤兎馬ごと、戦場を震わせた衝撃とともに、濛々たる白雲に包まれた。そして、その雲中に生じた百条の雷光を踏みしめて、黒竜に乗った巨大な雷神が立ち上がった。

 紅の髪、顔は青く、碧の目が炯々と燃えている。手には鉄槌を掲げ、鉄槌には、黄金の雷が幾条も絡みついて閃いていた。
 巨大な雷神は、暗黒の魔神に対峙する。
 敵の刃に取り囲まれ、呉用は震え、直感した。
(樊瑞ではない)
 空気がびりびりと帯電している。耳の奥が張り裂けそうに痛み、全身を押しつぶされるような苦痛を感じた。
 それなのに、呉用は、その人との再会に、震えた。
「──“一清”」

 薊州の空に、雷鳴が轟いた。
 その発する源である二仙山の峰の頂には、公孫一清。その麓では、喬道清と馬霊が身じろぎもせず、一心不乱に蓮華座を組んでいた。
 彼らの体内から気が湧きだして、二仙山の峰に吸い込まれていく。すべての気を包含し、二仙山の山全体が、透明な光を発していた。
 やがて、公孫勝の峰の頂きより、一筋の稲光が真っ直ぐに天へ立ち昇った。稲光は空中で龍の形を成し、首を振り、尾を逆立てた。
 さらに羅真人の峰より、純白の雲気が湧き上がり、龍を取り巻く。

 雲に乗る龍は、全身から強烈な光を放ちながら、一直線に南を指して飛び去った。
 千里の距離を隔て──“梁山泊”へ。
 薊州二仙山と、梁山泊軍が戦う江南睦州。今、二つの遠く隔たった空間が繋がった。
「樊瑞に──力を!」
 二仙山がひとつの生き物となり、そう叫んでいるのである。

 巨大な気と気が、激突した。
 天が崩れ、地が避けるほとの衝撃だった。それは、幻覚ではなく、確かな現象であった。証拠に、その場に居たものは、肉体的な衝撃を受けた。血を吐くものも、失神するものさえいた。
 その衝撃の、一方の極は、“混世魔王”樊瑞であった。彼は渓谷の下流にいながら、上流にも“いた”。上空から、梁山泊軍を、敵を、世界を見渡していた。肉体の胸のあたりから、体験したこともない濃縮された気が奔流となって噴き出している。その透明な流れは、地上に立つ関勝へと流れ込み、雷神の姿を現した。関勝は五体がばらばらに裂けるほどの衝撃に貫かれている。
 鄭彪は圧倒された。
(なにもの? 遠き北の果てより来たる、この“龍気”ともいうべきもの)
 関勝は、雷神であり、樊瑞であった。
 樊瑞は、公孫勝であり、関勝であり、雷神だった。すべてを包含した“混沌”を越え、無であった。自分など──ない。すさまじい気の重圧、渦巻く力の奔流の中で、樊瑞は、すべてであり、無であり、無限であった。
 混沌の前に、なにものもなく、人も、術もない。
 混沌もなく、闇もない無。樊瑞はそれと一体となった。その一部となった。
 人もなく──術もない。
 そこには──なにものでもない、宇宙の気が満ちていた。
 関勝もまた、なにものでもなく、すべてであった。
 宝杵を振り回す魔神へ、雷神は鉄槌を振り下ろした。

 戦いは、一瞬だった。
 魔神は雲散霧消し、鄭彪は打ちのめされて地面に倒れた。関勝の青龍刀が、その足元に深々と突き立って、靴を破り、親指を断ち落としていた。
 ぎゃっと叫んで、鄭彪は足を引きずり逃げ出した。
 対岸で蓮華座を組んでいた包道乙が、驚いて立ち上がる。瞬間、凌振が狙い澄ました火砲の弾が命中し、包道乙の身体は粉々になって散った。
「大当たり!」
 凌振は快哉を叫んだ。幻覚が消えるのを、凌振は火砲にぴったりと寄り添って待っていたのだ。包道乙の肉体は、ばらばらに砕け、なにひとつ人の形を残していなかった。

 関勝は赤兎に跨がり、群がる敵を斬り伏せて、鄭彪を追った。
 関勝の身体には力が満ち満ちていた。頭頂から、一筋の精気が立ち上るかのようであった。関勝は鄭彪に斬りかかった。この“人の形をしたもの”が、この地上にあることを、関勝は許さなかった。
 赤兎が躍り、美髯が舞った。
 鄭彪は、生まれてはじめて“恐怖”を感じた。それが、“恐怖”という感情であるとさえ、彼は知らなかったが、心臓を鷲掴みにされるような苦痛であった。
「待て──」
 その刃は鄭彪の頭上に振り下ろされ、この魔人の息の根を、一刀のもとに断ったのだった。
 関勝は、鄭彪の死とともに、なにかこの場から消えていくのを感じた。
 まるで、星の光が消えるように。

 鄭彪の死によって、山を支配していた魔法は完全に消滅した。
 方臘軍は、自らを惑わしていた“神秘なる力”を失い、ただの人間に戻った。自分は神兵でもなく、聖なる戦士でもない。だだの無力な人間だと思い出し、また思い知らされた。
 梁山泊軍は反撃に出た。
 花栄は宋江を守るために、秦明は勝つために、燕順は王英と扈三娘を探し、馬麟は燕順を守るために。
 戦いは、上流と下流で同時に再開され、鄭彪を失った方臘兵は次々に倒れていった。
 李応の飛刀が敵を倒し、道を塞ぐ方臘軍の背後からは、李俊が童兄弟と水兵たちを率いて迎えに来ていた。背後から襲われた方臘軍が、倒れ、また河に飛び込み、流されていく。
 上流の戦いの声、下流の戦いの声が、ひとつになり、山間の黄昏の空に、いつまでもこだましている。繰り返し繰り返し、終わることもなく、重なりあい、世界を覆い尽くしていた。魔神の姿は消えたというのに、人間たちの戦いの声は、なお空を覆いつくしているのだ。
 宋江が目覚めた時、世界はいびつに歪んで見えた。
 昔、天地が裂けて、世界は混乱にみまわれた。人を生み出した人面蛇身の女神が霊石を練り、天の裂け目を接いだという。ここには女神の姿もなく、霊石もない。
 宋江はよろめきながら、立ち上がった。宋江には、彼らの姿が、まるで魔物のように見えた。
「もういい、やめなさい」
 宋江の声は、人々の声にかき消されそうだった。
「戦うのを、やめなさい」
 いかなる女神の慈悲か、山の霊気か、魔法の名残か──その声とともに、人々は、空に巨大な星が輝くのを見た。

 空を包み、静かに、穏やかに輝く七色の星。
 呉用には、なぜかそれが明星ではなく、あらゆる星にさきがけて輝く星──天魁星であると思った。

 樊瑞も、その星を見上げていた。
 その星が、本当の星なのか、なにかの力の名残なのかは、樊瑞にも分からなかった。
 樊瑞の髪は、老人のように白く変じていた。彼は、人には背負いきれぬ力を担い、雷神を現したのだ。
 身体の中も、心の内も、枯れ野のごとくからっぽだった。
(なにもない)
 樊瑞は立ち上がった。

 樊瑞は、混沌の彼方を見た。そこには善悪も、光も闇もない。命もなく、なにもない。
(“混沌”より分かたれた生命は、やがてはすべて無に帰する。あるいは、そのはじめより、すべては“無”。しかし……)
 地然星“混世魔王”樊瑞は、死せる項充と李袞のもとへ、歩いていった。
(すべての命は無であろうとも──その宿命を全うすることこそ、“自然”)
 命に意味がないとしても、目をあければ光があり、目を閉じれば闇が見える──闇から生まれ、命ある間は、光の中を歩むのだ。
 雲のごとき、長い白髪をたなびかせ。

 呉用は、星がひとつだけ輝く空を見ていた。
 すぐそばに、公孫勝がいるのを感じた。姿は見えず、声もまた聞こえなかった。それでも、呉用は公孫勝がいるのを感じた。
 呉用は、戦に汚れた河を見つめた。
(この河は──“卞水”)
『卞にあって還る』
 公孫勝の竜杖に刻まれた言葉を、呉用はぼんやりと思い出した。
(今度こそ、我々は、“はなれた”)
 漠然と思った。もう二度と、公孫勝と会うことはないだろう。
 杖をつき、ひとり去っていく、孤独な人の背中を、虚空に見送ったような気がした。
 雷神は消え、空には、星と、それを取り巻くように龍の形の雲の名残りが浮いている。呉用は、その雲を追っていきたいと思った。
 しかし、最後の声が聞こえた。
“お前は、離れてはならぬ”
 雲は、少しのあいだ惜別の姿のように空に浮かんで、まもなく消えた。

 生き残った方臘軍はちりぢりになり、山へ逃げ込んでいった。
 梁山泊軍はすぐさま兵をまとめ、船を使って河を渡ると、睦州へと軍を進めた。負傷した燕順には馬麟をつけて、烏竜嶺に通じる街道に残した。ここに一部隊を置いて、石宝の援軍に備えるためである。
 梁山泊軍は関勝、花栄、秦明、朱仝が主力を率いて、夕刻、早くも睦州の北門に攻めかかった。城門は閉じられていたが、凌振が火砲を撃ち込んだ。
 攻撃は、方臘軍の残兵が敗戦の報せを届けるよりも速かった。右丞相の祖士遠は日没の礼拝中だったが、夕焼けを揺るがす砲声に飛び上がり、沈寿、桓逸、譚高ら城内の武将と、東管から逃げてきた“無”伍応星を招集した。
 祖士遠は恰幅のよい初老の人で、平凡な官吏あがりだが、丞相を拝命するだけの人物である。
「睦州城を犠牲にして方聖宮を守るのだ」
 すでに城門は半分が吹き飛ばされ、城壁にも梯子がかけられている。籠城の選択はなく、籠城しても、敵は城を迂回して清渓県に向かうだけだ。
「相討ちして、敵を一兵でも減らすのだ」
 迎撃の決意を定め、年若い元帥の譚高と、東管主将の伍応星に総員一万を授けて出撃させた。砲撃の合間をぬって、壊れかけた城門から打ち出した。
 しかし、押し寄せる梁山泊軍の前に、方臘軍は総崩れとなった。方臘軍には、もう弱兵しかいないのだ。住民の老若男女まで駆り出して、城内はほとんどもぬけの殻になっていた。
 東管を捨てて逃げた“無”伍応星は、今回もさほど戦いたい気持ちはなかった。兵士を督戦して関勝率いる梁山泊軍へ突っ込ませた。そのまま、また逃げようとしたが、李応が伍応星を飛刀で馬上から射落とした。彼には、守ってくれる護衛はいない。地面に転がり、伍応星は李応に命乞いした。
「私は何も悪いことはしていない。無辜の民を殺したこともないではないか」
 李応はむっと眉をひそめた。
「止めもせず、見ていただけか。ならば、それが、おまえの“罪状”だ」

 李応は槍で伍応星に止めをさした。
 この無益な戦いを一刻も早く終わらせるべく、朱仝は敵の主将を探し、“元帥”譚高を槍で突いた。若者は、それまで何人か梁山泊兵を倒していたが、すでに力尽きていたのか、さしたる抵抗もせずに朱仝によって殺された。彼はもともと、良家の子弟だったのだ。
 その時には、秦明、花栄らが城内に突入していた。抵抗はなかった。梁山泊軍は方臘の行宮や明教の神殿に火を放ち、州府にて沈寿、桓逸をら討ち取り、右丞相の祖士遠を生け捕りにした。
 沈寿、桓逸は文官だったが、武器をとり、他の官吏たちとともに祖士遠を逃がそうと戦った。そして、捕らえられた祖士遠も、護送中に隙を見て逃げ、縛られたまま燃え盛る神殿の炎の中に身を投じたのだった。

 睦州は、あっけなく落ちた。
 その報せを、呉用は睦州郊外の野営で受けた。睦州と烏竜嶺を遮断する位置にある要衝である。そこからは、すでに黒煙が目視できた。
 報告に戻ってきた李応は、梁山泊軍が睦州城内を制圧したこと、住民を慰撫していること、みなが次の指示を待っていることを告げた。
「宋江殿の様子は?」
 李応は案じて尋ねた。
 渓谷に落ちた宋江は、発熱して寝込んでいた。王英、扈三娘の死に加え、項充と李袞を失ったことが、さらに大きな打撃を与えているのだ。
「今後の指示は、呉用先生がするのかね」
 李応の問いに、呉用は、是とも否とも答えず、宋江が眠る幕屋を出た。
 すでに夜で、野営地には篝火が供されている。
 そのひとつの炎のもとに、“錦毛虎”燕順が立っていた。その前には、布で包まれた二つの遺体が並んで置かれていた。さきほど、山から運ばれてきた、王英と、扈三娘だった。
 燕順は、黙っていた。炎が落とす燕順の大きな影が、二人の上に、落ちていた。
 燕順は、泣くこともなく、叫ぶこともなく、悔やむことも、誰かを罵ることもしなかった。目を見開き、口を結んで、ただじっと二人を見下ろしていた。
 そのまわりでは、清風山隊の兵士たちが悄然と立ち尽くしていた。いつも王英と酒を呑んで騒いでいた兵たちだ。扈三娘に武芸を教わり、姉のように慕っていた。すすり泣く声が静寂に響いた。
「泣くな!」
 燕順は、兵たちを叱り飛ばした。
 そして、燕順は、槍を握ると、たった一人で歩きはじめた。真っ暗な夜の中に、星と篝火が燃えている。
 燕順の足が、見えない大地を踏みしめる。
 烏竜嶺へ。

(お前たちは立派だった)
 燕順は進む。
(最後まで、勇敢だった)
 その後に、清風山隊が続いた。その後には、李逵の姿があった。川に流された李逵は、溺れる寸前、李袞が投げた団牌に救われた。木製の団牌が“浮き”となり、李逵はそのまま李俊たちの船まで流れ着いたのだ。
 李逵に、生き残りの団牌兵が続いた。ひとりふたりと、梁山泊軍が続いた。
 急ぐこともなく、彼らは一歩一歩、進んでいく。
 宋江の命令がなくとも、呉用が指示などしなくとも、梁山泊軍は動きはじめた。
 強靱なる魔の山を夜空に見上げて、人々は、黙々と進んで行ったのだ。

 烏竜嶺の頂きからも、睦州城を焼く炎、そして梁山泊軍の野営の火が見えた。
 石宝は、小さな部屋の中にいた。部屋の中は、漆黒の闇だった。
 石宝は、夜も灯をつけない。それが、家族を失ってからの、習慣だった。
 闇の中で、石宝はひとり夜を過ごす。ほとんど眠ることもない。眠れば悪夢しか見ないので、眠りは彼にとって拷問だった。
 悪夢とは──幸福の記憶である。花の咲く庭、小さな妹が奏でる琵琶のしらべ。黄金の花が雨のように降りそぞぎ、家族が微笑む。
 その記憶が、なによりも彼を苦しめるのだ。
 目覚めても、暗闇の中に、黄金の花びらは降り続ける。
 そして、さらに彼を苦しめる。
 すでに彼の人生は、永遠に目覚めることのできない悪夢なのだった。
(それとも)
 石宝は闇の中に、消え残った一粒の金色の星を見た。
(この命が尽きる時、この悪夢も醒めるのだろうか?)

 翌朝。
 梁山泊軍は烏竜嶺を包囲した。
 これから睦州を越えて、方臘の本拠地・清渓県へ進軍するためには、烏竜嶺は背後の憂いだ。呉用は、その戦力よりも、“流星”石宝を警戒していた。
 石宝を討ち取ることが、烏竜嶺攻めの真の目的といってもいい。
 この地で殉難した好漢は、阮小二、孟康、王英、扈三娘、項充、李袞。阮氏三雄は二雄となり、飲馬川、清風山、芒湯山は、たったひとり首領を残すのみとなった。
 呉用は、磐石の布陣を敷いた。
 烏竜嶺の西の道、睦州側からは、関勝、秦明、花栄らが騎兵を主力に進軍する。
 烏竜嶺の東の陣に残留した梁山泊軍とは戴宗は連絡をつけ、童貫が自ら指揮をとる。
 烏竜嶺南岸の富春江からは、李俊率いる水軍が上陸を敢行する。
 難攻不落の烏竜嶺は、こうして三方から包囲されれば、逃げ道のない孤峰であった。

 銅鑼と、旌旗が烏竜嶺の紺碧の空をどよもす。
 梁山泊軍の包囲を知っても、石宝は泰然として見えた。“賽温侯”白欽は感動した。自分も、そのように落ち着いていなければならぬと思った。
(ついに、我が光を宇宙に還す時が来たのだ)
 明教徒として、喜ぶべきことである。
「ひとりでも多くの光を道連れに致します」
 白欽は石宝に告げ、砦の兵を点検した。
 睦州から援軍として連れてきた配下の兵は、まだ戦えるものが二千あまり残っていた。敵は二万はいるだろうが、もう多寡は問題ではない。
 目的は、勝つことではなく、死ぬことなのだ。



※文中の「那托」は、正しくは那托です。
※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「撲天鳥」は、正しくは撲天鳥です。
※文中の「芒湯山」は、正しくは芒湯山です。
※文中の「卞」は、正しくは卞です。



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