水滸伝絵巻-graphies-

第百二十八回
魔対魔




 朝日の中を、鳥が飛び去る。
 王英と扈三娘の血は、黒々とした流れとなり、半分は地に染み込み、半分は日差しの中へ蒸発していった。
 蠅や蟻、虻や、その他の羽虫、地を這う虫が、流れた血に群がりたかる。人々が狂って殺し合う戦場で、小さきものたちは命を啜る。
 そのさまを、“鄭魔君”鄭彪は高みから眺めていた。
 陰陽眼は、ひとつは楽しげに歪み、ひとつは冷やかに笑っている。彼は、満足していたのである。美しい肉体も、仲睦まじい夫婦も、人の恐怖も、虫の命も、すべては宇宙の──まぼろし、夢。

「だから、みな、安心して死ぬがいい」

 梁山泊の兵たちは狂乱していた。
 彼らは、黒気の中から立ち上がる金甲の神兵を見た。しかし、それ以上の恐怖、衝撃が、王英、扈三娘の死であった。
 彼らは清風山隊と呼ばれる兵たちで、ずっと二人に従ってきたのである。“矮脚虎”王英は強く、“一丈青”扈三娘は更に強いと信じていた。その二人が、眼前で無残な死体となっていた。
「殺される!!」
 慌てふためき、泣き喚く兵士たちの姿も、鄭彪には一片の憐憫ももたらさなかった。
 鄭彪は呪を唱えた。それは、国中のどの霊山の道士とも異なる、人の言葉ではない呪文であった。肺に含んだ濃厚な呼気とともに、異界の言葉を天地に放つ。
 静かな水面に岩が落ち、巨大な波が立つように、大気は異常な波動を帯びた。その波は山々に反響しながら増幅され、八方へと共鳴しながら伝播していく。
 再び世界を黒気が覆った。兵士たちが空を指さす。
「ばけものだ!」
 まだ夕刻にもならぬというのに、天地は暗黒に塗り込められた。
 月もなく、星もない。
 それなのに、梁山泊軍の兵士たちは、倒れていた方臘兵が立ち上がるのを、はっきりと見た。死んだはずの兵士たちが、血を流し、虚ろな目で彼らを睨み、武器を掲げて近づいてくる。
 兵士たちは絶叫した。
「死人が生き返ったぞ!」

 鄭彪は人の無邪気を笑い、素直さを喜んだ。
 死人が生き返るはずはない。死人兵に見えているのは、実際には生きた兵──方臘兵にも、“死んだはずの梁山泊兵”が死人兵に見えているのだ。正確に言えば、敵も味方も、“自分以外”は、みな“敵の死人兵”に見えている。
 (人は、自分が最も見たくないものを見る。そして、恐怖のために自滅するのだ)
 鄭彪の望んだ通り、すぐに同士討ちが始まった。梁山泊軍も、方臘軍も、自分以外はみな“ばけもの”だ。
 自分が死ぬか、自分以外のすべてが死ぬまで、この戦いは終わらない。
 その狂乱の中に、新たなる嵐が起こった。“黒旋風”李逵が暴れ込んだのだ。李逵は扈三娘たちが放った伝令の報せを受け、後方から急行してきた。左右の斧を振り回し、李逵は“ばけもの”を叩き伏せていく。
「おもしれぇ!!」
 李逵は行く手を遮るものへ、両手の板斧を振り下ろした。
「鉄牛さまのお通りだ!!」
 敵味方の区別もなく、李逵は戦場を突き進んだ。両軍の兵には、それは、巨大な“黒い旋風”──人喰いの嵐に見えた。あらゆる命を呑み込んで、噛み砕く。抗いがたい『死』、そのものだ。

 人々は恐怖に狂い、泣き叫んだ。もう暗黒しか見えなかった。永遠と続く闇の中に、嵐の中に、たった一人で漂っている。誰もいない、何ひとつ聞こえない、“無”。その中に、自分も融けて消えていくのだ。すべての感情、感覚、記憶も望みも失って、あとかたもなく消えていく──絶望に眩んだ彼らの目に、その時、小さく輝くものが映った。
 それは、ひとすじの杏黄の旗だった。
 “険道神”郁保四が掲げる旗を先頭に、宋江率いる本隊が到着したのだ。闇の彼方にその旗を見つけた時、人々は手をさしのべ、願った。
「宋江様、お助け下さい」

 宋江には、花栄と秦明が従っていた。花栄の敏感な嗅覚は、すぐに異様な空気を嗅ぎ取った。彼は“幻術”を信じない。しかし、この戦場に渦巻いている風が異常であることは疑いなかった。
「気をつけろ、宋江」
 空気が重く、息苦しい。目眩を感じ、視界が歪んだ。
 後ろへ下れ──と言いかけた花栄の言葉を、宋江は振り切った。秦明が制止する間もなく、照夜玉獅子が走りだす。
 宋江は、見たのだ。狂乱する両軍の兵士、暴走する李逵、累々と重なる死体──その中に、ぽつんと倒れた、二人の姿を。宋江は、駆け寄り、馬上から滑り降りて、横たわる王英と扈三娘へ歩み寄った。そして、王英と扈三娘の顔を見た。
 瞬間、宋江はあっと叫んで、目を閉じた。
 たちまち──世界は闇に包まれた。

 鄭彪は、笑った。
 戦いは、すぐに終わるだろう。
 この聖なる山々の狭間には、霊妙な宇宙の気が満ちている。人の狂気は増幅され、さらに巨大な狂気を呼んで、荒れ狂うのだ。
 (人よ、自らの狂気によって、自ら滅びよ)
 自ら生み出した“幻影”によって、消えてゆけ。



 あたりには黒い霧がたちこめ、暗かった。
 李逵に続いて、項充と李袞も団牌兵を従えて突撃をかけた。“混世魔王”樊瑞の眷属であった項充は、幻術を恐れなかった。動くにつれて、霧が蠢く。視界が歪み、ものの姿がはっきり見えない。凝視すれば、なにかの形を成しそうだった。項充は、敢えて見ようとはしなかった。

 (“見よう”とすれば、そこにはないものを見るだろう)
 項充は、五感で李逵を追っていた。あやしく蠢く闇の中に、李逵が見える。闇と同じくらい黒いはずの李逵だけが、闇より黒く輝いている。
 (ついていけ)
 李逵はひたすら駆けていく。項充は追った。すぐそばに李袞がいるのを感じた。
 それは、見えるものよりも、鮮明で、確かな存在だった。



 宋江はひとり、暗黒の中を歩いていた。
 どこを歩いているのかは、分からない。ただ人々の狂ったような叫び声と、刃がぶつかる耳障りな音、それと悲鳴が、絶え間なく頭の中に反響していた。
 闇の中を、人々が逃げまどっている。彼らは同じ方向へ行くようだった。宋江は、ひとり、その流れに逆らっていた。
 顔に叩きつける風塵を袖で避けながら、果てし無く感じられる時を、一歩一歩、歩き続けた。
 やがて、足が何かにつまづき、宋江は倒れた。目を開けると、ぼんやりと周辺の様子が見えた。長いこと歩いたはずなのに、宋江は少しも進んでいなかった。
 つまづいたのは、横たわる王英の足だった。目の前には、扈三娘が倒れていた。
 宋江は、目を閉じ、耳を塞いで、その場に力なく体を丸めた。
 暗黒の中で、風が唸りを上げている。瞼の奥の闇の中に光が差して、金色の流星が乱れ飛ぶのが見えた。風が、彼を呼んでいた。
 『宋江兄貴!』
 目を開けると、眼前に李逵の板斧が振り下ろされ、それを武松の戒刀が受け止めたところだった。

「目をさませ、鉄牛!」
 武松の目は、ぎらぎらと輝いていた。宋江はうずくまったまま戦場を見回している。あたりでは、両軍の兵士が入り乱れ、同士討ちを続けている。武松に続いて、魯智深も歩兵を率いて突入してきた。武松は宋江を助け起こした。
「無事で良かった」
 武松の眸は、異様な光を発している。

 それは金色に輝く瞳──“金眼彪”施恩の目。施恩が、この世に置き忘れていった左の眼だ。
 その瞳は幻影を見ず、目には見えぬが“そこにいる”ものたちを見る。
 だから、武松には、見えていた。
 死人が山をなし、亡霊どもが彷徨う世界。それは、武松には見慣れた光景だ。ばけものとは、すなわち、人間。殺戮に彩られた亡者の世界の片隅に、宋江の姿だけが、はっきり見えた。
 魯智深は、手当たり次第に素手で“敵”を殴り倒している。最初に禅杖で殴りつけた“仁王”は倒れて粉々になり、肉屋の鄭や青法師や町のごろつきを殴り倒し、高求や童貫を蹴り付けた。
「説法だ、説法だ!」
 魯智深は呵々と笑った。

 武松に遮られた李逵は尻餅をつき、ぽかんと宋江の顔を見返した。
「あれ、宋江兄貴じゃないか」
 李逵は“真っ黒な魔王”を殺そうとしたはずだった。しかし、そこには、武松に助けられて立ち上がる宋江と、羅刹より恐ろしい魯智深、追いついてきた花栄と秦明の部隊がいるだけだった。
 花栄は混乱した戦場を見渡した。宋江のそばにいる人々は、なぜか幻影を見なかった。
「幻術だと?」
 花栄は半信半疑だった。
 確かに、あたりには嵐が吹きすさんでいる。模糊とした視界の中に、敵と味方が入り乱れて殺し合っている。現実なのか、幻影なのか、花栄すら分からなくなりそうだ。風が狂ったように哭いている。
 その音に聴覚を奪われそうになった時、秦明の声が力強く耳に響いた。
「花栄、宋首領を馬に乗せろ!」
「よし」
 花栄は我に返り、宋江を鞍に押し上げようとした。照夜玉獅子は、おとなしく頭を垂れている。花栄の手に抗ったのは、宋江だった。
「わたしより、二人を」
 その時、花栄と秦明は、王英と扈三娘の死体に初めて気づいた。
 気づいた瞬間、秦明の視界が歪んだ。扈三娘は杭州で殺した百華兵となり、まだ見ぬ我が子を抱いた花宝燕の面影に変わり、報われぬまま死んだ最初の妻の黄貞香の姿となった。花栄の声が、幻覚から秦明を引き戻した。
「惑わされるな」
 花栄は顔を上げ、弓を手にして、吹きつける風に対峙していた。彼は幻影を見なかった。彼には、見たくない“恐怖”などない。
「神だろうが、魔物だろうが、俺の矢は避けられぬ!」
 その時、花栄は、今まで横にいたはずの宋江の姿が消えているのに気がついた。
「宋江、どこだ?」
 突如として、花栄は耐えがたい焦燥感に襲われた。
(宋江がいない)
 花栄は戦場を見渡し、弓を引くことも忘れて叫んだ。
「宋江!」
 咲き誇る華のごとき天英の星に欠けているもの──それは、夜であり、闇であり、冬である。絶望、そして、“終わり”である。
 花栄は今、それらの中に、不意打ちのように放り出された。
 宋江が、いなくなること。
 それが、花栄の唯一の“恐怖”であった。



 嵐の中で、鄭彪は笑みを浮かべた。
「方聖公は炯眼だ──ここは、確かに“つながって”いる」
 方臘が本拠地として、烏竜嶺のこちら側、睦州から清渓県に至る山地を選んだのは、単に防衛に適しているためだけではない。この場所は、中原の汚濁から隔絶し、宇宙とつながる太古の気が残存している。
 その気と人が感応し、人が昔に失った、“魂の力”が顕現するのだ。
 それは、虫の知らせ、直感、予知夢、遠く離れた者同士が同じこと思うなど──目に見えぬものを感じ取る能力である。
 今、その力が“鄭魔君”の呪術により増幅し、人知を越えて暴走している。
 鄭彪は、憐れみに満ちた陰陽眼を地上へ向けた。

 彼は、戦場を見下ろす小高い崖の上にいる。背後には、異相の“霊応天師”包道乙が石像のように立っている。
 戦場に満ちているのは、渦巻く人の欲望である。人を人たらしめてきた、濁った気である。人の世の栄えのため、肉体の快楽、俗世の欲望を満たすため、人は自らの目を曇らせ、肉体を汚し続けてきた。
(その報いを受けているのだ)
 眼下にうごめく者たちは、太古の霊妙なる気に包まれて、逃れようもなく、本能のままに狂奔していた。自分だけは生き延びようと敵味方もなく殺し合い、あるいは恐怖の幻影から逃げようとして、崖から転げ落ちていく。血走った目で、なにもない虚空へ槍を振り回す者。泣きながら立ちすくむ者。なすすべもなく倒れ臥す者。
 それこそが──人の“生きる姿”だ。
(無残なり)



 宋江は、再び闇の中を進んでいた。
 一人だった。
 背後には、戦いの声が渦巻いている。それは、すでに戦の喧騒というようなものではなく、地獄で責め苦を受ける亡者たちの、苦痛と悲嘆の叫びにしか聞こえなかった。その阿鼻叫喚から遠ざかろうと、宋江は歩き続けた。
 進むのは、生命のない、枯れはてた荒野である。
 やがて、ようやく静寂が訪れ、耳元を過ぎる風の音しか聞こえなくなった。眼前は闇一色で、自分が目を開けているのか、閉じているのか分からない。
 それでも、宋江に迷いはなかった。
 漠然と、進むべき方角が見えた。ただ、進み続けるための勇気が必要なだけだった。
 やがて、視界を塞ぐ闇の奥から、何ものかの影が立ち上がった。
 見上げるほど巨大なそれは、絢爛たる光を放つ金甲の力士たちだった。はじめ一人ひとりだった金甲力士は、二人になり、二人がまた四人になって、どこまでも増えていく。四本の腕に武器を握り、無数の巨人が宋江を取り囲んだ。

 彼らみな目を細め、口角を大きく綻ばせて、にこにこと満面の笑みをたたえている。
 宋江が見上げていると、金人たちは笑いながら宋江を手招きした。宋江は動かなかった。すると、たちまち憤怒の形相に変じ、宋江へ武器を振り上げた。
 宋江は、頭上にのしかかる魔神の群に対峙した。哄笑と怒号が混じり合い、轟いて渦を巻いている。金人たちは前後に異なる二つの顔を持っていた。ひとつは笑い、ひとつは怒り、それが表裏一体となり、首の上でぐるぐると回転している。
 それを眺める宋江の表情には、なんの変化も生じなかった。僅かに、指が動いて腰の宝剣に触れかけたが、剣が鞘から放たれることはなかった。
 宋江は、自分を取り巻く魔神の間へ踏み出した。
 金甲の力士たちは四本の腕を振り回し、眼を怒らせて宋江を威嚇した。宋江は、巨人の足の間を通り抜けた。一歩一歩、地面があるかどうかも判然としない場所を進んだ。
 ほどなく、宋江は真っ赤な怒濤のほとりに出た。荒々しく流れゆく川面を埋めて、おびただしい死者が流れていく。
 その顔のすべてを、宋江は知っていた。その名、どんな人間だったか、なにを愛し、どのように死んで行ったのか、宋江は知っているはずだった。
 宋江は波打ち際へ足を運んだ。真っ赤な波が、靴を洗った。そのまま、宋江の足は沈むことなく、水面を歩いて対岸へと渡りきった。
 振り返ると、巨人たちは河を越えられないようだった。
 宋江は怒り狂う巨人たちに背を向けて、歩き続けた。相変わらず暗かったが、ぼんやりとあたりが見える。やがて前方に白い影が浮かび上がり、近づいていくと、それが人であるのが分かった。
(呉先生?)

 その人は白い長衣を身につけて、端正な姿で佇んでいた。やや俯けた白面は、何かを深く憂いているようにも見えた。
 荒れ狂っていた風が、いつの間にか止んでいた。
 宋江はほっとして、その人の足元に腰を下ろした。
 あたりは、暗くて、静かだった。なにかが、彼を守り、包み込んでいるのを感じた。
 懐かしい、もう二度と会えないと思っていた人々が、兄弟たちが、すぐそばにいる。解珍、解宝、阮小二、張順、劉唐、扈三娘たち──そして、晁蓋。彼らが、自分を取り巻いているのを、肌に感じた。
(──ここは、“わたし”が生まれたところだ)
 なにもないのに、満ち足りた闇の中に、宋江は赤子のように体を丸めた。
(わたしは、“ここ”から、やってきたのだ)
 瞼の奥で、星々が輝いている。
 ふるえるような、かすかな歌を囁きながら、星だけが、そっと彼に寄り添っている。
 こうして、星は、いつも輝いていたのだ。
 たとえ、今は見えなくなっても。



 その頃、呉用は烏竜嶺の麓に戻り、空を見ていた。
 西の空が、真っ暗な雲に覆われている。

(いやな雲だ)
 胸騒ぎがした。
 呉用は博覧強記だが、天象を見ることは、さほど得意としていない。
(赫思文がいれば、なにか予見もあっただろうが……)
 あいにく、樊瑞も宋江に同行して、陣にはいない。
 呉用は不安を払拭しようとした。宋江には、一万の兵が従っている。花栄と秦明もついている。李逵も武松も、宋江のためなら命を捨てる。凌振がいるし、何かあれば戴宗が知らせてくるはずだ。
 しかし、烏竜嶺攻めに失敗してから、呉用の胸騒ぎは強くなる一方だった。
(なにかしなければ)
 この不安を取り除くには、行動しかないことを、“智多星”呉用は知っている。宋江をめぐる戦況が、不利であれ、有利であれ、自分自身が動けぬことが不安の火種だ。
 呉用は、梁山泊での最後の戦い、あの長く絶望的な戦いのことを思った。
 童貫率いる十三万の大官軍、十節度使の包囲。軍師は“探花”聞煥章──あの時の、自分の頭脳の中を覗かれてるような、不安と不快。
(あれは、自分自身との戦いだった)
 呉用が目を上げた時、真っ黒な西の空とは対称的に、青空が広がる東の方から、一群れの軍がやってくるのが見えた。今しも、あの苛烈な招安戦を思い出していた呉用は、どきりとした。きらびやかな錦旗を掲げた軍勢は、桐盧県にいるはずの童貫の部隊だった。
「呉軍師」
 裴宣が足早にやってきた。
「船団が……」
 指さす方にも、川を遡ってくる官軍の旌旗が見えていた。

 間もなく、童貫が梁山泊軍の陣営に到着した。船団を率いていたのは、これも杭州にいるはずの劉光世だった。
 上陸すると、“放蕩児”劉光世は得意そうに言った。
「いかが、呉軍師。見事な船団とは思わないかね。なにしろ、江蘇一帯の船を一隻も残さずに徴発したのだ」
 つまりは民間の船を権柄づくで取り上げたということだ。船上の漕ぎ手、水夫の不満げな顔を見ても、彼らが無理やり連行された庶民だというのは明らかだった。彼らの怨嗟の視線を浴びても、劉光世は悪びれもせず、あくまでも快活だ。
「敵の本拠地まであと一歩、梁山泊軍には船がいるはずだからな。俺も少々、無理をしたよ」
 劉光世は自慢しつつ、呉用に恩を着せた。彼は、梁山泊軍が間もなく勝利と予測して、自分も“手柄”を挙げるべくやって来たのだ。
 童貫も同様である。劉光世が図らずも船団を連れて来たのを見て、遅れまいと馳せ参じた。趙譚とその手下を使って、宋江が山越えを敢行したこと、呉用が今日の烏竜嶺攻めに功がなかったことも知っている。
(援助とは、相手が最も困っている時にするものだ。それでこそ、値打ちが上がる)
 しかし、呉用の前に立った童貫は、劉光世のように手放しで恩を着せる気にはならなかった。彼の軍人としての才覚と経験は、劉光世を遥かに上回っている。烏竜嶺が容易には落ちないことも、呉用が、自分たちを信用していないのも知っている。
(信用どころか、この白面の書生は、我々を“あさましい”──と、さぞ軽蔑していることだろう)
 童貫は、聳え立つ烏竜嶺の峰を見上げた。あるゆる者を拒もうとする、不吉な灰色の峰だ。
「船は、いるであろう」
 童貫は振り返り、返答を強いるように呉用を見据えた。
 呉用は、すぐには決断しなかった。童貫たちが、“援助”の見返りに何を求めてくるか分からない。
 呉用は梁山泊軍へ眼を転じた。槍を手に、“錦毛虎”燕順がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「いくぞ!!
 力強い燕順の声が響いた。
 風が吹く。
 傷ついた梁山泊軍の旗、華やかな童貫軍の旗、不揃いな水軍の旗──吹きはじめた風に、どの旗も勢いよく翻っていた。



 烏竜嶺の西。宋江隊に同行していた戴宗と樊瑞は、凌振と火砲を護衛するため、本隊から遅れていた。険しい山道のため、火砲を積んだ荷車の足がはかどらないのだ。
 戴宗は気が急いて、荷車の上に陣取っている凌振に向かって言った。
「“轟天雷”、あんたは車を下りてもいいんだぜ」
 凌振は聞こえないふりで、揺れる火砲を押さえている。
 道の先は山裾を半円を描いて回り込んでおり、先行する梁山泊軍の姿は見えない。その山の鼻の手前で、樊瑞は足を止めた。
「どうした」
 戴宗の問いに、樊瑞は答えなかった。なにかを感じ取ろうとするように、身じろぎもせずに佇立している。凌振が敏感な鼻を動かした。
「妙な臭いがするぞ」
 途端、前方から嵐が襲いかかった。
 砂塵の混じった狂風とともに、空が黒雲で覆われた。そして、樊瑞は嵐よりも危険なものを察知していた。

(風に混じる、この“気配”は)
“神行太保”戴宗も、ひととおりの修行を積んだ身である。岩陰に嵐を避けながら、“混世魔王”樊瑞の硬直した横顔を窺った。
「術か」
 いや──と、戴宗は自ら否定した。
「方臘軍は明教徒、“道士”がいるわけがない」
 樊瑞は無言で嵐に対峙している。
 こんな“気配”を、彼は感じたことがなかった。かつて、最強の“魔王”となるため、全国のあらゆる霊峰を訪ね、名のある道士たちと戦った。すべての流派の術を体験したと自負していた。それなのに、“これ”は、未知の力だ。これほど圧倒的な力であるのに、初めの師であった“混沌子”の混沌の力でも、道術の頂点にそびえる二仙山の森羅万象の力でもない。崋山、泰山、蛾眉山──どれとも違う。
 修行の浅い戴宗には、そこまでは分からない。
 砂塵が鋭く叩きつけ、目を開けていることもできなかった。
「くそっ、なにも見えんぞ。火砲は大丈夫か、“轟天雷”」
 凌振は、火砲とともに岩陰に身を伏せていた。
「どんな嵐も火薬と同じ、いつかは尽きる。それまで、じっと待つのが賢明だ」
 凌振は火砲に布をかぶせ、自分もその中にもぐり込んだ。兵士たちもそれぞれ物陰に身を避けている。しかし、戴宗の焦りは収まらなかった。
(宋江さんが心配だ)
 王英から報せがきて、まず李逵が飛び出していった。宋江は花栄、秦明とともに続いた。その時は、空は真っ青に晴れていた。
(山の天気は変わりやすいが、この嵐は、妙だぞ)
 樊瑞の様子も尋常でなはい。嵐の中に立ち尽くし、呼びかけても反応さえない。
 嵐が激しさを増すとともに、戴宗の焦りは募った。
「決めた。俺は宋江さんを探しに行く」
 戴宗は風の中へ駆け出した。強風が前から吹きつけていたが、戴宗は走り始めると、またあの“飛翔感”に包まれた。足が軽い。走っていると、戴宗の焦りは自然と消えた。
 そのまま暗い山道を駆け続けると、やがて前方から騒がしい人の声が聞こえてきた。戴宗は目を半ば閉じたまま、声のする方へ走っていった。気がつくと、戴宗は乱戦の中に飛び込んでいた。

「なんだ、これは」
 嵐の中で、同士討ちの地獄図が繰り広げられている。泣き叫び、自ら命を断つ兵もいた。見たこともない、陰惨で絶望的な光景だった。
「宋江さんよ、どこだ!」
 戴宗は叫んだ。混乱の中に、花栄と秦明の姿が見えた。声をかけようとしたが、足を止めた途端、戴宗は重圧に頭を押さえつけられた。天が落ちてきたような重さだった。呼吸が苦しく、闇が濃くなり、人々の姿が霧の中へ融けていく。すべての形が曖昧になり、鬼か魔か、人とも思えぬ姿に変じた。
 戴宗は反射的に走り始めた。走ると幻影は消え、神行法の時と同じく景色が流れた。戴宗の持つ天速の星は、“すばやい”星だ。停滞したり、萎縮すれば、本来の力を失う。
 嵐の中を戴宗は走った。嵐だけは、本物だった。
「宋江さん、どこにいる。返事をしてくれ!」
 彼の駆ける道を塞ごうと、“なにか”が襲いかかってくる。それを素早くかわしながら、戴宗は、嵐より速く闇を駆け抜けた。

 その時、花栄も混乱の中に宋江を探していた。しかし、宋江は見つからず、やがて、自分がなにを探していたのかも忘れかけた。耳元で、戴宗の声が聞こえた。
『宋江さんよ、どこだ』
 戴宗にとって、走ることが自我であるなら、花栄にとっては、“射る”ことこそ自分である。花栄は、自分の手がしっかりと朱雁を握っているのを意識した。目が見えずとも、その弓の感触は花栄にはなにより親しいものだ。
(我こそは──“小李広”花栄!)
 確かめるように心中に念じた。
 空を飛ぶ燕を射落とし、百歩離れた柳の葉を射て──百発百中。今、手には神弓“朱雁”があり、箙には矢が満ちている。
(俺は射れる)
 しかし、射るべき“的”がなかった。射れば、矢は当たるだろう。それは、味方の兵か、秦明か、あるいは宋江かもしれない。
(世界が敵意に満ちている)
 花栄の指は、長く、美しい指である。正確無比、誰よりも繊細な感覚を持っている。矢羽根のわずかな違いさえ、触って見分ける。
 その指が、小刻みに痙攣していた。
 指は射たがっている。この世界に満ちた敵意を射落としたい。太古、英雄・ゲイが天地を干上がらせた九つの太陽を射落としたように。
 しかし、一体、どこを、なにを射ればいいのか。
(一本の矢では足りない)
 花栄は五本の矢をつがえ、丹田に力をこめると、天に向かって矢を放った。力強い弦音だった。しかし、矢は風に叩き落とされ、花栄の足元にばらばらと散った。
 諺に、『戻ってくる矢はない』という。“絶対にありえぬこと”──だ。
 矢が戻った──ありえぬことが、ありえるのが、この異常な空間なのだ。
 暗い想念が、花栄の脳裏にはじけた。
(無敵はない。万能はない。どんなに望んでも、かなわない望みはある)
 抗うように、花栄は次の矢を引き抜いた。指に力が入らない。見ると、手は真っ白な白骨と化していた。枯れはてた細い指から、矢がぽとりと地に落ちた。
 それでも、花栄は諦めなかった。
「宋江は、どこだ」
 花栄は歯を食いしばった。この暗い想念こそ、幻影だと信じようとした。
(そうだ、宋江さえいれば)
 あの、暢気な、人のよい顔で、“だいじょうぶ”──と、宋江は言うだろう。
 弓矢を収め、花栄は銀鎗を手に取った。
 しっかりと握りしめ、襲ってくる形のない“魔物”を突き殺すと、断片的に霧が晴れ、倒れているのは、梁山泊の兵だった。
 嵐は、なお吹き荒れている。

 風音は、亡霊の笑い声のようだった。
 秦明は、狼牙棒を手にしていた。
 その武器は、戦うためではなく、守るために使われていた。戦うために生まれてきたような男が、戦いこそ人生としてきた秦明が、戦うことができなかった。彼は強く、戦えば、必ず勝つ。しかし、この幻影の戦場では、倒した“敵”が、味方であるかもしれない。できるのは、襲ってくる敵の攻撃を防ぐことだけだった。
(防ぐだけでは、いつかは負ける)
 秦明はそれを知っている。敗北は、すなわち死だ。
(それでも、仲間を殺すよりはいい)
 死を覚悟するのは二度目だった。梁山泊決戦で、敵の大軍が聚議庁にまで迫った時、秦明は、初めて『死』を意識した。
 そして──生きたいと願った。
 足元には、女の死体が横たわっていた。女には、顔がなかった。目もなく、口もなく、木偶のように何もなかった。だらしなく手足を投げ出し、意志もなく、感情もなく、そこに、ただ横たわっている。ものも言わず、名前もなく、自分は誰で、何者なのか。どのように生き、死んだのか、それさえ知らない。
(お前は誰だ)
 秦明は、忽然と耐えがたい怒りを感じた。
(お前は誰だ!)
 なぜ、そのように無言で、感情もなく、抗いもせず、死んでいるのか。
 突き上げる怒りに、秦明は言葉にならぬ叫びを放った。
 込み上げる憤りに、秦明は叫んだ。

 憤怒の絶叫は霹靂となり、稲妻のごとく暗黒を裂いて響き渡った。



 郁保四は、替天行道旗を掲げたまま、嵐の中に立ち尽くしていた。
 自分の名前も、なんのために、誰と戦っていたのかも忘れていた。まわりは真っ暗で、ばけものだらけだ。郁保四は全身に傷を受け、それでも、旗棹だけは離さなかった。
 旗棹を握ったまま、郁保四は今にも倒れかけていた。
 その耳に、秦明の咆哮が轟いた。
 その声が、郁保四の体を支えた。
“険道神”郁保四は、自分が、“梁山泊”の仲間とともに、方臘軍と戦っていることを思い出した。
 旗棹を支えに、郁保四は立ち上がった。狂風に杏黄の旗がひるがえる。旗が叫んでいるようだ。郁保四も叫んだ。叫びながら腕を伸ばし、旗を天空へ突き上げた。

 その目に、一瞬、美しい青空が映った。光の中に、燦然と、旗がはためく。
 倒れていた兵たちが、声をあげた。周囲の闇の中から、次々と声があがった。それらの声は、やがて集まり、ひとつになり、大きな叫び声となった。
 叫ぶと、目の前でおどろおどろしく蠢いていた真っ黒な“ばけもの”が、“人間”になった。叫んでいる自分の姿も見えた。自分も“ばけもの”になっていたはずなのに、人間の姿に戻っていた。
 方臘兵も“雷鳴”を聞いた。しかし、幻影にとらわれた彼らにとって、それは悪鬼たちの咆哮であり、血に飢えた悪魔の雄叫びにしか聞こえなかった。
『光明清浄大力智慧』
 方臘兵は教え込まれた聖句のほか、叫ぶべき言葉を持たない。その聖句さえ、雷鳴が打ち消してしまう。秦明の怒号も、梁山泊兵の叫びも聞こえず、方臘兵は梁山泊兵の餌食となり、あるいは同士討ちで倒れていった。
 花栄は、血の通った肉を取り戻した掌で、銀槍を強く握り直した。
「宋江、どこだ!」
 叫んだ時、花栄は気づいた。
(俺は、宋江に“救い”など求めていない)
 宋江を──あの無力で善良な男を、“救わねばならぬ”のだ。



 戦場を見下ろす鄭彪は、もう笑っていなかった。
 嵐は現実のもので、彼の立つ崖の上にも吹き荒れている。雨はまだない。狂風に舞い散る砂塵と、乱れる髪が邪魔だった。眼下の戦場は混乱を極めている。
(潮時か)
 その時を、鄭彪は冷徹に待ちかまえていた。彼の方術は無双であるが、それだけで万の敵軍を滅ぼせる──とまでは自惚れていない。
 鄭彪が“戦場”に投入したのは、二千人の方臘兵である。彼らは“捨て石”にすぎず、主力の一万数千の兵は、山陰に温存されて、出撃の時を虎視眈々と待っている。
 梁山泊軍が幻影に翻弄され、同士討ちで弱るのを、待っているのだ。
 主力軍の指揮は“狩人”夏侯成に委ねられていた。純朴な顔をした若者へ、鄭彪は微笑みかけた。
「愚かだろう? 人間は」
「はい。消えてしまえばいい」
 あらゆる生き物の中で、同類同士で殺し合うのは、人間だけだ。“共食い”は、種族を滅ぼす。人ほど醜い生き物はない、それは夏侯成が得た真理である。
 鄭彪は暗雲の走る空を見上げた。
「まもなく、嵐も去ろう」
 山間の気象は複雑だ。刻々と変化して、特に夏の終りには、予兆もなく快晴から急変して嵐となり、嵐からまた変転して快晴となる。山の民でも、この気象の変化は読みきれない。
「嵐が去れば、幻影も去る」
「雨はきませんか、“鄭魔君”」
「感じぬ──雨は、恵みだ」
 天地は、こんな戦場に恵みを与えたりはしないものだ。
「それと、ひとつ」
 鄭彪は笑みを浮かべ、夏侯成に教えてやった。
「“鄭魔君”とは、人が私を罵って呼んだ名なのだ」
「失礼しました、尊称かと」
「構わぬ──清らかな明教徒の中には、“魔”が必要だ。では、そろそろ彼らを苦しみから救ってやろう」
 鄭彪は笑いをおさめ、舞うように片手を挙げた。
「殲滅せよ」
 夏侯成に率いられた一万五千の方臘軍は、嵐をついて突撃を開始した。山の斜面を降る勢いに乗って、攻めかかる。一万いた宋江軍は、逃げ去り、あるいは倒れて、その場にいるのはもう半分の五千もない。それが山間の隘路に散って、統率もなく戦っている。
(殲滅はたやすい)
 斜面を駆け下りる夏侯成の顔が、精悍な狩人のものに変じた。
 彼には見える。“獣”がなにを感じ、どう逃げるのか。どう抗い、どのように死んでいくか──。
「谷に追い落として、狩りつくせ」
“狩人”夏侯成の軍は、梁山泊軍へ襲いかかった。路の下は谷になっている。包囲して、谷底に追い落とせば、勝負はすぐにつくはずだった。
 梁山泊軍には、すでに抵抗する気力はない。
 しかし、鄭彪の顔は険しかった。
(解せぬ)
 梁山泊軍が、叫んでいる。
 救いを求めているのではない。恐怖におののき、幻影に打ちのめされていたはずなのに、この大軍を前にして、再び戦い始めたのだ。
 鄭彪の耳に、梁山泊の者たちの耳障りな吶喊の声が響いた。口々に何かを叫び、夏侯成の方臘軍へ立ち向かう。倒れていたものも、起きあがろうと足掻いていた。
(まさか)
 鄭彪は自分の術には自信がある。人間の心の弱さも知り尽くしている。恐怖、絶望、憤怒をあおり──制御を失った感情が生む錯乱を利用して、幻影を呼ぶ。
 その幻影を拒否し、抗い、あくまでも“自我”を手放そうとしない者がいる。
 幻影に身を任せ、恐怖に屈して、意志を失った方が楽だというのに、なにかが、彼らを“ここ”に繋ぎとめているのだ。

 誰かが叫んだ。
「戦え!」
 武松も叫んだ。
 視界がすべて、真紅に染まった。
 武松の目も、赤かった。
 血走った目は、猛虎の眼だ。
 武松は、自分の行く手を遮るものに襲いかかった。戒刀が舞うたびに、道ができる。世界は一層、紅に染まる。

 武松は叫び、武松は走った。敵を倒しながら敵を探し、最も強い敵を求めた。
 方臘軍は梁山泊軍の反撃にも臆さず、数にまかせて包囲すると、谷底へと追い落とそうとする。落ちていく梁山泊兵を尻目に、武松は戦う。
 自由を妨げるもの、運命に縛りつけるもの──それが、彼の敵なのだ。
(戦え!)
 それが、武松の叫びである。彼は猛虎だ。李逵も、秦明も、魯智深も、項充も李袞も、魔物となり、羅刹となり、獣となった。それは幻影などではなく、彼らの魂、荒ぶる本性そのものなのだ。方臘兵の大軍は、陸続と斜面を駆け下りてくる。
 その正面へ、李逵は雄叫びをあげて躍り込んだ。狼牙棒が兵士を薙ぎ、花栄は風を背にして矢を放つ。魯智深の禅杖が、夏侯成の馬を殴り倒した。
 彼らは、嵐の中でも、闇の中でも、なにが見えても、見えなくても、戦うことを手放しはしないのだ。
 戦いとは──無限の抵抗。
 武松は彼方の崖の上に立つ、二人の男の姿を見た。座禅する醜悪な僧と、戦場を睥睨する若い男。その華奢な全身から、胸が悪くなるほどの腐臭を感じる。
“殺さねばならぬ”
 武松の眼が、金色の光を放った。



 鄭彪は戦場を見下ろしている。その陰陽眼が、憎しみに歪んだ。
(あれは正気などではない──あれこそ、“狂気”)
「包天師!」
 鄭彪は、背後に控えている包道乙を呼んだ。
「“力”を借りる時がきた」
 そして、振り返った鄭彪は、今しも一人の行者が包道乙に襲いかかるのを見た。
 行者の衣は、真紅──血で染め上げられている。叩きつけられる二振りの戒刀が、包道乙が掲げた法剣とぶつかり、七色の火花を散らした。
「なにもの?」
 鄭彪は問うた。行者の顔は、人間とも思えぬ形相だった。

“行者”武松。天傷の星。
 それは、まさしく、人の姿をした一匹の“虎”であった。
 武松は包道乙を殴り倒すと、鄭彪へ走った。彼は本能の告げるまま、崖上を登ってきたのである。そこに立つ不快な人影が、妖術師であろうとか、名のある敵将であろうとか、武松は微塵も考えていなかった。ただ猛烈に湧き上がった怒りの命じるままに、やって来たのだ。
 武松は両腕の戒刀を振りかざし、鄭彪へ斬りかかった。
 鄭彪は笛を持っているだけだ。防ごうともしなかった。武松は両手に戒刀を握り、真っ向から斬りかかった。
 が、手応えを感じるより早く、武松は左肘に衝撃を受けた。見ると、包道乙が投げた法剣が骨まで食い込んでいた。
 包道乙が操る“玄元混天剣”は、鍔のない湾曲した刃ばかりの武器ある。武松の肘を骨まで抉ると、そのまま空を飛んで包道乙の手に戻った。包道乙が金華山の山中で数十年を修行して、会得した絶技である。
 武松の左腕は、わずかな肉と皮でぶら下がっているだけだった。

(なんだ! これは!)

 武松は自分の腕を見た。傷口から血が噴き出している。真っ赤な血だ。武松は、痛みより、力を失った腕の、石のような重さを呪った。
(なんという重さだ!)
 引き倒されそうな重みに抗い、武松は鄭彪へ斬りかかった。鄭彪は待ち受け、笛で武松の顔面を強打した。武松は体勢を崩し、腕の重みに引きずられるように崖下へと落ちていく。包道乙が追った。異相の怪僧は倒れた武松の喉を狙った。
「武松よ!」
 魯智深が駆け付け、禅杖で包道乙に打ちかかった。包道乙が投げた玄天混元剣は、禅杖の刃にはじかれ、地に落ちた。包道乙は慌てて拾うと、迫る魯智深の形相を暗い目でじろりと睨んだ。そして、戦うことなく、鄭彪のいる崖の上へと跳んで戻った。
「おお、武松よ!」
 魯智深は武松を抱き起こした。斬られた腕は白い骨があらわになり、紐で吊られた棒のように、魯智深の腹に当たって、揺れた。
 武松は目を閉じていたが、意識はあった。戒刀を握ったままの右腕だけで体を起こし、土の上に胡座をかいた。

 続く戦闘の吶喊の中で、武松の周囲だけ静寂に包まれているようだった。
 静寂の中で、武松は感じた。幻影を見た。血まみれの腕が、動き、指を伸ばして、なお何かを掴もうと蠢いている。
 武松は、一瞬、目を細めた。
「さらば!」

 武松はかっと目を見開くと、右手の戒刀を振りかざし、自分の左手を断ち落とした。

 肉を断たたれ、筋を切られた武松の腕は、重い音をたてて、地面に落ちた。
 真っ白な“闇”の彼方で、女が、かなしげに微笑んだような気がした。

 武松は意識を失い、倒れ伏した。
「武松!」



※文中の「高求」は、正しくは高求です。
※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「ゲイ」は、正しくはゲイです。



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