水滸伝絵巻-graphies-

第百二十七回
精衛の海に星は眠る




 朝。
 東管を占領した梁山泊軍は、腰弁当を使うと、うたた寝する間ももたずに、再び睦州への道へ踏み出した。
 夏の陽は、ぐんぐん登る。しかし、東管は山陰で、桐盧県ほどの暑さはない。梁山泊軍一万の将兵は、足並みを揃え、意気揚々と進軍した。
 東管では、馬もいくらか入手することができた。 
 王英と扈三娘が軽騎を率いて先行し、睦州の偵察へ向かう。先鋒は李逵隊である。中軍は騎兵が中心で、花栄、秦明が宋江を守って進む。後詰めは魯智深、武松の歩兵部隊だ。青空に並ぶ槍の穂先は、偽装の布を解き放ち、銀色にきらめいている。
 睦州を落とせば、方臘の本拠地である清渓県幇源洞は指呼の間という。柴進たちからの連絡がないので、詳細な道のりは不明だが、睦州を得れば情報も得られるだろう。
 もうすぐ終わる。
 もうすぐ、方臘を打ち倒す。
 その意気が、梁山泊軍の上に、真夏の太陽よりも眩しく輝いているのである。
 花栄と秦明は、宋江の前を左右に並んで馬を進めた。
「順調だな、秦明」
「うむ」
 秦明の寡黙を、花栄は昔から意に介さない。“天猛星”秦明の『猛』の字は、その闘いの中のみに現れるのだ。戦を前に、秦明はいつにも増して無口だった。
 花栄と秦明は、青州以来の長い付き合いだ。自然と花栄の口は軽くなる。
「先生が烏竜嶺の兵を足止めしてくれれば、もう勝ったも同然だ。それにしても、よくもあの呉先生が、宋江だけを寄越したものだ。心配性が治ったか?」
「信頼している」
「宋江の采配ぶりを? それとも、俺たちをかね。呉先生は、どこかで俺を危なっかしい男と見ているぞ」
「“違う”からな」
 呉用と花栄では、性格があまりに違う──秦明はそう言いたいらしい。
 獣も人も、似たもの同士が群れるものだ。あまりにも異なるものは、互いにどんなに優れていても、理解し、信頼しあうのは難しい。
 しかし、ひとたび力を合わせれば、似たもの同士の数倍の威力を発揮するのだ。
 秦明と花栄も、そうだった。
「来た」
 秦明の目が、ふいに左手の山へ動いた。稲妻を彷彿とする鋭さで、秦明は誰よりも早く、敵の襲来を察知した。

「陣を組め!」
 霹靂の一喝が、梁山泊軍の上に落ちた。

 梁山泊軍が進んでいたのは、山裾を縫う葛折りの細道だった。埃の立つ泥道に、一万の兵が縦に長く伸びている。その脇腹へ、やや後方から白色の軍が雪崩をうった。登元覚率いる、五千の方臘軍だった。
 烏竜嶺を後にしたこの軍は、“狩人”夏侯成の案内で山中を横断し、睦州に急行していた。その途上、見下ろした山麓に、はからずも敵の旌旗を見たのである。
 登元覚麾下の僧兵はほぼ絶えたので、中核は夏侯成と睦州の兵だった。睦州を守らんとする士気に燃えている。
「睦州を守れ!」
 聖句を唱え、勾配のある山肌を勢いに乗って滑り落ちると、隊伍を整えるいとまもなく、梁山泊軍へ襲いかかった。
 登元覚が真っ先に来る。数珠をかけ、禅杖を手にした僧形武者は、梁山泊軍にも名が知れている。
「あいつは、“国師”の登元覚!」

 魯智深が駆けだそうとするのを、武松が止めた。彼らは殿軍である。方臘軍は、彼らのすぐ前に乱入してきた。
 花栄が何か叫んでいる。しかし、叫喚の中、その言葉は届かない。秦明の声だけが、はっきり聞こえた。
「先に行け!」
 花栄らの騎兵が宋江を守っている。武松はその中へ突っ込んで、馬上から照夜玉獅子の手綱を握った。
「心配するな」
 武松は宋江に短く言うと、魯智深とともに乱戦の中を猛進した。騎兵が応戦している間に、宋江を守って脱出するのだ。
 間もなく急変を悟った李逵の先鋒隊も引き返してきた。そのまま宋江たちの脇を駆け抜け、戦場へと飛び込んでいく。
 李逵たちが敵を足止めしている間に、魯智深たちは宋江を守りながら先に進んだ。細い道だ。戦場から抜け出して先へ進めば、追撃は容易ではない。
 夏侯成率いる方臘軍は、山腹づたいに宋江を追った。彼らは追いつけぬと見て、矢を使った。方臘軍の矢は精度を誇る。
「宋江を狙え!」
 その鏃を防いだのは、同じく宋江とともに戦場から抜け出た凌振の車廂砲だった。荷車に火砲を載せて、東管で手に入れた馬を二頭立てにして牽かせている。宋江の背後にぴたりとついて、後方から飛ぶ矢を防いだ。
 凌振は、乱箭の中を走る戴宗に気づいた。甲冑もつけぬ軽装で、戴宗は箭の雨を擦り抜けるように駆けている。
「戴院長、あんたも乗れ!」
 戴宗は馬車に飛び乗ると、火砲の陰から背後を覗いた。
「後ろはどうなってる?」
 敵は側面からだけだ。場所が狭く、勢いづいた敵の最初の衝撃をやり過ごせば、あとは混戦、一対一の斬り合いになる。
 こういう時、方臘兵は強い。自分の命を軽んじているからだ。しかし、“命知らず”においては、梁山泊兵も劣るものではない。
 たちまち、山間の清らかな朝靄は血潮に染まった。

 山間に勃発した遭遇戦は、一万対五千の激戦になった。梁山泊軍は数に勝るが、この隘路では数はさして頼みにならない。方臘軍は半数とはいえ、兵は山に慣れている。
 戦場に踏み止まった花栄は、槍を使っている。混戦の狭間、秦明と距離を詰め、目配せした。銀鑓の柄を小脇で抑え、あいた手で弓にちらりと触れた。
 それだけで、花栄の意図を察したのは、付き合いの長い秦明ならではだったが、難色を示したのも事実であった。花栄は加えた。
「ここで手間取りたくないだろう」
「分かった」
 思いは秦明も同じである。
 花栄は眼前の敵を二、三人も槍で突き伏せると、馬首を転じて宋江の後を追い始めた。
「俺に続け!」
 離脱できる兵から花栄に続く。李逵はもとより、花栄の声など聞いていない。手当たり次第に方臘兵を餌食にする。
 登元覚は、睦州方面へ動きはじめた梁山泊軍の流れに乗ろうとした。ここで梁山泊兵を何百人討ち取ろうと益はない。宋江ひとりを殺すことが、睦州を救うのだ。
(やはり、わしは正しかった)
 石宝は、敵は少勢などと楽観していた。その少勢の内に、宋江がいたと知れば、さぞ悔しがるだろう。
(煩悩! 煩悩!)
 登元覚は自戒した。
 宋江に追いすがろうと、登元覚は禅杖を縦横無尽に振り回した。梁山泊兵を薙ぎ倒す禅杖を、秦明の狼牙棒が遮った。
 隘路の中央に仁王立ちして、秦明は烏鴉の馬上に狼牙棒を振りかざす。日光は正面から差している。燃え上がるような巨体であった。登元覚には、そう見えた。
 花栄を先にやり、秦明は登元覚と刃を交えた。禅杖と狼牙棒、重量級の打撃武器同士の闘いである。禅杖の刃と狼牙棒の刺が触れ合い、飛び散る火花が星となる。

 登元覚は猛烈に攻め込んだ。通常の人間は、秦明の雄姿を恐れる。その巨体、面貌、武器も馬も、声すら常人には肝が震える。登元覚は恐れなかった。
 彼もまた、修羅であった。血眼の羅刹と化した。修行も悟りも、杭州の業火に焼かれて消えた。これはお互いを呑み込もうと燃え上がる、炎と炎の戦いなのだ。
 方臘軍は李逵隊に蹴散らされるか、あるいは宋江を追って散り散りになっている。
 登元覚は、もはや部隊の指揮など放棄していた。
(この巨大な黒い敵を踏み越えて、宋江を殺し、睦州を、方聖宮を、我等の光明清浄世界を救う菩薩となるのだ!)
 弥勒菩薩が現れるという、五十六億七千万年など待ってはいられぬ。
 登元覚の必殺の一念が、秦明の膝を狙った。故障があるのを察知したのだ。
 秦明は、登元覚の渾身の打撃を四、五合も受け流すと、馬を離して素早く西方へ退いた。登元覚はすかさず離れ馬を捕らえ、秦明を追った。追ったという意識も彼にはなかった。ただ睦州へ向かって駆けた。
 睦州が落ちれば、もう方聖宮を守る城はない。光明清浄世界は消える。
(そうはさせん)
 登元覚は聖句を唱えた。
『光明清浄大力智慧』
 唱えれば、彼には、いつも、見えるのだ。
 輝かしい、未来の世界が。
(見えない)
 今、朝日の中を駆けながら、登元覚は動転した。
(光明清浄世界が見えぬ)
 見えるのは、感じているのは、虚無のみであった。
 光の中心──ずっとその中央で輝いていた“王”、“降魔太子”方天定は、死んだのだ。
 数年前、明教が滅亡の危機に瀕し、叛乱の火蓋が切られた、あの“受難と蜂起の月”。
 その時、宋国の弾圧を逃れた登元覚は、方臘とともに深山にいた。そして、各地の教団が一斉に襲われ、信者が捕らえられたという急報を得た。捕らえられた者の中には、方臘の妻子も混じっていた。宋国は、彼らを人質に、方臘に投降を迫ったのである。
 宋国の狙いは、教主である方臘だ。方臘が死ねば、明教は崩壊する──宋国はそう考えたのだ。実際、生まれたばかりの明教団は勢力こそあれ、方臘の教えに帰依した民衆の集団にすぎず、今のような国家組織は持っていなかった。
 方臘の居場所をつきとめられなかった宋国は、方臘が現れるまで信者の処刑を続けると通告し、銭塘江岸の処刑場で、残虐をきわめた信者の処刑が始まった。
 処刑は、ひと月にわたって、毎日、続いた。釜茹で、火あぶり、生きたまま皮をはがれる──処刑の詳報が届いても、方臘は、山を下りなかった。
 そして、ついに明日は妻子が処刑されるという夜も、いつも通り瞑想に入った。その後を、ただひとり難を逃れた金芝公主がついていった。
 明教は姦淫を戒め、出家すれば妻帯できない。在家時代すでに家族を持っていた方臘は、そのために、常より、ことさらに家族を遠ざけていた。例外は、少女の頃より予言者の片鱗を見せていた金芝公主だけだった。
 登元覚は、明教から破門されても、一家を、方天定を救いたかった。星に祈った。それが、通じたのかどうか。
 夜明け、山を下りた時、方臘はついに武器をとることを命じたのである。
 あの予言がなされたのは、この時だ。
『“降魔太子”が光明清浄世界の王となる』
 それが誰とは言わなかった。方臘の息子は二人いた。しかし、登元覚は方天定だと直感した。
『命にかえても、お救いします』
 それが、方臘の大乱勃発の瞬間だった。
 すでに登元覚は武器を準備し、同調する信者を集めていた。すぐに杭州へ進軍を始め、途上、隠れていた多くの信者を糾合した。どうせこのままでは殺される──という恐怖が、明教徒たちを暴徒に変えていた。
 しかし、遅れた。処刑場を襲った時には、すでに方臘の妻子や弟たちは斬首され、方天定だけが、母の死体の傍らで茫然と順番を待っていた。登元覚は宋兵を薙ぎ倒し、斬首刀の下から方天定を救いだした。
 方天定は足を切られ、血まみれになり、気を失って登元覚の袈裟に包まれた。その日の記憶は、方天定には残らなかった。“降魔太子”として生まれ変わり、母は遠くに行ったと信じた。
 自分が救った聡明な子が、いずれ世界の王になる。登元覚は、その日だけを、ずっと夢に描いていたのだ。この世でたったひとりの、大切な存在だった。
(次の太子など──知らぬ子供だ)
 登元覚の双眸は、暗黒に満ちた。
 仏教の慈悲で世は救えぬ。
 明教の理智でも人は救えぬ。
 なにも見えない。光も闇も、過去も未来も、敵も味方も。
 ただ、馬だけが虚空の中を駆けていく。

 秦明は、追ってくる登元覚へ振り向いた。
 道の前方は、円を描くように山裾を巡る緩やかな曲がり角になっている。
 そのまま、秦明の姿は山裾の向こうに消えた。
 登元覚は追い続ける。
 馬は飛ぶように進み、登元覚の耳元で、風が唸る。
 そして、その角を回った時、登元覚の眉間に一本の矢が突き立った。


 曲がり角の向こうに馬を止め、花栄はほっと息をついた。その手の中では、たった今、登元覚を馬上から射落とした朱雁の弦が、まだ震えて哭いていた。
 花栄の矢を受けた登元覚は、両眼を見開いたまま、地上に大の字に倒れていた。
 仰向けの目に、“光”が差した。それは、瞳に映った空ではなく、溢れるほどの清浄な光だった。
 光に包まれ、登元覚は死んだ。
 果てしない──生命に満ち溢れた、果てしない水のような、光。すべてを包み、無限大に広がっていく。その凝縮された光の中央に、ひときわ強く輝く星こそ、彼にとっての希望──光明清浄世界の王となった、方天定の姿であった。

 花栄の声が、山々に響いた。
「国師“宝光如来”登元覚、討ち取ったり!」
 花栄があげた凱歌に対し、秦明は渋い顔だった。
 彼は、こんな“騙し手”が嫌いなのだ。寡黙な表情の下には、加担を恥じる気持ちを隠している。そのことは、もちろん、花栄も知っている。
 肩ごしに、軽く振り向いた。
「“お手柄”だろう?」
 花栄は、秦明が言いたいことを、すべて理解した上で、晴々と笑った。
 あの青州で、花栄はさっさと賊に投じ、秦明は最後まで抗った。
 しかし、辿りついた場所は同じさ──と、花栄は思ったが、あえて口には出さなかった。
 この融通のきかなさが、秦明の良さなのだ。でなければ、大切な妹を託しはしない。
 李逵たちは、まだ残党を追い回している。樊瑞が兵を集めていた。
 花栄は登元覚が絶命したことを確認すると、すぐに宋江のもとへ駆け付けた。
「烏竜嶺の兵に違いないが、数が少ない。全軍が砦を放棄したわけではなさそうだな」
 凌振と戴宗が馬車や馬で即席の防御をつくり、その中に宋江を保護していた。
「しかし、登元覚が死んだとなると、烏竜嶺に残る“強敵”は、石宝だけだ。兵も三、四千は減っただろう。どうする」
 烏竜嶺の一角は崩れた。
「呉用先生に、やらせるか」
 烏竜嶺が落ちれば、呉用に預けた二万も山を烏竜嶺を越え、全軍で睦州が攻められるのだ。
 宋江は判断に迫られた。
 昨日からの強行軍、さらに今の遭遇戦で、さすがの梁山泊軍も疲れていた。宋江は、ひとまず兵を休め、兵糧を使うように命じた。
「その間に、偵察にやった王英たちも戻るでしょう」
 実際、ほどなく王英と扈三娘が戻ってきた。
 王英は漂う血の匂いに気づき、馬上で表情をひきしめたが、登元覚を討ち取ったと聞き、喜んだ。
「そいつは、すげぇや!」
「睦州に動きは?」
 宋江が尋ねると、扈三娘が答えた。
「特に動きはないわ。とても静か……」
 花栄は、この報告を歓迎した。花栄は烏竜嶺を先に攻め落としたいのだ。
 宋江が決めかねていると察して、花栄はさらに言葉を加えた。
「全軍で睦州を攻められれば、我々の被害も最小限に抑えられる」
 一万の兵で睦州を落とすのは、はじめから決死の覚悟だ。夜のうちに山越えをして、早朝に一気に攻めるつもりだったが、登元覚の攻撃をうけたせいで、もう日が高い。
「登元覚が出てきたということは、おそらく東管からの急報だろう。ならば、王英たちと入れ違いに睦州にも知らせが着くはずだ」
 睦州の奇襲は事実上、不可能になった──と、花栄は判断していた。
「ならば、堂々といこうじゃないか」

 結局、宋江も同意して、すぐに戴宗が来た道を戻り、呉用のもとへ走ることになった。呉用に登元覚の戦死、そして、烏竜嶺が手薄になっていることを知らせるためだ。
「お安い御用だ」
 戴宗は軽く助走をつけると、険しい山道へと駆けだした。
 岩だらけの山道だ。足場も悪い。戴宗は、すぐに足に違和感を感じた。風が唸る。違和感は、全身に広がった。

(軽い)
 走る身体が、自分のものではないように、軽かった。走れば走るほど、体が風に溶け込んだように軽くなる。
 本当に、自分が雲を踏んでいるのではないかと、戴宗は自分の足元を確認した。
 脚絆には甲馬を結んでいるし、馬霊直伝の“火輪法”も会得している。しかし、この軽さは未知のものだ。
(そういえば、あの老人)
 戴宗は、あんな枯れ木のような老人が、軽々と山道を歩いていたのを思い出した。
(深山幽谷に住めば、自然と仙人になると云うが──)
 この山の空気は、なにかが違う。
 確かに、小牛嶺を越えたあたりから、微妙に空気の“質”が変わったことを、戴宗は肌に感じ取っていた。ひどく澄んで、霊妙な波動に満ちている。
(風が、生きている)
 山の声、星の歌まで聞こえてきそうだ。
(“人の息”が混じっていない風というのは、こういうものか)
 戴宗は、陶然と走り続けた。
 そして、気づくと、見覚えのある烏竜嶺のふもとに立っていた。
 戴宗を包んでいた神秘なものが、途端に跡形もなく消えてしまった。
 灰色の烏竜嶺が聳える空は、風さえも殺伐として、清澄な空気には血の匂いが混じっていた。
 戴宗は我に返ると、すぐに山腹の梁山泊陣の呉用に会い、宋江が無事に山を越えたこと、そして、はからずも登元覚を討ち取ったことを伝えた。
「兵も五千近くが砦を出たと?」
 ふだん、表情を露わにすることのない呉用の顔には、喜色が浮かんだ。
「では、残るは“流星”石宝と、わずかの兵のみ」
 呉用は、睦州から五千の援軍が来ていることを知らなかった。
 太陽は、燦然と空の高見で輝いている。
 呉用は、すぐに総攻撃を命じた。もちろん、桐盧県の童貫に“お伺い”をたてるようなことは、しない。
 梁山泊軍は勇躍、烏竜嶺へ押し寄せた。もはや目的は、この関を落とすことより、この山を越え、宋江軍と合流して、睦州へ攻め寄せることである。
「宋江兄貴だけに危ない橋を渡らせるな」
 全軍に、その意気が高かった。
 馬麟、蒋敬、燕順が歩兵を率いて先鋒に立ち、朱仝、呂方、郭盛が後に続く。関勝も石宝の出陣に備えた。
「登元覚は死んだぞ! 睦州も落ちた! 烏竜嶺は孤立無援だ!!」
 梁山泊軍の兵たちは、敵を動揺させるべく、山上に向かって叫んだ。叫びながら、中腹の小砦に矢を射かける。
 朱仝は油断なく方臘軍の出方を見ていた。
(方臘軍のこと、あるいは捨て身の攻撃にでるか?)
 しかし、方臘軍は動かなかった。
 小砦からは、岩や丸太が、常より激しく投げ落とされ、決起に流行って肉薄した梁山泊軍に襲いかかった。梁山泊軍が激しく攻めれば攻めるほど、負傷者の数は増えていった。
 呉用には不審だった。
(石宝は、あくまでこの砦だけを守るつもりか)
 睦州を見捨てても、この砦があれば、宋江軍は孤立する。
 宋江軍一万は、方聖宮を攻めるにはあまりに少ない。合流できなければ、反撃され、殲滅される恐れさえある。
(登元覚の死も、睦州の危機も、まるで意に介していないのか?)
 登元覚を、睦州を見殺しにしても、この砦を守るつもりか。身の内に宋江軍を入れ、方聖宮を、方臘の身を危険にさらしても──。
 呉用は、悪寒を感じた。
 石宝の判断は、正しい。
(私に、それができるだろうか?)
 石宝は、ついに砦から姿を現さなかった。山を彩る梁山泊軍の旗がむなしく泳ぐ。
 烏竜嶺は、あくまで灰色に、鋭く。

 それは、泥海の中に咲き残らんとする、一輪の蓮華にも見えた。
 結局、梁山泊軍はむなしく引き返すしかなかった。呉用は、あらためて石宝の恐ろしさを肝に銘じた。
「石宝は、なんとしても烏竜嶺に足止めしておきます」
 呉用は戴宗に告げた。
「登元覚、石宝さえいなければ、もう方臘軍には恐れるほどの軍略はない。睦州は、宋江殿の一万の兵で十分に落とせるはずです」
 それは、呉用の希望でもあった。
 戴宗は難しい顔をしている。
「この二万も、切り通しから進んでは?」
「我々がここを動いたと知れば、石宝は桐盧県を攻めるでしょう」
「童貫が心配なのか?」
「桐盧県を失えば、我々の退路がなくなる。例え睦州を落としても、挟撃されることになるでしょう」
 梁山泊が落としてきた城市には、頼りにならない宋国軍が入っている。一度は“帰順”した明教徒たちも、形勢が変われば、どう動くか分からない。
 石宝はそこまで読んで、この“一輪の蓮華”を死守しているのだ。
(船さえあれば……)
 李俊の船団は、水砦攻めで半数以上が消失した。水兵も、漕ぎ手も多くを失っている。烏竜嶺は麓の水砦を失ったのに、梁山泊軍にも、十分な船がないのだ。
「宋江殿の御武運を祈ります。かくなる上は、敵の援軍が集まる前に、一刻も早く睦州攻めを」
 戴宗は再び山を走って戻り、十分に休息をとった宋江軍は睦州への進軍を開始した。
 まだ夕方には少し間があるくらいだった。
 しかし、この半日の遅れにより、歯車は少しずつ狂い始めた。

 登元覚が率いていた兵は壊滅したが、かろうじて“狩人”夏侯成が獣道伝いに睦州へと落ち延びた。
 すでに伍応星も到着しており、祖士遠は軍議の最中だった。
「敵が東管に現れたうえ、登国師が殉教されたとあらば、烏竜嶺も風前のともしび。凌州を保つことさえ難しい」
 祖士遠はすでに清渓県の方聖宮へ急使を送っていたが、方聖宮が援軍をしぶる恐れがあることを知っている。
 重ねて早馬を出し、すでに一刻の猶予もないことを婁敏中に訴えた。
『“国師”登元覚遷化。敵軍は睦州に迫る』
 知らせは、夕刻を待たずに方聖宮に届いた。もはや援軍の派遣に反対するものはなく、今回は柴進も同意した。頑強に反対しては、却って怪しまれる恐れがあるからだ。
 燕青は、先の先まで読んでいる。
(今さら援軍を立てたって、間に合わない)
 後は、どうやって自分たちが得た情報を梁山泊軍に届けるか──それが最も重要な問題だ。
 燕青は、あえて危険を冒すつもりだ。柴進には、いざとなれば公主を連れて逃げるという、男としての重責がある。
 軍議は、婁敏中、方杰を中心に進められていた。方聖宮を守る御林軍の半分、一万五千を派遣することは決まった。
「それを、誰が率いるか?」
 婁敏中は決めかねた。これまでも、各地に援軍を出している。その結果、もともと少ない将が更に減っているのである。
 方杰が方聖宮を離れるのは困る。百華も方臘の側を離れられない。
 その機をとらえて、燕青が、僣越ながら──と進み出た。

「私も些か兵法の覚えがございます。勅命あらば、この一命を擲ってお役に立ちたいと存じます」
 燕青──“雲奉尉”が、学識豊かで、機敏な人物であることは、誰もが認めるところである。彼の主人である柯都尉の軍略も、婁敏中は評価している。
 しかし、当然、実績のないことを危ぶんだ。若者に“腕試し”をさせるには、あまりにも事態は深刻なのだ。
 柴進も、それは予測していた。
「雲璧は、わが族弟ながら、希有の人材。幼い頃より六韜三略の奥義を会得し、実戦の経験こそ足りぬものの、このたび戦乱の中を踏破して、大いに見聞を広めている。戦の勝敗を分析し、私が思いもつかぬ見解を述べることさえあるのだ。烏竜嶺には百戦錬磨の石宝将軍がいるのだから、連携して戦えば、戦勝は間違いなかろう」
 百華は心配そうな顔をしている。
「あなた、本当にできるの?」
「もちろん」
 玉簾の向こうにいる方臘は、なんとも言葉を発しない。
 今日はなぜか、伝奏者の蒲文英の姿がなかった。それだけではなく、方臘は意を決しかねていると見て、柴進が重ねて言った。
「雲奉尉で役者不足とあれば、この柯引、自らが参りましょう」
 それを、意外とは、燕青は思わなかった。“情報”を持って行くのは、燕青、柴進どちらでもよい。柴進が行けば、万一の時は、燕青が公主を連れて逃げることになる。
 柴進は、このまま方臘、そして居並ぶ百官を説き伏せる自信があった。弁舌をふるうべく息をためた時、司天監の浦文英がよろめくように謁見の間へ入ってきた。
「ああ」
 と、高齢の占星官は乱れた白髪の間から、絶望を吐き出すような呻きを洩らした。
「“白虹、白日を貫く”、ついに天は、星ではなく、日輪にて示されました。睦州を守ること、かなわずと!」
 居並ぶ者たちが、ざわめいた。蒲文英が、この場にいなかったのは、白昼に天文──すなわち太陽を観ていたからだ。太陽とは、すなわち天子である。それを光が貫くとは、この上ない不吉である。
 婁敏中は、古書『戦国策』に記された“白虹貫日”の意味をもちろん知っている。
「その“白日”とは、宋の天子のことではないのか?」
 老占星術士は力なく、しかし、はっきりと首を振った。そして、玉簾の向こうの方臘に向かって、哀願した。
「猊下よ、どうぞ御聖断を。投降か、かなわねば、せめて遷都を。竜駕を深山にお移したまい、明教の火を保ち、再びご聖運の盛んになる日をお待ちください」
 燕青は心の中で老人の占星の才覚と、その“忠義心”に舌打ちした。
(まずいな)
 投降は無理だ。ならば遷都を──となれば、ことは厄介になる。これ以上の奥地に逃げ込まれては、方臘を捕らえることは難しくなり、梁山泊軍には非常に不利だ。
 燕青は、柴進に目配せした。なんとか、この流れを断ち切るすべはないものか。
(今度こそ、公主を使っては?)
 前回の援軍要請の時も、柴進は公主をそそのかして、登元覚を“弟の仇”と憎むように仕向けることもできた。しかし、この戦いに妻を利用することはしない──というのが、柴進の良心の一線なのだ。
 柴進は自分で流れを変えるべく、主戦論を胸に進み出た。その足元を、さっと切り裂かれた気がして、柴進は反射的に動きを止めた。
 刃ではない。
 忽然と一陣の突風が吹いたのだ。
 玉の簾が激しく揺れて、がちゃがちゃと不穏な音を立てた。そして、人々がはっと風の行方へ目をやった時、あっと老人の悲鳴が聞こえ、蒲文英の首が石畳に落ちた。

 甲高い声が叫んだ。
「妄言なり! 叡慮を煩わしたまうな!」
 百華が剣を抜き、身構えた。
 方聖宮に吹く風は、常にひんやりとして、澄み渡っている。しかし、その風は、それとも違う冷たさと、鋭さを兼ね備えていた。燕青は、首筋を薄い刃で切られたような心地がして、無意識に肩をすくめたほどだった。
 同じ感覚を、百華も感じたのだろう。方臘のいる玉簾を背後に庇い、切っ先を、部屋の中央に向けていた。その先には、旋風が渦巻いている。
「何者!」
 誰何に応えて、風がゆっくりと収まっていく。

 ちらちらと舞う枯れ葉の中から現れた“怪人”は、二人連れだった。
 ひとりは、頭からすっぽりと紗をかぶった背の高い男。もうひとりは道服で、体つきは小柄だが頑健で、容貌はきわめて醜い。醜いというより、顔面いっぱいに様々な由来のしれぬ傷跡があり、もとの顔が分からぬほどになっているのだ。その手には、今しも老人を斬り捨てた剣を提げていた。
 紗をかぶった男は、まだその裾を風に揺らして立っている。顔は見えないが、すらりとして、瀟洒な感じだ。
「貧道・鄭彪。異様なる嵐を感じ、畏れながら叡慮を待たず、ここに参上つかまつる」
 よく通る声だった。
 美しい──と言えないこともない。しかし、やや芝居がかって甲高く、聞く耳を緊張させる響きがあった。
「投降、蒙塵など、狂人の妄言。我々には、天が、万物の神々が味方しておりまする。どうして、方聖宮に危難の及ぶことがありましょうや。ましてや猊下の玉体に」
 燕青は、不愉快なものを感じた。
 柴進は、あまり好悪の感情を発しない婁敏中が、かすかな嫌悪感を示したのを感じ取った。
 士人である婁敏中は、明教が“邪教”と云われることを嫌っている。眼前の二人は、あきらかに法術師である。
 単純な方杰は、特に気にしていない様子だった。
「これは、殿前太尉の“鄭魔君”鄭彪殿。よくおいでださった」
 紗の男に向かって歓迎の意を現すと、醜い道士にも慇懃に礼をした。
「“霊応天師”包道乙師まで下山されたとは」
「貧道が、あえて師をお招きいたした。国難となれば、然るべきこと」
 紗の男──鄭彪が誇るように言った。包道乙という道士の顔は岩にも似て、どんな表情も現さない。鄭彪は御前を憚る様子もなく、玉座の前へと進み出た。
「一万五千の援軍を、睦州へお送りになるのでありましょう。その軍、みどもに任せられませい」
 何もかも知っている、という口ぶりだった。尊大で、芝居がかっている。しかし、油断ならない男だと、柴進も燕青も直感した。
 この二人には、ただならぬものがある。方臘軍の底知れなさとは、違ったものだ。もっと人間として異質のもの──生理的な嫌悪を感じた。
 婁敏中も、他の者たちも、怯えと軽蔑が入り交じった面持ちで、二人から身を避け、目をそむけている。
 ただ、玉座の方臘だけは、なにか期待するような気配を見せた。特に言葉や仕種があったわけではないが、従僕として長く“主人”の意を酌むことに全力を注いできた燕青は独特の嗅覚を持っているのだ。
(方臘は、もとは杭州の大富豪だという。“旦那様”は、みな似ているものだ)
 燕青はくすりと笑った。
 とたんに、鄭彪が頭を動かして、燕青の方へ振り向いた。燕青はどきりとしたが、すぐに鄭彪は頭を戻した。そして、天井の岩の割れ目に両手をのばした。
「ここは良い。ここは、“宇宙”と繋がっている。無限の力、無限のひかり──聖域だ、力が増す」
 そして、紗の陰から、今度ははっきりと柴進を見た。
「柯付馬殿?」
 表情はもちろん見えないが、鄭彪がうっすらと笑っているのが、燕青には分かった。
「御身は大切なお体──自重なされよ」
 玉簾が、またちりちりと強張った音を立てた。

「何者です、あの怪人たちは」
 軍議が終わると、柴進は婁敏中に尋ねた。
 結局、方臘は紗の男──鄭彪と、道士・包道乙に一万五千の兵を預けた。鄭彪が先鋒となり、包道乙が中軍、夏侯成が殿軍を率いて、即刻、方聖宮を後にした。
「猊下はあの二人を信任されているのですな」
「彼らは、古くからの信者なのだ。“明使”呂師嚢や“三大王”方貌殿下は彼らを“妖術士”と嫌い、軍事から遠ざけていた。近年は、ずっと深山で修行三昧していたはずだが……聞きつけてやって来たのだろう」
「猊下とは長い付き合いというわけか。それにしては、紗の男は若いようだったが」
「あれは、歳をとらないのだ。“修行の成果”と言っている」
 婁敏中によると、二人は明教中でも異端視されている存在だという。
 鄭彪は、“霊応天師”包道乙の弟子で、もとは蘭渓の都頭をしていた人間だ。生来、傲岸不軌。ささいな過失で人を殺して“鄭魔君”と呼ばれて恐れられた。
 一方の包道乙は、霊山・金華山で修行を積んだ道士である。しかし、外法に目覚め、よく神兵を降ろし、玄元混天剣という武器を飛ばして人を殺すことができると嘯いている。
 その包道乙がふと鄭彪と出会い、その優れた仙骨を見抜いて弟子とした。そして修行を始めるや、瞬く間に鄭彪は師をしのぐほどの“才能”を開花させたのである。
 柴進には意外な話だった。もちろん、梁山泊にも公孫勝という桁外れの道士がいたから、ある程度は知識もあるし、実際に目でも見ている。
「明教徒は、方術などは信じないと思っていた」
「そのとおり。私も信じてはいない。だが、不老不死、仙人、神人──『捜神記』の時代より、目をそむけても、“不思議”はある」
 婁敏中は、山を眺め、風を嗅いだ。書類の山に埋もれることに最も安堵を感じる彼には、それを認めることは、ひどく勇気が必要なことだった。
「“ここ”では、なにが起きても不思議ではない。烏竜山嶺を越えた、こちら側では──」

「山のこちらは、星がきれいね。まるで、手が届きそう」

 扈三娘は夜空に向かって両手をのばした。
「睦州に入ったら、空気が違うわ」
 梁山泊軍は山裾に野営していた。夜明け、凌州へ攻め寄せる予定である。
 烏竜嶺の砦については、攻め落とせぬまでも、牽制を続ける──と、呉用は戴宗に託して伝言してきた。
 山には人家もないので、陣営で焚く篝火のほかは光もない。少し陣から離れれば、闇に包まれ、夜空の真ん中に放り出されたようだった。
(まるで、深い水底のよう──静かで、穏やかで、安らぎに満ちている)
 扈三娘は、目を閉じた。
 夜空が、まぶたの奥に満ちている。体の内に、どこまでも広い宇宙がある──。
「ねぇ、宋江さま」
 扈三娘から少し離れた石の上には、宋江が腰掛けていた。
「梁山泊で、むかし、精衛の話をしてくれたでしょう。私が、梁山泊に来たばかりの時……」
 宋江は、頷いた。その姿は夜に溶け込んでいて、はっきりは見えない。宋江が本当に覚えているのかは、扈三娘には分からなかったが、それでもよかった。
「黄帝の姫が海で死んで、精衛という鳥になり、海を恨んで小石を投げ込み続けた話……聞いた時は、とても、寂しくて、悲しかった。だって、海なんて、小石では埋まらないでしょう。でも、ふしぎね。海を埋めることなんてできないと思っていたのに、いつの間にか、王英が埋めてくれたみたいだわ」
 毎日の暮らし、ささやかな喜び、思いやり。笑いや明るさ、ちいさな喧嘩と仲直り。そんな取るに足らない事の繰り返し。忘れてしまった無数の思い出、そんな目に見えないほどの星屑を一粒ひとつぶ集めていって、果てしないと思っていた海も、いつしかきらきらと輝くもので満ちていた。
「梁山泊に来て、よかった」
 扈三娘は、その言葉を、世界中へ伝えたかった。
 宋江に、王英に、燕順に、鄭天寿に、兄に、父に、母たちに──。
「私は、とても──幸せよ」

 その頃、王英は野営用の幕屋を張っていた。王英と扈三娘の二人用だ。隣には、燕順用の幕屋があって、燕順が横になっていた。
「親分」
 王英が、妙にしんみりとした顔で言った。離れた所の篝火が、ほんのりと赤い光を、二人の間に投げている。あたりの闇はどこまでも広く、その中にうずくまる白い幕屋は、荒野にぽつりと立つ小さな家のようだった。王英が子供の頃に暮らしていた、粗末な掘っ建て小屋を思い出す。寝ていると、となりで飼われている豚が頭を嗅ぎに来たものだ。
「なんだ」
 燕順は眠りかけていた。虫の声が、眠りを誘う。
 王英の呟きも、そんな虫たちの歌のひとつのようだ。
「鄭天寿が死んじまって、梁山泊もこんなことになってるのに、俺は、扈三娘がいてくれるだけで、嬉しいんだ」
 燕順は目を閉じたまま、夢とうつつの間を漂っていた。久しぶりに、心地よかった。深い眠りに落ちそうだった。

 山は大きく、闇は深く、星がきらきらと輝いている。
 なぜか、もういないはずの鄭天寿さえ、すぐそばにいるようだった──。


(まるで水底の墓みたい)
 扈三娘は星空を仰ぎ、自分が無限に広がっていくような感覚にひたっていた。
 自分の体が山に融け、天に融け、時も距離もなくなって、星がすぐそばで輝いている。それとも、地上からみれば、自分も小さな星に見えるだろうか。
「扈三娘!」
 王英の声に、扈三娘は我に返った。
 宋江と一緒に星を眺めていた扈三娘のところへ、王英が鼻唄まじりにやって来たのだ。
「幕屋が張れたぞ、もう寝よう」
「親分は?」
「ぐっすりさ、疲れたんだな」
 王英は、宋江におやすみの挨拶をした。
 連れ立って帰りかけると、急ぎ足で花栄が現れた。
「よくないな、宋江。睦州に動きがあった。斥候の報告では、援軍が入ったようだ」
「攻撃してくるだろうか」
「分からんが、来るなら、夜明けに来るだろう。偵察部隊を出しておいた方がいい」
 扈三娘が足を止めた。
「私たちが行くわ。他の隊は昼間の戦闘で疲れて、もう休んでいるから」
 花栄が喜んで同意した。
「適任だ」
 二人は偵察に慣れているし、配下の部隊も小回りがきく。王英は勇敢だし、扈三娘は聡明のうえ、腕もたつ。男には気づかぬことにも、気が利いた。
 しかし、宋江は何を考えたのか、首を振った。
「誰か、別のものをやりましょう」
「いいえ」
 扈三娘は、宋江が自分を気づかってくれているのだと思った。
「心配しないで。大丈夫、うまくやるわ」
 凛とした瞳が、輝く星のようだった。

 王英と扈三娘は配下の騎兵三千を連れ、すぐさま睦州への偵察に出た。
 真夜中過ぎだ。
 空には星が明るく輝いて、全体が白く見えるほどだった。山の影は黒々と頭上にのしかかっている。深い海の底を行くような心細さだが、こんな任務は数えきれないほどこなしている。
「王英」
「なんだい」
 王英は前を向いたまま、腕を伸ばして扈三娘の手を握った。扈三娘も握り返した。

 睦州が落ちれば、扈三娘は東京へ行くつもりだ。王英とは、しばらくの別れになる。

 沈黙があった。二人のあいだに、風が吹く。扈三娘は、王英の手を強く握った。

 その時、王英がぱっと手を離した。
「敵だ!」
 山裾を回り込む道の彼方から、軍勢が現れるのが見えた。夜の中に白々と打ち寄せる波は、方臘軍に違いなかった。
「むこうも気づいた!」
 白波が速度をあげたのが、気配で分かった。相手も、偵察の軽騎のようだ。こちらを視認し、逃げぬとあれば、抗戦する気だ。梁山泊軍の先遣隊と見て打撃を与える気か、本隊に知らせぬように殲滅する気か──。
 あるいは、背後にもう本隊が迫っているのか。
 王英は覚悟を決めた。
「戦うしかねぇ!」
 逃げては、後ろから襲われる。それは不利だ。幸い、敵兵は多くはないようだった。扈三娘は伝令兵を呼んだ。
「宋江殿に急報! 迎撃準備を。ここで出来るだけ食い止める!」
「頃合いをみて、退くぞ」
「ええ!」
 予想外に敵の動きは速かった。伝令が駆け去った時には、敵は目前に迫っていた。
 王英は槍を握り、扈三娘は双刀を抜き放つ。
 三千騎が狭い山道を塞ぎ、迫る敵を待ち受けた。ほぼ同数だ。
 槍を並べる。方臘軍は、突っ込んできた。たちまち馬が倒れ、人が飛び散る。その衝撃の隙間から、王英は飛び出した。小柄な王英は馬も小柄だ。小回りがきき、動きが速い。槍でたちまち二、三人を馬上から突き落とした。扈三娘も軽捷なことには劣らない。槍衾で散開した敵の間を擦りぬけざまに、あるいは背後から、敵を斬り伏せていく。
 案内に立っているのは夏侯成である。手強いとみて、得意の鋼の刺股を手に王英へ挑んだ。筋骨隆々たる“狩人”夏侯成と、“矮脚虎”王英の戦いである。
 王英は押されたが、馬上で踏ん張り、手槍で刺股を受け止めた。扈三娘は、恐れもなく攻め寄せてくる敵兵を食い止めるのに余裕がない。
 王英は粘った。夏侯成は力押しに押してくる。
 王英はなんとか攻める機会を狙った。
(負けるわけにはいかねえ)
 高嶺の花だった扈三娘へ、思い切り手を伸ばしたように、王英は全力を振り絞った。
(扈三娘ッ!)

 ついに王英の槍の柄がへし折れた。夏侯成が止めの一撃を刺す。その懐へ王英は鞍から飛んだ。手には刀を抜いている。夏侯成は咄嗟に手綱を引いたが、馬を切られた。
 効果的な一撃だった。夏侯成の馬は首を切られて棹立ちになり、夏侯成を振り落とした。夏侯成は、そのまま徒歩で逃げていく。
 方臘軍も、多くが討ち取られていた。
「王英!」
「へっちゃらだ!」
 王英は肩を激しく上下させ、その目は、まだ鋭く道の彼方を睨んでいる。
 生き残った方臘兵も、いつの間に逃げ散っていた。あたりには、もう生きた方臘兵はいなかった。
 扈三娘は、なぜか不穏なものを感じた。
(なんだか、通常の兵と違う気がする)
 どこがとは分からないが、なんとなく手応えに乏しい兵だった。確かに死んで倒れているが、脱け殻のように虚ろに感じる。数も、もっといたのではなかろうか。
「とにかく、戻りましょう」
 扈三娘は兵を集め、負傷者を収容させた。
 一方の王英は、この勝ち戦に興奮していた。自分がとても強くなった気がしていた。そのためか、場違いな笛の音を聞いた時も、特に不審とは思わなかった。
「なんだ?」
 暗い道の彼方から、長い紗の布を頭からかぶった人影が近づいてくる。
(女か)

 王英は、ぼんやりとその人影を見守っていた。
 たったひとりだ。
 それが異様であることに、なぜか王英は気づかなかった。
 顔が見分けられるほどの距離にきて、人影は笛をしまうと、両手をかかげ、かぶっていた白い紗を脱いだ。
 王英は、あっと、喜びの声をあげた。
「鄭天寿!」
 紗の下から現れた端正な顔は、美男子だった鄭天寿に瓜二つだった。
「生きてたのか!」
 王英は思わず駆け寄った。
「ああ、そうとも。心配かけたな」

 扈三娘の悲鳴が響いた。
「王英、だめッ!」
 鄭彪は唇をゆがめて笑い、呪文を唱えた。
 冠の頂から、ゆらりと一筋の黒気が立ちのぼる。その中に金甲の天神が降魔の宝杵を持って現れた。

「わあっ!」
 たじろぐ王英を見下ろして、巨人が笑った。同時に王英は鄭彪の鉄鎗を鳩尾に受けた。

 ぱっと喀血したその顔には、まだ、親友と再会した喜びが名残りとなって凍りついていた。
 王英は背中から鉄鎗の先を飛び出させたまま、馬上から転げ落ちた。
「王英!!」
 扈三娘は駆けた。
 扈三娘が鄭天寿を呼ぶ王英の声に振り向いた時、そこには、ひとりの怪人が立っていた。すらりとした姿、端正な顔は、確かに鄭天寿に似ているところがあった。それが鄭彪という男で、おなじ江南の鄭姓ならば、遠い祖先のどこかで血は繋がっていたかもしれない──が、扈三娘にも、鄭彪自身にも、そんなことは知るよしもない。
 明らかなのは、鄭彪が、それを利用した事だ。鄭天寿に生きていてほしい──という、王英の心につけこんだ。
「よくも!」
 扈三娘は猛虎のように鄭彪へ襲いかかった。
 鄭彪は、王英の体を貫く槍に手をかけた。引き抜こうとしたが、肋骨にでも引っかかっているのか、抜けない。そのまま柄を押し込んで、背中側から引きだした。
 王英の口が叫ぶように開き、音をたてて血が溢れた。
 その時、扈三娘たちが連れていた部隊は、黒雲の中から現れた金甲の神兵の大軍に包囲され、襲いかかられる幻影に恐慌し、散り散りになって逃げ出していた。
 しかし、扈三娘には、鄭天寿の幻も、金甲の神兵も見えていない。その目には、王英の死体しか映っていなかった。
 半分笑い、半分茫然としたまま、王英は血まみれで息絶えていた。
「殺してやる!」
 扈三娘の双刀が、左右から鄭彪に襲いかかった。鄭彪は受けるのが精一杯だった。扈三娘は狂ったように斬りつけた。誰も見たことのない、美しくも凶猛な扈三娘の姿だった。
 頭が燃える。全身が燃え上がっている。それは、あの真っ赤に輝く戦いの星と同じ血の色だ。
 扈三娘は修羅となった。女の形をした、なにかになった。牙を剥いて、鄭彪に食らいつく大蛇となった。支えきれず、ついに鄭彪は逃げ出した。
 扈三娘は追った。鄭彪は徒歩で走っているのに、幽鬼のように速かった。
 風が咽ぶ。
(王英)

 真っ赤に燃え上がる脳裏を、懐かしい情景が次々に飛びすぎていく。
 出会い、戦い、結ばれた夜。梁山泊の賑やかな婚礼、赤い蝋燭──。
 そして、あるはずだった未来。 
 子供が生まれ、すこやかに成長し、いつか二人で共に老いて──。
「殺してやる!」
 扈三娘は懐から鉤絹を掴みだした。
 鄭彪も、駆けながら懐へ手を入れた。恐怖で指が震えていた。そんなことは、今まで生きてきて、一度もなかった。
(おそろしい女!)
 振り返った時、鄭彪は手に一片の金磚を掴んでいた。
(女の姿をした魔物!)
 鄭彪は金磚を投げた。扈三娘も、鉤絹を投げた。

(王英ッ!!)

 突然、王英の顔がまぶたに浮かんだ。涙が溢れた。溢れて、なにも見えなくなった。

 額に金磚の直撃を受け、扈三娘はもんどりうって落馬した。
 扈三娘の額が割れ、その顔は血まみれだった。馬上から地面に叩きつけられ、両足の骨が折れていた。
 倒れたまま、扈三娘は呻きもせず、身じろぎもしなかった。
 それが、やがて、ゆっくりと動きだし、じりじりと這って、来た道を戻り始めた。
 鄭彪は立ったまま、その動きを凝視していた。鉤絹が鄭彪の頬を裂いていた。
 扈三娘は、かすれる声で呼んだ。
「王英……!」
 目が見えない。
 苦しい。
 息ができない。
 力が抜けて、とても寒い。
 扈三娘は、ゆっくりと、なんども止まりながら、這った。

「王英……どこにいるの」
 扈三娘は呼んだ。
 王英は、扈三娘が呼べば、いつも飛んでくるはずだった。
 その王英が、いなかった。
「私をひとりぼっちにしないで……王英」
 もう、呼びかける力もなく、扈三娘は、道につっ伏した。
 最後に、かすかに、指を伸ばした。
 その指先から、ほんの僅か離れたところに、王英が倒れていることも、扈三娘には、見えなかった。
 あと少しで指が触れる距離を残して、扈三娘は息絶えた。

 夜が、明けかけていた。
 朝もやが、白く山肌を洗って流れる。
 青い色の山々は、深い水底のようだった。
 明けゆく空の彼方から──夜明けを告げる、ほがらかな鳥の声がした。



※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。
※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。
※文中の「付馬」は、正しくは付馬です。




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