水滸伝絵巻-graphies-

第百二十六回
憤怒ノ河、慟哭ノ嶮・後篇



 富春江は紅一色に染め上げられた。
 その頃、陸にいた梁山泊軍は作戦通り烏竜嶺に攻撃をしかけていた。
 富春江の変事は、すでに戴宗によって宋江に伝えられていた。山頂の砦にいる方臘軍が兵を出しているとすれば、砦の防備は手薄になる。
 宋江と呉用は、砦への攻撃を敢行した。
 梁山泊軍は歩兵を前面に押し立て、急峻な山道へと突撃をしかけた。先頭はやはり李逵隊である。矢頃に入るや、驟雨のごとき迎え矢を浴びた。弦音が嵐のように響き、矢が空を覆うほどだった。
 梁山泊奇襲の報は、山塞の登元覚もとっくに知るところである。石宝は梁山泊軍の侵攻に備え、夜のうちに道を封鎖する障害を小砦に整備していた。李逵らは櫓から降り注ぐ矢を団牌で防ぎ、小砦まで迫ろうとしたが、さらに投石があり、落木があった。
 道筋は土地が狭く、五十人とまとまって動くことはできない。さらに落とされた岩や木が障害物となって道をふさぎ、李逵らは前進を阻まれた。大軍で攻めるには不利な地形で、守る方には、少数でも守りきれる要衝だった。
 中軍で指揮をとっていた花栄は、早々に宋江に決断を促した。
「撤退しよう。河の方も心配だ」
 呉用には、別の眼差しを投げた。
(後手に回ったな)
 いい流れが出来ていたのに、烏竜嶺が風向きを変えてしまった。
 凌振は隘路で火砲が運べないので、手持ちで撃てる小型砲を運びこんでいた。撃つか、と聞いたが、花栄は首を振った。一発や二発では、撃っても岩が少し崩れるだけだ。小砦を吹き飛ばすほどの威力はない。
「無駄弾になる。ここぞという時に、撃ってくれ」
 負傷者を撤退し、はやる李逵をなだめ、梁山泊軍は山を下った。
 帰陣した宋江を待っていたのは、河からの悲報であった。
 告げたのは、裴宣だった。鉄面にも、つらい役目だった。
 登飛に続き、孟康までが死んだ。
 梁山泊に入ってからは、あまり接点もなかったが、いつも心のどこかで気にしていた。人とは交わらぬ登飛、ひねくれ者の孟康。暖かく心を通わせた思い出はないが、裴宣にとって、二人はやはり親しい仲間だった。
(飲馬川が遠い)
 はるか北の飲馬川、自由な山賊だった年月。

(あまりに遠い……ああそうだ、私には、帰る場所がない)
 裴宣は天涯孤独で、故郷もない。そえゆえに私を滅し、公のために生きようとした。飲馬川は、裴宣が初めて、自分のために生きた場所だった。

 孟康も阮小二も死体はなく、葬儀は陣中でもあり簡単に行われた。
 阮小五と阮小七は落ち着いていた。かえって宋江を慰め、この仇はかならず方臘を討って報ずると誓った。葬儀のあと、呉用は二人を部屋に呼んだ。彼らは生辰綱以来の付き合いである。呉用には、二人の腹は読めていた。
「やがて南竹山にやった“鶏尾”が戻れば、母上の消息もあるでしょう。あなたたちには老母があるのだから、無茶なことを考えてはいけない」
 二人は黙っていたが、激しい怒りは隠しようもなかった。敵に対する怒りだけではなく、兄を死なせた自分たちに、消しようのない怒りを抱いているのだ。
(しかし、怒りはなにも解決しない)
 呉用は冷静に思う。“怒り”こそ、呉用に欠けている感情だった。彼は、怒りの対象をこそ、憐れみ、卑しむからである。
「とにかく、早まっては、阮小二も喜ばない」
 二人も、呉用に本心が隠せるとは思っていない。
「無駄死になど、しやしませんよ」
 阮小七が答え、阮小五は、最後まで黙ったままだった。
 二人が去り、呉用はひとり残った。もう夜で、従僕が蝋燭をひとつ灯していった。
 ぼんやりと明るくなった卓に、料理の皿が残っていた。
 今朝、阮小二が獲ってきてくれた魚を煮つけたものだ。美味だった。
 呉用は、胸に深い悲しみを感じた。
 怒りは、なにも解決しない。
(ああ、しかし、この悲しみを──ごまかす手段ではあるかもしれない)
 なにかを解決するために、人は怒るわけではないのだ。
 悲しみ、喜ぶと同じように、人の感情が、怒るのだ。

 解珍と解宝の兄弟が宋江を訪れたのは、翌朝のことだった。
「猟師に変装して山深くに入り込み、獣道を登って、烏竜嶺の砦に火をつける」
 解珍が、狩りの手筈を説明するように、淡々と告げた。
 宋江は、すぐには同意しなかった。
「しかし、登れそうな崖はないと」
「いや」
 解珍は、宋江の不安を和らげようとするかに、付け足した。
「山は広い。もっと深い山に入れば、方臘兵も見張っていない。隣の峰を越えて行き、なんとか登れる場所を探そうと思う。夜ならば、気づかれまい。火を見たら、攻め込んでくれ」
 昨日の今日で、それでも宋江は難色を示したし、呉用も慎重になった。
 しかし、解兄弟は、自分たちには自信があって言うことだと、重ねて言った。その気負いのない顔は、却って頼もしさを感じさせた。
「俺も弟も、山歩きには慣れている。登れる道は、必ずある」
「しかし、江南の山は様子が違うかも知れません」
「山は、山だ」
 呉用は、勇敢な者は偵察や奇襲には向かないと思っている。彼らは地味な仕事を嫌うので、とかく派手な戦いをしたがるからだ。だから、人選が難しい。
 その点、確かに、解兄弟は適任だった。
 沈着な兄と、勇敢な弟。寡黙だが息がぴたりと合い、さらに二人とも決めたことは必ずやりとげる粘り強さを持っている。
 やらせてみては──と、呉用は宋江に伺いをたてた。夜間、火災による敵の混乱に乗じれば、あの小砦を抜くことができるかもしれない。
 宋江は少し考えたあと、ひとつだけ条件を出した。
「決して無理をせず、敵に発見されそうになったら、すぐに戻って来てください」
 兄弟は請け負った。
 そして、午後のまだ早いうちに、炊きたての飯を腹いっぱい詰めこむと、愛用の刺股を手に、足どりも軽く陣を出ていった。見送る宋江に振り返った顔は、血色よく、つやつやと輝いていた。

 解兄弟は、小砦のある道とは別の方角まで回り込むつもりだった。よく晴れた空の下、二人の虎皮をまとった背中は、すぐに山裾の雑木林の中へと消えた。
 宋江は、なお暫く、そびえたつ無言の山を眺めていた。
「山は、おおむね山を愛するものに属する──」
 祈るように呟いた。
 景勝に主なく、山は、その山を愛する人のものなのだ──と詩人は歌った。
 ならば、山を愛する人もまた、山に属すか。
 顔のすぐそばを、蜂が元気な羽音をたてて飛びすぎていった。目で追うと、なにかの木に、黄色い花が零れるように咲いていた。梢ではつがいの小鳥が慌ただしげに鳴いている。卵のある巣を守ろうとするのだろう。
 山は人の戦をよそに、あまたの命を抱いて育む。
(どうぞ山よ、解兄弟をお守りください)
 聳え立つ巨大な山塊へ、宋江は祈った。

 雑木林の奥で、一群れの山民が解兄弟を待っていた。
 二人が山へ探索に出た際に、知り合った猟師たちである。子を背負った女も交えた、十数人ほどの家族だった。
 山東と江南は遠く隔たり、言葉も異なっていたが、狩人同士、理解しあえる部分が多かった。
 山刀を手にした頭領の男が、精悍な目に翳りを見せて、二人に聞いた。
「本当に“仙女崖”を登りなさるか」
 兄弟は強固な決意を示すように、無言で頷く。
「もう一度、言うが、“仙女崖”を登った人間はただひとり──しかも、言い伝えだ。伝説の猟師“烏竜”が、仙女崖に棲む女神に焦がれて、崖を登っていったという。登り切ったが、二度と帰ってこなかった」
「崖の上にあるのは、今は“仙女の館”ではなく、方臘軍の砦なのだな」
 解宝の問いに、今度は頭領が無言で頷いた。
 彼らは獣を追ってこの山を流浪しながら、何世代も暮らしてきた人々である。しかし、近年、方臘軍が近隣に入り込み、山の暮らしも不自由になった。ゆえに、山を変えるという。
 山の民は、山の神を信仰し、明教を信じないからだ。その上、明教徒たちは山を切り開き、砦を築き、神聖な森林を伐採した。
 頭領は、無骨な指で遠い尾根を指さした。
「あの尾根を越えていけ。越えると、太陽が沈む方角に仙女崖が見えるだろう」
「すぐに分かるか」
「あんな美しい絶壁はふたつとない。“仙女の裳裾”……一目で分かる」
 頭領も諦めたようだった。
「まあ、いいさ。俺たちは山から命をもらい、いつか、それを山に返すのだ」
 話が済んだと見ると、山民たちは荷物を背負い、立ち上がった。解珍が礼金を出したが、頭領は受け取らなかった。解宝が一包みの食糧と、子供たちにと甘い飴を女房に渡すと、女は頭領をちらと見てから、受け取って礼を言った。浅黒い肌のふくよかな女で、早くに死んだ解兄弟の母親や、その姉妹の顧大嫂を思い出させた。
「なにもかも、山の神様にお任せして、お行きなさいよ。この山の神様は、泣き虫でね、人が苦しむのはお嫌いだ。雨が降る時は、神様が泣いてるんだよ」
 山民の家族は手を振って、北の尾根へと去っていった。
 解兄弟も酒と香を手向けて山の神に挨拶すると、教えられた西の尾根を目指して藪の中へ獣のごとく分け入った。
 解珍が、ふと振り向いた。
 人の視線を感じたような気がしたのだが、獣たちが夕餉のために走り回る気配のほかは、とらえることができなかった。

 山中に道はなかった。藤蔓を伝って崖を登り、谷川を越えて進んだ。夏の長い午後に助けられ、尾根を越えた時もまだ空に日が残っていた。残照は、燃え上がる鋼の色である。かすかに霞がたった西の空に、金と紅、わずかに残った青の名残が、幾層にも重なり合って輝いている。

 二人は、尾根の木陰に立って、小手をかざした。頭領が言った通り、“仙女の裳裾”はすぐに分かった。
 それは、本当に仙女のつけた裳裾のようだった。
 周辺の崖は、どこも険しい黒ずんだ岩がごつごつと折り重なった断崖である。その中で、ただ仙女崖だけが、輝くように美しい一枚白でできていた。
 山と渓谷、松林などが複雑な地形を織りなす中、真っ白で滑らかな絶壁が、ゆるやかな弧を描いて天上から地上に向かって垂れているのだ。
 兄弟は、同じことを思った。
(予想以上だ)
(しかし、登れる)
 この距離を隔てても、これほど大きく見えるからには、二十丈はあるだろう。松の木ひとつ生えておらず、手がかり、足がかりがあるようには見えない。まさに、天地の間に佇む女神の巨大な裳裾だ。
 二人は岩陰に座り、足腰を休めるとともに、夕霞を眺めながら弁当を使った。砦からは絶壁全体が丸見えだ。日があるうちは、安易に近づくことはできない。
 絶壁は、ここから見れば美しいが、登るとなれば覚悟がいった。この崖について、宋江に詳しく話さなかったのは、兄弟を心配するゆえに、同意しないと思ったからだ。
 しかし、兄弟には気負いはなかったし、不安もなかった。なめらかに見えるとはいえ、岩は岩だ。わずかな手がかり、足掛かりをひとつひとつ見つけて、一歩ずつ登っていくだけだ。
 肉を喰っていると、虫がうるさくまとわりついた。広大な、なにもないように見える空には、目をこらせば無数の鳥が飛びかっている。足元に、小さな花が咲いていた。
 山は、生きている。自分たちも、その懐に抱かれた、ちっぽけな命のかけらだと、兄弟は感じるのだ。
 すべて、山にまかせればいい。
 山民の女房の言った通りだ。
 夕空には、雨の気配もない。
 まつわる虫を追いもせず、肉を貪り喰っていた解珍が、耳をそばだてるように動きを止めた。どうしたと、解宝が目で問いかける。解珍は獲物を探る目で、自分たちが登ってきた斜面を睨んだ。
 また、なにかの気配を感じたのだ。しかし、それはもう消えていた。
(肉の匂いをかぎつけた獣だろうか?)
 解珍の野生の勘は、それが、さほど凶暴な生き物ではないことを直感していた。虎や熊のような堂々たる生き物ではなく、びくびくと腐肉をあさる小動物が逃げていったような気配だった。
 やがて、黄昏。物の形がどうにか見分けられるほどの残照である。
 風は少し冷えてきたようだ。
 これからは、獣の時間だ。野生の獣は、多くが夜行性である。山の遠く、近くから、あらゆる遠吠えの声が聞こえてきた。
 兄弟は不要な荷物を藪に捨てると、地面から泥をすくって自分の頬に塗り付けた。両頬に三筋ずつ、指を使って筋をつける。額には、互いに“王”の字を書いた。

 そして、一番星の輝く空へ、のびのびと一声、虎の咆哮を放った。
 それは、山の生き物たちへの“挨拶”である。
 彼らは二匹の虎になったのである。
 虎の毛皮を目深にかぶり、刺股だけの身軽になって、兄弟は尾根から仙女崖に向かった。前人未到の深山である。藪と灌木に覆われた急な斜面が続く。僅かな隙間もないような密林を、解珍が先にたち、獣の糞や、抜け毛、足跡を辿っていった。
 人には見えぬ獣の道が、解珍には見えるのである。
 見知らぬ山に入った時は、たとえ人が踏み固めたような古道があっても、解珍は獣道を行く。人が通らなくなった道は、落石や崖崩れで通れなくなっていることがある。それに比べて、獣の道は生きた道だ。新しい糞があれば、その道は生きている。
 解珍の智慧は、確実に生き延びるための動物の智慧だ。楽をするための、人間の智慧ではない。
 解宝は、その“智慧”については、兄に負けると知っている。薄暮の中に兄の背を見失わぬよう、ぴったりと後をついていった。四つん這いになって藪をくぐり、倒木を乗り越えていく。
 山に入ると、兄弟はもう人間の言葉は交わさない。人間の言葉を手放し、山の精霊の声か、獣の言葉か、主の知れない声を聞くのだ。
『お前、子供の頃、狼に喰われかけたことがあったな』
『あった。真夜中、小便に起きて外にでたら、鶏を狙った狼とはち合わせして、前足で押し倒された』
『それで、どうした?』
『兄貴が飛んできて、棒で追い払ってくれた』
『こわかっただろう』
『こわかった』
『あの夜、狼に喰い殺されていたら、お前は狼を恨んだか?』
『どうだろう』
 解宝は兄に続いて猟師になる時、両腿に飛天夜叉の入れ墨を彫った。獣でなく夜叉を護符にしたのは、獣より強くなるためだった。
 今は、それが思い上がりだったと知った。
 獣と人間は、同じものだ。どこまでも対等なのだ。
『おそらく、恨むことはないだろう』
 猿の声に、解宝ははっと我に返った。
 前方の灌木の間で、兄が振り向き、遅れた解宝を待っていた。
 解宝は、自分自身と“話して”いたのだ。
 かすかに残っていた恐れが、闇に溶けるように消えていた。

 絶壁の下についた時には、もう夜も更けていた。
 見上げると、砦の光がほのかに見えた。二人は、できるだけ登りやすそうな場所を探して、しばらく崖下を歩き回った。
 時々、闇の狭間に動物の目がきらりと光る。
 兄弟の目も、けむるような星明りを集め、同じように青白く輝いているはずだった。
 崖に亀裂でもあれば登りやすくなるのだが、“天衣無縫”──天人の衣には縫い目がないというように、崖はきれいな一枚岩だった。
 それでも、まるで凹凸がないわけではない。いくらか岩檜葉の茂みもあるようだ。兄弟はできるだけ荒い壁面を探し、慎重に岩場を登り始めた。
 その際に、杖にしてきた刺股のやり場に悩んだ。
 邪魔ではあるが、上で敵に見つかれば武器になるし、ここに置き去りにして、万が一、誰かに見つかるようなことがあっても困る。
 解宝は山に入る時に感じた“視線”が気になったし、解珍は、崖下にちらばる塵芥に気づいていた。砦から投げ捨てられたものらしい。
 結局、しっかりと背に縛って持参することにした。 

 仙女崖は烏竜嶺の北側にある。
 夜鴉が寝ぼけた声で鳴く。それきり、あたりはしんとした。
 空には、北斗が大きく輝いていた。
 絶界である。人工の光はなにひとつない。しかし、解兄弟には、次の足場、頭上の小さな岩松が見えていた。長く暗闇の中で行動するうち、次第に目が慣れ、星明りに浮かび上がる微かな陰影を捉えているのだ。指先、爪先の感覚も、登るほどに鋭敏になる。指先、足先に目がついているかのようだった。

 ほぼ垂直な絶壁を、二人はじりじりと這い登る。その手足は、無骨な風貌とは異質の柔軟さを備えていた。どこまでも腕を伸ばして頭上はるかの突起を掴み、足を高く振り上げた反動で、さらに上へよじ登る。蛇のように音もなく、猫のように、しなやかだった。
 それでも、気が遠くなるような時間を要した。
 夜明け前、細い糸のような月が出た。
(早くしないと、夜が明ける)
 無心で登ってきた解宝に、はじめて人の理性が蘇った。
 すでに崖の三分の二を越えている。
 先に登っていた解珍は、岩壁に貼りついたまま、上の様子を窺った。篝火なのか、ほんの微かに空が明るい。
 耳を澄ますと、なんの音もしなかった。星がきらめく音さえ聞こえそうな静寂だ。
 また解宝は登り始めた。さらに慎重に進む。
 登るに従い、岩壁は起伏が増え、岩檜葉の茂みも大きくなって、距離がはかどる。
 雲もないのに、星空から雨がぱらぱらと降った。
 砦まで、もう少し。張りつめた神経も、手足も疲労は限界だった。
 解宝は手の甲を濡らした雨で喉を潤し、その腕を、掴みやすそうな岩へぐっと伸ばした。その反動で背負っていた刺股が、傍らの岩檜葉の茂みを薙いだ。
「おい、なにか音がしなかったか」
 頭上で巡邏の兵の声がした。
 解珍は体をできるだけ平らにして、岩場にはぴったりと貼りついた。
 その横を、なかに素早いものが駆け上っていく。
「なんだ、猿だ」
 薄い闇の中に、ちらりと猿の尻尾が見えた。何匹もいる。巧みに崖を駆け上り、砦へと飛ぶ。兵士たちが猿を追い払う声が聞こえてくる。
「夜明け前に登ってくるのは珍しいな」
「昼間はすぐに見つかるから、猿も考えたんだろう」
 山に住む猿の群が、果物を狙ってくるのだ。もともとこの砦のあたりは苔桃、胡桃、松の実など果樹が豊富で、猿たちの絶好の餌場だったのだ。方臘軍に餌場を奪われた後も、猿たちは果実や軍糧の瓜など狙ってやって来る。
「我等が猿などは殺さぬとみて、最近、なめているようだ。平気で厨房を覗きにくるし、近づいても尻など見せてくる」
「一度、こらしめてやらねばならん」
 兵士たちは棒をとり、逃げ回る猿を追いはじめた。
 下にいる解宝には、様子が分からない。兄が止まったのを感じ、彼もサソリのように身を薄くして、岩場にじっとへばりついた。
 自分の息づかいのほかは、あまりに静かで、つい我を忘れそうになる。朝になったら、自分が本当に一匹の小さなサソリになっているのではないかと思った。
 解珍は、兵士たちが去るのを待った。
 岩を掴んでいる指先は限界だったが、歯を食いしばり耐えた。猿を崖へ追い返そうとするのだろう、松明が振り回され、火の粉が解珍のところまで降ってくる。
 その光を、刺股の刃がキラリと反射した。見られたか、思った次の瞬間、長柄の鉤が降ってきて、かぶっていた虎の毛皮ごと、解珍の髷をひっかけた。
「虎だ!」

 山は騒然となった。
 髷で宙づりになった解珍は、腰の山刀を抜くと慌てず鉤の柄を横に払った。切ると同時に刀を捨てて、手近な岩の窪みへ両手を伸ばした。
「降れ、弟!」
 解宝に叫び、解珍は岩へ指をかけた。掴んだはずの指先が、苔で滑った。

 弾かれるように解珍の体は夜の中へ投げ出され、次には断崖に叩きつけられた。
「兄者!」

 解珍は、なお岩を掴み、岩檜葉に縋ろうとしながら、瞬く間に奈落の闇へと落ちていく。伸ばした解宝の腕は、届かなかった。
 砦から声が響いた。
「虎ではない! 敵の夜襲だ!」
 解宝は、引き返さなかった。はじめて兄の言葉に逆らった。解宝はなお登ろうと足場を探った。兄が登った絶壁へ、解宝は進む。頭上から石が降ってくる。大きな石も、小さな石もあった。岩を打ち、解宝の体を打った。血を流し、解宝は進んだ。石とともに、矢が飛んだ。

 砦の兵たちには、この闇の中に大軍が潜んでいるように思われたのだ。ありったけの矢を降らした。
 登り続ける解宝の肩に、足に、背に矢が突き刺さる。腿の飛天夜叉も血に染まった。解宝は登る。
(山よ!)
 矢があたるごと、解宝は叫んでいた。
(山よ!)
 その魂の絶叫は咆哮となり、山をゆるがす。矢は降り続く。夜鴉が鳴き、梟が鳴き、猪が、狼が吼えた。それも弦音に消えた。
 解宝は、窪みに生えた岩檜葉の間で動かなくなった。その藪めがけて、矢がさらに射込まれる。岩檜葉は矢を防がず、解宝の体は矢にまみれた。

 解宝の動きが止まった。矢も止んだ。
 方臘兵たちは闇の底を覗き込んだが、どんな動きも見つけることはできなかった。
 再び、山は静まりかえった。無言の星が空を巡る。
 その夜の静寂のなかに、咆哮が起こり、長く長く尾を引いた。
 それは、解珍の“葛氏禁気嘯”だった。
 中空の闇より、応えて、“天哭星”解宝の咆哮が響く。
“哭”とは、獣が咆哮すること。大きく口を開け広げ、どこまでも届く声を放つことである。
 二人は、まだ生きていた。
 ふたつの咆哮は、闇の奥底から浮き上がり、交わり、離れ、絡み合い、繰り返し星空へと吸い込まれていった。
 猿たちが、二人の声に唱和して啼く。どこかの峰で、孤狼が吼えた。虎が、野猪が、鹿が、熊が、鳥たちが、百獣が眠りを醒まし、その異様な遠吠えの合唱が、山を、空を揺るがした。
 やがて、解珍の声が先に途絶えた。
 ほどなく、解宝の声も消えた。
 輝く星は夜空を巡り、山に静かに夜露が降る。
 解珍は崖下の藪の奥で、解宝は断崖の岩檜葉の中で、どちらも赤子のように丸くなったまま死んだ。
 烏竜嶺の上に、細い細い月が出ていた。


 異様な山鳴りだった。
 山がわななき、獣たちが鳴き叫んでいた。
 しかし、その夜、ついに烏竜嶺に火の手は上がらず、朝になっても、解兄弟は梁山泊陣に戻ってこなかった。
 宋江は昼まで待って、項充と李袞を山中へ偵察に送り出した。
 そして、夕方近く、昨夜から一睡もせずに待っていた宋江のもとへ、項充らが駆け戻ってきた。
「二人の死体が、木に」
 項充は、告げた。
 解兄弟の消息を探して山に入り、手がかりもないまま、日暮れまで歩き回った。ついに諦めて戻る途中、李袞の懐の小猿が異様な反応を示したのだという。
「あの辺りだ」
 項充は、登山道を封じる小砦から、河の方へやや下ったあたりを指さした。そこに一本の松の大木があり、その全体がザワザワと怪しくうごめいていた。近づいてみると、枝がたわむほどの猿が群をなしていた。
「猿だけではない。栗鼠や果子狸のような小動物、鳥や、鹿や猪など。その枝に、死体がふたつ」
 無残な姿で吊り下げられていた──と項充はいった。呉用が確かめた。
「確かに解兄弟なのですか」
「伏兵があると思って、近くまでは行っていない。虎皮を身につけているのは、確かだ」
 花栄が、宋江を慰めて言った。
「では、虎の死骸かもしれん」
「いいえ」
 宋江は、立った。その顔は悲痛だったが、声には強い意志が込められていた。
「二人を迎えに行きましょう」
「伏兵があるぞ。お前を狙った、姑息な罠だ」
「二人の死を無駄にしたくない」
「それはそうだ」
 それは、梁山泊軍すべての願いだ。花栄は呉用の方を見た。自分の“判断”が正しいかどうか、花栄には自信がもてなかったのだ。呉用は、賛成も反対もしなかった。
 議論をまとめたのは、関勝だった。
「わしも行こう」
 それは、梁山泊軍全員の意志の代弁であった。

 もう夕方で、あたりは暗くなりかけていた。
 宋江は自ら三千の兵と、関勝、花栄、呂方と郭盛をつれて山道を進んでいった。
 小砦が見えるあたりで、項充が指さす方へ目をやると、なるほど松の大木がある。一同は急な斜面を降りていった。場所が狭くて、一度には兵が降りられない。宋江は馬をおり、花栄と呂方、郭盛、百人ほどの兵だけを連れて、険しい崖を降りていった。
 花栄が近づくと、松の枝にいた猿が牙を剥いて威嚇した。花栄が箙に手を伸ばすと、宋江が止めた。
「なぜ止める? 死肉を狙って集まっているんだろう」
 しかし、そうではなかった。宋江が歩いて近づいていくと、動物たちは、一匹また一匹と安心したように去っていった。
「守っていたのか!」

 花栄には、信じられない話だった。
 枝には、吊り下げられた二つの死骸だけが残った。傷だらけの、ぼろぼろの死体だった。全身が、掻きむしられたように引き裂かれ、辛うじて虎皮の残骸をまとっていた。
 ただ、不思議なことに顔だけは、二人ともきれいなままだった。
 宋江は、すぐに二人を木から下ろすように頼んだ。呂方と郭盛が近づいていくと、松の幹が大きく削れ取られているのに気がついた。なにか文字が書いてある。
「火を」
 郭盛が松明をかかげ、呂方が文字を読み上げた。
  宋江早晩也
  号令在此処
“宋江も遠からずここに晒されるものなり”
 聞く端から、花栄は冷笑した。
「“馬陵道”の二番煎じか、方臘軍にしては芝居っ気がある!」
“馬陵道”は古代の名兵法家、孫賓の故事である。自分を陥れた同じく兵法家の旧友を馬陵道の死地に誘い込み、夜間、同じように木の文字を書いて、読もうと灯した炎をめがけて一斉に矢を射かけさせたという。
「この場合、死ぬのは“不義理な奴”の方だ」
 その花栄の言葉が聞こえたかのように、音をたてて矢が飛んできた。弦音から花栄には矢が飛んでくる方角が分かる。宋江めがけて飛来した矢を、花栄は弓で叩き落とした。
 それが、文字通り夜戦の嚆矢となった。

 この“作戦”の首謀者は、登元覚だ。禅杖を手に王勣、晁中を引き連れて、喚声をあげ斜面を駆け下りてくる。
 花栄は来た道へ目を走らせた。そこにも松明に照らされた白旗が見えた。石宝が小砦から打ち出してきたのである。
 待ち受けるのは、“大刀”関勝。項充、李袞は変事を知らせに陣へ走る。
 関勝は二千余の兵を率いて、石宝軍を迎え撃った。関勝と知っても、石宝は逃げなかった。両軍が山道にぶつかった。

 花栄は宋江をかばいながら、足場の悪い山肌を河の方へと逃げていった。王勣、晁中が追う。と、ふいに花栄が振り返り弓を構えた。

「“一矢むくいる”とはこのことだ」
 連射して立て続けに二人を射殺した。
 あっという間に二人を倒した神業に、敵が怯んで後退する。その隙に、花栄らは河に向かってなお降った。そのまま川沿いに帰陣する考えだった。
 すると、横手の崖から白欽、景徳が伏兵とともに飛び出した。あらかじめ潜んでいたのだ。ただ場所が狭く、兵は少ない。殿にいた呂方がさっと画戟を横たえ、白欽の進路を阻んだ。
「下郎! 宋江殿には指一本、触れさせぬ!」
 一喝した呂方の画戟を、白欽の画戟が十字に受ける。
「下郎とは聞き捨てならぬ。我こそは、方臘軍中にその人あり、“賽温侯”白欽なり!」

「笑止!」
“小温侯”呂方は白欽に打ち掛かった。郭盛は景徳を相手取る。彼らの配下百人も、それぞれ白欽の部隊を食い止めるべく攻めかかった。
 花栄は宋江を抱えるように、富春江へと駆け下る。
 間もなく、やや開けた河原に下りた。
 そこに待ち受けていたのは、成貴ら“浙江四竜”の水軍だった。漁火も焚かずに網を張っていたのである。
「宋江だ! つかまえろ!」
 方臘軍の水兵が上陸するや、その背後から、知らせを受けた李逵が項充と李袞、一千の歩兵を連れて突撃してきた。
「宋江兄貴になにしやがる!」
 李逵は方臘兵の中に飛び込むと、両腕の板斧を風車のように振り回した。手当たり次第に斬りかかり、敵と味方の見境もない。魯智深、武松が追ってきたが、李逵が危険で宋江に近づけない。
 やがて、登元覚も追いついて来た。李逵が暴れるのを見物していた魯智深が、禅杖を杖にして、座っていた岩から腰を上げた。傍らには、すでに戒刀を抜いた武松が立っている。
 魯智深は登元覚の天敵である。

「待っておったぞ! そこ動くな!」
 渾鉄の禅杖が四方を薙いだ。

 方臘軍は宋江を討ち取り、その余勢をかって梁山泊軍の野営地を蹂躙するつもりだった。石宝は関勝と戦うと見せ、ふと脇にそれ、斜面を巧みにすべり下りた。後に続く兵も少なくなかった。そのまま、梁山泊陣へと向かう。
 そこまで見越して、陣営の前には秦明、李応、朱仝が騎兵を連ねて待ち構えていた。さらに、燕順、王英と扈三娘、馬麟、樊瑞も荷車を並べるなどして、陣の備えを固めている。
 燕順は扈三娘の腕を引いた。
「俺の後ろにいろ!」
「心配しないで、親分」
「“親分”の言うことをきけ!」
 石宝隊の姿を認め、秦明が陣頭に出た。彼は捕獲した方臘軍の馬の中から、馬高は低いが、足の強い馬を選んで乗馬にしていた。毛色から“烏鴉”と呼んでいる。勇敢で、戦いにも慣れていた。力強く四肢を踏ん張る“烏鴉”の上で、秦明は狼牙棒を身構えた。石宝が突っ込んでくれば、その頭上に振り下ろす。無駄な動きは一切しない、石宝を討ち取ることだけを考えた。
 河には、梁山泊軍の船が篝火を星のように掲げて漕ぎだしていた。一番手は阮小五、二番手は阮小七。
 ずっと出番のない凌振が、火砲を牽いて裴宣のもとへやって来た。
「これは、響くぞ。ドカンと!」
 凌振と火砲には、“出陣”の命令は下っていない。火薬の残量が少ないため、呉用はいざという時まで温存しているのである。凌振は小砲を改良し、とりあえず音だけは響くように工夫した。
「いいだろう? ドカンと!」
 星空を背にした烏竜嶺を望み、“鉄面”が冷徹に“どうぞ”と応じた。
 梁山泊の全軍が、山河を揺るがすように動いていた。突き動かすのは、勝敗ではない。怒りである。悲しみのあとに訪れる、純粋で強靱な猛り狂う怒りである。その感情が、山が鳴り、河が吼えるような吶喊を生む。
 彼らの気迫を、敏感な石宝も額に感じた。梁山泊陣営の守りが堅いことも分かった。
(我らが宋江を狙うとみせて、陣を襲う──梁山泊の軍師・呉用は、そこまで読んでいたのだ)
 そこに、凌振が脅しの空砲を撃った。轟音が山にこだまし、一発が、十発にも二十発にも響きわたった。
 石宝は諦めた。反転し、道なき山中へ消えていく。
 登元覚は魯智深をおそれて戦わずに逃げ、白欽も呂方と引き分け、成貴らの船も、今夜の作戦は破れたり──と悟って撤退を始めた。梁山泊軍の追撃に少なくない方臘兵が討ち取られ、どうにか逃げた残兵は、獣のように山の闇へ紛れていった。

 血腥い、湿った風が吹いていた。
 最後まで松の梢に残っていた鳥たちも、ねぐらへと羽ばたいて去っていく。
 宋江を守り、解兄弟の遺体を収容して、梁山泊軍もそれぞれ、河のほとりの陣営に戻っていった。
 静寂が戻った山に、小糠雨が降りだした。
 山が、しっとりと青みがかった息を吐く。
 冷たい雨は、宋江たちの上にも、烏竜嶺の上にも等しく降った。


「山の神が泣いている」
 砦の方臘兵たちも、雨をさけて軒下に駆け込んだ。
「今夜は大泣きだ……」
 小砦にも、山頂の本砦にも、怪我人の呻き声が満ちていた。
 やがて雨は本降りになり、夜がふけると土砂降りになった。屋根を叩く雨音が、ひどくうるさい──と、石宝と思った。
 苦労して、崖下から死骸を収容した甲斐もなかった。死骸を囮に、木に文字などを書きつけたのは登元覚の発案だ。
 その登元覚は渋い顔をして、雨音も聞こえていないようだった。
「連中は、以後もどのような卑劣な手段を使ってくるか知れぬ。守っているだけでは展望はない。死力を尽くして攻めかかり、即刻、異教徒どもを粉砕せねば」
 登元覚は、梁山泊軍が裏道から烏竜嶺を越えることを心配していた。越えれば、すぐに睦州、幇源洞はほど近い。
 石宝は冷静だった。
「ならば、方聖宮に援軍を請うべきでしょう。守るのでなく、攻めるならば兵力がいる」
「援軍など……方聖宮も兵力は不足しているはず」
 登元覚は嫌がるような素振りを見せた。石宝はなお勧める。
「国師おんみずから行かれれば、方聖公もお許しになる。敵の勢力を挫くには、それよりほかには」
 石宝の真意は、登元覚の妄動を防ぐことである。砦の兵をこれ以上失うのは得策ではない。
 方天定が死んでから、この“国師”の情緒が不安定なことに、石宝は気がついていた。まるで、何かに追い詰められているかのようだ。
 次の朝、石宝は、わずかな部下と山を下りていく登元覚を見送った。
「どうぞ、お気をつけて」
 雨は、朝にはあがっていた。
 雲間から薄日がさしたが、攻める側も、守る側も、希望のもてない朝だった。

 解兄弟を山麓に葬り、裴宣は手帳に新たに四つの名を記した。
 朝廷に提出する報告書では、それは四人の“戦死者”の名前にすぎない。しかし、裴宣の手帳の中では、彼らはみな、誰かの家族であり、かけがえのない友なのだ。
 富春江の岸辺で、阮小五は水面に酒を注いだ。
「やはり、兄貴の方が“短命”だったか」
 同じ瓶から自分も飲み、阮小七にも回す。
「どんな親父だったんだ」
 今度こそ、阮小七は聞いた。

 父親のことを知っているのは、もう老母のほかには阮小五しかいないのだ。
「二の兄貴と、そっくりだった。くそ真面目で、黙りこくって、めったに怒りゃしなかったが、それでも、俺は怖かった。おやじが死んだら、二の兄貴が、おやじそっくりになりやがった」
「そうか」
 阮小七は、満足したように河を眺めた。
 ただ流れていく水が、なぜこんなに人を慰めるのか。
 まだよちよち歩きの頃、誰かに背負われて小さな船に乗ってはしゃいでいる──誰にも言ったことのない、阮小七の一番ふるい思い出だ。
 そんな記憶の断片もふくめ、すべてが、さらさらと流れていくようだ。
 川下の方から、賑やかに呼ぶ声がした。前の駐屯地にいた山民の子供たちだった。自分たちだけで大変な冒険をしたかのように、誇らしげな頬が赤かった。
「おいちゃんは?」
「おいらたち、文句を言いにきたんだ。こんな籠、ちっとも魚がとれないぞ」
 阮小七は、子供たちが抱えている下手くそな籠を取り上げ、きれいに作り直してやった。阮小五が手元を覗き込む。
「よく覚えているもんだ」
「二の兄貴にならった……ガキの頃。五の兄貴よ、少し葦を切ってくれ。ほら、お前たちも一緒に作れ」
 阮小五は葦を切りに行き、なにげなく弟の方を振り向いた。
 水辺に胡座を組み、子供に囲まれて籠を編む阮小七の背中が、阮小二にそっくりだった。

 山はそびえ、河は流れる。
 ただ聳え立ち、ただ流れ去る。怒りもせず、慟哭に応えることもない。
 裴宣は手帳を閉じ、不動の山河を不思議な思いで眺めた。
 憤怒の河の彼方に、なにがあるのか。慟哭の峰の頂きから、人は、なにを見ればいいのか──。
 その行く当てのない思いの糸を、轅門の騒ぎが断ち切った。
 見に行くと、轅門に男たちが集まって、道の彼方を指さしていた。
「誰か来るぞ。援軍か?」
 宋国軍であるのは間違いない。軍装は華麗で、馬も一目で上等と分かる逸物揃いだ。五百人ほどの部隊で、川沿いを堂々とやってくる。
 やがて、裴宣は不吉な予感に目を細めた。
 大仰な錦の旗に、よく知っている『童』の文字を見たのである。
 それは、あの梁山泊決戦の時にも見た、枢密使──童貫の旗印だった。

 派手な甲冑の、三十がらみの肥えた男が、童貫の馬を牽いていた。童貫の腹心の趙譚という者で、身分のある将ながら卑屈な笑みを絶やさず、幇間に撤している。
「いや、ほんとうに苦労で。しかし、何事も閣下のおため。この趙譚、命を投げ出し、がんばりました」
 趙譚は、童貫に先行して梁山泊軍の様子を窺っていたのである。本来の役割は、梁山泊軍に童貫の間もなくの到着を知らせる露払いにすぎなかったが、彼は、見かけよりずっと抜け目なく、“有能”だった。
「童枢密がおいでになる前に、手柄を独り占めされてはいけませんからなぁ」
 今も得々と“自慢話”に余念がない。
 軍人ではあるが、あいにく切った張ったの才能は乏しい。そのかわり、政界での駆け引きや、阿諛追従には自信があった。
 梁山泊軍の動静を窺っていて方臘軍に捕まり、童威たちが水中から密かに水砦に向かったことを注進したのも、この男である。解兄弟が深山に分け入ったのを尾行したのは、趙譚の子飼いの部下だった。
 部下は険しい山道の途中で落伍したが、どのみち奇襲には失敗したようなので、それも趙譚は自分の功として童貫に大いに吹聴した。
「あの砦を落とすのは、なんといっても、童閣下のお手柄にしないことには。拙者も命懸けでしたわい」
「よく無事だったものだ」
 童貫は、誉めるでもなく、窘めるでもなく、涼しい顔で馬に揺られている。
 一行の後ろには、荷車がぞろぞろと続いている。積み荷は、連勝を誇る梁山泊へ朝廷から下された賞賜の品々である。童貫は勅使であり、監軍であるというわけだ。
 童貫は、灰色の烏竜嶺の峰を仰いだ。
 梁山泊軍は想像以上に“使えた”ようだ。ここまでくれば、あとは、あの“烏竜嶺”だけ。険しそうだが、ぞんぶんに梁山泊軍を働かせれば、落とせないこともないだろう。
 落とせば、もちろん童貫の手柄として奏上できる。盧俊義隊にも腹心をひとり送ってあるから、勝手なことにはならないだろう。
 梁山泊陣の轅門に着くと、趙譚は童貫の馬の口を取ったまま、いかにも得意気な声を張り上げた。
「先鋒使宋江! 童枢密閣下に戦況を報告せよ!」


※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。
※文中の「登飛」は、正しくは登飛です。
※文中の「孫賓」は、正しくは孫賓です。
※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。




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