水滸伝絵巻-graphies-

第百二十六回
憤怒ノ河、慟哭ノ嶮・前篇



 蒼穹、白雲、その狭間に、二つの峰が並び立つ。
 古松の根が這う岩の間を、一羽の鶴が遊弋し、翼を広げて紫虚観の庭に着地した。
 夏は、ここ薊州二仙山の霊峰にも例外なく訪れている。昼下がり、日差しが屋根瓦を焼いていた。
 鳥の羽音に、建物からひとりの童子が現れた。この仙境にふさわしい、清雅な様子の童である。童子は鶴の首に結ばれた筒をほどくと、思案顔であたりを見回した。山間の宮には人影もなく、蝉の声すら聞かれない。
「さて、どなたに渡せばよかろう?」
 その額に、一陣の冷風が吹きつけた。
「知らせか」

 風が問うた。かと思うと、童子の眼前に、忽然とひとりの男が立っていた。三眼の異形人である。しかし、童子は怯えもせず、仙鶴が運んだ手紙を差し出した。
「では、馬霊殿にお預けしましょう」
“神駒子”馬霊。またの名を“小華光”。かつて山西地方を席巻した“晋王”田虎配下の魔人である。乱果てた後、二仙山の弟子となった。もとより純真であった魔人の心は、深山幽谷の青雲に洗われて、もはや一片の邪念もない。
 馬霊は手紙を手にすると、また駆けていく。
 心の澱を拭うにしたがい、その駿足もさらなる軽捷を極めている。雲を踏むごとく、険峻な岩場を駆け上っていく様は、もはや日に何千里という世俗の尺度では計り得ない神速であった。
 崖を登り、沢を越え、馬霊が辿り着いたのは、断崖に斜めに懸かる松の巨木で、そのごつごつと根が這う木陰に、馬霊が長年、兄とも慕う、かつての悪名高き“幻魔君”喬道清が瞑想していた。

 公孫勝により魔心を削がれ、莫逆の孫安を失い、喬道清は俗界を立ち退いた。今は“一洌道人”の法名を得て、高徳の道士ひしめく二仙山でも出色の一人に変容していた。
 松の根本に、傍らの断崖を滑り落ちる滝の風が舞っている。
 その水音にかき消されることを知っているので、二人は声では会話しない。お互いの目を見れば、意は自ずと通じるのである。
 喬道清は、馬霊が瞑想を乱しに来るのは、よほどの重大事であると知っている。手にした書簡は、彼らが待ち望んでいた、“俗世”からの便りであろう。
 喬道清は、ちらりと彼方に聳える二峰を見上げ、それから、細く捩られた手紙を広げた。
 意外に達筆な──と、まず、そんなことを思った。
 手紙の送り主は、二仙人の奇人である。“一濁道人”何玄通。羅真人の高弟でありながら、若年より奇矯な行い、放浪癖がおさまらず、この春にも、ふと一羽の鶴を道連れとして山を降りた。
 人がすることの末路を見届ける──と高笑いして。
 瘋癲の人である。
 しかし、喬道清は、決して彼を軽んじていなかった。
 手紙は七月の某日に書かれたものだ。梁山泊軍が杭州を包囲していること、すでに少なくない戦死者が頭領の中からも出ていることが簡潔に述べられた上、それでも結局は梁山泊軍が杭州を落とすだろう──と結んであった。
 そこに詳細に記された戦死者の名のいくつかは、一時期は梁山泊軍に属した彼らにも覚えがあった。
(天の誓いは破られた)
 もっとも、彼らは、何玄通が詳報を得るより早く、道士間の連絡により梁山泊の受難を知っていた。南方での苦戦、戦死者が出ていること。それを聞いた時の、公孫勝の顔が忘れられない。その表情は少しも動かなかったのに、落雷のような衝撃があたりを貫いた。
 そして、公孫勝は静かにあの頂へ去ったのである。
(いったい、どんな修行を?)
 喬道清は馬霊と懸崖に並びたち、二仙山の由来となった切り立つ二つの峰を仰いだ。
 そこは、彼らほどの修行を積んだ者をもっても、立ち入れぬ絶界であった。
(“師父”)
 呼ぶ声も、その天険には届くまい。
 空は青く、白雲流れ、主の元へ帰るのか、その狭間を鶴が悠然と飛び去っていく。


 鶴嘯が、天に響いた。
 その声は、山々に幾度となく谺して、繰り返し二つの峰に届いた。
 それぞれの峰の頂には、それぞれ一人、古今の真人が蓮華座を組んでいる。どれほどの時を過ごしているのか、その姿は、すでに山の一部と化したかのようである。
 二つの峰は、互いの姿が芥子粒ほどに見える距離に隔たっている。
 西に峰に座すのは、白髯白髪白眉の仙客“羅真人”。
 東の峰には、その筆頭の弟子である“入雲龍”公孫勝が、やはり白髪を太陽に晒していた。
 二仙山で最も年老いた道士さえ、子供の頃、すでに羅真人は白髪の老人だったと証言している。しかし、今なお、羅真人より精気横溢する者は山にいない。
 鋼の身から放たれる気は、天地太陽に研ぎ澄まされて、いっそう、水晶のごとく澄み切っている。
 その精神は、すでに肉体のうちにはない。
 ぽかん──と、中空に浮かんで、全世界を俯瞰している。その目は、見ずして対する峰の愛弟子を鮮明にとらえていた。

“はなれよ”
 なにかの気配に乱された公孫勝の想念に、羅真人は言葉ではなく、語りかけた。
“離れよ、遠く、おのれから”
 公孫勝の肉体と、精神をつなぐ微かな絲が、羅真人には“見える”。公孫勝を俗世に縛りつけている、雲の彼方へ解き放つのを妨げている、ひとすじの絲──梁山泊。
“おそれるな”
 自分も他者も、空も山河も、すべてはひとつ。溶け合い、重なり、境のない巨大な存在の中をたゆたうもの。
 この肉体は存在せず、精神のみ、不死不滅。
 万物は境もなく、へだたりもなく、自然、宇宙、命あるもの、すべて“ひとつ”。
 星を越え、時さえ越えて、万物は繋がり、重なりあっている。
“離れることを、おそれるな”
 おのれから真に離れることができた時、お前は完全な存在となる。誰も見ることのない世界を知る。そこにあるのに、見ることの叶わなかった世界に到るだろう。
 それこそが──“天間星”のさだめにこそあれ。
“妨げるのは、さいごまで手放せぬもの”
 声が導く。
“それは怒り、そして哀しみ”
 彼は我、我は彼。
“おのれを手放せ”
 蓮華座を組む公孫勝の体全体が、降り注ぐ陽光の中で、ほのかに白く輝き始めた。
 渺茫として形なく、あらゆるものが満ちた宇宙へ、公孫勝の思念が波のように満ちていく。
『応えよ』
 この世界のどこかにいる、その波の打ち寄せるべき岸辺にたつ、ひとりの男へ。

『我が声に 応えよ 混世魔王 樊瑞よ』

 誰かに呼ばれ、呉用は肩ごしに振り向いた。
「なんですか、戴宗」
 昼下がり、頭上の空は紺碧に輝いている。戴宗は木陰に座り、昼飯の餅を噛んでいた。
「なにが」
「いま、私を呼んだでしょう」
「呼ばんよ」
 戴宗はまた餅を噛む。鉄鍋で煎られるような暑さなのだ。出涸らしの茶を飲まなければ、餅も喉を下っていかない。
 呉用はあたりを見回した。
「確かに、誰かが私を呼んだのだが」
 杭州を出た宋江率いる梁山泊南路軍は、富春江沿いを行軍中だ。目下の目標は富陽県、杭州からは南西方面になる。行軍は炎暑を避けるため、主に早朝と夕刻に距離を稼ぎ、日中を休息にあてている。
 今も、さびれた漁村で昼食と午睡をとっていた。
 呉用は、声が聞こえたと思ったあたりを見回した。
 花栄は秦明と井戸端の亭に座り、なにか会話の最中だった。
 宋江は、無人の家の軒先を借りて休んでいる。粗削りの柱と、葦を編んだだけの木陰だが、それが却って風情があった。もっとも、行軍中のことであり、呂方、郭盛、蔡兄弟、郁保四などが周囲を抜かりなく囲んでいる。
 呉用は験担ぎはしない主義だが、葬式の先導をする“険道神”が宋江とともに陣頭を進むのはどうかと思った。
 それを言おうかと迷っている間に、解珍たちが近くの森から鳥を何羽か担いで戻ってきた。解宝は刺股からまだ暖かい鳥をはずして、宋清のもとに届けた。
「宋江殿に焼いてやってくれ」
 それを聞いた李逵が騒いだ。
「おいらも宋江兄貴に兎をとってやる!」
 こんな時にも、皆なんとなく宋江の近くに屯しているのである。すぐさま駆けだしていく李逵を見送り、項充は樊瑞に花椒の香りをつけた煎り豆を勧めた。団牌手を率い“李逵組”から、焦挺と鮑旭がいなくなったが、その空白に自然と樊瑞が加わっていた。
「樊瑞よ、あんたは、変わった」
 項充は、豆を齧りながら呟くように言った。花椒の煎り豆は、貧苦きわめた項充の子供時代を彩る一番の“ごちそう”だ。その味わいは、今も変わらない。
「あの術は、封じているのか」
 項充はひとつかみの豆を樊瑞の掌に渡した。樊瑞も小気味よい音をたてて豆を噛む。
「術は、すべて“師父”に返したようだ」
 風を読み、雨の到来を予見する程のことはできる。しかし、人を惑わす幻影を見せるような能力は失った──と、樊瑞はそういう意味のことを答えた。
 実際、征途にあっては心を鎮めて修行するような余裕もない。一時は断っていた酒なども、李袞が嬉しげな顔で酌してくれば、受けるのが自然の人情だ。
“混世魔王”樊瑞は、人に戻りつつあった。
 公孫勝とも別れて久しく、今となっては、どうして、あんな超人的な技が使えたのかも、夢のごとく、忘れかけていた。
 炎天下、項充は豆を勧め、李袞は酒を注ぐ。
 芒湯山はすでに遠く、思い出話に花咲くこともないけれど、三人は車座で飯を喰い、ゆったりと日が傾くのを待っている。
 その時、ふいに李袞の小猿がキャッと鳴き声をあげた。そして、持っていた豆を投げたと思うと、李袞の懐に飛び込んだ。
「どうした」
 項充は李袞に問うたが、その目は、すぐに樊瑞に釘付けになった。樊瑞の奥歯の間で、豆が、激しい音をたてて砕けた。
「樊瑞!」

「俺に触れるなッ!」  その眉間に、ひどく険しい気配が立っていた。深く刻まれた皺の狭間で、何かが激しく拮抗している。手にした酒の水面が、騒ぐように震えていた。
 項充と李袞は、樊瑞が何か、目に見えぬものと戦っているのを肌で感じた。周囲の風景は何ひとつ変わらないのに、樊瑞だけが、どこか別の遠い世界にいるのだ。目を離せば、そのまま、どこかへ連れ去られてしまいそうだった。
 項充と李袞は身じろぎもせず、樊瑞を見守っていた。
 やがて、“その気配”は、嵐が遠ざかるように消えた。
 すべて、一瞬のことだった。
 樊瑞は息をつき、小猿も李袞の懐からそろりと顔を覗かせた。
 樊瑞は暗い目を強いてもたげ、項充と李袞を見て、それから小猿の掌に、落とした豆粒を握らせてやった。
 全身が、まだかすかに震えていた。
 項充が言うように、確かに、彼は“変わった”のだ。
『こたえよ 樊瑞』
 鋭く眉間を貫いた“声”に耳を塞ぎ、彼は敢えて応えなかった。
 あの、殺伐荒涼とした、虚無の世界。項充もなく、李袞もなく、自分さえない、暗黒の混沌の淵からの呼び声に。
(“あの世界”には、二度と戻らぬ)
 樊瑞は、青空を映した手中の一杯の酒を、惜しむように、ゆっくりと口へ運んだ。
(戻らぬ──決して)

 夕刻、李応と杜興が輜重部隊を連れて合流してきた。
「水軍の動向は」
 李応が人事を司る裴宣に尋ねた。兵站の一部は船にも搭載されている。裴宣は、まだ──と答えて、やや日焼けした顔を富春江の方へ傾けた。銭塘江に流れ込む、豊かな河だ。ここからは水は見えないが、夕刻の風にはしめやかな水の気配が混じっている。
「遡行ですから、時間がかかるのでしょう」
 船団は、水車を踏み、櫓を押して、この河を遡ってくる。流れが険しい時は岸に上がり、船に縄をつけて牽くこともあるだろう。
「我らの方が、先に到着するでしょう」
 裴宣はもとより文弱の徒ではないが、その顔は真夏の夕日に晒されて、かつてない精悍さを見せていた。

 山の北側を“陰”、河の北側を“陽”と呼ぶ。ゆえに、富陽県は富春江の北岸に位置する城市である。
 裴宣の言葉通り、翌日、宋江軍は水軍を待たずに“七里湾”に到着した。富陽県と西側の桐盧県境にあたる要衝である。
 富春江が大きく湾曲し、広々とした水をたたえている。“七里湾”とは、そんな場所によくある地名だ。両岸には青々とした山並みが続いて、景勝の地でもある。これらの山を越えれば桐盧県、その先が睦州になる。
 戴宗が配下の斥候たちを先行させ、情報を集めていた。
「この先は小高い山で、なかなか険峻だ。頂上には、方臘軍の砦がある」
 戴宗も自ら一走りして、宋江、呉用に情況を報告した。
「二、三人の武将が守っていて、大した兵力はないようだ。ただ、杭州陥落の後、敗残兵が集まってきている気配がある」
 呉用は、杭州で取り逃がした二人の元帥、、石宝と登元覚を警戒した。
「攻め口は?」
「正面のひとつだけだな。道は険しい」
 呉用が宋江に方針を諮ると、このまま七里湾に布陣するようにと命じた。
「敵の出方を見てみましょう」
 呉用にも異存はなかった。方臘軍は無理な攻め方をせず、まずは静観して、こちらの出方を窺ってくるのが常である。天険によっているのなら、長期戦に持ち込もうとしてくるだろう。
 梁山泊軍は未明から行軍し、朝焼けが空を染めていた。
 魯智深と武松は、工兵たちが柵や荷車で陣を作るのを眺めていた。魯智深は草の上にあぐらをかいて、腰の瓢箪を振った。
「武松よ、少々やるか?」
「いや、よそう」
 武松は立ったまま懐手を組み、青山の上にたなびく雲を仰いでいる。早朝は、夏には最も快適な時だ。
 馬麟が笛を吹いていた。
 秦明は野営の木陰に道具を広げて、膝の傷を手当てしていた。行軍中に患部が黒く腫れ上がっていた。焼いた小刀で切り開くと、血膿が流れた。それをすべて絞りだし、安道全から譲り受けた馬油の膏薬を塗って、布を巻き、自作の皮帯で固定した。
 治療の痛みにも、秦明の眉は微動だにしなかった。ただ、空を彩る朝焼けを見上げた時、その鋼にも似た眼差しに、わずかに感情らしいものが揺らめいた。

 美しい風景だった。山は静かで、水は豊かだ。いつまでも眺めていたいような、朝焼けを映した河だった。
 その山影に、さっと白い旗が立った。時ならぬ雪かと錯覚するほど、その旗数は多かった。方臘軍もとっくに梁山泊軍の動きを察知し、息を殺して攻撃の時を図っていたのに違いない。戦鼓が有明の空を震わせた。梁山泊軍も色めきたつ。反撃があるのは承知の上だ。
「お出迎えだ」
 武松は武器を引き寄せ、魯智深も瓢箪に栓をして立った。
「江南の酒は、上品すぎて、いかん」
 梁山泊軍は活気づいたが、いたずらに浮足立っているものは一人もなかった。関勝の大刀を抱えた関鈴すら、堂々と落ち着いて走っている。
「父上、武器を!」
 しかし、関勝だと思った背中は、朱仝だった。朱仝は笑って向こうを指さした。
「お前の“父上”はあそこだ」
 関勝はすでに馬上、陣頭に立って、息子が武器を運んでくるのを待っている。
「おっと、ごめんなさい!」
 元気に駆けて関鈴を見送って、朱仝も馬上の人となった。
 敵襲を告げる戦鼓が鳴り響く。
 この時、呉用は本営を離れ、陣地設営の指揮にあたっていた。地理を吟味し、細々とした配置まで人任せにできないのが軍師・呉用の性分である。敵襲と見て、急ぎ宋江のもとへ走った。
 方臘軍の常ならぬ素早い迎撃が意外だった。
 敵の雪白の旗は続々と山を降りてくる。高所から攻め下る敵には勢いがある。やみくもに迎え撃つのは上策ではない。今、梁山泊軍の士気は高い。以前なら、呉用が指示を出すより早く、敵に向かって突進していただろう。しかし、今の梁山泊軍は熟練の軍である。実際、軍に動揺の気配はなかった。
 しかし、呉用は梁山泊軍の戦鼓を聞いた。突撃の合図である。続いて、細やかな指令があった。
“一番 弓隊 前へ”
“二番 歩兵 三手に”
“三番 騎兵 後方”
(いったい誰が?)
 呉用が本営に着くと、案の定、宋江が指示を下し、蔡福に戦鼓を打たせていた。
「呉用先生」
 こちらを見た宋江が、少し笑ったように見えた。
 指示に応じて、梁山泊軍は麓へと進んだ。充分に距離を保って、まず下ってくる敵影を認めるや花栄と配下の弓隊が出迎えの矢を放った。木々があっても、方臘軍の白装束はいい目標だ。当然、方臘軍も矢を返した。すかさず、花栄は後退する。
 次は歩兵だ。李逵の団牌部隊が盾をかざして突っ込んでいく。
 敵正面へ李逵隊が体当たりして、崩れたところへ、右翼に清風山隊、左翼には二竜山隊が斬り込んでいく。
 騎馬隊は、関勝隊を中心に秦明隊が補佐となり、後方を固めている。こちらの陣営はまだ整っていない。設営中の陣への敵の侵入を阻むためだ。
 到着したばかりの梁山泊軍の虚を衝く──という方臘軍の目論見は見事にかわされ、戦闘は長くは続かなかった。
 梁山泊軍に隙なしと見て、方臘軍は深入りせずに撤退し、梁山泊軍も李逵らが少しばかり追撃したが、地理の不明な山である。伏兵を危ぶんで、宋江は撤収の銅鑼を打たせた。
 日が昇り、風は絶え、気温がぐんぐん上がり始める。
 血の上に、銀色の陽炎が揺れていた。
 梁山泊軍が三々五々、帰投してくる。戦の熱気はその身体に残っていたが、みなの目は、なにか重い錨にでも繋がっているかのように、沈着だった。
 戦いがはじまり、力を尽くし、帰ってきた──それだけだ。
 誰の胸にも、もう感慨などはない。
 これは、新しい戦いの、ただの第一日目にすぎないのだ。

 この“方臘軍らしくない”緒戦により、呉用は懸案をひとつ解消した。方臘軍の山砦に、杭州から落ち延びた“誰か”がいることを確信したのだ。
(登元覚か、石宝か)
 石宝なら、陣頭に立って打ち出してくる。
(では、登元覚?)
 呉用は、登元覚という僧形に、さほどの軍略があるとは思っていない。彼はあくまで、明教の“国師”であり、戦略とは別の判断で動いているところがあるのだ。
 杭州戦でも、太子・方天定の影武者を連れて逃げた。殉教を美徳とする方臘軍には珍しい行動だった。その登元覚の行方は、いまも杳として知れていない。
(あるいは、この山に)
 呉用の予測は、的中していた。

 もともとこの山砦は、王勣、晁中、温克譲の三人が守っていた。彼らはいずれも方天定配下の二十四将に属し、杭州戦に招集されて、梁山泊軍と戦った。そして、杭州陥落に至り、この古巣まで敗走してきたのである。
 そこに、さらに数日前、“宝光如来”登元覚が落ち延びてきた。
 彼は、“国師”とも“宝光如来”とも尊称される人物で、方臘軍では非常に重く遇されている。
 三将は、登元覚が“降魔太子”方天定を伴っていないことを訝しんだ。登元覚は影武者を囮にして太子を逃がし、秘密の場所で合流する手筈ではなかったか。
「太子の行方は?」
 晁中が尋ねたが、登元覚は至極、不愉快げな一瞥を投げただけだった。それは、三人が太子の殉教を察するのに充分だったが、彼らは修行も進んでおり、動揺はなかった。
 かえって、登元覚の方に感情の起伏があった。
 登元覚は杭州脱出に際して連れていた兵とも散り散りになり、影武者としていた百華兵すら、いつの間にか見失っていた。梁山泊軍の追撃を逃れ、単身、法衣も襤褸のごとくなって山塞に辿り着いた登元覚は、明教屈指の高徳の人であるはずなのに、何かの妄執に囚われているように、三将には見えたのである。
 事実、彼らはすでに後方の睦州へ救援を求める急使を送っていた。杭州が落ちたからには、敵軍が富春江沿いに南下してくるのは自明の理だ。
 その到着を待てばいいのに、梁山泊軍の旌旗が現れると、登元覚は敵が布陣し体勢を整える前に──と、迎撃を強行した。
 三将はもともと土地の幼なじみで、武人としての素質は並みだが、気が合っている。いずれも、登元覚の采配を不安がることは一致していた。
 そのため、その日の夕刻、石宝が現れた時は、三つの安堵した顔を見合わせた。
“流星”石宝は、方臘軍中の伝説である。無敵であり、不敗。そして、“明使”の地位にある。“国師”が方家の師ならば、“明使”は明教徒全体の師なのである。
 早速、温克譲が日没の瞑想中にある登元覚のもとへ赴いた。

 登元覚は砦の陽台で瞑想していた。
 夕刻である。西の空には、美しい色彩が眩く照り映えている。
 世界は変わりない。太陽は登り、月は巡り、星は瞬きを繰り返す。
(杭州を失い、太子はもう世におられぬというのに!)
 無念無想にあるはずの登元覚のこめかみが、生き物のように痙攣していた。
 登元覚は約束の場所で太子を待ち、その死の伝聞を聞いても信じきれず、自らの危険を犯して、門にさらされた太子の無残な首を見た。
(なんということだ)
 光を宇宙に解き放ち、汚れた肉体から解脱する喜ばしい死は、しょせんは下賤の者の末路である。太子の肉体に、いかほどの穢れがあるだろう。無尽蔵の光明を清浄なる心身のうちに蓄えて、清浄光明世界の王となる──その運命にあったのに。
 登元覚は絶望による目眩を感じた。
(世界はどうなる?)
 誰が、来るべき世の王となるのだ?
 それよりも、彼は、あの聡明で可憐な少年の死を受け入れることができなかった。

(憎むべきは──梁山泊!)
 登元覚がカッと目を見開いた時、温克譲がやってきた。
「国師よ、石宝将軍が」
 振り向いた登元覚の眼差しの激しさに、温克譲は次の句を失った。
「石宝?」
 登元覚は温克譲の無骨な顔を睨んだ。
「やっと来たのか」
「梁山泊軍の目を逃れ、道なき道を登ってきたとのこと……」
 登元覚は襤褸の僧衣を夕方の風になびかせ、立ち上がった。
 目障りに感じていた若者だが、今後のことを考えれば、石宝は頼りになる戦力だった。会うと、あるいは死んだかと危ぶまれていた石宝は、平然とそこに立っていた。珍しく戦塵と血に汚れていたが、その精神は、なんの打撃も受けていないようだった。
 王勣が石宝に何か新しい情報がないかと尋ねていた。
「杭州の様子は?」
「城には劉光世の軍が入った」
「方太子は……」
「亡くなられた」
 無感情に答える石宝を、登元覚は苦々しく思った。なぜ、わざわざ、自分に、改めてそれを告げるのか。
 登元覚は、石宝と三将の会話を断ち切った。
「この砦の防衛が肝要だ。なんとしても、敵の睦州への侵入を阻止せねばならぬ」
 石宝も、三将も、上官は方天定だった。それが戦死したとなれば、彼らは当然、自分の指揮下に入ると登元覚は考えていた。
「太子が望まれた光明清浄世界の実現を、必ず、なし遂げなければならない」

 翌日、睦州の祖士遠から援軍が到着した。正指揮使の白欽、副指揮の景徳が一万の兵を率いていた。精兵というわけではないが、にわかに山砦は活気を挺した。特に、白欽は年若く、容貌も精悍で、方臘軍の中でも精彩を放っている。
 援軍の気配を察し、梁山泊軍も本格的に攻撃を開始した。
 援軍に勢いづいた方臘軍は、必ず山を降りてくる──呉用の読みは的確だった。
 殉教を美徳とする方臘軍は、元来、防備が手薄の傾向がある。とはいえ、さすがに“聖都”幇源洞が間近となれば、防備を固めないわけにはいかない。その体勢を固めるまえに、この山を越えてしまいたかった。そのため、梁山泊軍は着陣以来、旗や炊煙も控えめにして、杭州での打撃が大きいように見せていた。
「今日中に」
 宋江の命である。
 未明より、梁山泊軍は密かに出撃準備にかかっていた。炊煙が上がっては、敵に朝駆けを察知される。朝食は昨夜のうちに作っておいた冷や飯である。しかし、それでは食べにくかろうと、扈三娘は小さな瓶に詰めた肉の汁を、埋み火の灰の中に入れておいた。それに細かくちぎった焼餅をひたし、燕順に持っていった。
「ざまあねぇ!」
 燕順は怪我をした腕がうまく動かず、甲冑を着るのを王英に手伝わせていた。
「怪我してるのよ、当たり前だわ」
「親分は、すげえよ」
「王英に慰められたぞ!」
 燕順は王英の臀を靴先で小突いた。
「俺が拾ってやった時は、きたねぇ顔をした車引きのガキだったくせしやがって!」
 扈三娘は、燕順の憎まれ口に却ってほっとした。
(三人一緒で、本当によかったわ)
 今回、軍を分けるにあたっては、裴宣の配慮だろうか、同じ山から来た者や、血縁はなるべく一緒の隊になるよう人員が分けられていた。各人の希望も配慮された。やはり負傷者である欧鵬は、蒋敬、馬麟の妨げになることを嫌い、彼らとは別隊になることを自ら望んだ。例外は黄信で、秦明と同行することを望んだが、時に“暴走”する盧俊義隊には、沈着な孫立、黄信の抑えが不可欠だった。
「さぁ、親分。これを飲んで、早く怪我を治してね」
 扈三娘は、燕順に碗を持たせた。
 温かい汁を受け取って、燕順は思わずほろりとした。気が強いばかりだった扈三娘が、いつの間にこんな気遣いができるようになったのか。
「怪我なぞ、とっくに治ったぞ!」
 燕順は豪快に笑い返した。そして、扈三娘の心尽くしの碗を、王英に押しつけた。
「お前が食え!」
 元気そうにしているが、燕順の顔色は冴えなかった。徒歩でも騎馬でも、行軍は内臓に負担をかける。しだいに食べ物を受け付けなくなっていくのだ。
 扈三娘は、あれほど強かった父が、急に死んだことを思った。
「王英は焼餅をもらっていらっしゃい」
 王英が走っていくと、扈三娘は燕順の顔を見つめ、決心したように耳打ちした。
「王英には、まだ内緒よ」
 扈三娘の“告白”に、燕順は顔色を変えかけたが、それをぐっと押さえ込んだ。
「そうか」
 扈三娘の、ここにきて急に痩せたような肩のあたりをちらと見て、それだけ言った。思ったより反応が薄いので、扈三娘は少しがっかりしたようだった。微笑んで、汁の碗を燕順に持ち直させた。
「親分には、名付け親になってもらうんだから、無茶しないでね」
 燕順は黙って頷き、汁を飲み、肉を食った。そして、燕順は決めた。この戦い、なにがあっても、王英と扈三娘だけは死なせない。

(俺が、決して死なせはせん!)
 朝もやの中を、梁山泊軍が動き始める。
 これは、新しい戦いの第二日目にすぎない朝だ。しかし、燕順にとっては、なにか新しい一日のはじまりだった。

 金鼓、一声。
 朝日より早く、梁山泊軍は河岸の陣に鯨波を上げた。隠していた旌旗が、すべて立つ。
 案の定、方臘軍も即座に応じて打ち出してきた。夜通し警戒していたものとみえ、整然と山を下ってくる。指揮をとるのは、晁中と温克譲の二将である。
 矢による牽制も、歩兵同士の小競り合いも、ほぼなかった。梁山泊軍は必要以上には山へ迫らず、方臘軍を待ち受けた。山裾にわずかにある開けた場所を主戦場にするためだ。方臘軍の陣頭には、“流星”石宝が立っている。劈風刀が、曙光を反射し氷のごとく輝いた。
 梁山泊軍の中軍には、宋江の帥字旗が“険道神”郁保四により堂々と掲げられている。石宝に見せつけるがごとくである。この時、梁山泊軍では関勝に迎撃せよとの発令はなかった。
 呉用の深謀遠慮である。
「“武神”が行けば、また逃げる」
 方臘軍中、手強いのは石宝ひとりだ。索超、登飛のみならず、鮑旭すら屠った正真正銘の“死神”である。
 その死神が、宋江を狙っていることも知っている。ゆえに、今日は関勝と李応が前後を強力に守護していた。
 では、誰が石宝に当たるのか。秦明が狼牙棒を手に行きかけたが、馬腹を蹴ろうとして、わずかに遅れた。その間に、今日は中軍守護の任務を解かれた呂方、郭盛が飛び出した。
「ここは我等が!」
 方臘軍と梁山泊軍は、戦場で鍔迫り合いを始めている。方臘軍は山砦に拠る軍だから、歩兵が主だ。梁山泊軍も歩兵を前面に繰り出した。戦場を突破してきた石宝率いる僅かの騎兵へ、呂方、郭盛の紅白の部隊が左右から押していく。もはや、石宝子飼いの精兵はない。睦州からの援軍で来た百騎がすべてだ。
 戦いの趨勢は、石宝ひとりにかかっていた。孤立無援といっていい。しかし、石宝は却って悠然として見えた。
(我が方天画戟を受けて見よ!)
 呂方は漢末の英雄、呂布を崇拝する。その操る画戟は猛烈である。続けざまに渾身の五十合を繰り出したが、石宝はそれを難なく受けた。そればかりか、呂方が疲れるのを待ち受けて、却って攻勢に転ぜんとする。援護に回っていた郭盛は、呂方の力が衰えを見せ始めると、すかさず馬を前へ乗り入れた。郭盛は二人で挟み打ちを狙ったが、石宝は劈風刀で二本の画戟を相手どり、まったく遅れをとろうとしない。三つ巴の戦いとなった。

 その間にも、方臘軍は陸続と後続部隊を投入していた。白欽、景徳率いる援軍一万、もとより山にいた一千ほどの兵力だ。登元覚は砦には王勣および、その配下の数十人しか残さなかった。
 その勢いに押されるように、梁山泊軍は少しずつ富春江に向かって後退していた。
 登元覚は、山上からその様子を睨んでいる。
 敵が背水の陣ならば、こちらも聖都防衛の最前線だ。
「ここで決着をつけるのだ」
 方臘軍は梁山泊軍を押し続ける。富春江の波へ追い落とそうとする勢いに、方聖宮を守らんとする方臘軍の決意が見えた。
 歩兵は流水に飲まれた蟻群のごとく、岸辺へと凝縮していく。泥土に足を取られて動きは俊敏さを欠いていた。
 呂方と郭盛は、なお石宝と戦い続ける。不利と見て、さらに朱仝が三ツ巴の環に乗りいれた。石宝は、朱仝の美髯に一瞬のみ視線を引きつけられたが、すぐに関勝ではないことに気づいた。
 関勝は、あくまでも宋江守護の任を離れない。自分を警戒しての采配だと石宝には分かっている。
 石宝は三人をあしらいながら、突撃する機を狙った。朱仝はその機を巧みに挫く。主な戦いは呂郭の対なる二画戟に委ね、石宝の突破の意を前取りしては阻むのだ。
 さしもの“流星”も、その場に釘づけになった。
 その周囲では、朱仝らの部隊が隊列を組み、睦州からの援軍騎兵を包囲しては討ち取っていく。
 しかし、砦に立つ登元覚から見ても、歩兵は方臘軍が優勢だった。梁山泊軍はいまにも足元を波に洗われそうだ。
(そのまま、彼奴らを河に流してしまえ)
 登元覚は、この世から梁山泊軍が洗い流され消える事を夢想した。その夢は、銅鑼の轟きに打ち破られた。
 はじめは、遠く、かすかに。しかし、驟雨のごとく近づいてくる。その正体は、麓の宋江たちよりも、山上の登元覚の方に早く知られた。
「梁山泊水軍か」

 思わず声に出していた。
 富春江の緑の水面に、まばゆいばかりの白い波濤を砕かせて、押し寄せるのは梁山泊水軍の船団だ。舳先に、阮小二、阮小五、阮小七ら“阮氏三雄”の姿があった。後方の旗艦には、李俊と二童。いずれの男も、むきだしの胸を朝日に晒している。
 孟康が櫓を押す水兵たちを叱咤していた。
「このまま進め! 腕の力をちっとでも緩めたら承知しねぇぞ!」
 水兵たちは櫓音を合わせ、最大速で水上を遡っていく。
 喧騒の中にある河岸の方臘兵は、まだ殆ど気づいていない。
 昨夜遅く、呉用のもとに、ようやく阮小二から水軍が間近まで来ていると連絡があった。彼らの到着の時刻をはかり、呉用は決死の方臘軍に対して二重の罠をしかけたのである。
(誘いの手はないと見せて、河岸へと誘い出す)
 山中に残っているだろう登元覚の動揺も、呉用は計算ずみだった。
 河から銅鑼が鳴り響けば、高所にいる者が先に気づく。船影も見る。僅かな兵しか残っていない山砦は、どう動くか?
(砦を捨てる)
 それが呉用の計算だった。

 杭州の方臘軍は、梁山泊軍の戦い方を詳細に分析し、その水軍が、水戦、船上での白兵戦、上陸しての戦いと、すべてに対応出来るということを知っていた。
 登元覚は、梁山泊軍が退路を断とうとしていることに即座に気づいた。方臘軍は山を離れ、富春江に迫っている。梁山泊水軍が戦場を過ぎる形で遡行すれば、北東から攻める梁山泊軍と、南西に上陸した梁山泊水軍に挟撃されることになる。
 登元覚は王勣に撤退の銅鑼を打たせた。
 その音は、船上の阮小二の耳にも届いた。
 彼らは、河岸の方臘軍と山砦への退路を分断すべく、上陸を敢行するのが使命である。
 水軍全体の指揮は李俊が執る。上陸部隊の指揮は、阮小二である。勝負を決めるのは、船足の速さである。方臘軍が山に逃げ込む前に上陸する必要かあるからだ。
(充分だ)
 江南の河に慣れた孟康が、船を快速に改造している。かつて梁山泊に攻め寄せた江南の“水伯”劉夢竜の遺品、海鰍船から流用している水車も大いに役立っている。
 阮小二は岸の方臘軍の動きに注意を払いながら、身に浴びる河風と、眼前に広がる美景を堪能する余裕があった。
 江南の河は美しい。水は澄み、青々とした山並みを映している。
(北方の赤茶けた山、泥水の河とは大違いだ)
 むろん、故郷の石碣村、梁山泊にまさる水はない。しかし、遡るほど、山水は有無を言わせず美しさを増す。それも事実だ。
(魚も随分といるだろう)
 ふと阮小二の血に染みた漁師の性根が騒いだが、まずは目の前の獲物である。
「逃すな、“魚の群”はでかいぞ!」
 方臘軍は撤退の方角を決めかて、右往左往をはじめている。
 後ろの船では、阮小五が櫓を押していた。
 阮小七はすでに櫓を武器に持ち替え、上陸地点に目を据えている。接岸するなり陸へ飛ぶ心づもりだ。白波が舳先でくだけ、霧のように水が散る。
「あの浜は阮氏一家でいただきだ!」
 したたるほどの水に濡れながら、阮小七はむっつりとした阮小五の顔を一瞥した。
「どうした、兄貴。元気がねえぞ」

「うるせえ」
 阮小五は喧嘩腰で櫓を押した。
 賭場のいい相棒だった劉唐のことが、どうにも頭から離れない。渡世人なぞ、ろくな死に方はできないものだ。しかし、あんなむごい死に方はない。
「ふざけやがって」
 胸に渦巻く怒りの火が、どれだけ河のしぶきを浴びても、収まらないのだ。


 その時は、石宝からも船団が見えていた。
 砦から、響く銅鑼がうるさい。登元覚の焦りを物語っているようだ。杭州の敗戦と、撤退の混乱にかまけて、敵の動きを充分に把握しておかなかったのが敗因だ。敵軍も杭州では甚大な被害を受けているはずだから、もっと進軍は遅いと油断していたのも事実だ。
(だからといって、なにを慌てふためいている)
 登元覚の焦りが伝染した晁中や兵も動揺を見せ、算を乱して逃げ始めている。
 むろん石宝も馬を返すつもりだ。さしもの彼も、三人を相手どるほどの超人ではなく、すでに宋江を討ち取ることも不可能だ。
 生き延びるつもりはないが、無駄死にをする気もない。石宝の目が、退路を求めた。
 朱仝もそれを察している。石宝は孤立無縁で、この強敵を倒す好機である。しかし、近づきすぎては石宝の流星鎚が危ぶまれる。
「逸るな」
 朱仝は若い二人に釘をさした。
 すでに梁山泊水軍は接岸し、阮小七を先頭に水しぶきを打ち続々と上陸している。
 朱仝は、石宝の退路は山しかないと踏んでいる。ゆえに、常に石宝と山の間に位置を占めた。呂方、郭盛は攻め続ける。彼らとて画戟の使い手である。それが、二人でやっと石宝と互角になる感触だった。朱仝には釘を刺されたが、熱血の呂方は勝負に出た。鋭く画戟を振り下ろす。その時、対面にいた郭盛は、石宝が背面で流星鎚を持ったのを見た。郭盛の脳裏を索超の死に顔が過り、同時に画戟を振り上げた。
 その瞬間の石宝の動きは、まるで背面に目があるかのようだった。石宝は馬を滑らせるように、さっと二本の画戟の間を擦りぬけた。左右から同時に突き出た二本の画戟がぶつかり合い、月牙をかち合わせて動きが止まった。
 朱仝は咄嗟に身構えた。退路を塞ぐ自分の方へ、石宝が向かって来ると思ったのだ。
 しかし、石宝は来なかった。
 石宝は朱仝ではなく、岸に向かって駆けたのだ。

 岸辺では、梁山泊軍の歩兵と、上陸した梁山泊水軍が、方臘軍と激しくぶつかり合っていた。歩兵は陸から、水兵は河から、方臘軍を一網打尽にすべく押しまくる。
 水兵は荒くれ者が揃っている。規律も陣形もありはしない。蛮刀をふるっての肉弾戦だ。阮小七は斬りまくり、阮小七も奮戦したが、目立つのは長兄の阮小二だった。先頭きって敵に飛び込み、手際よく倒していく。その動きは落ち着いていて、凄味があった。

 阮小七には、寡黙な長兄が今日は別人のように見えた。もともと三兄弟の中でいちばん力が強いのは阮小二だ。腕相撲でも、兄には勝ったことがない。櫓で鍛えた腕を振るうと、確実に敵を倒した。その横では、阮小五も奮戦している。もともと荒っぽい男だが、格別、荒い。相討ち覚悟だ。立て続けに三人倒し、さらに戦いながら進んだ。どこを目指すわけでもなく、ただ敵に飛びついていく狂犬だ。胸の入れ墨が血を浴びる。倒れた兵の向こうから、駆けてくる騎馬の男が見えた。石宝だった。
 阮小五はそうとは知らない。ただ見た瞬間、ぞっとした。それでも怯まず、正面に刀を構えた。
(あいつらは劉唐を殺した。白勝に毒を盛った。許さねぇ!)
 阮小五は馬に向かって駆けだした。
 石宝も流星鎚に指を伸ばした。それを投げるより早く、阮小二が脇から阮小五を突き倒し、地面に伏せた。石宝はそのまま二人の上を飛び過ぎた。背後から、朱仝がそこまで迫っていた。
 一瞬の出来事だった。石宝は乱戦の中を駆け抜け、跳躍して富春江に飛び込んだ。馬は巧みに水を掻き始める。
 大河を泳ぎ渡ろうとする白い人馬を、接岸した船の上から李俊が見ていた。
 童猛が弓矢を取ったが、李俊は黙って首を振った。
 すでに矢頃を越えていた。

 宋江は、あらかじめ全軍に追撃の命令を出していた。
 梁山泊軍は撤退する方臘軍を猛烈に追う。追撃は歩兵が主役だ。蜜を見た蜂のごとく、一斉に山へ群がった。
「砦を奪え!」
 先頭を切るのは李逵隊である。
「山登りだ!」
 方臘軍も山中へ逃げ込んだ兵が少なくない。窮鼠となった方臘軍が、岩陰、木陰から決死の反撃をしかけてくる。山の地形を利用した奇襲である。しかし、芒湯山を根城にしていた樊瑞らは山に慣れている。散発する敵の攻撃を片端から挫き、李逵隊は一本道を攻め上った。睦州からの援兵は道を知らない。山道に迷ったものも、見つけ次第、李逵の板斧の餌食となった。
 裾野では、逃げ遅れた方臘軍を、梁山泊の騎兵部隊が包囲していた。小回りのきく、清風山隊と黄門山隊の軽騎である。彼らが富春江岸に追い詰めると、そこには武松、魯智深が待ちかまえていた。
 魯智深は禅杖を手に、敵兵たちを一喝した。
「命が惜しければ、河に飛び込んで去れ!」
 方臘兵たちは、ある者は甲冑を捨てて水に飛び込み、ある者は降伏した。
 なんとか逃げて、散り散りに道なき山間に這い込んだ者もあった。彼らが目指すのは、山の彼方の富陽県だ。
 その時には、すでに登元覚も砦を捨てていた。砦に残した兵は少なく、攻められたら守りきれない。山中で散兵を集めたとしても、この山は地形が険しく、まとまった兵が布陣できるような場所はないのだ。
 登元覚は王勣ら僅かな手勢だけを連れ、山中の脇道を富陽県を目指して落ち延びていった。

 宋江らは登元覚が放棄した砦を制圧すると、やや開けた白蜂嶺に集結して、次の桐盧県を窺う軍議を開いた。
 まだ、日は高い。
 宋江は野営はせず、敵が体勢を整える前に富陽県を攻めることを望んだ。
 呉用も同意見である。方臘軍は、えてして防衛の意識が薄い。登元覚、石宝を逃がしたこともあり、桐盧県は間髪入れずに攻めるべきだった。
「では、このまま山越えを」
 即座に呉用は解兄弟を先行させ、道を探るよう指示した。
 その間、伝令が各部隊の間に進軍を触れて回り、山間で弁当を使っていた梁山泊軍は疲れも見せず、また賑やかに動き始めた。
 山道に不便な輜重と馬は山裾に残し、孟康があとから船で運ぶ手筈になっている。
「一日分の兵糧だけ身につけろ!」
   解兄弟が戻ってくると、身軽となった梁山泊軍は嬉々として山へ踏み込んだ。険しい山だが、昨日、一万の援軍が通ったばかりの山道だ。解珍、解宝の先導で難なく山を越えていく。

 そのうちに夕方となり、空を彩る七色の夕焼けを見ながら進んだ。小休止して腰の乾糧を使う頃には、山々の背に星が昇った。その星空をたよりに夜通し歩いて、夜明け前、裾野の彼方に桐盧県城の灯を認めた。

 その夜、眠れなかったのは梁山泊軍ばかりではない。
 城内に入った登元覚、石宝もまた、まんじりともせずに夜を明かした。彼らに続いて、順次、白欽、景徳が戻り、だいぶ遅れて晁中と温克譲が辿り着いた。登元覚と同行していた王勣は途中で待機し、残兵を集めて最後に帰った。一万余の兵は、どうにか四分の一を残しただけだった。
 真夜中すぎから夜明けまで、登元覚と石宝は軍議を重ねた。
「なんとしても、幇源洞への侵攻を防がねば」
 登元覚は、地理を知らない梁山泊軍は山越えに一両日を要するだろうと予測していた。
「攻撃は早くても明日の夕刻、おそらく、明後日になるだろう」
 石宝は、なんとも表情を現さなかった。反論はせず、淡々と事実を述べた。
「桐盧県の城壁は脆弱である。兵も少ない。国師よ、ここは守るには難しく、長居するべき城ではない」
 石宝は理を尽くしたが、登元覚は頑なだった。
「城外にまだ残兵がいるはず。まずは、それを糾合するのだ」
 白欽らはとくに意見を述べない。登元覚、石宝とでは教団内の身分が違う。彼らはいずれも反乱初期からの明教信者で、信仰心があつい。人柄は悪くないが、軍事的な才覚には乏しかった。腕がたつといえるのは、画戟を使う白欽くらいで、あとは明教への忠誠によって、軍を預かる身となったにすぎない。幇源洞に近くなるほど、方臘軍にはそういう傾向があった。
 そのことも、石宝は事実として受け止めている。
 この顔ぶれで勢いづいた敵を防ぐなら、方法はひとつ。“天険”によることだ。その場所も石宝には見えていた。
「“烏竜嶺”しか、梁山泊軍を防ぐ場所はない」
 ここ桐盧県と睦州の境を扼する山岳地帯だ。越えるには、草鞋を何足も履きつぶすという難所である。その険しさは、どんなに孝行な息子でも、親に手を貸す余裕もないと云われている。
 登元覚も当然それを知っているはずなのに、その反応は鈍かった。そのうちに、敵襲の急報があった。
「城下に敵が迫っております。山側、西門外、南方の富春江にも敵の船影が」
 石宝配下の残兵は、報告も詳細だった。

 夜更け。
 富春江の波間を、舟歌が漂ってきた。
 孟康は目を覚ました。いや、もとから彼は眠りこんではいなかった。
 山越えには不向きな馬と輜重を預かって、七里湾に待機している。相棒は“轟天雷”凌振だ。船積みされた火砲が心配なので、一緒に船で行くと言い張ったのだ。
(奴め、肥満で体が重いから、苦しい山越えを嫌いやがったな)
 凌振の火砲は、火薬が心もとないので、いざという時にしか使えない。
 李俊や阮兄弟が活きのいい水夫、水兵を連れていったので、残っているのも老水兵か、泳ぎの下手な新兵ばかりだ。敵襲があれば、流れに乗って逃げろと命じられている。
 心細い陣容だった。
 川音もなにやら物寂しいし、山の背後に登った星空も、ひどく静かだ。あの夜空より暗い山中を、梁山泊軍は野生の獣のように黙々と進んでいるだろう。
 孟康はまた甲板に横になった。
 誰かが舟歌を歌っている。老船頭か、妙にいい喉をしていた。
「うるせえぞ!」
 孟康は手枕のまま叱りつけた。
「せめて景気のいいやつにしろ、しんきくせえ」
 舟歌はぱたりと止んだ。
 すると今度は水音が耳についてきた。まるで、川が歌っているようだ。
 波間に、異国の女の歌声を聞いたのは、空耳か。
“私を捨てて行く人は──”
 今度こそ、孟康ははっきりと目を醒ました。
(なんだ、夢か)
 木槿の夢は、今も、思い出したように孟康を苦しめにくる。高麗の妓生“槿花”、器量は十人なみだったのに、歌だけは誰より巧かった。
(昨日は人が大勢死んで、川岸を水鬼がうろついている。海で死んだお前もつられて、恨み言を吐きに来やがったな)
 見上げると、きらきらと輝く星のひとつひとつが、死人の魂のようだ。
(恨むがいいさ。ありがてぇ、そんなに俺に惚れていたのか)
 ばかな女──嘯いて、孟康は目を閉じた。歌声は、まだ耳の底で哭いている。
 何十回も聞いた歌なのに、続きがどうしても思い出せない。
“私を捨てて行く人は──”
 そろそろ、戦いが始まる頃だ。
 そんな気がした。

 夜陰にまぎれた宋江と呉用が控える本陣に、偵察の戴宗が戻ってきた。
「桐盧県は堀はなし、城壁は泥壁同然」
 呉用は空の色を見た。夏の夜明けは、ほど近い。
「では、作戦通りに」
 宋江が頷いた。
 すでに、桐盧県の東──山裾の道には解珍、解宝、燕順、王英、扈三娘が布陣している。李逵、項充、李袞、樊瑞、馬麟は一千の歩兵を率いて西門から猛攻をしかける手筈だ。李俊率いる水軍も川沿いに兵を進め、退路を塞ぐ。
 空には星が輝いている。
 阮小五は珍しく星を見上げた。
 北斗が輝く。
 晁蓋が死んで、劉唐が死んで、白勝が死んだ。阿姜も死んだ。
 それなのに、まだ、星は輝いている。
 気がつくと、阮兄弟は三人ならんで、北斗の星を眺めていた。

 阮小七が、阮小五の耳に囁いた。
「二の兄貴が、別人のような顔をしているぜ」
 阮小五の目が、ちらりと走った。阮小二の横顔が、削いだように鋭かった。
「あれは、昔の兄貴の顔だ。石碣村どころか、梁山泊あたりで誰よりも“荒くれ”だった、お前の兄貴の昔の顔だ」
 若い頃の阮小二は、肩をいからせてのし歩き、なめられたと思えばすぐ火を噴いて、誰にでも殴りかかった。相手が血反吐を吐いて倒れても、表情ひとつ変えなかった。
「長生きはできねぇ野郎と、村中の“鼻つまみ”だった。お前はガキだったから知らねえが、“短命二郎”とは、もともとは兄貴のあだ名だ」
 温和だと思っていた兄の、阮小七には意外な過去だ。
「へえ」
「あだ名を返す時がきたか?」
 独り言ちる阮小五の足元に、船は一筋に白波をたてている。

 開戦の戦鼓が、夜空を駆けた。
 李逵は夜通しの強行軍にも疲れるどころか、敵の城を眼前にしてますます気力を横溢させている。
 桐盧県城を守っているのは、一丈あるかどうかの土壁だ。江南の城は、陸よりも水上からの攻撃に防備の重点を置いているから、城壁は馬を防げる程度だ。
 項充、李袞が工兵を連れ、城壁に迫る。長梯子をかけ、登っていく。矢に備えて団牌をかざしていたが、迎撃はなかった。
 相棒の小猿を懐に、李袞が先に登っていく。あいにく、僅かに梯子が足りない。最上段から飛びつこうとして、李袞は城壁のきわを掴みそこねた。落ちかけた李袞の手元に、項充が放った飛刀が立った。それを掴んで、李袞は一息に城壁上に躍り上がった。
 小猿の方はとっくに懐から逃げていて、城壁の上で待っている。それをまた懐に入れ、李袞は縄を投げ下ろした。
 兵士たちは団子になって梯子を登る。樊瑞は縄を掴んで、影のように城壁を駆け上る。馬麟も壁を乗り越え、裏側から城門を開けようとした。
 項充が声をかけた。
「李逵に注意せよ」
 城門が揺れている。外から李逵が板斧で力いっぱい叩いているのだ。馬麟は身軽さをかわれて攻城部隊に抜擢されたが、李逵の扱いには慣れていない。
「代われ、馬麟」
 項充が門を開け放ち、馬麟は脇に身を避けた。李逵が扉を叩き割ろうとする勢いのまま飛び込んでくる。そのまま後ろも見ないで、城内へと突進した。続く李逵隊の連中も、敵の迎撃のこと、城内の地理のことなどは頭の中に片鱗もない。人を見れば手当たり次第に叩き伏せ、家を見れば火をかけた。
 応戦にでる方臘兵は少なかった。それも数人の散兵ばかりだ。瞬く間に桐盧県の空を火炎が染めた。

 登元覚は応戦を主張した。
 石宝は、苛立ちそうになるのを抑えた。こんな所で応戦したら、さらに兵を失うだけだ。
「ご随意に」
 石宝は落ち着いて告げ、厩に向かった。富春江を泳ぎ渡った馬では疲れ過ぎている。別のいい馬を選んで引きだした。
 白欽と景徳は顔を見合せていたが、石宝に従った。
「散開して撤退。集合地点は、“烏竜嶺”」
 石宝の指令に従い、方臘軍はばらばらに県城から撤退した。
 方臘軍の将の中では、温克譲ら富春の三将が忠誠心に厚かった。最後まで残り、なお
渋る登元覚を馬に乗せて撤退させた。その後、県衙に火をかけ、自分たちも脱出した。
「来たぞ、急げ」
 空を焼く火が、突き進んでくる李逵の姿を明々と照らしだしていた。
 王勣、晁中が馬に飛び乗る。温克譲は馬を登元覚に譲っていたので、別の馬を探す暇もなく駆け出した。晁中が尻馬に乗せようとしたが、却って危ないと断った。
「“烏竜嶺”で会おう!」
 温克譲は北側の小門から逃げ出し、部下とともに裏道を逃げた。
 燕順たちが罠をはっている道だった。

「来たわ!」
 最初に飛び出したのは扈三娘だった。王英が追いかける。双方、徒歩での戦いである。王英は燕順に振り返る。
「親分は見ててくれ!」

 扈三娘は双刀を左右に振るい、方臘兵を続けて斬った。もとより扈三娘の敵ではない。しかし、飛び散った血に、扈三娘はふいに吐き気を覚えた。扈三娘の切っ先が鈍り、温克譲が槍で応戦に出た。他の方臘兵を相手していた王英が助けに走った。燕順はもっと速かった。燕順は方臘兵の中に飛び込むと、手向かう暇もを与えずに方臘兵を斬り伏せた。
 王英が温克譲の槍を遮り、その隙に扈三娘が懐の鉤絹を投げた。鉤が温克譲の足にからまり倒れたのを見届けて、燕順も道に座り込んだ。
「親分!」
 王英が駆け付けていく。燕順は荒い息をつき、王英の背中を力強く叩いた。
 朝日が、山間から差したところだった。

「石宝の野郎はどこだ!」
 李逵が迫った。手には板斧を握りしめ、目をぎらぎらと光らせていた。
「鮑旭を殺した、あの白い野郎だ!」
 温克譲は縛り上げられ、陣営の中央に引き立てられていた。眩しい朝日に目をすぼめ、温克譲は観念したように呟いた。
「……“烏竜嶺”」
 その名を告げた温克譲の眼底に、かすかに不吉な笑みが過った。
 梁山泊軍は連勝に沸き、それに気づいた者は、いなかった。

※文中の「芒湯山」は、正しく芒湯山です。
※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。
※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。
※文中の「登飛」は、正しくは登飛です。




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