水滸伝絵巻-graphies-

第百二十五回
黄金の花咲く森で・前編


 季節は、江が運んでくる。
 正しいかどうかは分からないが、柳絮は、そんなふうに感じる。
 水面を渡る風に、ふと、切ないような懐かしさを感じると、もう、夏の終わりが近づいている。
 ずっと薄暗く狭い場所で隠れて生きてきた柳絮は、かすかな自然の変化にも敏感だった。
 片肘に藤蔓で編んだ籠をかけ、夕暮れの土手を歩いていく。
 潯陽江は金色のさざ波を浮かべ、籠には、漁師たちが分けてくれた獲りたての雑魚が満ちている。
 どこからか、ほのかに甘い香りがした。
 目で探すと、川岸の桂花の枝に、星のように小さな蕾を見つけた。

 穆家の庭には、花はなく、野菜の畝がわずかな場所まで隙間なく作られている。実のなる柿や棗以外は、植え込みも抜かれてしまった。
 門のそばには、一本の金木犀が最後まで残っていたが、それも、薪が足りなくなって、去年の冬に切り倒された。根まで掘られて焚きつけになり、今はあとかたもない。
 門口で出迎えた片足の少年に、柳絮は魚の籠を渡した。
「今日はたくさん貰えたわ。お酢が少し残っているから、青菜を入れて酸っぱい汁に作りましょう」
 少年は頷き、上手に杖をつきながら厨房へと駆けていく。厨房では、赤ん坊を背負った母親たちが夕飯の支度に忙しく働いていた。
 柳絮が切り盛りする穆弘の屋敷は、また人が増えていた。
 動乱は収まる様子がなく、飢饉もあって、流民は増え続けている。孤児や身寄りのない女、老人たちは、戦で死んだ男たちより多かった。
 柳絮は特に世話が必要な、乳飲み子を抱えた母親や、行き倒れの老人を屋敷に住ませ、そのほか城外で焚き出しも行っている。
 幸い、穆家の屋敷には手下を置いていた部屋がいくつもあったし、闇塩の倉庫も使える。座敷も廊下も、所狭しと寝床が並んでいた。
 百人以上の雑多な人間が暮らしているのに、整然と規律を保っているのは、極めて冷静でありながら、こまやかな情をもつ柳絮の人柄によるものだ。
 彼女はすべての人に公平で、厳しさと優しさを巧みな配分で備えていた。食べ物が足りない時は泣く子供を懐に抱いてやり、立ち上がる気力のない者にも仕事を与えた。
“豆を剥くくらいは、できるでしょう”──と。
 どんな荒んだ少年も、ふてくされた老女も、不思議と柳絮の言うことをきいた。
 ここでは、誰もが役割があって、堂々と生きていることができた。
 老人たちの枯れはてた魂は、赤ん坊の無邪気な笑顔に蘇り、打ちひしがれた母親たちは、老人たちから親のような労りを受け、少しずつ笑顔を取り戻す。その母たちに、親を失った子供が、飢えたようにまとわりついていた。
 柳絮は厨房を覗き、病人の様子を見て、ようやく部屋で一口の白湯を飲んだ。
 庭の方から、かぼそい笛の音が聞こえる。
 江娘の笛だ。
“鉄叫子”楽和が残した笛を、江娘が吹いているのだ。
 もともと琵琶を巧みに弾くほどだから、音楽の素養はあったのだろう。初めは音を出すこともできなかったが、柳絮が笛を教えるという老婆を探してくると、すぐにこつを掴んだようだった。しかし、いくつかの音は出せたが、続かない。
「この娘は、息が弱いから」
 老婆は短い曲をひとつ教えて、それだけを繰り返すように命じた。
「遠くの人に聞こえるように、せいいっぱい吹いてごらん。そら、そんなんじゃ、隣の家にも聞こえやしない」
 彼女は盲目の老芸妓で、かつては笛の名手で知られたという。今も粗末ながら身なりを整え、髪も美しく撫でつけていた。
 江娘は、根気よく同じ曲を繰り返し吹き続けた。それと共に血色がよくなり、体にも力がついてきたようだった。
 老婆は四阿の日向に座り、満足そうに頷いた。
「笛を吹くと、しぜんと呼吸が深くなり、血の巡りが良くなる。この娘は筋がいいから、どんな曲でも吹けるようになる」
 それからほどなく、老女は柳絮にみとられて死んだ。
 身寄りはなく、形見にと、陶器に入った上等の紅を江娘に遺した。

 みなが忙しく働く穆家で、江娘だけは、“仕事”をしない。柳絮のおさがりの綺麗な服を来て、いつも四阿に座っている。それでも、文句を言うものはいなかった。
 江娘が奏でる美しい琵琶や笛の音に、この屋敷に寄宿するものはもちろん、塀の外の調べが流れていく範囲の誰もが、深く心を慰められているからだ。
 今夜も、穆太公が背中を丸め、目を閉じて、笛の音に聞き入っている。その足元には、太白が前足に顎を乗せて寝ころんでいた。

 この頃の太白は、寝てばかりだ。猫の玉環が、労るように寄り添っている。
 厨房から、米の炊ける匂いが漂ってきた。
 夕飯前の黄昏時は、この家にも一瞬だけ穏やかな時が訪れる。竈の火の色、立ちのぼる湯気、食べ物の匂いが、人を心の底から安心させてくれるのだ。
(食事時は大騒ぎ……それから子供たちの足を洗って、病人に薬を飲ませて……)
 もう少し笛を聞いていたかったが、柳絮は白湯を置いて部屋を出た。すぐに門を叩く音が聞こえてきた。
「穆夫人、米を届けにあがりました」
 門を開けると、義捐の米を届けに来た若者だった。昔、穆弘の世話になったという商家の息子で、手代に荷車を押させていた。
「くず米ですが、うちの店から」
「お粥に炊けば、味は同じよ。助かるわ、ありがとう」
「運びましょう」
 若者は手代に命じて、米の袋を厨房へ運ばせた。柳絮は初めて見る顔だったが、細面で品のよい若者だった。
 こうして柳絮が女手ひとつで大所帯をやっていけるのも、“没遮闌の女房”という肩書が大いに役立っている。嫌がらせをするような命知らずはいないし、力を貸してくれる者が多くいる。彼らは、実際に穆弘が世話をしていた者もいれば、柳絮に対して不義理をしては、あの暴れ者が戻った時に何をされるか──と恐れている者もいる。どちらの“助け”も、柳絮はありがたく受け取っていた。
 柳絮が若者と商売の様子などを話していると、いつの間にか太白が寄ってきた。いつも四阿で寝そべって、起きあがることも稀なのに、さかんに若者の足を嗅いでいる。
「おや、僕が犬が好きだと分かったのかな?」
 若者が笑うと、太白はその顔を見上げ、かなしげな目をした。
 柳絮には分かった。
 薛永だと──思ったのだろう。
 若者が腰を落として太白の頭を撫でると、老犬はゆっくりと尻尾を振り、気持ちよさそうに撫でられていた。
「奥さん、梁山泊は杭州を落としたそうですよ」
 優しげな話し方も、育ちのよい“病大虫”薛永にどこか似ていた。
「きっと、もうすぐ戦は終わります」
 手代が空の荷車を推して戻ってくると、若者は挨拶して帰っていった。
 柳絮は門まで送っていった。
(戦が終わる)
 心が騒いだ。
 空には星がきらめいていた。
 次の仲秋の満月までに、家族団欒の秋の佳節までに、穆弘は帰ってくるだろうか。
 穆弘を思うと、柳絮はなぜか、あの大きな背中ばかり思い出す。
(いつもいつも、出て行くのを見送っているから)
 今度は、この門で迎えることができるだろう。
「おや」
 門を閉めようとした柳絮の裾を、黒い影がすりぬけた。
「太白?」
 老犬は門を飛び出すと、宵の通りを駆けていく。その足どりは迷いなく、元気な頃の太白と変わりなかった。
「太白!」

 柳絮は二、三歩追いかけたが、止めてはいけないような気がした。
 夜霧のなか、路傍に並ぶ家々が灰色の影となって、連なる山々のようだった。
 青白い星明りの下を、老犬は去っていく。
 その光景は、まるで、太白が深い山奥へと消えていったように、柳絮には見えた。

「今日はまた、格別に暑い」
 楊林は笠の下で汗を拭った。
 南方の水のほとりは湿気が強いが、からりと晴れれば西湖を渡ってくる風が心地よい。
 彼は杭州城内西側の、焼け跡に立っていた。もとは住民の家がひしめていた区域である。梁山泊軍が放った火は、この西側を中心に燃え広がり、見渡す限りの焼け野原となっている。そこに、焼け出された住民たちが小屋掛けをして生きていた。
 杭州城内の住民は、逃げたものが多かったが、この地を離れるに忍びずに残った者も少なくない。特に、貧しい下層の民が多かった。もともと、彼らは生活のために明教徒となったのだ。
 楊林の仕事は、彼らの情況を調べ、食料や衣服などを配給することである。
 楊林には、白勝が助手としてついてきていた。
 梁山泊軍の兵卒たちが物資を配給している間、白勝は粗末な小屋を一軒ずつ回り、楊林のところへ戻ってきた。
「楊林兄イ、年寄りや子供に、寝込んでいる者が多いよ」
「暑い盛りに、地べたで不自由な暮らしをしているんですからな……無理もない」
「急いで煉瓦や材木を集めて、家を建ててやらなきゃな」
「帰ったら裴鉄面に報告しましょう」
 楊林は井戸端に腰を据えた。この焼け跡暮らしの中心になっている井戸である。そばに生えていた木はすっかり焼け焦げ、なんの木かも分からなくなっていたが、井戸は満々と水をたたえて、人々の暮らしを支えている。
 配給に並ぶ母親についてきた子供たちが、楊林たちを珍しがって井戸端に群がってきた。
「おじさん、この井戸は、どんな日照りでも枯れないんだよ」
 楊林が由緒ありげな井戸の石枠を眺めていると、子供たちは自慢げに喋りはじめた。
「昔むかし、ひでりの時、あるおじいさんがね、役人が雨乞いするのを見て、笑ったの。雨乞いなんかより、井戸を掘るって、堀りはじめて、でも、水が出なくて、役人に嘘つきだって殺されちゃったの。それで、その息子が掘ったんだけど、やっぱり水が出なくて、殺されちゃって……」
「小三はじれったいな、おれが話すよ。それでも諦めずに堀り続けて、とうとう孫が水を掘りあてたんだ。これは杭州でいちばん深い井戸で、絶対に枯れることがないんだ」
「ほう」
 楊林は井戸の中を覗き込んだ。

 子供たちが言う通り、深い深い井戸だった。涼しい風が額にあたる。井戸の中は、暗く、細長い闇が続いて、ほんのかすかな光が彼方にゆらめいている。
「まるで、時の彼方につながっているようですな」
「くんであげるよ」
 年かさの子供が、桶を引き上げて楊林と白勝に冷たい水を飲ませてくれた。
「うまいだろ」
 嬉しそうに笑う子供たちの顔にも、必死の形相で配給品に手を伸ばす大人たちの顔にも、もう明教の冷やかな影はない。
 白勝は喉を鳴らして水を飲んだ。汲んでくれた子は、杓児くらいの年頃だった。
「もういっぱい」
 白勝は嬉しかった。
 焼け跡の町に、笑い声と泣き声と、怒鳴り声が混じり合って、生きていることを全力で謳歌しているようだった。

 楊林たちは仕事を終えると、湧金門の“役所”にもどった。
 裴宣を頭とする梁山泊の事務房“左廂”が、臨時の仕事場をもうけている。船着場では、穆弘たちが、李俊が取り分けておいた袁評事の米を荷揚げしていた。
 阮兄弟は、壊れた船を片づけながら、まだ使えそうなものを選り分けている。
 城内には、治安維持と住民の救恤のための内務部隊が入り、その他の軍は皋亭山の陣と、杭州城外に分散して駐屯している。
 宋江ら首脳部は太子宮に入り、次の行軍の戦略を練っていた。
 いよいよ、方臘の本拠地である清渓県を攻めるのである。
 攻め入る道は、南と北と二つある。どちらも険しい山間部を通る剣難である。宋江と盧俊義が、どちらを行くか籤で決めることになっていた。
「どっちになるかのぅ」
 穆春は興味津々だ。
「北には郁嶺関、南には烏竜嶺ちゅう難所があるそうぢゃ」
 兄の穆弘は頓着しない。
「どのみち、水軍は睦州路ぢゃ」
 穆弘は米を運ぶ水夫たちを監督しながら、西湖の風景に目をやった。
“東南第一州”と呼ばれる杭州は、宋国で最も美しい城市のひとつだ。方臘の乱が旗揚げした場所であり、戦乱の爪痕は生々しいが、被害を免れた地域は、往年の美しさを止めている。湖畔の柳、石橋、堤──繊細で優美な美しさである。
 風に揺れる柳の姿が、穆弘に珍しく妻のことを思い出させた。

(あれはしっかりした女ぢゃ。心配はいらん)
 船着場に気持ちを戻すと、楊林と白勝が裴宣に報告していた。
「病人が多いようです」
「疫病が出ないよう、早急に薬草を配給しましょう」
 裴宣は、すぐに薛永に城内の薬草を集めるように命じた。楊林たちも行こうとしたが、胸のあたりを押さえて足を止めた。
「楊林兄イ? 顔色が良くないよ」
「すこし、胸が……」
 そう言って、楊林はふいに昼に喰ったものを嘔吐した。
 穆弘が楊林の体を支えた。
「暑気あたりか。日陰で休め」
 穆弘も汗をぬぐい、船着場の井戸から水を汲んだ。手拭いを濡らして楊林に渡してやり、自分でも碗に汲んだ。
 裴宣が見とがめた。
「生水はよしなさい」
「わしの腹は江南の水では壊れん」
 杭州は水がいい。
 穆弘は平然と冷たい水を飲み干した。

 宋江と盧俊義は、進軍路を決めるための籤をひき、宋江が南路、盧俊義が北路を当てた。
 宋江と水軍は、烏竜嶺を越え、睦州から川沿いにて清渓県へ。
 軍師は呉用。従う将は、関勝、花栄、秦明、李応、戴宗、朱仝、李逵、魯智深、武松、解珍、解宝、呂方、郭盛、樊瑞、馬麟、燕順、宋清、項充、李袞、王英、扈三娘、凌振、杜興、蔡福、蔡慶、裴宣、蒋敬、郁保四。水軍は李俊、阮小二、阮小五、阮小七、童猛、童威、孟康。三十七名の頭領と兵三万五千。
 盧俊義は郁嶺関を越え、歙州から清渓県へ。
 軍師は朱武。従う将は、呼延灼、史進、楊雄、石秀、単廷珪、魏定国、孫立、黄信、欧鵬、杜遷、陳達、楊春、李忠、薛永、鄒淵、鄒潤、李立、李雲、湯隆、石勇、時遷、丁得孫、孫新、顧大嫂、張青、孫二娘。二十九名の頭領と、兵三万。
 その名簿が発表されると、梁山泊軍内に、いくらかの動揺があった。張横は意識が混濁したままで、林冲も戦場で倒れたきり病床についている。それ以外にも、名前のない者たちがいたからだ。

「楊林に白勝……朱貴もか」
 魯智深は、特に出陣の用意もない。水がわりの酒を瓢箪に詰め込むだけだ。
 武松は戒刀を研いでいる。
「孔明も倒れた。ついさっきだ」
 日の当たる道観の軒先で、二人はそれきり無言だった。
 通りから、行き交う住民の姿が消えていた。

 杭州城内に、急速に“疫病”が蔓延し始めていた。
 患者は、下層の住民を中心に、梁山泊の兵士にも広がっていた。
 裴宣は城内外から医者を集めたが、誰にも治療法はおろか、病名も分からなかった。
 裴宣は愚痴をこぼすようなことはないし、仮定でものを言ったりもしない。しかし、それでも、口をついて出た。
「よりによって、こんな時に安先生がいないとは……」
 病人は、軽微な症状の者が多かったが、頭領の中では楊林、白勝、孔明、朱貴は、発熱と憔悴が深刻だった。
 いずれも城内に駐屯し、食料の配給など民生に関わった頭領たちだ。
 裴宣は病人を隔離し、城内の衛生に務めたが、さらに穆弘が倒れたという報せが届いた。
「居住区に出入りしていないのに?」
 裴宣は疑問を抱いた。城内に入った頭領たちも、太子宮の本営では病人は出ていない。彼らは住民との接触は殆どない。穆弘も船着場での物資の荷卸しの監督をしていただけで、居住区へは出入りしていない。
(もしや)
 裴宣は汚染源は水ではないかと疑い、すぐに城内の井戸を封じた。夏場ゆえ酒や西瓜で水分をとるよう命じていたのに、穆弘が船着場で生水を飲んだのを覚えていたのだ。
 井戸を封じ、湖の水を使うようにすると、それ以降、発病する者は出なくなった。しかし、どんな治療を試みても、倒れた者たちが回復する兆しはなかった。
 裴宣も、よもや、それが疫病ではなく、方臘軍が撤退の際に井戸に投げ入れた毒のためとは、予想することができなかったのだ。

 出陣の日が迫っていた。
 呉用の心配は、“病”とは別なところにあった。
 一番の問題は、兵が減ったことだった。疫病ならば、症状が軽度であったも従軍させるわけにはいかない。六万の兵を準備していたが、調べると一万近くが減っていた。
 東京の宿太尉に援軍を要請する使者を送ると、呉用にはようやく病人を見舞う時間ができた。
 病人は、城外の六和寺に集められていた。銭塘江に臨む、清雅な寺だ。
 病床に臥す頭領たちの看護には、朱富と、穆春が残されることになっていた。出迎えた朱富は、伝染を避けるため、口元に布を巻いていた。
「白勝の症状が重い」
「会えますか」
「疫病ならまずいが……わしは、そうではないような気もする」
「というと」
「毒」

“笑面虎”朱富は、薬酒作りの名手である。
「しかし、どんな毒か分からん。明教の、毒だろう」
 撤退する軍が、井戸に毒を入れるのはままあることだ。
 住民が梁山泊軍に投降することを見越して、そんなことをしたのだろう。方天定が自分たちが誤って飲むことを恐れてか、太子宮の井戸が無事だったのが幸いだ。
 呉用はまず張横と林冲の部屋を訪ねた。張横はうわ言を繰り返し、林冲は寝息もたてずに眠っていた。
 続いて、呉用は“疫病”に倒れた病人たちを見舞おうとした。彼らは隔離されている。朱富が、誰かひとりにしてくれと、呉用に頼んだ。
「いま先生に万が一のことがあっては」
「では、白勝に」
 呉用は、何気なくそう答えた。
“白日鼠”の白勝とは、運城県以来の付き合いだ。しかし、長らく親しく話すこともなかったように思われる。
 晁蓋が斃れ、公孫勝が去り、劉唐も死んで、北斗の星座は、もう散り散りだ。今回、出陣すれば、呉用の命の保証もない。白勝とも、二度と会えるか分からないのだ。
 そんな感傷が、呉用になかったとは云えないが、実際に会った白勝の姿は、その程度の感傷など瞬時に打ち砕くものだった。
 白勝は寝台に横たわり、その青黒くむくんだ顔には、すでに濃い死相が出ていた。下痢と嘔吐を繰り返し、今は粥も飲めない状態だと、朱富が言った。
 呉用は枕元から声をかけた。
「白勝」

 白勝は落ちくぼんだ目を、かすかに開いた。呉用と分かっているのかどうか、焦点の合わない目を中空に向けている。
 その手が、ふいに呉用の袖を掴んだ。
「苦しい……痛てえよぅ……!」
 喉の奥から絞り出すような嗄れ声だった。痩せた指で呉用の袖にしがみつき、白勝は泣いた。
「たすけてくれよう……晁蓋兄イ」
 白勝は呻き、痙攣して、海老のように体を丸めた。異様な匂いに、呉用がそっと布団をめくると、大量に下血して腰のあたりがべったりと赤黒く濡れていた。
 呉用は哀しみより、湧き上がる怒りを感じた。
“ねずみの白勝”──白日鼠。
 まっ昼間からウロついて、おこぼれに与る真昼のねずみ。お調子者で、いきがっていても、お人好しの白勝だった。
 その星は“地耗“の星で、『耗』とは、ねずみの毛のように、か細く、かすかで、ささやかなことだ。磨り減って、やがては消えていく星なのか。
 その命も、このように、みじめに消えていくのか。
 呉用が立ち尽くしていると、白勝がひび割れた唇を震わせた。
「呉先生……」
「白勝、私はここにいますよ」
「……いま、阿姜が来ていたんだ……」
 白勝は笑おうとしているようだった。
「へいきさぁ」
 白勝は虚ろな笑みで、呉用を見上げた。
「あっちには、晁蓋兄イも、劉唐兄イもいるだろ……でも、困ったな。女は、初めての男に背負われて、あの世の川を渡るンだろ…………阿姜は呂三の女房だったから、俺を、待っているかなぁ」
「白勝、なにか、欲しいものは」
「先生……おいら、本当に、死ぬのかい」
 呉用は答えられなかった。どんな計略をほどこすことも平気だったのに、こんな時に限って、呉用は嘘がつけなかった。
 沈黙のなか、部屋はひどく暑かった。
 朱富が呉用に土瓶を渡した。呉用は、白勝の乾いた口に、そっと水を注いでやった。
 その水は、白勝の口からこぼれ、顎を伝って、灰色のしみとなり敷布に広がっていった。
 苦しげだった白勝の呼吸が、少し楽になったようだった。それを見届け、呉用は去り、やがて、朱富も去っていった。
 時が、ゆっくりと流れていく。
 真昼の空に白い雲がわき上がり、ただ蝉だけが鳴いていた。
 眠る白勝の横顔に、雲の影が流れて、消える。
 少しだけ開いた窓から、ふと、涼しい風が吹いたようだった。

「阿姜!」

 白勝は息を引き取った。
 蝉の鳴く、真昼のことだった。

 梁山泊軍が杭州に駐屯している数日の間に、朝廷から“褒美”が届いた。
 金銀や布帛、剣や食料などである。将兵にも褒美があり、三十六人の上将には、特に天子から御酒と錦衣が下賜された。
 花栄は色鮮やかな布を手にとった。
「俺たちの機嫌をとって、さっさと方臘を討てというのさ」
 花栄は自分あての御酒を部下たちに分け与えた。

 分配が終わっても、事務を預かる裴宣のもとには、八着の錦衣が残されていた。
 二仙山に帰っている公孫勝と、陣没した七人の上将──徐寧、張順、董平、張清、雷横、索超、劉唐のものである。
 裴宣は、身寄りのある者は家に送るように手配し、ない者の分は梁山泊軍の公共の財とした。
 張横と林冲の分は病床に届けられ、穆弘のものは弟の穆春に預けられた。
「立派な着物ぢゃ。はやく兄ちゃんが着たところが見たいのう」
 穆春は、横たわる兄に錦衣を見せた。
「どうぢゃ、兄ちゃん」
 穆弘は大の字になり、天井を睨んでいる。
「われが着てみい」
「わしには似合わんて」
 穆弘は何か言いかけて、息を詰め、腹をおさえた。
「痛むんか、兄ちゃん」
「……はらわたが千切れるようぢゃ。兄ちゃんは、もう助からん」
 穆春は言葉につまり、涙がこみあげそうになった。
 兄のこんな姿を、生まれてから一度も見たことがないのだ。いつも、誰よりも強く、怖ろしかった兄だった。
「春、着ろ」
 穆春は、恐る恐る錦衣に袖を通した。
「よう似合うとる」
「大きいわい」
「飯を喰え、毎日、一升も喰えばでかくなる」
「兄ちゃんみたいにか」
「でかくなれ! 春よ、これからは、われが“遮る者なし”になるんぢゃ」

「いやぢゃ」
 穆春は剥ぐように錦衣を脱いだ。
「兄ちゃん、わしは、ずっと“小遮闌”でええんぢゃ」
 穆春がさらに言おうしたところへ、史進が酒壺を担いでやってきた。
「“没遮闌”の」

「おお、“九紋竜”の」
「あんたと御酒で一杯やろうと思ってな」
「ええのう」
 体を起こそうとした穆弘を、穆春が慌てて押し止めた。
「兄ちゃん、酒はいかん」
「春はあっちへ行っとれ」
「兄ちゃん!」
「行け、言うとる」
 穆弘は弟の腕を払いのけた。
 窓の遠くで、銅鑼が鳴っていた。聞き慣れた、梁山泊水軍の銅鑼だ。
「船出か」
「ああ」
「史進よ、すまんが、起こしてくれ」
 史進は黙って穆弘の体を起こしてやった。
 光の射す窓の彼方で、銅鑼は鳴り続けている。勇壮に、軽快に鳴り響き、船団が漕ぎだす姿、たなびく旗が見えるようだった。

「ええ音ぢゃのう……」
 史進は杯に酒をなみなみと注ぎ、穆弘に手渡した。
 そのまま二人は静かに杯を傾けた。
 穆春が扉の隙間からそっと覗くと、二人が泣いているように見えた。
 船出の銅鑼がまたひとつ大きく響いて、青空へ吸い込まれていった。


 水軍が出陣していく。
 率いるのは李俊。阮小二、阮小五、阮小七、童猛、童威、孟康も、それぞれの船隊を連れている。
 張順、張横の配下は、李俊が率いることになった。
 皋亭山に駐屯していた軍も合流し、宋江軍も順次、杭州城を出る。彼らの後には、劉光世の軍が杭州に入ることになっていた。
 出陣の喧騒と、まるで無関係のように、今日も西湖は美しかった。
 呉用は馬ではなく、車に乗った。その表情は暗かった。
 結局、死傷者と病のために、六万いた兵は四万以下に減り、杭州にいる間に東京からの補充も来なかった。
 投降者から兵を補充したくても、明教徒は信用しきれない。もとの宋国軍の兵で、方臘軍に敗れて捕虜になっていた者を若干加えて、宋江軍二万五千、盧俊義二万の兵を揃えるのが精一杯だった。
 車は乾いた道に土埃をたてながら、次第に杭州から遠ざかる。
(そうだ)
 呉用は、白勝の柩を、南竹寺に送るように手配しておけば良かったと後悔した。あの寺には阿姜の墓があるし、忘れ形見の杓児もいる。
 あっけなく死んだ白勝と、やはりあっけなく死んだ阿姜。この世では結ばれなかったが、やはり宿世の一対だったのだろう。
(阿姜と合葬してやればよかった)
 晁蓋ならば、そうしただろう。
 呉用は出陣前の慌ただしさに取り紛れ、そこまで気を回すことができなかった。
 晁蓋ならば、どんなに忙しくても、忘れなかったに違いない。
 はかなく消えた白勝の存在を、さらに自分が虚しいものにしてしまったようで、呉用の後悔は車が進むとともに深まった。
 ついに、呉用は窓から顔を出し、かたわらを進む宋江に声をかけた。
「宋江殿、“鶏尾”を借りても宜しいでしょうか」
 宋江が断るはずはなかった。命じられた乞食の“鶏尾”が、杭州へと引き返していく。その後ろ姿を見送って、呉用の心は、ほんの少しだけ軽くなった。
 その目には、蒼天の下に連綿と続く梁山泊軍の行軍の姿が映っていた。
 よく知った頭領たちの顔も、馴染みの薄い兵たちの顔もある。
 呉用は、彼らすべてに、白勝が失ってしまった、“命”の存在を鮮明に見た。
 彼らは──生きている。
 呉用は、ひとりも失いたくないという宋江の気持ちを、この時はじめて理解した。
(生き残らせなければ)
 ひとりでも、多く、生き延びさせてやらなければ。

 無数の足が、太陽が照りつける大地を踏む。
 大地は乾き、ひび割れている。
 生命の片鱗さえなく、足を置くたび、黄色い土埃が舞った。青空を覆うほどだった。
 足は、どれも骨の浮いた、汚れた足だ。草鞋、破れ靴、裸足。男も女も子供もいた。老人は杖をついている。雑多な、無数の足だった。
 難民の群は無言だが、虚ろな目や、ぽかんとあいた口は、絶え間なく無音の言葉を叫んでいた。
 逃げろ。逃げろ。東へ──と。
 彼らは、宋国の侵攻から逃れ、聖地である清渓県を目指す明教徒たちなのだ。
 道沿いに立つ枯れ木の影と、人々の影が重なって、異形の列をつくりだす。
 路傍には、行き倒れた死体が道標のように横たわっていた。のろのろと流れる川にも、岸にも、泥か芥か、区別もつかなくなった死体が腐爛していた。
 そのそばを、人々は無関心に歩き過ぎ、疲れれば骨の傍らで眠り、飢えれば死体のそばで喰った。死体にまじって、布団や服や、なにがしかの荷物も捨てられている。ちらりと目をやる者もあったが、誰にも、もう拾い上げる力はなかった。
 生者も死者も、塵も芥も大自然も、輪郭を失い、陽炎の中で渾然一体となっていた。

 その対岸に、人々の群を見つめる一人の騎馬武者の姿があった。

 淵を思わせる深い瞳は、人々の汚れた足に、自分の足を重ねていた。ほんの数年前の、まだ少年だった頃の、自分自身のひよわな足だ。
 あの時、彼は一人だった。
 たったひとり、荒野を逃げた。怯え、飢え、絶望して逃げまどった。昼も夜も、生きている限り消えない記憶だ。
(せめて、ひとり、同じ境遇の道連れがいれば、これほどの深い闇に陥ることはなかったかもしれない)
 方臘軍の四大元帥の一人──明使“流星”石宝は、川のように連なって歩む難民たちを羨んだ。
 銭塘江は、遡ると富春江と名前を変える。その名のとおり、美しく豊かな大河だったが、いま、打ち続く戦乱と天災のため、水は汚れ、川岸は荒れ果てていた。
 澱んだ川の流れを挟んで、石宝は荒野にひとり佇む。炎上する杭州から逃れて、幾夜も一人で駆けてきたが、それ以前より、彼はずっと孤独であった。
 同伴者は、“幻影”だけだ。
 父の、祖父の、叔父や兄たちの亡霊が、つねに彼の背後に佇んでいる。
 みな善良で、勇敢だった。それなのに、麦を刈るように殺された。彼らの首を集落の土塀の上に並べて、宋国軍の兵士たちは、笑っていた。
 その残像が、石宝の胸にわだかまっていた、かすかな慙愧をぬぐい去った。
 方天定は杭州城を棄てるにあたって、毒物を貧しい人々が住む居住区の井戸に投げ入れさせた。
 固形の毒は無味無臭。少しずつ溶け、ゆっくりと人の体を蝕む。西方伝来の毒で、石宝にも解毒法は分からない。
 河が流れる。
 汚く濁った、命など育みえない死んだ大河だ。それなのに、人は、この川沿いに進むことを、やめない。その先に、なにかがあると、信じているのか。
 石宝は河の彼方へ視線を向けた。小さな鳥の影がひとつ、雲を横切っていく。
(ああ、この河の先に、私の家が)
 灰色の土壁、門前のおおきな楡の木。石づくりの四阿と池。春には木蓮が咲き、秋には桂花が甘く匂った。
(すべて、もうない)
 家はなく、村もなく、家族も、知り人も、誰もいない。
 それなのに、なぜ、河は変わりなく流れるのだろう。
 石宝は天の彼方なる光に問うた。
 星は、流れれば消えてしまうのに。
 私は──いつ、消えるのだろう。

 声が聞こえた。
「あっ、あそこに流星将軍が」
 川向こうの流民の群からだった。亡者のような目に生気がもどり、流民たちは石宝へ痩せた腕をさしのべた。
「杭州は落ちて、方太子は殺されました」
「お助けください。梁山泊軍は井戸に毒を投げ入れて、無辜の民を殺しております」
 対岸に集まる流民たちの哀訴から逃れるように、石宝は馬を返した。
 川沿いに去っていく石宝を、ひとりの老人が驚いたように見守っていた。
「あれが、有名な“流星将軍”かね」
 傍らの連れの男が頷いた。
「お名前は?」
「たしか、姓は石と」
 老人の目に、なんともいえぬ色が浮かんだ。
「まちがいない。あれは、石家塢のぼっちゃま」
「まさか。石家は反乱の首謀者として、九族まで殺された。女子供も、ひとりも逃れなかったと」
 人々は、また歩きだす。
 老人の驚きも、人々の落胆も、無言の流れに呑まれ、消えていく。
 単調で、重苦しい、沈黙の行進だった。
 彼らは、なにかを守り抜こうとしているのに、それがなんだったのかさえ、見失ってしまっているに違いなかった。
 その流れの中から、ひとりの少女が崩れ出るように駆けだしても、振り返る者もいなかった。

 北路を辿る盧俊義軍も、杭州を離れる時がきた。
 張横、穆弘、林冲、朱貴、楊林、孔明が病のため従軍できず、朱富と穆春が看病のために残った。
 丁得孫は相変わらず言葉を発することもなかったが、薛永が世話を焼いていた。怪我の直りきらない李雲には、石勇がさりげなく付き添っている。
 病人があふれる杭州から離れるほど、彼らの心は、少しずつ軽くなっていった。
 楊雄と石秀、孫立、孫新と顧大嫂の夫婦、鄒淵と鄒潤の叔父甥も一緒に行軍して、賑やかだった。軍師の朱武も、久しぶりに少華山以来の弟分、陳達、楊春と同じ隊だった。
 軽快に馬を進める盧俊義に、朱武は話しかけた。
「燕青はどうしているでしょうな」
「燕青? そうだ、忘れていた」
「薄情な“御主人”だ」
「柴大官人と二人連れなら、万に一つも間違いなかろう。小乙とて、わしに心配されても困惑する」
「いかにも」
 朱武は思わず頷いた。
 盧俊義は無神経なところもあるが、その無頓着な明るさが、救いになる時もある。

 最後は、梁山泊軍の事務部隊が杭州を出ることになっていた。後片付けや引き継ぎを済ませ、裴宣は楊林のもとを訪ねた。郊外で手に入れた果物を少し携えていた。
 梁山泊軍が去った杭州は、どこもがらんとして静かだった。
 街にもまるで人気はない。住民は食べ物を探しに行く時以外はじっと家に隠れている。病と戦が通りすぎるのを、息をひそめて待っているのだ。
 裴宣の心は重かった。
 みなが、彼に遺言や遺品を託すのが、やりきれないのだ。
 公正であるとともに、その沈着冷静さによって“鉄面”の異名をとる裴宣だが、その心は鉄石ではない。
 万が一のことがあれば──と孫立や朱仝から手渡された包みを、送らないで済むように裴宣は心から願っていた。
 城外の病棟には、薬草と、汚物の混じった、異質な匂いがたちこめていた。
 死者は順次、城外に運びだされていく。庭先には、たったいま息を引き取ったばかりの死体が筵をかけられて並んでいた。
 ぴったりと閉じられた扉の向こうからは、ひっきりなしに、うめき声や悲鳴が聞こえる。
 裴宣さえ気力を奮い起こさなければ、歩き続けることが困難だった。
(楊林の部屋はどこだろう?)
 誰かいないかと思って顔を上げると、薄暗い回廊の向こうを、白い影が横切った。
 ぎょっとして目を凝らしたが、もうどこにも影はなかった。
「どないしたんぢゃ、“鉄面”」
 振り向くと、穆春が立っていた。

 裴宣は穆春に案内され、楊林を見舞った。病室は狭く、隣の寝台では孔明が眠っていた。
“錦豹子”楊林は梁山泊では貴重な事務方で、偏屈者が多い左廂の中でも、最も話しやすい相手だった。人情家だが生真面目な裴宣は、楊林の明るさと世間慣れしたところに、ずいぶんと助けられてきたのだ。
 裴宣は、書類の詰まった木箱をいくつか楊林の部屋に預けた。
「梁山泊軍の様々な記録が、この中に整理してあります。具合のよい時に自由に見て、あなたの本に書き加えるといい」
 裴宣は励ますつもりだったが、楊林は力なく横たわったままだった。
「もう、その力があるかどうか……あとは、東京の蕭譲さんに頼もうかと……」
「気弱なことを」
「誰かが仕事を続けてくれれば、一安心……梁山泊のみなのことが、後世に伝わらないのが何よりつらい」
「ならば、最後まであなたが書かねば」
 裴宣の言葉が、少し叱るような調子になった。彼自身、再び杭州に戻れるかどうか分からないのだ。
 しかし、そのことは胸にしまって、裴宣は楊林を励ました。
「あなたは槍まで筆管槍を使っているくらいだから、本当に書くことが好きなはず。“水のほとりの物語”は、あなたの一生の仕事なのだから、途中で投げ出すようなことをしてはいけない」
 病み疲れた楊林の目が、束の間、未来を見たようだった。
「この命が、もつでしょうかなぁ……」

「人は、やり残した仕事あるうちは死なないものです」
 裴宣は思う。では、死んだ者たちには、心残りがなかったのか? それでも、楊林を励ますために、裴宣は言うのだ。
「杭州は桂花が有名だ。我々が戻るころには、満開でしょう」
「星のような金色の花……見たいですなぁ」
 裴宣の懐深くに仕舞われた帳面には、これまでの死者の名と、その遺品の送り先が記されている。
 その数行の文字もまた、彼らが生きた証であった。

 裴宣も去り、あたりは静寂に包まれた。朱富は厨房の片隅で薬を煎じ、穆春は看病疲れで居眠りしている。
 朱富は薬を煎じ終わると、重たい足どりで兄の病室に向かった。
「……苦いぞ、兄さん」
 朱富の顔は、いつも笑っているように見える。しかし、兄である朱貴には、朱富が少しも笑っていないことが分かった。
「よこせ」
 朱貴は碗に口をつけ、顔をしかめた。そのまま一息に薬を呑み下し、朱貴は胸元を押さえ、苦悶した。
「兄さん、水を」
 弟が差し出す水を遮り、朱貴はしばらく息を詰めていた。
 朱富は、どす黒く変わった兄の顔から目をそむけた。毒をもって毒を制す──この“疫病”の解毒薬を見つけるために、朱貴は自ら、さまざまな劇薬を試しているのだ。しかし、いまだ有効な処方は見つからず、すでに“疫病”に蝕まれている朱貴の命を、さらに削っていくだけだった。
「富よ、この薬が効かなければ、附子を使え。雷公藤は、まだ手に入らないのか」
「死ぬぞ、兄さん」

「俺たち兄弟は、ずいぶん大勢を盛り殺した。一度くらい、人を助ける薬を作れ」
 朱富は無言で兄の布団をかけなおすと、茶碗をもって部屋を出ていった。
「この薬で様子を見よう……少し、休んでくれ」
 朱貴は目を閉じ、息をついて横たわった。しかし、すぐに込みあげる悪寒に咳き込み、飲んだばかりの真っ黒な薬を吐いた。全身が痺れ、胸苦しさに息が詰まった。
 すでに限界量の毒を飲んでいるのだ。海老のように体を丸めてはげしい目眩に耐えていると、誰かが、そっとその背中をさすった。
 顔を上げると、枕元に人が立っていた。ぼんやりとした白い影を見て、朱貴は冥土の鬼卒が迎えにきたかと、ぎょっとした。
 しかし、それは鬼卒ではなく、林冲だった。
 朱貴は目を疑った。林冲は病に倒れ、起き上がることもできないはずだ。それが、白い戦袍を身にまとい、蛇矛を杖に、立っていた。
「……どうだ、具合は」
 林冲は、朱貴に尋ねた。朱貴も尋ねた。
「行くのか……林冲」
「看病ができず、すまない」
 林冲の左腕は不自由に強張り、顔の左側にも、かすかな麻痺があるようだった。それは苦悶の表情にも見えたが、朱貴には分かった。
 それは、惜別の眼差しであり──長年の、朱貴に対する感謝であった。
「すまない」

 そして、林冲は背を向けた。
 右手の蛇矛を杖にして、左足を引きずるように部屋を出て行く。
 その背を見送り、朱貴は、天を呪った。
 あんな体になっていながら、天は、まだこの“英雄”を手放そうとはしないのだ。
(“梁山泊”があるかぎり──あんたは、行くのか)
 林冲の足音が、かわいた廊下に、ゆっくりと遠ざかっていく。
 去りゆく林冲の足音は、雪原にひとつひとつ足跡が深く残るように、重く、熱く、朱貴の胸に刻み込まれていった。

 河が流れる。
 杭州陥落より数日前。
 空は、未明の嵐に洗い流されたように晴れ、川は水量をたっぷりと増していた。
“浪子”燕青は、船縁により、夏の風に吹かれていた。
「すごい嵐だった。船が壊れなくてよかったよ」
 富春江から分かれた浦陽江の流れを、彼らがのった小船は何日も遡っている。
 葦簾で覆った船室を備えた客船で、篤実そうな船頭が櫓をとっていた。
 もっとも、船室といっても、雨がしのげる程度のものである。両側は空け放ちになっていて、河の流れが見通せる。
 その船室には書生姿の柴進が座り、お供の燕青は船頭の足元に腰掛けていた。
 孟康が準備してくれた槿花を飾った船は、銭塘江を渡った先の越州で乗り捨てた。方臘軍が船の交通を厳しく規制していたからである。
 二人は諦めて地上に上がり、地元民の小船を雇った。その方が、警戒もされず、却って良かったようだった。諸曁県からあとは睦州まで陸路を予定していたが、雇った船頭が水路の方が安全だと言うので、それに従っている。
 実際、この炎天下では、船旅の方が快適だった。
(力を蓄えておかないとな)
 燕青たちの役目は、方臘の本拠地である睦州清渓県への道筋や、幇源洞にあるという方聖宮の場所を探ることだ。方臘軍の兵力や防備、謎に満ちた方臘をとりまく重臣たちの情報が掴めれば、なお良いと燕青は考えている。

 柴進は、扇で風を呼んでいた。

 船旅は快適だったが、無聊なものだ。
 風景はたいして変わらず、長旅をともにしている燕青とも、そうそう話題があるわけではない。
 柴進は扇を揺らし、川を眺めているしかなかった。
 扇は、愛用の和扇である。全面に金箔を張り込んだ、高価なものだ。滄州時代からのお気に入りで、長い梁山泊軍の暮らしでも、その輝きは些かも損なわれていない。
 灰色の流れ、灰色の荒野。殺伐とした風景の中で、黄金の扇の色が、孤独な星のように冴えている。
 その灰色の河を、珍しく死体ではなく、なにか色づいたものが流れてきた。花か──と見守っていると、流れてきたのは、色糸で花を刺繍した女物の靴だった。
 柴進は、感傷を感じた。
 どこの佳人が履いていた靴か、なぜ川に落ちたのか、そして、人知れずどこまで流れていくのか。もの言わぬ死体よりも、その片方の靴の方が、より痛切に、激しく、人の尊厳を叫んでいた。
 靴は、流れに沈むこともなく、船縁をわずかに避けて、流れていった。


 船頭は元気だった。
 まだ二十をいくつか出たくらいだろう。日に焼け、小柄だが、骨柄はしっかりしている。“阿鉄”という名前のとおり、鉄のような胸板と肩の持ち主だった。大きな裸足で船板を踏み、休みなく櫓を押している。楽な仕事ではないが、その顔からは、船頭の誇りと、船を操るのが好きでたまらないことが見て取れた。
 阿鉄は江南の船頭らしく、陽気な男だ。ひっきりなしに喋っている。だいたい燕青が相手をしてやるが、しだいに相槌にも倦んでくる。それでも、阿鉄は機嫌をそこねることもない。
「やりきれんなぁ」
 彼方の岸をのろのろ進む難民の群を追い越しては、阿鉄はぶつぶつと繰り返していた。燕青は阿鉄の飼い猫を撫でながら尋ねた。
「阿鉄よ、なにが一体やりきれないんだ」
「まだ明教の聖句など唱えているあの連中がさ」
 阿鉄は信心深い男で、自分の家は先祖代々、観音菩薩を信仰していると言った。
「観音菩薩は、人間の最後の一人が苦海から救われるまで、ご自分は成仏なさらない。みんなが飯を喰い終わるまで、ご自分は飯を喰わんということだ。ありがたや。摩尼仏は、瓜をくれるだけじゃないか」
「あんたも、ついせんだってまで方臘軍にいたんだろう」
「刀で脅されちゃ、しかたない。おふくろもいるし。俺は十二の頃から賃貸しで船頭をして、一文二文とたくわえて、やっと自分の船を買ったとこだったんだ。死にたかないさ。明教の念仏を唱えさせられた時も、心の中で観音様に詫びていた。観音様は、人は生まれながらによいものだと教えてらっしゃる。明教は、人は汚れた悪魔の入れ物だなどと嘘をつく。たしかに糞袋みたいな奴もいるが、みんながみんな、そんなこと、あるもんか」
 阿鉄の言葉は素朴なぶん、多くの“明教徒”の気持ちを代弁していた。
「大慈大悲の観音菩薩は、謝ればちゃんと許してくださる。あの難民連中も、もう明教なぞアテにするのは、よしたがいいのに」
 方臘軍が撤退すると、施しや義舎を失った明教徒たちは、瞬く間に困窮した。しかし、阿鉄は逞しいもので、どさくさに紛れて方臘軍に取り上げられた船を盗み出し、まんまと逃げてきたという。
「白く塗られていたが、自分の船だ。一目でわかった」
 阿鉄は誇らしげだった。
 ただ、財貨を穢れとする明教のため、江南では商業も流通も壊滅状態になっている。船があっても、船を傭うものがないのだ。いよいよ喰えなくなり、一家で首を括ろうとしいたところを、通りかかった柴進に雇われた。
「旦那方は、観音様のお使いだ」
 阿鉄の言葉は、お世辞ではない。
「その猫が」
 櫓を押しながら、阿鉄は燕青が撫でている片目のぶち猫に目をやった。
「俺たちが腹をすかせてると、ネズミだ、バッタだのとって、戸口に置きにくる。いじらしいが、その猫をさいごに喰って、おふくろと首をくくろうと話してる時に、旦那方がいらして米をくだすった。猫も手を合わせとろうさ」
 燕青は笑って、猫の顎を撫でてやった。
「たいした義猫だ」
「俺とて、猫には負けられん」
 阿鉄は櫓を押す腕に力を込めた。
 彼方に山並みが見えてきていた。流民たちもその山を目指しているようで、彼らの足も心なしか早まっているようだった。
 船は川を遡り、山影は少しずつ大きくなる。
 あの山を越えれば、睦州である。睦州から明教の聖地、清渓県には、二百里もない。
「睦州は絶対におちない。逃げ込めば、もう安全だ」
 難民たちの、そんな祈りが聞こえてくるようだった。


 夏山の緑を水面に映し、風景は戦時にあっても幽玄である。水も徐々に清らかさを増し、空気までが変わって感じた。
 方臘軍に塗られた船は、だいぶ洗ったというが、まだ全体に白っぽい。それが却って幸いし、小船は咎められることもなく浦江を遡り、山間へ入っていった。
 阿鉄には、睦州に親戚を訪ねて行くと言ってあった。
「親戚の家は、城内かね」
 阿鉄は聞きたそうな顔をした。それは好奇心や疑念ではなく、純粋な好意である。力になれることがあればと願っているのだ。
 燕青が答えた。
「そいつは聞かないでくれ。外聞の悪い話だからな。旦那様が学問にかまけている間に、奥様が睦州の実家に帰ってしまって……」
「実家に」
「そうしたら、この戦だ。心細くしていらっしゃるはず。こうして危険を冒して真心を見せれば、氷の心も溶けるだろう」
 嫁もない無骨な阿鉄には、よく分からない話だった。困ったように首を巡らせ、川の水を覗き込んだ。
 浦江は遡るほど川幅は狭くなり、水深も底が透けるほどになってきた。時たま石が船底を擦る。
 ほどなく、阿鉄は舳先を浅瀬に乗り入れ、手頃な朽ち木に綱をかけた。
「すまんが、船はここまでだ」
 この先、岸辺の道は登りになり、山に入る。麓のあたりに難民たちが集まって、なにか騒いでいるようだった。
 阿鉄は二人に船で待つように言うと、人々の方へ駆けていった。
 柴進は扇を動かす手を止めた。
「“逃げた奥方”とは、よくそんな“でまかせ”が出るものだ」
「下世話な話ってのは、却って詳しく聞きにくいものですからね」
「“浪子”め!」
 燕青は流れに手拭いをひたし、涼しい顔で首を拭いている。
「そういえば、相方の李大官人には五人も奥方がいるのに、なんであなたは独り身なんです」
「つまらぬことだ。最初の許嫁が六歳で病死し、その次は十一歳で馬から落ちた。その後は八字の相性の合う相手が見つからず、十八の頃にひとり見つかったが、従者と駆け落ちしたらしい。以来、罪は作らぬことにしている」
「へぇ」
 その間にも、難民の騒ぎは収まらない。
 やっとここまで辿りついたと一息ついていた者たちが、立ち上がり動きはじめた。力のあるものは小走りに、ないものも杖にすがって山道を登っていく。
 すぐに阿鉄も戻ってきた。
「旦那方、急いで山越えを」
 阿鉄は船室から柴進たちの荷物を担ぎだした。
「睦州からお達しで、山の関所が今日の日没で通行止めになるそうだ」
 燕青は空を見上げた。正午を過ぎて、太陽はもう西へ動きつつある。睦州に入れなければ、これまでの苦労もむだになる。
「阿鉄、関所まではどれくらいだ」
「急げば間に合う」
 阿鉄は荷物を岸へ上げると、柴進に手を貸した。燕青は自分で岸へ飛んだ。
「阿鉄、世話になったな」
「御達者で。あの難民についてお行きなさい。奥様のこと、首尾よくいきますように」
 燕青は琴や書物をまとめた柴進の荷物を担ぎ、先にたった。
 太陽は容赦なく西の稜線へ傾いていく。険しい山道を登り、空に暮色が現れる頃、ようやく木立の向こうに関所の門が見えてきた。
 門前には難民がひしめいている。すでに陽は西の山際に接し、閉門を報せる太鼓が峰々にこだましていた。
「閉門! 閉門!」
 門はもう半ば閉じられ、門楼にも門前にも、槍を持った白装束の方臘兵が並んで警戒にあたっていた。
「ご主人、急いで」
 燕青は柴進をたすけて走った。
「通してくれ!」
 二人が門をすり抜けた直後、関所の門は閉じられた。
 閉じた扉の向こうから、遅れてきた難民たちの哀訴が響く。しかし、もう扉は開かなかった。

 関に入ると、燕青には、急に気温が下ったように感じた。
 いよいよ、この先は“敵地”である。門が閉じれば、もう戻ることもできない。
 しかし、燕青の足どりは軽かった。
「行きましょう。睦州につけば、飯くらい喰えるはず」
 柴進も、悠然と襟を整えている。
「汗をかいたな。湯を使いたい」
「小乙にお任せを、“旦那様”」
 夕暮れの山道を、二人は睦州の城下に向けてぶらぶらと下っていった。
“小旋風”柴進、“浪子”燕青。
“風”と“浪”を渾名に持つ二人連れは、周囲に風波が荒れようと、自分たちには関わりないといわんばかりだ。
 旅塵にまみれた人々の間にあって、金扇を使う貴人と、琴を背負った美青年は異色の二人連れだった。
 道連れの難民たちは、まだ不安そうな顔をしている。
「睦州城は敵の間諜を警戒して、城門の出入りをきびしくしているそうだ。明教の鑑札がないと城へは入れないとか」
「うちは精舎で手形をもらって来ているから……」
 柴進と燕青は目顔を交わした。
 旅路にあった二人には、梁山泊軍の動向は分からない。しかし、睦州がこれほど守りを固めているのなら、梁山泊軍は順調に進軍を続けているのだろう。
 燕青は、今夜の宿を心配した。
(無事に睦州城に入れるだろうか?)
 その時、武器をもった一群の兵士が関の詰め所から駆け出してきた。彼らはまっすぐに、柴進たちの方へ駆けてくる。燕青はとっさに難民に紛れようとしたが、間に合わなかった。関所の守将らしい男が、指さし叫んだ。
「そこの金扇の者、止まれ!」



※文中の「没遮闌」は、正しくは没遮闌です。
※文中の「郁嶺関」は、正しくは郁嶺関です。
※文中の「運城県」は、正しくは運城県です。
※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。




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