水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第百十二回
情・前篇


「──色のない街だ」
 呼延灼が呟いた。
 剛直な老将軍が独り言など口にするのは珍しい。しかし、傍らにいた裴宣も、まったく同じことを考えていた。
 大きな犠牲を払って落した潤州は、文字通り“色のない”街だった。
 城内の目抜き通りには、一軒の商店も、露店さえない。もとからあった店も看板が外され、柱や窓の彩色も、白く塗り替えられていた。
 街は灰色と茶色と白ばかりだ。行き交う住民も、男女とも同じような白っぽい服装で、俯きがちなその顔は、聞き分けのよい子供のようだ。
 色もなく、声もない──それが、潤州の街であった。
 梁山泊に対する抵抗はないが、“解放”を喜び、軍に加わろうという者もない。ただ、ぼんやりとした、どこか頼りなげな顔をして、与えられる物を素直に受け取り、生きている。
 住民のうちには、城外へ出ることを願った者たちも少なからずいた。出家者が、“清浄な地”で修行を続けるためである。宋江はそれを許し、ここでも混乱はなかった。
 裴宣は、これが“平和”というものなのかと不思議に思った。
「絵のようですね」
 呼延灼は、不思議というより、不安を感じているようだった。
「誰かが描いた、“国”の絵か」
 整然とした街。従順な民。声もなく、音もない。
 その上に広がる真夏の空だけが青く、草木の緑だけが豊かだった。

 裴宣は話題を変えた。
「呼延将軍を護衛に使うとは、恐縮です」
「構わぬ。軍の引き継ぎもある」
 朝廷から潤州へ、梁山泊軍への報奨を含む補給物資が届いていた。現在、本営は丹徒県に移っているので、裴宣はその受け取りのために、呼延灼は護送のために潤州に残留していたのである。呼延灼軍が丹徒県の本営に合流した後は、韓存保が潤州駐屯軍の指揮を執ることになっている。
 街を抜け、城門に着くと、すでに輜重隊が並び、韓滔と彭己が率いる護衛部隊も出発の準備を整えていた。
 すぐに韓存保も見送りのためにやって来て、呼延灼は友人の無骨な手に、軍の官印を引き継いだ。
「後を頼む」
 韓存保は頷いた。
「うむ。朝廷から援軍も派遣されて来るようだ」
「鍛えてやれ」
 二人の会話は簡潔だった。潤州にいた間、二人は招安以来の久闊を叙し、さらに老境に入りつつある将として、来し方行く末を語り合う機会も多かった。
 語るべきことを語り終え、今、再び別離の朝である。
 旧習通り、韓存保は郊外にかかる橋まで、馬を並べて呼延灼を見送った。呼延灼を取り巻く部隊の中に、やや小柄な兵がいた。引き締まった顔をしていたが、かなり若いようだった。額のあたりに、傷が生々しく残っている。小魚だった。まだ怪我が治りきっていないのに、包帯をとって護衛の列に加わっていた。
 呼延灼も小魚に気づいた。
「無理をするな」
 声をかけた呼延灼に、小魚は機敏に欠身の礼をした。
「お気遣い感謝いたします。大丈夫です」
 軍はまた粛々と丹徒県へ向かっていく。韓存保は、ずっと控えていた言葉を口にした。
「威児も、手元に置いて学ばせる時期ではないか」
 呼延灼は、梁山泊でも、招安後も、息子の呼延威を戦場に伴うことはなかった。韓存保の目から見ても、威児は武人として優れた素質を受け継いでいる。
 しかし、呼延灼は答えなかった。
 呼延灼の無言の意味が、韓存保にはよく分かる。
「そうだな、わしでも迷うだろう」
 荒野に伸びる一本道の行く末ならば見通せる。しかし、この戦い、この国の行く末が、二人には見通せぬのだ。
 やがて橋に着き、二人は馬上のまま拱手した。
「また会おう」

 呼延灼の言葉に、韓存保はやや意外な顔をした。別れに際し、『また』を口にしない事が、戦場に生きる二人の流儀だったのだ。
 呼延灼は小川を流れる橋に馬を進め、彼方の山並みに目をやった。
「若い者が育っている。我々が、役目を終える時もあろう」
 去りゆく友を、韓存保は見送った。
 馬上に揺れる呼延灼の背は、かつて共に戦場を駆けた日よりも、梁山泊のほとりで殴りあった時よりも、若返り、力強く、希望を抱いているように見えた。

 梁山泊軍は、丹徒県に集結していた。
 住民は多くが逃げ散り、城内は閑散としている。本営は県衙に設けられており、呼延灼らが丹徒県に入ると、すぐに今後の進軍についての軍議が開かれた。
 呉用の策は、すでに定まっている。
「軍を分けます」
 事前に宋江に献策し、すでに承認を受けている。
 呉用の元には、徐々に方臘軍の情報が集まっていた。東京にいる楽和からは、王都尉が朝廷から持ち出した江東地方の地図も届いた。
「最終的な攻撃目標は、杭州です」
 呉用は壁に吊った江東の地図を羽扇で示した。東方に広がる海が、内陸に大きく切れ込んだところに『杭州』がある。
「杭州は清渓県にある方臘の本拠“方聖宮”の藩屏であり、兵力も最も多いと予想されます。ここが決戦の地となるでしょう。指揮官は、方臘の太子、方天定。まだ若く、経験の浅い青年です」
 羽扇の先がすっと動いて、潤州の東南にある大きな湖、『太湖』の上へ移動した。その東岸に『蘇州』と記されている。
「問題は、こちらの蘇州です。方臘の弟、“三大王”方貌は豪傑の名が高い。それが蘇州に精鋭を擁し、宋国軍に備えている。潤州が落ちたという知らせを受ければ、方貌は必ず動くでしょう」
“呉”とも呼ばれる長江の東、海に面する江東の地は、水路が張りめぐらされ、大都市が点在している。文化、商業が発達し、人口も多い。ゆえに兵も多いだろう。
 花栄は宋江と呉用の決断を指示した。
「軍を東西の二路に分け、蘇州の矛先を分散させるというわけだな」
「蘇州軍の総兵力は未知数ですが、方貌が周辺の諸城市の軍を糾合すれば、たいへんな数になることは間違いありません」
 しかも、貧困を抱えた田虎軍、野蛮な王慶軍とは相手が違う。軍は豊かで、将兵には教養があり、民心は明教によって統治されている。梁山泊軍は、これから敵の領土に食い込んでいく。包囲され、孤立すれば苦境に立たされ、援軍のあては潤州の韓存保軍だけだ。
 軍を分けて敵の兵力を分散させ、決戦地で合流、総力戦──この流れは、もはや梁山泊軍の定石となった戦略である。宋江と盧俊義が軍を分けても、本隊と支隊ではなく、ともに本隊として遜色ない戦い方ができるのも、梁山泊軍の強みであった。
 更に、呉用はもう一手を打っていた。
「焦山の水砦に集結している水軍を長江から東進させ、沿岸の諸城を落としながら海に出ます。長江、沿海の水運を掌握すれば、敵の物資、兵員輸送を阻害でき、杭州への進撃がずっと有利になるからです。全軍は、杭州で合流します」
 万全の策だったが、朱武は不安も感じていた。
「案じられるのは、戦力の消耗ですな。行く先で義勇兵を募ろうとも、今までのように行くかどうか」
 盧俊義は茶碗を取り上げ、一口のんだ。
「軍師。宋江殿は、それをせよと言っているのだ」
「それはそうですが」
「この茶は、朝廷からの“褒美”かね? 珍しく、良い物を送ってきたな」
 今回ばかりは、朝廷も兵の補充を断らぬだろうと盧俊義は見ていた。それは、かつて北京の大商人として官僚たちと深く関わってきた盧俊義の勘である。連中は保身に夢中だ。方臘軍を恐れれば恐れるほど、梁山泊軍に媚びてくるだろう。
(それゆえ、勝ちすぎるのも、よくないのだ)
 奮戦し、ぎりぎりのところで勝つ。そうでなければ、また童貫、高求あたりが嫌がらせをしてくるだろう。
 もっとも、今の梁山泊軍は、実際にぎりぎりのところで勝っている。戦死者名簿は、王都尉から朝廷にも上がっているだろう。
 盧俊義は茶碗を置いた。
「それで、どう分ける?」
 裴宣が竹筒に入れた二本のくじを持って進み出た。
「一本は“東”、常州から無錫、太湖沿いに蘇州を落として杭州へ抜ける軍です。一本は“西”、こちらは西方の宣州、太湖南岸の湖州を抜いて、杭州へ出ます」
 李逵が後ろの椅子から伸び上がった。
「おいらは宋江兄貴と一緒にいくぞ!」
「軍は、私と朱軍師で兵力が均等になるよう、公正に分配しています」
 裴宣は軽く竹筒を回してから、宋江と盧俊義の間に置いた。
「どうぞ」
 二人は同時にくじを引き、宋江は東路、盧俊義は西路を引いた。

“東は厳しく、西は遠い”
 それが呉用の観測であった。
 裴宣は朱貴と相談しながら、両路の兵力が均等になるよう頭領と軍を分配した。その表に呉用がいくつかの修正を加え、最終的な編成が決定した。
 宋江率いる東路軍は、軍師を呉用、内務を李応が担当する。五虎将からは関勝、秦明が選ばれた。
 以下、花栄、朱仝、魯智深、武松、徐寧、戴宗、李逵、史進、黄信、孫立、宣贊、赫思文、韓滔、彭己、裴宣、燕順、楊林、凌振、蒋敬、安道全、王英、扈三娘、鮑旭、樊瑞、孔明、孔亮、項充、李袞、馬麟、侯建、宋清、施恩、杜興、蔡福、蔡慶、郁保四、段景住。頭領四十二名、騎兵を主力に精兵三万。
 盧俊義率いる西路軍は、軍師は朱武、内務は柴進が担当する。五虎将からは林冲、呼延灼、董平が選ばれた。
 以下、張清、索超、劉唐、穆弘、雷横、楊雄、解珍、解宝、燕青、単廷珪、魏定国、欧鵬、登飛、呂方、郭盛、陳達、楊春、鄭天寿、共旺、丁得孫、穆春、曹正、杜遷、薛永、李忠、周通、湯隆、鄒淵、鄒潤、朱貴、朱富、李立、李雲、石勇、孫新、顧大嫂、張青、孫二娘、王定六、白勝、時遷。頭領四十七名。精兵三万。歩兵が多く選ばれていた。

 炎夏、六月。
 まず盧俊義軍が先に出発することになった。
 西路に属する董平は、徐寧と宿舎が同室だった。董平が荷造りをする傍らで、徐寧は机に向かっていた。
「また手紙か」
 董平は、やや呆れた面持ちで言った。部屋にひとつだけある古い机は、傾いた足に小石を挟み、しきりに軋む。それを煩わしがる様子もなく、徐寧は一心に東京の家族への手紙を書いていた。
「つくづく、地に足のついた男だ」
 皮肉というわけではなかったが、董平が意外に感じているのも事実だった。
 董平は初めから徐寧を高く評価していた。もとは禁軍の金鎗班教頭でなり、鈎鎌鎗法の唯一の伝承者というのも悪くない。西方渡来と鳴り物入りの甲冑も洒落ているし、その家宝を天子に奪われそうになり落草したというのも風流だ。相棒として大いに期待していたのだが、実際に同室で暮らしてみると、徐寧は極めて真面目で慎重であり、妻子へ手紙を書くことが日課であった。
「戦場からの手紙だ。届くかどうかも分からぬのに、よく書くものだ」
「だから、書くのだ」
 徐寧は手紙を書き終え、筆を置いた。
「これだけ出せば、いずれ、どれかは届くだろう」
 作戦に関わることなので、今後の進軍先などは書けない。ただ自分の今日の無事を知らせ、家族の息災を祈り、一人息子の成長を楽しみにしている──と、決まりきった文言を書く。百通のうち一通でも届けば、妻は安堵し、息子の励みにもなるだろう。
 この一通は、退役して東京へ帰る兵に託すから、届く確率が高かった。徐寧はいつもより長めに書いた手紙を丁寧にたたみ、封をした。
「今度は別組か」
 徐寧は宋江とともに東、董平は盧俊義について西へ行く。
「武運を祈る、“董一撞”」
 徐寧が出て行き、一人のこった董平は、すでに荷造りを終えた自分の行李に目をやった。あとは紐をかけ、従卒に渡すだけである。
 董平は行李を開いた。
 衣服や数冊の書物の間に、皺になった手紙が押し込んであった。遠い実家で暮らす、妻の麗芝へ書いたものである。
 董平は手紙を破ろうとした。
(どうせ──返事は来ないだろう)
 たとえ無事に届いたとしても、読まれもせず、喜ばれもしないだろう。
 この頃は、あれほど愛していた妻の顔さえ、はっきりと思い出せなくなっていた。

 西の城門外には、歩兵部隊が集まっていた。
 西路軍は歩兵に重点を置いた編成で、軍の士気は高かった。潤州戦での死者は、三人とも歩兵頭領である。歩兵部隊は互いに手柄を競うようなところもあったが、同時に兄弟のように親密だった。
「騎兵なら、華々しく死ぬるぢゃろうが」
 穆春は鄒潤相手に最後の博打を終え、勝った銭を懐に収めた。
「歩兵は犬死にぢゃ」
「ふん。死に花、って言葉もあるぞ」
 鄒潤も腰を上げ、骰を掌で転がした。いろいろと装備が必要な騎兵に比べ、歩兵部隊は気楽なものだ。武器と食料を担げば終わりだ。あとは、命を持っていくだけだ。だからこそ、歩兵には歩兵の意地がある。
「叔父貴、俺はこいつを封印するぜ」
 鄒潤は鄒淵のところへ行くと、掌の骰子を差し出した。鄒淵は怪訝な顔をした。三度の飯より博打が好きな叔父甥だ。
「どんな訳で封印する」
「つまんねぇ願掛けだ。焦挺たちの仇、俺たちの手で取ろうじゃねぇか」
「まったく、つまらねぇ願をかける」
 鄒淵は笑い飛ばし、甥の顔をぐっと見据えた。
「が、俺たちにとっちゃあ、一大事だ」

 今回の編成では、基本的に兄弟や夫婦は同じ組となったが、“山”についてはそういうわけにもいかなかった。
 清風山の“一竜三友”は、二手に別れた。燕順と王英、扈三娘が東、鄭天寿一人が西である。
 王英は不満だった。
「なんで鄭天寿だけ西なんだよ」
 当の鄭天寿は涼しい顔だ。裴宣は軍を分けるにあたり、兵力のほか、土地勘がある者や、南方の言葉が出来る者も均等に振り分けていた。蘇州出身の鄭天寿は貴重な人材で、より奥地へ進軍する盧俊義軍に必要な戦力だった。
 鄭天寿は王英の肩を小突いた。
「お前、扈三娘と一緒なら、どっちだっていいんだろう」
「誰がそんなこと言ったんだよ」
「おや、違うのか」
「なんだと!」
 燕順が二人を怒鳴りつけた。
「喧嘩は杭州でしろ!!」
 燕順の一喝を浴び、王英と鄭天寿は思わず首をすくめた。
「親分……その怒鳴り声、暫く聞けないと思うと、ちと切ねぇ」
「早く杭州へ来い! たっぷり聞かせてやる!」
「そいつは楽しみだ」
 三人の笑い声が、蒼天に響いた。

 二竜山も二つに分かれた。
 張青、孫二娘、曹正は西路で先発し、魯智深、武松、施恩が東路だ。そして、もう一人、裴宣が最後まで悩み、結局、出陣名簿から削除した名前があった。
“青面獣”楊志である。
 不運な男は、今、新たなる試練──重い病に冒されていた。
 もう出発するという頃になって、ようやく曹正が魯智深と一緒に戻って来た。孫二娘は、曹正が提げている弁当箱へ目をやった。
「やっぱりダメかい」
 楊志は療養のため丹徒県に残ることになっていた。曹正と魯智深は差し入れを持って見舞いに行っていたのだが、楊志は頑として食事を摂ろうとしなかった。
「どうしちまったんだろうね、まったく」
 孫二娘はため息をついた。
「昔の旦那に戻っちまったみたいだよ」

 索超にも出発の時間が迫っていた。
「もう行かねば」
 索超は西路である。出発前はなにかと忙しく、ようやく楊志の見舞いができた。しかし、その何日かの間に、楊志は面変わりするほど憔悴していた。
 薬罐を手に、安道全がぼやいた。
「飯は食わんし、薬も飲まん。頑固な患者につける薬はないぞ」
「俺は、病ではない」
 寝台から起き上がろうとする楊志の肩を、索超はあわてて押しとどめた。
「よせ、楊志」

 今朝も楊志は出陣すると言い張って、安道全を振り切って馬に乗ろうとしたと聞いていた。しかし、腕に力が入らず、鞍に登ることができなかった。
 楊志は咳き込み、諦めたように横たわった。
「また、夢をみた」
 その内容を、聞きたくないように索超は感じた。
「人が大勢集まって、何事か相談している。“老人”は、不機嫌なようだった。死んだ東京の叔母が、なにか熱心に語っていたが……結局、みな諦めたように散会した」
 楊志は索超の方へ目を向けた。
「林冲は?」
「もう発った」
「俺は、死ぬのか?」
 そこに裴宣がやって来て、安道全に向かって会釈した。
「宋江殿の許可が出ました。このまま楊志殿の治療を続けてください」
 安道全は東路に従軍するはずだったが、楊志の病状が落ち着くまで、丹徒県に残りたいと宋江に願い出ていた。呉用は渋ったが、宋江はそれを許した。
「感謝する、安先生」
 索超は安道全に頭を下げた。
「では、楊志はよくなるのだな」
「“神医”を信じろ、わしが必ず治してやる」
 沈んでいた索超の顔が、明るく晴れた。
「養生しろ、楊志。俺は、お前に、“戦った中で一番強い”と言わせることを、諦めてはいないのだ」
 喜ぶ索超の顔を見上げて、ようやく楊志の表情が僅かになごんだ。
「しつこい奴だ」

 西に向かう軍とは別に、北へ向かう二人連れもいた。
 阮小七と石秀である。二人は焦山の水砦に集結している梁山泊水軍に合流するのだ。石秀を水軍に誘ったのは、阮小七だった。
「俺たちは山東人だから、あんたが一緒にいてくれると助かる」
 水軍は焦山から長江沿いに江陰、太倉を落としながら海に出ることになっている。率いるのは李俊。その指揮下で、張横、張順、阮小二、阮小五、阮小七、童威、童猛、孟康が百余隻の早船に分乗して進軍する。頭領のうち阮氏兄弟だけが山東人で、言葉や風俗に通じた石秀がいれば心強かった。
 阮小七と石秀は、偵察の間に見聞した情報の報告と、軍議に出るため丹徒県に残っていた。いまその役目を終え、水軍への命令を携えて帰るところだ。丹徒県から長江までは小運河が通じているから、小舟で行く。
 別れ際、楊雄は“気をつけて行け”と、それだけ言った。
 石秀は、昔の楊雄のようだと思った。少し頼りないところはあったが、薊州で出会った頃の楊雄は、いつも石秀を気づかってくれたものだった。
 小舟から振り返ると、船を見送る楊雄の姿が小さく見えた。
「俺がいない方が、雄さんはしっかりするかもな」
 石秀は立ち上がり、笑いながら手を振った。
「杭州で会おう、雄さん」
 もう聞こえないはずなのに、楊雄はゆっくりと手を挙げた。

 董平が城門に着くと、張清がずいぶんと嬉しそうな顔をしていた。馬のそばに、商人風の男が立っていた。
 董平を見ると、張清は晴れやかな笑顔をみせた。
「瓊英から便りがありました」
 また“手紙”かと、董平は渋い顔をした。
 離れていても、張清と瓊英の中は睦まじい。“義僕”葉清も商人仲間のつてを駆使して、若夫婦の連絡が途絶えぬように苦心している。梁山泊軍の行く先々に人をやっては、薬や細々した品も届けてくる。一度、張清が“仲間や部下に分けたいが、とても行き渡らないから”と断ったことがあったが、すると、瓊英は山ほどの干し菓と上酒を送ってきた。薬屋の商売は、瓊英の才覚と葉清の献身で繁盛しているようだった。
「子供は生まれたか?」
「もうすぐです」
「楽しみだな」
「ええ」
 張清の神経質で人付き合いの悪いところが、瓊英と結ばれてからすっかり影をひそめていた。
「ああ、本当に楽しみだ」
 張清は手紙を胸に、天にでも聞かせるように言った。
「私にまた、家族ができる」
 董平は、張清の希望に満ちた横顔を見つめた。
 そして、その向こうの空が、とても青いな、と思った。
 張清が急いで書いた簡単な返事を持って、使いが帰りかけていた。董平は、懐から破りかけの手紙を取り出した。
「この手紙、麗芝に届けてくれないか」
 張清は董平の顔を見返した。
 城門から順に軍が出て行く。賑やかに、勇ましく。
 張清は呼び止めた使いに董平の手紙を託した。そして、張清と董平も蒼天の下へ駆けだした。
 真夏だ。
 暑い。
 董平は力強く湧き上がる雲を見上げた。

「張清、俺は、この戦の先に、なにか明るい未来があるように思う」
 張清は風を感じていた。
「ええ、私もです」
 彼らは若く、死よりも生、敵よりも愛する人の面影の方が、より脳裏に鮮明だった。
 勝って、一日も早く家へ帰ろう──そう言おうとした張清の声は、もう馬蹄の轟きに呑まれていた。

 潤州東南、常州城。
 その城内には、真夏の暑さも関係がないように見えた。
“明使”呂師嚢が城内に入り、住民の教化も順調に進んでいる。行き交う軍民はみな落ち着いて、なんの迷いもないようだ。
 信徒は出家者も在家者も、財産や家族への執着を断ち、私欲を捨てて、修行に励んでいるのである。
 常州の副将である許定は、城内の大路を光明精舎に向かいながら、自分の仕事に満足していた。大いに信徒を増やしたし、彼らが修行に専念できるよう、厳しく監督してやっている。呂師嚢も彼を高く評価してくれていた。
(十二神将は欠員だらけだ。俺がそこに入るのも、遠い日ではない)
 彼は元宋国の軍人で、方臘軍の侵攻にともなって投降した。しかし、いささかも後悔していなかった。腐敗した宋国軍には、常々、怒りを感じていた。彼のような下士官は捨て駒で、上官は身内ばかりを贔屓した。対する方臘軍は高潔で、実力に見合った地位を与えてくれる。
 光明精舎の聖堂で行なわれる、早朝の礼拝も清々しかった。太陽への讃歌、それから巨大な布絵を掲げて“明使”呂師嚢の講話がある。
 今朝の特別礼拝には、軍人ばかりが集められていた。呂師嚢の講和も、“戦い”の話が中心だった。
 古、“闇の王子”が世界を暗黒で支配しようとした時、“光の王”はたびたび“輝ける使者”を戦いに赴かせた。しかし、狡猾な悪魔を相手に敗北を重ね、その戦いは今も続いている──。
 呂師嚢は満場の若い軍人たちを見回した。
「君たちこそ、その“輝ける使者”の末裔なのだ」
 許定は誇らしさを感じながら、隣の席に座る、友人であり同僚の金節を窺った。
 呂師嚢の講話は、戦いの様子を描いた布絵の効果もあり、臨場感に溢れ、人を感動させる力があった。理想に燃える若者たちが集まった会場は、高揚した熱気に満ちている。
 しかし、隣の金節は、ぼんやりとした顔をしていた。
 礼拝の後、許定は金節を連れて呂師嚢のもとへ挨拶に行った。許定はすでに何度も州府で会っていたが、城外の勤務についていた金節は初対面である。

 呂師嚢は穏やかな微笑を浮かべたまま、金節のぎこちない挨拶を受けた。軍人としてはやや線が細いが、育ちのよさと、謹直さがにじみ出ている。無骨で苦労人らしい許定とは好対照だった。
 呂師嚢はこの若者が気に入り、親しく尋ねた。
「君は出家はまだなのかね?」
 許定は出家者の証である白い戦袍を身につけているが、金節は白巾だけである。
「お恥ずかしい話ですが、教団の試験に通らず……」
 金節は出家のための面試に何度も落ちていることを述べ、ただ自分が常州でやや名の知れた家の出身であり、また僅かばかりの武芸を身につけているために、副将の地位を汚しているのだと弁明した。
「それは残念なことだ」
 呂師嚢は、金節の率直さを好ましく思ったが、評価はしなかった。
「次の試験に受からなければ、前途は暗い」
 諭されても、金節は曖昧な顔で頭を下げただけだった。

 二人は連れ立って聖堂を出た。
 偵察では、梁山泊軍は宣州方面へ向かっているという。蘇州の兵力を恐れたのだろう。彼らの上官である常州の守将、統制官の銭振鵬は、すでに蘇州の三大王に指示を仰ぎ、援軍にでる準備を進めている。
「手柄を立てる好機だ」
 許定は期待している。
「うまくいけば、蘇州の王弟軍に抜擢されるかもしれん。そのためには、“修行”もかかせぬ」
 金節は返答に困った。彼は、光明乙女たちよりも妻の玉蘭の歌声の方が美しいと思うし、“光と闇の戦いの歴史”を描いた荘厳な絵よりも、山水や花鳥の絵が好きだった。
(許定は、すっかり変わってしまった)
 許定と金節は塾で机を並べていた仲だ。同年に軍に入り、方臘軍との戦いに負けて、投降した。すると、許定は娶ったばかりの妻を離縁し、すぐに出家して、今や常州の統制官、銭振鵬の一番のお気に入りだ。
 金節が黙っていると、許定はまた小言を始めた。
「知っているぞ。お前、面試でわざと間違えているだろう」
 出家のための試験は、文字を知らない民でも通るような簡単なものだ。何回か初歩の講義を聞いて、教義や聖句を暗唱すればいいだけだ。それをいつも金節は間違えていた。
「塾での成績は、お前の方が上だった。俺の目はごまかされんぞ」
「それが、なぜか間違えてしまうのだ」
「いい加減にしろ!」
 許定は声を荒らげた。
「お前は優れた武人だが、出家しなければ出世できん。分かっているはずだ」
「その出世欲は罪ではないのか?」
 金節のささやかな皮肉を、許定は鼻先で笑い飛ばした。
 宋国の軍隊も“忠節”だの“報国”だのとかいう教典を信じ込ませようとしている。それと同じだと許定は考えていた。信じて出世できるのなら、ありがたく信じるだけだ。
「きれい事を言うな。貴様とて、ただあの女と別れたくないだけだろう」
 妻の玉蘭を“あの女”と呼ばれた事に、金節はむっとした。
 方臘軍に降る少し前、金節は酒楼で出会った美しい妓女を見初め、親の反対を押し切って正妻にした。その酒楼に連れて行ったのは許定のくせに、彼は最初から玉蘭に否定的だった。
 しかし、育ちのよい金節は、友人に対して怒気を露わにはしなかった。
「妻を愛する心は、きれい事だろうか?」
 それを自分に対する当てつけと取り、許定は顔色を険しくした。許定の強張った目と、金節の哀しげな視線がぶつかった時、それを分けるように軍営から伝令が駆けつけてきた。
「急報!」
 伝令は二人を見つけると、馬から飛び下りた。
「常州城の北郊に梁山泊軍が現れました!」

「常州ってどんなところだ?」
 馬を走らせながら、王英が首をかしげた。扈三娘もよく知らない。
 あたりには軍勢の巻き起こす砂塵が靄のように立ち込めている。その上の空は、真夏の青だ。
「昔、祝彪から常州の櫛をもらったことがあったわ。有名なのよ」
「あの城を落としたら、俺がもっといいのを買ってやる!」
 王英はまだ見えぬ彼方の城を睨んだ。
 騎兵部隊が先行し、彼らの後には歩兵部隊が続いている。やがて前方の軍旗が騒ぎ、敵発見を告げる銅鑼が響いた。
「常州軍だ!!」
 扈三娘はかすかな胸の痛みを感じた。
 梁山泊軍の先鋒は関勝率いる経験豊富な騎兵部隊だ。秦明、徐寧、孫立、宣贊、赫思文、韓滔、彭己、馬麟、燕順。前方の砂塵が空へ大きく盛り上がったのは、彼らが速度を上げたしるしであろう。戦いが始まったのだ。
 秦明、徐寧、孫立、彭己はみな家族をもっている。彼らの身に万が一のことがあれば、妻子はどれほど悲しむだろう。
 しかし、方臘軍と戦うかぎり、常州は落さなければならない。扈三娘もまた戦士であった。
「約束よ、王英!」
 扈三娘は馬腹を蹴った。
「え?」
「櫛!」
 全軍が速度をあげていた。常州の迎撃軍とぶつかる前に、少しでも常州城へ迫るのだ。関勝を筆頭に、梁山泊軍先鋒部隊五千は常州城下へ押し寄せた。
 韓滔と彭己は沈着である。
「敵軍視認、数およそ三千」
 常州はこの地域でも大きな城市だ。しかし、兵力はさほど多くないと予想されていた。方臘軍が揚州、潤州、蘇州に兵力を集めていたからだ。今、揚州、潤州の軍は壊滅し、呂師嚢が連れている兵は多くない。
 緒戦は敵軍三千対梁山泊軍五千で始まった。
 潤州軍を率いるのは、統制官の銭振鵬である。城池の守りを呂師嚢に託し、自ら撥風刀をとって出馬した。名家の出身で文武両道、年若く、信仰の理想に燃えている。

「天の時を知らぬ哀れな草賊。宋の暗愚皇帝などに忠義立てする、自らの無知を呪うがいい!」
 銭振鵬の乗馬は赤い巻き毛の駿馬である。矢合わせをする暇もなく両軍は尖端を合わせ、二頭の赤兎がぶつかった。若くして統制官に任じられた銭振鵬は腕には自信を持っていた。宋国軍との戦いではたびたび手柄をあげている。しかし、関勝と数合打ち合うと、すぐに格が違うことに気づいた。
(もしや、この男“大刀”関勝)
 赤兎、大刀、たなびく長髯──官軍に籍を置いた者ならば、知らぬ者のない“大刀”関勝。銭振鵬が官に着いた時は関勝はすでに梁山泊に落草し、その名は毀誉褒貶が半ばする伝説となっていた。今、その関勝と勝負して、三十余合。銭振鵬に感慨にひたる余裕はなかった。

 呂師嚢は城壁上から戦況を望見していた。
「援護してやりなさい」
 常州軍は梁山泊軍の勢いに押され、銭振鵬は敵の刃を避けるのに精一杯だ。
「常州を失うわけにはいかぬから」
 すぐに呂師嚢とともに常州に入った六人の統制官が五千の兵を連れて援護に出た。関勝軍の後ろは秦明、宣贊、赫思文の隊が支えている。秦明は敵軍の圧迫が強まったのを感じたが、予想の上だ。
「陣形を崩さず、進め!!」
 急襲を受けての迎撃だ。敵は陣形をとる余裕もなく打ち出して、数にまかせて押してくる。それでも、方臘軍は決して烏合の衆ではない。
 白髯の伝法聖者“太白神”趙毅、眼光鋭い“弔客神”范疇はともに知将だ。槍を並べて真っ直ぐに前線の関勝を挟撃してきた。
 梁山泊軍もすぐさま黄信と孫立が馬を飛ばした。
 黄信は喪門剣を抜き放ち、“太白神”趙毅に斬りかかった。老人は馬上でよけたが、白髯が切れて風に舞った。
「老人には礼をつくすものだぞ、若人よ」
「かわいげのある爺さんならばな」
 黄信は、次は髯ではなく首を狙った。
 孫立と“弔客神”范疇は無言で打ち合う。槍と鞭では攻撃できる距離が異なるが、孫立は手練である。巧妙に馬を寄せ、敵の槍先を鞭で弾き、防御しつつ肉薄した。力量は伯仲すると見えたが、次第に黄信、孫立が優勢に立った。しかし常州軍も手を拱いていたわけではない。“遁行神”応明、“喪門神”沈抃は敏捷な軽騎を率い、関勝軍の背後へ割り込んでいく。“霹靂神”張近仁と“太歳神”高可立は城門前に陣取って守りを固めた。呂師嚢を守るのが二人の巨漢の使命である。その呂師嚢は、城壁上から梁山泊軍の動きに注目していた。
「わが方は数には勝っても、将兵の質が劣っているな」
 呂師嚢は、背後に控える金節と許定に振り返った。
「君たちで挽回できるかね?」
「お任せください」
 即答し、許定は大刀を手に城壁を下りていった。金節は一瞬、遅れたが、やはり大刀をとって許定を追った。

 秦明の両翼についていた韓滔、彭己は、常州城から新手の軍が姿を現したのに気がついた。韓滔が金節に、彭己が許定の進路を阻むべく駆けた。梁山泊軍の目標は、とにかく城壁へ肉薄することである。

 関勝軍、秦明軍の間に突入してきた“遁行神”応明、“喪門神”沈抃には、宣贊と赫思文の部隊があたり、その動きを封ぜんと奮戦している。
 徐寧、馬麟、燕順は梁山泊側の遊撃部隊だ。敵の隙をつき、押されている味方を援護する。
 今、戦場を迂回して許定、金節の部隊へ急行する韓滔と彭己の隊が城壁にもっとも近づいていた。連環馬用の重装備ではなく、通常の軍装を身につけている。
 許定は若いが意気高く、彭己を相手に果敢に挑んだ。実戦の経験も豊かである。一方の金節は堅実な戦いぶりで、韓滔の棗木槊を無難に防いだ。ただし、それにも限度があった。梁山泊軍は、宋国軍として戦った方臘軍とも、方臘軍として戦った宋国軍とも、まるで違った。その違いを肌で感じたが、金節には何かどう違うのは分からなかった。次第に韓滔に追い詰められた。
 韓滔には、相手が宋国官軍の訓練を受けた男であるとすぐに分かった。
(方臘軍に投降したのか)
 韓滔は代々の武門の家柄で、武学で学び、武挙にも通った生粋の軍人である。“軍神”呼延灼の薫陶を受け、“投降”の選択は、韓滔、彭己には存在しない。道を違えた“後輩”を、韓滔は容赦なく攻め立てた。
 金節は必死で受けたが、反撃する力はない。その頭上へ、韓滔は止めの一撃を繰り出した。韓滔と金節の目が合った。何か言いたげな、迷いの多い眼差しだった。
(意気弱れば、即ち敗北!)
 棗木槊が風を切り、金節は避けようとして体勢を崩し、馬から落ちた。乗馬は訓練された白鹿毛で、再び金節が飛び乗ると、俊敏に反転して駆けだした。
(こんな所で死にたくない)
 金節は夢中で逃げた。
(私が死んだら、妻はどうなる)
 それだけで頭が一杯だった。周囲では、両軍が揉み合うような激しい戦いが続いている。
 韓滔は金節を追った。好機である。一将が後退すれば、その部隊が続き、それを見た周辺の敵も動揺する。敵の防壁を突き崩し、城門へ迫る絶好の機だ。城門前を守るのは僅かな部隊で、防壁は薄い。
 敗走する金節を追撃する勢いに乗り、韓滔は馬を進めた。黄信、宣贊らもその動きに気づき、敵を振り切って追随しようと奮闘している。秦明の部隊も渾身の進撃を続けていた。
 一報の方臘軍は、銭振鵬の部隊も、“太白神”趙毅、“弔客神”范疇の部隊も、関勝、黄信、孫立に足止めされて動けない。辛うじて許定が彭己を振り切って城門へ向かい始めた。
 韓滔は全速で金節を追った。城門が迫り、守備兵が混乱しているのが見て取れた。
 金節は振り向いた。城門があまりに遠い。いくら駆けても近づかない。それなのに、背後に迫る仮面の男は見る見るうちに迫ってくる。棗木槊を振り上げる巨大な影は、死の影だ。
「殺さないでくれ!!」
 金節は叫んだ。
「妻が! 妻が待っているんだ!!」
 韓滔の動きが、一瞬にぶった。生け捕りにするべく、振り下ろした棗木槊の向きを変えようとした。そして、同時に、韓滔は風を裂く弦音を聞いた。
 韓滔は弓の名手である。その方角、標的、距離──すぐに悟った。

(避けられぬ!)
 すべてが一瞬の出来事だった。韓滔の棗木槊が金節を馬上から叩き落とし、同時に韓滔は横ざまに頬に矢を受けた。
 かつて戦場で一度もはずれたことのない、韓滔の仮面が空に飛んだ。

 韓滔の体が、人形のように馬から落ちた。許定を追って城門へ向かっていた彭己は、その様を目の当たりにした。
「韓滔!」
 矢の飛来した方を睨んだ彭己は、戦場に入り乱れる人馬の向こうに、大弓を構えた“太歳神”高可立の姿を認めた。彭己はすぐさま高可立へ向かわんとした。それを察した許定は素早く馬首を返し、彭己へと襲いかかる。一方、城門を守っていた“霹靂神”張近仁は、落馬した韓滔へ止めを刺すべく馳せていく。
 秦明は戦場の中央を押し切るように突撃し、彭己を狙う許定の前を遮った。
「行け、彭己!」

 彭己は即座に高可立を追った。沸騰するような混戦である。秦明は韓滔の兵をまとめて、許定の部隊に当たらせると、自らは韓滔を救いに走った。
 韓滔は戦場に倒れていた。矢は顎の骨まで達し、息をするたび喉から血が溢れ出た。懸命に棗木槊へ手を伸ばす韓滔へ、張近仁が槍を繰り出し、その喉元を一突きにした。
 韓滔は、動かなくなった。もう一撃、張近仁は止めの槍を突き出した。
「やめろ!」
 馬を躍らせ、秦明がその槍先を狼牙棒で受け止めた。“霹靂火”秦明と“霹靂神”張近仁、鉄槍と狼牙棒が激しくぶつかる。打ち合って二十余合、秦明が優位に立った。後方からは梁山泊軍が迫るのを見た張近仁は、一突きして馬間の距離を稼ぐと、秦明の狼牙棒から逃れ出た。
 押し寄せる梁山泊軍と、それを押し止めようとする常州軍。城門前の狭い土地に、敵味方がひしめきあって戦っていた。
 その喧騒の中、彭己は高可立に攻めかかった。
(韓滔よ!)
“天目将”彭己は三尖両刃を振りかざし、猛然と馬を躍らせた。
 道教において、額に開く第三の目を天目と呼ぶ。天においては、死と凶をつかさどる星である。その目が、高可立のみに据えられていた。高可立は背後の彭己に気づき、振り向きざまに矢を射放った。その矢を心眼によって受け流し、彭己は高可立の眼前へ馬を押し込んだ。高可立は怯んだ。迫る仮面の男から逃げようと身をよじり、その脇に向け、彭己は三尖両刃を振り下ろした。
 その時、背後で秦明が叫んだ。
「彭己、後ろだ!」
 振り向く間もなく、彭己の背を張近仁の槍が貫いた。
「ぐッ!」

 彭己は身をよじり、背後の敵を斬ろうとした。その頭上へ、高可立が抜き放った刀を振り下ろした。彭己の仮面が二つに割れ、乾いた音をたてて地に落ちた。

 三尖両刃を握りしめたまま、彭己の体は、地上へと崩れ落ちていった。

 関勝は激怒した。
 それは、久しく関勝さえ忘れていた激情であった。
 関勝を相手に必死に踏みとどまっていた銭振鵬は、その瞬間、相手が炎に包まれたように錯覚した。
(“関菩薩”!!)

 神を見た。その刹那、銭振鵬は青龍刀の一閃で奈落へと斬り落とされた。

 主将である銭振鵬が討たれると、すぐさま“太歳神”高可立と“霹靂神”張近仁が兵をまとめ、左右から関勝に襲いかかった。
“遁行神”応明、“喪門神”沈抃も関勝へ攻撃を集中させた。関勝軍は着実に城門へ進んでくる。これを後退させないかぎり、梁山泊軍は続々と押し寄せてくる。しかし、関勝を止めることはできなかった。
 宣贊と赫思文も関勝の傍らから一歩も退くことはなかった。二人は、関勝がこのように、鬼神のごとく敵を殺し尽くすのを見たことがなかった。
(これは本当に関兄か)
 赫思文は愕然とした。
 歴戦の中で多くの僚友、部下を失っても、こんなことはなかった。怒りにまかせて戦うようなことはなかった。
(ああ、関兄は本当に“神”であることをやめたのだ)
 首が飛び、胴を切り裂き、青龍刀は赤く染まった。赤兎は全身に鮮血を浴び、燃えているようであった。そのあまりの凄惨さに赤兎は狂ったように前足を上げ、関勝を馬上から振り落とした。
 しかし、関勝は青龍刀を離さず、四、五人の敵を斬り払いながら立ち上がり、徒歩のまま戦い続けた。
(それとも、これが関兄の本当の姿だったのか?)
 存在自体が“大刀”──巨大な刃であるといわれた“武神”関勝。誰よりも激しい怒りを抱き、それを、神になろうとすることで封じ込めていたのだろうか。
 敵を殺し尽くすことが、すなわち“武”──戦いの終結なのか。
 後方から、徐寧の部隊が到達していた。徐寧は赤兎の手綱を掴んだ。
「関将軍、乗馬されよ!」
 宣贊、赫思文が援護して、関勝は再び赤兎に乗った。後方の梁山泊軍も前進を始めていた。呉用の羽扇が振られ、全軍が突撃を開始したのだ。後続軍は宋江が自ら指揮をとっている。
「総攻撃を!」
 後続軍の先陣は“黒旋風”李逵である。王英、扈三娘の部隊が援護し、李逵隊は最も激しい城門前の攻防戦へ放たれた。
「門はどっちだ!」
 李逵は視界を遮る敵を板斧で斬りまくりながら城壁へ向かって突進した。従うのは、鮑旭、項充、李袞。五百人の勇猛な団牌兵を引き連れていた。
 燕順、馬麟も歩兵にまじって突撃をかけている。
「騎兵は下がれ、歩兵の出番だ!!」
 疲弊した秦明らの騎兵部隊が下がり、入れ替わるように李逵の突撃部隊、そして魯智深、武松、蔡慶、蔡福、樊瑞、施恩の歩兵部隊が後を追う。
 後方では、凌振が距離を目測していた。
「わしの出番はまだか」
 凌振の火砲は点火するばかりになっている。しかし、まだ遠すぎる。
 宋江のもとに戦場の偵察に出ていた戴宗が駆け戻ってきた。
「韓滔と彭己が討たれた!」
 宋江は息をのんだが、すぐに段景住に救護を命じた。
 楊林と侯建、段景住の部隊が沸き立つ戦場へ担架を担いで駆けだしていく。
 呂師嚢はさらに二千を援軍に出した。馬麟が気づいた。
「新手だ」
 燕順は豪快に笑った。
「全部まとめて皆殺しだ!!」
 常州軍を踏み越えるように、梁山泊軍は常州城下へと押し寄せた。その混乱の中で、段景住は韓滔と彭己を探していた。おびただしい死者、負傷者である。
「神よ、真主よ──」
 段景住の隊は機敏に戦闘を避けながら、次々に負傷者を救出しては後方に送った。やがて部下に守られていた彭己を、続いて韓滔を発見した。
 そばを徐寧が駆けていく。
「段景住、韓滔は!?」
 段景住は韓滔の体を背負い、とっさに答えた。
「大丈夫、きっと、助かる」
 その頃、李逵隊は城門前を固める“太歳神”高可立と“霹靂神”張近仁へまっしぐらに襲いかかった。敵は歩兵一千、騎兵一千が堅陣を組んで待ち受けている。
 この部隊を抜けば城門である。
 城壁上の呂師嚢は、自分が一瞬、呆然としていたことに気がついた。
 恐ろしく、黒い力が迫ってくる。
 黒ではない、それは闇だ。

 真っ暗な“闇”そのものだ。
 あらゆる光を吸い込んで、輝きを失わせる暗黒が来る。
 呂師嚢は思わず叫んだ。
「そいつらを城に近づけるな!」
 ついに常州から全軍撤退の銅鑼が響いた。
「城門を死守せよ!」
 その声が届いたかのように、李逵の足がぐんと早まった。左右に団牌兵を一列に並べ、突進した。右には項充と李袞。左には鮑旭。矢の雨の中、李逵は正面から敵陣を衝いた。
“太歳神”高可立と“霹靂神”張近仁は城門を防衛しつつ、友軍の撤退を援護するために踏みとどまっている。団牌兵はそのただ中に飛び込んだ。李逵は両手の斧で道を拓き、鮑旭は手当たり次第に殺した。たちまち三、四百人を討ち取った。背後を守る項充と李袞のもとへ、楊林が駆けてきた。
 楊林は戦場を駆け巡り、情報を収集して伝達するのが役目である。後方から駆けてきて、城門を守る二人の巨漢を指さした。
「あの二人こそ韓将軍、彭将軍の仇!」
 李逵が突っ込み、鮑旭、項充、李袞が先を争って進む。団牌兵も喚声をあげて殺到した。
“太歳神”高可立と“霹靂神”張近仁は怯み、逃げようとした。項充が高可立を、李袞が張近仁へ攻めかかる。

 項充の飛刀が飛び、李袞の飛鎗が奔って、二人の馬が棹立ちになった。項充らは馬の下に飛び込むと、鞍から引きずり下ろそうと脚を掴んだ。相手もすぐに体勢を立て直し、長槍をとって応戦した。頭上から襲う槍先を、二人は団牌で受け止めた。そこへ李逵が体ごと突進してきて、馬の足を左右に払った。項充は叫んだ。
「李逵よ殺すな、生け捕りにするのだ!」
 馬から投げ出された高可立の首が、李逵の一撃で刎ね飛んだ。同じく落馬した張近仁の首は、鮑旭が闊剣の一閃で落とした。
「次はあいつだ!」
 そのまま李逵は城門へと駆けていく。

 梁山泊軍は前進を続け、宋江の本隊からも城門が視認できるほどになっていた。
 凌振は線香を手に、今かと命令を待っている。史進と朱仝の騎兵部隊が凌振の火砲部隊を護衛していた。
 常州の城壁は堅牢であり、籠城されれば長期戦になると呉用は見ていた。そのうちには蘇州や周辺の諸城からの援軍も来るだろう。方臘軍が、“明使”呂師嚢を見殺しにするはずがないからだ。
 城門を壊し、城壁に損傷を与えてしまえば、籠城の道は断たれる。しかし、雲梯の上で戦況を見守っていた花栄が城門を指さした。
「おい、李逵の旗だ!」
 李逵が作戦より城門に近づきすぎていた。
 撃てば、李逵らは無事では済まない。
 呉用は宋江の方を見た。
「撃ちますか」
 李逵は城門に迫っている。門楼の上に、一人の男が立っていた。白い冠、白い衣、髭をたくわえ、冷やかに戦場を見下ろしている。
「見つけた!」
 李逵は斧を振り上げて城門へ突進していく。
 呉用が再び、宋江に尋ねた。
「撃ちますか」
 宋江は彼方の門楼を見据えたまま、やや間を置いて、答えた。
「凌振は、このまま待機を」

 呂師嚢は、梁山泊軍の動きの流れが悪くなったと感じた。なにか作戦にわずかな齟齬が生じたのかもしれない。
「城門を閉じる準備を」
 いち早く撤退してきた金節と許定が城壁に上がってきた。金節は、まだ半分の部隊しか撤退しておらず、負傷兵もすべて城外に置き去りになっていることを呂師嚢に告げた。
 呂師嚢は頷いた。
「神将たちは?」
「高将軍、張将軍が討たれ、他の四将軍はすでに城門まで撤退を」
「しかたないね」
 呂師嚢は、城門を閉じ、籠城に入るよう許定に命じた。
「一戦ごとの勝敗は、実はあまり意味がないのだ。最後の一戦で勝てば、勝ちだよ」
「ご高教、肝に銘じておきます」
 許定の賛辞が追従なのか本心なのか、金節には分からなかった。許定は城壁を下りていく呂師嚢を追いかけていく。
「宣州や蘇州に援軍を請えば、賊軍の殲滅などたやすいこと。城内には十万の住民がおりますから、彼らを兵となせば、援軍すらいらぬでしょう」
 金節も後に続いたが、問わずにはいられなかった。
「呂枢密、城外の負傷者は?」
「彼らが光に還るのを妨げてはいけない」
 急な反転、撤退で常州軍の被害は拡大している。呂師嚢は二人に背を向け、厳かな声で命じた。
「城門を閉鎖せよ」

 項充は李逵の腕を掴もうとした。
「李逵、さがれ!」
 しかし、李逵の板斧は敵味方の分別もなく振り下ろされ、腕はおろか、帯の先を掴むこともできなかった。
「とまれ!」
 項充が投げた団牌に足をとられ、李逵が倒れた。その眼前へ、城壁から巨大な石や丸太、煮えたぎる油が投げ落とされた。さらに城壁上に並んだ兵が、一斉に矢を射放った。断末魔の絶叫は、多くは取り残された常州軍の兵だった。
 秦明が後方から駆け寄せ、叫んだ。
「退け!」
 秦明は韓滔が射られたのを見て、方臘軍の矢の射程が長いことに気づいていた。宋江の本隊に残っていた花栄も同様である。すぐに後退の銅鑼が打たれ、梁山泊軍は前進を止めた。
 撤退できたものだけを収容し、常州城の門が閉じられた。
 城門前に踏みとどまっていた常州軍は、李逵らにより半数以上が討たれていたが、城壁からの落下物と味方の流れ矢によって全滅した。



 梁山泊軍は常州城を包囲した。
 宋江の本陣は北門外に、その他の城門にも軍を分けて監視にあたった。
 籠城の最初の夜が訪れると、あたりはようやく静かになった。
 炊煙が暮れていく空にたなびいている。
 暖かい麺の入った碗を手にして、人々は、ようやく今日を生き延びたことを実感した。
 黄信は、秦明のもとに碗を運んだ。
 負傷したわけではなかったが、秦明には膝の古傷がある。秦明は言わないが、激しい戦闘の後は、ひどく痛むことを黄信は知っていた。
「赫思文が打った麺です。自分だって疲れているだろうに、まめな人だ」
 黄信は秦明の前に碗と肉料理の皿を置いた。
 そして、秦明が箸を取るのを見て、改めて安堵した。
 黄信自身は、とうに死を覚悟している。多くの官軍出身者がそう考えているように、戦場で義務を果たして死ぬことも有り得ると受け入れている。
 しかし、自分の身を犠牲にしても、秦明を守ろうと黄信は決めていた。
(生きて、家族のもとへ帰す)
 それが亡き姉の望みでもあるはずなのだ。
 二人が座る野外の卓の向こうには、慌ただしく人が出入りする大きな幕屋が立っている。治療用の幕屋である。血と薬草の匂いが、外にまで漂っていた。
 秦明が箸を止めた。
「韓滔と彭己は?」
「……裴宣が、治療を」
 黄信は一番大きな肉をつまんで、秦明の碗に乗せた。

 幕屋の中の寝台には、戦場から救出された韓滔と彭己が横たわっていた。
「……韓滔は?」
 呉用の問いに、裴宣はすぐに答えなかった。
 几帳面な裴宣には、珍しいことだった。何か言おうとして、やめ、ただ視線を寝台の方へ動かした。
 韓滔は顔に受けた矢で頬骨を砕かれ、喉にも致命傷を受けていた。段景住が運び込んできた時には、すでに息は絶えていた。
 彭己は背に深い槍傷を受け、さらに足にひどい怪我を負っていた。落馬した後、人馬に踏まれたものだろう。
 裴宣は、安道全配下の医兵を指揮して懸命の治療にあたった。しかし、彭己の意識は戻らなかった。
 呉用は、裴宣と段景住に命じた。
「このことは、内密に……宋江殿にも、知らせてはなりません」
 呉用は軍が動揺し、冷静さを欠くことを恐れた。
 本営に戻ると、宋江はまだ起きていた。
 松明の燃える陣営に卓を置き、卓上には地図を広げている。策を考えているようだったが、なにか別のことを考えているようでもあった。
 夜は更けて、陣営には行き交う兵の姿もまばらだ。
 宋清が兄に白湯を持ってきた。宋江は茶碗に指先を添え、長い時間、じっとしていた。
「もう休まれては?」
 呉用は宋江に声をかけた。
「あなたこそ──呉先生」
 地上が明るすぎるのか、それとも空に雲があるのか。
 星は見えず、ただ松明の籠から溢れた火の粉が、浅い川のように二人の足元を流れていった。


 常州城を遥かに望み、夜半、武松と魯智深が歩哨に出ていた。
 静かな夜だ。
 かすかな風に、魯智深は囁くような女の歌声を聞いた。
 耳をすませば、その歌は、
   名月はいつの時よりかある
   酒をとって晴天に問わん
   人に悲歓離合あり
   月に陰晴円欠あり
   この事、古より全うしがたし──
 見上げれば、空に月が満ちかけていた。




※文中の「彭己」は、正しくは彭己です。

※文中の「高求」は、正しくは高求です。

※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。

※文中の「登飛」は、正しくは登飛です。

※文中の「共旺」は、正しくは共旺です。




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