水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第九十七回
因業之井


 日だまりに、ひとりの乞食が座っていた。
 仲間から“鶏尾”と呼ばれる乞食である。あわれに痩せて、半分眠ったような目をしていた。
 首筋にたかる虫をぱちりと叩く。
 春たけなわの、黄土である。
 山西は、太行山脈の西──山と平原の土地である。
 北に行くほど、拓けた平野が広がっている。
 乞食の“鶏尾”は、赤茶けた土に一張羅のぼろ着を広げ、無心に虱をとり始めた。
 数匹取っては顔を上げ、南へ伸びた道へ目をやる。そして、また縫い目に隠れた虱を取った。
 虱といえば乞食には厄介な親類のようなもの、縁を切ろうにも切れない相手だ。ところが、今日は四、五十も取ると、取り尽くした。
 もう五日も飯を食っていない。虱とて、別のねぐらへ逃げたくなろう。
“鶏尾”は暇をもてあまし、立ち上がって南の方の道を眺めた。背伸をびしても、人影はない。諦めて居眠りをしかけた頃、ようやく足音が聞こえてきた。
 見ると、やって来るのは三十人ばかりの兵隊だった。荷物を満載した荷車を押し、よほど荷物が重いらしく、足どりは牛のように遅かった。先頭の兵隊が、隠れようとする“鶏尾”を見つけて怒鳴りつけた。
「おい、この荷車を押せ!」
“鶏尾”は腰をかがめると、ぺこぺこと頭を下げた。
「ごかんべんを。人を待っているんで」
「乞食のくせに、客でもあるのか。笑わせるな」
“鶏尾”は追従笑いを浮かべ、またしきりと頭を下げた。
「そう客でさ、山西丐幇のお頭からの言いつけで……」
 そこまで言って、慌てて自分の口をおさえた。“鶏尾”がもじもじしていると、兵隊は鞭を振り上げた。
「つべこべ言うな、ぶん殴るぞ。荷物を運べば、食い物だって、銭だってやるんだ」
「食い物」
“鶏尾”はごくりと唾を呑み込んだ。
 兵隊たちは荷車を押し、黙々と北へ向かって行進していく。“鶏尾”は小走りで一番後ろの荷車に手をかけた。そして一度だけ後を振り返ったが、そのまま重い荷車を押し、兵隊たちについて去って行った。
 しんと静まりかえった日溜まりに、ぼろ着だけが残された。太陽がゆっくりと巡り、風が花びらを運んでいく。
 やがて、人の形に広げられたぼろ着の上に、影が落ちた。
「──はてさて、中身はどこへ消えた」
“花和尚”魯智深は、禅杖を肩に呟いた。
 丁寧に広げられたぼろ着から、一匹の黄色い蝶々が風に戯れ舞い上がる。

 その飛び行く彼方へ目をやると、春霞に曇る遥か地平に、威勝城の城壁がぼんやりと霞んで見えていた。

 昭徳にある梁山泊軍本営には、呉用はじめ主立った頭領が集まっていた。
「魯智深は、うまく威勝に潜入できたでしょうか」
 呉用の前には、許貫忠が描いた『荒涼山河圖』一幅が広げられている。
 田虎の居城である威勝は、絵の上方に描かれており、堅牢な城壁がひときわ強調されていた。
 城壁は高く、兵数の多さが分かる。その中で、一匹の虎が眠っていた。城をめぐる四つの門には、牛と馬と竜と瓢箪が描き添えられているが、竜は孫安、瓢箪は喬道清のことだろう。残る牛は卞祥で、馬は馬霊──と、教えたのは孫安である。
 許貫忠の描いた図を、呉用は“威勝城を攻めるべからず”と解いた。籠城されれば苦戦する、田虎を城外に誘い出すべし──と。
 今日は、そのための方策を決める軍議だった。珍しく、公孫勝も顔を見せていた。
「──不親切な男だな」
 窓際の椅子に座り、公孫勝は外を見ている。
「そこまで調べているのならば、直接、知恵を貸せばいい。絵解きなど、許貫忠とは師父なみのひねくれ者だ」
 呉用はわずかに首をかしげた。
 確かに、公孫勝の言葉には一理ある。呉用自身、燕青にもう一度、双林鎮に赴かせたが、畑が青々と繁るばかりで、旅にでも出たのか許貫忠の姿はなかった。
「許貫忠は、我々を助けるために、この図を描いたのではないかもしれない」
「どういうことだ」
 呉用が答える前に、花栄と呼延灼が連れ立って来て、軍議が始まった。今後の威勝攻めについて、各軍の進路を決めるのだ。
 花栄は初夏を前にして、涼しげな色合いの戦袍に衣替えしていた。
「張清のおかげで、思ったより早くめどがついたな。それで、和尚からの連絡は?」
 威勝周辺は敵の警備が厳しく、怪しい者は近づけない。軍令のたぐいは葉清ができるだけ集めているが、呉用は城内の様子を探りたかった。
 そのために、山西丐幇と連絡をとるべく魯智深を送り出したのだが、出掛けたきり音沙汰がない。
「しかし、魯智深のことです。きっと良い便りを届けてくれるでしょう」
 呉用は地図上の威勝に視線を向けた。
「威勝城の守りは堅い。兵も糧食も満ち足りている。威勝城を攻めるのは、得策ではありません」
 呼延灼も同じ意見だった。
「三十六計之“調虎離山”──か」
 呉用は頷いた。
「我々の取るべき策は、虎を巣穴から誘い出すこと……そして、巣を出た虎の前に、一本だけ進める道を残すのです」
 戴宗の報告によれば、盧俊義軍も順調に北上し、現在は汾陽を攻めている。先行していた李俊らの水軍も、予定通り汾水にて盧俊義軍を収容できるよう待機していた。
「これで、威勝の西側は封鎖できました。関勝、呼延灼の二将軍には、威勝を迂回して北側に出て、楡社を攻めとっていただきます」
 関勝が頷いた。
「虎の逃げ道は、南か」
 各軍が威勝の西から東北方面を制圧して田虎に揺さぶりをかけ、その一方で、襄垣城からは偽りの戦勝報告を出す──それが、呉用の立てた策だった。
「宋江殿の率いる本隊は、襄垣軍に苦戦します。それを知れば、田虎は起死回生を狙って親征するでしょう。そのための布石も、すでに葉清らの協力で打ってあります」
 そこに、しわがれた男の声が割り込んだ。
「──そう簡単に運べばよいが」
 本営の口に、喬道清が立っていた。
 喬道清は、伝令の段景住を連れていた。襄垣からの新しい報せが届いたのである。
 田虎が西路の盧俊義軍に当たらせるため、統軍大将・馬霊を出陣させた──という報せだった。兵力は、弟の田彪の軍と合わせて三万。
 兵力は大きくない。しかし、公孫勝は難しい顔をした。
「“神駒子”馬霊──又の名を“小華光”。あれは、得体の知れぬ男だ」

 公孫勝は、馬霊とは梁山泊で一面識がある。修行半ばであったとはいえ、“混世魔王”樊瑞を打ち倒した術者である。
「……わしが行こう」
 喬道清が名乗り出た。
「馬霊のことは、わしが一番よく知っている。あの男の術には……そう、わしにしか分からぬ秘密があるのだ」
 宋江は喬道清に出陣を許し、ともに神農山で投降した費珍と薛燦とともに汾陽へ急行することとなった。
 軍営はにわかに慌ただしくなった。関勝、呼延灼らの騎兵軍が出陣していく。
 見送った呉用は、砂塵の舞い散る陣営から、もうひとり、去っていく男がいるのに気がついた。公孫勝だった。
 剣を背負い、近くの旅にでも出るような軽装だった。
「一清、どこへ」
 呉用が尋ねると、公孫勝は振り返り、西の空を指さした。
 折しも夕暮れ──西空は赤金の色に燃え始めていた。


「……腹が減った」
“花和尚”魯智深は歩みを止めた。
 黄昏の田舎道である。
 路傍に廃村があり、小さな廟が建っていたが、荒れ果てて供物もない。庭先に、たんぽぽが我が物顔で咲いているだけだ。
 野にも山にも花あれど、実るには早い季節である。魯智深は花びらを肴に、瓢箪に残った酒を飲み干した。
「乞食はどこだ」
 昭徳の乞食に渡りをつけ、このあたりを仕切る頭に案内を出してもらう手筈なのだが、乞食が一人も見当たらない。乞食どころか、人影もない。
 彼方には、威勝の城壁が見えている。梁山泊軍でこの城壁を見たのは、“花和尚”魯智深が最初である。なるほど、堅牢で非常に高く、城内がまるで伺えない。
(許貫忠の描いた通りだわい)
 普通は仏塔の一つ二つは見えるものだ。城門の出入りも少なく、たまにあれば武器を光らせた兵隊ばかりだ。
(これ以上、近づかぬほうがよかろう)
 さて、どうするか──腹がひときわ大きく鳴った時、路傍の村から引き上げてきた兵に出くわした。廃村と思ったが、略奪をしてきたようだ。痩せて目つきの悪い兵が、同じく痩せた鶏をぶら下げていた。相手は一人だが、どこに仲間がいるか分からない。
 魯智深は誰何されるより早く、合掌し、懐から度牒を取り出した。
「拙僧は五台山の僧である。本山に戻る途中だ」
 かつて雁門の趙員外が整えてくれた、正式な度牒である。
「拙僧は文殊院の智真長老の愛弟子であり、それ、法名も、このように直々に智深と一文字いただいている」
 兵士が近づいて来たらぶん殴ろうと、魯智深は密かに構えた。
「ならば、ただちに立ち去りなされ」
 兵士は鶏を懐にねじ込むと、魯智深に向かって合掌した。
「悪いことは言わぬ。城には近づかれぬほうが良い。晋王は仏の教えを嫌い、城内の僧侶を皆殺しにして、寺は兵舎にしてしまった」
「なぜそんなことをする。晋王とて、死ねば線香のひとつも欲しかろうに」
 兵隊は溜め息をつき、逃げようとする鶏を懐の奥へ押し込んだ。
「晋王は、地獄も来世も信じておらぬ。死ねば何もなくなるのだから、経も線香も無用だそうな」
「ほう」
「あの道を、西に十里ほど行くと、寺がある。そこへ行かれるとよい。お斎にもあずかれましょう」
「なぜその寺だけ残っている」
「施主様がいらっしゃるので、特別に残されているのです」
 兵が意外に礼儀を弁え、言葉づかいも丁寧なので、魯智深は不思議に思った。
「お前さん、なぜそうまでわしに親切にしてくれる」
「実は、私も前は僧でしたので」
「どうして兵隊になぞなった」
「恥ずかしながら修行が足りず、命を惜しんだものですから」
 兵の腹も、魯智深に負けずに鳴っていた。
「あの道を、まっすぐ西へお行きなさい」
 魯智深は兵を片手で拝んだ。
「阿弥陀仏──阿弥陀仏」

 魯智深が西の道に去っていくと、兵は少し悩み、懐の鶏を逃がそうとした。しかし、思いなおしてもう一度とらえ、懐にねじ込んで威勝城へと帰っていった。
 西方に広がる夕空はますます燃え、黄金の輝きを増している。
 世界が燃えているような光であった。

 戦太鼓が轟いている。
 その地響きに似た震動に、“急先鋒”索超の胸は踊った。
 索超と徐寧は、張清の報せを受けて路城を急襲し、いましも陥落させたところである。路城は襄垣の南、梁山泊軍が駐屯する昭徳との中間にある城である。
 盧俊義、関勝らが威勝の包囲網を構築するのと平行して、昭徳の宋江軍が威勝方面へ北上する道を作るのが索超らの任務である。
 路城を落とせば、昭徳と襄垣の間は田虎軍の空白地となり、梁山泊軍と襄垣の張清たちとの連動を邪魔する者はいなくなる。
 路城主将の徐威は、すでに張清らが襄垣で暗殺していた。残った池方という副将は髭面の猪武者で、梁山泊軍が攻め寄せると無謀に討ちだし、伏兵にあって徐寧に斬られた。
 投降した城は、単廷珪、魏定国が駐屯して住民を安撫することとなった。城門をくぐり、単廷珪は灯のともり始めた城内を見渡した。
「“張清夫婦”さまさまだ」

 同じ頃、関勝と呼延灼は、唐斌、文仲容、崔埜らと共に襄垣の東側を迂回して北上。楡社に向けて順調に疾駆していた。
 少女瓊英の仇討ちの経緯を知り、三人の娘を持つ呼延灼には深く感じるところがある。年を重ね、“軍神”の心も情に感じやすくなっていた。しかし、その戦術が情に流されることはない。
「楡社は一戦で落とす」
 周辺の情報網は襄垣が要となっているから、威勝に通報される恐れはない。威勝の田虎に知られぬうちに、急襲し、一気呵成に攻め落とすのだ。
 呼延灼の号令一下、万余の軍勢が砂塵を蹴り立て、星明りの荒野を駆ける。

 一度昭徳に集まった梁山泊軍は、再び山西の地に分かたれた。
 春の陽気に、呉用の羽扇も本来の仕事に戻った。羽扇は風を起こしたが、呉用の顔はあまり涼しげではない。
「今のところ──順調です」
 昭徳の本営に残った呉用には、まだ重要な仕事があった。この後は、いかに各軍の間に伝令を往来させ、迅速に情報や命令を伝達するかが肝要だ。
 そこへ、楽和が路城の戦勝を知らせてきた。呉用はやや安堵した顔を見せたが、すぐに次の指示を与えた。
「ご苦労ですが、引き続き襄垣の蕭譲と連絡をつけてください。関勝たちが楡社を落としたら、すぐに報せを」
 楽和が出て行くと、呉用は裴宣に伝令班の人員を確認した。柴進の鶏狗も、名前を受け継ぎながら続いているが、だいぶ数は減ってしまった。
「戴宗や王定六、白勝ら伝達頭領には無理をしてもらわなければなりませんね。時遷に兵から身軽な者を選抜させ、“鶏狗”に編入することも考えましょう」
 かつてはこの辺にもいくつか“店”があったのだが、すっかり荒廃して、機能しているものはない。鳩も使えず、各部間の連絡手段が呉用の目下の懸案だった。
 馬霊に攻められているはずの、汾陽の戦況も気になっている。“知らぬ”ということが、“智多星”呉用をなによりも不安にするのだ。
「魯智深が丐幇と連絡をとってくれれば、ずいぶん楽になるのですが」
 そこに宋清が夜食の膳を運んできた。
「魯智深が腹を減らしていないといいのだが」
 湯気の立つ碗を眺め、宋江はそんなことを心配していた。

 荒れ寺から、木魚の音がゆっくりと聞こえていた。
 もとは立派であったろう山門には、『莫知寺』と寺名が掲げられている。屋根瓦には、ぺんぺん草が白い花を咲かせていた。
(変わった名前の寺だわい)
 魯智深は、法堂で朝の斎を終えたところである。
 見かけに反し、なかなか豊かな寺のようだった。さすがに酒肉はなかったが、斎の膳が片づけられると、十二、三と見える小坊主が茶とともに果物、餅菓子などを運んできて、魯智深も充分に満腹した。その事を言うと、小坊主は合掌した。
「みな、施主様のおかげです。晋王から守ってくださり、御布施もいただけるのです。禅師様と私のほかは、僧はみな逃げてしまいましたが……」
 由緒ありそうな菩薩像の前には、ひとりの白髯白眉の老僧が座り、枯れ枝のような手でゆっくりと木魚を叩いている。
 魯智深は瓦灌寺のことを思い出した。この戦が落ち着いたら、あの娘──瓊英にも会いたいものだ。幼いながら、肝の据わった、不思議な子供だった。
(善事は最後までやれという。あの娘に、みごと両親の仇討ちをさせてやらねばならん)
 そのまま木魚の音を子守歌にうつらうつらしていると、老僧なのか、静かに呟く声が聞こえた。
『──来るは来る処より来る、去るは去る処より去れ』
 魯智深が半ば眠ったまま合掌すると、ぱたりと木魚の音が止んだ。
『もろびと、みな因業の井戸に陥り、欲迷天にて嘆き惑う。知ること莫し──頭上に開く井の口を』
 次の瞬間、魯智深ははっとして目がさめた。外がにわかに騒がしくなり、人馬が行き来している気配がある。日はすっかり正午の高さで、法堂には誰の姿もない。
「なんの騒ぎだ」
 小坊主を呼ぶと、どこからか慌てた様子で駆けつけてきた。
「ああ、あなたがいなすった」
 小坊主はほっとした顔で魯智深の袈裟にすがった。
「先刻、にわかに禅師様がお倒れになりました。とても法事のできる状態では……」
「それは、お気の毒なことだ」
 外の騒ぎはますます大きくなっている。馬の嘶きや、武器甲冑の触れ合うような音もする。魯智深も長く戦場に暮らし、そういった気配には敏感になっていた。
「わしは行くぞ」
 裏口から出ようとすると、小僧に腕を掴まれた。
「なぜ止める」
「あなたに残っていただかなくては困るのです」
 裏口にも人が廻り、寺はすっかり取り囲まれた。兵士らしい声が聞こえた。
「厳重に取り囲め、門を固めよ!」
(はかられた!)
 魯智深は禅杖を握った。板戸の隙間から外を除くと、武装した兵士たちが行き来している。魯智深は出口を探し、奥まった方丈に飛び込んだ。寝台に老僧が眠っている。
「御免」
 寝台をまたぎ、窓から飛び出そうとしたが、そこにも兵が回ってきていた。
(いよいよ年貢の納め時か)
 思った時、昏睡していると思った老僧が、またあの言葉を呟いた。
「──来るは来る処より来る、去るは去る処より去れ」
 見下ろすと、老僧は白眉の下の目をかっと見開き、魯智深を見据えて、そのまま静かにこと切れた。
 追ってきた小僧が、わっと泣き声をあげた。同時に本堂の扉が押し開かれる音がして、入り乱れる足音が寺内に響いた。
 魯智深は身構えた。
 荒々しい足音が近づいてくる。小僧が魯智深の背後に隠れた。本堂で兵隊たちが怒鳴っている。
「なぜ誰もおらんのだ!」
 それを制するように、艶やかな女の声が聞こえた。
「──禅師様」
 脂粉の香りが漂い、方丈の扉が開かれた。

 現れたのは、大勢の兵士と侍女を従えた一人の美女──さらりと白絹の裳裾を引いて、深々と頭を垂れた。
「どうぞ、今月も亡き夫、仇申と娘の瓊英ため、月命日のお経をあげてくださいませ」
 顔をあげた女と、仁王立ちする魯智深の目が合った。寺の外では、兵士たちが怒鳴る声がひっきりなしに響いていた。
「晋王妃である白玉夫人が御参詣中だ、誰もこの寺に近寄づけてはならぬ!!」

 卞祥が宮殿の王の間に入っていくと、田虎はいつものように玉座に座り、一人で酒を呑んでいた。
「白玉夫人に、外出をお許しになったのですか」
「ひとつくらいは──約束を守ってやらねばなるまい」
 卞祥は梁山泊軍の動きを気にしていた。田虎の寵姫が人質にでもなれば、厄介なことになる。その心配を、田虎は笑った。
「千人の護衛をつけた。どうにもならん、誰にもな」
 それは夫人を守るためよりも、夫人を逃がさぬようにするためである。
「それよりも、馬霊はどうだ」
「なかなか、しぶいといようです。汾陽の敵は」
 夜が更けていく。卞祥は田虎に休むよう促した。王の体調を気づかうのも、宰相・卞祥の仕事のひとつだ。人の意見には全く耳を貸さぬ田虎だが、卞祥の意見は聞くことがある。
「今宵は、どちらにお泊まりになりますか。烏貴妃か范貴人か……」
「ここで寝る」
 田虎は玉座に深く身を沈め、目を閉じた。
 柱だけが林立する王の間は、虚ろに広く、天井は闇に呑まれて見えない。並べられた燭台の灯が映し出す、卞祥と田虎の巨大な影が朱塗りの壁に揺れている。
 卞祥は田虎に傍らにあった虎の毛皮をかけると、一礼し、立ち去りかけた。眠っていると思った田虎が、口を開いた。
「……かわいそうにな」
 静まりかえった宮殿に、田虎の声が低く流れた。
「汾陽の敵──相手が馬霊でなければ、勝てただろうに」

 汾陽の盧俊義軍は、馬霊の攻撃を三日間、もちこたえていた。
 ここまでは順調だった。城を守って出ぬ田虎軍の諸都市を迂回し、汾陽を急襲した。孫安の残した三万の軍を加え、盧俊義軍は十万に増えている。
 汾陽を包囲し、猛攻のすえに城門を奪い、入城した。
 汾陽軍は降伏──順調だった。
 そして、数日、駐屯し、さらに北上しようと出陣の準備を整えている時、馬霊軍の襲撃を受けた。田虎軍の反撃は予想していたし、兵数は圧倒的に梁山泊軍が優勢であった。
 このまま勢いに乗って出撃──馬霊軍を突破して北上を。
 そう疑っていなかった人々を止めたのは、“神機軍師”朱武であった。
 対陣以来、朱武は石勇、白勝ら斥候を使い、情報収集に努めてきた。汾陽城を攻めるには、余りに少ない敵軍の数が気になったのだ。その上、敵は城の北郊に布陣したまま、攻め寄せる気配を見せない。韓滔と彭己の軍を出して誘いをかけてみたが、敵は乗ってこなかった。
 なにかある──と踏んだ朱武の懸念は、決して疑心暗鬼ではなかった。
「石勇の報告では、将は馬霊という男らしい。この男、妖術を使うとの噂である」
 芒湯山での、“混世魔王”樊瑞との戦いのことが、まだ朱武の脳裏に鮮明にある。あれほど“勝てぬ”と思った戦いはない。
 朱武が我が道とする陣形も一つの“術”だが、陣と法は、現実と鏡像のように、似て非なるものなのだ。
 もちろん朱武は、馬霊が樊瑞を打ち負かした男である──とは知らない。しかし、朱武は慎重だった。
「万全を期すべきだ」
「とはいえ……」
 盧俊義の陣営には、再び“神行太保”戴宗が伝令としてやって来ていた。
「この軍が北上しないと、呉用先生の作戦に障りが出る」
 敵は馬霊と田豹の軍を合わせて、三万余り。籠城する梁山泊軍を敗れる数ではない。しかし、盧俊義軍の最終的な目的は、この汾陽城を保持することではなく、さらに北上し、威勝北辺の諸城市を制圧することだ。
 すでに籠城三日。この間にも、戦況は密かに動いているのだ。足止めを喰っているわけにはいかない。
 秦明は戦う気でいる。黄信は妖術など相手にできないと思っている。
「何か有効な手はないのか、朱軍師」
「策を立てるには、まず相手の術を見極めねば」
 楊志が、もてあそんでいた払子を朱武に返した。
「いっそ、あんたが道士になればいい」
 楊志は、まずは出陣すべきだと考えていた。いつまでも待っているわけにはいかぬのだ。
 決断は、盧俊義に委ねられた。
「打って出る」
 朱武は渋い顔をした。盧俊義がそう言うだろうことは予想していた。盧俊義もまた、朱武が渋ることは分かっている。
「孫安の手を使おう。捨て身で──行ける者だけでも進む。どうだ、軍師」
「……やってみましょう」
“智多星”呉用は極限まで万全を期し、奇跡さえ策のうちに取り込んでしまう。対する“神機軍師”は最後は運を天に任せ、死中に活を求める度胸があった。
 出陣の準備は三日前に整っている。
 いま再び、梁山泊盧俊義軍は汾陽の城門前に、堂々たる陣容を整えた。
 そして、夜明け。一条の曙光が闇を貫いた。
「出るぞ!!」

 城門が外向きに大きく開かれ、秦明が狼牙棒を諸手に掲げ、北門を駆け抜けていく。
「鯨波をあげろ!!」
 秦明の左右には韓滔、彭己。さらに雷横、李忠、周通が歩兵部隊を率いて続く。
 西門が打ち開かれた。
 宣贊と赫思文が馬を並べて駆けだしていく。楊雄と石秀がその背後に、陳達と楊春、鄭天寿がさらにその背後を固める。歩兵が駆ける。
「遅れるな、一丸になって走れ!!」
 鄭天寿の声が夜明けに響く。北、西の二門から出た梁山泊軍は、先頭の千ほどの他は一万あまりの歩兵である。朝の風に旗をなびかせ、銅鑼太鼓を打ち鳴らす。
 馬霊軍は汾陽の北十里に布陣して、盧俊義軍の動きを監視している。すぐに迎撃に現れた。今朝、梁山泊軍が決戦を仕掛けることを、知っていたかの速さであった。
 梁山泊軍と馬霊軍、二つの砂塵が明け方の空を霞ませる。
 秦明が突撃を始めた。黒馬の腹が大きくうねり、巨大な蹄が大地を砕く。
 秦明は、正面から来る敵の尖端を睨み付けている。
(──妖術使いか)
 秦明には、理解できぬものである。しかし、その武器が“幻影”であるならば、戦い方はひとつしかない。
 この先は心を無にして、敵中に突っ込むだけだ。ひたすら戦い、敵を倒す。そうして、我が軍の士気を極限まで高めるのが、梁山泊軍筆頭先鋒“霹靂火”秦明の役目である。
 霹靂火が轟いた。
「駆けろ! 決して止まるな!!」

 馬霊は、三万の軍の中程にいた。
 鞍上に座し、左手から当たる朝日を避けるように頭から斗篷をかぶっていた。
「喬国師、孫殿帥……俺がいれば、むざむざ敗北させはしなかったものを」
 喬道清らが出陣した時、馬霊は田虎の使いに出ていた。帰還した時に待っていたのは、彼らの敗北の報せであった。
「許すまじ、梁山泊」
 馬霊は立った。
 疾走する馬上に素足で立ち、斗篷が風に流れ去る。
“神駒子”馬霊──またの名を“小華光”。
 蓬髪、裸身。その額に刻まれた一筋の傷。その傷が、かすかに動いた。
 その内は──虚ろに穿たれた闇であった。


 梁山泊軍は、北と西、二つの門から分散して出撃した。
 まず北門の秦明軍が馬霊軍の鋭鋒に逆寄せた。
(馬霊はどこだ)
 城外、一里にやや開けた原がある。そこが戦場となった。秦明は馬霊を探した。敵の先駆けは精鋭の騎兵部隊だ。秦明は馬霊を知らない。しかし、将は一目で分かるものだ。
(どこだ?)
 馬霊の旗印はたなびいている。
「あれを見ろ!」
 両軍がまさに接せんとした時、秦明のすぐ後につけていた韓滔が叫んだ。
 秦明は見た。馬霊を探していた秦明の目が、金色の光をとらえた。
(馬霊か!)

 それは光ではなかった。すさまじい速さで──徒歩で駆けくる一人の怪人であった。


 朱武は城内にいて、伝令を四方に走らせていた。
「戦況は」
 彼の懸念は馬霊だけだ。馬霊に兵力を集中させる。敵が妖術を発する前に倒してしまうのが最善だ。
 伝令が来た。
「北から来ました、全軍、北です」
「東門を開く準備を──盧俊義殿!」
 敵軍を北に引きつけ、その間に盧俊義を東門から出す。梁山泊軍の中核はこの軍だ。
(頼むぞ、秦明!)


 秦明の腕が、一瞬、止まった。
(なんだ……あれは)
 馬霊の額が、蠢いている。
 疾走する馬霊の額の傷が蠢き、開いていく。目のように──それは、第三の目であった。
 異形であった。奇形である。三眼の子は時に生まれる。独眼も四眼も、目のないものも、数多の目を持つものもある。しかし、そういった子は、生き長らえぬ。
 三眼とは──神か悪魔のほかはない。
 額に開く、眼球なき虚ろな眼窩。その奥から眩い火焔、火焔のごとき黄金の光が発した。すさまじく駆ける両足は、砂塵を噴き上げ、まるで光と炎に包まれた二つの車輪のようだ。
 炎に包まれた、異形の魔神だ。
(いや、見えるわけがない)
 この距離で見えるわけがないのだ。
(これは幻術──!!)

 そう思った時、馬霊の額が、強烈な光を発した。光芒に目が眩み、秦明は一瞬、馬霊の姿を見失った。目を開けた時、秦明は炎に包まれていた。燃えながら、秦明は狼牙棒を振り下ろした。
 馬霊は、その刺の切っ先を駆け抜けた。
 秦明の後方にいた韓滔は、秦明の陰になり、馬霊が放つ光を見なかった。秦明のすぐそばを駆け抜けた馬霊へ、韓滔は矢を射放った。続けざまに射た。馬霊はすでに矢頃に入っている。次々と飛び来る矢を縫うように、馬霊は駆けた。
 その第三の目が、火を噴くように輝いた。怯んだ一瞬、馬霊は韓滔を追い抜いていく。鞍の上で身をひねり、韓滔は馬霊を狙った。
 まっすぐに城門に突っ込んでいく馬霊の後頭部を狙って放った。
(はずした!)
 韓滔の矢は、馬霊の後ろ髪をかすっただけだった。
 振りかえり、韓滔は叫んだ。
「秦統制!」
 秦明の斗篷が燃えていた。
「あいつを追え!!」
 燃え上がる斗篷を引きちぎり、秦明は命じた。
「気をつけろ!! 光は幻影だが、火は本物だ!!」
 すでに馬霊は城門間近に迫っている。城門を出たばかりの雷横が、朴刀を振り上げ馬から飛んだ。
「くたばれ、化け物!!」
 一丈を飛び、朴刀を振り下ろさんとした。次の瞬間、雷横は腹に凄まじい衝撃を受けてのけぞり、地面に叩きつけられた。甲冑の腹が燃えていた。李忠が駆けつけ、足で火をもみ消した。
 田虎軍から空をどよもす鯨波が上がった。
「霊感馬元帥! 華光天王!!」
 周通は、北門の城壁にいた。
「馬霊はどこだ?」
 秦明軍には、王弟・田彪の軍が押し寄せ、乱闘になっている。秦明は敵将・索賢、凌光の二人を相手どっていた。敵は三万、突破を阻まれていた。
 城門に向かって来ていたはずの、馬霊がいない。
「薛永! 奴は!」
 周通は城壁から下に向かって怒鳴った。薛永も戸惑っていた。馬霊が突っ込んでくると思っていたのに、姿が消えた。
「どこに消えた」
 太白が、西に向かって吼えていた。

 伝令が朱武のもとに駆け込んできた。
「馬霊が西門に現れました!」
「ばかな、北門ではないのか?」
「北の秦明軍は田豹軍と交戦中です!」
 白勝が駆けてきた。
「東門の準備はできた、門を開く。軍師も早く合流してくれ」
 北と西の軍は死軍だ。生き残れば殿軍となり、先行する盧俊義の本隊を追撃から守る軍である。
「軍師、急いでくれ」
 朱武は迷った。行くべきか。
「待て──今しばし、待つのだ」
 城壁上に配した伝令から、次々と馬霊を見たという報告が入っていた。
(これは……妖術か?)
 何人いるのだ。幻影なのか?
「馬霊はどこだ……!」
 朱武は払子を握りしめた。
(妙だ)
 彼の知っている術者とは違う──馬霊の術は、明らかに異質のものだ。
 公孫勝や樊瑞の“戦い”を見れば分かるように、術とは、圧倒的なものだ。このように“居場所が分からない”などということはない。
(そうだ、これはもっと……あの青石峪の時のように、もっと“現実的”な術ではないか?)
“神行太保”戴宗が日に八百里を走り、“八臂那托”項充が一度に八本の飛刀を放つ。それも人には“魔法”と見えよう。

「──“神行太保”!!」
 朱武は戴宗を呼んだ。すぐに戴宗が駆けてきた。
「馬霊を追え!!」
 朱武の払子が空を払った。
「馬霊を見たら、銅鑼を叩け! 東門、出るぞ。開けッ!!」


 赫思文は、宣贊とともに西門を出て、朱武の命令通り、北で戦う秦明軍の援護に回るつもりであった。
 その横で、宣贊がふいに矢を取った。同時に城門楼から警戒の銅鑼が響いた。見れば、ひとりの男がはるか後方に軍を引き連れ、ひとり突出して駆け寄せてくる。
 裸足、蓬髪、額には怪しき印。足は金の光輪を踏み、両手には雷を帯びた三角金磚。異形者は金色の光に包まれていた。
 赫思文が馬霊と気づいた時には、宣贊は弓を満月のごとく絞っていた。
 花栄を除けば、梁山泊軍では韓滔と宣贊が弓の名手だ。射程に入るや放ったが、当たらなかった。
「速すぎる」
 宣贊の矢を六までかわし、馬霊は炎を放ちながら西の門に迫った。赫思文の繰り出した槍を飛び越え、陳達と楊春が左右から打ち下ろした朴刀の上を飛び越えた。
 陳達たちの後方で、鄒淵、鄒潤率いる歩兵が壁となって馬霊の前に立ちふさがった。馬霊の手から無数の金磚が放たれた。
 鄒淵が肩を打たれて倒れた。見る間に歩兵の壁が崩れていく。
「叔父貴ッ!」

 次の一撃を鄒潤が瘤で受けたが、そのまま鄒潤も吹っ飛んだ。
「潤ッ!! おめぇの瘤が……!!」
 瘤がぱっくりと割れ、血と脂が噴き出していた。
「いてえぇっ! 叔父貴!!」
 そこへ後続の馬霊軍が追いついてきた。先頭には二人の将がいる。これも異形だ。大耳の“順風耳”武能、出目の“千里眼”徐瑾は、馬霊の直属の配下である。手に燃え上がる金磚を持っていた。

 倒れた鄒淵を襲う金磚を、鄭天寿が楯で受けた。ぱっと楯が燃え上がる。楯を投げ出し、鄭天寿は槍を取った。
「敵は少ねぇ、臆するなッ!」
 馬霊を追ってきた田虎兵と梁山泊軍の戦いが始まった。そのただ中を、馬霊はひとり、なお、ひた走る。

 西門から駆けだした戴宗は、南に向かって駆けていく異形の男の背中を見つけた。
「あれか!」
 ぽんと自分の脛を叩いた。
「頼むぞ」
 戴宗の足には、二枚ずつ甲馬が結びつけられている。神行法は甲馬一枚で日に四百里、二枚で八百里進む術である。しかし、走り出した戴宗は、どうしても馬霊に追いつくことができなかった。
「この俺より……速い!!」
“神駒子”馬霊。一日に千里を駆ける神駒である。馬霊が二十里走るのを、戴宗は十六里までしか進めない。
「……俺としたことが!!」
 ようやく南門が見えてきた。馬霊は南門を通り越し、さらにいずこへか駆けていく。戴宗は走りながら目をこらした。舞い上がる砂塵は、東に向かって消えていく。
(やつが向かっているのは東門──狙いは盧俊義か)
「こうなりゃ、近道だ!」

 合図の銅鑼を背負ったまま、戴宗は南門から城壁へと駆け上っていった。

 東門が開かれた。
 東門内、密集した騎兵の先頭で、黄信は喪門剣を振り上げた。
「盧俊義隊、出るぞ!!」
 朱武は、敵を北門と西門に引きつけて、盧俊義を東門から出すつもりだった。
「どうにか引きつけているな」
 城外に敵軍の姿はない。
 東門の外は集落があり、宿屋や人家、畑、雑木林などが遮蔽物となり、盧俊義軍が出るには好都合だった。
 黄信と楊志は一万の兵を率いて出た。後続の四万はまだ門内にある。
 そこに銅鑼の音が響いた。
 城壁にいた楊林は、小手をかざした。南方からこちらへ、城壁の上を駆けてくるのは戴宗だ。戴宗は前方を指さした。一筋の砂塵があった。やがて城壁からの矢頃を避け、こちらへ駆けてくる妖人が見えた。
「“神駒子”が現れましたぞ!」
 馬霊は西門から南門を迂回して、そのまま東門まで回って来たのだ。風のごとき速さである。銅鑼を聞き、黄信と楊志は一瞬、顔を見合わせた。
「急ごう」
 馬霊は梁山泊軍の首将──盧俊義を目指しているのだ。梁山泊軍の兵力を三つに分散させたまま、盧俊義だけを目指してきた。
 楊志と黄信は騎兵の先頭に立った。相手は一人──それが、却って難敵であることにすぐに気づいた。
 騎馬軍で、駿足の人間ひとりを討つのは至難の業だ。狐さえ簡単には掴まらない。密集し、小回りのきかない騎兵の間を、馬霊は、走り、飛び、かいくぐり、城門へと駆けていく。
 その城門から共旺と丁得孫が走り出た。共旺の飛槍、丁得孫の投叉よりも、馬霊の足は速かった。石勇の縄票は金磚に弾かれ、散った。飛び掛かった焦挺が、空を掴んでどっと倒れた。
 第三の目が見開かれ、光と炎を噴き上げる。
 光と炎の金輪を踏み、馬霊が城門に迫る。
 盧俊義は、今しも城門を出ようとしたところだった。朱武が後退を叫ぶより早く、盧俊義は馬腹を蹴った。
「出るぞ、朱武!!」
「いかん」
「馬霊を倒せばいいのだろう!!」
 馳せ出る盧俊義を朱武は追った。もし朱武に法術が使えるならば、今こそ使う。なぜ、馬霊が捨て身でやって来るのか。
(勝算があるからではないか)
 盧俊義を護衛するはずの部隊が、突撃隊となった。呂方と郭盛、孔明と孔亮が左右を固め、盧俊義を守るべく、欧鵬と登飛が前に出た。
 欧鵬は鉄鎗を繰り出したが、その穂先は土に突き立った。馬霊は欧鵬の鎗を飛び越え、登飛の鉄鏈を間一髪でかわし、金磚を放った。登飛は辛うじて避け、そのまま体勢を崩して落馬した。
 盧俊義は、混乱する軍中で馬霊だけを見据えていた。
 金磚が放たれ、盧俊義は槍で防いだ。その槍が折れ、炎につつまれた。次の瞬間、馬霊は兵たちを踏み越え盧俊義に迫った。
 馬霊の目が、盧俊義を捉えた。馬霊の額が燃えるような光を放ち、盧俊義は思わず目を閉じた。同時に無数の金磚が放たれた。
「そこまでだ、馬霊!!」

 何者かの声にはっとした時、赤き衣が盧俊義の前にひるがえり、風とともに金磚の炎を打ち払った。
 馬霊の足が、はじめて止まった。
「──喬国師」
「そう、わしだ。馬霊よ、聞け!!」
 喬道清は、馬霊と盧俊義の間に立ちはだかった。
「晋国に大義はない。わしは、孫安とともに梁山泊に降ったのだ。天命は梁山泊にこそある──お前も、ともに戦おうではないか」
 馬霊の眸が、あやしく歪んだ。
「やはり」
 その手の金磚が燃え上がる。
「王の言葉は本当だった。お前こそ、喬国師の仇」
 金磚が喬道清の衣をかすり、黒衣の裾が燃え上がった。
「なにを言っている」
「国師は死んだ」
 馬霊は再び走り出した。金磚が乱舞する。喬道清の左右より、二人の将が走り出た。費珍と薛燦──喬道清が卞祥より借りた牙将である。
 喬道清の楯となり、二人の将は金磚に打たれて倒れた。死体が炎につつまれ燃え上がる。馬霊に攻めかかろうとする楊志らを、盧俊義が制した。
「仔細あるようだ。あの男に任せてみよう」
 馬霊の手に再び金磚が握られた。喬道清に向けた目は憎しみに燃えている。
「貴様が喬国師を殺したのだ」
「馬霊、この喬道清が分からぬのか……!」
 馬霊の術は、遥か異国の魔術である。吐蕃の聖地、神女峰にて過酷な修行をしたと聞いていた。
 馬霊は、その力を自分では制御できぬ。すさまじい、人格を崩壊させるほどの力である。それを、喬道清が“封印”したのだ。我が意思では額の目が開かぬように、喬道清の命なくば開けぬように、暗示をかけた。
 その額の第三の目が、いまや完全に開かれていた。
“三眼憤怒相”──吐蕃の秘術、未知の力だ。道術は精神を鍛えて力とするが、馬霊の術は身体を極限まで酷使することにより力を生み出す。
「馬霊、“目”を閉じよ!!」

 馬霊が黄金の炎に包まれ、炎と一体になって燃えあがる。我が身を焼き尽くす劫火である。

 馬霊が駆ける。
 そのわずかに残った人の心に、出陣前に聞いた田虎の声だけが、繰り返し響いていた。
『梁山泊軍には、喬道清を倒した術者がいる。お前が攻めれば、必ず喬道清の幻影を見せ、降伏を誘う。惑わされるな』
『お前を弟のように思っていた孫安も、死んだ。殺したのは、汾陽の盧俊義軍だ』
 今、馬霊には、喬道清の言葉は届かなかった。届いたとて、それは偽りの、幻影の言葉と信じていた。田虎の言葉こそ、真実であった。
『お前が負ければ、晋国は終わりだ』
“晋国”は、馬霊にとってただひとつの国であった。
「晋国を滅ぼそうとする者──許すまじ」
 燃え上がる金磚が喬道清に襲いかかった。すでに盧俊義らの軍が東門を離れ始めているのさえ目に入っていなかった。残留している欧鵬と登飛の軍に朱武は攻撃を命じた。
 喬道清は悟った。
(救えぬか)
 凶猛な力を秘めた馬霊に、かつて喬道清は暗示をかけた。
“わしがこの目を封印する。わしが命じないかぎり、お前はこの目を開けない。わしが生きているかぎり──お前は、第三の目を自分で開くことはとできぬのだ”
 その馬霊が、喬道清にしか解けぬはずの“封印”を解いた。
(田虎のせいか)
 おそらく田虎は気づいているのだ。喬道清が、孫安が、裏切ったと。だから馬霊に告げたのだ。
 喬道清が死んだ。そう聞いた時──馬霊の封印は消えたのだ。
(馬霊よ──)
 田虎がどこかから連れ帰った時、馬霊は、まだ少年のような年頃だった。心を閉ざし、言葉を忘れ、傷ついた獣の目をしていた。
 その馬霊に、弟のように接しながら、晋国のために戦わせてきたのは、喬道清と孫安だ。
(ならば、その責を負わねばならぬ)
 喬道清は剣を構え、向かい来る金磚の中へ飛び込んでいった。馬霊の金磚が喬道清を狙い、喬道清は馬霊の胸を刺そうとした。
 が、ともに空を切った。
 一条の赤光が閃いて、金磚を叩き落とし、喬道清の剣を遮ったのだ。金磚が砕け、剣が折れて、地上に散った。喬道清は虚空を仰いだ。
「師よ──」

 いずこからか縮地の法により公孫勝は降臨した。左手に金磚を砕いた龍杖、右手には喬道清の剣を折った松紋古銅剣。その剣を背に負った鞘に収め、公孫勝は西を示した。
「お前は西門へ行け」
「師よ、馬霊をお導きくだされ」
 自分を魔道から救った公孫勝に、喬道清は馬霊を託した。公孫勝は頷いた。
「儂に、任せろ」

 北門の戦いが、動いた。
 東から盧俊義軍が到達し、秦明軍と挟撃したのだ。その時、すでに秦明が敵将・索賢を、李忠と周通が凌光を討ち取っていた。
 鄭天寿は陳宣と戦っていた。得物は自ら細工した銀の装飾が見事な槍だ。鄭天寿は一陣の殺気とともに、陳宣の胸を貫いた。
 韓滔と彭己は敵将・党世隆と戦っていた。韓滔の一矢を受け、党世隆は落馬した。彼は、かつて梁山泊に攻め寄せた党世英、党世雄兄弟の従兄弟である。
 降伏の勧告を、党世隆は受け入れなかった。
「宋国軍は、まっぴらだ」
 党世英は梁山泊との戦いで死に、生き残った党世雄も官位を剥奪されて、失意の内に病死した。一族は高求の迫害により没落し、世隆は田虎軍に身を投じた。
「梁山泊にも宋国にも、俺は屈するわけにはいかぬ」
 それを最期の言葉とし、党世隆は自刎して果てた。
 馬霊ひとりの力を恃んで、三万の兵を北と西に分けた晋国軍は、完全に劣勢となった。田虎の次弟、豹は、もとは汾陽の主である。末弟の彪に比べ勇猛な男であり、汾陽奪還に燃えていた。しかし、新たな大軍の出陣に対抗する術はなかった。
「馬霊め、しくじったか」
 田豹は撤退を決めた。
「段仁、苗成、追撃を止めよ」
 配下の将に命じ、田豹は側近のみを連れて逃げだした。梁山泊軍の追撃を阻もうとした二人の将は、ほどなく、楊志と黄信によって倒れ、北門の晋軍は壊滅した。

 西門では、楊雄と石秀が二人の妖人を相手どっていた。“順風耳”武能と千里眼”徐瑾は、燃える金磚を投げつつ応戦する。
 その金磚が、凍りついて地上に落ちた。喬道清が汾陽城内を横断し、西門に到着したのである。喬道清は武能らに言った。
「降伏せよ」
 しかし、武能は聞かず、徐瑾も目を向けなかった。
「敵の幻影だ、たばかられるな」
「国師は死んだ──“幻魔君”喬冽は死んだのだ」
 喬道清は、なお説得しようとした。田虎軍は自ら馬霊の術の暗示にかかり、魔力を得たと錯覚している。死を恐れない。
(このままでは、全滅する)
 その間にも、穆春と朱富が突撃を続けていた。石秀はたった今、喬道清が打ち落とした金磚に目をやった。
「こいつは、土くれに松脂を塗り、火をつけたものだ」
 踏みつぶすと、金磚は脆く崩れて火の粉が散った。
「なめやがって」
 石秀は顎に流れた血潮をぬぐった。
 喬道清が何を言う間もなく、石秀は朴刀を手に武能めがけて襲いかかった。双方の戦力は、ほぼ同数。七、八千の歩兵である。武能らは、晋軍でも知られた獰猛な軍だ。それがさらに暗示によって狂奔していた。
 風よりも速く走り、燃え上がる金磚を投げ、人を超えた力を持つ──と。
 喬道清は印を結んだ。
 その背後には、東門から連れてきた楊林率いる弓隊がいる。喬道清が剣を掲げるとともに一斉に火矢を放った。
 晋軍に向け、炎が流星のごとく飛んでいく。晋兵たちが気を取られた一瞬、空を行く火は凍りつき、奔流となって地上を襲った。
 馬霊の暗示にかかっていた晋軍の兵たちは、自分たちを包んでいた炎が消え去り、足元から逆巻く怒濤に呑まれていく幻影を見た。
 三昧神水之法──その水面を駆け、石秀は武能に躍りかかった。金磚で防ごうとする武能を、背後から楊雄が斬る。

 救おうとした徐瑾は、金磚を投げると同時に、赫思文によって討たれた。
 これを機に、西門の晋軍は総崩れとなり、戦いは終わった。
 喬道清は印を収め、東の空を臨んだ。

 空に赤き暗雲が渦巻いていた。雲ではなく、火焔であった。
 馬霊は自ら巨大な三眼の魔神となり、その煉獄の天空に立ち上がった。
「お前は誰だ」
 馬霊の問いに、公孫勝は応えた。
「“入雲龍”公孫勝。“幻魔君”を殺したのは──この儂だ」
 馬霊は天空に立ち、地上の公孫勝と対峙した。火焔が二人を包んでいた。巨大な火の粉が蝶のように乱れ飛ぶ。
(これが吐蕃密法──“三眼憤怒相”)
 三眼が完全に開かれた馬霊は、もはや人外の存在である。十六の腕に燃え上がる金磚を持ち、三眼憤怒相の悪魔であった。
「化け物め」
 公孫勝は嘲った。
 馬霊の顔が苦悶に歪んだ。
 公孫勝は、言霊を吐くように、ゆっくりと告げた。
「馬霊よ、自分のその姿を見てみよ。お前は神ではなく、人でもなく──化け物だ」
 馬霊の姿をした巨人が、張り裂けるような悲鳴をあげた。荒れ狂う火焔が嵐となって公孫勝を呑み込んだ。
 公孫勝は、その真紅の暴風の彼方に垣間見た。
 檻の中で泣き叫ぶ子供。白雪を冠した聖なる山並み。絶壁に建つ異国の寺院。
 薄暗い堂、揺れる灯明。その光を全身に浴び、赤に、黒に、青に輝くの異形の神々。
 すべでが歪み、輝き、飛び去って、狂ったように廻っている。
 ただひとつ鮮明なのは、血で汚れた布を額に巻いた少年が見上げているもの──。
 黄金の裸体をしならせ微笑する──麗しき三眼の女神。
 異国の僧たちが、異国の経を合唱している。
 祈りが聞こえた。
『神女よ──金剛無我女よ』
 虚空より、世界を生みたまう、美しき母神よ。
 それは、馬霊の“記憶”であった。
 やがて黄金の女神は白き佳人の姿と化し、異国の経は晋王田虎の呪いとなった。
『喬道清、孫安、唐斌、山士奇……ことごとく倒れ、晋国の命運は風前の灯火となった。あとは、すべてお前にかかっている』
『お前が負ければ、晋国は滅び、俺も、王妃も宋国の虜となり、なぶり殺しにされるのだ』
『お前が帰る場所は──ない』
 公孫勝は呪を唱え、北斗を踏んだ。逆巻く風に白髪が舞う。
「外法など、この“入雲龍”に効くと思うか」
 虚空より生まれるものは雷鳴である。中空から降った一条の稲妻が、馬霊を撃った。馬霊は火焔に包まれたまま地上に落ちた。倒れた馬霊は、もとの人型に戻っていた。
「お前など、雷神を召還する必要もない」
 馬霊は言葉ならぬ咆哮を上げ、疾駆し公孫勝に打ちかかった。
 公孫勝は両足を踏みしめた。呪も唱えず、北斗も踏まず、印を結ぶこともしなかった。馬霊が金磚で打ちかかると、公孫勝は法剣も龍杖も投げ捨てた。拳を握り、思い切り馬霊の額を殴りつけた。

 三眼が潰れ、額が割れて血を噴き出した。もんどりうって倒れた馬霊を、公孫勝は見下ろした。
「哀れなり──馬霊」
 公孫勝が馬霊について知っていることは少ない。
 異形ゆえに親に捨てられ、世に虐げられ、異国で、この国で、居場所を求めて彷徨っていたと聞いていた。
 馬霊の名も、本当の名ではなかろう。
 公孫勝は、腕に刺さった馬霊の三角金磚を引き抜いた。血がしたたった。
 止めを刺すべきか、捕らえるべきか、公孫勝は判じかねた。どちらも、正しくないように思われた。
 そこへ、北門の晋軍は壊滅し田彪は敗走、西門の晋軍も降伏したと報せがあった。
 人々が遠巻きにする中、馬霊はのろのろと起き上がり、そのまま、いずこへか駆け去っていった。

 喬道清が戻って来ると、公孫勝は、薛永に腕の傷の治療を受けていた。そばに、馬霊の三角金磚が置いてあった。
「それは、馬霊の金剛杭(ブルパ)」
 公孫勝は吐蕃の神具を一瞥した。
「毒を塗っておけば、儂を倒せたものを」
「師父、馬霊は……」
「放っておけ」
 公孫勝は、朱武にも、戴宗にも、馬霊を追う必要はないと言った。
「奴はもう、逃れられぬ。どんなに速く走れようとも」
 春の空が暮れていく。
(哀れなり、馬霊)
 公孫勝は立ち上がり、夕焼けを見た。
「解けぬ術中に、馬霊は堕ちた」
 ただの人として生きるには、馬霊はあまりにも異相であった。
 孤独であった。
「術なくば──生きられぬ」
 救われ得ぬ。

 馬霊は行くあてもなく走っていた。
 三眼を殴り潰され、顔中に血が流れていた。頭が割れるように痛かった。
 声が聞こえた。悲鳴、罵り、笑う声。
「妖怪──三つ目の化け物」
 最初の記憶は、琢州の市場の見せ物小屋、その檻の中だった。親方の口上が響く。
「哀れ、これほどに醜い子供を見たことがありましょうや。一体、どこの魔物から生まれ落ちたか。さぁ、とくとご覧あれ!」
 人々の好奇と嫌悪の目の中で、親方は異形の少年の顔を上げさせ、観衆の方へ突き出した。
「これぞまさに三つ目の怪物!!」
 額の目は、形ばかりの見えぬ目だった。彼はその目を呪い、自ら木片で萎びた眼球を抉りだした。親方は怒り、馬霊は吐蕃の僧に売り渡された。異国の僧に連れられて、長い長い旅の果てに辿り着いたのは、一年中白雪をいただく山々──その絶壁に築かれた異国の寺院で、今度は“神になる修行”をさせられた。
 雪山を素足で走り、崖を飛び、金磚を投げる術を教え込まれた。寺院には、ほかにも何人も子供がいた。四本の腕を持つもの、一本足、背中でつながった双子の少女──みな“神”と呼ばれながら、祭日には衆目にさらされ、信者を集め、布施を集めた。
 救いは、あった。黄金の祭壇に祀られた、黄金の女神に母の面影を重ねていた。
 麗しき神女、金剛無我女。その思慕を、僧たちは罵倒した。
「汚らわしい。魔物の母は──やはり魔物だ」
 嘲った僧を殺し、寺を飛び出し、馬霊は二年を走り続けて帰ってきた。母親を探したが、三つ目の子を生んだと名乗り出る者などいなかった。盗賊になり、人を殺し、たった一人で彷徨い続けた。異形の馬霊に、居場所はなかった。
 しかし、田虎が救ってくれた。吐蕃僧の追手を殺し、彼に居場所を与えてくれた。喬道清も、孫安も、卞祥も彼を仲間として遇してくれた。
 晋国こそ、彼のまだ見ぬ故郷であった。
 そして、そこで馬霊は“金剛無我女”を見つけたのだ。
 ある夜、田虎の寵姫、白玉夫人の姿が消えた。命じられて庭を探すと、築山の上に白い衣が雲のようにたなびいていた。
 満月の夜だった。
 思わずその足元に跪き、馬霊はずっと抱いていた問いを投げかけた。
「魔物の母は、魔物でしょうか」
 夫人は答えず、やがて、問い返した。
「ならば、魔物の子は、魔物であろうか」
 夫人の深い憂いをたたえた目が、じっと馬霊を見下ろしていた。
「魔物を救う──菩薩ではありえぬだろうか」
 金剛無我女よ。
 世界を生み出す、虚空の女神よ。母なる神よ。
 空に銀河が流れていく。無数の星のきらめきが、馬霊を導く。輝く星々の海に、馬霊は美しい女神の面影を求めた。
(救わねば──救わねば)

 空いっぱいの星屑の下、馬霊はどこかにあろう何かを求め、風よりも速く駆けていった。

「──なんという因果!」
 魯智深は、嘆いた。
 莫知寺の門前に立ち、去っていく白玉夫人の一行を見送っていた。
 しきりと溜め息をつき、いつまでも見送っている魯智深を、小坊主は不思議そうに見上げた。
「お経を上げている様子もありませんでしたが、施主様とお話をしていたのですか」
 魯智深は、夫人と語った様々な事を思い返し、うむ──と重く頷いた。
「そうだ。長い長い──懺悔をな」


 寺を囲む森の出口で、田虎が馬で待っていた。はらかずも王の姿を見て、護衛の者たちが慌てていると、田虎は煩げに彼らを追いやり、夫人の横に馬を並べた。
「今回の寺籠もりは長かったな」
 夫人は、ちらりと田虎を見上げた。あたりには、杏の花が咲いていた。薄紅の花が、青白い夫人の頬に、いつにない生気を添えていた。
「どうした、何か変わったことがあったか」
「……禅師様が遷化され、五台山の高僧に御説法をたまわりました」
「やくたいもない話だろう」
「──“来るは来る処より来る。去るは、去る処より去れ”と」
 田虎の目に、わずかに何かの動きがあった。しかし、男は何も言わず、馬を進め、それから満開の杏の木々に目をやった。
「そろそろ出陣の準備をせねばならん」
「襄垣へ?」
 思わず顔をあげた夫人に、田虎は一瞥を投げた。
「お前は、魔物だな」
 夫人は怯んだ。田虎は笑った。
「この十年、まるで姿が変わらない。俺に、異国まで高価な薬草や食餌を求めさせた甲斐があったというものだ。その姿ならば──生き別れたお前の娘も、母親と分かるだろう。そして、驚くことだろうな」
 風が吹き、二人の上に白々と花を散らしていった。
「お前は俺を出陣させ、さっさと死んで欲しいだろう」
「娘を探し、会わせるという約束を果たさぬまでは、死なせはしません」
「ならば、支度をするがいい」
 田虎は、夫人の前へ馬を進めた。
「次の戦には──お前も、行くのだ」


 魯智深は、寺内から見繕った路銀を懐に突っ込んだ。
「わしは行くぞ」
 小坊主は途方に暮れている。
「私はどうすればいいでしょう。施主様の来月の法要は……」
「来月の法要はない。再来月も、その先もだ」
 禅杖を担ぎあげ、魯智深は星空の下へ駆けだした。
「来るは来る処より来る、去るは去る処より去れ。お前も禅師様を葬ったら、行雲流水──どこへでも、行け!!」


 馬に揺られ、白玉夫人の目は、遠い、夜空の彼方を見ていた。

(私の名は、宋玉霜──)
 仇申の妻、瓊英の母──田虎の妃。
“来るは来る処より来る。去るは、去る処より去れ”
 風が逝く。
 求める者よ、迷える者よ。
 出口はない。
 我々はみな、因業の井戸に陥り──出る道を知らずに嘆くのだ。

※文中の「路城」は、正しくは路城です。

※文中の「烏貴妃」は、正しくは烏貴妃です。

※文中の「彭己」は、正しくは彭己です。

※文中の「芒湯山」は、正しくは芒湯山です。

※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。

※文中の「那托」は、正しくは那托です。

※文中の「共旺」は、正しくは共旺です。

※文中の「縄票」は、正しくは縄票です。

※文中の「登飛」は、正しくは登飛です。

※文中の「高求」は、正しくは高求です。

※文中の「琢州」は、正しくは琢州です。




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