水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第九十回
荒涼山河・後篇


「伏せろッ、楊春!!」
 楊春が木の根元に伏せた瞬間、広場を取り囲む廃墟の窓に無数の銀色の光がきらめいた。
「梁山泊弓隊参上!!」
 花栄の手の朱雁が唸った。同時に廃屋の窓という窓、あらゆる物陰、崩れた壁の隙間から、一斉に矢が放たれた。
 少華山隊を追った蓋州軍は、そのただ中へ──降り注ぐ矢の雨に飛び出した。彼らを待ち受けていたものは、“小李広”花栄率いる梁山泊弓隊である。ばたばたと蓋州の兵が倒れた。
 花栄は叫んだ。
「猪だと思って射ろ!!」
 花栄が鍛えた本来の“梁山泊弓隊”ならば、腕は確かだ。しかし、今は大半が流民の中から“選抜”された猟師、畑で雀や野兎を射ていた農民たちである。人を射るのは初めてだ。花栄は次々と蓋州兵を射落としていく。
「動くものを射続けろ!!」
 弓兵たちは休む間もなく弦を引き続けた。嵐のように矢が飛び交い、密集して突っ込んできた蓋州兵には避ける間もない。
「退け、退けッ」
 後続の蓋州兵が手綱を絞って馬首を返した。花栄は廃屋の壁に飛び上がり、満々と弓を絞った。
「よく見ていろ」
 花家伝来の神弓“朱雁”は通常の弓より射程が長い。
「冥土の土産──だ!」
 五箭を放つと、先頭をきって逃げ出した騎兵が五人、背中から射られて落馬した。弓兵たちも手当たり次第に遠矢を放つ。さらに、逃げ散ったはずの少華山隊が路地から飛び出し退路を塞いだ。
「一人も逃がすな!」

 叫喚の声が、乾いた土壁にこだましていた。
 しかし、廃村を包囲していた蓋州軍は、すぐには味方の悲鳴と気づかなかった。五千の兵で百余りの敵を襲ったのだ。梁山泊軍の阿鼻叫喚の声であろうと思った。
 鈕文忠軍がようやく異変を察したのは、廃村から自軍の兵が命からがら這い出して来た時だった。
「伏兵か」
 小癪な──と鈕文忠は思った。
「いかな伏兵とて、この廃村に万の兵は隠せまい。力押しに押し潰せ!!」
 鈕文忠は新たな部隊を突入させた。
 猊威将方瓊が五千の兵で、廃村への突入を試みた。猊とは獅子の一種である。甲冑には先祖伝来の銀のたてがみがたなびいていた。
 鈕文忠の麾下には、“四威将”および十六人の偏将がいる。そのうち、猊威将方瓊、貔威将安士栄、熊威将于玉麟、八人の偏将を率いてきていた。いずれも武官出身の猛将である。田虎に従って叛し連戦連勝、人なき野を行くごとくであった。
 それが、今、阻まれた。
 猊威将方瓊は自尊心の高い男である。ゆえに用心深かった。逃げてきた兵の傷はすべて矢傷である。楯を備え、隊列を崩さず突入した。その馬の脚が、崩れかけた柵の下から突き出した鈎鎌鎗に斬り払われた。
 廃屋に隠れていたのは、花栄の弓隊だけではない。徐寧の鈎鎌鎗班があらゆる物陰に潜んでいるのだ。
 将棋倒しに馬が倒れる。さらに銅鑼が鳴り響いた。それを合図に、四方の建物から騎兵が飛び出し、方瓊軍の前に襲いかかった。周辺の廃屋に隠れていた秦明、索超、孫立率いる騎馬隊である。
 蓋州城攻略にあたり、梁山泊軍には城の内部や、蓋州軍の実態がよく分からなかった。危ぶむ人々に、呉用は言った。
「分からないなら──分かる所で戦えばいい」
 こんな廃村の内部のことなど、鈕文忠も知りはしない。
 ここでは、地の利は梁山泊軍にあるのだ。
 方瓊はすぐさま引き返そうとした。その進路を孫立の鞭が阻んだ。方瓊の武器は二本の鉄間だ。蓋州では無敵である。しかし、孫立は三十余わたりあって優勢を保った。梁山泊で“双鞭”呼延灼とたびたび試合し、その技は日々に琢磨されている。方瓊は押され、馬が怯んであとずさる。



 偏将の張翔という男が援護すべく、軽弩で孫立の馬の目を射た。馬が棹立ちになると、孫立はさっと飛び降り、鞍にかけた槍を取った。
 方瓊は徒歩で戦う孫立を蹄にかけようと馬を馳せたが、孫立が鞭を槍に持ち替えたのには理由がある。打撃武器である鉄間は短く、槍は長い。孫立が巧みに繰り出す槍の中に打ち込めず、方瓊は鉄間を手に輪駆けするほかはない。“病尉遅”孫立は鞭の名手、類似の鉄間の長所も弱点も知り尽くしている。
 偏将の張翔はさらに方瓊に加勢すべく矢を放ったが、秦明が狼牙棒で矢を叩き落とした。
 孫立が勝ちを制する前に、方瓊も槍を取った。武器が同じであれば徒歩の孫立が不利になる。その時、戦場に花栄の声が響いた。
「中の敵はほぼ片づいたぞ!」
 花栄の放った一箭が方瓊の頬に命中し、怯んだところを孫立が槍で仕留めた。
 秦明は、孫立の馬を射た張翔と、加勢に入ったもう一人の偏将、方順を相手に戦っていた。方順は方瓊の族弟で、大斧を使う。張翔は槍を使いつつ、隙を見ては軽弩を放つ。花栄はその背に狙いを定めた。
 張翔は伝家の宝鎧をまとっていたが、放った矢は背後から鎧を貫き、鏃が胸まで射通した。同時に秦明の狼牙棒が方順を鞍上から叩き落とした。
「乗れ、孫立」
 秦明が駆けだしていく。孫立も方順の馬に飛び乗り、秦明の後を追った。
 すでに村外の蓋州軍にも異変は伝わっていた。鈕文忠は全軍に梁山泊軍の掃討を命じた。枢密使自ら出陣しながら、こんなところで負けを喫するわけにはいかない。
「全軍突入せよ!」
 その頃、梁山泊軍は廃村からの脱出に移っていた。秦明、花栄、馬を変えた孫立が先頭に立った。
「敵の包囲を突破するぞ!!」
 梁山泊軍は敗走する方瓊軍を背後から追い立てるように、敵のひしめく荒野へ飛び出した。その前へ、貔威将・安士栄が、偏将の楊端、蘇吉を率いて突撃してきた。
 貔とは彪の一類である。熊威将・于玉麟は部下の殆どを失っていたが、からくも脱出を果たしていた。偏将の秦升、石敬が身を楯にして逃したのである。熊毛を血に染め、于玉麟は雪辱の戦をしかけた。
 廃村を出た梁山泊軍はおよそ一万。鈕文忠の軍を合わせ、三方から三万の敵に直面したが、梁山泊軍は怯むことなく、一塊となって乱戦の中へ躍り込だ。花栄は得物を銀槍に替え、孫立は再び鞭を取った。秦明は奮戦し、後方の鈕文忠本隊に攻め込む気迫さえ見せた。
 弓の上手で知られる楊端が弓を構え、花栄を狙った。強弓で、狙いは確かだ。しかし、花栄は弦音を耳にするや、その距離、速度、方角を察してさっと槍で打ち払った。
 鈕文忠は、まだこの時は焦りを感じてはいなかった。遭遇戦で伏兵に遇えば、最初の苦戦は仕方がない。しかし、敵は半分にも満たず、強敵と思える将は数人だ。
「包囲を狭め、矢を使え!」
 後方に待機していた蓋州軍の弓部隊が動こうとして、一人の兵がふと後を振り向いた。矢を手にしたまま、一人また一人と振り向き、全員が動きを止めた。
「新手だ!」
 東方に新手の軍旗が現れていた。北にも砂塵が上がっている。
「あちらにもいるぞ!」
 全速で突き進んでくる軍は、両軍とも梁山泊の旗を掲げている。



 東には“風流双槍将”の旗、率いる董平を追い抜いて、金燦斧を掲げた索超、槍の楊志が前に出た。さらに朱仝、韓滔、彭己が一万の兵を連れていた。
 北には“豹子頭”林冲の旗、黄信、宣贊、赫思文、欧鵬、登飛が、やはり騎兵一万を率いている。
 陳達、楊春が百輌の麦を焼いたのは、蓋州に軍糧を渡さないためだけではない。黒煙をあげ、数里に散っている友軍に位置を知らせるためでもあったのだ。
 鈕文忠は、即座に命じた。
「戦闘を避け、蓋州へ帰還!!」
 鈕文忠が枢密使まで上り詰めたのは、常に石橋を叩き、本能ともいえる即決によって、常に勝算のある方へついたからである。
 敵は念入りに罠を張っていた。戦闘を続行すれば、被害が大きくなるだけだ。
 蓋州軍は秦明らの囲みを解き、すぐさま撤退を開始した。馬のある者は馬で、失った者は徒歩で、負傷者は戦友に助けられ敗走の途についた。その背後から再び花栄の弓隊が矢を射かけ、蓋州軍は混乱のうちに撤退した。

 すでに日は傾いて、空には金色の光が射していた。
 梁山泊軍は、すぐには蓋州軍を追わなかった。林冲、董平の軍が合流するのを待つ間、捕虜と負傷者を収容し、衛州に送る手筈を整えた。
「……なんというか、陳達兄貴」



 楊春は座り込み、廃村の壁にもたれた。冷血の“蛇”の名に似合わず、珍しく汗をかいていた。
「“山賊”に戻ったようだな」
 朱武と陳達と僅かな手下で、官軍とやりあっていた日々。“危ない橋”を渡るのが日常だった。忘れかけていた少華山の空気が、一陣の夕風となって吹き渡ってくるようだ。
 陳達も息切れして地面にへたばっている。
 夕空に、秦明の声が響いた。
「これより蓋州へ向かう!!」
 楊春と陳達は、肩を貸しあい、立ち上がった。
 梁山泊軍が夕日に向って駆け出していく。
 少華山の一の頭領──“神機軍師”朱武の“妙計”で、寿命が縮むのも、昔どおりだ。





 鈕文忠が出撃して間もなく、蓋州は梁山泊軍の急襲を受けた。
 鈕文忠不在中の蓋州は、冷静をもって知られる彪威将・緒亨が留守居となっていた。
 折から、宋国侵攻のため二万の精鋭を国境の諸県制圧に出陣させている。残った兵から鈕文忠が精兵三万を率いて出たので、城内には二万足らずの歩兵のみしか残っていない。
 しかし、蓋州は城自体が要塞である。
 何があろうと堅く城門を守っていれば、大事ないと緒亨は判断していた。
 蓋州の城壁は鉄壁であり、城に残る二万の民兵も、白兵戦ではものの役に立たなくとも、楯とするには充分だ。
 緒亨はすでに鈕文忠に急使を送り、ひとまずの帰還を請うていた。
(枢密使が戻るまで、持ちこたえてみせる)
 北城門外、五里あまりの距離に宋国軍の旗がたなびいている。
 梁山泊の数は二万あまり、城門を抜く力はない。
 ただ、その数が少しずつ増えているように見えるのは、錯覚だろうか。
 冷静なはずの緒亨の心に、かすかな影が落ちていた。





 鈕文忠の留守に蓋州を襲ったのは、高平から急行した宋江、盧俊義、呉用率いる梁山泊本隊であった。
 中核を成すのは、魯智深、武松の二竜山歩兵隊、そして李逵、鮑旭、項充、李袞率いる団牌部隊だ。その他の兵は、殆どが当地で身を投じてきた者たちだった。
 さらに、燕順ら清風山隊、欧鵬ら黄門山隊、李忠ら桃花山隊も集合していた。彼ら略奪部隊にも、地元の若者たちが多く義勇兵としてついて来ていた。
 孔明、孔亮の白虎山隊も、軍糧とともに兵を補充して合流した。
「追加だ、五百ばかり連れて来た!」
 兵としては訓練も受けていないが、僻地の村は時に盗賊に襲われるため、若者が自警団を組織して武装化している場所もある。
 裴宣と朱武が、集まってくる男たちを流民や無頼、義勇兵と選別しては、次々と適所に配置していった。
 そうして、蓋州を見据える梁山泊軍は、わずかずつ数を増やしていた。
 流民か兵か判然としない連中も、武器を手にして、とにかく騒げと命令されている。
 彼らは、兵としての訓練は足りないが、長く鈕文忠に苦しめられてきた経緯がある。田虎を恨み、士気は高い。もっとも理由はそれだけではない。陣営では喰うのに困らない。野営地では大鍋に汁が煮え、饅頭が香ばしい匂いをあげて蒸されていた。
 魯智深は饅頭を手に、飯をむさぼる男たちを睨みつけた。
「お前たちは、田虎が来れば田虎に頭をさげ、わしらが来ればわしらを拝むのだろう」
 一人が饅頭を口いっぱいに頬張り答えた。
「お坊さん、俺たちは食い物のある方に行くだけだよ。仏様だって、ご利益がなけりゃ、線香の一本だって貰えねぇもの」
 魯智深はふむと唸った。
「道理だ。たんと喰え!」

「あんな連中をうまく使えるのは、梁山泊軍しかおるまい」
 盧俊義は、意味もなく愉快だった。
 よく知っている梁山泊軍の仲間たち、新しく加わった有象無象の男たち。
 宋江は一人一人に声をかけながら、兵の間を回っていく。
 堅牢な城壁を巡らせた蓋州城を望み、なんの遮るものもない荒野に駐屯する梁山泊軍──地平線は黄色く煙り、空は青い。
 何のためでもなく、誰のためでもなく、ただ戦う。
 梁山泊軍の上に、懐かしい風が吹いていた。

 楊林が知らせをもらたしたのは、深夜だった。
「闇にまぎれて、伝令が入城しました」
 続いて、陳達と楊春がやってきた。彼らは、蓋州城に直行してきた秦明隊とは別に、撤退する鈕文忠軍を密かに追尾していたのである。
「鈕文忠は、東二十里ばかりの森に隠れている」
 本営で、宋江たちはその知らせを待っていた。陣営は暗い。眠りについたふりをして、兵たちはみな甲冑をつけ、武器を枕にして待っていた。
 呉用が予想した通りである。
「未明、夜襲があるでしょう……手筈、通りに」
 みなが無言で頷いた。





 蓋州に入った“伝令”は、民に身をやつした安士栄であった。痩せた男で、目つきが鋭い。緒亨と対面した安士栄は、さらに痩せ、さらに眼光鋭くなっていた。
 田虎軍について、初めての敗戦であった。その上、安士栄は頼みの綱であった蓋州にまで、梁山泊軍の別動隊が攻め寄せていることを知った。
 夜陰にまぎれてとはいえ、梁山泊軍に見つからずに、普段は民しか使わない東城壁の脇門から入城できたのは、まさに幸運であった。
 安士栄から鈕文忠の敗戦を聞かされ、僚友・方瓊の戦死を知って、冷静な緒亨も少なからぬ動揺を見せた。しかし、二人はともに蓋州では知将として知られる男である。
 安士栄が言った。
「枢密使は、蓋州に入城し、城に依って敵軍を打ち破ろうと望んでおいでだ」



「籠城すると?」
 緒亨には意外な言葉であった。
「敵は、多く見積もっても三万……こちらには、城の内外を合わせて五万の兵がある。挟撃すれば、打ち負かせよう。籠城とは、あまりに臆病にすぎるのではないか」
「お前は、梁山泊軍の恐ろしさを見ていない」
 精悍で知られる安士栄の顔に、この世ならぬものを見たような恐怖があった。
「梁山泊は得体が知れぬ……侮っていたのは、間違いだった」
 緒亨は安士栄を座らせ、温めた酒を与えると、少し声を落して尋ねた。
「それで……晋王への報告は?」
「敵を敗れば、必要はあるまい──と」
 鈕文忠が田虎の前で常に大言壮語していることは、二人も知っていることである。田虎の下には将が多い。鈕文忠が枢密使としての面子、その地位を守るためには、一刻も早く敵を打ち破り、宋国への南下を再開しなければならない。
 それを補佐するのが、“四威将”の役目であり、鈕文忠の栄達如何に彼らの出世もかかっている。
 緒亨は、安士栄に策を諮った。
「敵軍は、こたびの戦勝に奢っているはず。敵が布陣している北門外に夜襲をかけ、その隙に東の脇門から枢密使たちを入城させよう」
「三万の軍だ。敵に気づかれぬのは難しい」
「気づかれても、軍を分けられぬように、夜襲には蓋州内の全軍を出す」
「なるほど、城内に残っているのは、徴集したばかりの民兵だ。失っても、惜しくはない」
 時は真夜中前、月の出る二更である。
「では」
 二人の将は、目顔を交えた。




 月の光が青白く天を照らしている。
 夜になっても、風は蒸し暑く、秋の気配はまだまだない。
 まどろむ梁山泊陣営に、突如として蓋州軍が襲いかかった。気配を消して忍び寄り、一斉に鯨波を上げたのである。
 すぐさま戦闘が始まった。
 呉用はこの夜襲を予想し、全軍に警戒を命じていた。蓋州軍は二万の歩兵。梁山泊軍の素早い逆襲に動揺し、早くも入り乱れての白兵戦に突入した。
 反撃の陣頭に立つのは盧俊義である。
「派手にやれ!!」
 呉用の命令である。
「兵はなるべく捕虜にしろ!!」
 それは宋江の命令であった。
 蓋州軍は訓練の不十分な民兵である。対する梁山泊軍も、中核を成すのは新たに梁山泊軍に加わったばかりの民兵、流民だ。
 互いに武器の扱いにも慣れていない。打ち合ううちに、武器を落とし、あるいは投げ出し、殴り合う者が増えていった。
 蓋州軍を率いていたのは、沈安、王吉である。この二人とその子飼いの部下は、さすがに官軍出身の手練である。棒立ちになっている高平の老人部隊を見つけると、馬で躍り込んで片端から撫で斬りにした。
 蓋州兵を殴り倒していた武松が、腰の戒刀を抜く。



 月光に雌雄の刃が青く光った。武松は無言で飛び出し、正面から沈安の馬の脚を払うと、落馬したところを上から腹を貫いた。その頃、燕順は妙なことに気がついた。攻めてきたはずの蓋州兵が、逃げ出している。武器を捨て、戦わずに逃げる者が多かった。
 蓋州軍には民兵のほか、子供や老人、女たちまで混じっていた。悲鳴と怒号が渦巻いて、戦場は混乱を極めている。偏将の王吉が逃亡兵を切り捨てた。
「逃亡する者は家族もろとも成敗するぞ!!」
 その前に鄭天寿が槍を手に立ちふさがった。王吉が鄭天寿に戟を向けると、同時に王英が飛びついて背後から首を掻き切った。
 燕順が雷のような声で怒鳴った。
「武器を捨てろ!! 降伏すれば命は助ける!!」

 同じ頃、東門では鈕文忠軍が闇に紛れて城門に接近していた。馬には枚を噛ませ、武器や甲冑で布を包んで気配を消し、脇門に向って慎重に進んでいた。こちらは北門の“兵”とは違い、訓練しつくされた精兵である。隊列を組んで整然と、可能なかぎり急いで蓋州城へ帰還しつつあった。先導するのは、安士栄である。
「敵軍は北門に集まっています。今のうちに入城を」
 緒亨は城門に控え、到着を今かと待っている。鈕文忠軍を収容したら、すばやく城門を閉じるのだ。一刻の猶予もならない。
 闇の中に、緒亨は鈕文忠軍を視認した。
「よし、開門せよ」
 真っ先に駆け込んできたのは、鈕文忠であった。安士栄と偏将の楊端らが五千の手勢で援護する中、兵たちが続々と入城する。その隊列が、半分ほど東脇門に入った時だった。
 夜のしじまに、ひとすじの妙なる鉄笛の調べが聞こえた。
 鈕文忠は足を止めた。あたりは一瞬、静寂に包まれた。
 笛の音は“敵を攻むる音”──“鉄笛仙”馬麟の奏でる出撃の前奏曲であった。
「かかれ!!」
 闇から月光の中に“摩雲金翅”欧鵬が飛び出した。欧鵬、馬麟ら黄門山三千が左翼から、陳達、楊春ら少華山三千が右翼から蓋州軍の最後尾に襲いかかった。廃村の戦いで馬を失い徒歩となった蓋州兵、負傷者の一団である。
 蓋州軍は混乱した。撤退する軍列は連綿と城門に向っているので、門扉を閉じることもできない。
「早く入城を!」
 殿を救おうとする安士栄軍に、緒亨が加勢に出た。彼らが梁山泊軍を防ぐ間に、鈕文忠軍はなんとか入城を果たした。城門に迫ろうとした梁山泊軍は、城壁から射られる矢を避け、撤退を余儀なくされた。
 東脇門の中は、命からがら城門に駆け込んだ兵と負傷者たちでごったかえしていた。
 その中に、三人の負傷兵がいた。血で汚れた蓋州の軍装をつけ、中の一人は顔に布を巻きつけている。槍を杖に城内に向かいながら、一人が戦友に向って言った。
「危なかったな」



 不敵に笑ったのは、梁山泊の命知らず“弃命三郎”石秀、にっと笑い返したのは“鼓上蚤”時遷。顔に布を巻いているのは、凌川の降将、耿恭であった。





 鈕文忠が帰還すると、蓋州は籠城の構えを堅固にした。
 はじめ、鈕文忠は城内で軍を整え、打って出ようと考えていた。北門に出した兵は六割方が城内に逃げ帰っていたし、三万近い騎兵もいる。籠城に邪魔な老弱の住民は、兵に混ぜて城外に追い出した。
 しかし、城壁に登って梁山泊軍を遠望した鈕文忠は、迷った。
 城外五里に布陣していた梁山泊軍は、じりじりと日に一里ずつ陣を進め、今は二里にまで接近している。その数は、刻々と増えているようだ。
 鈕文忠は信じられぬ思いで、朝な夕なに立ち上る、炊事の煙を眺めやった。白煙は無数にたなびき、天を覆うようである。
「ありえん……!!」
 衛州で怠惰に過ごしていた梁山泊軍は、六万程度と聞いていた。それを、今は衛州、凌川、高平に駐屯する軍、そして蓋州に攻め寄せた軍と、四つに分けているはずである。
(梁山泊は、いったい、何十万の軍勢で押し寄せたのだ!)
 安士栄が、懇願するように言った。
「晋王に援軍を求められては……」
 田虎が大軍を率いて来れば、蓋州は勝てるだろう。
(しかし、わしは終わりだ)
 鈕文忠には、あざ笑う喬道清や孫安の顔が見えるようだった。
 この堅牢な蓋州城のほかにも、鈕文忠はまだ手駒を持っている。先鋒として、二万の精鋭軍が宋国との国境を侵しているのだ。
「東京への侵攻前に、梁山泊軍を血祭りにあげてやる」
 できずとも──“蓋州城”は一年でも籠城が可能なことを、鈕文忠は知っている。





 北門外の梁山泊本営から、呉用と朱武は連れ立って轅門に向かった。
 轅門前には、将兵がずらりと整列して、出陣の時を待っている。鈕文忠軍と廃村で戦った者たちも集まり、蓋州軍の捕虜たちも多くが投降して加わっている。
 投降した兵士たちは、田虎軍から解放されたことを喜んでいた。半分が故郷に戻ることを望み、半分が梁山泊軍に入ることを望んだ。
 彼らには、帰る場所がなかったのだ。村は飢饉で滅び、家族もみな死んでしまった者が殆どだった。



「では、朱軍師……そろそろ仕上げを」
 呉用は朱武を促した。朱武は頷き、払子を取った。
「“疑兵之計”を始めよ!」
 戦鼓の乱打が始まった。鉦、銅鑼、楯。あらゆる鳴り物が打ち鳴らされる。兵たちが声の限りに叫びを上げる。
 その狂ったような喧騒の中を、“没面目”焦挺の放つ銅鑼の一打とともに四つの部隊が次々に出陣していった。
 林冲、索超、宣贊、赫思文ら第一隊は、一万の騎兵を率いて東門へ。第二隊は徐寧、秦明、韓滔、彭己が率い、西門へ向かう。これも一万、騎兵である。
 みたび銅鑼が鳴り響き、朱武の払子が南を指す。応じて轅門を出た第三隊、董平、楊志、単廷珪、魏定国ら一万の騎兵と歩兵の混成軍だ。
 索超と楊志は、付け焼き刃の兵隊のことが心配だった。前の戦で死傷した兵も少なくない。
 出陣前、楊志は一人一人の槍の握り方を直してやり、索超は兵たちの肩を叩いて回った。
 梁山泊が“大軍”に見える理由は、彼らが存在するからだ。陣にいれば鯨波を上げて敵を威圧していればいいが、戦闘となれば、そうはいかない。
 楊志は後に続く歩兵部隊へ振り返った。しかし、すぐに眼を前へ戻した。
 楊志の心配をよそに、初陣を生き残った者たちは、もう兵らしい表情の片鱗を見せ始めていた。武器を握り、歯を食いしばり、死に物狂いで騎兵のあとを追いかけてくる。
 北方から、凌振の火砲が轟いている。
 蓋州の北門外には、盧俊義が歩兵および工兵、砲兵を連れて布陣していた。
「撃て!!」
 盧俊義の命令一下、凌振の火砲が火を噴いた。使っているのは、轟音のみで威嚇する“獅子吼”である。凌振は李雲にぼやいた。
「なぜ城門にぶっ放してはいかんのだ」
「この城は、落とせば味方の城になる。城門が壊れていては、困ろう」
 李雲は湯隆とともに攻城具を準備している。雲梯や飛楼をずらりと並べ、蓋州城を威圧するのだ。
 その間にも、出撃した三つの部隊は城門に到着し、激しい攻撃を仕掛けていった。蓋州城からも、梁山泊軍の接近を阻もうと火矢や擂木、石などを投げ落とす。応戦があれば、梁山泊軍はすぐに退く。そして、退いては、また攻め寄せた。
 蓋州を攻めているのは、この四部隊だけではない。
 史進、朱仝、穆弘、馬麟は兵五千を連れて東北の丘に待機し、黄信、孫立、欧鵬、登飛も同じく五千の手勢を連れて西北の丘に布陣していた。
 蓋州軍の反撃が強ければ、即座に察知して援軍に赴くためである。さらに花栄、王英、張青、孫新、李立が騎兵一千で遊撃隊を組織して、絶え間なく四門を巡察する。李逵、鮑旭、項充、李袞、劉唐、雷横の精鋭歩兵五百も同様である。全軍が緊密に連携し、呼応して蓋州軍を翻弄する。
 かつて十節度使が梁山泊を包囲した時の作戦に倣ったものだ。朱武は南門に合図の流星が上がるのを見た。援軍要請の合図である。すぐに遊撃部隊が急行するだろう。
「手痛い敗戦も、経験として活かせば無駄にはならぬ」
 朱武は払子を帯に収めた。
「こちらに被害が出ぬように、蓋州軍を翻弄し、疲れさせるのだ。限界まで城内の将兵の心を追い詰める」
 それが“疑兵之計”の目的である。
 南門に上がった流星を見て、花栄は即座に馬首を向けた。通常ならば、城門外は人家、商店、宿屋などが連なる繁華街になっている。しかし、それらの街は数年前、鈕文忠に攻め落とされた時に焼き払われ、復興はされていなかった。焼け跡は荒野となり、まばらに雑草が生えているだけだ。門から門へ移動するには便が良い。
 南門では、董平軍が城壁から射られる矢に苦戦していた。楊志が矢を防ぎながら叫んだ。
「退くぞ、董平!!」
「俺には矢は当たらぬ」
 董平は矢玉に倒れた兵を越え、なお城門に迫った。
 花栄が南門に到着すると、門楼に強弓を構えた将の姿が見えた。安士栄の偏将、楊端である。廃村の戦いで、楊端は花栄を射たが、槍の一振りで打ち落とされた。その雪辱を果たさんと、続けざまに三矢を射た。
 花栄は馬を城門に向けて馳せながら、弦音を聞くと体を倒して一矢をかわした。続けて第二矢を頭上に掴むと、そのまま口にくわえて朱雁を取った。楊端が第三矢を放つ前に、花栄は朱雁に今しも掴んだ矢をつがえ、放つと楊端の喉に命中させた。
 梁山泊軍にわっと歓声があがり、城壁上は恐慌でどよめいた。楊端は蓋州一の弓の名手であったのだ。
「神箭将軍!」
 両軍の兵士の声が響いた。花栄はさらに箭をつがえ、弓を構えて呼ばわった。



「ほかに誰か“小李広”花栄の的になりたい者はいるか!!」
 城壁にいた蓋州兵たちは、射程から逃れようと我がちに後方へと逃げまどった。梁山泊の兵たちの歓呼の声が空を覆った。
「神箭将軍! 神箭将軍!」
 同じように、北門でも、東門でも、西門でも、梁山泊軍の鯨波が絶え間なく繰り返されていた。
 蓋州城内にいる人々にとって、その声は、何十万の大軍に包囲されているように聞こえていた。





 陣営の一角には、“金銭豹子”湯隆が鍛冶場を設けていた。
 徴収した武器は、すべて湯隆が調べ、必要なものは鋳直したり、研磨をほどこす。雷横のほか、刃物の扱いに慣れている“慶福”蔡慶と蔡福も研ぎ師として駆り出されていた。湯隆は蔡慶が研いだ刀を、目を細めて吟味した。
「おい、研ぎすぎだ。こんなに刃を薄くしちゃあ、すぐに刃こぼれしちまう」
「よく切れるぞ。斬られたことも気づかぬくらいに」
「兵隊がみんな“使い手”なら、それでもいいがな」
 陣営の向うでは、杜遷と宋万が新兵を訓練している。兵たちは力まかせに、めちゃくちゃに刀を振り回している。別の隊では穆春、薛永が棒の構え方から教えているが、突くのではなく叩くばかりで、どう見ても村の喧嘩だ。
 そこに“挿翅虎”雷横が、今日の戦でぼろぼろになった武器を運んできた。折れた槍、歯こぼれした刀を山積みにして、雷横は黙々と鞴を動かす。
 武器は丈夫なのに越したことはない──と、“慶福”もようやく悟った。
 蓋州城の方面から、喚声が沸き上がった。まだ日が昇ったばかりだが、攻撃が始まったのだ。
“疑兵之計”は連日連夜、交替で続けられていた。
 北門が襲われたかと思えば、東門にも敵が現れる。蓋州城内の兵は、門から門へと駆けずり廻った。昼間は攻撃に翻弄され、夜も砲声が轟き渡る。たびたびの夜襲もあった。蓋州城内では、数日のうちに発狂する兵さえ現れた。
 一方で、梁山泊の陣営では“兵”が続々と増え続けていた。
 この地域は戦乱と天災によって、深刻な飢饉に見舞われていた。どうにか作物が実っても、税や軍糧として奪われる。農村は崩壊し、人々は流民となり、そういった人々が「蓋州には食物がある」と噂を聞きつけて梁山泊軍のもとに集まってくるのだ。
 宋江は彼らをみな受け入れ、飢えた人々に軍糧を惜しみなく与えた。
「呉用先生が、天地が助けてくれると言ったのは、このことですね」
 兵にもならぬ者が大半でも、喚声をあげ、砂ぼこりを立て、武器をかついで城の周りを駆け回れば、充分に蓋州に威圧感を与えることができるのだ。





 その日の夜半、城に監視にあたっていた楊林が一人の伝令を捕らえてきた。
「また伝令を捕まえた」
 援軍を求める伝令は、こうしてみな捕まっていた。戦うことのできない老弱の民が、周辺のあちこちに潜んで監視の任務に当たっているのだ。周辺の地理を知りつくした地元の者による、水も漏らさぬ包囲である。
 さらに、近隣の者たちである。互いに顔見知りが多かった。彼らは、蓋州城内にいる親族や友人にあて、密かに降伏を誘う矢文を放った。
 この夜、楊林が捕らえた伝令はまだ若い男だった。
 本営に連れて来られると、見張りに立っていた兵たちが男を取り巻いた。緒戦で蓋州から脱走した兵士たちである。彼らは殆どが梁山泊軍に降り、そのまま兵として編入されていた。
 兵たちは伝令を取り囲み、城内にいる身内や取り合いの消息を争うように尋ねた。
「城内に俺の弟がいるはずなんだが、知らないか」
「親父は無事か、兄貴は……」
 口々に尋ねる兵たちの中を、伝令は宋江の幕屋へ連行された。
 梁山泊軍は、すでに何人もの伝令を捕らえていた。そのまま降伏した者もいるし、降伏しないものは捕虜として囚われている。
 この夜、宋江と呉用が会った伝令は、今までの者とは、少し違った。まだ三十になるかならずの年齢で、背が高く、鶴のように痩せた男だ。憂いを帯びた目に、詩人のような知性があった。深山に棲む、隠者を思わせる風貌だった。



 宋江は、暫く伝令の顔を見ていたが、やがて穏やかに言った。
「お腹がすいているのではありませんか」
 外では、ちょうど夜襲を終えて戻ってきた部隊の食事が始まっていた。
 捕らえられた蓋州の伝令も、張青に連れられて行き、彼らに混じって雑穀の粥をすすった。また兵たちが集まって、城内の様子を尋ねた。伝令は、重い口を開いた。
「城内はひどいありさまです。将軍たちは、籠城が長くなるのに備えて、食い物を倉に集めて厳重に警備している。彼らだけなら、何カ月も籠城できるでしょう。しかし、兵卒は一日一回、わずかな飯がもらえるだけ。住民はもっとひどい……」
 ひとりの疲れ果てた顔をした中年の兵士が、飯碗を手に独り言のように呟いた。
「宋国軍も田虎軍も信用できない。だが、梁山泊軍は信用できる。俺たちの食い物を奪う奴らは大勢いたが、食い物をくれたのは、梁山泊だけだ……」
 伝令は黙って飯を食べ終えた。そして、立ち上がり、また張青とともに本営の宋江の元に戻った。
「私が伝令に志願したのは、城から脱出したかったから……それだけです」
 伝令はそう言うと、髻の中から蝋で封をした鈕文忠の密書を出した。呉用が受け取り、丁寧に蝋をはがして読んだ。密書は、鈕文忠から輝県、武渉県方面に派遣している軍に対し、蓋州への帰還を命ずる内容だった。
 鈕文忠は、これらの兵を援軍として、呼応して打って出るつもりなのだ。
 同様の密書は、今までに何通も手に入れている。そのたびに、文面が明らかに緊迫していくのが分かった。
(鈕文忠の忍耐も、限界か)
 この時を待っていたのだ。
「あなたは、このまま密書を届けてください」
 呉用はまた丁寧に蝋で封をすると、伝令に手渡した。伝令は密書を手に、ゆっくりと顔を上げ、呉用の顔を、それから宋江の顔を見た。
 宋江が静かに微笑んだ。
「お願いします。そのあとは、あなたは行きたいところへ、行けばよい」
 ずっと無表情だった伝令の目に、かすかな、疲れ果てたような笑みが浮かんだ。

 伝令が拱手して出て行くと、宋江は戴宗と石勇、王定六を呼び寄せた。いつでも急使として発てるよう、彼らは常に本営の中で生活している。
「それでは、手筈通りに。出来るだけ急いで行ってください」
 宋江は蓋州攻めが始まって、はじめて安堵した表情を見せた。
「これで──老人たちとの約束が果たせます」





 梁山泊が制圧した凌川には、柴進と李応が残っていた。
「おかしなものだな」
 役所の前にある広場に立ち、柴進は嘆ずるように呟いた。
「ほう、柴大官人にも不思議なことがありますか」
 振り向くと、李応が役所を出てきたところだった。
「軍糧は足りるかね」
 柴進が尋ねると、李応は帳簿を見せた。
「うちの杜興が、なかなか良い売買をしてきました」
“鬼臉児”杜興はもと商人の経験を余すことなく発揮して、梁山泊軍が“略奪”した財貨を東京や北京で処分した。換金した銭は、殆どが食料に替えられた。
 地方は人が相食むほどに飢えていても、東京や北京、大都市には米も麦も余っているのだ。高官、金持ちたちは美食を楽しみ、裏道には腐った食料が山のように捨てられる。
「それもおかしな話ですが、他にも何か“おかしな”事がありますかな」
「これだよ」
 柴進は、門前に集まった民衆へ視線を転じた。門前は行列ができ、大変な騒ぎである。杜興が買いつけてきた食料や古着を配っているのだ。李応配下の兵の他、“鶏狗”の者まで群衆の整理、誘導に駆り出されている。
「やっていることは、“山賊”だった時と同じ……それなのに、今は手を合わせて感謝される。李応殿、あなたも、おかしなことだと思われるだろう」
「まったく」
 そう答えたが、柴進も李応も、心からこれを“奇妙”と思っている顔ではなかった。
「──御前」
 群衆をかき分けるように、“影法師”が一人の男を連れてきた。
 蓋州にいるはずの、“石将軍”石勇だった。
「機が──熟した」





 衛州には、関勝と呼延灼、公孫勝が水軍を連れて駐屯していた。田虎討伐の基地である衛州は、宋国との連絡口でもあり、現時点では最も重要な場所である。
 杜興が仕入れた軍需物資は、大半がここに運ばれてきた。それを各軍に送る手配は、文武の才を兼ね備えた赫思文の仕事である。
「塩や干し肉も忘れないように。野菜はどれくらい供給できるかね」
 関勝配下の将だった時から、事務方面は赫思文の担当である。手際よく指示し、各地へ送る荷駄を作らせた。馬や輜重兵、人夫でごったがえす船着場に、呼延灼がやって来た。赫思文は帳簿を見せた。
「呼延将軍、各軍への武器の補給はこのようにしましたが」
 呼延灼は目を通したが、最善の配分だった。呼延灼がそう答えると、赫思文は帳簿を控えていた李俊に渡した。
「では、李俊。輸送の手配をお願いします」
 頷いて去る李俊を見送り、呼延灼が赫思文に尋ねた。
「関将軍は?」
「郊外へ、宣贊と散策に出ております」
 その時、赫思文は桟橋の端に腰掛け、船出していく張横たちに声をかけている男に気がついた。
“神行太保”戴宗だった。
 呼延灼が頷いた。
「“機が熟した”」




 関勝は晩夏の野に立っていた。
 本来ならば、麦の刈り入れの時期である。しかし、城からここまで来る途上、豊かな実りはどこにもなかった。田畑は荒れ、水路は干上がり、野原と区別もできなくなっていた。
 田虎が支配する国は、“三晋”と呼ばれる地域である。
 かつて中原に栄えた覇者・晋国。戦国の世に、晋から分かれた、韓国、魏国、趙国。その故地であるので、“三晋”と呼ぶ。この三国の自立をもって、時代は“春秋”から“戦国”へと移った。
 東には太行山脈、西から南には黄河が流れ、北には砂漠。中華の臍──中心の土地なのだ。
 今、田虎は古の聖王の国“晋”を名乗り、戦乱を大地に強いている。
(国の名は、名に過ぎぬ)
 関勝は思う。
(“春秋に義戦なし”……では、これはなんだ)
 荒れた大地。ひび割れた黄土の道を、食料を求めて衛州へ向う飢えた人々。道端に捨てられた、命なき子ら。髑髏の群れ。
 孟子よ。
 人の性の善なるを説き、『春秋に義戦なし』と説いた孟子よ。では──あなたには、何ができたのだ?
 自問する関勝の背後に、宣贊が立っていた。
「以前、東京開封で、面白い話を聞きました」
 宣贊は茶色の地平に目をやって、淡々と話しはじめた。
「ある時、豪華な夕飯を食べながら、宰相の蔡京が孫たちに尋ねた。“お前たちは、この米がどこからやって来るか知っているかね?”。孫のひとりが答える。“もちろん知っておりますとも、お米は鍋から出てくるのです”。もう一人が怒って言った。“ばかだな、お米は臼から出てくるんじゃないか”──蔡京が笑っていると、別の一人が得意気に胸を張った。“僕は知っていますよ、おじいさま。米は、俵から出てくるのです”」
 宣贊は左の肩を揺らした。顔を失った宣贊の、笑う時の癖だった。
 埃まじりの風が小さな旋風になり、ひび割れた畑を吹き過ぎていく。
「あれは?」
 宣贊は、荒野の向うを一団の人々が荷車を引いて行くのに気がついた。衛州城の方から来て、西の方に去っていく。
「あれは、輝県、武渉県の老人たちではないか。どこに行くのだ」
 確かに、宋江に助けを求めて来た老人たちだった。今は見違えるように元気になり、しっかりした足どりで歩いていく。彼らの牽いている馬や荷車には、食料らしい袋が満載されていた。
 関勝が言った。
「彼らは、帰るのだ」
「──では」
 荷車を押して行く人々の歌う、素朴な、力強い節の歌が聞こえた。彼らは、荒廃した故郷に帰るのだ。荷車には、武器も積んであるようだった。
 関勝は赤兎の手綱を引いた。
「我等も戻らねばならぬ。出陣の準備を、する時が来た」
 午後の日が、二人の足元に漆黒の影を落としていた。








「今頃、蓋州ではお楽しみか」
 史進と穆弘は、高平城の守りを任されていた。民に配給を始めてから軍への酒の支給は絶えていたが、穆弘配下の掲陽鎮の船頭や車夫たちは、高粱や黍などの雑穀で酒をかもす術を心得ている。穆弘と史進にとっては、食べるのも飲むのも同じだ。
 史進は食料を倹約して作った酒を一口ふくみ、眉をしかめた。
「青くさいな、早すぎたか」
「お前が早く呑ませろとせっつくからぢゃ」
 穆弘は安道全にも注いでやった。
「先生よ、あの“二枚目”の具合はどうぢゃ」
「ひねもす、空を眺めてばかりおる」
 常日頃、安道全は医者らしく暴飲暴食を慎んでいる。それが、一息に碗の酒を飲み干した。
 遼国戦で重傷を負った“没羽箭”張清は、傷も癒え、意識も戻った。しかし、どう見てもまだ“病人”である。
 憮然とする安道全に、穆弘はまた波々と注いでやった。
「どんな病ぢゃ。酒でも呑ませるか」
 張清という男は、陰気というわけではないのだが、どうにも近づきがたい雰囲気がある。生来の無口でもあり、穆弘も史進も殆ど言葉を交わしたことがなかった。
「酒か、いいかも知れんな。脈を見ても問題はないし、問診しても要領を得ん。さすがの“神医”も処方案が尽きたわい」
 史進が面白そうな顔をした。
「いっそ荒療治を試してみるか」
 みなが蓋州を攻めているのに、高平城で留守番というのが気に入らない。流民に饅頭を配ったり、へっぴり腰の民兵を訓練するのは、“九紋竜”史進の苦手のひとつだ。
「どこぞの妓楼にでも繰り出して、どっと騒げば、あの堅物も元気が出るだろう。おっと“没遮闌”の、あんたの女房には内緒だが」
「柳絮は、それしきの事では怒らねぇ」
「そいつは出来た女房殿だ」
 史進が穆弘のために乾杯すると、音もなく扉が開き、張清が部屋に入ってきた。史進が立って、張清を隣の椅子に座らせた。
「顔色がさえないぜ、色男がだいなしだ」
 史進は張清の前に碗を置き、自家製のどぶろくを注いでやった。
「一杯どうだ、元気がでるぞ」
 張清はじっと酒を眺めていたが、やがて一息に飲み干した。史進がさらに一杯ついだ。それも張清は飲み干した。
「ほう、いける口だな」
 梁山泊の酒宴で同席したことは何度もあったが、史進は張清が少しでも酔ったのを見たことがない。飲むのを注意して見たこともなかったので、すっかり下戸だと思い込んでいた。
 史進が三杯目を注ぐと、張清は今度はゆっくりと飲んだ。
「……今日も、女の夢を見た」



「なんだって?」
「ずっと、もう何年も──私は彼女の夢を見ている。いつの頃からだろうか……そう、初めはほんの幼い少女だった。それが、夢に現れるたびに、成長していった」
 穆弘と史進は顔を見合わせた。張清を追ってきた共旺と丁得孫も、戸口で足を止めていた。張清がそんな話をするのを、誰も聞いたことがなかった。
「──夢の女か」
 口を開いたのは、穆弘だった。
 張清の気鬱の原因が“夢の女”とは──あながち、史進が言った“妓楼之計”が間違いではなかったようだ。
「一片春情英雄愁──気に病むな。若い時分は、わしも毎晩のように見た」
 穆弘は張清の碗に酒を満たした。
「もっとも、わしの“夢の女”は、素っ裸ぢゃったがの」
「少女は、私に、礫を教えてほしいと言った。私が拒むと、少女は初めて顔を上げ、私を見た。そして、私に向かって礫を投げ──私は、目覚めた」
 酒席はしんと静まり返った。
 史進は、ふと何かが心に引っかかった。
「青い頭巾の……石つぶてが得意な……?」
 目の前にいる、青い頭巾の“没羽箭”張清。礫を投げれば百発百中の腕前だ。
「張清よ、お前……どこかで俺に会ったか」
 張清は史進の顔を見返した。
「だから、梁山泊に入る前に、お前と会ったことがあるか?」
 史進は記憶を辿ったが、思い出せない。しかし、確かに昔、どこかで、“石を投げる、青い頭巾の”男のことを聞いたのだ。
 いつの間にか、酒壺は殆ど空になっていた。
「……なるほど」
 安道全は最後の酒を手にすると、穏やかな笑みを浮かべた。
「この“病”は──いかな名医とて、治せぬわい」

「──お楽しみのところ悪いがネ」
 丁得孫たちの後から、伝令姿の王定六が入ってきた。
「集合サ。機が、熟した」
 史進が勢いよく立ち上がった。
 穆弘ものそりと酒杯を置いた。
「兵隊はいつでも出られるで……“没羽箭”の、あんたは」
 穆弘は張清に目を向けた。
 張清は、長いあいだ離れていた世界が少しずつ自分に近づき、現実味を帯びていくのを感じた。
「私は……」
 実感のなかった自分の掌に、力が戻ってくるのを感じた。
“二虎”が祈るような目で彼を見ている。初めて出会った時から、彼らが張清を見る眼差しは、一瞬として曇ったことがない。
 荒涼山河に乾いた風が吹き抜ける。
 その風の遥か彼方から、“戦わねばならぬ”──と、誰かが、張清に呼びかけていた。





 襄垣城の中心にある烏梨の屋敷は、珍しく華やかな声に包まれていた。
 中庭に妻の倪氏や親戚、知人の貴婦人たち、侍女などが集まって“養女のお披露目”が行われているのである。戦のことは小耳には挟んでいたが、はるか南方の蓋州での出来事である。田虎軍は無敵と信じていたし、貴婦人たちには戦より日々の楽しみのほうが重大な関心事だった。



 倪氏の養女は、旅芸人の一座で“瓊矢鏃の瓊英”と呼ばれていた少女である。孤児なので、姓はなかった。人々はまず倪氏が孤児を養女にすると聞いて驚き、次に瓊英の美貌に驚き、さらに驚かされることがあった。瓊英が素晴らしい演舞を見せたのである。
 倪氏は美しく着飾らせた瓊英の腕に手を置いて、自慢げに皆を見回した。
「ご覧のように、娘は弓も射るし、槍も見事に使えるのですよ。こんな娘がほかにいるかしら」
 貴婦人たちは感嘆し、倪氏は瓊英を褒めた。
「ぜひ晋王にもご覧いただかねばね」
「そんな、畏れ多いことですわ。私は卑しい芸人ですもの」
「お前はもう私の娘なのだから、卑しいなどということはないのですよ」
「……お母様」
 倪氏は優しく瓊英の髪を撫でた。烏梨は庭に面した部屋の奥に座り、女たちが騒ぐのを気のない顔で眺めている。
「さあ、次は父上に礫の技を見せておあげなさい」
「はい」
 瓊英は頷くと美しく磨いた玉を手にとり、軒に並べた丸瓦を百発百中の技で打ち割った。さらに五人の侍女が矢継ぎ早に投げる小皿を、礫で次々に弾き落とした。侍女たちは意地悪く二人で投げ、三人で投げ、最後は五人いっぺんに小皿を投げたが、それも瓊英は目にもとまらぬ速さで弾いてしまった。
 これには、烏梨も関心しないわけにはいかなかった。
「すばらしい技だ。どのようにして身につけたのだ」
「口上では、“神人から武術を伝授された仙女”などと言っていたけれど」
「ええ。幼い頃に、夢で神人から教わったのですわ。夢に見目麗しい、年若い神人が現れて……武芸を教えてやると申されたのです」
 瓊英は無邪気に答えた。烏梨はもちろん信じない。
 やがて宴が終わり、貴婦人たちが帰っていった。
 倪氏はまだ庭にいて、瓊英に石を投げさせている。烏梨の横には、今朝方、屋敷を訪ねてきた道虚道人──許貫忠が座っている。
 烏梨は、瓊英に夢中になっている妻を庭から呼び寄せた。
「本当に、芸人の娘などを養女にする気かね」
 倪氏は夫の同じ質問に飽き飽きしていた。
「何度も申しましたでしょう。使用人など、しょせんは他人ですよ。わたくしは、心の許せる者に老いの身を世話してほしいのです。あの子は頭もいいし、よく気がつく。もとはいい家の生まれのような気がします。相当な苦労をしているようだから、恩をかければ必ず親身になってくれます」
 道虚道人も、娘は貴人の相を持っていると占った。
「あの娘は意志強く、神仏の加護を得ている。人にはできぬと思われることも可能にする、女子には稀な英傑の相です」
 烏梨は瓊英の美貌に目をやった。確かに、類まれな美少女である。
「ならばいっそ……太子の妃に勧めるという考えもある」
「まあ」
 倪氏の顔が輝いた。
「貧道はこれで失礼しましょう」
 去ろうとする許貫忠を、烏梨が慌てて押しとどめた。
「お待ちを。このまま襄垣に止まられ、私を助けてはくれませんかな。もとは優れた軍人であったと聞いておりますぞ」
「今は、ただの道士に過ぎません。もし優れた将をお求めならば、ちょうど旧知の者が城内に閑居しております」
 許貫忠が使いをやると、すぐに一人の男がやって来た。近くで待っていたようだった。
「空同山を去り、蛾眉山で修行していた時の道友です。学問より武芸に才覚があり、中道で下山しましたが、この面相ゆえ、用いようという度量ある者に恵まれぬのです」



 許貫忠が言うだけあり、男の顔半分にはひどい火傷の跡があった。
 烏梨は難しい顔をした。ちょうど配下に勇士が欲しかったところだが、あまりに醜い容貌である。断るかと口を開きかけた時、庭で瓊英が声をあげた。
「あっ、痛い」
「娘や、どうしたのです」
 倪氏が慌てて歩み寄り、瓊英の手を取った。
「小皿の破片で指を切ったのね、たいへん、血が出ているわ」
 すぐに“火傷の男”が懐から膏薬を出し、瓊英の指に巻き付けた。
「拙者、医術の心得がございます。これは家伝の秘薬、すぐに痛みも消えましょう」
 瓊英は礼を言うと、烏梨の方へ甘えるような笑顔を向けた。
「お父様、この方、とてもいい方だわ」
 生まれて初めて“お父様”などと呼ばれ、烏梨は思わず相好を崩した。
「娘がそう言うのだから、雇ってやろう。名は? 山西の訛りがあるな」
「葉清と申します、旦那様。石州の出身でございます」
「忠義をつくせよ。手柄があれば、晋王にも推挙してやろう」
 葉清は烏梨に、続いて瓊英に向って拱手した。
「お口添え、感謝いたします……お嬢様」
「良かったこと」
 葉清と瓊英は、一瞬だけ電光のような視線を交わした。
 そんなことには気づかす、烏梨はしごく満足だった。
 瓊英が太子の后になれれば、姪が皇后にならなくても安泰だ。文官ゆえに配下の将に乏しいのが心配だったが、葉清というなかなか使えそうな男も手に入った。
 蓋州が宋国の討伐軍に攻められて、苦戦しているとの情報が届いているから、これで鈕文忠が失脚し、自分が枢密使になれれば言うことはない。
 喬道清が国師、宰相になるのは仕方がないし、武勇を思えば孫安が禁軍太尉なのは揺るぎない。更なる出世を望むなら、烏梨は枢密使を狙うしかないのである。
(運が向いてきた気がするぞ。この娘、幸運の神かもしれぬ)
 烏梨は瓊英に優しく尋ねた。
「本当に、神人に武芸を教わったのかね」
「あら、そんなこと。でまかせですわ」
 自分の武術は、幼い頃から親方に厳しく仕込まれたものだ、と瓊英は答えた。武芸に優れた美少女として評判をとり、たびたび見物人を相手に試合もした。見せ物は好評だったが、瓊英のような少女に負けては、腕に覚えのある対戦相手は納得しない。逆恨みをされることがたびたびあった。
「だから、親方が“この子の武芸は神様から習ったものだから、人間では適わない”と言って、お客さんの面子を立てるようにしたんですの」
「なんだ、やはり嘘なのか」
「だって、この世に神などいないでしょう?」
 瓊英は小首をかしげ、にっこりと微笑んだ。
 その可憐な笑顔に眩惑され、烏梨は、少女の瞳の奥底にある鋭いものに気づかなかった。
(私を助けるのは、私だけ)
 瓊英は咲き乱れている花にも一顧だにせず、演舞の庭を後にした。
 少女の頑なな瞳には、青空さえ映らなかった。
(信じない)
 田虎をこの手で殺すまで、両親の仇を取るまで──私は、誰も信じない。



※文中の「鉄間」は、正しくは鉄間です。
※文中の「金燦斧」は、正しくは金燦斧です。
※文中の「彭己」は、正しくは彭己です。
※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「登飛」は、正しくは登飛です。
※文中の「緒亨」は、正しくは緒亨です。
※文中の「弃命三郎」は、正しくは弃命三郎です。
※文中の「没遮闌」は、正しくは没遮闌です。
※文中の「共旺」は、正しくは共旺です。
※文中の「烏梨」は、正しくは烏梨です。
※文中の「空同山」は、正しくは空同山です。






BACK