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麦秋。
実った麦が黄金の波となり、小さな村を包むように広がっていた。
朝──街道端の古びた宿屋から、一筋の煙が立ち上る。
一階は卓を並べた食堂と厨房。二階には部屋が並んでいる。
二階の奥の一室で、一人の娘が眠っていた。昨日の客は、この娘だけだった。屋根で雀がさえずるほかは、まだ静かな朝である。
窓から差し込む日の光に、娘の睫毛がぴくりと動いた。
同時に何かが割れる音がして、娘ははっと目を開けた。
無意識にのばした腕が、枕元の茶碗にぶつかったのだ。茶碗は、床に粉々になって散っていた。
まだ半分、夢を見ているような目で、娘は不思議そうに自分の掌を見つめていた。
やがて、娘は体を起こし、朝日の中で伸びをした。
久しぶりに夢を見た。
布の破れた窓から射しこむ朝日がまぶしい。
何かいいことがありそうだ──と、娘は思った。
身支度をして階段をおりていった。その姿は、男のような灰色の上下と青い斗篷。腰には剣を吊って、旅回りの武芸者のようだった。
階下におりると、厨房から中年の主人が顔をだした。
「お嬢さん。粗末な寝台で、眠れましたかな」
「ぐっすり寝たわ。お茶をもらえる?」
「お茶なら急須に入っておりますよ。弁当の準備もしてありますが……本当に行きなさるのか」
娘は卓の上に剣を置き、自分で急須から茶を注いだ。
「戦ばかりで、山西では商売にならないんだもの。東京に行くしかないわ」
人の良い主人は心配そうな顔をした。この客は、まだ十五、六の娘だというのに、髪に水蓮の造花を挿した以外は化粧気もなく、無愛想で、親切に世話してやってもにこともしない。しかし、不思議と好感があった。客商売の長い宿の主人は、娘の伸び放題になった前髪の下に、美貌と、夜空のように澄んだ目が隠れているのを見逃さなかった。
「昨日、田虎軍が近くの県城を襲ったという噂です。娘さんのひとり旅だ。お気をつけなさいよ」
「そうね」
娘は答えて、土間のすみに目をやった。十くらいの物乞いの少女が筵にくるまり、死んだように眠っていた。
「その子は、昨夜、県城から逃げてきたそうですよ。本当に、この頃は戦ばかりで」
商売あがったり……と、亭主はため息をつき、厨房に戻ろうとした。
「おや、客かな」
店の前に馬が乗りつけた気配がした。まだ宿の扉は閉じている。主人は客を迎えるため戸口に向かおうとして、その顔がさっと強張った。
扉が乱暴に蹴り開けられ、逆光に兵士の姿が浮かび上がった。主人の背中が、ほっと安堵して緩むのが見えた。官軍だ。
次の瞬間、正面から袈裟懸けに斬られた主人が土間に倒れた。
物乞いの少女が悲鳴をあげた。兵士が怒鳴った。
「賊をかくまっているだろう、同罪だ!」
官軍の姿はしていたが、その顔は盗賊だった。血に塗れた刀をひっさげ、主人の死骸を踏み越えて店に入ると、すぐに帳場を物色しはじめた。
近くの集落のあちこちから悲鳴が聞こえていた。兵士は、この男ひとりではないのだ。兵士は帳場から銀粒を一掴みほど盗んで懐にねじ込むと、引き返して倒れた主人の首を取った。
「おっと、こいつを忘れちゃならねえ」
農民の首をとって、反乱軍と偽り恩賞をもらう。最近、討伐軍の兵士の間で流行になっている小遣い稼ぎだ。村人だろうが盗賊だろうが、首ならばなんでもいい。咎め立てする上官はない。彼らもまた、それを東京に送り、莫大な褒美をせしめるからだ。
「田虎軍の賊の首を持っていけば、一つにつき銀一両だ」
独り言のつもりだったのだが、店の奥から返事があった。
「それは、ただの宿屋の主人よ」
冷やかな女の声だった。
官兵は立ち上がり、奥の卓に座った娘を眺めた。
「女か。女の首ではだめだな」
髭面に、笑みが浮かんだ。
「女は、他に使いようがある」

兵士が娘の方へ踏み出すと同時に、娘の腕が動いた。卓上に置かれた茶請けの胡桃をさっと掴むと、そのまま目にも止まらぬ速さで投げた。骨の砕ける音がして、兵士は後にのけぞり、倒れた。その時には、娘はすでに剣を抜き、椅子を蹴って、倒れた兵士の首を上から一気に貫いた。
血が噴き上げて、娘の白い頬が染まった。
娘は斗篷を脱いで顔を拭うと、そのまま布を卓に広げて、主人が用意していた弁当を放り込んだ。さらに兵士の懐を探ると、銀粒や宝石をつめた財布がいくつも出てきた。それも包んだ。
旅支度が整うと、娘は店を出て、軒先に干してあった紅の布をはおった。物乞いの少女が後を追いかけてきた。
「連れていって」
「だめ」
街道から少し入った集落では、官軍の略奪が続いている。娘は死んだ兵士が乗ってきた馬の手綱を掴んだ。
「敵も味方も、信じてはだめ。自分の命は、自分で守りなさい」
物乞いの少女に向かって、娘は財布をひとつ放った。
混乱する集落と反対側の道へ、南へ──と、娘は街道へ駆けだした。
紅の斗篷がはためく。

顔をあげると、風が頬に吹きつけた。
空の蒼さが、まぶしかった。
青空の下、梁山泊軍はのんびりと南に向かって行軍していた。
宋国と遼国の間で講和となり、梁山泊軍は宙に浮いたような格好となった。東京へ戻れという命令のあと、なんら音沙汰はない。
とりあえず和平が成ったので、撤退の道中は安全である。軍糧も足り、帰還の期日も決められていない。梁山泊軍は、宋江、盧俊義、水軍の三つの部隊に別れ、それぞれ東京へ向かうこととなったのである。燕雲で投降した漢人を収容して十万近い大軍となり、全軍で行軍するのは不便なためだ。
水軍は水路を、盧俊義軍は覇州を通過して、東よりの道を行く。宋江軍は易水を渡り、やや西よりの進路を選んだ。
宋江に従った安道全は、馬車に揺られていた。馬車には、燕京で手に入れた貴重な薬草を満載している。
その馬車に、病み上がりの張清と、なぜか呉用が一緒に乗っていた。張清は、どうにか意識は戻ったものの、なかなか完全に回復しない。一日中ぼんやりとして、食欲もないし、眠りも浅い。
呉用は馬車の震動に身を任せ、ゆっくりと過ぎていく風景を見るともなく眺めていた。常に穏やかな態度を崩さない人ではあったが、人を寄せつけない鋭さがあるのも事実だった。それが、急にやわらいだように安道全は感じられた。
やわらいだというより、張り詰めていた糸が切れてしまったようにも見える。
(やれやれ、脱け殻が二つか)
安道全は“神医”の自信を失いそうだった。
(体の病は治せるが、心の病は厄介だわい)
正午前、隊列に停止の銅鑼が響いた。
「休憩だ、ここで昼飯にしよう」
一行は開封に向かって南下したが、まだ炎暑の季節であり、早朝に発って、昼は休み、また夕方に進むという無理のない日程を組んでいた。
木陰に三々五々ちらばって飯を食った。こういう時は、やはり古馴染同士が自然と集まる。ひときわ高い楡の木陰に、魯智深、楊志ら二竜山の面々が車座になっていた。李忠、周通も加わっている。
割り当ての酒を口にした魯智深が、隣の周通に声をかけた。
「おい、こいつはどこの酒だ」
「昨日、城市で仕入れた酒だとさ。和尚の口には合わねぇかね」

「懐かしい味だ」
山西の酒だった。
しんと冷えた座禅堂の空気が、脳裏に鮮明に蘇った。
「この頃、妙に山のことが思われる」
楊志が、大蒜の皮を剥きながら言った。
「二竜山か」
「いや、二竜山のことは、不思議と夢にも見んのだが、わしは山西の五台山に一冬いたことがある。あれほど嫌だった寺なのだが、時に、妙に懐かしくてな。思えば、わしには親のようなものだったのかもしれん」
肉屋の鄭を殴り殺し、身を隠すためにわけも分からず出家した。
慈悲に満ちた老僧の眼差し、雷鳴のような叱る声が懐かしい。
ふいに魯智深は立ち上がり、宋江のもとに向かった。
木陰に腰掛け、宋江は何か考え事をしている様子だった。呉用は杓児が木の枝で地面に習字するのを眺めている。
「だいぶ上手になったでしょう。蕭おじさんに習ってるんです」
杓児は蕭譲に諸家の字体を習っていた。書いているのは、赫思文に教えてもらったという唐詩だ。地面をのぞき、呉用はひとつの文字を指さした。
「点がひとつ多いですよ」
「でも、何の字か分かるでしょう」
誰に似たのか、杓児は負けず嫌いだった。
「点の一つで、意味の変わる文字もあります。たとえ点ひとつでも、おろそかにしてはいけません」
「ああ、うん……そうだね」
杓児は指で間違えた所を消した。
「学問は面白いですね。僕も、呉先生のようになりたいなぁ」
思いがけないことを言われて、呉用は困ったような顔をした。
そこへ、魯智深が足早にやって来た。
「宋江殿、十日ばかり暇をとりたい」
「構わぬが、どうするのかね」
「ここから街道を西に行けば、五台山はそう遠くない。久しぶりにお師匠様に挨拶をして、もらった褒美も寄進したい」
「それは良い」
魯智深の話を聞くと、宋江は手を打った。
「私もぜひ五台山を参拝し、智信長老にお会いしたい」
宋江は立ち上がり、清々しく晴れた西の空を仰ぎ見た。
「行きたい者、みなで行きましょう」

五台山は有数の名刹であり、長老は海外にまで名の知られた高僧である。
山西の地はほぼ田虎軍に制圧されているが、その勢力はまだ五台山周辺までは及んでいない。急ぐ旅でもなく、それどころか、東京に帰るのに気が進まない者の方が多かった。結局、宋江はじめ希望する頭領たちと、千人ほどの兵士が同行することになった。
もっとも、五台山までやって来ると、麓の門前町の賑わいを見て、参詣せずにここで待つという者のほうが多かった。
李逵は宋江について行こうとしたので、寺で暴れることを心配した魯智深が耳打ちした。
「寺では、酒も喧嘩も御法度だ。戒を破れば、頭を剃られて、きつく灸を据えられる」
そう言って、自分の頭の跡を見せた。
「本当か?」
李逵は路傍の居酒屋で酒を呑んでいる王定六と石勇に声をかけた。この山は、掏摸の王定六が魯智深と出会った山であり、賞金稼ぎの石勇がはじめて首を取り損なった山である。二人は思い出話に興じているところだった。もっとも、話しているのは王定六ばかりである。
「本当サ、五台山の智真長老は、あンたの苦手な、二仙山の羅真人みたいなお人だからネ」
李逵が唸った。石勇が、無言で李逵の前に酒杯を置いた。
「よし、おいらがここで田虎軍が来ないか見張っていてやる!」
李逵はぐっと酒杯を干すと、居酒屋の長椅子に腰を落した。
「宋江兄貴、安心して行ってきてくれ!!」
清涼山と呼ぶだけあって、風が涼しい。
呉用が門前町の書肆から出ると、一軒の茶店で公孫勝が茶を飲んでいた。公孫勝は、いつの間にか帰って来て、いつの間にか一行に加わっていた。
呉用が向かいの席に座ると、公孫勝は、わずかに視線をもたげた。
「──これからどうする」
「これから? 」
昔は阮兄弟や劉唐に負けないほど飲んだ公孫勝が、いつの間にか酒を呑まなくなったことに、呉用はいまさらながら気がついた。
「さぁ……私にもお茶を頂けませんか」
公孫勝が呉用に茶碗を渡したところで、杓児が店にやってきた。
「呉先生、僕をお呼びになりましたか」
杓児は参道の雑踏も賑わいも意に介さず、まっすぐに呉用のもとへ歩み寄った。
呉用は、阿姜がただ一つこの世に残していった、この子供が、時に自分よりずっと長い時を生きているように感じることがある。
「私と一緒にお寺参りに行きましょう」
公孫勝が意外そうな顔をした。呉用は碩学の学者であり、諸子百家の教えにも通じている。しかし、神仏を信じているとは思えなかった。
「お前、行くのか」
「名高い智真長老の説法を拝聴するのも、一興でしょう。一清、あなたもいかがです」
「儂は行かぬ」
ここへは山を見物に来ただけだ……と、公孫勝は茶碗を置くと、給仕に酒を注文した。
「偉そうな爺に会いたければ、二仙山へ来るがいい」
「そうですね、いつか」
呉用と杓児が去り、給仕が酒を運んできた。
「おい、肉も持ってこい」
公孫勝は碗になみなみと酒を注いだ。
今回、羅真人は公孫勝が山をおりることを止めなかった。
師は言った。
『森羅万象の調和が乱れている。世界は大乱となるだろう。地上の乱は天に風雲を呼び、龍を現す』
西を指さし、予言した。

『お前は、西へ行くだろう。真に“入雲龍”となる──最期の試練がやってくる』
そして、と老いたる仙人は告げた。
『そして、お前は、一人の弟子を得るだろう』
その言葉を聞いた時、公孫勝はすぐに呉用のことを思った。
呉用ならば、優れた道士になるだろう。
劉邦の覇業を助けた張子房が、栄華から身を退いて仙道を志したように、呉用は、やがては山に登るべき男であると、いつしか公孫勝は考えるようになっていた。
湯気の立つ牛肉の煮込みが運ばれてきた。箸を持ったが、肉を取らずに置いた。
「いい雲だ」
夏も、もう終わりだった。
法堂で智真長老は座禅していた。

気を感じた。
時がきたのか、いや、まだ早い。
かつて、懐に星を含む夢を見て、魯達が山にやって来た。
今ふたたび、たくさんの何か……奔放な力を持つものが山に集っているのを感じた。
同時に、宋江ら梁山泊の者たちが、寺に参詣のため訪れたと知らせを受けた。清浄の地にいても、長老は外界の風雲を知っている。
堂の外には、接待する知客寮の僧が控えていた。長老の座禅は一向に終わる気配がなかった。
「お引き取り願いましょうか」
智真長老は生き仏と崇められる高僧である。その心は千丈の高みにあって、天地の理すべてを見通すと思われている。その長老が、迷っているように知客寮の僧には見えた。
「あの者たちは、梁山泊の賊から身を起こし、今は官軍として戦場に身を投じている者……殺人放火の罪は恐るべきものでございます。殺生を禁じ、慈悲を説く山にはふさわしからざる者たちと……」
長老の脳裏に、火が見えた。狂ったように燃え盛る火が、数多に別れ、天地に飛んだ。神秘なる声が聞こえた。
“彼らは、那由多の過去に天の定めし掟に逆らい、戦いを挑んだ百八の星将の裔。敗れてなお抗い続け、やがて地上の輪廻に堕とされ、その罪を贖いし時、赦され再び天の軌道に還るもの”
智真長老は問い掛けた。
“その名は”
声は答えた。
“名はない”
はっとして目を開けると、前に少年が立っていた。

背後にともった蝋燭の放つ光が、星のように少年を包み込んでいる。
不思議な子だった。子供であり、大人であり、その両方でもなく、僧のような、兵のような目をしていた。
「梁山泊の子か」
杓児は頷いた。
「名は」
「“杓児”……北斗の杓」
「なぜここに来た」
杓児は、呉用に連れられて来たのである。しかし、今、なぜと問われて、その答えを迷わなかった。
「──僕を殺そうとした敵の顔が忘れられない。夢を見て、飛び起きるんだ」
「憎いのかね」
首を振った。
「怖いのか」
少し考え、やはり首を振った。
杓児は目を閉じ、胸の前に両手を合わせた。
その時、廊下の方に騒がしい物音がしたかと思うと、扉を破って知客寮の僧が転がり込んだ。尻餅をついた僧をまたいで入ってきたのは、魯智深だった。
「ご無沙汰しております、お師匠様」
長老の顔を見て、魯智深は嬉しそうに笑った。
智深、控えよッ──と、以前の長老なら一喝したことだろう。
魯智深が、たくわえた褒美や朝廷から下賜された帛など、すべてを寺に喜捨したことは聞いていた。わざわざ会いに来た芳情も、よく分かっている。
それゆえに、長老の顔は厳しく、悲しげであった。
「智深よ……」
その呼びかける声に、深い愛情があった。魯智深は笑いをおさめ、なにかに打たれたように立ち尽くした。
「そなたは、人には辿り着けぬ道を歩む者。なぜ、いまだ悟らぬ」
しかし、長老には分かっていた。
智真長老は杓児を傍らに呼び、その額に手を置いた。
「小さき星の子よ。智深のかわりに、そなたを残そう」
長老は、自分の前に立つ巨大な男の、無垢な眼差しを凝視した。
そして、聞こえるかどうかの声で、誦した。
夏に逢って擒とし
臘に遇って執え
潮を聴いて円し
信を見て寂す
魯達であれ、魯智深であれ、この者は同じ道を行く。
「行くがよい、その道の、尽きるところまで」
開け放たれた扉から、一条の夕日が射した。
魯智深は合掌し、頭を垂れた。
「宋江兄貴も、お会いしたいと言っているのですが」
「必要あるまい」
ただ智真長老は筆をとり、紙に四行の偈を書いた。
「これを、あの方にお渡ししなさい。お渡ししたとて……意味はないが」
魯智深が去り、長老は再び座禅した。
陽がゆっくりと西へ傾いていく。太陽がもっとも輝く時刻である。
本堂の文殊菩薩の前に、呉用は佇んでいた。
本堂は暗く、外の光も差し込まなかった。おびただしく供された蝋燭だけが、頼り無く、来るものの心を問い掛けるかのように揺らめいている。
(智慧の仏よ──私に智慧を)
しかし、仏は物言わぬ。
呉用はゆっくりと振り向いた。蝋燭の光の中に、智信長老が佇んでいた。歩み寄り、呉用は長老の紫衣の足元に膝をついた。
「私にも、お言葉をいただけませんか」
蝋燭の光が揺れる。
「そなたには──何も言えぬ」
呉用は長老の顔を仰いだ。
「どうか」
老師は呉用の顔を見下ろして、かすかな、重いため息をついた。
「そなたには、分かっているはず。いつも──すべて」
「いいえ、私には、もう何も見えぬのです」
進むべき道、梁山泊を救う道さえ、暗澹とした闇に包まれている。いや、闇ならば常に見ていた。その闇空に輝く星、導く星の道標が、今の呉用には見えぬのだ。
目を伏せて、数珠をもみ、長老は低く阿弥陀仏を唱えた。
「行く道は、行くべき道。行く道のほかに、道はない」

灯心が、かすかに弾けた。
「──老師」
長老を見上げる呉用の目に、蝋燭の金の光が、鋭く映り込んでいた。
山を夕霧が覆っていく。
風は秋のように冷たい。
山の麓に、呉用に連れられ杓児が下りてきた。知らせを受けた白勝と赫思文が待っていた。友達の小魚は駐屯地に残り、山には来ていなかった。
「おじさん、あの詩、覚えたよ」
杓児は、赫思文が教えた『春望』の詩を口ずさんだ。
「僕はね、分かったよ。家族の手紙が一番だいじ、もう役人の冠もかぶれない……人は何を失っても、家族があれば、自然の中で、自然の一部として、生きていくことができるね」
杓児は澄んだ目に笑みを浮かべて、小さな両手を静かに合わせた。
「僕には家族はいないから、梁山泊の皆のために、お経を読むよ」
「ありがとう」
赫思文も、両手を合わせた。
赫思文の後ろに、白勝が立っていた。白勝と杓児は、無言で向かい合った。
北斗の子。
かつて、北斗の星に導かれ、集まった七人。
八番目の小さな輔星が白勝ならば、目に見えぬほどの小さな弼星が阿姜だった。
阿姜という存在によって、白勝と杓児は、しっかりと結びついていたはずだった。しかし、すでに彼らは幽と明──別の世界に隔たっているようだった。
強い将軍になりたい……そんな望みを抱いたことすら、杓児はもう忘れていた。
「ごめんね、おじさん」

「達者でな、杓児」
白勝は、ぎこちない笑顔を浮かべて、それだけ言った。
呉用に向かって合掌し、杓児は寺への道を登っていった。
振り返ることはなかった。
梁山泊の空に降った、三つの流星──その、二つ目の星が、去った。
小さな背中が山道に消えるまで、呉用たちは杓児を見送っていた。
白勝が、涙を拭った。
赫思文は、杓児から自分の生い立ちの話を聞いていた。杓児の母親と、白勝とのことも知っている。赫思文にしては珍しく、いさめるような目を向けた。
「白勝よ、いま泣くのなら、なぜもっと愛情をかけてやらなかったのだ」
阿姜の子なのに、白勝はどこかで杓児に距離を置いていた。時として、冷たく見えることさえあった。
「ほっとしたんだ」
白勝は着物の袖で顔を拭い、安堵したように笑った。
「これで……あの子が死ぬのを見ないですむ」


五台山の夕空に、星がひとつ輝いている。
西に突き出た崖に立ち、石秀は、太原の方に向かってを酒を注いだ。
「今は、こいつで一杯やっててくれ」
徐京の柩のある太原周辺にはすでに田虎の勢力圏となり、うかつに入り込むことができない。
戴宗は神行法の札を取り出した。
「さて、ぼちぼち行くか」
戴宗と石秀は、東京までの道筋が安全かどうか、先行して偵察することになっていた。石秀は脚絆に札を結んだ。
「“伴行法”にあずかれるとは、光栄だ」
夕焼けが、五台山を染めている。
山道を駆け降りていく戴宗たちは、宋江が中腹の四阿に一人で座っているのに気づかなかった。
宋江の手には、魯智深から渡された、智真長老の偈を記した紙が握られていた。
宋江は、長老に問いたいことがあったのだ。縋りたいことがあった。
その答えが、ここに記されているはずだった。
宋江は四行の文字を目で追った。もう何度も読み返していた。
風に当たって雁影翩り
東闕(か)けて団円ならず
隻眼功労足り
双林に福寿全し
羅真人から得たのと同じ、吉凶と苦楽が混じった言葉だ。
残照に照らされる山は、流れていく夕霧に包まれて、去りゆく光と、忍び寄る闇に彩られている。この世のような、あの世のような、不思議な世界だ。
幽明の境に、宋江は一人で座っていた。
「わたしの願いは……」
風に、紙片がかさかさと鳴る。
「生々世々いつまでも、共にいること……」
宋江は夕闇の中に立ち上がった。
山を降りていくその顔には、すべてを知り、受け入れたような、強い表情が現れていた。
日没、宋江ら梁山泊軍は五台山の麓から去っていった。
遠く去ってゆく梁山泊軍を、智真長老と杓児が見送っていた。山門は、かつて魯智深が壊した仁王門を修復したものだ。
智真長老は、天を見上げた。
空に星。星には永劫の軌道を持つものと、その軌道を乱すものがある。
戦の星、蛍惑星が、天子の宮たる紫微を侵していた。
世界の調和が乱れている。護法の霊力は失われ、外法が魔力を増している。
燃え上がる炎が見えた。
炎と炎。拮抗し、さらに激しく燃え上がり、劫火は天を覆ってゆく。

「天部と明王の戦いだ──世は、かつてなく乱れよう」
東京は暑かった。密集した都市の熱気が、夏をさらに暑くする。
蔡京たちは、遼との和議を自分たちの手柄にすり替え、宿元景らが梁山泊軍に官位や報奨を与えるよう上奏するのを妨げ続けた。
高求を呼びつけたのは蔡京だった。話題は、予想した通りだ。
「梁山泊軍が凱旋すれば、お上はきっと高い位を与えようとするであろう。これ以上、面倒が増えてはかなわぬ」
最近、敵派閥である王都尉、宿元景らのほか、朝廷内には次世代の若い官僚が台頭してきて、なにかと目障りになっていた。
「梁山泊軍が軍功をあげ、清流派の勢力が増すような事態は、なんとしても阻止せねばならぬ」
宮廷の奥まった部屋には、そよとも風が吹き込まない。高求は手にした扇で、さかんに風を起こしていた。
(蔡京め、焦っているな)
国内に天災、飢饉、反乱が続発している。その現状を天子が知れば、まず弾劾されるのは宰相たる蔡京、そして童貫だ。
常に天子の側にはべって役立ってくれた宦官の楊晉は、病のために、すでに亡い。枢密使の童貫は江南の方臘討伐に行ったままだが、早馬や密偵を使って、朝廷の人事に口を挟むことは忘れない。二人とも、死んでも今の地位を手放す気はないのだろう。
(そろそろ潮時だ)
高求は、満足していた。充分に財も蓄えたし、そろそろ引退してのんびり余生を過ごしたい。酒、美味、博打、女や芝居、楽しいことはいくらでもある。
「蔡太師も童枢密もお忙しい。梁山泊などにお気を煩わされますな」
この期におよんで、まだ権力にしがみついている老人たちが、高求には滑稽だった。

「梁山泊の件、私に妙計がございます」
滑州に、白馬津と呼ばれる黄河の渡し場がある。
三国の世に、関羽が顔良、文醜の二将軍を斬ったところだ。両岸に宿場があり、賑やかだった。梁山泊軍はここに暫く駐屯して、三軍が合流するのを待っていた。
「東京まで、あと四、五日ってところか」
気楽な旅も、そろそろ終わりだ。日がな一日、酒か博打のほか特にすることもなく、食堂に歩兵軍の頭領たちがたむろしていた。
鄒淵は酒を片手に骰をふった。
「朝廷の奴ら、俺たちにどんな褒美を出しやがるか」
孔明と孔亮が声を揃えた。
「俺たちは燕京を落したんだ、宋江殿は節度使くらいにはなるだろう」
陳達は二本目の鶏の腿に手を出した。曹正の得意料理だ。行軍中は、なかなかこんな料理は食えない。
「そうなりゃ、俺たちも腹いっぱい肉が喰える」
穆春はそれくらいでは不満だった。
「俺たちだって、正何品とか、なんとか将軍になるはずぢゃ」
「よせよせ!!」
燕順がどんと音をたてて酒壺を置いた。
王英も大きく頷いた。
「そうだ、偉くなんぞなるより、偉そうな面した役人や金持ちをぶん殴っているほうが気分いいからな」
「おめえは女房さえいりゃあ満足だろう!!」
笑い声がどっと響いた。
その時、鄭天寿は轅門の方から呉用が誰かと一緒にやって来るのに気がついた。鄭天寿の眉が曇った。
「おい、あいつだ」
呉用の隣に立っているのは、枢密院の参謀である“探花”聞煥章だった。
聞煥章は、王都尉、宿元景と並んで、朝廷内にいる数少ない梁山泊の支援者である。呉用にも匹敵する彼の希代の軍略は、梁山泊軍内にも高く評価されている。しかし、梁山泊を失うことになった、あの梁山泊決戦の因縁から、どうしても心証が悪かった。
聞煥章自身はそんな眼差しは気にもせず、悠々と陣営の中を歩いていく。
「彼らの言葉にも一理あります」
いま耳に挟んだ王英の言葉を指して言っているらしかった。
「宮仕えとは、気苦労ばかり大きなものです。私もそろそろ野に戻りたいと思うのですが、なかなかそうもいきません」
「宿太尉や、王都尉が離してくれないのでしょう」
聞煥章はちらりと呉用の横顔を見て、穏やかに微笑んだ。
「まったく。この春に“在不在”も、ついに“不在”となりましたので、私が飛脚の役までしなければなりません」
聞煥章には、宋江の部屋で呉用、盧俊義だけが会った。
まず、聞煥章はひとつの訃報を届けた。
「“老”王煥が亡くなりました」

河北河南節度使、“風流”老王煥。齢六十を越えてなお槍の名手で、林冲とも互角の腕前を持つ白髯の豪傑であった。
「その夜、老王煥はいつも通り酒を一甕、好物の家鴨を半羽たいらげ、気に入りの家妓に阮を弾かせて、詞を一篇つくったそうです。そして、いつもなら愛妾に添い寝させるのを、その夜は一人で床についた。翌朝、小間使いが起こしに行くと、すでに息を引き取っていた──と聞いております」
王煥の遺体は甲冑を身につけ、愛用の鎗、肌身離さず持っていた女物の螺鈿の櫛だけを副えて埋葬されたという。勇壮にして風流、老王煥にふさわしい最期であった。
「徐京が殺され、王煥が去り……田虎の猛威は河北河南、山東まで及ぶことになるでしょう」
山東地方は宋江たちの故郷であり、彼ら百八人が集った水泊梁山を擁する土地である。宋江の憂いを慰めるうように、聞煥章は言葉を続けた。
「乱は、山東だけには止まりません」
聞煥章は茶器を手に取った。一筋の湯気が立ち上る。
「あなた方が陳橋に着くと、きっと朝廷からの辞令が待っているでしょう」
それより早く──と、聞煥章はやって来たのだ。
「その辞令の内容を、知りたいですか?」
白馬津の陣営に、目立って人が多くなっていた。
「賑やかだな」
燕青は思わずつぶやいた。
今朝には水軍も到着したので、桟橋の方も賑やかだ。その他に、梁山泊軍がここに駐屯していると知り、東京などから家族が面会に来る者が増えていた。
燕青は、行き交う人をよけながら、陣営を通り抜けていった。
花栄と秦明の家からは、武学に入った望春を除いて、一家が総出で会いに来ていた。
燕青は秦明の子供たちの顔を覗き込んだ。あの、梁山泊炎上の朝に生まれた子供たちである。
「二人とも母さん似だ。一安心だな」
子供を抱く宝燕は、すっかり母親の顔になっていた。
「今、黄信おじさまに名前を考えてもらっているの」
赤ん坊は仮親を持つと丈夫に育つ。宝燕に頼まれて、“鎮三山”黄信が双子の仮親になっていた。
「そいつはいい」
燕青は笑って赤ん坊の頬をつついた。
「ところで、団欒中に済まないが、秦将軍、花将軍。宋江殿がお呼びだ」
何かを感じたようにぐずり始めた子供に背を向け、燕青は次の宿舎に向かった。
陣営には、聞煥章に連れられて呼延灼の家族も来ていた。燕青が宿舎を覗くと、呼延灼は剣娘と向かい合い、難しい顔で何事か考え込んでいるようだった。
「宋江殿から五虎将軍に招集です」
それだけ告げて、燕青はすぐに宿舎を出た。
陣営は、不思議な賑わいに包まれていた。
久しぶりに家族との団欒を楽しむ者、面会がない者たちは、いつも通りに酒や博打に明け暮れている。
その一方で、五虎将はじめ梁山泊軍の主立った頭領に招集がかかっていた。
燕青は河岸の堤防に腰掛けて、五虎将と朱武、花栄と柴進、李応、李俊が宋江のもとに集まっていくのを遠目に眺めた。
楽和が酒を提げてやってきた。
「何か始まるのか」
「らしいな」
若い二人は同じ胸騒ぎを感じながら、酒杯をぶつけた。
本営に集められた者たちは、誰も聞煥章が吉報を持ってきたなどとは思っていなかった。朝廷の問題となれば、煩わしい政治がらみなのは間違いない。そして、実際、その通りであった。
聞煥章は、朝廷の中に何人かの間諜を置いていた。その一人が、先日、高求と蔡京の密談の場に茶を運んでいたという。
「その者が、扉の陰で面白い話を耳にしました」
高求の、“妙計”である。

「“梁山泊など、軍を解体して兵を取り上げ、百八人を散り散りにして各地に任官させればよい。どこかの前線に送るのもいい。砂漠の果てが密林か、二度と戻れぬ辺境に死ぬまで駐屯させるのもいい。勿論、人をやって殺してもいい。方法は千も万もある。離れ離れにした上で……一人ずつ片づければ何の面倒も起こらない”。そう、高求は笑っていたそうです」
聞煥章は特にどうという表情も浮かべずに、宋江に目を向けた。
「東京に帰り次第、そのように辞令が出るでしょう」
蔡京たちが、なにか企むのは予想の範囲内である。驚く者はいなかった。問題は、どう対処するかである。
盧俊義が口を開いた。
「断ることは出来ぬのだろうな」
「あなたがたは、“官軍”です。命令に背くことは、すなわち謀叛。どちらにしても、彼らの思う壺、ということです」
聞煥章は立ち上がった。宋江が送ろうとした。
「すぐ東京へ戻られますか」
「いえ……呼延将軍から、お預かりしたいものがありますので。それまで待たせていただきます」
聞煥章は部屋を出ていった。
彼があえて席をはずしたのは、対処は宋江たちの判断に任せる──という意味なのだろう。
梁山泊を失い、燕雲に自立の夢が断たれた今。梁山泊軍が解体されれば、すべて終わりだ。花栄が言った。
「梁山泊に戻るか、いっそ田虎に身を投じるか」
呉用と目が合い、花栄は軽く肩をすくめた。
「冗談さ……やれやれ。十万の兵があるというのに、万事休すか」
「いいえ」
呉用の羽扇が、風を起こした。
「ひとつだけ、方法があります」
ただ、今しばし待たねばならない。いつまで待つかは、呉用にも分からない。
(しかし、案外、さほど待たなくともよいのではないか)
羽扇の風が、そう告げているように呉用は感じた。
***
その頃、戴宗と石秀は情報を収拾しつつ、梁山泊軍が通る予定の街道を東京に向かっていた。
東京まで、あと五、六十里。すでに田虎の勢力圏を抜けていた。偵察を目的としたこの道中、特に目立った田虎軍の動きは掴めなかった。
「この分なら、梁山泊軍が田虎軍と接触することはないだろう」
そう判断し、戴宗は石秀に持ちかけた。
「次の宿場まで行って、そこから引き返すとするか」
正午ちかく、二人は宿場の駅についた。駅とは、官の早馬や伝令が使う施設だ。替え馬や食堂、宿舎が準備されており、公用中の者は身分牌を見せれば無料で利用できることになっている。
あたりは、内陸には珍しい砂丘である。身分証を見せて駅に入ると、門の傍らに古い石碑が半ば砂に埋もれて立っていた。
「院長、ここはなんという土地だ」
「そこに書いてあるだろう、“博浪沙”だ」
「張子房が秦王を殺そうとした、あの博浪沙か」
「ああ、そうだ」
戴宗は先に立って食堂に入り、酒と食事を注文した。
窓の外は、一面の砂の海である。
江南生まれの戴宗には珍しい風景だった。祖国を滅ぼされた張子房が、復讐のため秦王を殺そうとした場所は、海のように見えるのに、荒涼と乾いた風が吹いていた。
戴宗は、ふと呉用のことを考えた。
人は、枢密院参謀“探花”聞煥章を“今子房”と称し、梁山泊軍師“智多星”呉用を“今孔明”と呼ぶ。それぞれの国が建った時、子房は去り、孔明はなお命を削って戦い続け──五丈原に散った。
どちらがいいのか、戴宗には分からない。運ばれてきた酒を取り、ひとり笑った。
「ま、相手が“風流天子”じゃ、鉄槌を投げる気にもならねぇな」
砂塵まじりのつむじ風が、駅の庭を吹きすぎていく。
そのまま二人が遅い昼飯をとっていると、街道から激しい蹄の音が聞こえてきた。その気配が尋常ではなかったので、石秀は窓から外を覗いた。一頭の早馬が駅に駆け込んできて、そのまま泡を噴いてひっくり返った。
ちょうど昼時で駅の役人たちがいなかったので、戴宗と石秀が駆けつけた。
「どうした」
馬上から投げ出された伝令を、石秀が抱え起こした。馬はすでに息絶えていた。
戴宗と石秀は、失神寸前の伝令を店の椅子に座らせた。無理やり水を飲ませると、伝令も次第に落ちついてきた。二人を駅の役人と思ったようだった。
「俺は、太原から、東京へ行かねばならない。替え馬をくれ」
太原と聞いた石秀が顔色を変えた。
「“薬師”の部下か」
「あんたたちは?」
「まあ、落ち着け」
戴宗は酒を注いでやりながら、宋国軍の伝令であることを示す銀牌を見せた。いわば同僚である。
「落ち着いていられるものか」
伝令は酒を一気に飲み干すと、よろめく足で立ち上がり、絞り出すように言った。
「田虎軍が、出撃準備を始めている」
「河北か、山東か」
戴宗が聞いた。
確かに、そういう噂が広がっていた。田虎は王煥の不在につけこんで河南河北を攻略するのではないかと、人々は恐れ、富豪たちは東京や北京へ逃げ込む準備をしているという。
しかし、伝令は首を振った。
「田虎軍の標的は河北ではない……奴らの狙いは、東京だ!」

天佑。
戴宗の報告を受け、呉用は思った。
(田虎に救われた)
もしくは、徐京、王煥が死をもって梁山泊を救ってくれた。
呉用が待っていたもの、梁山泊軍を解体から救う唯一の方法、それは“戦”だった。
(今度こそ、本当に宋国と田虎との戦いになる)
上党太原節度使徐京、河南河北節度使王煥があいついで世を去り、田虎に対する北と東の抑えがなくなった。西方は、王慶軍の勢力範囲だ。
残るは南──すなわち東京開封の方角である。田虎が王都を窺う絶好の機会が到来したのだ。
梁山泊ですら、十節度使と十三万の官軍を相手に、あれだけの戦を繰り広げたのだ。今や五州五十六県を掌握する田虎と戦う余力は、官軍にはない。
田虎が東京へ進撃するという報を受け、朝廷は震撼した。続いて太原からの情報を裏付けるかのように、田虎軍が南進して陵州、懐州を攻撃、周辺の諸都市から救援を求める上申書が矢継ぎ早に届けられ、文武の百官は恐慌をきたした。
その機を逃さず、即座に宿元景が登朝し、白馬津の梁山泊軍を田虎討伐に差し向けるよう上奏した。無論、宋江、呉用の意を受けてのことである。
田虎のみならず、王慶、方臘の乱も一向に納まる気配はない。官軍には、その勢いが広がるのを牽制するのが精一杯だ。
焦眉の急に、蔡京、童貫らも反対する余裕も、理由もなかった。翌日には白馬津の梁山泊陣営に勅令を奉じた宿元景がやって来た。
勅令は、田虎を討伐することを命じるものだった。田虎の動きが、結果として梁山泊を蔡京らの奸計から救うことになったのだ。
しかし、当然あってしかるべき、遼国討伐に対しての宋江をはじめ将校に対する報奨は、いくばくかの金銀と布帛の下賜があっただけで、官位叙任の通達は一切なかった。
与えられた役職は、宋江が平北正先鋒、盧俊義が同副先鋒。遼国の時と同じ、名ばかりの役だった。
宿元景は詫びた。
「こたびの遼国征伐に宋江殿の功績、梁山泊軍の軍功からすれば、空席となっている節度使に推薦するにもふさわしい。我等も、たびたびお上に申し上げたのだが……」
童貫、蔡京らが頑強に反対したのだ。遼国との間にはすでに和議が成立しており、慰労はしてこそ報奨の必要はない。これから田虎討伐に赴く軍に、事前に官位や報奨を与えては、軍の士気、朝廷の威厳にも関わる……と、言葉を尽くしてついに天子を説き伏せた。
「しかし、そのかわり武器や軍糧、人馬の補充は十分に行えるよう手配した。途上の諸城市も、梁山泊軍に全面的に協力をする」
無用の騒動を避けるため、宿元景と会ったのは宋江と盧俊義、呉用だけだった。苦渋の色濃い宿元景に対して、呉用はいたわるようでさえあった。
「太尉のご厚情に感謝いたします」
宋江も辞令を受け取り、宿太尉の奔走に対する礼を述べた。
さまざまな手配を行うために、宿元景はすぐに東京に戻っていった。
呉用が宿元景を轅門まで送って戻ると、本営の前の柵に花栄が腰掛けていた。
花栄の足元には、家族から差し入れられた果物の籠が置いてあった。呉用を見ると、花栄は籠から杏をひとつ取って放った。
「今度は、なんのための戦かね。呉先生」
呉用は答えず、金色の李を手で受け止めた。花栄は自分も杏を取って、一口かじった。
「俺は、宋江のためかな」
「目的など、みな違っていい」
目的すら、意味はないのかもしれない。呉用は杏を籠に戻した。
「戦っていれば、少なくとも──我々は共にいられる」
河畔の陣営では、出陣の準備が始まっていた。
陣営に止まっていた家族たちも、早急に東京へ帰ることになった。聞煥章も東京に戻るべく、自分の馬と、剣娘の輿を準備させ、宿舎の前で待っていた。やがて、行き交う人々の間を縫って剣娘がやって来た。一頭の馬を牽いていた。

「その馬は?」
「父が、これに乗って戻るように……と」
それだけで、聡明な聞煥章には“答え”が分かるはずだった。
聞煥章は東京の情報のほか、呼延剣娘を娶るつもりで、結納を携えて来た。しかし、呼延灼からは返答を保留されていたのである。
「仲人を連れてこなかったのが、将軍のお気に召さなかったのでしょうか。それとも、私が文官なのが」
剣娘は首をふり、深々と頭を下げた。
「私は生涯、家族の世話をしてゆくつもりです」
梁山泊の旗を掲げた歩兵たちが、足並みを揃えて二人の横を行進してゆく。その矛先が一体どこへ向けられるのか、聞煥章の頭脳をもってしても分からない。
「将軍の身にことあれば、せめて、ご家族はお救いしようと考えてのことなのです」
「呼延家の血は、絶えて構わぬ……父は、そう申しておりました」
たとえ我が身、わが家族はどうなろうと、その責任は、その血で贖う。建国の功臣、忠節の家──梁山泊に身を投じた、その時から、呼延灼は決意していたはずだ。
誇り高き“軍神”呼延灼。聞煥章の“好意”など、必要ないのだ。
聞煥章は、剣娘に正面から向かい合った。
「あなた自身のお気持ちは?」
剣娘が答えかねて俯いた時、本営の方から“鉄面孔目”裴宣がやって来た。
「お久しぶりです」
剣娘に会釈して、裴宣は聞煥章に文箱を渡した。
「聞参謀、こちらが軍内の者から各地の家族知人に宛てた書簡です。お手数ですが、お言葉に甘えてお預けいたします」
裴宣は二人に丁寧に一礼し、去っていった。
剣娘の頬がかすかに赤くなっているのを、聞煥章が見逃すはずはなかった。
剣娘と聞煥章の傍らを、安道全が湯気のたつ薬罐を手に通りすぎていった。
(若い者はいいわい)
安道全は、人参と黄耆、甘草、生姜などを煎じた補中薬をもって、呉用を訪ねるところだった。気鬱は、腹中の虚から起こる。胃腸の働きを健やかにして、血の巡りを活発にすれば、心は自然は晴れてくるものだ。
しかし、安道全が本営を覗くと、呉用は羽扇を手に忙しげに指示を下していた。
(やれやれ)
どうやら、“病”は治ったらしい。
“智多星”呉用の気鬱の病は、腹中に策が満ちれば、自然と治ってしまうらしい。
安道全は本営の前に座って、手にした補中湯を飲み干した。
(脱け殻は、あとひとつか)
嘆息する安道全の目の前を、賑やかにおしゃべりしながら、若い娘たちが通っていった。派手に着飾り、いかにも妓楼の女たちである。兵隊がいれば、女が集まるのは世の習いだ。さっそく嬉しそうに後をついていく非番の兵が何人もいた。
(まったく、若さとはありがたいものだわい)
安道全は巧奴を最後に、すっかり色気も失せてしまった。
しかし、娘たちの中にひとり、やや薹が立っているが、なかなか色香のある女がひとり混じっていた。安道全が見ていると、女は水軍の駐屯する桟橋の方へ行くようだった。
「小七兄貴、お客です」
小者と一緒に甲板を洗っていた阮小七を、兵卒が呼びにきた。
「誰だ」
「会えば分かると言ってます、女ですよ」
「女? まさか、おふくろか」
急いで行ってみると、桟橋のはしで派手な身形の女が待っていた。
「小七さん」

女は笑って手を振った。その顔に見覚えがあるようだったが、分からない。
「いやね、まさか、忘れたわけじゃないでしょ。あたしよ、祥児ですよ」
名乗られても分からなかった。女はじれったそうに阮小七の腕を掴むと、白い歯でかるく噛みついた。それで、ようやく気がついた。
「お前、祥児か」
まだ石碣村の漁師だった頃、馴染みにしていた妓女だった。ずいぶんと年増になっていたが、朗らかな目は同じだった。
「薄情ねぇ。あたし、今はここで小さなお店をやっているのよ」
祥児は久しぶりに会う昔の男を、おかしそうに眺め回した。
「小七さんが官軍の将軍様なんて、妙だわねぇ」
「乗りかかった船ってやつさ。お前、男はできたのか」
祥児はちらりと流し目をした。
「ひみつ……けど戦に行く男はいやよ。遊び人のほうが、まし」
阮小七は笑って懐から布包みを出した。中身はずっしりと重い銀だった。
「誰かに頼もうと思ってたんだが、ちょうどいい。お袋がいる南竹山の尼寺に、お前から季節の服や食い物なんかを送ってやってくれ」
祥児はまじめな顔になり、銀の包みを受け取った。
「いいわ、昔のよしみで、綿入れくらいは送ってあげる。任せてちょうだい」
「ありがとうよ」
祥児はふと真顔になっで、小七の顔をじっと見上げた。
「小七さん……死なないわね?」

阮小七は、一瞬せつなげな顔をした。
遊び人の阮小七と、浮気性の祥児。あの浮ついて、楽しく、明日のことなど考えもしなかった青春の日々。それがずいぶんと遠くなっていることに、阮小七は気がついたのだ。
「おまえ、ちっとも変わらねぇな」
「いやなひと、ほら、あなたこそ、白髪」
祥児は笑って阮小七の鬢をひっぱった。
「おい、よせよ」
じゃれつく女を押しのけようとする小七の背を、後ろから誰かがぽんと叩いた。
「色男、見せつけてくれるじゃねぇか」
振り返ると、戴宗が笑いながら立っていた。
「今のうち、じっくりと別れを惜しんでおきな。休暇は終わりだ」
戴宗は歩きすぎ、雲の流れていく空を見上げた。
「休暇ってのは、短いからいいのさ」
陣営の喧騒を背に、公孫勝はひとり白馬津の川縁に立った。
茶色の大河が滔々と流れ、岸辺には樹木もない。
ここからは、天地がよく見渡せた。
(儂を呼ぶもの……あの気は、東京ではなかったか)
公孫勝は二仙山を降りてから、ずっと全身に感じている。
天地を覆う大気に混じった、濁った気配。混沌とした不吉な風。その濁りが、力が、日を追って強くなるのを感じる。
(どこだ)
東京の空は、どんよりと風が淀んでいるだけだ。
公孫勝は風を嗅ぎ、西方へと目を向けた。
夏の終わり、空はよく晴れている。
西の空。
その空の光が、歪んでいた。
山西の地に、いく筋もの邪気が立ち昇り、蒼き空の色を歪ませていた。
晋王を名乗る田虎の王宮──その門前には、戦を前に兵士や伝令が慌ただしく往来していた。
しかし、その喧騒も宮殿の奥までは届かず、後宮で交わされる暇を持て余した女たちの会話も、平生と変わりばえしなかった。
太子宮の応接間では、烏梨夫人の倪氏と、田虎の妃の一人であるその姪が会っていた。
烏梨は自分の栄華を磐石にするため、妹の娘を後宮に献上し、この姪は、すでに太子の田定を生んでいる。彼女は太子の母として栄誉ある地位にはいたが、年齢と心労のために、その美貌にも衰えが目立っていた。
「王は、昨夜も白玉夫人の部屋へお渡りになり、こちらには何月もおいでがない。白玉夫人に子が生まれれば、わが太子も廃されるかもしれない」
ため息をつく姪の手を取り、倪氏は親身になって慰めた。
「ご心配なさいますな。白玉夫人には一向に懐妊の様子もなく、あなたの地位は安泰です」
「でも、伯母様。私は太子の母なのに王妃になれず、王は、皇帝となったあかつきには、あの女を皇后に立てると申されているのです」
「母は子によって尊し、と申します。どっしりと構えておいでなさい」
ひとしきり姪を慰めた倪氏は、久しぶりに白玉夫人にご機嫌伺いをすることにした。
(なんといっても、“王妃”なのだし。怨みを買うのは、わざわざ災いを招くようなもの)
気は進まないが、仕方がない。今度の戦で、本当に東京を陥落させれば、田虎は皇帝に即位する。皇后となる女とは、好意を見せて親しくしておくのが賢明だ。
(しかし、なぜ、あんな女を王は愛されるのだろう)
白玉夫人は、確かに絶世の美女である。
田虎の愛妾となってから、もう十年もたつだろうが、いまだその寵愛は衰える様子もない。しかし、後宮の女たち、朝廷の貴婦人たちの間では評判はすこぶる悪かった。
白玉夫人と呼ばれているのは、高貴で美しいという尊称の意味だけではない。
美しく、冷たい、玉石のような女。美しいだけの、高慢で冷酷な女──というのが、“王妃”白玉夫人の正体だった。
今日も、倪氏が訪問を告げても、白玉夫人は気分が悪いと侍女に伝えさせただけで、会おうともしなかった。
烏梨夫人となれば、晋国でも十指に入る貴婦人である。もとは商人の妻だったが、それを言えば、田虎の朝廷の者はみな“成り上がり者”だ。
(自分だって、どこの馬の骨とも分からぬくせに)
王宮のどこよりも豪華に飾りたてられた王妃宮を、倪氏は不愉快な思いで後にした。
王となった田虎の財は、この女の身の上に消費されているといっても過言ではない。略奪した財宝は、絹も錦も、宝石、彫刻、螺鈿の家具や珍しい鳥、すべて夫人のもとに集められるのだ。その美貌を保つために、食事や薬、化粧品にも贅沢をつくして、最高級のものをふんだんに与えられている。薬餌にするため、ひそかに幼子を集めている……という噂まであった。
白玉夫人の歓心をかうためならば、田虎はなんでもするだろう。
(白玉夫人に子が生まれれば、わが一族はどうなるだろう)
戦のことも不安だし、心細いことばかりだ。
陰鬱な気分で王宮を出ると、輿の外から付き添いの侍女が尋ねた。
「奥様、今日も八仙廟においでになりますか」
「ええ、やっておくれ」
烏梨夫妻は何不自由ない暮らしをしていたが、ただ一つ、どうしても子供が授からない。妻だけでなく、側室、妾、小間使いや外の妓女たち、烏梨が片端から手をつけた婢たち、誰一人として懐妊しない。
国師の喬道清に占ってもらったところによれば、市場で施しをすれば、遠からず子が得られると云う。倪氏は根が善良でもあったので、それから毎日、八仙廟の市で熱心に施しを行っていた。
八仙廟に着くと、いつも施しをする石段で、今日は旅芸人の一座が軽業をやっていた。軽業師や武芸者、子供の綱渡りに力自慢、歌や奇術などもある。旅芸人たちの周りには人垣ができ、さかんに掛け声や拍手が鳴り響く。
倪氏は侍女や家僕に施し用の食べ物や銭の入った籠を持たせて、石段の方へ歩いていった。それを見た物乞いの子供たちが群がってきて、見物客と入り乱れ、あたりはたちまち大混乱となった。
「押すな、押すな!」
「食い物をくれよう」
押し合う者、我がちに手を延ばす物乞いたちに囲まれて、危険を感じた侍女たちは、夫人を雑踏から連れ出そうとした。
「奥様、今日はおやめになったほうが」
輿に戻ろうとしたが、人が多くてどうにもならない。立ち往生していると、人垣に割り込もうと飛び込んできた子供たちが、横から倪氏にぶつかった。夫人は突き飛ばされた勢いで足を滑らせ、目の前の石段に向かってつんのめった。
侍女があっと叫んだ時、背後の人垣から飛び出して、素早く夫人を支えた者があった。動転する夫人の耳元に、若い娘の声が聞こえた。
「お怪我はございませんか、奥様」
倒れかけた倪氏を、たおやかな白い手が抱き留めていた。華やかな衣装は、旅芸人のものだった。
倪氏は礼を言おうとして、娘を見上げ、はっとして息をのんだ。
その娘は、黒髪に一輪の水蓮を挿し、卑しい芸人の身なりをしていた。しかし、微笑を浮かべた澄んだ瞳、その気品ある顔は、月か、華か──美女を見慣れた夫人さえ、目をみはるような美貌だった。

※文中の「赫思文」は、正しくは です。
※文中の「蛍惑星」は、正しくは です。
※文中の「高求」は、正しくは です。
※文中の「楊晉」は、正しくは です。
※文中の「烏梨」は、正しくは です。
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