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春──黄土色の大地も、うっすらと煙るような淡い碧を帯びはじめていた。
太原城は、宋国山西地方の中心地である。古くは晋陽と呼ばれ、北方の諸民族から中原を守る要害であった。
現在は、山西節度使の“薬師”徐京が守っている。水の多い、豊かな土地だ。黄土高原に珍しく、澄んだ河が平原に幾筋も流れている。
略奪を目的とした遼軍の侵入は、年々に増えていた。徐京は防衛の注意を怠らなかったが、十節度使の一員として梁山泊と戦うために出陣した。その留守に、懸念どおり遼軍が大挙して南下を始め、春になっても帰る様子を見せなかった。
各地の反乱が猖獗を究め、朝廷からの援軍は期待できない。河北節度使“風流”老王煥にも密使を出したが、返答は“白紙”であった。返書の中には、なにも書かぬ最高級の春膏紙だけが丁寧に畳んで収められていた。
その意あれど、かなわず。
そう嘆じる老人の苦衷が、徐京にはどのような言葉より胸に迫った。契丹人の侵入は、山西から河北の各地にまで及び、王煥にも余力はないのだ。援軍が欲しいのは、王煥も同じであるだろう。
はじめ分散して各県を陥としていた遼軍は、やがて川がひとつに集まるように集結して太原に迫り、これを鉄桶のごとく包囲した。
主将は、大将軍・兀顔光である。
燕軍は連日、激しい攻撃を加えているが、太原城壁の堅牢さと徐京軍の抵抗に阻まれて、一月にわたり城門を抜けずにいた。
燕雲では、梁山泊軍も立派に戦っていると聞いている。
夕暮れ、徐京は西の外れの城壁に登った。夕日を見るのが好きだった。

城壁の下はもともとは空き地だったが、今は戦を避けて逃げ込んできた周辺住民たちが粗末な小屋を架けて住み着いていた。その片隅に猫の額ほど残った草地で、山羊を連れた見すぼらしい父子が草を刈っている。
戦も、民衆には関係ないこと──彼らにはどうすることもできない事だ。戦のただ中にあろうとも、彼らには毎日の生活がある。畑を耕し、草を刈り、妻子に飯を食わせなければならない。
ただ、一日が無事に終わり、早く戦の終わることを願うだけだ。
徐京もそれを願っていた。
しかし、彼は願うだけでなく──戦い、それを勝ち取らねばならなかった。
照夜玉獅子が首を挙げ、早春の風を嗅ぐ。
“宋江”一行は、覇州へ向けて街道を騎行していた。
「本当によく似てるな!」
李逵は何度も馬を寄せては、まじまじと“宋江”の顔を眺めた。
一行には、文安県で待機していた林冲、朱仝、花栄、李逵、劉唐、穆弘が五百騎を率いて従っていた。薊州からは、呂方と郭盛、孔明、孔亮の兄弟が同行している。覇州から伴うことを許された上限の十人である。
早春の野には、若草が萌え出している。顔にあたる南風も暖かかった。花栄は片手で馬を御しながら、襟に巻いた布をくつろげた。
“宋江”が文安県の陣営に現れた時、みな本当に宋江がやって来たのかと驚いた。長年の親友である花栄すら、違いを見つけだせず、悔しい思いをしたほどだった。
いま一つ乗馬がうまくないところまでそっくりだ。花栄は軽く馬腹を蹴ると、“宋江”に鞍を並べた。
「おい“宋江”、俺が清風塞にいた頃、なじみにしていた妓の名前を覚えているか?」

すると、“宋江”は意外そうな顔を花栄に向けた。
「そんな人がいたとは知らなかった。わたしに隠していたのだな」
その表情や話し方まで、宋江と瓜二つだった。穆弘が“宋江”の背中をばんと叩いた。
「さすがぢゃ“宋江”、その調子でしっかり頼むぞ!!」
“宋江”はもう少しで鞍から吹っ飛ぶところだった。傍らで支えた朱仝も、改めて“宋江”の名演ぶりに驚いた。
「完璧だ」
宋江として、まるで不自然なところがない。しかし、劉唐は肩をすくめた。
「もう少し“梁山泊軍の首領”らしくしてもらわんと、却って覇州に怪しまれる」
「いや、欧陽侍郎は実際に会っているのだから、このままのほうがよかろう」
朱仝は“宋江”から馬を離し、後ろに戻った。
“宋江”は一行の中心よりやや前にいて、慣れた様子で馬を進める。
死ぬさだめの男である。
しかし、宋江も、やはりこのように穏やかに敵地に臨むであろう。
(宋江殿は、さぞ心を痛めているだろう)
その身に負った義務のためには、耐えねばならぬこともある。
白昼の道に砂ぼこりが立つ。
一行は、作戦通り“宋江”を中心に南へ──覇州へ向かって進んでいった。
その朝、薊州軍の炊事兵、金福(ジンフ)は当番にあたり、早暁から起き出して大蒜の皮を剥く作業を続けていた。
薊州軍の兵士は、ほとんどそのまま梁山泊軍の指揮下に入った。契丹人の兵は望む者は解放されたので、残ったのは漢人か、混血の者が殆どだった。
金福の両親は契丹人だが、母親には漢人の血も混じっていた。そのために漢語がうまく、容貌は、漢人のようにも契丹人のようにも見えた。
籠半分の大蒜を剥き終えた頃、兵舎の方で騒ぎが起こった。慌ただしく人が行き来し、また数人で寄り集まって何事か話し合っている。兵も下士官も混じっていた。
金福は大蒜を剥く手を止めた。
「なんだろう?」
間もなく、様子を見に行っていた兵が戻ってきた。
「たいへんだ、梁山泊軍の宋江将軍が消えたそうだぞ」
同僚たちの話に、金福は耳をそばだてた。
彼は、覇州から送り込まれた隠密であった。普段は康里定安の側近くに仕える侍従で、全幅の信頼を受けている。
梁山泊軍首将、宋江の“招安”は、覇州にとっては大きな賭けだ。万全を期するため、金福は梁山泊陣内に疑わしき事あらば、即座に狼煙を上げて急を知らせることになっていた。
狼煙は、文字通り狼糞に油を混ぜたものに点火して、その煙で信号を伝える方法である。全速で走る騎兵の倍以上の速さで伝わる。煙には、川も山も悪路も関係ないからだ。天候がよく、伝達者が優れていれば、日に七千里が伝わった前例もある。
薊州から覇州にいたる要所には、十人の仲間が潜んで、一心に地平線に目を凝らしている。草原の民は地平線に現れた人の顔をも見分けるが、その中でも、特に遠目の利く者たちが選ばれていた。彼らは煙を見つければ、すぐに火を焚いて狼煙を上げる。信号は次々に伝達され、もし梁山泊軍に陰謀があっても、騎馬で行く宋江より遥かに速く、情報は覇州に伝わることになるのである。
(この冬が、これほど雪が多くなければ)
金福は惜しんだ。
この冬は、狼煙が苦手とする雨風や雪、曇天が多かった。でなければ、檀州、薊州の警報も数日のうちに本国に伝わっただろう。長城を封鎖された今となっては、狼煙台も機能しない。しかし、契丹人は天を恨まない。たとえ狼煙があったとしても、金国の侵略軍が都にまで迫る本国には、燕雲を援する余裕はないのだ。
今日はよく晴れ、風もない。
やがて、再び様子を見に行った兵が急ぎ足で戻ってきた。
「宋将軍の姿が見えないと、梁山泊軍は大騒ぎになっている。馬もいないし、部屋はもぬけの空からだそうだ」
炊事兵たちはわけが分からず、互いの顔を見合わせた。
「誰がそんな話をしているんだ?」
「梁山泊軍の将校たちだ。連中も、相当に焦っているぞ」
金福は大蒜を剥く手を止め、ゆっくりと立ち上がった。
「俺が詳しく聞いてこよう」
太陽はすでに高く上り、薊州の梁山泊陣営にのどかな光を投げかけていた。
顧大嫂は朝食の籠を下げ、宋江が隠れている部屋にやって来た。普段ならとっくに朝食の済んでいる時刻だが、今日は遅くしてくれと宋江から頼まれていた。
あたりに人の出入りはなく、しんとしている。扉の前には小さな腰掛けが置かれ、石勇がぽつりと座っていた。目を閉じ、腕組みをして頭を低く垂れている。しかし、眠っているわけではないことは、顧大嫂には分かっていた。足音で顧大嫂だと分かっているのだ。
「ほら、熱いうちにおあがり」
顧大嫂は小皿で蓋をした丼飯を差し出した。石勇も今朝は朝飯ぬきだ。宋江が食べないのに、自分が食べるわけにはいかない。
小皿をとると、湯気といっしょに香ばしい匂いが立ちのぼった。丼の中には、炊きたての米が山盛りになり、醤油で煮込んだ豚肉が三切れのっている。
石勇は箸をとり、顧大嫂に尋ねた。
「外の様子は?」
「そろそろ騒ぎが始まる頃だね。宋江さんがいなくなった──って、白勝さんたちが噂を流している時刻だもの」
石勇の脇を通り抜け、顧大嫂は扉を押した。中を覗くと、窓に布がかけられ薄暗い。奥の寝室に通じる仕切り扉も閉まったままだ。
「宋江さんはまだ眠っているのかい」
「疲れたので、起きるまで起こすなと言われている」
ここ数日、宋江がほとんど眠っていないことを、石勇は知っていた。“鶏狗”一人を犠牲にし覇州を取るという作戦が、宋江の心を悩ませていたのだろう。ようやく気持ちの整理がつき、眠れたならば、十分に眠らせておいてやりたかった。
「それにしたって、朝ごはんはちゃんと食べないとねぇ」
顧大嫂は運んできた食事を卓の上に並べ始めた。
「おや、昨日は誰かと飲んだんだね」
卓には、二人分の酒器が使ったまま残されていた。
「いや──」
言いかけて、石勇は丼を置いて立ち上がった。音もなく、しかし素早く部屋を横切り、奥の扉を押し開けた。
顧大嫂は、一瞬、石勇の痩せた背中が安堵したように緩むのを見た。
垂れ布を引いた寝台の中で、宋江は静かに眠っている。
石勇は足音を忍ばせて、そっと寝台に近づいた。宋江は、朝方に様子を窺った時と変わりない。ぐっすりと眠り込んでいる。
石勇はほっとため息をつき、引き返そうとして、足を止めた。

昨夜、見送った“宋江”は、本当によく似ていた。
あれほど似た“変装”を、見たことがない。
腕利きの賞金稼ぎだった“石将軍”石勇は、ずっと人相書きだけを頼りに、見知らぬ人間を追う仕事を続けていた。
それゆえに、知っている。
どれほど巧みに変装しようと──古の刺客・豫譲のように漆で顔をただれさせ、焼け炭を飲んで声を変えようと、“骨格”だけは変えられない。
それゆえに、かつて彼は梁山泊に潜入した慕容貴妃配下の女刺客、“白骨猫”の正体を暴くことができたのだ。
石勇は安らかに眠る男の顔を見つめた。鋭く深い眼差しで、その皮膚、骨肉を透視して、精神まで掴みとろうとした。
そして、ぽつりと呟いた。
「──これは、誰だ?」
梁山泊軍は、城内の守備にあたる部隊以外は、大部分が城門周辺の空き地に駐屯していた。
それら各陣営と、本営のある城内の州府の間を、慌ただしく人馬が往来している。情報は錯綜していた。混乱の中を駆け回り、“確かな情報”を広めているのは、白勝や時遷、そして、孫新などの酒店頭領たちだった。
「騒ぐな、まったく阿呆な連中や」
時遷は不安げな顔の兵たちを叱りつけた。
「ええか、確かに、遼国のお使者はな、ぜひぜひ宋江さんを大将軍としてお迎えしたいっちゅうて、深々と頭を下げたらしいけどな。いや、そいだけやない、黄金万両の倉がついた御殿も準備してあるし、御殿では公主様が花嫁衣装で待ってござっしゃる……そう言うたそうやけどな、考えてみい、そんなことでうちの首領が東京の天子様や大臣方のご恩を忘れるかいな」
ますますざわめく兵の中で、白勝が時遷の脇を肘で突いた。
「ちょっと言い過ぎじゃないか?」
「ぱぁっと豪勢な話で度肝を抜くんや」
覇州から招安の使者が来たことは、これも故意に広めたために、今では誰もが知っている。宋国の朝廷の梁山泊軍に対する冷遇も、空腹の感覚とともに骨身に染みた。
「宋将軍が遼に帰順したらしい」──と、兵が騒ぎ出すのに大した時間はかからなかった。
もとより、今回の策の一環である。金福のような隠密が陣内に潜入していることを予測してのことであった。
陣営には投降した薊州の漢人兵たちも混じっていたが、彼らの間には大した混乱はなかった。また遼国軍に戻るだけなのだ。しかし、梁山泊軍の兵にとっては、そうはいかない。
孫新は大きな鍋に湯を沸かしながら、集まってきた兵たちに言った。
「だから何度も言うように、今朝に限って宋江殿の姿が見えねえのは、ちょっとした風邪なんだよ。うちの女房が粥を届けたんだから、間違いねえ」
「でも、昨日はお元気でしたよ」
「風邪ってのは、急にひくんだ」
その横で、孟康が湯を飲みながら呟いた。
「実は寝床の中はからっぽ……だったりしてな」
「おい、余計なことを言うんじゃねぇ!」
兵士たちは互いの顔を見合わせた。
宋江がいない──という事実、そして、その行方が遼らしい……という現実が、異郷にある兵たちに恐慌に近い混乱を引き起こしていた。
そして、姿を消したのは、宋江だけではなかった。対影山の手下たちが呂方と郭盛を探していたし、孔兄弟についてきた白虎山の農民兵も二人がいないと騒ぎ始めた。そこへ、さらに早馬が駆け込んできた。文安県に駐屯しているはずの“通臂猿”侯建だった。
「どけどけ、どいてくれ!」
楊林が飛び出して、なお駆けようとする早馬の轡を取った。
「一大事のようですな!」
楊林が何事かと尋ねたが、侯建はそのまま馬から飛び下り、本営へと走っていった。楊林は首をひねった。
「文安県には林教頭たちがいるはずだが……ちょっと様子を見てきましょう」
戻って来た楊林は、いつになく難しい顔をしていた。その周りに兵士たちが群がった。
「楊林兄貴、どうでした」
「それが……いや、これは……」
饒舌な楊林が、石でも呑み込んだように口ごもり、そのままどこかへ行ってしまった。
残された兵が、誰からともなく言い出した。
「まさか、文安県の軍も消えたんじゃないか?」
それが兵たちにとって決定打となった。情報は陣営から陣営に伝えられ、衝撃は一気に全軍に広がった。
兵士たちの動揺が極限まで達した頃、ようやく本営からの通達があった。使者となったのは呼延灼で、韓滔と彭己を従えて各城門の陣を巡回した。
「宋将軍は小疾により休養中だ。回復まで梁山泊全軍の指揮は副先鋒である盧将軍が執る」
集まった兵士たちに向かって、簡潔に述べた。兵たちが口々に尋ねた。
「しかし、噂では……」
「──以上だ。各自、持ち場を離れるな」
呼延灼は有無を言わせず背を向けた。
一人の兵が、騒然とする城門の前で、顔見知りの炊事兵を見つけて声をかけた。
「大変なことになったな」
誰も宋江が病気とは信じていなかった。
「しかし、文安県から軍が消えたというのは、本当らしいぞ」
金福はいなくなったという頭領たちの名前を尋ねた。
「林教頭、花知寨、朱都頭に李鉄牛……」
兵士は指折り数えて、十人の名前を教えてくれた。
「呉軍師は?
「軍師は本営で盧頭領と会議中だと」
金福は、炊事場に潜入してから十分に梁山泊軍に関する情報を集めていた。食事時は、かっこうの情報収拾の場だった。
宋江は、遼に帰順する気持ちはあるが、仲間の中には反対する者がある──と欧陽侍郎に語ったそうだ。宋江は自分に同意する親しい腹心だけを連れ、密かに陣を抜け出したのだ。宋江と盧俊義が、それほど親しい間でないのは、兵士たちの噂話で察せられる。
金福は礼を言うと、炊事場へと戻っていった。
炊事場でも、兵たちは噂話に余念がなかった。ざわめく炊事場の片隅で、覇州の間諜・金福は日溜まりに腰を下ろすと、また黙々と大蒜の皮を剥く作業を続けた。
眠り続ける宋江の枕元に、呉用は無言で佇んでいた。
その顔に表情はほとんどなく、何を考えているのか誰にも推し量れなかった。
空気が張りつめている。この部屋だけ、冬が戻ってきたようだ。
柴進は窓辺に立って、眠る男の顔を眺めていた。そこへ、呉用に呼ばれた盧俊義が足早にやって来た。
「間もなく出陣の時刻だ、なにか変更があったのか」
軍を率いて宋江の後を追い、覇州まで攻め下るのが盧俊義の役である。“宋江”に次ぐ大役で、遅参や失敗は許されない。
しかし、盧俊義は、すぐにその場の異様な雰囲気を察知した。
安道全が寝台の脇に座って、眠る宋江の脈を取っている。盧俊義は、かつて宋江が刺客の毒に倒れ、昏睡に陥った時のことを思い出した。
安道全が、ちらりと盧俊義の方を見た。
「──病ではない」
安道全は宋江の腕を布団に戻すと、気難しい顔で“診断”した。
「よく寝ている。夢も見ずに、ぐっすりと……な」
そこへ石勇が戻ってきた。
「“笑面虎”朱富が、薬瓶がひとつなくなったと騒いでいる。眠り薬だ」
寝台の縁で、宋清が眠っている男の足を布団に戻した。兄弟である二人は、生まれながらに足裏の同じ場所に黒子があった。子供の頃、戯れに見せ合ったその黒子が、この“眠る男”の正体を決める証拠となった。
この男の足の裏に、黒子はなかった。宋江ではなく、“鶏狗・宋江”だということだ。盧俊義は寝台から呉用へと視線を移した。
「このことは──内密に」
呉用は、ひどくゆっくりと椅子に座った。
「ここにいる者のほかは、誰にも言ってはなりません」
石勇が、腰に指した縄票の紐を無意識にたぐっていた。顔はいつもの無表情だが、呉用には石勇が非常に緊張していることが分かった。
この場にいる全員が、同じ疑問を抱いていた。口に出したのは、盧俊義だった。
「いったい、なぜ」
「兄は、自分のために誰かを身代わりにする人ではありません」
宋清が低く言った。

「身代わりの……その身代わりになったのです」
それは感傷的すぎるだろうと、柴進は思った。
しかし、いま考えれば、確かに妙だったのだ。宋江が、たとえ梁山泊のためだとしても、誰かが自分の身代わりとなって死ぬ作戦を許すなど。
はじめから、宋江は自分が行くつもりだった。
(だが、なぜだ)
宋江の目的が、“鶏狗”一人を救うためのはずはない。
盧俊義も、柴進と同じことを考えているようだった。
宋江が百八人を捨てるわけがない。だとしたら、あの招安の時に捨てていた。
あるいは、宋江は、“天子となるべき運命”から逃がれようとしたのかもしれない。
「軍師」
柴進は呉用に決断を促した。宋江が出発して、すでに半日が経っている。
「計画は中止です。すぐに宋江殿を連れ戻さなければ」
「──いや」
盧俊義の声が遮った。床に向けたその眼差しが、いつになく厳しかった。
「計画通り、実行する」
盧俊義が立った。
「宋江殿を──追う」
「これより覇州に向けて出撃する!!」
蒼穹に声が響いた。
騎兵たちが一斉に出陣の準備に入り、轅門が大きく押し開かれた。
薊州を発した盧俊義軍は、宋江追撃を偽装して覇州に向かう──それが当初の作戦だった。覇州に入った“宋江”は、それを説得すると偽り、覇州が迎撃を躊躇っている間に、一気に覇州に迫る。宋江の“帰順”により、敵が油断した虚を衝くのだ。
出陣するのは駿足の騎兵のみ。兵たちは、本当に“追撃”すると思っている。
嵐のように銅鑼が轟く。
盧俊義が甲冑に身をかため、颯爽と陣頭に現れた。あたりを払う威容である。
出動部隊に選ばれた小魚が、見送る赫思文の方を見た。
「しっかりやりなさい」
赫思文は小魚の馬の腹を叩いた。
轅門に立ち、盧俊義は真っ直ぐに槍を掲げた。
「出陣!!」

軍が動く。
柴進は、呼延灼とともに轅門まで見送りに出た。
(盧頭領が指揮を執る──という嘘が、本当になるかもしれぬ)
宋江に万一のことがあれば、梁山泊軍は盧俊義を頭領とせねばならない。これだけの軍が、一日として主なしではいられない。
かつて、宋江は盧俊義に首領の地位を譲ろうとした。「河北の三絶」と呼ばれたその才、武勇は衆に優れ、明らかに宋江にも勝っている。
しかし、柴進は言いようのない不安にとらわれた。宋江が、去りたい者は去れ──と言った時さえ、不安など感じなかった。
盧俊義が先頭に立ち、護衛の役目を一身に担う燕青が続く。一万の騎兵が轅門を駆け抜けていく。
その喧騒の中で、ふと、柴進は陳橋で死んだ小狗のことを思い出した。
小魚のために、梁山泊のために、死んだ小狗。
奇妙な思いにとらわれた。
あるいは、宋江は本当に“鶏狗”一人を救うために行ったのかもしれない──と。
陣営から聞こえる銅鑼の音を聞きながら、呉用はまだ宋江の枕辺にいた。
部屋に残っているのは、石勇だけだ。
呉用は不安を拭いきれない。
(本当に、これでいいのだろうか?)
呉用は顔を上げると、そのまま部屋を後にした。
白い袖が風をはらんで翻る。石勇が追った。
呉用が向かったのは、本営である州府の裏手にある厩だった。
厩の中は薄暗かった。一番奥で、皇甫端と段景住が藁に横たわる母馬に付き添っていた。昨夜からの難産である。母馬は初産で、小馬はなかなか生まれなかった。
段景住が母馬の腹をさすってやっている。
「やはり逆子だ」
皇甫端は敷藁に座り、水煙草をくゆらせている。灯火の下で、笑った。
「おかしなものだ。お前とわしが、漢語で話すか」
二人が最初に会ったのは遼国の上京で、その時は契丹語で話していた。
彼らはともに故国を捨てた者である。捨てた──とも思っていなかった。空行く鳥にも、地を駆ける獣にも、“国”などない。
皇甫端は、唯一の気掛かりである愛妻の“天使”を雄犬さえ出入りできない泉州の尼寺に預けていたし、なにひとつ思い患うことはなかった。
母馬が低く嘶いた。
「よし、子供が出てきた。回回よ、腕を突っ込んで、足を掴め。体の向きを変えさせるのだ」
段景住は慣れた様子で袖をめくった。
皇甫端は、ゆっくりと水煙草の煙を吐き出し、ようやく呉用が立っているのに気がついた。
「見物かね、呉先生」
「私にも乗りこなせる馬がいますか」
皇甫端は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに隣の柵へ顎をしゃくった。
小柄な白馬が首を垂れている。まだ若い馬だ。豊かな横腹に、星座のような黒ぶちが散っていた。
「照夜玉獅子の子だ、“小獅子”と呼んでいる」

「これからは“群星”と呼びましょう」
呉用は厩係の小者に鞍をつけさると、“群星小獅子”を引き出した。石勇も手近な馬を選んで続いた。そのまま州府の庭に出ると、関勝が宣贊とともにやって来るのと行き合った。盧俊義が出た後の軍の指揮は、関勝が執ることになっていた。宣贊が報告した。
「盧俊義軍は予定通り出た。いや、少し遅れたが」
「では、あとは頼みます」
「どこかへ行かれるのか」
「覇州へ」
関勝の視線が、わずかに動いた。
「私は宋江殿に同行し、覇州城へ入ります」
その一言に、関勝が何かを悟ったことを呉用は感じた。
「危険だ」
「宋江殿の方が危険なのです」
手綱を握り、呉用は静かに関勝の眼を見返した。あらゆる人の煩悩を断つ、鋼鉄の刃のごとき双眸である。
関勝は頷きもせず、語りもせず、ただ、無言で呉用の前に道を開けた。
天馬“照夜玉獅子”の血を受けた子は、穏やかな目をした馬だった。しかし、ひとたび呉用がまたがると、笞を待たずに獅子のごとく駆けだした。
書生呉用とて馬には乗れるが、思わずたてがみに伏せた。

“群星小獅子”は城市を駆け抜け、南門に向かった。城門周辺には歩兵の陣営が設けられ、兵士たちが駐屯している。今回、歩兵部隊に出番はない。焚き火の周りで頭領たちが集まって酒を飲んでいた。
疾走してくる呉用に気づき、解珍と解宝は真ん中で両手を広げ、止めようとした。呉用の馬が暴走したと思ったのだ。武松が呼んだ。
「呉先生、どこへ行く」
焚き火で芋を焼いていた楊林が顔を上げた。
「“智多星、単騎走千里”──ですかな」
疾駆する馬上で、呉用はかすかに笑った。
「ご一緒にいかがです」
馬は真っ直ぐに城門へ向かって駆けていく。砂塵が舞った。
(単騎、走千里……!)
“関雲長、旧主にまみえんと単騎で千里を走る”
しかし、“五関に六将を斬る”のは難しそうだ。
そのまま呉用は振り向かず、一気に城門を駆け抜けた。
舞い上がる砂塵の中に、男たちの声が響いた。
「──おもしれぇ!!」
真先に武松が駆けだした。白勝と時遷、郁保四、歩兵たちも駆けだした。魯智深は禅杖を担いで路傍の馬に飛び乗った。

「今夜は覇州の美酒が呑めるぞ!!」
太陽がまぶしい。
“宋江一行”は、全速で覇州に向かっていた。午前中走り続け、昼には文安県から持参した弁当を使い、午後また駆けた。すでに道のりの半分を来ている。
あらかじめ欧陽侍郎からの通達があったのか、途中で彼らを遮る者もいなかった。
“宋江”は散歩にでも行くように馬を進める。
穆弘も馬上で腰を伸ばした。早春の風が心地よい。
(順調ぢゃ)
これが死地に赴く旅でなかったら、さぞかし爽快に違いない。
すでに孔明と孔亮が使者として先行し、出迎えの欧陽侍郎に宋江の到着を知らせているはずだ。
予定通り、全く順調だ──と、穆弘は思った。幸先がいい。
薊州では、盧俊義も呉用もうまくやっているはずだ。
“宋江”のおかげで、要害覇州も取れるだろう。
覇州の手前、三十里ほどの小さな関所で、宋江たちは欧陽侍郎の出迎えを受けた。街道を塞ぐように柵が築かれ、守備部隊が駐屯している。
一行が到着すると、詰め所から身分のありそうな文官が現れた。
「お待ちしておまりした」
(これが欧陽侍郎か)
花栄は馬から降りて挨拶をした。
「お出迎えいたみいる」
しかし、“宋江”は馬を降りると、関所の奥に置かれていた輿に向かって拱手した。花栄が目をやると、さらに身分のありそうな人物が輿から出てくるところだった。
(試したな、契丹人め)
欧陽侍郎に会っているのは、宋江と呉用、盧俊義だけだ。欧陽侍郎と宋江は、親しげに挨拶を交わしている。
「ご無事でなりよりです、宋将軍」
「これだけの者が、わたしに従ってくれました」
欧陽侍郎は左右の将校の顔を、ひとりひとり順番に確かめた。
「呉軍師は?」
柔らかな物腰とはうらはらに、その眼差しは鋭かった。
花栄はひやりとした。彼は欧陽侍郎という人物に会うのは初めてである。人当たりのよい微笑の下に、刃のような洞察力があるのが分かった。
宋江が、小さなため息をついた。
「彼は梁山泊の頭脳──彼がいなければ、わたしは何もできません」
欧陽侍郎は頷いた。
「呉軍師にも一緒に来てほしかったのです。彼も、そう望んでいた。しかし、二人で姿を消しては、どうしても怪しまれる。呉軍師は、わたしがここまで来る時間を稼いでから、隙を見て陣を抜け出し、追いかけてくることになっています」
「来られましょうか?」
「分かりません……しかし、もし来たら、どうぞ、この関を通してやって下さいませんか」
疑わしいところはなかった。宋江と呉用が分かちがたい存在で、盧俊義との間に溝のあることは、間諜の金福から報告が上がってきている。
(“智多星”呉用、有能な男だ。我が国に、ぜひ欲しい)
そして、梁山泊軍に残っていては、邪魔になる男だ。
「──分かりました」
欧陽侍郎は宋江に同行して覇州へ向かわなければならない。ともに出迎えに来た副使の葉清を後に残すことにした。さきほど花栄が欧陽侍郎と間違えた文官だった。詰め所に戻り、欧陽侍郎は指示を下した。
「呉用がやって来たら、通してやるのだ」
「どのような男でしょうか」
葉清はまだ若い文官だったが、欧陽侍郎の薫陶よろしく慎重だった。
「見間違えてはいけませんので」
「白面の書生だ」
一目で分かる、と欧陽侍郎は保証した。
そのまま欧陽侍郎は宋江を伴い、覇州へと出発した。
関所には監視用の櫓が立てられている。葉清は監視兵に声をかけた。
「近づく者があれば、すぐに報告せよ」
来るのは呉用か、梁山泊の追撃軍か。この関所は周囲に土塁を巡らせ、五千の兵力が駐屯している。特に弓隊は精強だ。
葉清は柵を閉じさせ、全軍に命じた。
「総員、迎撃の準備をして待て!」
夕刻。空にはまだ藍色の光が残っているが、地上はすでにほの暗い。
“宋江”一行は、予定通りに進んでいた。
地平線に、光がいくつも揺れていた。星のようだが、星ではない。林冲が、呟くように言った。
「──益津関」
正しくは、唐代に築かれた益津関八砦のひとつである。

荒野の彼方にふいに巍々たる山並みが出現し、その間をただ一本の道が貫いている。あたりには人家も畑もない。道の先は、山あいの狭窄した谷に通じており、そこに堅牢な城砦が築かれていた。蜀の難関“剣門閣”とも並び称される、難攻不落の要衝である。
その威容に、劉唐は思わず胸騒ぎを覚えた。
(盧俊義軍は、ちゃんと追っているんだろうな)
盧俊義軍一万が砦外まで攻め寄せれば、砦に入った十人と五百騎が呼応して城を奪取する計画である。
遼国側の兵力は、戴宗の報告やさまざまの情報から一万数千と割り出していた。起伏の多い狭い地形のために、それ以上の兵を駐屯させることができないのだ。
その頃、城内の康里定安のもとにも、宋江到着の知らせが届いていた。
「思ったより早かったな」
「関所での休息も取らずに来たようです」
従臣が報告した。
「宋江のほか、将校は十名、部下は五百騎がついております」
「数えたか」
「一人の過不足もありません」
(律儀な男だ)
覇州の城砦は谷にあり、険峻な崖と天然の谷川を利用した深い堀に守られている。堀にかかった吊り橋だけが、唯一、外界と通じているが、この橋も普段は上げられていた。
外からも容易には入れぬが、入れば簡単には出られない。
「命の危険があることは、分かっていよう──勇敢な男だ」
歴戦の武士である“国舅”康里定安は、娘を皇帝に差し出したという理由だけで、そう呼ばれているのではない。彼は遼国を守り、遼国のために戦ってきた。それゆえに、“国の岳父”と呼ばれるのだ。
彼は、常に勇敢さを愛した。
今回の“招安”は、宋江にとっては危険な賭だ。
本当に降るとしても、覇州に罠があるかもしれない。偽りの投降だとしても、この城砦はたやすく落ちない。
(宋江、そして梁山泊軍は、すでに我が掌に握った小鳥も同然)
この“小鳥”を、いかに有利に使うかを康里定安は考えていた。
喰ってしまうか、鷹に育てて獲物を追わせるか。
宋江が偽りの帰順をしてきたとは、思っていない。梁山泊軍に潜入していた間諜は、日のあるうちに狼煙の報告を上げてきていた。
『宋江が陣を抜け出し、梁山泊軍は混乱、動揺している』というものだ。
ほかにも、裏付けの情報はある。
宋朝に冷遇される梁山泊軍の中には不満が多く、駐屯地の陳橋では一触即発の騒乱にまでなりかけた。その後、梁山泊内では宋江を天子に──という動きもあるらしい。
(律儀で勇敢……そして、義人か)
宋江は、反逆者となるよりも、敵に降る道を選んだのだ。しかし、まだ信用はできぬ。
「鉄門を開き、宋江を入れよ」
康里定安が命ずると、そばに控えていた欧陽侍郎が懸念を見せた。
「宋江が承知しないでしょう」
「宋江が我々を信用すれば、我々も彼らを信用する」
康里定安は、命令を翻したことは生涯に一度もなかった。
「鉄門を開けよ」
覇州城砦への道を封鎖している、巨大な鉄の扉である。
「ただし、城砦の中には、宋江と将校のみ入ることを許す。五百名の兵は、吊り橋の外に待機させよ」
報告の使者は分刻みでやって来る。
「宋江が鉄門に入りました」
宋江一行が入り、鉄門は再び閉ざされた。
遼国は多く鉄を産する。その本国から最も上質の鋼を運んで作った分厚い扉は、火砲でも吹き飛ばすことはできない。もう引き返すことはできない。
鉄門から、さらに山間を蛇行する隘路を十里でこの覇州城砦に到着する。
康里定安は窓辺に出た。城砦は高い位置にあり、下の道を見渡せる。山の夜は早い。すでに暗い闇の中に、路傍にともされた松明の列が見えた。
康里定安は満足した。すべてが予定通りに推移している。
「出迎えるぞ、吊り橋を下ろせ!」
呉用が第一の関所についたのは、空が茜に染まり始める頃だった。

もう夕方だ。西の空が金色に照り映えている。
呉用は、あらかじめ張叔夜の文献や偵察の報告によってあらゆる道筋を調べ、地理を頭に刻み込んでいた。薊州から覇州まで、大軍が走れる街道を行けば、騎馬なら全速で駆け続けて一昼夜。宋江と盧俊義はその道を行く。呉用は荒野を抜け、河を渡って直進する道を選んだ。道は狭く険しいが、覇州への近道である。
後続の魯智深、武松、楊林らも懸命に呉用を追っていた。馬のない兵は次々に落伍したが、まだ百人あまりが残っている。いったんは遅れたものの、どこかで馬を盗んで再び追いついてきた者もいた。
まだ雪の残る早春の野を、“群星小獅子”は、その名の通り獅子のごとく駆けてゆく。翼が生えたようであった。厩で首を垂れていた、おとなしい小馬とは思えなかった。
呉用は額に流れる汗を拭い、かすかに笑った。
人は、彼を神のごとく思い、汗もかかぬと信じている。それが呉用はおかしかった。
“智多星”呉用も木石ではない。不安も疲れも恐れもある。梁山泊の軍師として生きるのは、疾走する馬に乗っているようなものだ。馬なら、まだましかもしれない。
“騎虎難下“──ひとたび虎に跨がれば、振り落とされたら咬み殺される。呉用はずっと駆け続け、これからも駆けていかねばならぬのだ。
(梁山泊を──宋江殿を救わなければ)
陽のあるうちに街道に出た。盧俊義軍の姿は見えない。いつの間にか、追い越していたのかもしれない。一番星が輝く頃、彼方に関所が見えてきた。相手はすでに気づいている。柵にも櫓にも弓兵が列をなし、その矢がやはり星のようにきらめいていた。
関所の櫓で監視兵が叫んだ。
「白い儒服の、書生風の男が向かってきます!」
葉清は待機していた詰め所から出た。また監視兵が叫んだ。
「追われています!!」
「なに?」
「背後に、山賊共が百人ほども迫っています!」
呉用の後に、魯智深、武松、楊林たちが迫っていた。そのすぐ後を、さらに百数十人の兵が駆けている。
呉用は力を振り絞り、馬鞭を当てた。速度があがり、関所が迫る。
はたして、あの関を通ることができるのか。呉用は速度を緩めなかった。
(私とて──)

「梁山泊の軍師、呉用!!」
呉用は叫んだ。
(私とて、この命を賭けているのだ)
「宋江殿を追ってきた──通されよ!!」
関所の主力は弓兵である。率いるのは遼国でも知られた射手だった。“羊哩建”(メルゲン)──“弓の巧み”の尊称を持っていた。かつて草原での酒宴の際、ふいに杯を置いて天を射た。戻って一杯の馬乳酒を飲み終えた頃、天から雁が落ちてきた──契丹では知らぬ者のない話である。
葉清は、いましも弦を引き絞る“弓の巧み”の前に飛び出した。
「射てはならぬ!!」
葉清は弓兵を下がらせた。
「“書生”を通せ!!」
関所の柵が、わずかに開いた。その間隙に“群星子獅子”は流星のごとく滑り込んだ。背後から武器を掲げた男たちが追ってくる。
「あの者たちは?」
“弓の巧み”は照準に迷った。書生を射てはならないことは聞いている。しかし、後ろの連中はどうなのだ。見るからに凶暴な山賊である。書生の敵か、味方か。
「命令を!」
葉清も柵を閉めさせるべきか躊躇していた。その時には魯智深と武松が柵に体当たりするように突進してきた。男たちは武器を振り回し、口々に怒鳴りちらした。
「俺たちは味方だぞ、宋江兄貴についていくんだ!!」
「呉先生に遅れるな!!」
そのまま一気になだれ込み、阻止しようとする守備部隊を蹴散らして関所の中へ乱入した。彼らは呉用に追いつくや周囲を取り囲み、一陣の怒濤のごとくに関所を通過していった。
葉清と兵士たちは、それを呆然と見送った。
その上に、櫓の監視兵の声が響いた。
「また来ます!!」
地平線を覆う嵐雲のように、灰色の砂塵が巻き上がっていた。

盧俊義率いる梁山泊軍は砂塵を上げて荒野を進む。
春の宵の長閑さは破られ、若草は踏みにじられた。
燕青は驚きを禁じえなかった。一万の兵が盧俊義を追ってひた走る。盧俊義には、有無を言わせず人を引きつける力があるのだ。人は盧俊義の強さ、輝きに魅せられて、ただその後をついていく。燕青が、かつてそうであったように。
燕青の声が、夕闇をついて響いた。
「関所が見えました!」
盧俊義に従う将校は、“浪子”燕青ひとりである。
出陣をしてから、盧俊義は一言も口をきかない。怒っているのが、燕青には分かった。盧俊義は、ひどく怒っているのだ。
(こんな作戦が気に入らないのか?)
偽物を送り込むなど、子供だましだ。
燕青には、盧俊義の“怒り”の本当の理由など、推し量れるはずもなかった。
確かに、盧俊義は怒っていた。宋江に対して怒っているのだ。
破遼都先鋒“及時雨”宋江は梁山泊の首領である。五万の将兵を従えている。それが、なぜ、自ら覇州へ行かねばならぬのか。
宋江は、自分が死んでも、梁山泊にはなんの支障もないと思っているのか。後は盧俊義が首領となり、好きなように国を築けばいいとでも思っているのか。
(そうはさせぬ)

舞い上がる砂塵に、空がかすむ。
(あなたは梁山泊の首領なのだ)
梁山泊を守り、導く義務がある。
そのために、盧俊義は“眠る麒麟”となったのだ。呉用が訪ねてきたあの日から、彼がどれほどのものを奪われ、失ってきたか──宋江が知らぬはずはない。
(あなたは梁山泊の首領であらねばならぬのだ!!)
「矢が来るぞ!」
燕青は、これから突破すべき関所へと視線を転じた。兵力は一万はないと見ていた。関所はもうすぐそこに迫っている。櫓の上の松明や、兵士たちが慌ただしく行き交うのが見えた。
その時、燕青はふと眉をしかめ、前方──関所のすぐ手前に眼をこらした。
「あれは?」
暮れゆく荒野に、夕雲と見紛うほどの、ほんのかすかな砂塵が見えた。盧俊義も気づいていた。関所に向かって、一群の人々が駆けていく。
見晴らしのいい荒野である。砂塵の先頭に白衣の男が白馬に乗っているのが目立って見えた。背後には百人余りの男たちがいる。白衣の男を追っているようにも、率いられているようにも見えた。
「呉先生!! なぜここに」
訝る燕青の前で、盧俊義の馬がさらにその速度を上げた。
夕暮れ、赫思文は薊州郊外の川原で馬を洗っていた。
「馬は臆病な生き物だ。絶対に、後ろから近づいてはいけない」
杓児もついてきて、馬の手入れを手伝った。
赫思文は赤兎の鼻を撫でながら、静かな声で語りかける。赤兎は心地良さそうに目を細め、赫思文に身をゆだねている。尾が眠たげに揺れていた。
杓児も赫思文が好きだった。いつでも大人に話すように話してくれるが、その眼差しは暖かく、一緒にいると安心する。杓児は父親を知らないが、勝手に赫思文のような人だったに違いないと信じていた。
「馬を習うかね?」
赫思文が尋ねた。小魚に乗馬を教えている時、いつも杓児が見ていたのを知っていた。しかし、杓児は首を振った。
「では、ひとつ詩を教えてあげよう。唐の時代の、杜甫という人が読んだ詩だ」
国破れて山河あり 城春にして草木深し
時に感じては、花にも涙をそそぎ
別れを惜しんでは、鳥にも心を驚かす──
関勝や宣贊は『春秋』や『詩経』を好んだが、赫思文は古詩を愛した。
「“春望”という題だ──私は、戦のあと、いつもこの詩を思うのだ」
安禄山の乱によって、栄華を極めた長安は廃墟となった。家族は散り散りになり、国はやがて滅びていく。希望を失い、夢やぶれ、人は寂寞のなかに涙する。
詩人は人の絶望には関わりなく、永遠の時を生きる山河、永劫の時を繰り返す季節の無情を嘆いたか。
それとも、なおこの地上には、残り、続くものがある──と慰められたのか。
川辺では、母親と幼い兄弟が桶に水を汲んでいる。
杓児は黄昏の川面に石を飛ばした。杓児は父親を知らないが、母親のことも知らない。杓児が投げた小さな石は、五、六度も水を切って、流れに消えた。
杓児は大人びた顔をして、赫思文に振り返った。
「おじさん、子供は?」
「いいや」
「結婚しなかったんだね」
大人びたことを言うんじゃない──などとは、赫思文は言わなかった。
「一度したが、別れたのだ。私が関兄について官職を辞すと言った時、妻の実家が許さなかった。今は、地位のある人と再婚して、子供も生まれたと聞いている」
「悔しくなかったかい」
「なぜ」
「だってさ」
軽く口を尖らす杓児の顔を見返して、赫思文は何かに気づいたように、微笑んだ。体こそ小さなままだが、杓児ははっとするほど深く澄んだ目をしていた。
「そうだな……いや、私は、心が軽くなったのだよ」
明星がひとつぶ、西の空に明るく輝いている。
「私は子を持つことなく、青史に残るような仕事も出来ないだろう。それは寂しいことかもしれないが、満足しようと思っている。少なくとも、私の子供でないにしろ……前の妻の子供たちは、私という存在がなければ生まれなかった。そんなふうに、人は……人の世界は、かすかなもので繋がっているのだろうね」
夕日がまぶしい。
宋江は、呉用は、盧俊義たちは──今ごろどうしているだろう。
母子がひとつの水桶を皆で持ち上げ、夕焼けの家路を急ぐ。その姿が、土手に影絵のように浮かんでいる。
次第に暮れゆく黄昏空に、赫思文の声がひそやかに呑まれていった。

国破山河在 国やぶれて山河あり
城春草木深 城春にして草木深し
感時花濺涙 時に感じては花にも涙をそそぎ
恨別鳥驚心 別れを惜しんでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月 烽火は三月に連なり
家書抵万金 家書は万金に抵(あ)たる
白頭掻更短 白頭を掻けば、さらに短く
渾欲不勝簪 すべて簪にたえざらんと欲す──
夕日の中、盧俊義は馬を馳せていく。飛ぶようだった。西から照らす光に全身が真紅に染まり、鬼気せまる姿であった。
視界を覆う砂塵の彼方に、茜色の宵空がどこまでも広がっている。
盧俊義に引きずられるように、梁山泊軍はさらに速度を上げた。振動が大地を揺るがす。燕青も無我夢中で盧俊義を追った。
盧俊義は、先頭をきって駆けていく。玉麒麟のごとくであった。晁蓋のようではなく、“玉麒麟”盧俊義そのものだと燕青は思った。
麒麟は瑞祥──この世がよく治まっている時にこそ現れる。しかし、かつて本当にその姿を見た者はない。
怒れる麒麟が荒野を行く。その先にあるものは、乱世か、新たな世界か。
大軍が進む。怒濤のごとく、燎原の火のごとく。燕青は汗をぬぐった。駆けどおしで甲冑の中が燃えるように熱い。
夕日が百万の箭となって、盧俊義に降り注ぐ。
昼に別れを告げる最後の光だ。
盧俊義率いる梁山泊軍は、そのまま速度を緩めることなく、一気に関所へと襲いかかった。

※文中の「彭己」は、正しくは です。
※文中の「縄票」は、正しくは です。
※文中の「赫思文」は、正しくは です。
※文中の「羊哩建」は、正しくは です。
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