水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第八十四回
亡霊・後篇




 船は波間を行く。
 日差しは暖かいが、飛び散る波はまだ冷たい。
“玉幡竿”孟康は舳先にいて、顔にかかる飛沫を手でぬぐった。嘗めると、懐かしい塩味がした。



 彼らは趙安撫を迎えに行った帰りである。思った以上に早かったのは、孟康が海路を選んだからである。黄河から渤海に出て北上し、洵水を遡れば薊州に至る。孟康はかつて船大工として高麗と行き来していた時期があり、海岸沿いの航路に通じていた。
 孟康にとっては、久しぶりの“航海”である。空は晴れ、海風が心地よい。海は凪ぎ、追い風で順調に帆走していた。風は南東から吹いている。李俊が巧みに帆を操っていた。江州の出と聞いていたので、海に慣れているのを不思議に思ったが、孟康には他人の過去を詮索する趣味はない。
“催命判官”李立が、青い顔をして船縁に伸びている。
「孟康よ、なにしに高麗まで行ったんだ」
「絹の商売で一儲けに決まっているだろう。絹は貴重品だから、男も女も群がってくる。ひとつ教えてやる、もし高麗の女に惚れたら、赤と緑の絹を贈りな。そうすりゃ、きっとうまくいく」
 李立はまた船縁から乗り出したが、もう胃の中はからっぽで吐くものもない。
「さぞかし、首尾よくいったんだろう」
「槿花って名の、いい女だった」
 人の過去を詮索しない孟康が、自分の昔を話すのも珍しいことだった。李立にも覚えがある。何十年も生きていれば、人に話さずにはいられない昔話が、誰にもひとつやふたつあるものだ。
 しかし、孟康は続きは語らず、いつになく仏頂面で海面に目を凝らしている。
「もうすぐ河口だ」
「なぜ分かります」
 童威が聞いた。童威には、海での航海術のほうに興味があった。
「水の色が違ってきた」
 そのあとは陸路になる。梁山泊から迎えが来ているはずだった。





 林冲と花栄に護衛され、趙安撫が檀州に到着した。
梁山泊軍に代わって檀州に入るべく、東京から派遣されてきた趙安撫は、すでに還暦を過ぎた老齢の人だったが、疲れた様子は見せなかった。趙という姓が示すように皇室の一族であり、公平で温和な人柄で評判の高い人物である。梁山泊の人々が案じていたような、横暴な人ではなかった。この人選を実現するにあたっては、聞煥章が朝廷方面に裏から根回しをし、表では王都尉が多少強引な手を使ったようだった。安撫は多くの物資や、頭領たちへの剣や布帛など恩賜の品も携えており、軍中に公平に分配された。
 宋江は自ら趙安撫を役所に案内した。
「書状でお願いしました件は」
「ご案じるめさるな」
 趙安撫は親しげに宋江の手を取った。
「宋に帰した民には今年の税を免除し、燕雲復興のための労役のみを義務とする──さらに」
 漢人の役人はそのまま遺留すること、契丹人にも土地の所有をそのまま認めること、民族に関わらず優秀な良民の子弟を東京の太学に推薦するなどの約束を、趙安撫は朝廷からとりつけてきた。
「すぐに大いに触れを出し、民心の安定と掌握に努めましょう」
 さらに、その後、数日にわたって合計二万の援軍が続々と薊州に到着した。
 彼らを率いるのは、今回の出陣にあたって団練使に出世した教頭の王文斌だった。東京での拝謁の際に、禁軍を代表して林冲に声をかけた青年武官である。出世と大任を同時に得て、王文斌は大いに奮い立っているようだった。



「背後はおまかせください。梁山泊軍が安心して戦えるよう、全力で支援します」

 翌日、趙安撫は檀州を統治するために出立した。
 いま檀州に駐屯している秦明は、趙安撫が到着ししだい、薊州へ向かうことになっている。秦明の到着を待ち、梁山泊軍は燕京へ向けて進軍することになった。
 日差しは日毎に温かくなり、進軍や食料の調達もだいぶ楽になると思われた。しかし、そのぶん敵の動きも活発になる。
 再び慌ただしく出陣の準備が始められた。
「矢をたくさん準備するのだ」
 荷駄をまとめる杜興のもとへ、石秀が矢の束をかついでやって来た。
「薊州の倉庫にかなりの備蓄があった。こいつをごっそりいただこう」
 彼はすでに百を単位とする数の部下をもっているが、他の好漢たちがそうであるように、兵に命ずれば済むような雑用にも自分の体を動かすことをやめなかった。
 呉用も蒋敬と蕭譲を連れ、輜重の準備を視察していた。石秀は額の汗を拭きながら、荷を数える呉用に声をかけた。
「太原のほうは、大丈夫なのか」
 燕京軍が太原を襲ったという噂があった。太原を守るのは、節度使の“薬師”徐京である。石秀とは義兄弟の契りを交わした仲である。
「燕京が片づいたら、手を貸してやらないとな。約束の酒が飲めなくなる」
 呉用は頷いた。
「その時は、真っ先にあなたに行ってもらいます」
 そこに李逵が駆け込んできた。
「軍師!! 兵どもが団牌の数がどうとか、うるさくてかなわねぇ。項充たちをどこへやった!!」
「まもなく戻りますよ」
「おいらに黙って、どこへ行った」
「二仙山へ……一清を迎えに行ったのです」
 薊州に入る頃から、陣中に公孫勝の姿がなかった。二仙山から、母親が病に伏していると知らせがあったためである。





“混世魔王”樊瑞は、二仙山の清澄な空気を吸い込んだ。



 彼は宋江の命を受けて、公孫勝とともに二仙山へやってきた。この山を、再び訪れることがあろうとは思わなかった。
 切り立つ岩の峰から雲が湧く。遠くの松の梢に鶴が一羽、真白い翼を休めている。
 世の混乱、戦など知らぬげに、仙境は、あくまで静かだ。遠くで猿の啼く声が聞こえた。以前は、この静けさに腹が立ち、彼はこの山を憎んだ。しかし、今は違った。
「目を開けば、戦はどこにでもある」
 そのことを、彼は公孫勝から教えられた。
 盲目の乞食の子としてさすらった日々。師となった混沌子から杖で打たれ、厳しい修行を強いられた日々──魔道に堕ち、思うままに力を振るっていた日々。
 そして、公孫勝に敗れ、力を失い、再び修行に没頭した日々──すべてが、彼の戦いであった。
(では、これから、わしは何と戦えばよい)
 背後で、山の大気が震えた。声が聞こえた。
「──樊瑞よ」
 振り向かずとも、声の主は羅真人だと分かった。かつて、彼を拒んだ老仙人だ。
「どこにいても、何をしていても、戦いはある──荘子はそれから目を逸らしたが、二仙山の教えは違う。二仙山の二つの峰は二つの瞳……見つめよ、樊瑞」
「なにを、見ればよろしいのか」
「“おのれを見よ”」
 樊瑞は目を見開いた。蒼天の青が、目にしみた。樊瑞は身を投げるように羅真人の足元にひざまずき、老仙人の顔を見上げた。
 かつて、彼は羅真人の五雷天心の正法を欲し、かなえられねば力づくで奪おうとして、果たせなかった。しかし、今、彼は羅真人に教えを受け、弟子となった。
 岩の松を風が吹きすぎる。羅真人の言葉は、樊瑞にはこの山が語りかける言葉のように思えた。
『おのれを見よ。おのれの戦いを見よ』
 山道を、小道士が駆けてきた。
「梁山泊から一清師兄にお迎えです」
 樊瑞が頭を巡らすと、項充と李袞が山道を登ってくるのが見えた。
 項充が羅真人に礼をした。足元に李袞の金毛の猿が戯れていた。
「一清道人は?」
 また戦いが始まることを、樊瑞は知った。その事実に、かすかに魔王の胸は痛んだ。
 樊瑞は頂上に向かう小道へ目をやった。千年の松の陰に隠れるように、小さな茅屋が立っている。その窓に、淡い光が浮いていた。
 次第に濃くなる夕闇のなか、その光の頼りなさが、哀しかった。





 老母の命は、明け方の蝋燭の炎のように、間もなく燃え尽きようとしていた。
 公孫勝は寝台のそばに腰掛け、母の青白い顔を凝視していた。去ろうとする母の命を、引き止めようとするかのようだった。
 時間はもうない。公孫勝は、ずっと迷っていた言葉を口にした。
「私の父は?」
 母の意識は、まだ混濁してはいなかった。その声はいつもと変わりなく、ただわずかにかすれているだけだった。
「お前の父は──山に背いた。しかし、悔いてはいなかった」
 ずっと閉じていた目を開けて、かたわらの息子を見た。
「お前もまた、離れるさだめ──隔たる宿命の子」
 手を伸ばし、公孫勝の手に触れた。
「その杖が、お前を救う」
 かたりと軽い音をたて、壁にたてかけていた竜杖が床に倒れた。
「きっとお前を救うだろう」
「──母上」



 もう母は答えなかった。
 蝋燭が一瞬だけ燃え上がり、急速に輝きを失っていく。
 老母の美しい顔は、穏やかに微笑んでいた。その顔は、消えていく光の中で一瞬、若々しい乙女のように輝き、蝋燭が尽きるとともに、闇に消えた。





 日ごとに春の気配が濃くなっていた。
 草原に雨が降り、そのたびに緑が目に見えて増していく。
 薊州の梁山泊軍では、すでに出陣の準備が整っていた。積み上げられた糧秣の箱に雨よけの筵をかけながら、杜遷と宋万が話していた。
「出陣はいつかのう」
「秦統制が着けば、すぐじゃろう」
 そこに董平が通り掛かり、足を止めて笠をもたげた。
「“雲裏金剛”に“摸着天”、あいかわらず仲がいいな」
「おお、“風流”の。あんたの相棒の具合はどうだ」
「これから見舞いだ」
 董平が安道全の医院を訪ねていくと、首に包帯を負かれ、張清はまだ昏睡していた。
“花項虎共旺と“中箭虎”丁得孫が門神のように寝台に付き添っている。共旺は重湯の碗を持ち、匙ですくって張清の口へ持っていった。張清は眠ったまま、ゆっくりと僅かの重湯を飲み下した。董平はその様子を覗き込んだ。
「生きてはいるな」
 董平は安道全に向って言った。
「盧俊義殿が薊州に残ることになった。この様子では、張清も残って養生するしかあるまいな」

 張清は、まだ灰色の悪夢の中をさまよっていた。



 自分が誰か、どこにいるのか、時々わからなくなる。傷の痛みが、かろうじて意識をつなぎとめていた。
 喉が、焼けるように痛かった。
 しかし、目覚めることも、体を動かすこともできない。
 夢から抜け出すことができない。
 どこからか、かすかに誰かが泣いている声が聞こえる。
(あの子だろうか?)
 いつからか夢に見る、不思議な少女。
 しかし、最近、ずっと彼女の夢を見なくなっていた。
 救いを求めるように、張清は遠い声のほうへと漂っていった。
 すぐそばで、誰かが話していた。共旺と丁得孫だ。
「出陣だ」
「将軍は、行くべきだ」
 二人は祈るように呟いた。
「戦うべきだ」
 二人の声から、張清は耳をそむけた。
(戦いは、もういい)
 遠くで、誰かが、泣いていた。
(みな夢──私も、彼女も、この世もすべて)
 その声からも耳をふさいだ。
 灰色の霧がさらに深く、濃くなっていく。
 もう何も聞こえない。何も見えない。感じない。
 痛みも、苦しみも、孤独さえ感じなかった。





 戴宗は疲れた足をさすりながら、覇州の城砦を見上げていた。
(確かに“難関”だ)
 両側は山、道は一本だけ通っており、あたりは平原で見晴らしはいい。まず関所の鉄門が街道を遮るようにあり、中に進むと軍隊の駐屯地、その奥にようやく城砦が見えてくるが、前には幅一丈を越える護城河があり、吊り橋がかかっている。木と鉄で出来たこの吊り橋は、人馬が通行する時のみ下ろされるようになっている。
 今、吊り橋は上がっている。
 戴宗は使者として宋江の返書を携え、ここ覇州にやって来た。今は、駐屯地の四阿に腰掛けて、覇州の返事を待っている。
 のんびりと茶を啜るように見せながら、あたりを抜かりなく観察していた。地理や防備のすべてを目に焼き付けて帰るのだ。
 この難関を、闇夜に康里定安は“声東撃西の計”で奇襲し、正面からと見せかけて側面の山から襲ったという。正面から囮をぶつけ裏から襲う戦法は、梁山泊も得意とするが、国舅が自分と同じ手をくらうとは思えない。
 奇襲も、相手が怠惰な宋兵だから成功しただけで、今の主力は契丹兵だ。漢人の兵士も多いようだが、もともとこの辺境に飛ばされた兵士ばかりである。精気のない顔をして、唯々諾々と契丹の将校に従っている。
 厩のそばで、漢人の兵が馬の世話の仕方が悪いといって、契丹人の下士官に殴られていた。その情けない泣き声が、戴宗を苛立たせていた。

 返書到着の知らせを受け、康里定安のもとに、耶律得重と洞仙侍郎、使者となった欧陽侍郎らが集まった。問われる前に、康里定安が言った。
「感触はよい」
 康里定安は三人に返書を回した。丁寧に漢語と契丹語で書かれていた。皇弟の耶律得重がまず目を通した。
「宋江にはその意あれど、仲間には血気盛んな者が多く、遼に降るのはよしとしない──とあるようだが、これは宋江とその腹心だけでも帰順したいということか?」
 洞仙侍郎が、欧陽侍郎に尋ねた。
「宋江とは、どういう人物か」
「替天行道を標榜し、水泊に立てこもって朝廷の討伐軍をいくたびも打ち破ったと。しかし、十節度使、二十万の大軍に囲まれ、やむなく投降したと聞いております」
 国舅が後を加えた。
「そして、いまだ官職もなく、童貫、蔡京らから屈辱的な待遇を受けている……面白そうな男だ。会ってみたい」
 覇州の参謀である欧陽侍郎は、今回の“招安”にあたり、梁山泊について可能な限りの情報を集めていた。
「梁山泊は結束が固く、みな兄として宋江を慕っているとか。一部の者が反対しても、宋江が降ってしまえば、結局は従うのではないでしょうか」
「義兄弟とはそういうものだ。国や主君は変えられても、親兄弟は変えられぬ」
 若い耶律宗雷は疑った。
「しかし、偽装の投降では?」
 もちろん、そんなことは誰もが考えている。国舅は欧陽侍郎に命じた。
「使者に、こう言ってやれ。まことに帰順の心あらば、まずは宋江がこの覇州に入られよ。もし梁山泊が攻め寄せても、宋江がいれば攻撃できまい。そこを、宋江に説得させればよい」
 国舅がふと笑った。
「“生米做成了熟飯”──生米も煮えれば飯になる……と、漢人どもは言うようだ。言いえて妙ではないか」
「それは?」
「米も煮えれば食われてしまう。既成事実ができてしまえば、後はなし崩しになるほかない」
 耶律宗雷がまた言った。
「しかし、宋江は疑うのでは」
 康里定安が見抜いたとおり、宗雷には知恵を誇示するところがあった。国舅は一蹴した。
「こちらとて、疑っている」
「ひとりでは来ないでしょう」
「勿論だ。腹心の将校を十人まで、軍は五百まで伴ってよい」
「しかし」
 耶律得重は息子に目配せして黙らせた。
「その数なら、どうとでもなる」
 宋江をだまし討ちにして殺すことも、相手にその気があるのなら、本当に帰順させることもできる。
 燕京からの消息はまだない。宗電はとっくに到着している頃だったが、なんの知らせも届いていなかった。康里定安は楽観していない。
(あるいは、もう)
 不吉な予感があった。彼は耶律一族ではないし、耶律得重やその一家とも親しいわけではない。しかし、やはり若い皇子が悲劇に遇うのは愉快なことではなかった。
 兀顔光に別に使者を送らなければならないかもしれない。しかし、燕王の命令にしたがって動いている兀顔光を動かすには、相当の地位にある皇族でなければならぬだろう。自分は覇州を離れられない。皇弟の耶律得重に危険を犯させることはできない。
「もし燕王が謀叛なら、なんとしても宋江を帰順させねばならぬ!!」
 彼らの目的は、燕雲を維持することだ。
 そのためならば、敵である梁山泊軍も利用するし、燕王とて、敵にする。





 宗電は燕京に到着していた。
 しかし、今回の受難により、彼は急速に賢くなった。国舅の助言を守って、すぐに宮廷には行かず、城内に潜伏して燕京の様子を探っていた。
 覇州であつらえた新しい甲冑を古い毛皮の斗篷で隠すと、傷だらけの顔はもう貴族の子弟のようには見えない。道端に座っていると、寺帰りの老女が何文かの銭をめぐんでくれた。遼国の皇甥の身に生まれた宗電には、はじめその意味が分からなかった。しかし、物乞いという者がいることは知っていたので、どうやら自分がそれと間違えられたのだと思い至った。
(ちょうどいい)
 宗電は酒楼や市場に出入りして物乞いしながら、朝廷に関する噂を集めた。それによると、燕王は美貌の巫女を寵愛し、この頃では姿を見せることも稀だという。
(なんとして、燕王に直接会わねば)
 王都の民は、朝廷内のことも意外に通じているものだ。宗電が欠けた茶碗を持って茶店に入ると、片隅で文人風の男たちがひそひそと話していた。外は雨で、客は少ない。
「この頃、得体の知れぬよそ者が取り立てられて、大臣になっている」
「その代わり、大臣たちが次々に捕らえられている。失脚した大臣たちは、宮廷内に幽閉されたか、すでに処刑されているのか……」
 宗電は思わず尋ねた。
「答里……いや、天寿公主は無事だろうか?」
 宗電もまた、答里孛の崇拝者のひとりだった。怪しまれるかと危惧したが、美しく活発な姫君は民の中にも人気があった。物乞いを追い出そうとやって来た店の主人が、手拭いを肩に乗せたまま言った。
「あのお転婆な姫様も、最近はお姿を見ないな。城外に遠乗りに行く時、よくこの前の道を通られたんだが」
 主人は手拭いで蠅を払うと、心配そうに首を振った。蠅が出るのは、気温が高くなったしるしである。文人たちは話を続けた。
「本当に、燕王は“捺鉢”を行うのか」
「あの儀式は皇帝だけに許された……」
 言いかけて、ふいに文人たちは話題を変えた。
「それにしても、今年はばかに雨が多いな」
 宗電が戸口を見ると、美しい青衣の巫女たちが通り過ぎていくところだった。





「城内に、なにか変わったことは?」
 燕王の後宮は、“もうひとつの宮廷”となっていた。支配者は、かつて慕容貴妃と呼ばれた女──巫女である。侍女が答えた。
「民も捺鉢の噂を聞きつけたようでございます」
 巫女は豪奢な寝台に横たわったまま、その話には関心なさそうに温めた酒を求めた。
「また檀州と薊州が落ちたと急使が参った、煩いことじゃ」
「手を打たずによろしいのですか、貴妃様」
「貴妃とな?」
 侍女たちの顔におびえが走った。巫女は婉然と宝石で飾った酒杯を唇に運ぶ。



「間もなく、わらわは王妃となり、女王となり、女帝となる。武則天のごとく」
 巫女は酔ったように微笑んだ。
「その前に、燕王を皇帝にせねばならぬ。数日の後には、捺鉢じゃ。潔斎中の王に、余計な心配をかけてはならぬ」
 侍女たちが一斉に深く頭を垂れた。
「王のご様子を見て参ろう。も少し薬酒をお勧めしたほうがよいかもしれぬ」
 巫女は玻璃の瓶をもって部屋を出た。
 すべてが順調だった。本国は折しも金国軍の大規模な侵入を受け、燕京の動きに気づく余裕はない。檀州、薊州の陥落も彼女には有利な話だ。覇州の国舅からも、援軍を求める使者がきている。それもまた吉報だ。
(遠からず、耶律得重も康里定安も邪魔になる。梁山泊軍が殺してくれれば丁度よい)
 美しい瞳に鬼火が燃えた。
「しかし、梁山泊も殺したい」
 兄、慕容彦達を殺した仇。燕国復興の夢を打ち砕いた憎い敵だ。栄華を誇った慕容貴妃の凋落も、梁山泊のせいだ。梁山泊さえいなければ、何もかもうまくいっていたのだ。
 しかし、今度こそ夢は果たせる。これまでは腹心の侍女たちしか手駒がなかったが、大臣たちの籠絡が進み、また慕容貴妃が燕王のもとにいると知って、全国に潜んでいた“燕国”の移民達も続々と集まってきた。もはや燕国朝廷は彼女の思いのままだ。
 燕王はすでに廃人──捺鉢が済めば、群臣に推戴されて皇帝となり、彼女は正式に皇后に即位し、名実ともに実権を握る筋書きだ。本国の遼は、背後に金国の侵入を受け、その防衛で精一杯だ。燕雲に介入する余裕はない。
「あと少し──あと少しじゃ」
 兄の亡霊が笑っている。先祖の霊が、数百年の故国の民の魂が、歓喜の叫びをあげている。
 薄絹の衣をたなびかせ、巫女は回廊に舞った。両手をひろげ、旋回しながらさまよった。その唇から笑いが漏れた。目は虚空の闇を凝視し、声なき言霊に耳を澄ませる。



 空には雲が出て、暗い。月も星もない夜だった。
 回廊の連なる柱に灯された火が、ゆらゆらと揺れながら巫女を照らし、導いていく。

 その様子を、答里孛が部屋の扉の隙間から覗き見ていた。
(あのひと──狂ってる)
 中庭をはさんだ向こう側の回廊を、巫女は踊りながら通りすぎていく。巫女は不思議な歌を歌い、虚空に語りかけ、見えない者と親しげな笑みを交わしていた。
 答里孛は、舞う巫女の周囲にたくさんの亡霊が蠢く幻覚を見た。亡霊たちは踊ながら巫女の後をついていく。
(延寿、私どうすればいい?)
 彼女は無力だった。
 父王の主催による捺鉢に反対したため、多くの大臣が捕らえられた。彼女とて、おかしいと思っている。捺鉢は皇帝のみが行える神聖な儀式である。父王がそれを行えば、それは国への反逆になる。
 しかし、彼女は賢明だった。もし反対すれば、自分も幽閉されるか、あるいは殺されるかもしれない。この燕京には、もはや彼女の保護者はいない。父王にも、もうずっと会っていなかった。
 答里孛はすがるように腰に手をやったが、黄金の剣もいつのまにか部屋から消えていた。侍女も見知らぬ者に代わり、いつも監視されている。それについても、彼女は敢えて何も言わない。婚礼の支度に夢中になっているふりをしていた。
(兀顔将軍さえ戻ってくれれば!!)
 その時、巫女の視線が中庭を隔て、扉の陰に隠れた答里孛を捉えた。巫女は中庭を横切って、答里孛の部屋の前までやってきた。
「──眠れませぬのか?」
 扉越しに、巫女は妖しく微笑んだ。手に鮮やかな赤色の瓶を持っていた。
「ならば、よい薬をさしあげましょう」
「いいえ──もう眠いの。婚礼の靴の刺繍をしていて、夜更かししてしまっただけ」
 答里孛は努めて平静に答えた。
 巫女は冷やかな目で一瞥し、また回廊を去っていく。
 答里孛は寝台に飛び込み、頭から布団をかぶった。邪悪なものが、王宮に満ちている。巫女を取り巻く、歓喜にざわめく数多の霊──あるいは、それは幻影ではなかったかもしれないと、答里孛は思った。





 立春。
 秦明が檀州から到着し、薊州に梁山泊の全軍が合流した。



 宋江たちの出迎えを受けた秦明は、軽く左足を引きずっていた。初め啄鹿原の戦いで史文恭に受け、再び梁山泊決戦で得た左膝の傷のためである。しかし、騎馬で戦うのに不自由はない。馬上の人となれば、常に変わらぬ“霹靂火”秦明であった。
「いつ出陣する」
 秦明は、久しぶりに会う義弟の花栄に尋ねた。
 ずっと檀州にいて、ようやく“守り”の任務から解放されたのである。子を持って幾分か丸くなったといっても、やはり彼も“門を出ては家を忘れる”男であった。
 花栄は笑った。
「間もなくだ。黄信、引き継ぎは無事に済んだか」
 もうひとりの義弟である黄信も、秦明の副将としてずっと檀州に駐屯していた。
「問題ない。梁山泊軍は──増えたな」
 黄信は駐屯地を見回した。彼らが率いてきた一万のほかに、二万以上の兵がいるようだった。城内の守備についている部隊も多くいるので、水軍も合わせれば五万近い兵がいることになる。
「投降した漢人兵が加わったからな」
 花栄が答えた。
「燕雲には、内地から略奪されてきた漢人も多い。梁山泊軍に加わって、宋に戻りたい農民などが身を投じてくることもある」
 軍勢が揃い、兵站の準備も万全だった。軍量は今回も必要最低限の物資だけ携行し、残りは船で運ぶことになっていた。先に北上した海岸沿いの航路を今度は南下するのである。
 もういつ出発してもいい。遼軍に反撃の時間を与えないため、早ければ早いほうがいいはずだった。
「戴宗が戻ってきた。これから軍議だ、そこで出陣の命令があるだろう」





 その日、戴宗の帰還を受け、覇州攻略についての軍議が本営で行われた。秦明を加えた五虎将、花栄ら主立った将のみが集まった。
 軍議の中心は、呉用である。
「覇州の城砦を攻めるのに、一番難しいことは、“近づくこと”です。中に入ってしまえば、兵力は少ない。しかし、城砦に入るまでに三つの関門があり、これを突破するのが容易ではありません。戴院長、お願いします」
 戴宗が地図をひろげた。
「まず、覇州の手前三十里の検問。兵力は五千から六千。次に、山裾の鉄扉、これは破るのは不可能だ。次に、城砦に入る吊り橋、これは内部からしか動かせない」
 戴宗は地図を抑えながら説明した。
「覇州への道は、進むほど狭くなり山道になる。大軍では近づけない」
 董平が甲冑の飾り紐を弄びながら、首をかしげた。
「ならば、康里定安はどうやって覇州をとった?」
 呉用が答えた。
「接近不可能といわれた山側から、少ない部隊で奇襲をかけたのです」
 軍議には、戴宗とは別に偵察に出た解珍、解宝が同席していた。解珍が説明した。
「今はその道も封鎖されている。山側からは、鳥でもなければ近づけない」
 莱山の解兄弟が踏み越えられぬ山ならば、そういうことだ。戴宗が付け加えた。
「当時とは、守備している部隊の士気、能力も違うしな」
 呉用が頷く。
「しかし、この問題は“招安”で解決できました」
 呉用の方針は、欧陽侍郎がやってきた時にすでに定まっている。単純な作戦だ。まず宋江が投降すると見せて覇州の城門を開かせる。その後を盧俊義が軍を率いて、覇州城に攻め寄せる。あとは、内外で呼応して城を奪うのだ。
 しかし、花栄を中心に反対の意見もあった。
「伴うのは腹心十人と五百の兵のみ……それでは宋江が危険すぎる」
 呼延灼は、この策を決行すべきだと考えていた。
「要害の覇州に近づくには、多少の危険は冒さぬわけにはいかぬ」
 花栄は納得しなかった。
「万が一、敵に罠があれば、宋江の命はないぞ」
 議論を収めるように、呉用の羽扇が軽くゆれた。
「承知のうえです」
 呉用は部屋の隅に立っていた兵卒に命じた。
「“宋江”を、これへ」
 みなが怪訝な顔をした。宋江は、ずっとそこに座っている。しかし、間もなくやって来たのは、紛れもなく、宋江だった。



 宋江と同じ小柄な男が、同じ顔でにこにこと笑っている。みなが二人の宋江を見比べた。呉用が笑って言った。
「彼は鶏狗、名は“宋江”と呼ばれています」
 鶏狗“宋江”──その男が、たった今“宋江”を呼びにいった兵卒自身であることは、呉用と柴進以外は知らない。
 柴進は以前から、“鶏狗”のうちに宋江に似た者を何人か養っていた。その中で、この男が一番の“宋江”であった。服を取り替え、ひげや眉ひげをつけて変装すれば、見分けがつかない。声も話し方も、物腰も宋江に瓜二つだった。彼は日頃から常に宋江の従僕としてそばに仕え、“宋江”になる術を完全に会得したのだ。
 二人が並ぶと、呉用すらどちらが本物が分からなくなるほどだった。
 花栄が納得した顔で呉用に尋ねた。これなら宋江に危険はない。
「決行の日取りは?」
「春になれば、敵の動きも活発になるでしょう。覇州のあとは燕京攻め……一刻も早いほうがいい。“宋江殿”には、明日の明け方、陣を抜け出していただきます」
 宋江が伴う“腹心”には、林冲、花栄、李逵、朱仝、劉唐、穆弘らが選ばれた。宋江の護衛である呂方と郭盛、孔明、孔亮の兄弟も行く。
「敵に怪しまれないよう、本当に“宋江殿”が姿を消した──と兵たちにも思わせなければなりません。どうぞ、みな慎重にお願いします」
 会議が終わると、花栄が驚いたように部屋の中を見回した。
「宋江は?」
 いつの間にか、宋江の姿がなかった。いつも宋江を護衛しているはずの呂方が、困惑し顔で答えた。
「すべて呉用先生に任せたから……と」
 窓の外には、夕闇が広がりはじめていた。








 夕暮れになると、仙境はさらに静けさを増す。
 茜色の光を浴びた山々は昼の厳しさを和らげ、孤峰の松も枝を垂れて眠りにつこうとしているようだ。遠くの山肌の石段を、食籠を下げた道士がゆっくりと登っていく。
 この風景は、千年前も、千年の後も変わらないだろう。
 世に戦のあることなど、忘れそうになる。
 しかし、項充は忘れなかった。
 彼にとっては戦のほうが現実で、この仙境こそ夢だ。うたかたの眠りに垣間見る幻影のようなものだ。
 李袞は路傍の梅で子猿を遊ばせている。樊瑞は岩で蓮華座を組んでいた。
 三人は山腹の亭で公孫勝を待っていた。彼らは、宋江に同行して覇州へ向かうよう呉用から命令を受けている。しかし、夕暮れまで待っても、山道に一清道人の姿は現れなかった。
「先に行こう」
 樊瑞が二人に言った。
 項充も李袞も知らぬ、穏やかな顔をしていた。項充は、このまま樊瑞が公孫勝とともに二仙山にとどまるのかと思っていた。
 山を降る小道に降りて、樊瑞は二人に振り向いた。
「我等の道は、いつかは別れる。わしを──恨むな」
 風が樊瑞の黒い衣を翼のように舞い上げた。
 項充は黙って頷いた。
 彼らの道は、ありもせぬ幻の福地を目指した修羅道であった。その道は、いつかは別れる。項充には、いつからか分かっていたことだ。
「しかし、我等はいつまでも友ではいられよう」
 樊瑞は、かすかに笑ったようだった。





 城壁の上で、宋江はひとり夜空を見ていた。眼下には、薊州の街が広がっている。



 歩哨たちが見回りしながら話している声が聞こえた。
「俺は村を襲われて、無理やり連れてこられた。家族もみな捕まって、豚みたいに縛り上げられた。今は、女房子供がどこにいるかも分からない」
 兵には山西地方のなまりがあった。彼らは、暗闇の中に佇んでいる宋江に気づいていない。
「故郷に帰りたいなぁ」
「もうすぐ帰れる、きっと家族ともまた会える」
 宋江は彼らが通り過ぎるのを待って、ため息をついた。
(人はいったい何を求めて、何を信じて、天子になりたいなどと思うのだろう)
 この国に住む、この一億の人の幸せを背負う唯一の人──天の子、皇帝。
 宋江の上に、流星がひとつ流れた。まるで泪のようだった。

 城壁の下を、酒屋帰りの魯智深が通り掛かった。
「どうした」
 花栄が城壁に寄り掛かるようにして立っている。
「宋江が、一人になりたいと言うんだがね」
 花栄は城壁の上に視線を向けた。その足元には李逵が座り込んでいる。
「護衛もなく、放っておくわけにもいくまい」
 魯智深は禅杖を担いだまま、ちらりと宋江の姿を見上げた。
「孤独な人だ」
 ため息をつくように呟いた。
 天孤星“花和尚”魯智深──彼にすら、宋江はこの世の誰より孤独に見えた。





 夜明け前。
“宋江”はひとり、薊州の陣を発つことになっていた。
 もちろん見送る者はない。
 今回の作戦内容は、一部の上級将校にしか伝えられていない。敵の間諜が兵に紛れている恐れがあるためである。
 宋江は仲間たちの反対にあい、“密かに覇州に身を投じる”のだ。
 従う者は、孔明と孔亮の兄弟のみ。彼らは寝静まった街を抜け、北門に向かう。北門の守備についているのは、呂方と郭盛だ。彼らは、ひそかに城門を開け、宋江とともに南の文安県に向かう。ここには、林冲、花栄、李逵らとともに五百人の兵が駐屯している。選りすぐりの精鋭ばかりだ。五百の兵が薊州から夜間に動けば、気取られる。“宋江”は文安県の部隊と合流し、あとは全速で覇州へ向かうのだ。
 すべて、呉用の描いた筋書きである。覇州の間諜が梁山泊軍に紛れ込んでいたとしても、その通りに報告すれば齟齬はない。
 しかし、今夜、呉用は居室として使っている役所の一室にいて、眠れずにいた。
“智多星”呉用の神算鬼謀は、決して、天から落ちてきたものでも、神に与えられたものでもない。呉用の前には、書類やさまざまの通信が山積みになっていた。これらすべての報告に詳細に目を通し、最後に呉用は地図を広げた。
 覇州から帰順を誘う使者が来たことで、呉用の計画は些かの変更を余儀なくされた。
 しかし、彼が目指すのは、覇州ではない。燕京だ。
 今、遼は金の侵入を防ぐのに気を取られている。宋は方臘らの乱に対応するのが精一杯だ。燕王が、その隙を狙ったのなら、梁山泊は、さらに燕王の隙に乗じる。
 呉用は短くなった灯心を切り、火をかき立てた。あたりは静かだ。気温が下がり、息が白い。
 ふと思い立って、呉用は宋江のいる部屋へ向かった。州府の最も奥まった建物の、さらに一番奥の小部屋である。覇州陥落まで、宋江はここに隠れ、陣にはいないことになるのだ。扉の前に、石勇が立っていた。“石将軍”の由来となった、魔よけの石像のようだった。呉用は声をひそめて尋ねた。
「宋江殿は?」
「よく眠っている」
 扉をわずかに開けて覗くと、蝋燭の明かりの中に、寝台で眠り込んでいる宋江の横顔が浮かんで見えた。
 そのまま呉用は足音を殺し、裏門へと向かった。みな眠りについている。あたりは、死に絶えたように静かだ。動くものは、呉用の白い衣、そして空に瞬く星だけだ。

 裏門につくと、今しも、“宋江”が役所をひとり出て行くところだった。
(まるで、本当の宋江殿のようだ)
 その少し背中を丸めた後ろ姿さえ、宋江と少しも変わらなかった。
 門を守る孔明と孔亮が、音もなく扉を開ける。外は闇だ。
 かすかな星明りで、道だけがほの白く浮かんでいる。
 呉用は裏庭に面した回廊に佇んで、黙って“宋江”を見送った。
 もしも偽物と発覚すれば、この“宋江”は殺される。梁山泊軍が覇州を攻めても殺される。しかし、なにも恐れる様子なく、“宋江”は門を出て行く。
 彼は、とうに死ぬ覚悟をしている。鶏狗とは、そういう存在なのだ。
 鶏狗“宋江”と柴進の間に、過去に何があったかは、呉用は知らない。彼の本当の名さえ聞いたことはない。名もなく、この世から消えるだけの存在なのだ。
 その時、“宋江”が呉用へと振り返った。
 なにかを、語りかけるような目をしていた。
 その目を、自分は一生忘れないだろう──と、呉用は、思った。








 朝焼けの空を、一羽の鷹が飛んで行く。
 草原に、正装した人々が集まりはじめた。間もなく、捺鉢が始まるのだ。
 捺鉢は、皇帝だけが行える聖なる儀式である。
 契丹には、古来より春に君主と群臣がともに狩りする習わしがある。海東青を放って、鵞鳥を狩るのだ。鷹が群の主を地面に落とすと、居並んだ者が争って鵞鳥を捕らえ、錐でその脳を抉って鷹に与える。
 春を迎えるとともに、皇帝こそが契丹の全戦士を統べる存在であることを示すのである。
 その日、清められた草原に集まった燕京の大臣たちには、明らかに二つの立場に分かれていた。一つは、座の中心とになっている、巫女が取り立てた新参の者たちと、彼女への追随を決めた者。もう一つは日和見の者たちで、彼らは互いに物言いたげな、もしくは本心を押し隠したような視線を交わしていた。
 草原には勢子が集まり、儀式の準備は着々と進められていく。
(やはり──謀叛を)
 群臣たちはそう思ったが、何も言わない。
 遼の本国は、最近とみに強勢となった金国の侵入を受け、皇帝が蒙塵したとの情報もある。事実、例年ならば、すでに本国から捺鉢についての打ち合わせの使者が来ているはずだ。それが今になっても音沙汰がない。
 やがて、太鼓が打ち鳴らされ、捺鉢の儀式が始まった。勢子たちが鵞鳥の群れを追い出し、舞い上がったところへ、王が自ら海東青を放った。鷹が颯爽と鵞鳥の群れを追いかけていく。みながその行方に注意を向けている時だった。巫女の鋭い声が響いた。
「何者!!」



 人々が見ると、燕王の前に一人の若者が跪いていた。粗末な毛皮を脱ぎ捨て、立派な甲冑に身を包んだ耶律宗電だった。堂々たる契丹の皇子である。この場に紛れ込んでもとがめだてする者はいなかった。燕王は大儀そうに床几に腰掛けている。
「皇甥の耶律宗電が燕王陛下に申し上げます」
 宗電ははやる心を抑えて畳手した。
 捺鉢は燕王に会える絶好の──唯一の機会だった。宋国軍が侵入し、檀州、薊州がすでに陥落したことを告げた。群臣がざわめいたが、燕王は沈黙している。
 宗電が見上げると、かつてあれほど壮健であった王の目は、死んだ魚のように淀んでいた。
「……宋国軍が?」
 やがて、ようやく燕王の顔にわずかに表情らしいものが現れた。
「どういうことか」



「宋国軍が我が国の領土を奪おうとしているのです。どうか一刻も速く兀顔大将軍を呼び戻し、宋国軍の撃退を」
 答えたのは、巫女だった。
「よくぞ知らせてくれました」
 巫女が進み出て、二人の間に割り込んだ。宗電がはじめて見る巫女だった。巫女ではあるが、王妃のように宝石や羽で着飾っていた。切れ長の目で、宗電の顔を一瞥した。
「皇甥殿下はお疲れのご様子……。幕屋を準備させますゆえ、しばし休息なされませ。戦は国家の大事、このような場所で語るべきではございませぬ。宮殿に戻り、また詳しくお話をうかがいましょう」
 その冷やかな眼差しと言葉には、余人に有無を言わせぬものがあった。しかし、ここで引き下がっては、再び燕王に会えるかどうか分からない。
「答里孛に会えませんか、婚約の祝いを」
「公主は病です」
 戸惑う宗電のそばに、人垣を分けて宰相の緒堅が歩み寄った。
「皇甥殿下、拙者の幕屋にお連れしましょう」
 緒堅は宗電を巫女の前から連れ出すと、従者を呼んで耳打ちした。
「皇甥殿下をお守りしろ、誰も近づけてはならぬ」
 老宰相は物言いたげな皇子に目配せした。
「殿下、後ほど」
 宗電は従者に連れられ、老宰相の幕屋に入った。大臣たちはみな草原に休憩用の幕屋を建てている。柔らかな光の差し込む幕屋に入り、宗電はやや安堵した。
(燕王はあの巫女に騙されているのに違いない。宰相と話ができれば……)
 兀顔光と緒堅は燕京の双璧、ともに信頼できる人物である。
 そこへ一人の侍女が酒を持って入ってきた。美しい青衣の少女だった。
「王様から御下賜の御酒でございます」
 優しげな笑みをたたえ、侍女は盆に乗った酒杯を捧げた。

 また雨が降り始めていた。
(捺鉢に雨なんて、不吉なこと)
 遅れてやって来た答里孛は、雨の中を緒堅の幕屋に向かっていた。
 仮病を使って欠席しようと思ったが、やはり成り行きが気になった。何か起こるような予感がしたのだ。案の定、到着とともに緒堅から声をかけられ、従兄弟の宗電が来ていると告げられた。
「臣が行くまで、どうぞ姫君がお相手を」
 聡明な答里孛は、すぐに宗電の身が危険なのだと悟った。
 緒堅もまた、保身ではなく遼国のために敢えて沈黙を守っている人物だ。硬骨の老人には堪えがたいことだろう。今では、答里孛が朝廷内で信頼しているのは彼だけだ。
 しかし、その幕屋で答里孛が見たのは、久しぶりに逢う従兄弟の笑顔ではなく、従者の死体と、苦悶する宗電の断末魔の姿だった。答里孛はのたうち回る宗電に駆け寄った。
 宗電が血で濁った目で答里孛を見た。
「兀顔光将軍に知らせを……宋国軍が……」
「攻めてくるの?」
「次は燕京を……」
 答里孛は宋国軍のことなど何も聞いていなかった。
 宗電は咳き込み、激しく血を吐いた。答里孛の裳裾に鮮血が飛び散った。答里孛は落ちていた酒杯を拾った。
「これを誰が?」
「侍女が……」
「巫女の侍女ね?」
 答えはなかった。宗電の体はふいにぐったりと弛緩して、大地に伸びた。苦しみから解放されたのだ。
 答里孛はしばらく身動きもせずにいたが、やがて立ち上がると、血に染まった衣装を脱ぎ捨てた。華麗な公主の衣装の下には、いつもの男の装束を身につけていた。



(借りるわ、不運な従兄弟殿!!)
 涙をぬぐい、答里孛は宗電の剣を取った。
 男装して部屋を抜け出したのが、天寿公主・答里孛であることに気づいた者はいなかった。鵞鳥が落ちて、人々は夢中でそれを奪い争っている。その隙に厩へ忍び込んで馬を盗み、答里孛は草原へ飛び出した。
 兀顔光のもとへ、延寿のもとへ──信じられる者のもとへ。
(天よ、御加護を)
 間もなく正午だ、雨があがり、空が明るくなっていく。
 答里孛は馬に笞をあて、露の光る原野を真っ直ぐに駆けた。



 その行く手には、大きな虹が輝いていた。





「梁山泊が裏切った?」
 その日、東京の私邸にいた王都尉のもとに、宿元景が駆けつけてきた。王都尉は歌姫たちを下がらせると、客人に椅子を勧めた。
「遼国の使者が、薊州で宋江に接触したらしい」
 宿元景は聞煥章を連れてきてきた。
「遼国が、わざと宋江に接触して、離間の計を図った──というところでしょう」
 穏やかな微笑をたたえているが、その言葉は常に真理を含んでいる。
「徐京に続き、梁山泊まで──とは、宋も見くびられたものですな」
 朝廷には、徐京から援軍を求める急使が数日おきにやってくる。一方で、山西各地の官僚から、徐京が田虎と通じている噂がありとの報告も来る。そのせいで、枢密院は援軍の許可を出さなかったのだ。もっとも、南方の方臘に対応するので精一杯だという事情もあった。
「契丹の侵入と呼応するように、田虎軍の動きも活発になっております」
 宿元景は断言した。
「このような時に、徐京も梁山泊も、彼らが裏切るなどあり得ない」
「金軍が遼都近くまで進攻し、燕王には自立の動きがあるとか」
 聞煥章は“在不在”ら子飼いの間諜を奔らせて、各地から詳細な報告を集めていた。
「自立?」
 不穏な言葉に、宿元景の顔色が変わった。
「自立とは──すなわち、天子を僣称する意志があるということか」
 聞煥章は懐から一枚の紙を取り出した。
「これは、兀顔光率いる遼軍の本隊ではありませんが、契丹人が占領した県城に掲げている旗のひとつです」
 広げた紙に、奇妙な図が描かれていた。王都尉と宿元景が覗き込み、同時に顔を曇らせた。
「──“陰陽双燕図”」
「まさか、慕容一族は誅滅されたはずでは」
 聞煥章は卓上に置いてあった小さな玉人形を取り上げた。
「この旗のほかに、もうひとつ。燕王が得体のしれぬ美貌の巫女を寵愛している──という噂があります」
 人形は精巧な彫り物で、片面から見れば美女、片面から見れば美しく装った白骨になっていた。
「女は蕭輝と名乗っているようですが、その正体は……」
 聞煥章は人形を卓に戻した。
「慕容貴妃──宮女に、肖像画を確認させました」
 王都尉の背筋に、寒気が走った。
 慕容貴妃が尼寺に送られたのは、楊晉が天子の密命を受けてしたことで、王都尉にも宿元景も知されていなかった。彼らが知れば、慕容貴妃に母后を殺された太子に知れる。
(──亡霊か)
 亡霊が蘇った。
 慕容貴妃こそ、宋朝の後宮に跋扈する疫病神であった。
 慕容貴妃──“燕王”の謀叛──梁山泊謀叛の噂。すべてが、一本の線で繋がったように王都尉には思われた。
 もし慕容貴妃が燕雲にいるならば、その目的はひとつだ。燕王を操って燕雲地方を独立させ、宋を滅ぼし、遼をも滅ぼし、燕国復興の野望を果たすのだ。
 王都尉は“陰陽双燕図”を手に取ると、燭台の炎にかざした。
「陛下に、至急お会いせねばならぬ」



 立ち上がった王都尉の前に、火の粉が流星のように舞った。








 屹立して天に聳える鋭い峯、その二つの頂に星が巡る。
 空に星。
 地上の光も、また星のように見えた。
 昼もなお、太陽の光に消し去られても、空に星はめぐり続ける。
 さまざまの命の炎のが、さまざまな色、明暗の光を放つ。
「──ああ」
 世界を見渡す二仙山の孤峰にて、老いたる仙人は嘆いた。
 天にも地にも、星はさだめの軌道をめぐる。
「なんという皮肉、なんという悲劇」
 長い刻を生き過ぎた。
 興亡を、夢と野心を、絶望と希望を見送ってきた。
 長い刻の果てには、善悪も、正否も、清濁もない。
 すべては過ぎ去り──ただ、かすかな悲しみを感じるだけだ。
「すべて──さだめ、か」
 この世の命は、すべて夢幻──亡霊のようなもの。
 星の光のようなもの。



※文中の「共旺」は、正しくはです。
※文中の「啄鹿原」は、正しくはです。
※文中の「緒堅」は、正しくはです。
※文中の「楊晉」は、正しくはです。






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