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「張清!!」
振り向いた董平の目に、いましも弩矢を放った天山勇の姿が飛び込んだ。さらに、その背後に天山勇を追う徐寧が見えた。
この距離を経て張清を射るとは、その弩の飛距離、照準の精度。神業か、悪魔の所業という他はない。
天山勇は追いすがる徐寧に振り返り、不敵に笑った。疾駆する馬を御しながら、なお天山勇は弩を射続けた。“賽唐猊”が矢を受けて火花を散らす。
それが、薊州軍、最期の一花であった。

天山勇の弩矢が尽きたその一瞬、徐寧は躍り込むように馬を寄せ鈎鎌鎗を突き出した。天山勇もすかさず左手で鞍にかけた槍を取り、渾身の力をもって鈎鎌鎗を受け止めた。しかし、徐寧はその槍先を右に払うと、返す刃で天山勇を胸を貫いた。
天山勇は、馬上から崩れ、大地に落ちても、“一点油”を放そうとはしなかった。
捺鉢は皇帝が皇帝たることを示す、神聖にして重要な儀式である。墨緑の袍を着て、頭には鵞鳥の羽を差し、群臣の称賛の中で御手ずから弩を賜った。
その栄誉は、永遠に色褪せることはない。
戦いは続いていた。踏みしだかれた雪が、融けて、流れる。
落馬した張清を、楊志と穆弘が救いに走る。
その隙に、耶律得重と宗電、宗雷の兄弟が逃げ去っていく。彼らの馬は千里の駒だ。突破されれば追いつけるものではない。
徐寧は、大地に横たわる天山勇の顔に安堵の表情が浮かぶのを見た。
「わしの国は──遼だ」
ほぼ同時に、戦場に誰かの声が響いた。
「薊州は落ちたぞ!!」
振り返ると、薊州城の城壁に、大きな『宋』の旗が翻っていた。
薊州を巡る城壁上では、焦挺と郁保四が旗を担いで駆けめぐり、四方から見えるように次々と『宋』の旗を立てていた。
将を失い、また城に敵の旗が上がるのを見た薊州軍は総崩れとなり、やがて全軍が投降した。
凱歌の中で、徐寧は馬から下りた。雪まじりの泥濘の中に、“一点油”を手にしたままの天山勇の死体が横たわっている。
「運命がわずかに変わっていれば、我々は、逆の立場になっていたかもしれない」
徐寧は“一点油”を拾い上げると、遺体とともに家族に返すように兵に命じた。
薊州城内では、梁山泊軍が単廷珪を中心として消火活動に奔走していた。
焼けた建物を倒して類焼を防ぎ、負傷者を安道全のもとに運んだ。宋江は罹災した住民の救済を朱仝に命じ、火災が収まると、すぐに裴宣と李応が民生に当たった。
指示を終えた宋江は、安道全を訪ねた。
安道全が医院として使う廟の一室に、張清の病室が作られていた。
「張清の傷は?」
安道全は静かに薬研を引いている。
薬草を集めに行っていた安道全は、水軍に合流して檀州までやって来たのである。
「幸い、矢は表面の皮膚と肉を貫いただけだ。傷は深いが、治る。ただ……」
布団を厚く敷いた寝台の中に、張清は死人のような青白い顔で横たわっている。
「意識が戻らん」
灰色の霧が流れていく。
張清は、悪夢を見ていた。
痛い──苦しい。
あたりは寒くて、暗かった。
灰色の霧が流れる。霧ではなかった。
無数の、さまよう影だった。人のような、ぼんやりとした形の灰色の影。世界を詰め尽くすほどの数の影が、ゆらゆらと行き交っている。
『張清の傷は?』
遠くから声が聞こえる。
『傷は深いが、治る。ただ、意識が戻らん』
その声を知っているような気がしたが、誰なのか分からなかった。
灰色の影たちは、空中を漂い、溶け合い、また離れながら、形のない柔らかな腕を伸ばして、張清をどこかへ誘っている。
声が聞こえた。遠く、近く、うつろに響く。
『薊州の街の様子は?』
『静かです──ひどく』
声はしだいに遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。
影たちが張清を取り巻いている。
張清は、自分が虚ろな灰色の影になっているのに気がついた。
もう何も聞こえない。何も見えない。
いつの間にか、自分も透明な灰色の影となり、冷えきった風の中に佇んでいた。
夜。
楊雄と石秀は、一軒の家の門前に佇んでいた。
あたりは静かだ。風が冷たい。
梁山泊の兵士は、すでに敵城を制圧した時は“秋毫無犯”──どんなに僅かでも民のものは犯さない、という軍令を肝に銘じていた。そのため、略奪などで混乱を招くようなことはなかった。
楊雄と妻の巧雲と暮らした家は、当時のまま残っていた。
門前にある白楊の木もそのままだった。
楊雄が好きだった木だ。夜、寝室にいて耳を澄ますと、さらさらと梢が風に鳴る。その音を聞いているのが好きだった。
風が吹き、今夜も変わらず梢がそよぐ。
楊雄はふいに刀を振り上げ、その幹に斬り付けた。斬り付けようとして、そのまま止まった。刀を中途まで振り降ろしたまま、楊雄は身動きもしなかった。
石秀がその腕に手を添えて、ゆっくりと刀を下げた。風が鳴る。
楊雄は、虚空を見ている。
「──行こう、雄さん」
枯れた梢に、おぼろな月がかかっていた。
静かだった。自分の心臓の音さえ聞こえそうだ。
やがて、木枯らしのような声が答えた。
「ああ」
石秀は楊雄を促して、梁山泊軍に戻ろうとした。
数歩行って、石秀は足を止め、楊雄に振り返った。

楊雄は幽鬼のように月下に佇んでいる。
声をかけようとして、石秀は、怪しい気配を感じ取った。隣の路地だ。物陰からそっと伺うと、薄暗い路地に住民たちが二人三人と集まってくるのが見えた。闇に彼方に目をこらすと、おびただしい数が集まっていた。その手がきらりと輝いたのは、包丁、斧、鉈──ありあわせの“武器”であった。
「俺たちの街を守れ!!」
静寂を破り、怒濤のような声が沸いた。
その朝は、雲多く、空に幾筋かの鮮血を流したような、陰鬱な夜明けであった。
今回、梁山泊軍は薊州陥落に先んじて、檀州の時のように十分な人心操作を行う時間的な余裕がなかった。
晋の時代に割譲された燕雲の地には、もともとの住人と、あとから連行されてきた漢人の農民や工人がいる。当時は略奪の時に捕虜となって連行され、農耕をさせられ、故郷に帰りたがっていた人間も多かった。周の世宗が親征した時には、解放を望んだものだった。命懸けで逃亡し、故郷に戻るものもいた。
しかし、すでに二百年の時が過ぎた。宋に協力しようとする漢人もいれば、そうでない漢人がいるのも当然の摂理であった。
「城を守れ、家族を守れ!!」
梁山泊軍の急襲、そして、落城。恐慌にかられた住民たちは、家族や財産を守るために武器を取った。
「城を守れ!! 家族を守れ!!」
住民たちは暴徒となって、梁山泊軍が集まる州役所に向かって行進を始めた。
様子を見に行った花栄が、門前に立つ宋江のもとに駆けてきた。花栄は梁山泊軍の者と気づかれ、石を投げつけられて戻ってきたのだ。
「たいへんな数だ、どうする」
宋江が、照夜玉獅子に乗った。
「わたしが行こう」
宋江は、住民を説得するつもりだった。左右の者に厳命した。
「何があろうと、住民を傷つけてはならない」
花栄は黙っていた。呉用が目配せした。
呉用に言われるまでもなく、花栄は、宋江を守るためならば、相手が誰であろうとも矢を向ける覚悟をしていた。
役所の正門に通じる大路を、住民たちが東から波のように押し寄せてくる。彼らは恐怖にかられ、それが興奮となり、熱狂となった。その前へ、宋江はゆっくりと馬を進めた。
辻に灯された篝り火で、あたりは昼間のように明るい。
民衆の怒号が路傍の建物を震わせた。その数はますます増えている。宋江の背後から、李逵が斧を手に飛び出した。宋江が叫んだ。
「李逵!!」
住民たちの血走った目が一斉に李逵を見た。獣のような絶叫が、薊州の空に轟いた。
その時、一陣の烈風が、住民と李逵の間を裂くようにして吹き抜けた。
高らかに、鋭く澄んだ鈴の音が鳴り響く。りん、りん、りん──と、耳から脳へ、全身を貫くような音だった。
思わず立ち止まった李逵の顔に、ぺたりと何かが貼りついた。
「なんだぁ?」
むしり取ると、黄色い符だった。
十字路の東の道から、御札をまきながら道士たちが二列になって行進してくる。先頭にいて札を蒔くのは、公孫勝の兄弟子“一濁道人”こと何玄通であった。

遼国は仏教を国教とするが、二仙山の膝元である薊州には古来より道教を信奉する者が多かった。しかし、彼らの多くは深山にいて、滅多に俗世には姿を見せない。突然の道士たちの登場に、人々は電光に打たれたように静まりかえった。
凝視する人々の目の前で、道士の列が読経しながら二つに分かれた。
群衆がどよめいた。どよめきが後方から前方へ、波のように伝わってくる。人々は口々に呻くような声を上げ、一点を凝視しながら先を争うにように膝を折った。
「あれは……」
李逵は斧を握りしめたまま、目を見開いた。道士たちの間を進んでくる人影が、小さく見えた。小さな影が、徐々に大きくなっていく。次第にどんどん大きくなり、その場の誰よりも巨大に、のしかかるほどに見えた。李逵はごくりと唾を呑み込んだ。
「あの爺は……」
思わず李逵は後ずさった。
「羅真人!!」


薊州を脱出した耶律得重らは、原野に身を隠していた。
耶律得重と二人の皇子。檀州から逃げてきた洞仙侍郎と耶律国宝。みな、疲れ果てていた。その他の将軍たちはすべて討たれ、百人ほどの兵が従っているだけだ。
どこかの県城にでも身を寄せたいが、信用できるか疑わしい。
夜になると、耶律国宝が乞食に身をやつし、近くの村から幾ばくかの餅と葱を買って戻った。わずかな食料を分け合い、彼らは今後のことを謀った。
彼らの迷いは、長城を越えて本国へ戻るか、南下して燕京へ行くかどうかであった。
本来ならば、燕京軍と共同して宋国から燕雲を防御するべきであろう。しかし、燕京に兵や物資を供出させられ、その隙に乗じて宋国に急襲された──という状況が、燕京への疑念を生んだ。さらに燕王の標榜する「宋国への侵攻」を、遼本国は知らなかった、という情報が、疑いを一層、濃くした。
耶律得重は難しい顔をしていた。
「宋国に版図を広げることは、悪いことではあるまいが、金国が南下を虎視眈々と狙う今、軍を南に向けるのは、果して、遼国のためなのか」
明らかに燕王の独断専行である。
南下すれば、金国に背後を襲われる。宋国への侵攻は、十二分に準備をしてから、満を持して行うことではないか。
動揺が、敗残の人々の上に、地平を覆う砂嵐のように広がった。若い耶律宗雷は憤慨を露わにした。
「燕雲地方には漢人も多い。燕王が信じられぬとなれば、他の州県も信用できぬ」
父がいさめた。
「燕王は皇室の重鎮、確証なきことを妄りに口にしてはならぬ」
洞仙侍郎は、心を静めようとするように、彼らの神たる天へ目をやった。
「それゆえに……」
燕王は興帝の四代の孫にして、太后に養育され、教養高く、かつては太子にとまで望まれた人物である。現在も諸王に冠たる、耶律一族の長老である。
「それゆえ──帝位への野心を抱いたとしたら」
沈黙は、夜の闇より重かった。洞仙侍郎はため息とともに、言葉を継いだ。
「いずれにせよ、本国へ報せねばなりませぬ。どこに宋軍がいるやもしれず、雪の長城を越えて行くことになる。誰が使者として参りましょう」
耶律国宝が進み出た。張りつめた表情に、決意があった。
「皇甥殿下が」
洞仙侍郎は畳手して、深く頭を垂れた。続いて、この場の主たる耶律得重に進言した。
「我々は覇州へ向かいましょう。覇州長官の康里定安殿の娘御は、後宮にて最も時めいておられる御方。万が一、燕王に野望あっても、加担する利はございません」
覇州は、遼宋の国境にある城砦都市である。かつて漢人が益津関の八砦を築いたが、先年、遼軍が襲ってこれを得た。今や宋防衛の一大防御城となっていた。
宋軍の侵攻に備え、かつ燕京に疑いある今、覇州はかつてなく重要な城である。
星空に下に、覇州に向かう耶律得重らと、長城へ向かう耶律国宝は袂を分かった。
「必ず援軍を率いて戻ります」
国宝は、わずか二十騎とともに北へ向かった。
まず目指すのは古北口である。古来より長城の南北の口で、国宝が兄とともに兵を率いて駐屯していた砦である。燕雲地方が遼国の版図となって以降は、かつてほどの防備力はないが、兄弟は一千の留守部隊を残していた。
梁山泊軍に注意しながら、慎重に荒野の道を選び、二日後、国宝は遠く古北口のある山が見える場所まで辿り着いた。ほんの数日前まで、兄とともに暮らした砦だ。
(ああ、兄上)
涙を浮かべた国宝の目前で、ふいに関門が爆発し、山肌が轟音をたてて崩れた。
きな臭い砲煙を全身に浴び、凌振は嬉々として叫んだ。

「それ、もう一発!!」
凌振は次の火砲に点火した。魏定国が、釘を刺した。
「おい、我々の足元まで崩さぬよう注意しろ」
魏定国と凌振は、薊州を攻める本隊と別れ、檀州から直接この関所へ攻め寄せた。砦に駐屯していた国宝兄弟が留守にしている隙をつき、古北口を乗っ取ったのである。
彼らは長城に穿たれた関門を破壊し、遼国と燕雲地方の通信を断つという重大な使命を帯びていた。率いているのは、わずか八百の火兵部隊──工兵と砲兵のみであった。彼らは戦死した国珍の旗を掲げて関所に近づき、油断した敵を火砲をもって粉砕した。
今、凌振はありったけの火砲を長城の上に並べている。
彼らは関門を完全に破壊し、さらに南北をつなぐ道も塞いでしまうつもりだった。そうすれば、遼国の援軍も通れない。
凌振が撃っているのは、新兵器の車箱砲である。鋼鉄の装甲を備えた火砲で、車輪がついて移動できる。
本来は、攻城戦に使うための砲である。動力となる馬も兵も装甲の中に隠れているので、このまま城壁間際まで迫ることができるのだ。煮えた油、糞尿、石などが落ちても装甲はびくともしない。ただ天井にあいた穴から砲口だけを出して、撃つ。凌振が古巣である朝廷の甲仗庫に入り浸り、その設備と物資を使い放題に使って開発した。
火砲の口径は小さいが、防御に優れ、運搬に便利なのが利点である。
「“車箱砲”よ、初陣だ!!」
今、“車箱砲”は城壁の上を自在に走り回っていた。
思いもしなかった砲撃を受けた国宝は愕然とした。
この道はもう使えない。檀州、薊州にも戻れない。
救われる道は、救う道は、何処か。
「居庸関へ……!!」
馬首を西へ向け、国宝は叫んだ。
居庸関は西方の関所である。長城に穿たれた最大の関門のひとつで、一万の守備部隊が駐屯している。
再び砲弾が炸裂した。今度は国宝のすぐそばに着弾した。遼国兵の姿に気づいた凌振が、砲口を国宝たちに向けたのだ。
「逃げろ!!」
砲弾を避けようと迂回した兵が地面を踏み抜き、陥穽に落ち込んだ。逃れた者は、地雷を踏んだ。一帯は、魏定国の陥穽に満ち満ちていた。
「居庸関へ……」
国宝は叫び続けた。そのすぐ側に砲弾が落ち、馬が前脚を折った。次の砲弾で、国宝は爆風に吹き飛ばされた。体が木の葉のように空に舞った。

(答里孛──)
美しく勇敢な従姉妹の面影が、国宝の脳裏に浮かび──闇に消えた。
梁山泊軍は薊州城を制圧した。
二仙山の道士たちは梁山泊軍侵攻の報を受け、無益の流血を防ぐために薊州城へ駆けつけて来たのである。彼らの姿、その説得が人心を鎮め、再び大きな混乱が起こることはなかった。
日暮れには、住民たちは家のある者は家に戻り、焼けた者は城内の寺や道観、役所の建物などに宿を求めた。梁山泊軍からは、十分な食料や布が支給された。
州府の庭で、呉用は、天を仰いだ。
表の喧騒も、ここでは微かにしか聞こえない。
見上げると、夜空の星を背景に、羅真人と宋江が高楼で語りあっていた。
呉用の背後に、張順が神妙な面持ちで立っていた。
「“荷”は指示どおり、船底に隠してあります」
張順は、呉用に鍵の束を渡した。ずしりと重い。重要な鍵だった。
この鍵のために、呉用は梁山泊軍の誰よりも、水軍の行方を案じていたのだ。公孫勝まで動員して水軍の行方を探したのも、この鍵のためだった。
このたび、水軍は兵站のほか、梁山泊が蓄えていた財も、すべて金銀および宝玉と布帛に換えて積み込んでいた。各地の“店”に保管されていた財、そして、晁蓋ら北斗の党が奪った梁中書の“十万貫の生辰綱”──東渓村郊外、魍魎の淵に沈められていた十万貫の財宝もまた、張順によって引き上げられた。
すべて、やがて“梁山泊”が自立するための資金となる財である。
呉用は、あの夏の日の日差しを感じたかのように、目を細めた。
「魍魎の淵に、魔物はいましたか?」
「いいや」
張順は無表情に答えた。
「今はもう水脈が変わって、間欠泉ではなくなったそうです」
彼はただ、その水の冷たさ、暗さだけを覚えていた。張順の任務はほかにもあった。
「頭領たちの家族には、それぞれ“鶏狗”がつきました。事あれば……」
呉用は頷いた。
事あれば、無事に宋を脱出させる。そのために、家族はなるべく分散しないようにした。
夜明けが近い。
星が流れる。
夜明けにこそ、流星は散る。
静かな空気の中を、呉用は宋江のいる楼閣へ向かった。階段の一番下の段に、一濁道人が座って居眠りしていた。その横をすり抜けようとする呉用の前を、さっと一濁道人の腕が遮った。
呉用が見やると、一濁道人は目を閉じたまま、無言で首を横に振った。
羅真人は、厳かな眼差しで宋江を見据えていた。
「迷われておる」
宋江は頷いた。羅真人には、なにもかも分かっているようだった。
星々が、二人の上に静かにきらめく。
「将軍は、上は星魁に応じ、下には列曜を集め、替天行道のさだめの御方──なにを迷うことがあられる」
「わたしは運城県の小胥吏の身から、兄弟たちに扶けられ、ここまで生きてまいりました。我々の進むべき道を……どうか、我らの行く末をお諭しください」
羅真人の鋭い眼差しが、宋江を捉えた。
二仙山の長老たる老仙人は、森羅万象の理に通じ、世界を見渡す目を持っていた。目に見えるもの、見えぬもの、過去も未来も見通せる。
今、この漢土には、天子にならんとする男が四人いる。方臘、田虎、王慶──そして宋江。しかし、宋江は自ら望んでいるのではない。
羅真人は空を仰ぐと、目を閉じて夜空の気を身の内深く呼吸した。
宋江も思わず、同じように胸いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。羅真人の呼吸に合わせ、呼吸した。
ふいに、宋江は自分が底無しの瓢箪になったように錯覚した。大気がどっと体内に流れ込む。大気が、風が、星の光、宇宙の満ちた見えないものが、嵐のように宋江の中へ吸い込まれた。頭上の星空がぐるぐると回転し、線となって同心円を描き、高速で回り続ける。宋江は呑み込まれた。めぐる星々の無限の軌跡の中心に、いつしか宋江は立っていた。幻影のはずなのに、その生々しさに目眩を感じた。
(本当に、幻影だろうか?)
宋江はよろめき、かたわらの羅真人の袖にすがりついた。
同時に、羅真人はかっと目を見開くと、その口から神秘の言葉を吐き出した。

忠心の者はすくなく
義気の者はまれなり
幽燕に功畢(お)わり
名月虚しく輝く
始めて冬暮に逢い
鴻雁わかれ飛ぶ
呉頭楚尾に
官禄同じく帰せん
その声に、宋江ははっとして目を開けた。彼は星空に浮かぶのではなく、足はやはり楼閣の固い床を踏んでいた。
「その言葉は……」
宋江の運命を示す予言だった。吉と凶が織りなす予言だ。意味ははっきりと分からないが、吉であり凶、凶がまた吉となることを暗示していた。
「希望を砕かれましたかな」
「いいえ───いいえ」
宋江は首を振り、微笑んだ。
「わたしは功も官禄もいらない」
闇の中に立つ宋江を、星の光が青白く照らしだしていた。
「ただひとつ、望むことが許されるなら……わたしは、百八人の兄弟たちが、いつまでも一緒に──平安に暮らせることを願うだけです」
羅真人の顔に、憂いが浮かんだ。
巡る星を、老仙人は仰いだ。
天が告げる。
「あなたの願いは、永遠に───ひとつは叶い、ひとつは、叶わぬ」
梁山泊軍は、しばらく薊州に駐屯することになった。
薊州攻略の前、呉用は東京の朝廷に使者を送って援軍を求めていたが、まだ到着の気配がなかった。檀州、薊州と攻略しても、部隊を駐屯させておかなければ維持はできない。そのための兵力が梁山泊軍だけでは足りなかった。
それは朝廷も十分に承知しているはずだ。檀州を発つ前日、朝廷の高官が安撫使として、援軍とともに東京を発ったと知らせがあった。しかし、国境の覇州近くまで来たものの、その先の道中の安全が確保できず、足止めをくっているという。そのため、すぐに孟康率いる迎えの船団が準備され、海路から南下することとなった。
安撫使と援軍が到着ししだい、梁山泊全軍で燕京へ進攻することになっていた。
その日、王英が昼飯をもらいに行くと、食堂がわりの寺に頭領たちが集まっていた。張青が湯気のあがる蒸籠を運び、孫二娘が出来立ての肉饅頭を配っている。
「さぁさぁ、今日は四本足の羊だよ」
饅頭を割って中身を確かめ、薛永はとなりの施恩に声をかけた。
「それにしても、よく援軍を出す気になりましたね」
「東京には東京の思惑があるのさ」
朝廷の様子は、宿元景が宋江あてに報せてきていた。東京にいる呼延灼や花栄の家族からも手紙がことづけられてきた。
それによると、遼国軍が山西地方に盛んに侵入しており、今にも太原府に至る勢いだという。すでに覇州の益津関も取られて久しく、国境を侵す遼国軍の行動は次第に大胆になっていた。略奪や人民の誘拐は日常茶飯事となり、多くの県が蹂躙された。
「朝廷としては、一刻も早く──天子に内緒にしている間に、さっさと遼軍を片づけてしまいたいんだ」
薛永は饅頭を半分、犬の太白に投げてやった。
「そこで、ようやく梁山泊を援護する気になったというわけですか」
太白は尻尾を振って肉饅頭にかじりついた。施恩は笑った。
「援護ついでに、手柄も横取りしていくんだろうけどね」
欧鵬が酒を手に、独り言のように言った。
「横取りできるような“手柄”ならな」
欧鵬は燕順に酒を注いだ。燕順は珍しく会話に加わらず、黙々と酒を飲んでいる。
王英も何も言わなかった。
王英は肉饅頭を三つもらうと、南門の持ち場に戻った。
薊州に入った梁山泊軍は、城内外の数カ所に分散して駐屯し、王英と扈三娘は南門の守備にあたっていた。
扈三娘は門前に座り、親とはぐれた契丹人の幼児を抱いていた。
子供はまだ二歳ほどで、扈三娘を母親と間違えているようだった。扈三娘は子供を膝に抱いて、王英がもらってきた饅頭をちぎっては口に運んでやっている。王英は少し離れた石段に座り、饅頭をかじりながら扈三娘の横顔を眺めていた。
王英は不思議だった。この子を拾って以来、扈三娘は子供に夢中だ。
しかし、王英は、このごろ扈三娘が夜中にうなされ、飛び起きることがあるのに気がついていた。陳橋で小狗が死んでからだ。
今、扈三娘は久しぶりに楽しそうな顔をしていた。子供は饅頭を食べながら、しきりと鼻をすすっている。転んだ時にすりむいた膝小僧が痛いのだ。王英はわざと怖い顔をして子供に言った。
「男だろう、泣くな」
扈三娘が顔をあげた。王英は、怒られるのかと顔色を変えた。
「ねぇ、王英。この子、私たちの養子にしましょう」

扈三娘は子供を抱きしめ、王英に向かって笑った。王英は咄嗟の答えに迷い、饅頭を喉に詰まらせた。
その時、子供が扈三娘の懐から飛び下りて、門に向かって駆けだした。門から漢人と契丹人の夫婦が駆け寄ってくるところだった。
母親が子供を抱き上げ、泣きながら頬ずりするのを、扈三娘はぼんやり見ていた。やがて、夫婦は扈三娘に向かって頭を下げ、三人で馬に乗って去っていった。
扈三娘は、しばらく無言で門に向かってたたずんでいた。王英が声をかけようとした時、ぽつりと言った。
「……王英」
「親が見つかってよかったな」
王英は明るく言った。
「この戦が終わったら、俺たちも子供を……」
「あれを見て!」
扈三娘が門の彼方を指さした。
昼下がりの道を、使者の旗を掲げた一行がこちらに向かって進んでくる。
「趙安撫がもう着いたのか?」
王英の言葉に、扈三娘は目を凝らし、首を振った。
「いいえ──あれは、遼国の旗よ」
宋江と呉用のもとに、招集を受けた盧俊義や朱武が慌ただしく集まってきた。
呉用に代わり、蕭譲が使者の名札を手に説明した。
「使者は、覇州の国舅から遣わされた欧陽侍郎と申す者」
「覇州?」
朱武が聞き返した。燕雲地方の地名には通じていないが、覇州ならばよく知っている。近年まで、宋国の城市であったからだ。
もとは宋国と燕雲地方の国境にあった要害である。それを数年前に遼皇帝の舅である康里定安が奇襲をもって奪い取った。
今回の梁山泊軍の遠征も、普通ならば、この城を奪い返して拠点とし、燕京を襲うのが定石である。しかし、梁山泊軍は要害の覇州を避け、燕京ではなく、防備の手薄な北辺の檀州を襲った。
朱武が呉用に尋ねた。
「使者の用件は?」
無言の呉用に、朱武はすぐに問わずもがなのことを聞いたと悟った。
今、遼国から、それも国舅と呼ばれる人物から使者が来る理由は、ひとつしかない。

「我々を──梁山泊軍を遼国に“招安”したいと云うのか」
噂は、すぐに梁山泊陣中に広がった。
「遼国の使者が、なにをしに来た」
魯智深は腹を掻きながら、武松の隣にどかりと座った。陣営の一隅にたき火が燃え、男たちが集まっている。武松は魯智深に碗を渡した。
「知れたことだ、また招安だ。今度は遼国だがな」
武松はもう酔っていた。薊州にはなかなかよい酒があり、いくら飲んでも飲み飽きない。
「今日も招安、明日も招安……兄貴はつくづく招安が好きだ」
劉唐が武松の酒を取り上げた。このままでは皆のぶんまで飲まれてしまう。
「そりゃねえだろう、相手は敵だぞ」
「俺は、宋も敵だと思ってたがな。酒を返せ」
「おい“錦豹子”、俺にはうまく説明できねぇ」
劉唐は楊林に水を向けた。最近の梁山泊では、どれが敵で、どれが味方が分からなくなる。
「そうですなぁ」
楊林はたき火に柴を投げ込んだ。
「まぁ、宋というのは、いわば極道者のおやじみたいなものですな。酒は飲む、博打は打つ、おふくろさんまで借金のかたに売り飛ばす……そんなおやじに殴られて家を飛び出したものの、親は親。心を入れ換え酒をやめるし、悪い友達とも縁を切ると言われれば、戻って老後を見るのが人情というものでしょう」
そばで聞いていた解宝が口をはさんだ。
「すると、遼国はどういう立場だ?」
「隣の家の主がやって来て、そんな死に損ないのために苦労するより、我が家のために働けば、給金もたんとやるぞ──と」
「親切ごかして、実は俺の家の山を狙っているということか」
魯智深は碗を飲み干し、さらに酒を注ぎ足した。
「役人のやることは、漢人も契丹人も変わらんな」
武松は劉唐から酒を取り返し、また手酌でぐいぐいと杯を干していた。
「しかし、宋江兄貴は忠義者だ。契丹人の使者なんぞ、今頃は追い返しているだろう」
そこへ白勝が駆けつけてきた。
「宋江兄貴、呉用先生、盧俊義副首領が契丹の使者に会ってるらしいぞ」
宋江の前に進み出た遼国の使者、欧陽侍郎は弁舌さわやかな人物で、その言葉には誠意があり、内容は明確であった。

「宋朝は奸臣が有能の士の前途を閉ざしております。将軍ほどの忠義の士すら官職も与えれず、それどころか、このままでは軍功も世に知られることなく、却ってどのような災いが梁山泊軍にふりかかるかも知れません」
その物腰は礼儀正しく、居丈高に迫るようなところも、梁山泊軍を見下す気配も全くなかった。
宋江はじっと耳を傾けている。呉用も何も語らない。
(さすが、覇州の国舅は宋国の内情に通じている)
康里定安は梁山泊軍が宋ではどのような立場にいるか、その情報も持っているのだろう。
「わが主君は人材を愛し、決して埋もれさせることはございません。皆様方全員に高い位と、俸祿を約束しております。愚を去り、明につくのは賢者の道。そのことを考えられてはいかがでしょう」
盧俊義は意外だった。まず、宋江が使者に会うとは思わなかったし、会っても、すぐに断るだろうと思っていた。
使者はいうべき言葉を言い尽くし、返答を待っているようだった。宋江は黙っている。表情はないが,なにか深く悩むように眉間に憂いを浮かべていた。
使者がさらに言葉を続けようとした時、呉用がゆっくりと進み出た。
「国舅のご厚情、確かに承りました。しかし、ことは重大であり、即答できるものではありません。しばし時間をいただきたい。使者殿は、このまま陣営に止まっては危険ですので、ひとまず覇州へお戻りください。追って返書をたずさえた密使を送りましょう」
「宋将軍には、帰順の意がおありと考えてよろしいのか?」
欧陽侍郎の言葉に、呉用は曖昧に笑って首を振った。
「すぐに返答できないことを、どうぞ怪しまないでいただきたい。梁山泊軍は普通の軍と違うのです。たとえ宋将軍が『諾』と言っても、頭領百八人全員が納得せねば、“梁山泊軍”は動かない」
「──分かりました」
欧陽侍郎は改めて宋江の顔を見つめ、それから深くうなずいた。
頭領や兵士たちが見守るなか、欧陽侍郎は呼延灼と韓滔、彭己の三将に護衛されて戻っていった。
使者が下がり、宋江と盧俊義、呉用だけが残った。呉用が言った。
「悪い話ではありません」
盧俊義が珍しく議論に加わった。
「それは、遼につくということか」
「覇州は要塞を連ねた防御城、いつかは攻めねばなりませんが、犠牲は少なくないでしょう」
「そのために、帰順をすると見せかけ、覇州をだまし討ちにする──と」
羽扇が揺れた。考えをまとめる時の呉用のくせだ。
「まずは、戴宗を使者にやりましょう。その真の目的は、覇州の地形、防備などを調べるためです」
呉用は宋江に目を向けた。
「康里定安は、わずかの手勢で覇州を奇襲した英雄。英雄を騙すのは、宋江殿には心苦しいことでしょう。しかし、遼にとっても、この“招安”は戦を避けるための苦肉の策──偽りの誘いと見るべきでしょう」
宋江が、はじめて言った。
「──すべて、あなたに任せよう」
「宋の童子皇帝め」
覇州の主、国舅・康里定安は卓を叩いた。

「盗賊などを使って、わが領土を侵すとは」
卓上の杯が倒れ、乳茶が流れた。しかし、老人はそんなことには頓着しなかった。
耶律得重はじめ洞仙侍郎が逃げ込んできた日から、老人は怒り続けている。遼国のために、自分の命も、家族も捧げてきた彼にとって、腹立たしいことばかりだった。
奇襲とはいえ潭州、薊州が落ちたのもふがいないし、燕王に宋国軍を迎撃するための援軍を要請したが、いまだ返答もない。燕京の国王に対する疑いはさらに深まり、その折り、耶律国宝に従って長城へ行った部将が覇州へ戻ってきた。
満身創痍、命からがら戻った武将は、国宝の爆死と、梁山泊軍による古北口の封鎖を報告した。
その知らせは、まさに怒髪天を衝くごとく老人を怒らせた。
「居庸関も封鎖されたに違いない、この燕の地は孤立した!!」
覇州を奪い、堅持している康里定安は、豪快で老練な古武士として知られていた。背は低いが恰幅のよい、腹まで白髯をたらした壮士である。床に垂れるほどの見事な白貂の長衣をはおっていたが、何よりも際立っているそのは、その燃えるような眼光である。
洞仙侍郎がなだめるように言った。
「春には捺鉢の行事が燕京郊外の郭陰県で行われます。その前には、必ず遼国の使者が長城を越えて参りますから、本国も異変に気づくはずです」
「──うむ」
激怒していても、国舅と呼ばれた老将軍の頭脳は明晰だった。
「それまで、時間を稼ぐのだ」
そのために、梁山泊軍を招安しようと提案したのは、参謀の欧陽侍郎の策だった。手応えは悪くなかったという。
国舅は、果断に策を定めた。
「梁山泊軍と燕王、両方を同時に敵にすることはできぬ。梁山泊軍と折衝しつつ、いま一度、燕京に使者を送って援軍を請う。これは、燕京の様子を探るとともに、万が一の場合にも燕王に我々が疑っていると思わせぬためだ」
ぐるりと人々の顔を見回した。電光を発するような双眸である。
使者になるのは、壮健な若者がよい。この場には二人の皇子がいた。耶律得重の子、宗電は勇敢だが思慮が足りない。宗雷は知恵はあるが、小賢しいところがあり大胆さには欠けるようだ。
(一長一短──放つべきは、野猪か、狐狸か)
老将軍の視線が、耶律宗電の上にぴたりと止まった。
「皇甥殿下、参られましょうか」
時として勇気は知恵に勝る。耶律得重の次男、宗電は進み出ると、胸の前に畳手して薊州陥落雪辱の機会を与えられたことに礼を述べた。脱出時の戦闘で額を割られ、包帯にはまだ鮮血が染みだしていた。
康里定安は、血気にはやる宗電皇子に助言した。
「この任務は、知恵と忍耐が肝要です。よろしいか、まずは燕京に入って様子を探り、覇州が梁山泊軍に囲まれていると伝えるのです。それでも援軍を出さぬ場合は、殿下はここに戻るのではなく、すぐさま兀顔大将軍にもとへ走られよ」
兀顔光が燕王の命を受け、大軍を率いて太原へ出陣しているはずだった。しかし、康里定安は、兀顔光を信じていた。
「あの男は義人である。国を裏切るようなことはない」
もし燕王が僣称の野望を抱いているなら、真っ先に燕京から遠ざけたいのが兀顔光なのだ。
人々は門まで出て、若い皇子を見送った。兄と弟を続けて失い、自らも傷を負っている彼が行っても、なお援軍を出さぬようなら、燕王の裏切りは誰にも弁明のしようはない。
(宋国に買収され、燕帝として独立しようとしているのだ)
康里定安は再び唸った。
「童子皇帝め!!」
遼国は、ずっと宋を“子供”と軽んじてきた。柔弱、怠惰、欺瞞と虚飾に満ちた国と、侮蔑してきた。その国に、梁山泊のような精強果敢な軍があったとは。
契丹人は尚武の気風、強敵と認めたものから目を逸らすことはない。強いと認めたものは忌憚なく評価し、それにより自らの士気も高める。
「思った以上に、やりおる」
砦に戻り、国舅は酒を求めた。還暦となり体力の衰えを感じた時に、きっぱりと断った酒である。その酒を、若き日のごとく飲み干し、さらに肉を求めた。同席する人々にも勧めた。
「兀顔大将軍さえ戻れば、勝算はある」
国舅は、塊の焼き肉を短剣で割いた。
肉を突き刺した短剣から、熱い油が滴り落ちる。
「あるいは──その宋江とやらを、本当に“招安”することも必要かもしれぬ」
国舅は湯気のたつ分厚い肉片を噛み齧り、そのまま狼のごとく呑み込んだ。
呉用はひとり、星空の下に立っていた。

この頃は、一人になることも稀なほど忙しい。深夜に、こうして星々と向かい合っている時だけが、呉用が自由になれる時間だった。呉用は庭をそぞろ歩いた。いつにも増して、気持ちのよい夜だった。
しかし、今夜は安寧は得られなかった。
呉用の最大の疑問は、招安の使者が燕雲地方を統治する燕王ではなく、覇州の康里定安国舅から来たことである。そのために、呉用は時遷や“鶏狗”を各地に放った。彼らから、次々と情報がもたらされてくる。
燕京に潜入していた“鶏狗”より、燕京の不穏な動きについての報告があった。朝廷内で燕王に反抗的な者への粛清が始まっていること、そして、謎の巫女の存在である。
現在、燕王は軍を山西に向けている。燕雲に自立し、南下して宋を併呑しようとする野心があるのではないか──と、かねてから呉用は推測していた。
呉用にとっては、不利な情報ではない。今、燕京には兀顔光率いる主力軍がいないのだ。軍の反発を恐れて、燕王が遠方にやったのに違いない。梁山泊軍には好都合だ。
(燕京攻略のために、真に恐れるべきは──兀顔光)
燕雲を守る鉄壁だ。
(今ならば、勝てる)
自信があった。
呉用は、戴宗が何か言いたげな顔で自分を見ているのに気づいた。戴宗は使者として密書を携え、覇州に赴く。
「みんなが、あんたが変わったようだと言っている」
「私が?」
「まるで──俺たちと同じ、“人間”みたいだとさ」
戴宗はひょうげて笑った。昔、呉用に“頼まれ”て、江州知府の蔡得章に蔡京の偽手紙を届けたことを思い出していた。あの時は、もう少しで処刑されるところだった。今、思い出しても冷や汗が出る。
「俺は知っている。あんたは、昔からそういう人だ。ただ、あんたには──」
「分かっています」
かつて呉用は、いかなる知恵も自分の利益のために使ったことはない。
この戦いも、宋江のため、梁山泊のため──晁蓋のため……それだけだろうか?
戴宗は夜空を見上げた。そろそろ出発しなければならない。今夜は、夜通し走ることになるだろう。
「とにかく、頼むぜ。あんたのここに」
戴宗は指で自分の頭をつついた。
「梁山泊全員の首がかかっているんだからな」
戴宗は蝋で固めた密書を髷のなかに隠すと、両足に甲馬を縛った。見送ったのは、呉用だけだった。
ようやく、呉用に静寂な夜が訪れた。しかし、彼の頭脳は目まぐるしく──空をめぐる星のごとく回転することをやめなかった。
(覇州はとれた)
呉用はふくらみ始めた梅の蕾に目をやった。
そして、覇州を取れば、“宋”はすぐそこ──。
空には銀河。
見上げれば、まるで一筋の道のようだ。
夜空は地上の国を映したもの。銀河は黄河なのだという。

(──我等の国)
呉用は思った。
国の名を考えなければ。空にたなびく旗に大きく記す名を。
“蒼天”──天という文字が、ずっと呉用の頭から離れない。
“天”を建てる──それは、この頭上に天に挑むということか?
天子は天の子──それは、天に対する反逆だろうか。
傲慢か、僣越か。
いいや、天は無情だ。天は人を助けることなく、悲劇と絶望を投げ与える。
(──晁蓋殿)
晁蓋が、魔物を見た──という魍魎の淵。今、その淵から本物の魔物が生まれる。梁山泊という──宋国にとっての、“魔物”。
魍魎の淵に、もう魔物はいない。魔物はいなくなったのではなく、淵を出て──“ここ”にいる。
呉用は掌の鍵の重みを確かめた。
心の中から、ふつふつと熱いものが沸き上がる。
驚きと畏れと、興奮が入り交じっている。
自分はずっと、それを望んでいた。
そのために、この世に存在するのだ。
呉用は自分の使命を悟った。
きらめく星空を征く、果てし無い戦いの道。光と闇が交錯し──目も眩むような自由を感じた。
軽きこの羽扇よ──我が翼よ。

はてしなき、この遠征の道を導け。
夜空にひとつ、星が流れた。
檀州を攻める前、宋江が呉用に尋ねた。
何か楽しいことを考えているのか?──と。
星空の下、呉用は静かに微笑んだ。
聡明すぎる“智多星”呉用は、あまりに早く老成し、夢を見ることも、希望を持つこともなかった。
無邪気な子供時代を持たなかった。
今、彼は夢を見、希望を持っていた。
彼の人生に幸福というものがあるなら、呉用は、今が、一番幸福であった。
※文中の『運城県』は、正しくは です。
※文中の「彭己」は、正しくは です。
※文中の「郭陰県」は、正しくは です。
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