水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第八十三回
遠征・後篇

 時は二更。
 自分の頭脳は、まだ公孫一清にも及ばぬらしい──と、“神機軍師”朱武は認めぬわけにはいかなかった。



 朱武は河を見下ろす高台に立っている。
 川下を望み、川上を見渡し、手にした松明を高く掲げた。
 その合図は、『時、至れり』。

 東方の梁山泊陣で戦鼓の乱打が始まった。
 兵士たちは思い切り鯨波を上げた。
「朝には腹一杯飯が食えるぞ!!」
 三万の軍が、夜空の下で一斉に動いた。すでに夜陰に乗じ、兵は軽装になり、馬には枚をかませて、檀州城へ接近していた。戦鼓を合図に無数の松明を掲げ、あたりが昼のように明るくなった。



 その軍列は、遠望すれば火竜が目覚め、動きだしたようであった。
 梁山泊首将“及時雨”宋江が馬上に采配を上げた。
「行きましょう」
 頃合いやよし──『時、至れり』。
 林冲と関勝率いる騎兵四千が、北側から檀州城の東門へ迫った。
 呼延灼と董平、張清は正面から檀州城の東門に攻撃を集中する。騎兵三千、歩兵一万を擁する主力となる軍である。
 副将“玉麒麟”盧俊義は南側へ回った。三千騎。
 後方には、宋江率いる中軍が歩兵一万を連ねて控えている。
 梁山泊軍の兵たちは一人でいくつもの松明を掲げ、また背負った。その光は闇の中で煌々と輝いて、大地を埋めつくすようである。
 檀州城は騒然となった。
 無数の松明を掲げた梁山泊軍は、闇の中では数倍にも見えていた。東城門の櫓に詰めていた楚明玉は、すぐさま伝令を州府へ走らせた。
「東門に敵軍が総攻撃を!!」
 その知らせは、西門の咬児惟康らにも急報された。
「数は!!」
「分かりません……大軍です、今までにない大軍です!!」
 伝令はそればかり繰り返した。咬児惟康は城壁へ駆け寄ると、眼下の水門に向かって叫んだ。
「あの船は囮だ、引き返せ!!」
 しかし、すでに水門は完全に開かれ、次々と檀州の船が出ていく。
「戻れ──敵の狙いは東門だ!!」

 波が船腹を洗っている。
 遼国軍がもう少し船に慣れていたら、喫水線の高さから輸送船にしても重すぎる──と怪しんでいたかもしれない。しかし、彼らは気づかなかった。
 この輸送船団は、ただの囮ではなかった。
 船倉には物資にまじり、武器を握った梁山泊水軍の男たちが隠れていた。船板がはち切れそうな熱気が充満している。
「旦那、水門が開きました」
 甲板から童猛が囁いた。軍糧の箱に腰掛けていた李俊が頷き、上着を脱いだ。
「──行きましょう」
 船倉から一斉に李俊ら水軍の男たちが飛び出した。彼らはわざと座礁して、水門が開くのを待っていたのだ。船の舳先で張横が叫んだ。
「前進!!」
 夜更けの河は一瞬にして戦場となった。梁山泊の輸送船は強力な外輪を装備している。氷塊まじりの波を分けて水門へ迫った。檀州城は水門を開き、一度は応戦の船を出したが、東門の鯨波に“西声東撃”の計と気づいた。すぐさま撤退しようとする檀州軍へ、梁山泊の船が突進して舳先をぶつけた。檀州軍の船上へ阮兄弟が飛び移っていく。水中にはすでに張順が潜み、波を切って水門へ躍り上がった。張順は兵を殴り倒し、水門の揚げ巻き器を奪った。歯車に楔を打ち込めば、もう水は閉じられない。
 水上に目をやると、戦場となった糧秣船の甲板で、老兵たちが逃げまどっている。
「高求閣下の“お土産”が役に立ったな」
 彼ら老弱兵は戦闘では役に立たないが、敵を油断させる役目には最適だ。
 兄の“船火児”張横は、船から敵兵を手当たり次第に斬り落としていた。船には貴重な軍糧が積まれているのだ。戦のとばっちりで転覆でもしてはたまらない。



 張横は舵を操り、船を巧みに反転させた。梁山泊の水戦で失った足には、李雲が造った鉄の義足をつけていた。隻足となっても、その操船の技はいささかも衰えていない。
 水軍の兵は次々と水門から上陸し、役目を終えた梁山泊の糧秣船は、張横の船の後に続いて戦場から離脱を始めた。
 水門では、檀州軍と梁山泊軍、二つの怒濤がぶつかるような激しい戦いとなっている。城壁の松明が水に反射し、波が燃えるようである。咬児惟康は自ら弓を手に取った。
「矢を!!」
 水門上の矢倉から、檀州軍はありったけの矢を放った。梁山泊軍の水兵が水しぶきをあげて倒れる。後方の甲板で、凌振が線香を手に叫んだ。
「迫れ、迫れッ!!」
 張横ら糧秣船が後退するのと入れ違いに、凌振の船が前進した。
「よし、前へ出ろ!!」



 水門上の矢倉に向け、凌振の火砲が火を吹いた。一発目で矢倉が粉砕され、三発目で姫垣が川面に向かって崩れ落ちた。張順はすでに仕事を終えて、戦いに合流している。
 煉瓦がばらばらと川面に落ちる。飛び散る水飛沫の中、李俊らは船から船へ飛び移り、敵船を奪っていく。水に慣れぬ檀州軍に、梁山泊水軍を防ぐすべはない。
 水門を占拠するまで、それほどの時間はかからなかった。

 西方に、“流星”が上がった。
『水門ヲ奪取セリ』
 凌振の放った合図である。
 輸送船を囮として難攻不落の西門を奪い、その虚に乗じて東門を襲う。策はあたった。
 東南の本陣にいた呉用は珍しく目を輝かせ、背後の宋江へと振り向いた。
(勝利!!)
 そう思った時、突如、夜空の一角に鯨波が上がった。

「遼の援軍だ!!」
 それに気づいたのは、東門の北側方面に展開していた関勝・林冲の軍であった。
 北方から迫る援軍の姿が雪明かりに見えた。檀州の門楼で激しく戦鼓が乱打される。
 檀州も援軍の到来に気がついたのだ。
 援軍は、古北口に駐屯する五千騎の軍勢である。率いるのは遼室の若き皇子、耶律国珍と耶律国宝。兵士はみな金冠と紅の袍という同じ軍装を身にまとう。若々しく華麗な軍であった。しかし、軍中に彼らを呼んだ上将・阿里奇の姿はない。役目を果たした“撒刺”阿里奇は、張清から受けた目の傷が致命傷となり、檀州城を目前にして死んだ。

 梁山泊軍にすぐに伝令が走り、東門を正面から攻めていた呼延灼、董平、張清の軍が動いた。
 援軍は檀州城を視野にとらえ、その速度を上げている。疾走する獣の群れのようだ。
 梁山泊軍と遼国軍は、これまで城壁をめぐる戦いを繰り返してきた。しかし、今度は違う。遠征して始めての、本格的な野戦となる。
 梁山泊軍は、張叔夜の書物によって、遼軍についての予備知識を持っていた。彼らは騎馬民の戦法を使う。まず敵が射程に入れば矢を射かける。全力で疾走しながら騎射ができるのだ。敵が矢を受けて乱れた所へ突入し、さらに射る。百騎で三千の敵を倒した例もあると云う。
 梁山泊軍も速さを競った。剽悍を誇る、董平、張清の軍が出た。続くのは索超、徐寧軍。ともに機動性と突破力を兼ね備えた軍である。四将あわせ二千の部隊が鏃のごとく鋭く敵前へ駆けてゆく。間もなく、契丹の射程に入る。
「矢がくるぞ!!」
 索超の声を合図に、二千騎は左右に翼を広げるごとく散開した。契丹軍はそのままの進路で突入してくる。彼らは、ふいに左右に開いた敵軍の向こうに、鋼鉄の軍隊を見た。
「あれは!!」



 呼延灼率いる鉄騎であった。契丹軍は一斉に矢を放った。
 五千の弦音が嵐のように湧き起こる。
 契丹の矢は、梁山泊軍の射程をはるかに越えていた。そして、恐ろしいほど正確だった。騎馬の民は、一里先の野鼠の巣も見分けるという。
 連環馬軍は密集隊形をとり、盾となった。矢を受けても、彼らは人も馬も鉄甲に身を固めている。そもそも、なぜ連環馬が匈奴と戦うために生まれたか。それは、匈奴兵の矢を防ぐために他ならない。
 さらに、連環馬軍を率いる呼延灼は、西域に転戦して異民族との戦闘に慣れている。重装備とはいえ、その鉄鎧は湯隆が苦心して軽量化したものだ。
 軽騎にて敵を誘い、重騎によって矢を防ぐ。矢によって敵を倒す契丹軍に接近するための策であった。
 呼延灼の唯一の懸念は地勢であったが、矢に優れる韓滔は視力がある。月と星明かりをたよりに、韓滔は微妙な陰影に神経を集中して進路を読んだ。
 援軍の矢はなお驟雨のごとく降り注ぐ。しかし、連環馬は倒れなかった。耶律兄弟は驚愕した。
「あれは、よもや“鉄驃騎”では」
 連環馬の古名である。秦の蒙恬将軍が匈奴と戦うために用いたという鋼鉄の騎兵。西域の怪物と呼ばれた鉄の騎馬武者の伝説を、昔語りに聞いたことがある。
 再び一斉に矢を射たが、効はなかった。
 矢がきかぬ。
 それは遼軍にとって衝撃であった。しかし、彼らは若く勇敢であった。華麗に装った貴公子たちは、遼国軍の次世代の領袖として嘱望された精鋭でもあった。彼らは矢を捨て、武器をとった。契丹騎兵は風のごとき機動性をもって巧みに左右に展開し、連環馬軍との接触を避けた。連環馬は直進するには適しているが、柔軟な機動性には欠ける。
 遼国の援軍は連環馬軍を左右に迂回した。待っていたのは、両翼へ分かれた董平、張清、そして索超、徐寧の二千の軍勢である。
 梁山泊驃騎軍は疾風のごとく契丹軍に突入した。

 戦況が動いた。
 援軍と呼応して勝機を掴むべく、それまで堅く守られていた檀州の東門が開かれた。
「梁山泊軍を挟撃せよ!!」
 楚明玉が叫んだ。
 城門が開かれ、檀州軍が討ちだした。完全に城門が開き、軍が出た時、空に一粒の“流星”がきらめいた。東門を監視していた石勇の放った“流星”であった。その時を待ち構えていた、北側の関勝、林冲軍、南側の盧俊義軍が、城門へ向かって一斉に動いた。
 敵を油断させ、城門を開かせること──これこそが、東門から呼延灼らの軍が動いた、本当の“理由”であった。

 乱戦の中、董平は敵の主将を探していた。契丹人の戦法は本能的で、獣と同じだ。だとすれば、群れの主を殺せばよい。
(あれか)
 先頭を来る耶律国珍に目をつけた。孔雀の羽を飾った金冠が松明と星明りを反射して輝いている。国珍も自分に向かってくる男に気づいた。馬が躍り、董平と耶律国珍、三本の槍が交わった。国珍の顔に侮りがあった。
「お前、青い頭巾の男ではないな」



「二本の槍を使う男の噂は聞かなかったか?」
 董平の槍が左右から契丹の皇子を襲った。

 弟の耶律国宝は、檀州軍と呼応して梁山泊軍を挟撃すべく、精鋭とともに先頭に出て奮戦していた。その左右で、部下がばたばたと倒れていった。彼らはみな特に選ばれた精鋭である。たやすく倒せるものではない。しかし、また一人が馬上から落下していった。
(矢か?)
 国宝は目をこらした。一人の男の姿が目に飛び込んだ。
(青い頭巾の男!!)



“撒刺”阿里奇の遺言である。
『青い頭巾の男に気をつけろ』
 その男こそ、無敵の阿里奇を倒した男だ。
(──あれか!!)
 しかし、阿里奇は、青い頭巾の男の何に気をつければいいのか──それを語る前に、息絶えた。
 国宝は張清に迫った。その周囲で、皇子を守ろうとする兵たちが弾かれたように落馬していく。
(矢ではない、暗器か?)
 登ったばかりの月光の下で、青い頭巾の男は華麗な舞でも舞っているようだ。腕がしなやかに踊り、光る何かが飛来した。国宝は咄嗟に剣で受けた。火花が散った。
「石か!!」
 その瞬間、国宝は弓をとった。あの男にこれ以上、近づいてはならない。
 契丹の矢は速い。しかし、張清の礫はさらに速かった。
 矢を射ると同時に、国宝は兜に礫の直撃を受け、頭から地上へ落馬した。

 董平と国珍はすでに数十合を戦っていた。
 兄の国珍は董平の槍を受けながら、弟が青い頭巾の男に倒されるのを見た。
「国宝!!」
 国珍は咄嗟に董平を押し返し、弟を救おうと馬首を巡らせた。駆け去るその背に、董平の槍が空を切って突きたった。
「投げるくらい、俺にも出来る」
 董平は馬上から腕を伸ばして、倒れた国珍から自分の槍を引き抜いた。

 指揮官を失った契丹の援軍は浮足立った。
 契丹人は天性の狩人である。決して不利な戦はしない。手ごわいを敵を深追いすることもない。契丹人にとって戦は狩りと同じで、利なければ退く。しかし、背後の呼延灼軍が彼らの速やかな撤退を阻んだ。
 檀州から討ちだした部隊も撤退を始めた。彼らはようやく、東門を攻めていた梁山泊軍の主力が動いたのが、城門を開かせるための「囮」であったと気づいたのだ。ひときわ目を引き威圧する呼延灼軍、そして、青い頭巾の男。彼らが門前から去ったことが、檀州軍を油断させた。
 その機に乗じた関勝、林冲、盧俊義軍は、一気に東門外から檀州軍を駆逐した。城門では梁山泊の歩兵部隊が扉を守る檀州軍と戦闘を繰り広げている。
 門楼で楚明玉が狂ったように叫んでいた。
「門を閉じろ!!」



 城門を閉じようとする兵の頭を、“火眼俊猊”登飛の鉄鏈が打ち砕いた。登飛は梁山泊の決戦で手指を失ったが、今は腕の先に鉄輪をつけて、直接に銅鏈を装着していた。湯隆の特製である。腕に直接つけた銅鏈は、使い勝手は前より良かった。登飛は鉄鏈を旋回させつつ、獅子のごとく駆け込んでいく。登飛が切り開いた道へ、さらに武松と魯智深が率いる歩兵部隊が突撃した。解珍と解宝は城壁に梯子をかけて登っていく。花栄の弓隊が後方から歩兵部隊を援護した。

 その頃、檀州城の南門を前にして、李逵は両手に斧を下げて立っていた。
 一千の歩兵のみで南門を奪うのが任務である。しかし、そんなことは李逵にはどうでもいいことだった。李逵は思い切り咆哮し、麾下の牌手部隊が駆けだしていく。
 この夜、檀州軍が南門に回す兵力はほとんどなかった。彼らは死に物狂いで矢を射かけた。その中を、李逵が赤裸で門扉へ突っ込んでいく。
「李逵を守れ!!」
 矢ぶすまの中、項充、李袞は団牌で李逵を守りながら進んだ。鮑旭と焦挺が一千の手下を率いて城門へ突撃する。梁山泊中もっとも凶悪な面構えを誇る黒づくめの牌手部隊だ。団牌を掲げ、奇声を発し、真っ黒な兵が矢玉の中を突き進む。
 南門の守備兵たちは必死で矢を射続けた。隊長が悲鳴にも似た叫びを上げた。
「援軍を……!!」
 しかし、どの門へ走らせた伝令も、二度と戻ってこなかった。
 月が明るい。
 李逵の目には、檀州城が巨大な生き物のように見えた。真っ黒な、のしかかるように大きな怪物だ。洞穴のような口を開けて、李逵を呑み込もうと身構えている。
 李逵は走った。
 わけのわからぬ言葉を叫びながら駆け、咆哮を上げ、大地を蹴った。
 二本の板斧が、城門の門扉に突き立った。
 矢が尽きた南門の守備兵たちが、我がちに逃げ出していく。
 梁山泊軍に鯨波が上がった。わずか千の喚声が、檀州軍には一万の大軍の鯨波に聞こえた。

 梁山泊軍の東西からの猛攻に、檀州軍は壊滅状態となった。開け放たれた東門から、梁山泊軍が城内になだれ込んでいく。西門は梁山泊水軍に制圧された。南門からも喚声が轟いている。
「北門から逃げられるぞ!!」
 逃げまどう住民の間に、楊林のよく通る声が響いた。虐殺を恐れた契丹人の住民たちが家財を担いで逃げ出していく。
 咬児惟康と曹明済も水門を捨て、役所へ走った。その途上、矢継ぎ早に伝令がやってきた。
「南門が奪われました!!」
「東門から敵軍が突入を!!」
 咬児惟康も曹明済も、もうなにも答えなかった。ただ唸るように一言、命じた。
「──脱出せよ!!」
 彼らは州府に戻り残った兵をまとめると、洞仙侍郎を守りつつ北門から脱出した。

 城内に入った梁山泊軍に、宋江はあらかじめ命じていた。
「すべての城門を開け放て、逃げたい者は逃げさせるのだ」
 契丹人たちの多くが城外に逃げ出した。しかし、漢人には、どこかに漢人同士という思いがある。住み慣れた家から逃げることをためらった。
「梁山泊軍は好漢だと聞いた。宋江は、義人だというではないか」
 楊林の講談の“成果”であった。螺山の王小三の講談は、籠城で不安に囚われた漢人たちの間で密かに人気を呼んでいた出し物であった。彼らは数人ごと誰かの家に寄り集まり、役人には隠れて梁山泊の好漢たちの物語に耳を傾けた。
「しかし、もとは山賊だろう」
 路傍では漢人の住民たちが、怯えた顔を寄せて囁き合った。
「講談とは、大げさに褒めるものだ。金銀は取られても仕方ないにしても、妻や娘は隠しておいたほうがよかろう」
 住民たちは不安げな顔で、城門の方を望んだ。
 夜明け。
 東門から、ゆっくりと太鼓が鳴り響く。
 穏やかな音色は、梁山泊軍首将・宋江の入城の知らせであった。
 住民たちが沿道に集まってきた。恐れと期待が入り交じる目で、城門を凝視している。やがて、梁山泊軍が粛然と入城してきた。灰色の空と城壁──その中に、ふいに鮮やかな色彩が現れた。整然と並んで進んでくる軍の姿に、路傍に身をこごめていた人々は目を瞠った。
「おお」
「あれが──“梁山泊軍”か」



 軍勢の先頭には、錦の袍をまとい照夜玉獅子に乗った“及時雨”宋江の姿があった。
 それは、住民たちが予想していた“山賊の首領”ではなく、将軍のようでさえなかった。降りそそぐ朝の光が、まるで、この人の後光のようだ。
 そして、宋江が馬上から群衆に手をあげ、笑いかけた時、人々は戦の緊張、不安、恐怖から一瞬にして解放された。
 宋江の背後には、焦挺と郁保四が二すじの旗を掲げている。
『替天行道』『忠義双全』
 その左右には、呂方、郭盛が紅白の軍装も華麗に従ってている。さらに勇壮な将たちが続いている。美しく装った女将もいた。裴宣、蕭譲ら文官のあとには、燕青ら若者たちが指揮する食料や物資を満載した車が陸続と連なっていた。
 北国の冬に閉じ込められ、また戦に怯えていた人々の目には、眼前に絵巻物を広げたような鮮やかな衝撃であった。天人が仙童玉女を従え、宝物を携えて降臨した──住民たちの目には、まさにそのように見えた。
 彼らは実際、ひとりの住民も殺さなかった。
 朝日が、確かに遠からぬ春の気配を帯びている。
 梁山泊軍の人々の顔は輝いていた。
 檀州の人々の宋江を見上げる目、自分たちを迎える顔が、誇らしかった。
 呉用は思った。
(これでよい)
 彼らが、この人々が、やがて宋江に竜袍を着せかけるのだ。

 宋江が州府に入ると、漢人の役人たちが出迎えた。その庭では柴進と李応が中心になり、杜興や宋清を指揮して、集まってきた住民たちに物資を公平に分配した。
 檀州はじめ、燕雲地方の民は漢人の方が契丹人より多い。遼国も無用の摩擦を避けるため、洞仙侍郎のような温厚な人物を配している。二元統治を行って、漢人の政治制度や風俗を許している。漢人は先祖伝来の漢人の風を守り、あまり通婚も行われない。
 梁山泊軍の統治にも、自然と受け入れられる素地があった。
 一部では逃げ遅れた契丹人が寺院に立てこもる騒ぎがあったが、李雲、段景住、皇甫端らが赴き、その身をもって彼らを鎮めた。
「梁山泊は漢人も契丹人も、その他の民族であっても、帰順する者は差別しない」
 そして、漢人と差別なく、衣服や燃料、食料などを契丹人の住民に分け与えた。

 檀州城、落城。
 長く“敵地”であったこの城に、梁山泊軍は歓呼をもって迎えられた。





 梁山泊軍の兵士たちにも、十分な食糧と物資が配給された。
 戦の慰労と、投降した檀州政府の人々と、土地の長老たちの親和の宴が、州役所で催されることになった。梁山泊軍からは主立った上位の頭領たちが、旧檀州の官僚たちとともに正堂に入った。檀州の漢人官僚には、安堵の表情が現れていた。
 檀州側の官僚たちは主に宋江と柴進が応接したが、後周世宗の直系たる柴進の名の威力は絶大であった。
 柴進の身分を知ると、漢人たちの間に大きな感嘆の声が上がった。
「わしの先祖は、柴世宗様の時に代州から連れてこられたのだ」
 老人たちは喜び、柴進に向かって手を合わせる者もいた。

 庭を見渡す回廊の亭には、正堂に入らなかった頭領たちが思い思いに酒を楽しんでいた。
 空からは、ちらちらと淡い雪が降っている。
“聖手書生”蕭譲はいつも懐に紙と矢立を入れている。天下の能筆家には絵心もあり、紙の上にさらさらと美しい模様をいくつか描いた。周囲にいた頭領たちが、紙を覗きこみ首をかしげた。酒を注いで回っていた孫二娘が尋ねた。
「綺麗だねぇ、なんの模様なの」
「これは雪の形です」
 蕭譲は舞い散る雪を筆で指した。
「雪の形には、一片から六片の角があるものまで種類がある。それぞれに名前があり、五片のものは梅花、六片を六出──冬から春に移る頃には、六出のものはなくなります」
 楽和が庭に出て、袖で雪を受けた。黒地の上に、雪の結晶がはっきり見えた。ほとんどが五片の雪で、たまに六片のものがあっても、角が半分しか出ていなかった。
「本当だ。もう、冬は終わりだ」
 李逵が体を乗り出した。
「おいらにも見せろ」
 李逵は楽和の袖を覗き込んだ。
「なんだ、何も見えねぇぞ」
「あんたの鼻息で溶けたんだ」
 楽和が怒って袖を振った。李逵は自分で雪を掴もうと、腕を伸ばして駆け回る。
 そんな様子を、燕青は回廊の手すりに腰かけ、一人離れて眺めていた。
 官軍の暮らしにも、慣れてきたような気がする。
(こんな暮らしも、悪くはない)
 燕青は手を伸ばし、雪のひとひらを受け止めた。








 洞仙侍郎を守って逃げた咬児惟康らは、雪の原野に友軍と合流した。
 洞仙侍郎を中心に咬児惟康と楚明玉、やがて、東門から脱出した曹明済の軍が落ち合った。曹明済は、張清の礫に討たれて落馬した耶律国宝を伴っていた。国宝は、戦場を朦朧として彷徨っているところを救われたのである。
 兵は、檀州と耶律国宝の軍を併せても、二千五百騎あまりしかいなかった。漢人の兵の多くは投降したと思われた。
 彼らは、まず阿里奇と同じく行唐県に向かったが、城壁には秦明軍の掲げる『宋』の旗が翻っていた。
 檀州軍はすぐさま馬首を返し、敵に見つからないよう十分に城から離れた雪原の岩影に身を寄せた。
 火もたかず、暫時の休息をとった。契丹人はしばしば何日も野営して狩りをする。みな野外の暮らしには慣れていた。
 楚明玉が耶律国宝に、気になっていたことを尋ねた。
「阿里奇将軍は古北口まで到達したのでしょうか」
 しかし、阿里奇の姿は軍中になかった。国宝は、雪原で阿里奇と遇ったこと、行軍中に意識を失い、そのまま返らぬ人とたことを告げた。
「阿里奇将軍の魂は、黒山神に連れられて黒嶺へ還られた」
 契丹人は黒嶺に黄泉の国があると信じ、皇族の墓地もその山に造られる。
 楚明玉たちは国宝に向かって畳手した。
「殿下の兄君の魂も、黒嶺へ戻られたでしょう」
 国宝は頷いた。しかし、ゆっくりと死者を哀悼している暇はなかった。楚明玉がさらに尋ねた。
「古北口に駐屯しているはずの殿下が、なぜ南下を?」
「我々は、春に天寿公主の婚礼を行うと招待状をもらっていた。婚礼の前に、燕京に着こうと、雪をおしてやって来たのだ」
 遼朝の有力な皇子たちは各地に封じられて王となるが、諸王の中でも最も重視されているのが燕王──すなわち耶律淳である。
 その一人娘、天寿公主・答里孛は、生来の美貌と快活な聡明さで、遼国の貴公子たちの憧憬の的であった。耶律兄弟も例外ではなく、特に兄の国珍は以前からぜひ妃にと望んでいた。それが突然、素性も知れない兀顔光の拾い子に嫁ぐという。
 咬児惟康は兄弟の意を察したが、気になったのは別のことだった。
「では、婚礼が延期になったことをご存じないか」
「延期とは、いや、初めて聞いた」
「南下して太原を攻略せよとの勅命があり、燕王が帥を起こされたではありませんか。舅となる兀顔大将軍が率いて出征されている、婚礼は凱旋後になるでしょう」
 国宝の顔に疑念が浮かんだ。
「皇帝陛下は、そのような御命令は出されておらぬ」



 みなの顔に、驚きと、濃い疑念が現れた。
「燕王より大規模な略奪を行うため、兵を集めたい──という奏上があり、それをお許しになっただけだ。その時、私は朝廷にいたのだから間違いはない」
 咬児惟康が膝を叩いた。
「やはり!! 宋国軍が突然に北辺の檀州に現れるなど、奇妙だと思ったのだ。内部に裏切り者がいるに違いない!!」
 すぐに楚明玉が反駁した。
「口を慎まれよ、内応などありえぬ。兵や物資の不足も、燕王の“遠征”のせいではないか。燕王は契丹の皇族だ」
「燕京の宰相は漢人だ。信用できぬ」
 洞仙侍郎が、無言のまま立ち上がった。みなが口をつぐんだ。
 彼は考えの周到な人物だった。長く宮廷で天子の側近くに仕え、複雑な情況を把握し、柔軟に対応することに長けていた。
「国土は広い。慎重に計画し、万全の準備をすれば、冬季のこと。宋国軍が密かに行軍することも可能であろう」
 穏やかに発したその言葉は、将士の動揺を抑えるためだ。
 彼自身、おかしいと直感していた。
 おかしいと感じることは、必ず、本当に何かおかしな事が起こっているのだ──と経験から知っている。
 燕王の件は、政争の臭いがする。陰謀だ。どことなく、女の影を感じる。
 洞仙侍郎は判断を下した。
「薊州へ向かう」
 城を失った契丹人たちは、陰鬱な表情のまま馬に乗った。

 薊州は、檀州の東南に位置する城市である。
 三つの県を統括し、檀州よりもやや大きい。治めているのは、耶律得重。皇帝の弟である。漢化した皇子だが、その息子と将軍たちは優れた武人として知られていた。
 檀州軍は敵に見つからぬように荒野を選んで、星空の下に馬を馳せた。
 そして、夜明け。
 彼方の地平に、薊州城の影が薄く見えた。遠目のきく咬児惟康が指さした。
「あれを見よ!!」



 朝焼けの空が黒い。
 薊州城内に火の手が上がり、空が漆黒に煙っているのだ。
 部隊を止め、すぐに斥候を放った。
 やがて、駆け戻ってきた斥候は、蒼白だった。
「宋国軍──梁山泊です!!」
 それ以上、なんの情報ももたらさなかった。斥候は薊州城外に『宋』の旗を認めるや、すぐさま馬首を返して駆け戻ってきたのである。
 それ以上の情報は、必要なかった。
“梁山泊”。
 その名は、すでに遼国軍にとって恐怖の代名詞となっていた。





 檀州を取った梁山泊軍は、宴の酔いも醒めぬうち、再び進軍を開始した。
 彼らが目指したのは、檀州の東──薊州である。
 すべてが呉用の指示の下に、冷静に、迅速に行われた。
 檀州には、行唐県を守っていた秦明がそのまま一万の軍を率いて入り、柴進とともに残留した。李雲と陶宗旺も残り、凌振の火砲で破壊された城壁の修理を始めていた。
 檀州を出た梁山泊軍は防備の手薄な東回りの道を選んで薊州へ急行し、間髪入れずに三万の軍勢により総攻撃をかけたのである。
 不意打ちの戦であった。各都市間の情報が途絶える冬季だからこそ可能な戦法である。
 城内に上がった火は、明るさを増していく。火をつけたのは、石秀と時遷である。二人は、先日の狩りの獲物を手に猟師に変装し、先んじて薊州城に潜入したのだ。石秀はかつて薊州の住民であり、時遷もまた契丹の言葉や地理に通じていた。
 未明、二人は城外れの宝厳寺の宝塔に忍び込み、梁山泊の到着と時を合わせて火を放った。この火は梁山泊軍を導く目印にもなり、また城内のどこからも見える。軍民の心に恐怖と絶望を呼ぶだろう。
 空が次第に明け染めていく。
 石秀は塔の上から薊州の街を見下ろしていた。風に火の粉が舞い踊る。



 城壁に囲まれた城内は、いまだ昏い。
 夜明けの闇に沈んだ薊州の街──楊雄と出会った街である。薪売りに身を落とし、楊雄と義兄弟となり、その妻を斬って、梁山泊へ落ち延びた。石秀の運命を変えた街であった。



 飛び散る金色の火の粉の中で、石秀はかすかに笑った。

 金色の朝焼けのもと、戦いは始まった。
 張清は疾走する馬上で遠い炎を見つめている。董平が横に馬を寄せた。
「契丹人が鬼神と恐れる“青頭巾”、元気がないな」
 二頭の馬が並んで馳せる。董平は張清の顔を窺った。張清はいつも涼しげな顔をしているが、その眉がどこか憂いを帯びていた。
「悪い夢でも見たか」
 張清は董平の顔を一瞥すると、無言のまま馬腹を蹴った。馬がぐっと速度を上げ、薊州の城壁が眼前に迫る。城壁の上では、敵に気づいた歩哨たちが駆けている。櫓から矢が放たれた。
「避けろ!!」
 張清は素早く体を倒して矢をよけた。城門が押し開かれ、敵軍が討ちだしてきた。張清は槍は鞍にかけていたが、素手だった。敵は油断して突っ込んでくる。礫を放つと、先頭の敵兵は自分でも何が起こったか分からぬうちに、馬上から叩き落とされた。

 薊州の眠りは一瞬にして覚まされた。
 夜明け、城門が開くと同時に城中に火の手があがり、それを合図に梁山泊軍が一斉に各城門を急襲した。
 薊州の遼国軍は、すぐには状況を把握できなかった。
 いまだ寝台にいた耶律得重のもとに、四子の宗雲、宗電、宗雷、宗霖が駆けつけてきた。敵襲──と判断し、すぐに総大将である宝密聖、副将の天山勇の二人が兵を分け、西門から迎撃に出た。
 天山勇は槍をしごいて敵前へと躍り出た。
「何者か、どこの軍だ!!」
 大音声で呼ばわった髭面めがけ、矢が飛んだ。それを槍でさっと払った。
「我が薊州を襲うとは、いい度胸だ!!」
 馬上にぐるりと槍を回した。城壁に燃やされた篝り火が、その髭面を真っ赤に照らす。戴宗が小手をかざして、身を乗り出した。



 かつて、戴宗は行方不明となった公孫勝を探して薊州を旅したことがあった。髭面の将軍は、その時に出会った遼国の将軍だった。初めて見たのは飲馬川で、討伐軍を率いて登飛、孟康らを相手に戦っていた。楊雄、石秀と出会った後、薊州の酒楼で再び遭遇し、その時は危うく山賊の一味として捕らえられるところだった。
(ご縁のある奴らしい)
 戴宗は声を上げた。
「油断するな、手強いぞ!!」
 今しも、徐寧が天山勇に討ちかかっていく。両軍の先鋒はすでに混戦になっていた。
「気をつけろ!!」
 戴宗が叫んだ瞬間、天山勇から弩の矢が放たれた。弩は号して“一点油”。油のごとく漆黒で塗り上げられた弩は、遼帝より恩賜の宝器である。甲冑を胸から背まで射通す威力を持っていた。
 徐寧はそのまま駆け続けた。“金鎗手”徐寧が身にまとうのは、徐家伝来の“賽唐猊”である。徐寧は甲冑の肩に矢を受け、金色の火花が散った。腕が痺れるほどの衝撃だった。
 鈎鎌鎗と槍が交わる。通常は歩兵が使う鈎鎌鎗だが、騎兵を主とする遼軍には有効な武器だ。徐寧は天山勇の馬を狙った。

 同じ頃、李逵は両手に板斧を握り、宋江率いる歩兵部隊を先導していた。敵の主力が西門に集中している間に東門を奪うのだ。
 李逵は手当たり次第に敵を斬り、宋江の進む道を作った。項充、李袞、そして鮑旭が李逵の周囲を固めている。李逵は城門を奪う命令を受けたが、戦いになれば敵兵しか見ていない。やがて、その敵兵すら見えなくなるのが李逵だった。
 しかし、今、李逵にもひとつだけ見えているものがあった。
 彼らの国。宋江の国──“梁山泊”。次々と城を奪って、宋江兄貴を天子にするのだ。
 遼国の兵士たちが逃げていく。李逵は城門を突破し、そのまま城に駆け込もうと斧を掲げた。城門兵たちが悲鳴をあげる。逃げ遅れた兵の首が飛んだ。



 宋江の声が響いた。
「李逵!! 次は北門を奪うのだ!!」
 宋江は采配で北を示した。
「よし!!」
 李逵は馬に飛び乗ると、北門へ向かって駆けていった。

 薊州西門外の戦いは、なお激しさを増していた。梁山泊軍は、薊州軍の予想を越える数だった。
 薊州上将・宝密聖は、漢人と契丹人の混血である。巨人と言っていいほど異様に上背があった。腕も長く、槊を馬上に振り回せば容易に近づけるものではない。関勝軍は巧みに動いて、まず宝密聖と配下の兵を分断した。関勝と林冲が孤立した宝密聖を左右から襲って動きを封じた。
 その隙に呼延灼軍が前進し、西城門を占拠した。すぐさま宝密聖は城門へ取って返そうとした。その虚を衝いて、林冲は宝密聖の槊を撥ね飛ばし、返す刃で馬上から袈裟懸けに斬って落とした。
 副将の天山勇は、いまだ信じられなかった。
 薊州軍はすでに部隊を寸断され、包囲されている。城門は奪われ、これからは城内が戦場になるだろう。眼前の敵、徐寧を見据えた。
(なぜ宋国が……!!)
 油断していた。
 宋国は脆弱だと思っていた。毎年、言いなりに歳弊を届けてくる。国境を略奪しても、文句も言わぬ。
(それが、なぜ)
 夢ならさめよ。天山勇は歯がみした。梁山泊軍は西の城門から、嵐のように薊州城に突入していく。

 梁山泊軍は宋江の命令により、一万の歩兵だけが城に突入した。
 その他の兵は城外で薊州軍を制圧する。宋江は、城内での戦闘を最小限に止めようとしたのである。
 城内では、耶律得重と四人の息子が州府のある区画を取り巻くように布陣していた。
 役所や寺院などが集まる、薊州の心臓部である。その一角に、多くの住民が逃げ込んでいた。老人、子供、荷物を背負った女たち、悲鳴が夜明けの街にこだましていた。
 城内の大小の街路は、州府を中心に網の目状に交差している。開けた州府前の広場には、耶律得重が陣取っていた。州府を巡る壁の四つ角にあたる辻には、その四子がそれぞれ手勢を率いて布陣した。
 その布陣を見て、朱武は唸った。
「“五虎靠山”か」
 薊州城内に残る軍は五千に満たない。しかし、この陣形ならば数倍の敵を相手に戦える。籠城戦と同じ理屈で、前面から来る敵を防げばいいだけだ。もし援軍があり、背後から襲われれば、梁山泊軍は袋の鼠となる。役所内の楼閣から、四方に救援を請う狼煙が上がった。漆黒の煙が夜明けにまっすぐ登っていく。
 朱武にとって、“五虎靠山”を破るのは簡単なことであった。凌振に火砲を打ち込ませればいいだけだ。もしくは火矢を放って、彼らの寄る“山”である州府を焼いてしまえばいい。
 しかし、州府には住民たちが多く逃げ込んでいる。
『敵の城を落とすにあたり、一人の住民も殺してはならぬ』
 宋江の命令が、なによりの“難敵”であった。
(しかし、不可能ではない)
 朱武は采配がわりの払子を握った。
 籠城する敵を破るには、少なくとも三倍の兵力がいる。今、城内に入った梁山泊軍は歩兵一万──それが、動かせる兵力のすべてである。
「“長蛇変鯤化為鵬陣”!!」
 朱武は払子で空に円を描いた。
 歩兵部隊は、すぐさま千人ずつ五隊の“鵬軍”と、五百人の“鯤軍”を成した。それらが一匹の蛇のように連鎖して、州府を鉄桶のごとく包囲して攻めかかった。
 敵が弱ければ“鯤軍”で攻め、強ければ集まって“鵬軍”を成して襲う。頭が押されれば尾が励まし、腹が討たれれば頭尾が助ける。
 小さい陣が大きな陣へ自在に変化し、互いに呼応して敵に当たる。長蛇之陣と鯤化為鵬陣を併せた布陣は、市街戦のために“神機軍師”朱武が編み出したものである。
 一万の梁山泊歩兵は、朱武の期待に見事に応えた。
 対する薊州の四人の皇子も、魯智深、武松らを相手どり、勇敢であった。しかし、次第に梁山泊歩兵の勢いに押され、やがて州府の中へ撤退を余儀なくされた。皇子らは役所の中に溢れる難民をかきわけて、正門前の耶律得重のもとへ集まった。正門は劉唐と雷横が攻めていた。耶律得重は障壁を築いて防戦に努めていたが、もう矢もわずかしか残っていない。
 耶律得重は陣後方で剣を抜き、最期の突撃の時を待っていた。父を見た息子たちが口々に叫んだ。
「父上、ともに脱出を!!」



 五人の父子は“五虎靠山”の陣を解くと、障壁を押し開き、残った兵とともに一丸となって討ちだした。
 劉唐が雷横に合図を送った。梁山泊軍は、わざと崩れたと見せて道を作った。
 梁山泊軍は薊州城戦においても、あえて退路をもうけていた。契丹人を逃がすためである。城内に残っても、彼らは統治した時に混乱のもとになる。
 楊林が物陰から契丹語で叫んだ。
「南門から逃げられるぞ!!」
 声は何度も空に響いた。

 南門では、扈三娘ら女将とその夫たちが城門を攻め取っていた。扈三娘は城門を大きく開かせた。住民も兵も続々と南門から逃げ出していく。
 宋江は追撃を命じていない。北の道から、耶律得重が四子とともに馬で駆けてくるのが見えた。王英が扈三娘を呼んだ。
「敵の大将らしいのが来たぞ!!」
 あたりには住民がごったがえしている。扈三娘は転んで泣き叫ぶ契丹の子供を抱き上げた。
「ここで戦ってはだめ、城から出すのよ!!」

 空は、もう明け始めている。
 南方の雑木林で待つ盧俊義のもとに、偵察に出ていた石勇が現れた。
「皇弟が来た」
 盧俊義は一部隊を率いて、耶律得重を待っていた。宗雲、宗電、宗雷、宗霖が、林から飛び出してきた敵に気づき、四方から盧俊義に襲いかかった。盧俊義の馬が躍り、次の瞬間、槍の一撃が末子・宗霖の首を打ち落とした。
 呉用は、耶律得重だけは捕らえるように命じていた。遼国皇帝の弟は、遼国と交渉する時、最高の人質となる。州府の正門は南大路に向いている。耶律得重を南門から逃すのは、初めから計画されていたことだった。
 耶律家の残る三皇子、宗雲、宗電、宗雷は父を守りつつ敵中を突破しようとした。手勢は四、五百余りしか残っていない。騎兵と歩兵、さらに脱出した官僚や女官たちが入り交じっている。
 梁山泊軍はその進路を塞いだ。燕青が耶律得重の護衛を斬り伏せ、盧俊義が耶律得重に迫った。父を守ろうとする三子を相手に、楊林が筆管槍を振るう。白勝も夢中で援護した。敏捷な侯健は敵兵の間を縫って接近し、耶律得重の馬に針を飛ばした。棹立ちになった馬から耶律得重が放り出された。梁山泊軍の兵たちが縄をもって殺到していく。
「それ、捕まえろ!!」
 そこへ、西方から突入してきた新たなる軍勢があった。
「薊州軍を援護せよ!!」
 咬児惟康の声が響いた。地平に上がる黒煙を見て、薊州城へ急行してきた檀州軍が到着したのだ。楚明玉が槍をふるって突進する。
「皇弟陛下を救え!!」
 一千の檀州軍が乱入した。耶律得重の長子・宗雲の顔が喜色に輝く。
「父上、援軍……」
 言い終わる間もなく、燕青の弩が耶律宗雲を馬から射落とした。
 その時、梁山泊軍からも援軍が到着した。西城門攻略にかかっていた軍勢が、檀州軍に気づいて急行してきたのである。梁山泊軍は各部隊間に戴宗、王定六ら伝令を交わし、緻密に連携をとっていた。
 梁山泊軍は勢いづいていた。まるで嵐のようだった。燎原の火のようだった。
 索超と史進は、先を争い馬を馳せた。飛ぶように駆け、まっしぐらに敵に襲いかかった。金燦斧が咬児惟康の脳天を割った。
 史進も側面から檀州軍の中に飛び込んだ。史進は叫んだ。
 ずっと、身の内に押し込められていた力がある。渦巻いたまま出口を失った感情がある。去っていった王進、失われた梁山泊、高求を殺せなかったこと。史進の中に極限まで充満していた煮えたぎるもの、すべてが今、この原野に解き放たれた。



 馬が飛ぶ。
 史進の三尖両刃が楚明玉を貫いた。返す刀で曹明済を切って落とした。史進は次の敵を探した。最も大きな敵がいい。
「耶律得重はどこだ!!」
 史進は薊州長官、遼国王の弟たる耶律得重を求めて戦場を駆けた。

 檀州軍の出現による一瞬の隙に、耶律得重は息子らとともに西南の道へ逃れた。その前へ、軽捷を誇る梁山泊八驃騎、“没羽箭”張清の軍が立ちふさがった。涼やかに馬を走らす張清、その横には共旺、丁得孫の二虎が従う。耶律得重を守る檀州兵から、悲鳴のような声が上がった。
「青い頭巾の男だ!!」
“撒刺”阿里奇を殺し、皇甥・耶律国宝を打ち落とした男である。不思議な技に倒れた兵士は数知れない。
「青頭巾だッ!!」
 遼兵たちは鬼神に出会ったように絶叫し、算を乱した。
「魔法を使うぞ、気をつけろ……!!」
 混乱する中から宗電と宗雷の兄弟が飛び出した。四兄弟中、勇猛さを競う兄弟である。鉄骨朶と狼牙棒を武器としていた。彼らはすでに兄と弟を失っている。全身に殺気を帯びていた。
 耶律得重が追撃されているのに気づき、天山勇も援護に向かおうとした。その道を、徐寧が阻んだ。鈎鎌鎗を横たえて、徐寧は天山勇に呼びかけた。敵軍中、この男の武芸が最も優れていると見抜いていた。しかし、一人の武勇がいかに優れていようとも、もう薊州は落ちたも同様であった。
「投降せよ、お前も同じ漢人ではないか!!」
「宋の恩恵は受けておらん。わしは、ひい祖父さんの代から遼国の人間だ」
 天山勇は弩を徐寧に向けると、鋼鉄の弩矢を射放った。徐寧は辛うじて鞍に伏して矢をかわしたが、天山勇の持つのは連弩であった。次々と矢が襲い来る。
 この弩“一点油”は、十余年前の春の捺鉢(ナボ)で、天山勇が遼皇帝から手ずから賜った品である。
 遼国には、春に燕京郊外東南九十里の郭陰県に皇帝が狩りする習わしがある。海東青を放って、鵞鳥を狩るのだ。鷹が群の主を地面に落とすと、居並んだ者が争って鵞鳥を捕らえ、錐でその脳を抉って鷹に与える。鵞鳥を得た者は勇士として、皇帝から特別に賞される。天山勇の生涯に、燦然と輝く栄誉であった。
「わしの国は遼だ!!」
 天山勇は一鞭して馬を躍らせ、徐寧を振り切って耶律得重の援護に向かった。行く手に、皇弟に迫る青い頭巾の男が見えた。
 天山勇は“一点油”に矢をつがえた。

「“皇弟”耶律得重を捕らえろ!!」
 索超が、史進が、そして、盧俊義、燕青が、みなが耶律得重を追っていた。
 張清は馬腹を蹴った。駆けながら礫を手にした。距離はある。しかし、礫を投げる時、張清には遠い敵もすぐそばにいるように見えるのだ。
 空には曙光、西方に最後の星がきらりと煌めく。
 張清は礫を構えた。
 その時、張清は風を聞いた。哀しいような、細く、鋭い風音だった。
 次の瞬間、張清の動きが止まった。
「──張清!!」



 董平の声が戦場に響いた。
 張清の体が傾き、ゆっくりと鞍から落ちていく。その首を、一本の矢が貫いていた。

※文中の「高求」は、正しくはです。
※文中の「火眼俊猊」は、正しくはです。
※文中の「登飛」は、正しくはです。
※文中の「金燦斧」は、正しくはです。
※文中の「共旺」は、正しくはです。
※文中の「郭陰県」は、正しくはです。




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