水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第八十二回
陳橋之変・前篇


 秋が深まるとともに、空は次第に遠く、高くなる。
 しかし、この中国風の宮殿の中では、あまりそれを感じることはない。
 城壁は高く、高楼が密集して、空は小さい。
 天寿公主──燕国王の末娘・答里孛は、自分の小宮殿で目覚めた。
 目覚めは、あまり良くなかった。
 最近、いやな夢ばかり見る。しかし、今日の夢は少し違った。二羽の燕が、空のずっと高い所を飛んで行く夢だった。地上から燕を見ているようでもあり、自分が飛んでいるような気もした。吹きつける冷たい風と、透明な光を感じた。
 悲しいような、寂しいような、それでいて、どこか見知らぬ場所へ旅立つような──不思議な夢。
 目覚めると、いつもの小宮殿の、見慣れた寝台の中だった。侍女たちが開け放していく扉から、わずかに遠くの空が見えた。
 幽州燕京。



 正式の名を南京析津府と呼ばれる、遼国の需要な京のひとつである。この城市を中心として、彼女の父、燕王は燕雲十六州の地を治めているのだ。
 唐代風の華やかな宮殿、その贅を尽くした後宮の中でも、最も可憐に飾られた一区画が、天寿公主・答里孛の小宮殿だった。庭には花が咲き乱れ、小鳥が飛び交う。
 部屋の中もまた、花園のようだった。卓にも壁際に並んだ衣架けにも、絹の衣装や靴、魚形の佩玉や黄金の首飾りが所狭しと並べられている。大将軍・兀顔光の長子、兀顔延寿との婚礼の支度が進んでいるのだ。
 そのことを考えると、不機嫌な姫君の顔にも笑顔が浮かんだ。
 答里孛は寝台から飛び下りると、裸足のまま踊るような足取りで部屋を横切った。新しい衣装に触れ、髪飾りを見つめ、首飾りをあてて鏡を覗いた。そして、ふと立ち止まると、部屋を見回し、長持ちを開け、棚を探した。
「なぜないの?」
 美しい眉が曇った。
「わたしの綾絹はどこ?」
 先日、国都の宮廷から届いたばかりの絹がなくなっていた。宋国の絹だった。遼国では絹を産しないため、毎年、宋国から貢ぎ物として送られてくる絹が珍重されていた。
「その中から、婚礼衣装を作るように──と、帝が一番いい絹地を贈って下さったのよ。あの絹はどこにあるの?」
 残っているのは、中等の布地ばかりだ。侍女たちはみな身をすくめ、俯いている。
「また、あの人が横取りしたのね」
 答里孛は手にした布を投げつけた。
「あの──魔女!!」





 燕京の西郊外に、五万の軍勢が集まっていた。
 平原に、秋草が豊かに繁っている。祭祀を行う場所だった。平原の中央には小高い丘があり、たくさんの白い幡がたなびいている。
 答里孛は軍装に身をかため、剣を手にして馬から降りた。その肩に、一羽の鷹が舞い降りた。北方に産する、海東青と呼ばれる鷹である。
「“抜都魯”」
 鷹の名を呼び、答里孛は艶やかな翼を撫でた。“抜都魯”──バートルとは戦士の意味で、去年の誕生日に父親から贈られたものだ。契丹人は尚武の民で、女子も戦う。女の身であれど強く──というのが、父の願いだ。



 燕王は丘を臨む玉座に腰掛けている。すでに齢は還暦近いが、耶律一族の重鎮であり、文武に優れた英雄であった。しかし、最近は病が多く、往年の気力も衰えたように見えた。
(父王は、また白髪が増えたわ)
 答里孛は父の身を案じたが、あえて側には近づかなかった。
 草原に太鼓が乱打されていた。
 郊外の平原で出陣の儀式が行われるのだ。丘の周囲に、儀仗兵たちが契丹式の畳手をして並んでいる。やがて、九人の青衣の娘たちが丘の上に現れ、灰色の杭を巡るように舞いはじめた。両手を鳥のように広げ、緩やかに舞う。娘たちの衣装を見た答里孛の顔が変わった。軽やかにひるがえる衣は、婚礼用の絹で作ったものだった。
 太鼓が激しくなった。大地を揺るがすように轟き渡る。
 そのただ中に、もう一人、純白の衣装の女が弓を持って現れた。太鼓はさらに激しく、速度を増していく。女は髪を振り乱し、断末魔の鳥のように旋舞する。その衣装の絹もまた、答里孛の部屋から持ち去られたものだった。
 契丹人にとって、白は神聖な色である。
 白衣の女は、巫女であった。
 答里孛の王妃であった母が亡くなって久しいが、近年になって、この漂泊の巫女が燕王の寵を得た。蕭輝と名乗っているが、何人なのか分からない。契丹貴族ではないし、漢人のようでもなかった。かといって、女真人などでもない。
 巫女は薄絹で顔を隠しているが、楊貴妃のごとき美貌だと噂されていた。
「ならば、傾国ではないか」
 答里孛の隣で、老宰相の諸堅が苦々しげに呟いた。胸まで達する白髯をたくわえた諸宰相は、漢人である。
 巫女が楊貴妃ならば、燕王は玄宗ということになる。父親の名誉のために、答里孛は老宰相の言葉に頷きはしなかった。しかし、巫女が宮廷に入って以来、父親がすっかり変わったのは事実だった。
 それまで末娘の彼女を誰より可愛がってくれたのに、今は巫女の言いなりになり、王妃のような振る舞いまで許している。病がちになったのも、気力が衰えたのも、巫女が身辺に侍るようになってからのような気がする。
(疫病神、今に宮廷から追い出してやるわ)
 黄金の剣を強く握った。その背後から、微笑むような声が聞こえた。
「こわい顔をしていますよ」



 振り向くと、婚約者の兀顔延寿と、彼の父親である大将軍・兀顔光が立っていた。
 答里孛は頬を染めた。
 兀顔延寿は、すべてを包み込むように微笑んでいる。
 白馬に乗って降ったという伝説の天人も、このように美しく、強く、優しかったのかしら──と、答里孛はいつも思う。兀顔延寿は優美で優しく、兀顔光大将軍はその名のごとく光り輝く髪をして、優雅で雄々しい。
 兀顔家は契丹の北に遊牧していた草原最強の部族・黄頭室韋の貴族であり、この父子は、燕京はおろか、遼国の朝廷でも一目置かれる存在だった。
 ただ、“小将軍”と尊称される延寿は将軍の実子ではなく、養い子である。
 兀顔光がある吹雪の翌日、草原に行き倒れていた旅商人の子供を助け、その容貌の美しいのと聡明なために、引き取って育てたものだ。
 その時のことを、答里孛もよく覚えている。
 父親や兀顔光将軍と共に狩りに行き、雪に埋もれた少年を見つけた。一緒にいた母親は赤い斗篷に息子を包みこみ、抱きしめたまま息絶えていた。少年は兀顔光の屋敷に引き取られ、やがてその養子となった。
 父親同士が婚約を決めたのは、その二年後のことだった。
 もっとも、それまでに二人はしばしば宮廷や狩場で顔を合わせていた。延寿は契丹の若者とも、漢人とも違った。
 商人の子で、契丹と女真と漢人の混血というから、不思議ではない。何代にもわたって行く先々の女を妻にすれば、どこの民とも分からない子供ができる。その上、延寿は騎射に優れ、学問もあり、三つの国の言葉を話せた。
 答里孛には、延寿は伝説の天人そのものだった。
「そういえば」
 ずっと本当の名前を聞いたことがなかったことに、気がついた。しかし、尋ねる間もなく、南方の地平線に早馬の旗が現れた。国境からの伝令だった。
「宋軍が我が国に向けて出陣準備を整えております」
 伝令の言葉に、諸宰相が尋ねた。
「して、数は」
「間者の報告によれば、帰順した梁山泊軍およそ三万」
 兀顔光は精悍な目を南方へ向けた。
「恐るるに足らぬ」
 梁山泊という賊が招安を受けたことは聞いている。宋は山賊を使い、彼らの略奪を防ごうというのだろう。これから冬だ。北方の気候に慣れない軍は行動できない。宋軍は国境付近をうろつくのが関の山だ。
 燕王が頷いた。傍らには巫女が寄り添っている。
「出陣は、予定どおり行う」
 巫女がさっと手を挙げた。
「生贄を!!」
 目隠しをされた死刑囚が引き出され、頂上の杭に縛りつけられた。
 契丹族の出陣の儀式、“射鬼箭”が始まるのだ。
 生贄は、捕らえられた漢人の間諜だった。
 巫女が弓を満々と張り、最初の鏑矢を射た。悲鳴のような音が響き、生贄の心臓につき立った。続いて兵士たちが次々に鏑矢を放つ。契丹人は天を祀り、鏑矢は神聖な矢だ。鏑矢の音は、天まで彼らの希みを届ける。
 生贄は針鼠のようになり、すぐに死体は見えなくなった。
 再び太鼓が乱打を始め、巫女たちが杭を取り巻き恍惚として舞いはじめた。
 答里孛は顔をそむけた。
“射鬼箭”は、何度見ても、いやなものだ。
 契丹人は敬虔な仏教徒であり、漢の風俗も浸透しているというのに、なお契丹古来の伝統を多く残していた。
 巫女が、答里孛へ手をさしのべていた。
 遊牧民の習慣では、未婚の少女もまた神聖なものだ。答里孛は仕方なく進み出ると、すでに絶命した生贄に向け、最後の鏑矢を射た。
 結婚すれば、こんな役目もしないで済む。延寿との結婚が、彼女のすべての希望であった。
 先遣部隊が続々と出陣していく。
 諸堅が兀顔光に拱手した。
「この戦は、長くなりますな」
 契丹の風習では、胸の前で掌を重ねる畳手を正式な礼とする。しかし、漢人宰相は頑に漢の風習を守っていた。
 兀顔光も、誰もそれを咎めない。北方の草原には、あまたの民族が入り乱れている。自然と、互いの習慣を受け入れる気風があった。
 朝日に黄金の兜を輝かせ、兀顔光は馬上の人となった。



「遼帝がついにご決断なされたのだ。失敗は許されぬ」
 常には穏やかなその顔が、猛禽の精悍さを帯びていた。翼を広げ、地上の獲物へ舞い降りる一瞬の目の鋭さで、南方の空を望んだ。
 いつもの略奪ならば、こんな儀式も、大がかりな軍勢も必要ない。
 兀顔大将軍が出陣する必要もない。
 これは、いつもの“略奪”ではない。
 最後にして、最大の“略奪”──宋国そのものを奪う、その大いなる戦いの始まりなのだ。
 宋国には、いつものように国境地帯を略奪すると思わせておく。近年、たびたび国境を侵していたのも、今回もまた略奪だと油断させる布石であった。
 彼らの本当の目的は、代州から忻州経て西南方面へ進み、宋国の太原府を攻略することだ。太原は山西地方の要害であり、華北攻略の拠点にするにも、やがて開封を襲うにも最適な地盤となる。
 遼国は、後方を新興の金国──女直人の国に圧迫されている。宋が約定を破り、その金国と通じているという情報もある。その機先を制すのだ。太原節度使“薬師”徐京の軍勢が、先の梁山泊討伐で相当な打撃を受けたことも好機であった。
 分散して南下する各部隊の総司令官として、兀顔光が作戦の総指揮を執る。兀顔光は馬上から息子を探した。養い子は立派に成長し、頼もしい副将となった。
 兀顔延寿は、恋人に別れを告げた。
「行かなければ」
 行こうとする延寿の手を、答里孛が強く握った。
「戦が終わったら、結婚式よ」
 兀顔延寿は頷いた。
 燕王が巫女とともに出陣を見守っている。その背後に、太極に似た不思議な図柄の旗が翻っていた。太極図の中に、白地には黒、黒地には白の二羽の鳥が描かれている。
「あの旗は……?」



 兀顔延寿は眉をひそめ、腰に吊った革袋に手をやった。飛刀を入れた革袋には、同じ太極の紋様が刺繍されていた。

 白衣の巫女は、蒼穹に翻る旗を見上げた。
『陰陽飛燕図』
 ずっと秘められてきたこの旗は、やがてこの天下に満ちるであろう。
 この旗こそ、七百年にわたる一族の悲願の象徴であった。
(我らの国──燕国よ)



 巫女の目は、爛々と輝いていた。
 蕭輝とは、仮の名である。彼女の本当の名は、慕容嫣輝──かつて、宋国皇帝の後宮にあっては、慕容貴妃と呼ばれていた。
 すでに死んだはずの女であった。
 かつて渤海のほとりに栄えた燕国、その皇帝の末裔である。兄・慕容彦達とともに祖国の復興をもくろんだが、露顕し、謀叛人として死を賜った。しかし、かつての寵愛を顧みた天子の温情により一死を免れ、北方辺境の寺に送られて、尼させられた。
 兄はすでに亡く、旧臣たちもすべて殺された。慕容貴妃の名もあらゆる公文書から抹殺されて、朝廷の人々の記憶は薄れた。その機を待って、慕容嫣輝は監視役の尼僧を殺して密かに寺を脱出したのである。手引きしたのは、かつての侍女たちであった。
 彼女らは乞食同然になって燕京へ至った。そして、慕容貴妃はその身につけた美貌という武器により、ついに巫女として燕王を籠絡した。
 そもそも、この北の大地は“燕国”のものであった。この国を足掛かりに、彼女を裏切った宋国を滅ぼす。そして、かつての祖国よりはるかに巨大な“大燕国”をこの地上に顕現させるのだ。
    日あって昼にあらず、月あって夜にあらぬ時
    陽にして陰ならず、陰にして陽ならぬ者こそ至り
    我等の国──復せり
(兄上よ、初めから、この燕京を狙うべきであったぞ)
 出陣していく軍勢を見送りながら、巫女は燕王の耳に囁いた。
「占いのしるしは、大いに吉。天はお喜びになっておられます」
「……すべて、うまく運ぶと?」
「遼の天子にしてさしあげると、お約束いたしましたな。すべて、わらわの申し上げる通りになさればよいのです」
 燕王は操られるように頷いた。
「ただひとつ、王よ。ご注意なされませ」
 巫女は薄絹の下で微笑んだ。燕王が魅入られた、ぞっとするような美貌だった。
「こたびの戦、その真の目的を──決して、遼帝にも、兀顔将軍にも、気取られてはなりませぬぞ」





 軍営の轅門の傍らで、呉用は一株の槐を見上げていた。
 古い木だ。数百年の樹齢があるだろう。節くれだった幹、天に枝を広げる梢──しかし、すでに老境に入った木である。
 遼国への出陣を命じられた梁山泊軍は、開封の北方、陳橋と呼ばれる場所に駐屯の場所を移していた。交通の要衝であり、古くから北方に出陣する軍が駐屯する。輸送や通信の基点となる駅亭があり、陳橋駅とも呼ばれていた。
 その軍営のはずれにある古木である。
 呉用の後ろには、杓児がついて歩いていた。あの戦以来、杓児はもう偉い将軍になりたいとは思わなかった。なれるとも思わなかった。この頃は、呉用が持っている史書を片端から読んでいた。呉用は蔵書のすべてを梁山泊で失ったが、新たに各地の書肆から史書や地理志を大量に取り寄せていた。
 秋も深まり、風がだいぶ冷たくなった。戻ろうとすると、軍営の方から小魚が槍をかついだまま小走りにやって来た。



「呉先生、俺を騎兵に入れて欲しいんだ」
 小魚はいきなり切り出した。
「水軍見習いはやめた。騎兵の、一番強い部隊に入りたい」
 人事を預かるのは裴宣である。裴宣の所へ行ったら、呉用に頼むよう言われたという。呉用は小魚の頑固そうな顔を見た。梁山泊に来てからだいぶ背が伸び、体格もたくましくなった。調練も熱心に受けていると聞いていた。
「それでは、自分で入りたい騎兵部隊へ頼みに行ってごらんなさい」
 小魚の顔が輝いた。杓児が聞いた。
「小狗兄ちゃんも、騎兵になるのかい?」
「いいや、あいつは水軍に入ったよ。船を漕ぐのなんかが楽しいんだってさ」
 そう言うと、小魚は軍営の方へ走っていった。この頃は、大人といる方が多くなり、小狗や杓児とはあまり話さなくなっていた。
 以前の杓児なら、友達に置いてきぼりをくったと思ったかもしれない。しかし、今はもうそうは思わなかった。杓児には杓児で、考えることがあったのだ。
 彼は南竹山の尼寺で生まれた。経文が子守歌だった。お寺では、平和を願う。精神の平安を請う。それなのに、釈尊が悟りを開いて千七百年を経てもなお、地上に争いのない時はない。
 軍営の脇にある調練場から、さかんに武器を撃ち合う音が響いてくる。
 杓児は祈るように呟いた。
「戦をなくすには、どうすればいいんだろう」
 呉用は答えなかった。しかし、呉用ならば、その答えを知っているはずだと、杓児は堅く信じていた。





 出陣の準備に平行し、宋江ら首脳部は連日の軍議を行っていた。
 しかし、攻め込む相手は遼国──異国の地である。今までの戦とはわけが違った。敵情、地理、兵站の確保と、問題は山積しており、容易に作戦が決まらなかった。
 冬も迫り、寒さは日毎に募ってくる。出陣は正月を待ってから──と、兵たちの間では噂されていた。
 軍議に加わらない将校たちは、調練のほかすることがない。招安以来、梁山泊軍には入隊したいと集まった新兵が多く編入されていた。無頼漢や山賊だった者が多い。そのほかに、飢饉のために流民や乞食となった者、税が払えず土地から逃げ出した農民なども多かった。通常ならば、訓練や統制に苦労するが、梁山泊は慣れている。
 調練場の片隅では、新兵の訓練を終えた歩兵頭領たちが集まって酒を呑んでいた。
 焚火にかけられた大鉄鍋には雑炊が煮え、もうもうと湯気を立てている。李逵が杓子を突っ込んで一口すすり、舌を焼いて飛び上がった。腹を立てて怒鳴る李逵を、みなが笑いながら眺めていた。
 施恩はよく煮えた青菜を碗によそった。
「“官軍”になっても、あまり変わりばえしないものだね」
 施恩は先日、故郷から父親の訃報が届き、喪中の身だった。眼帯も白い絹にかえている。
「そうでもないぞ」
 張青は包丁で鍋の縁を叩いた。
「この米、野菜、豆腐も、肉も、それだけじゃない、塩も油も、みんなお上からの支給品だ。書類を出して、いちいち貰わなきゃならん」
 薛永が、張青の言葉に含みがあるのを感じ取った。
「何かあるのかい、張兄貴」
「独り言だ」
 張青は葱を刻み、鍋の中に放り込んだ。劉唐は鍋をかきまわしている。
「兵隊は、戦だけしてろってことだ。陶宗旺は畑を作ることもねぇし、湯隆のふいごも商売あがったり、侯健の針もお役御免……おい、肉がちっともねぇな」
 金大堅は食欲がなかった。酒もあまり進まない。
「また戦か。今度は、遠いぞ」
 梁山泊軍は官軍になったので、今後、印章の類は朝廷から官印が与えられる。彼の彫師としての仕事はなくなり、これからは印章類の管理と、必要とあらば戦闘に加わることになるだろう。
 王定六は元気のない金大堅に、熱い酒を注いでやった。
「実際、江州のほうが遠いサ」
「そうだが、なにしろ“外国”だからな」
 薪を足していた白勝が、首をかしげた。
「それなんだけどよ、“燕雲十六州”は、なんで遼国のものになったんだ?」
 穆春が碗を手に身を乗り出した。玉環がいないと、懐がどうにも寒い。
「それより、ちと聞きたいんぢゃが、『契丹』と『遼』は、同じ国かの?」
「──やれやれ」
 書き物をしていた楊林が、筆を置いた。
 おもむろに咳払いをし、楊林は久しぶりに自慢の喉を鳴らした。
   竜虎、相争うこと 幾春秋
   五代、梁唐晋漢周
   荒廃、風燈明滅のうち
   君かわり、国かわること、伝郵の如し
「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。わたくしが、お教えしましょう」








「さて」
 楊林は契丹族の始めから語り起こし、幾多の騎馬民が草原に興亡を繰り返した様子を説いた。
「かくして、契丹族に英雄・耶律阿保機が現れまして、草原に契丹八部を統一し、柴を燔き、天を祀って天可汗とあいなりました。可汗とは、契丹の言葉で皇帝のこと。耶律阿保機は国名を、“大契丹国”と定めました。そも契丹とは、すなわち賓鉄──鋼のことと申します。その後、次第に国の体裁が整いますと、中華に倣って国名を立派に改め、『大遼国』といたしました。契丹族の故地を流れる、遼河にちなんだ名でございます」
 穆春が豆腐を頬張りながら頷いた。
「なるほど、さすがに“錦豹子”は博学ぢゃのう」
 みな膝を抱えて楊林の話に聞き入っていた。
「では、なぜ件の“燕雲十六州”が契丹族の土地となったか」
 楊林は手にした筆で帳面をぱんと叩いた。
「耶律阿保機が契丹族を統一し、天皇帝となりましたのは、奇しくも朱全忠が唐朝を滅ぼしました、まさにその年。その後、中華は群雄争い、麻のごとく千々に乱れ、数多の国が興っては滅びていきました。この時代を、五代と申します。五代、すなわち 梁唐晋漢周──この中のひとつ、唐朝の将軍であった石敬唐が契丹の後ろ楯で唐を滅ぼし──ややこしいお話ですが、この唐は先に滅びた、玄宗・楊貴妃の唐とは別ですぞ──晋朝を建て、その見返りとして、愚かにも燕雲十六州を契丹に譲ってしまったのでございます」
 李逵が喚いた。
「とんでもないことをしやがる!!」
「いかにも。ここは春秋戦国には燕国と呼ばれた北の辺境。皆様もよくご存じの、風蕭々として易水寒し──刺客・荊軻を送って秦王暗殺を企てたが、あの燕国の故地でございます。暗殺は失敗し、燕国は秦国に併呑され、以来、主は幾たびも替われども、燕は漢人の土地でありました。さらに北、長城の彼方は、荒ぶる騎馬民の土地。漢人は北方の山脈に長城を築き、彼らの侵入を防いできた。長城の彼方にこそあれ防げたものを、石敬唐は一時の利得でやってしまった。これこそ、今に至って漢土を苦しめる災いの源なのでございます。もっとも」
 楊林の肩の小烏龍が、相の手を入れるようにカアと鳴いた。
「因果応報──結局、山西河北一帯を支配した晋朝も次第に勢力を失って、ついには契丹に滅ぼされました。晋の帝は長城の彼方に連れら去れて客死したまい、その後には、新たに漢朝が建って太原に都し、契丹と対峙いたしました。この漢朝に仕えた名将、郭威将軍が自立して建てた国が周、その養い子にして二代皇帝が」
 勿体つけたところに、周通が声を張り上げた。
「知ってるぞ!! 柴世宗、柴栄だ。柴大官人のご先祖だ!!」
「さすが、英雄にはお詳しい」
 楊林はひとつ咳払いした。
   天もし数年の寿をかさば
   座して中原を太平ならしめん
「柴世宗は若い時からたいへん苦労をなすった方で、賢君でございました。内政、外征と、天下統一に理想を燃やし、ついに燕雲十六州の心臓部、幽州燕京を攻めんと親政の途へ登られましたが……嗚呼、天は無情なり。戦場にて病に冒され、三十九歳の若さにて中道に斃れられました」
 みなが口々に「無念!!」と唸った。
「太子はわずか七歳の柴宗訓どの。天下いまだ平らかならず、幼君では心もとなし──と、禁軍の推戴を受け、天子に即位いたしましたのが、殿前都点検──禁軍の長たる趙匡胤、すなわち宋朝の太祖であります。陣営で酔って寝ているうち、部下たちに黄袍を着せかけられ、万歳三唱の声に、なにごとかと目覚められれば天子の身。その場所こそ、まさしくこの陳橋駅」
 楊林はさっと片手を挙げた。
「これを、世に“陳橋之変”と申します」





 その槐の木は、“陳橋之変”の時、趙匡胤が馬を繋いでいた木だと伝えられていた。
 趙匡胤が触れたであろう幹の上に、呉用はそっと手を置いた。 
「回回のおじさんが戻って来た」
 杓児の言葉に、呉用は顔を挙げて轅門のほうへ目をやった。
 段景住は呉用に気づくと立ち止まり、胸に手を当てる回回風の挨拶をした。出陣に先立ち、北辺の地理に詳しい者が何人か、燕雲地方へ情報を探りに潜入していた。
 呉用は段景住とともに本営へ戻った。本営といっても、駅亭の役所の建物を一つ借り上げたものである。
“金毛犬”段景住は、かつて天馬を探して遼国まで放浪していたことがあり、契丹の言葉にも通じている。その報告は詳細だった。
「南京析津府、燕京に兵、集まっている。数は、十万。そのうち、半分、山西地方に侵入している。これほどの略奪、今まで見ていない」
 毎年、契丹人は秋の収穫を狙って侵入を始め、冬の間も更に南下して山西から河北の各地を襲うのが常だった。雪になっても、漢土ならば北の草原に比べて移動はたやすい。しかし、今年はいつになく大規模だ──と段景住は言った。
「兀顔大将軍も、出陣している」
 薊州二仙山で修行した公孫勝も、燕雲地方の状況には通じている。
「燕王は遼朝の長老であり、朝廷内でも大きな権力を持っている。兀顔光は、その懐刀だ。それが略奪を指揮するとは、妙ではないか?」
「今年、遼の本土、雪害で草、育たなかった。食べ物、不足している」
 軍議には五虎将も全員が列席していた。秦明が言った。
「それにしても、あまりに大胆ではないか」
 呼延灼が地図を示した。遼と接するのは、山西、河北。節度使は徐京と王煥である。
「先の梁山泊戦で、節度使軍が疲弊している。それを見越しているのだろう」
 董平は地図に記された開封城を指先で叩いた。
「勢いに乗じ、南下の野望あり──とは考えられぬか?」
 朱武が首を振った。
「いや、契丹は一度、漢地の直接支配に失敗した経緯がある。迂闊には深入りすまい」
 呉用は報告書に目を通している。すでに軍議も大詰めである。朝廷からは一刻も早く出陣するよう催促されている。早急に作戦を決めねばならない。
「宋江殿、どう攻めます」
 宋江は少し考え、地図の一点を指した。燕京のさらに北、ほとんど長城に近い場所である。



「壇州を?」
 花栄が身を乗り出した。
「まず壇州を攻め、周辺の諸都市を制圧しながら南下する──ということか」
 宋江が頷くと、すぐに林冲が懸念を述べた。
「それには兵力が足りぬのではありませんか」
 孫立も慎重だった。
「遼国本土からの援軍に、背後を襲われる心配もある」
 呉用は静かに羽扇を動かしている。
「檀州までの途上で敵に見つかる恐れもあろう」
 五虎将、花栄、朱武らも同じ意見だった。まず燕京を攻め、南方に足場を固めながら北上するのが安全策だ。みなが呉用の言葉を待っていた。
「この策、私は理に適っていると思います」
 羽扇の先で壇州を示した。壇州から、燕京へ、呉用の目はゆっくりと地図を辿った。
 しかし、呉用はまだ決断しなかった。傍らの文書箱から、一通の書状を取り上げた。
「枢密院より、出陣の期限を切ってきました。今月中に、陳橋を発て──と」
 柴進と李応が顔を見合わせた。二人は、梁山泊軍の軍糧・物資を管理する役目を担っている。柴進は輸送を司り、李応は保管を担当している。遠征となれば、最も重要な役職である。その二人が、ともに眉を曇らせた。
 李応が帳面をめくって言った。
「まだ輜重が半分しか整っておらぬ」
 そのことは、呉用も知っている。柴進が続けた。
「進路が決まれば、異国のことだ、兵站も確実に確保せねばなるまい」
「兵士たちには、日々の用も極力制限させているが……出陣までに、必要な物資が確保できるかどうか」
 鷹揚な李応が珍しく苦悩を見せたが、呉用は軽く頷いただけだった。
「物資の確保を、何よりも優先します」
 梁山泊軍は、宋国の政治を預かる蔡京の中書省、軍事を預かる童貫の枢密院、そして禁軍を直接支配している禁軍太尉・高求に憎まれている。戦場に出れば、孤立無援となるだろう。そのために、呉用は完璧な準備を整えてから出陣するつもりだった。
「石秀と時遷、石勇も偵察に出ています。宋江殿──彼らが戻り、もう少し情況が整うのを待ちましょう」





「本当に肉がねえな」
 劉唐は雑炊を箸でひっかきまわした。屑米と青菜ばかりだ。
「しかたねぇ」
 張青は苦い顔で包丁を片づけている。
「支給は月ごとに決まっているんだ。お前たちが、食いすぎたんだよ」
 練兵場のはずれでは、もう一人、小魚が憤慨していた。
(俺はもう一人前だ)
 戦では、何人も敵を殺した。
(それなのに、なんだい)
 小魚は林冲のことを神のように尊敬していたし、秦明ほど強くなれれば何も怖いものはないと思っていた。だから、まず彼らのもとへ、部下にしてくれるよう頼みに行った。
 しかし、林冲にはにべもなく断られ、秦明には相手にもされなかった。
 練兵場では騎兵たちが調練していた。みな巧みに馬を乗りこなし、槍を習う新兵たちも壮士ばかりだ。
 それに反して、練兵場の片隅で調練している歩兵たちは、どれも畑から引っこ抜いてきた芋か、道端で拾ってきた石ころみたいな田舎者だ。刀の握り方、整列の仕方から教えられている。
(やっぱり騎兵だ)
 小魚は諦めなかった。駆けだそうとした時、陣外へ通じる小道のほうから小狗に呼ばれた。
「おおい、一緒に行かないかい」
 杓児も一緒だった。
 小狗は杓児から、轅門のそばに趙匡胤ゆかりの木があると聞き、連れて行ってもらうところだった。小魚は少し迷ってから、一緒に行くことにした。
「小狗、目が見えるようになったのか」
「うん、ぼんやり見えるよ」
 しかし、まだ薄闇の中にいるようだ。辛うじて、物の形が見える。杓児が手を引き、三人は軍営のはずれへ行った。



 小魚たちは、久しぶりに三人並んで古木を見上げた。みな、初めて梁山泊に来た時のことを思い出した。あの時より、三人は全員とも頭ひとつ分は背が伸びていた。
 杓児が最近読んだ、宋朝建国の話を二人に教えた。
「太祖は、ここで天子になったんだよ」
 趙匡胤が禁軍の将軍だったと聞いて、小魚は驚いた。彼はずっと、天子というのは趙家に生まれなければなれないものだと思っていた。そう言うと、杓児は笑った。
「だって、小魚兄ちゃんだって、劉高祖とか、李高祖とか知ってるだろ。みんな趙家じゃないじゃないか」
「そうか」
 小魚は、ふいに目の前が開けたような気がした。
 彼は、あれほど強かった梁山泊が、招安など受けることはなかった──と思っていた。ずっと不満だったのだ。
「いいことを聞いた。力があれば、たくさんの味方がいれば、誰だって“陳橋之変”で天子様になれるんだ。誰だって、いいんだな」
 小魚はひどく大人びた顔で、そびえる槐の古木を見上げた。その冷やかな眼差しに、杓児は急に不安になった。小魚が、考えてはいけないことを考えていると直観した。
「反乱軍は、嫌いなんだろ?」
「天子になれば、反乱軍じゃない」
 小魚はきっぱりと言った。
「でも……」
 杓児は口をつぐんだ。小狗が無邪気に尋ねた。
「たくさんの味方って、どのくらいだろう」
 小魚は首をかしげ、当てずっぽうに言った。
「百万くらいかな?」
 杓児がほっとしたように笑った。
「そんなに沢山、無理だよ」
 しかし、小狗は何かを思い出すように、少し考えてから、頷いた。
「大丈夫──百万くらい、集められるよ」





 宋江と呉用は杜興に連れられ、軍営の一角に並ぶ倉庫に入った。倉庫の中では、柴進と李応とともに、侯健や湯隆たちが待っていた。
 梁山泊で諸物の製作を担当していた頭領たちは、梁山泊を離れて以降、新たな配置が決まっていた。まず、甲冑、戦袍の管理を行う侯健が、人数分に足りないと報告した。
「冬の間に行軍するなら、毛皮や防寒具も必要だ」
 湯隆は武器管理を任されており、扱い慣れない分厚い書類の束をめくった。
「武器も十分じゃないな。新しく入った兵に持たせる槍や刀が、あと一万ずつはなきゃ困る。矢も、まだ五万しか揃っていない」
 凌振も、火薬が全く足りないと訴えた。
「宋は遼への火薬の輸出を禁じておるから、上質の火薬は現地では調達できん。どうしても、予め準備しておかねばならん」
 宋江は困った顔で、呉用を見た。
 梁山泊にいた時は、どこかから奪ってくるか、買い整えれば済んだことだ。しかし、官軍となっては、朝廷からの補給しか頼るものはない。
 李応が何度も東京へ催促の使者を送っているが、いっこうに補給は進まなかった。高求たちが邪魔していることは明らかだ。装備が不全のまま冬の行軍となれば、餓死や凍死ということもある。李応は諦めたように言った。
「出陣の期限を切られたとなると、あとは現地調達しか補給の手はないかもしれん」
 進軍した土地で兵糧を調達するのは、遠征軍の定石である。宋江は首を振った。
「それはいけない」
 民衆から徴発──といえば聞こえがいいが、結局は略奪である。
「呉軍師、どうしたものか」
「私も、現地での調達は難しいと思います」
 呉用は倉庫に積まれた物資を見上げた。三万の兵を養うには、まったく足りない。
「輜重が揃わなければ、出陣はできません。燕青を、宿太尉のもとへ遣いに出しましょう」





 焚き火を囲み、楊林の話は続いていた。
 人がさらに集まっている。李立が尋ねた。
「それで、誰も燕雲から契丹人を追い出せなかったのか」
「それどころか、たびたび侵入に悩まされました。宋朝になりますと、真宗皇帝が亶淵まで親征なさいましたが、契丹の勢いはなまなかならず、和議して遼国へは毎年絹二十万匹、銀十万両を歳幤として送ることにあいなりました。歳弊は、その後さらに増額されまして、今もなお、毎年絹三十万匹、銀二十万両が遼国へ送られておるのです」
 王英は指を折って計算した。
「大変な額だぞ。大枚はたいて、平和を買っているってわけか」
「その通り」
「なさけねえ!!」
 李逵が雑炊の入った碗を投げた。
「さっさと十六州を取り戻して、契丹人の都へ攻め込もう!!」
「いやさて。間には、長城がありますからなぁ」
 童威と童猛が同時に頷いた。
「噂には聞いたことがある、陸の長江みたいなものだろう?」
「はてさて、長江ならば船で越えようもありますが、長城は見上げるばかりの煉瓦の壁です。始皇帝の昔から漢土を守ってきた壁ですからな。馬も人も、容易には越えられないようになっている」
 魯智深が銚子を振った。
「酒がないぞ」
 武松が自分のぶんを注いでやった。
「今は酒も支給品だ。これで、しまいだ」
「朱富は、なぜ酒を醸さんのだ」
「知ってるだろう。俺たちが梁山泊で呑んでいたのは、密造酒だ。堅気になったら、酒を作るも売るも、お上の許可がいるんだ」
 魯智深はつまらなそうに最後の一杯を飲み干した。そこへ小魚が通り掛かった。魯智深は空の銚子を持って、小魚を呼び止めた。
「おい、小魚。炊事場へ行って、酒を一甕もらってこい」





 小魚が炊事場へ行くと、顧大嫂が炊事兵に愚痴を言っていた。
「これだけの材料じゃ、とても三万人の腹はくちくならないよ」
「おばさん、どうしたんだい」



「食糧が足りないのさね」
 数日前、物資をぎりぎりまで節約するよう、李応から命令があった。以来、どうにかやりくりしてきたが、それにも限界があった。
「まったく、油に塩まで足りないんだから。戦の前に、こんな事で苦労するとは思わなかったよ」
 何万に増えようと、兵たちはみな息子や甥っ子のようなものだ。その兵たちに、腹一倍食べさせてやれないことが、顧大嫂には何より辛い。
「鶏でも飼って、増やすかねぇ」
「酒はあるかい?」
「すまないねぇ、小魚。今月分はみな飲んじまって、もう余分がないんだよ。欲しかったら、駅亭の役所に行っておくれ。頼めば、追加をくれる筈だからね」
 顧大嫂が包丁を振り上げ、炊事兵たちをどやしつけた。
「ほらほら、さっさと野菜をお刻み。米が足りないんだから、野菜でかさを増すよりないよ」
「おばさん、食い物も俺がもらって来てやるよ」
 小魚はそう請け負うと、駅亭の役所に駆けつけた。しかし、用件を言うなり、門番兵に殴りつけられた。
「また無心に来たのか、山賊め」
「なにしやがる!!」
「飲み食いだけは一人前か」
 殴り返そうと振り上げた小魚の腕を、背後から宋清が抑えた。
 宋清は、駅亭に蓄えてある食糧を借りるように頼みに来たのだ。彼は軍営の食事を作る炊事班に配属され、どの部隊にどれだけ配給するかを任されていた。このところの“節約”で、兵に不満が高まっている。
「足りない分を、補充してくれ」
 しかし、騒ぎを聞いて現れた役人も、宋清たちを罵った。駅亭に駐屯する廂軍の役人だった。でっぷりと太った腹を、偉そうに突き出した。
「今月分の食糧は、とっくに支給したではないか」
 宋清は怒りをぐっと抑えて言った。
「支給された分量は、もともと規定の三分の二程度しかなかった」
「農民どもは、自分たちは食うや食わずで、お前たちを養っているのだ。それなのに、よくも腹一杯食いたいなどと言えるものだな」
 宋清は言葉に詰まった。彼とて本来は農民である。軍に支給される食糧が、農民たちが汗水を流して育てた作物、苦労して収めた税であることは身に沁みている。
「しかし、梁山泊軍は戦に行くのだ」
「ないものは、ない。無理をいうな。しかし、その辺の民家に押し入ってはいかんぞ。お前たちはもう山賊ではないのだから、それだけは我慢してくれ」
 役人たちがどっと笑った。
 宋清は小魚を連れ、役所を後にした。
 軍営に戻ると、小魚は焚き火のまわりに集まる男たちのところへ行って、役所での出来事を話した。男たちは憤慨し、すぐに何人かが武器を握って殴り込みに行こうとした。
 鄒淵が怒鳴った。
「役人を殺すなど屁でもねぇ!!」
「──物騒な話をしているのは、誰かね」」
 鄒淵が振り返ると、軍政司の裴宣が立っていた。



 裴宣を見ると、男たちは顔を見合せ、気まずそうに武器を下ろした。
 梁山泊軍は将校はもちろん、兵卒、炊事兵、輜重兵にいたるまで、騒ぎを起こさないように、裴宣から厳重に命じられていた。もちろん、宋江、呉用の命令である。命令に背けば、将校とて例外でなく軍律によって処罰されることになっていた。
 梁山泊は、もう悪徳役人を殺して兵糧を奪っていた梁山泊ではない。それも官軍としての“訓練”であった。
 李逵は最後の酒を飲み干して、酔いつぶれている。
 魯智深はひとつ大きな欠伸をした。
「役人なぞ、相手にするな」
 懐を探り、財布の重みを確かめた。
「酒が呑みたければ、金を出して呑めばいい」
 魯智深は禅杖を担ぎ、陳橋の街の方へと歩いていった。
 燕順が銀粒を出して、不満そうな顔の小魚に投げた。
「こいつを持っていって、みなで呑め!!」
 鄒潤がむっとした顔で言った。
「三万もいるんだぞ」
 手下たちに面子が立たない。食えるから手下になるのは、山賊も兵隊も変わらないのだ。
 しかし、実際は、鄒淵にも段々と分かってきていた。
 山賊の中にも、獲物を独り占めする頭目はいる。うまい汁を吸うのは頭目とその取り巻きだけだ。それに下っぱが文句を言っても、殴られるのがおちである。
 今や“梁山泊軍”は、そういう頭目の下についたのだ。鄒淵は黙り込んだ。
 世人は言う。
“官を恐れず、ただその管を恐れる”
 役人なんかは怖くないが、権力をかさにきた、その仕返しが恐ろしい。
 雷横が財布を取り出し、まるごと小魚におしつけた。
「いいから、行け」
 梁山泊にいた者は、特に官についていた者は、その道理ならざる道理を我が身に染みて知っていた。
「もうすぐ、開封から軍糧が届く。戦が始まれば、腹いっぱい食わせてやる」





 その日、大徳殿の朝議が始まると、まず宿元景が群臣の中から進み出た。
「枢密院より出陣の期限が切られましたが、梁山泊軍には、まだ輜重が整っておりません」
 すぐに蔡京が反論した。
「梁山泊軍が求めている量が、多すぎるのだ」
 高求も蔡京の援護に出た。
「各地の節度使軍、また特に江南で方臘賊と戦っている官軍にも多くの補給を送らねばならぬ。梁山泊軍だけに、特別に多く送れば、各地の軍に不足が出ましょう」
「現地で調達すれば如何。契丹人どもは山西、河北の村を略奪し、人民を拉致している。梁山泊軍は進軍途上の城市で同様に行えばよい」
 その程度の反論は、宿元景も予想していた。
「燕雲はもとは漢土であり、宋朝に回帰したいと思っている漢人も多い。その者たちを害し、怨みを買うのは益ないこと。燕雲の回復には、現地の漢人の支持、協力が不可欠なのは自明の理」
 宿元景は呉用の言葉を代弁した。宋江、呉用らにはまだ官職がない。朝議に列して意見を上奏する資格がないのだ。
「陛下」
 宿元景の言葉に、天子は深く頷いた。
「燕雲の回復は二百年の悲願である。また敵地であれば兵站の確保も難しかろう。梁山泊軍には、必要なだけ優先して支給するように」
「──御意」



 高求と蔡京は頭を垂れ、目配せしあった。王都尉、李師師が、天子に何か吹き込んでいるのは明らかだ。わざわざ天子の心証を悪くすることはない。
 蔡京は、すべての物資を迅速に陳橋へ輸送するよう請け負った。さらに高求も神妙な面持ちで約束した。
「梁山泊軍に兵二万を補充し、武器も装備も不足なく支給いたします」
 宿元景は意外だった。いかに四姦とて、漢人として燕雲十六州の回復を望まぬはずはない──ということか。
 宿元景は、梁山泊軍が日々の兵糧まで節約していると聞いていた。この機会に、さらに求めた。
「出陣にあたり、梁山泊軍には特に酒肉を御下賜なさり、おおいに慰撫激励をなされますよう、お願い申し上げます」
 その提案にも、蔡京、高求はすぐさま同意した。





 梁山泊軍に必要な物資は、近日中にすべて陳橋へ運ばれることに決まった。
 宿元景が屋敷に戻ると、燕青が出迎えた。
「どうでした」
「梁山泊軍に優先して支給することに決まった」
 燕青は曖昧に笑っただけだった。
 必要な物資が間違いなく届くと聞いて、燕青は陳橋に戻ることになった。そのまま東京を出ようとしたが、ふと金線巷に足を向けた。
 李師師は明妃の位を受けはしたが、特例として民間に置かれることになっていた。天子が青楼の巷に遊ぶ楽しみを手放したくないゆえである。しかし、家の門は固く閉ざされていた。李師師はもう他の客とは会わないのだ。
 燕青は裏口に回り、挨拶だけ言づけて帰ろうとしたが、思わぬことに李師師が戸口に現れた。
「行くの?」
「ああ」
 玉簾を掲げる李師師を見て、初めて、燕青は美しいと思った。
 李師師は天子の最も愛する女として、最高の栄誉を、富貴を、すべてを手に入れた。それなのに、燕青と同じように、いつも何かが欠けている。もしくは、永遠に失った何かをもとめて彷徨っている。
 翡翠の鳳凰──それは偶然に違いない。奇跡のような偶然だ。
 雄を鳳と云い、雌を凰と呼ぶ。吉祥の鳥。
 彼らは本当によく似ている。お互いの中に、自分を見つけた。
 もう、燕青は何も言わなかった。
 彼らは“浪子”だ。波のまにまに、ゆらゆらと彷徨う者だ。しかし、いずれは岸辺へ辿りつく。
 燕青は、李師師の美しい顔を見つめた。
「あんたには、また会えるような気がする」
「──そうね」
 李師師は燕青の腕に目をやった。
「腕輪をしていないのね」
「俺は、ずっと自分が何者なのか考えていたんだ」
 燕青は自分でも驚くほど、素直な、子供のような気持ちで言った。
「俺が本当にしたいことは、たぶん、本当は何をしたいのかを見つけることだ。それが見つかった時──自分が誰なのか、分かるような気がするんだ」
「免罪符など、必要ないのね」
 李師師は腕を伸ばし、母親が子供にするように、両の掌で燕青の顔を包んだ。



 燕青の唇に柔らかな感触がふれ、李師師の口紅の甘い香りが、舌にふわりと広がった。
 やがて手を離し、李師師は燕青へ、慈しむように微笑みかけた。
「きっと──また逢うわ」
 背を向けて、李師師は玉簾の向こうへ去っていった。ただ、澄んだ歌声だけが、やはり背を向け、去っていく燕青を見送った。

    抽刀断水 水更流
    挙杯消愁 愁更愁
    人生 在世不称意
    明朝 散髪弄扁舟

 二人の声が、金線巷の静寂に纏綿と和し、流れていった。

  刀を抜いて、水の流れを断とうとしても、水は更に激しく流れるばかり
  杯を挙げて、心の愁いを消そうとしても、この愁いは更に深くなる
  人生、ままならぬ事ばかり
  いつの日か、髪をほどいて解き放ち、小舟に乗って、旅に出ようか





 梁山泊軍などに、燕雲十六州の奪還という華々しい手柄を立てさせるわけにはいかない。装備不全のまま遼国に送り出し、餓死か凍死か──なるべく惨めに全滅してほしいと高求は考えていた。もちろん、蔡京、童貫の意向でもある。特に童貫は、自分が方臘戦線にある間に、梁山泊軍に手柄などたてさせてはならぬ、としきりに匂わしてきている。
「それで、梁山泊軍の様子はどうだ?」
 高求のもとに、陳橋の廂官が呼ばれていた。駅亭を管理する廂軍の役人である。丸々と太った中年の男だった。暑くもないのに、しきりに汗を拭いている。
 廂軍は地方の労役にあたる軍で、侍衛司の管轄下にある。陳橋の廂官は、高求から梁山泊軍を冷遇し、困窮させるよう言い含められていた。廂官は薄笑いを浮かべ、報告した。
「山賊も帰順すれば、牙を抜かれた虎──借りてきた猫ですな。食糧の支給を減らすなどもしているのですが、騒ぎひとつ起こさず、おとなしくしております」
「兵は従順が第一、結構なことだ」
「宋江が、そのように厳しく命じているようです。そういえば」
 廂官はおかしくて堪らないという顔で言った。
「余ったぶんの肉などは、駅の市場で売っているのですが、梁山泊の連中は、それが自分たちの物とも知らず、大金を出して買っております」
 高求も思わず笑った。
「そういえば、近々、朝廷から山賊どもに酒肉の下賜があるはずだ」
「ほう、いかほど」
「一人につき、肉一斤と酒一瓶……多すぎぬかな?」
「いささか」
 廂官はすぐに高求の意図を察した。
 役人が支給の品を横領し、私腹を肥やすなどよくあることだ。
「どうせお上に仕えるなら、兵隊ではなく、役人ですな。次に参ります時は、閣下に手土産を忘れぬようにいたします」
 廂軍は深々と頭を下げた。高求に気に入られれば、今後の出世は思いのままだ。
「気を使うな。引き続き、よく面倒を見てやれ。少々やりすぎても、連中は何もできぬのだ」
 親しげな笑みを浮かべ、高求は廂官の欲の深そうな顔をちらりと見た。
「我々の恩顧を受けてこそ、官軍として生きて行けるということを、存分に思い知らせてやるがいい」





※文中の「緒堅」は、正しくはです。
※文中の「賓鉄」は、正しくはです。
※文中の「石敬唐」は、正しくはです。
※文中の「高求」は、正しくはです。
※文中の「亶淵」は、正しくはです。





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