水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第八十一回
回天・前篇





 高い空を、綿を引くような白い雲が流れていく。
 その下には、果てし無い草原が地平線まで広がっていた。
 遠くうっすらと見える山陰まで、遮るものは何一つない。ゆるやかな起伏の草原である。
 ただ、その中ほどを一筋の河が湾曲しながら北から南へ流れており、岸辺で羊たちが下草を食んでいた。
 彼らを見下ろす小さな丘では、二人の秀麗な若者が草原に寝ころがり、空を見ていた。
 華やかな軍装を身にまとい、傍らには弓矢を置いている。
 近くには、白毛と青毛の駿馬がいて、睦まじく首をからめていた。
 一幅の絵のような風景である。
 二人はなにか語り合っていたが、ふいに片方の少年が近くに寄ってきた小羊を抱き寄せて、軽やかな笑い声を上げた。
 若者と見えたうちの一人は、男装した少女であった。小羊を胸に、若者に向かって微笑みかけた。切れ長の瞳の、頬の豊かな少女だった。
「ねぇ、いつもの謡を歌って」
 若者は低く澄んだ声で、彼らの祖先の伝説を口ずさんだ。
「──白い馬に乗った若者が土河を下り、青い牛に乗った娘は黄水を下ってやって来た。二人は木葉山のふもとで出会い、二つの河が交わるように、夫婦となって、われら契丹族のはじめとなった──」
 風に、草原が揺れる。
 少女は若者の手を握った。
「私達も結婚したら、木葉山の祠にお参りしましょう」
 若者の顔が曇った。
「僕には、契丹人と、裏切り者の女真人と、敵である漢人の血が流れている」
「あなたは、この遼国の人間よ。あなたは自分の国として──この国を選んだ」
「──姫」
「心配しないで。いつか、世界はひとつになる」



 勇敢な姫は立ち上がり、秋空の下に黄金の剣を引き抜いた。
 微笑む少女の彼方の空を、剣の先を、一群れの雁が南へと飛び去っていく。
「宋国も金国も遼国も、みな一つになってしまえば──あなたの悩みもなくなるでしょう?」





 東京開封。
 宮城の一室に陣取った高求のもとに、楊晉が宦官特有の摺り足でやってきた。
「伝令が参りましたぞ。梁山泊軍が開封城の東郊外に接近中とのこと」
 高求は頷き、控えていた陪臣に命じた。
「予定通り、新曹門外に駐屯させよ。兵は?」
 部屋には高求の腹心たちが顔を揃えている。一人が答えた。
「ご命令通り、“演習”として召集しております」
「数は」
「城内の治安維持にあたる禁軍、および非番の部隊を集め、二万は」
「二万?」
 高求の脳裏に、金沙灘での恐怖が過った。
「もっと集めろ。殿前都指揮使司、侍衛親軍馬軍都指揮使司、侍衛親軍歩軍都指揮使司──動ける三衙の兵を、すべて招集するのだ」
 高求は誰にも反論する余地を与えなかった。
「急げ!!」
 陪臣たちが一礼して部屋を駆けだしていく。戦場のようだ、と楊晉は思った。彼はずっと天子のそばに控えており、荒事には慣れていない。紫檀の椅子に座りこみ、疲れたように茶を啜った。
「しかし、このこと、天子がお知りになれば」
 礬楼で李逵に鼻を潰されて以来、楊晉はすっかり気弱になっていた。近頃は体も思わしくなく、しばしば、あの真っ黒な大男の悪夢を見る。
「宿元景や王都尉殿下が、喧しい事を言わぬでしょうか。万が一、失敗すれば、梁山泊の無法者どもに仕返しを……」
 高求は苛立った目で、楊晉の丸まった背中を一瞥した。
「天子は九重の高みにおられる。下々の事などお聞かせして、煩わせる必要はない。そもそも梁山泊は帰順した百八人全員で拝謁するよう命じられたのに、多くが逃げたそうではないか。勅命に背き、かつ、この首都へ軍装のまま乗り込んでくる。“謀叛の心あり”──そう見て当然ではないか」
 そこへ、今度は蔡京の中書省から、梁山泊軍出迎え役の御駕指揮使が指示を待っているが──と知らせて来た。
「もう出発してよいかと、先程からしきりに尋ねておるとのことでございます」
 天子の閲兵は正午と時刻が決まっている。それまでに、“梁山泊軍を迎える”準備をぬかりなく整えなければならない。そのために、蔡京は高求が兵を集めるのを待っているのだ。もう辰の刻を過ぎている。
「今しばし、待つよう伝えよ」
 高求は命じ、椅子に座った。息をつき、白磁の茶碗を取りあげた。紙のように薄い茶器である。その滑らかな表面を、高求は吟味するように眺めていた。
「この件は、蔡太師、童枢密もご承知なのだ」
 楊晉に向けた言葉だが、自分に言い聞かせているようでもあった。
「まずは梁山泊軍を新曹門外に駐屯させ、主な将のみ城内に入らせる。城の内外には禁軍を控えさせておき、機を見て、賊どもを皆殺しにする」
 高求は禁軍の指揮官である。太尉の地位についてより、しばしば兵を勝手に動員していた。自邸の普請や遊山などに、禁軍兵を使役するのが黙認されているのである。兵のほうでも、高求がどんな理不尽な命令を出そうと、逆らう者も、不信に思う者もない。禁軍太尉高求にとって、兵士はすべて我が従順な手下──“私兵”であった。
「奴らはうまくやるだろう」
 高求は満足げに頷いた。
「山賊どもを殺してしまえば、誰が何を言おうと後の祭り──」
 高求の手から茶碗が落ち、澄んだ音をたてて砕け散った。
「万に一つも、失敗はない」





 梁山泊軍は、東京開封へ東方から近づいていた。
 秋の田野──その間に点在する村落が、しだいに多くなっていく。街道を行き交う人馬も多く、活気があった。彼らの殆どは商人か農民で、梁山泊軍と見ると急いで道を開けたが、馬上の“山賊たち”を見上げる目は素朴な好奇心に輝いていた。
 やがて、梁山泊軍は最後の宿場に入った。道に面した空き地に馬を止め、宿屋から取り寄せた早めの昼食を取った。
 前の宿場で、今日の正午に宣徳門で天子に拝謁すると知らされていた。すでに軍装は出発の時に美々しく整えられている。時刻には、十分に間に合うだろう。
 侯健の隣で饅頭をかじりながら、小狗は通りを眺めていた。
「賑やかだねぇ」
 盲目の小狗は、治療のかいあって目がぼんやりと見えるようになっていた。
 周りには、李俊、張順、阮兄弟ら水軍の男たちが車座になっている。小狗は、目が治ったら水軍に入れてもらうつもりだった。江州で生まれ育ったのに、盲目のため船を操ったことがない。水軍は小狗の長年の憧れだった。
 梁山泊に来てから、小狗はずっと幸せだった。どんどん幸せになるようだ。ただ一つだけ、気がかりがあった。
「兄ちゃん、おいらたち天子様に会いに行くのかい?」
 李俊は、少年の言葉に含まれている不安を感じ、顔を上げた。
「どうした」
「おいら……“天子さま”に会ったことあるよ」



 みなが小狗の顔を見た。阮小五が笑った。
「そいつは凄え。どこで会った」
「江南の……」
 真面目に答えようとする小狗の口を、阮小七が急いで抑えた。小狗は、江南で大反乱を起こしている方臘という男のことを言っているに違いなかった。方臘は、自ら天子を名乗っているという。こんな話を役人に聞かれれば、厄介なことになる。
「その話は、しないでおきな」
「でも、小七兄ちゃん。おいら見たんだ。“天子さま”は、真っ暗な中でも、黄金色に光っている。不思議な声をしているんだ」
「お前、なにを言っているんだ?」
「それなのに、あの人は“違った”……だから、おいら、本当の“天子さま”は、梁山泊にいるんじゃないかと思ったんだ」
 阮小二が、話し続ける小狗の額に手を当てた。
「薬のせいで、熱でもあるんじゃないか」
 小狗は首を振った。
「見たんだよ」
 江州で、盲目の小狗は見たのだ。
「あの人も……真っ暗な中で、黄金色に光っていた」
 闇の中で輝く人──『皆の衆!!』と、光そのもののような声で呼びかけた。
『梁山泊へ!!』
 それが、“托塔天王”晁蓋であったことを、もはや小狗に教えてくれる者はない。小狗がやって来た梁山泊に、すでに晁蓋はいなかった。
 ただ、小狗は燃え上がる梁山に、あの時と同じ光輪を見た。
「あの人は──“光の王”だ」
 梁山を照らす炎の中に、その人を感じた。
 そして今、再び彼は淡い“光”を見ていた。
「ねえ、あの人は、“天子さま”じゃないのかい?」



 小狗の指さす先に、木陰に座る盧俊義の姿があった。
 みなは顔を見合わせた。
“光の王”──晁蓋が去り、そして、盧俊義がやって来た。
 啄鹿原に赤裸で現れた“玉麒麟”盧俊義に、人々は晁蓋の姿を重ねなかったか。
「──よしなさい」
 考えるのはよせ、と李俊は話を切り上げた。
 招安から、人々の心の中には、割り切れぬ煩悶が燻っている。わずかなことで亀裂は走る。支離滅裂だとしても、小狗の“予言”は危険だった。
 盧俊義は眠れる麒麟だ。かつて、李俊は眠っていた竜であった。盧俊義が秘めた──もしくは、自ら押さえ込んでいる“力”が、李俊には、はっきりと感じられる。
(危険な男だ)
 そう感じる。
 しかし、李俊はただ見守っていくほかは、出来ることはないと知っていた。
 彼らは、宋江についていくと決めたのだ。





 昼食を済ませ、出発する梁山泊を路傍の木陰から見つめている影があった。
(俺は、何をしているんだ?)
 燕青は、戸惑った。
 前を宋江が通りすぎていく。盧俊義が、呉用が、林冲が、秦明が、呼延灼が──梁山泊軍が、東京へ向かって進軍していく。
 しかし、燕青の足は地面に吸いついたように動かず、喉は、涸れたように言葉を発することができなかった。
 昨夜、燕青は李師師の家を飛び出し、州橋で酒を呑んでいた。東京では、夜通しやっている店も多い。燕青は苛立って、杯を重ねた。目を閉じると、闇を翡翠の鳳凰が飛び交う幻を見た。
 そして、夜明け前、また戴宗が現れた。
「おい、俺は忙しいんだ。頼まれてくれ」
「なにをだい」
 燕青はだいぶ酔っていた。
「お前の話、どうやら本当かもしれん」
 高求が兵を集めている。閲兵式のためと称しているが、武器を保管している城壁沿いの防城庫にも出入りがある──そう聞いても、もう燕青の心は動かなかった。
「俺はもう少し調べを続ける。城門が開いたら、お前が梁山泊軍へ知らせてくれ」
 戴宗は給仕を呼び止め、酔い醒ましの吸い物を注文した。
「間違えるなよ。伝言はこうだ。“俺が戻るまで、絶対に東京に入るな”」

 伝えるつもりだったのだ。そのために、夜明け、城門が開くとともに東京を出て、ここまで来た。しかし、梁山泊軍を見た途端、燕青の足は、ぴたりと止まった。
 梁山泊軍が街道を遠ざかっていく。
(俺は、一体なにをしている?)
 燕青は自問した。
(俺は──何がしたいんだ?)





 自分でも、馬鹿なをことをしていると、宋清は思った。
 しかし、これは彼がそうすべきだと信じ、またそうしたいと望んだことだった。
 宋清は、街道を急いでいた。



 彼は乗馬は得意ではない。徒歩で足早に進み、疲れると通りかがかった商人に牛の牽く荷車に乗せてもらった。
 空を鳩が飛んでいく。彼がやって来た方へ。
 宋清は立ち止まり、鳥の去っていく方角を眺めた。彼の心も、その翼に乗って、もと来た道を戻ろうとする。
 しかし、宋清は額を流れる汗を拭い、再び西へ歩き始めた。
“鉄扇子”宋清は、老父を村に送った際、同郷の娘と婚礼を挙げた。その妻を残し、翌日、故郷の村を出た。
 妻となった阿梨は、雨に濡れた梨の花のように美しい、そして、ひどく無口な娘だった。宋清は昔からこの娘の事を知っていた。阿梨は、父親が強欲で結納金を釣り上げたため、婚期を逃した。
 宋清は、梁山泊から持ちかえった財に、兄から贈られた分を足して、阿梨を娶った。
 夫が婚礼の次の朝に旅立つと知っても、彼女は何も言わなかった。ただ、そっと自分の胸をおさえ、呟いた。
「明け方、小さな星が懐に入る夢を見ました」
 気休めでも、嘘でもいいと思った。
 彼を見上げる、阿梨の目が、美しかった。
 自分の中に、妻の中に、今度いつ会うか分からない二人の間に、なにか小さな、しかし、確かな美しいものが生まれたことを、宋清は信じた。
「もしも、子供が生まれたら」
 宋清は、ほとんど学問をしていない。塾で『千字文』を習っただけだ。千文字しか文字を知らない。その中から、好きな文字を子供の名前にしたいと思った。
「“安平“と名付けてくれ」
 安寧と平穏。それが、宋清が望んだものだ。ささやかな幸せ──。
「父さんを、頼む」
 そう言い残し、宋清は再び故郷を旅立った。
 兄のもとへ──東京へ。



 かつて、宋清は自分の運命を呪い、絶望に泣きながら、賊となった兄の後をついていった。
(あの人には、僕がついていなければ駄目なんだ)
 思っていることは同じだ。
 しかし、今は、“鉄扇子”宋清の孤独な道にも、ちいさな星がひとつ輝いていた。





 東京の空に、空砲のような音が響いた。
 不吉な遠雷のようでもあった。正午近くの秋空は、雲ひとつなく晴れている。
 巳刻になろうという頃、梁山泊軍は開封城東門前に到着した。



 東京開封城の東門である新曹門──これは俗称であり、正式な名は含輝門という──である。門前には、すでに朝廷からの使者が出迎えのために待っていた。天子の使者であることを示す旌旄節鉞を携えている。
「城内の混乱を避けるため、将校のみで入城を」
 使者の言葉に、梁山泊軍に緊張が高まった。
 梁山泊軍は宋江以下頭領のほか、一万余り兵を連れていた。梁山泊から同行を望んだ者、途中、梁山泊軍に加わった者たちである。
 招安を受けた身とはいえ、彼らを残して、これまで“敵地”──敵の本拠地であった東京に入城するには、不安があった。
 使者が二十人ほどの護衛を連れているほかは、城門周辺に兵は配備されていない。城門は大きく開かれ、人や馬が行き交っている。なんら変わりない東京の風景だった。
 使者はさらに、毛氈を敷いた地面を示した。
「武器を、これへ」
 すべての武器を、ここへ残して入城せよというのだ。
「住民が“梁山泊”を恐れておりますので」
 朱武が呉用へ目をやった。呼延灼と秦明が視線を交わす。
(罠ではないか?)
 この城の中には、百五十万の民が住み、数万の兵がいる。その中に入れば、孤立無援だ。
 遠く、宮城で打たれる時刻の太鼓が聞こえてきた。刻を知らせる宮城の太鼓は、ゆっくりと十五、打たれる。
「巳刻ですな」
 使者が門へ促すと、宋江は無言のまま、使者の前に馬を進めた。
 宋江の手が剣へ動き、使者は思わず退いた。梁山泊軍、官軍双方に緊張が走った。
 宋江は静かに言った。
「使者殿には、特別のご配慮を賜り、重ねて御礼申し上げます」
 そして、振り返り、彼を見守る梁山泊の一人一人の顔を見渡した。
「さあ、ここに武器を置きなさい」
 宋江は、腰に帯びていた剣を解いた。





 その風景を、武松は何度も見たように思った。
 そうだ。目を閉じれば見えるもの──悪夢の中で、何度も見た風景だった。
 山を下りて行くと、霧の向こうに城市が見えた。
 陽穀県の街だった。虎を殴り殺した武松が都頭に取り立てられ、兄の武大と再会し──その先を考えることを、武松は拒んだ。
 この街で死んだ不幸な兄の遺骨は、街外れの寺に預けたままだ。それを故郷の清河県に持ち帰り、墓に納めるつもりだった。
 しかし、武松の足は動かなかった。
 その街を目にした途端、その足は地面に張りついたように動かなかった。
「武松さん」
 施恩が不思議そうな顔で見ていた。
 忌まわしい街だった。すべての悪夢の源だった。雪の朝、厨房に立ち込める湯気、開きはじめた紅い百合──囁く声。



 青白い月、闇の中を駆ける虎と、血飛沫。血の海の中で──あやしく微笑む紅い唇。



 武松は強く拳を握った。
 叫びながら走り出そうとした。あの街を、過去も記憶もすべて含めて、破壊し、焼き尽くしてしまいたかった。
 武松は叫ぼうとした。叫び、駆けだそうとした。
 同時に、全身の力が抜けた。何かが体からふっと抜け出したようで、武松はその場に片膝をついた。
「……武松さん」
 見上げると、施恩が片方の目で何かを凝視していた。
「あれをご覧よ」
 施恩は何もない道を指さした。
「見えるかい? あれが、ゆっくりと山を下って……あの街のほうへ帰っていくよ」
 施恩は、ひどく冷静だった。
「──帰っていくよ」
 武松は、施恩の指さすほうを見た。彼には、何も見えなかった。
 ぽっかりと、心が妙に虚ろだった。
 空を見上げると、雲が見えた。たくさんの白い雲が、どこかへ向かって流れていく。彼らは、行く場所を知っているようだった。迷いもなく、遠く、白く、美しい。



 雲のように、生きたいと思った。
 自由に。
 自由とは何かを失うこと──何かを手放すことなのだと、武松は思った。
 ひとつずつ彼は失い、失うたびに、自由になるのだ。

 武松は街に背を向けた。
 そして、彼はやって来た。風に吹かれ、雲のように。
 街道の彼方に、東京の城壁が見えてきていた。
 その遙か手前、路傍にぽつりと小さな酒屋があった。店先には腰掛けが置いてあり、一人の巨漢が酒を呑んでいる。
 施恩が武松に振り返り、声を上げた。
「和尚だ!!」



 空を白い鴿が飛んでいく。雲の彼方へ。
 店先の魯智深も彼らに気づき、手に持った酒杯を挙げた。
 武松は風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「行くか──施恩」
 武松の声が、昼前の空に響いた。





 巳刻過ぎ、知らせを待つ高求のもとへ、蔡京がやって来た。
「高太尉、くれぐれも言っておく。この東京を戦場にだけはしてくれるな」
 そうなれば千古に宰相・蔡京の汚名を残す。
 城外の、どこか人目につかぬ荒野などで片づけることができればいいが、梁山泊軍は勅令で招安を受けた軍である。理由もなく、殲滅することはできない。
 だから、閲兵のためとして、宋江以下の将校のみ、兵と引き離して城内に入れるのだ。
「ご安心を、蔡太師」
 高求は請け負った。
「将校を失えば、万余の兵とて烏合の衆。禁軍で囲んでしまえば、何もできることはございません。梁山泊の謀叛を未然に防ぎ、国の憂いを取り除くのです。蔡太師の名声は、さらに高まりましょう」
「必ず、そのように頼むぞ」
 そう念を押し、老宰相は帰っていった。高求は嘲った。
(これが、“士大夫”とらやらの限界だ)
 この頃は若い官僚が台頭してきて、蔡京の権勢にも翳りがさしている。老いた蔡京あとは、ただ“名宰相”の美名を抱いて死にたいのだろう。一方の童貫は、今は兵を率いて江南方面に駐屯している。梁山泊招安の知らせにも、静観するだけで特に何も言ってこない。
 梁山泊抹殺──十三万の大軍でもできなかったことである。しかし、相手がこちらの懐に入ってしまえば、彼らには“政治”という最強の手段がある。
(梁山泊が招安を受けたのが運の尽きだ)
 高求はほくそ笑み、それから、ふと不思議になった。
(なぜだろう?)



 外の廊下を慌ただしく行き来する兵隊たちを、ぼんやり眺めた。
(なぜか、わしは梁山泊が憎くてたまらん)
“梁山泊”がこの世にある限り、永遠に安心できないような気がする。
 一介の無頼漢から、彼は天運に壽がれたかのように出世してきた。あるいは、これもまた天の定めた憎しみ、天が与えた宿敵であろうか──。
 廊下から、声がかかった。
「高閣下、兵の配置が整いました」
「──よし」
 天は、この瞬間のために、彼を太尉の地位にまで登らせたのかもしれぬ。
 高求は命じた。
「梁山泊を入城させよ!!」
 かつてないほど、堂々と威厳に満ちた一言であった。





 門前に、次々と武器が積み上げられた。
 ある者は戸惑い、ある者は怒ったように投げつけた。あっさりと手放した者もいた。それぞれに思いはある。しかし、宋江とともに行くと決めたのだ。
 武器の山が築かれていく。その前で、“火眼俊猊”登飛が唸った。
 一度は梁山泊を去った登飛である。彼は、梁山泊の決戦で右手の指を失い、その傷の流血は、いつまでも止まらなかった。登飛は治療も受けぬまま梁山泊を去り、数日後、李袞が北の森で倒れている彼を見つけた。
 その指はすでに壊死して、手首から切断するほかはなかった。
 今、登飛は腕に直接、銅鏈を装着していた。湯隆の特製である。登飛は李逵が投げ捨てた斧を拾い上げると、銅錬の鎖を断ち切った。その瞬間、登飛は腕が切られたような低い呻き声を上げた。
 誰にとっても、武器は体の一部であった。
 秦明と呼延灼は、目顔を交え、それぞれ狼牙棒と鞭を置いた。
 林冲は“鬼斬”を、楊志は“吹毛剣”を、地面に置くことはせず、門外に残る小魚たちの腕に託した。
 使者の呼ばわる声が響いた。
「梁山泊入城!!」
 一行は、門に向かって整列した。宋江以下、石版に記された席次の順に馬を並べた。
 いつの間にか、城門を行き交う人も遠ざけられ、あたりはひどく静かだった。
 宣贊は、列の先に思わず関勝の姿を探した。
(あの時と同じだ)
 かつて、あの密林での戦の後、関勝は忽然と姿を消した。
 これからという時だった。これから栄達が待っている──という時に、関勝は何も言わずに朝廷から去った。
 関勝が去った後、赫思文は官を辞して関勝を追い、宣贊は、わけも分からず、怒り、ひとり朝廷に残った。その後の十年は、絶望と忍耐の日々だった。
 あの時と変わらず、赫思文は落ちついている。
“関兄”がいないというのに、諦めか、何かを信じているのか、赫思文は落ちついた眼差しで前を見ていた。
 宣贊は呟いた。
「“至誠にして、いまだ動かざるものなし”」
 心を尽くせば、天をも動かす。
(関兄がいてくれれば──自分も心からそう信じられるのだが)
 宣贊は、あまりにも官の腐敗を知りすぎていた。

 門から武装した禁軍の部隊が現れ、道の両側にぴたりと並んだ。
 何かを感じ、李逵が唸った。
 宋江は振り返り、穏やかな顔で、微笑んだ。
 兵士たちは、梁山泊の到着を迎える様子を見せていたが、武器を携え、甲冑に身を固めている。将が進み出て、城内へ宋江を先導した。
「宋将軍、どうぞ」
 宋江は、門へ馬を向けた。
「何も心配することはない」
 盧俊義と、呉用が続いた。
 眼前には城壁がそそり立ち、城門がぽっかりと口を開いていた。





 天子による、梁山泊閲兵の時刻が近づいていた。
 高求は、閲兵の式場となる宣徳門周辺を禁軍をもって包囲した。
 宣徳門は、宮城の正門である。華麗な二層だての門楼で、朱塗りの六本の柱と五棟の楼閣をもつ。慶事の際には天子が出御し、ここで万民の万歳を受ける。
 建物には金の鋲を打ち、壁面には竜鳳飛雲が彫刻されている。文様を施した甍、瑠璃瓦、五彩の欄干、真紅の矢来で飾られた壮麗な門だ。
 そこに、今、禁軍兵が隙間なく整列しつつある。
 宋朝の象徴ともいえる門が、今日、惨劇の舞台となるのだ。
「歓迎するよう見せかけよ。賊の頭目どもが広場に入ったら、合図を待て」
 宣徳門の前は広場になり、幅だけで二百歩もの距離がある。そこからは、天子の御成り道である御街が南に通じている。道の両側は、下々の人馬の侵入を防ぐため、黒塗りの矢来と掘割で封じられている。
 この門前の広場に入れば、袋の鼠だ。北側は宮城の城壁、両側は矢来と掘割、東西の道は役所が並び、道幅も狭くなる。
 何も知らない侍従が高求のもとにやってきた。
「高太尉、もう玉体にお出まし願って宜しいか?」
「天子には、今しばし後宮でお休みいただこう」
 高求は満足げに兵士で満ちていく広場を見渡した。御街は広く、清々しく掃き清められ、どこまでも見通せる。
「お上には、美しいものだけお見せせねばな」





 滔々と水が流れる。
 史進はひとり土手に座り込んでいた。
 大きな河だ。赤茶けた水が昼の陽を受け、ゆっくりと流れていく。
 彼は、東京へ向かう途上、ふらりと梁山泊軍を離れた。特に考えがあったわけではない。ただ、官軍になるのが嫌だった。
 彼は今まで、誰にも頭を下げたことはない。誰かの言うままになったことも、ない。父親にも、役人にも、運命にさえ、逆えるところまで逆らいたい。
 ただ、その先に、なにがあるのかは、知らない。
 とりあえず、今の“行く先”がなかった。
 少華山に戻っても仕方ない。故郷の屋敷も焼いてしまった。
 無性に王進に会いたかった。
 今、どこにいるのだろう。
 史進は足元の石を拾い、川面に投げた。石は水を切り、中程まで飛んで、水中に消えた。
 川下から、一隻の客船がゆっくりと水面を逆上ってくる。
 その舳先に、男がひとり立っていた。折り目正しい頭巾をかぶり、文人のような身形だが、腰には二本の剣を吊っている。
“鉄面孔目”裴宣だった。
 史進は立ち上がり、岸辺へと降りていった。近づいてくる船へ、棒を掲げた。



「よう」
「やあ」



 船上の裴宣もまた、手を挙げた。その懐で、鴿が静かに鳴いていた。








 昼近い街道を、二頭の馬が西に向かっていた。
 一人は豊かな長髯をなびかせ、一人は逆立った虎鬚をたくわえていた。
 朱仝と雷横、二人は故郷の運城県を後にして、東京へ、急ぎの旅を続けていた。
 そのことを、朱仝は不思議に思った。
 五丈河の宿営を去った時、朱仝は、二度と“梁山泊”へ戻るつもりはなかった。彼には、するべき事があったのだ。
 まず、妻を家に送らなければならなかった。朱仝の屋敷は、かつて雷横が焼いてしまったため、妻は実家へ戻ることになっていた。もとは裕福な地主だったが、朱仝が賊となったため、今は、わずかな土地を耕してひっそりと暮らしている。
 朱仝はこの家に妻を預け、梁山泊から携えた財貨を残して、再び旅立つつもりだった。雷横も、自分の全財産とともに老母を置いて、朱仝についていくつもりだった。
 それは朱仝が望んだことではなかったが、止めるつもりもなかった。
 朱仝は、自分がなすべきと思ったことを、するだけだ。
 義弟の家に着いたのは夕刻で、小さな窓から蜜色の光が庭先へ洩れていた。
 小さな門を入ると、家から妻の弟が走り出てきた。
「義兄上、よくお帰りになりました」
 朱仝はあらかじめ、今日、妻を連れて戻ると知らせてあった。弟は朱仝の荷物を受け取った。
「お客人が、義兄上のお戻りをずっと待っていらっしゃいます」
 朱仝は、家から出てきた少年に目をやった。見知らぬ少年だった。大きな目で、じっと朱仝を見つめていた。
 朱仝の背後で、妻が荷物を落とす音がした。振り返ると、妻は胸の前で両手を握り、震える目を見開いて、少年の顔を凝視していた。
 その目が、少年とそっくりだった。
 朱仝は、悟った。少年の唇が、ためらっていた。彼がためらっている言葉が、朱仝には分かった。
 妻は無言で泣いている。やがて、家の中から、一人の文人風の人物が現れた。
 その人の前に、朱仝は崩れるように膝を折った。
「──知府」
「久しいな、朱仝」
 かつて、朱仝が流された青州の知府、李逵によって愛児を殺された人であった。彼は梁山泊招安の事を聞き、転任途中の道を曲げて、朱仝の故郷へ訪ねてきたのだ。優しく頷き、少年の背中を朱仝のほうへ押しやった。
「……父さま」
 少年は、かつて朱仝が殺された坊やの代わりに、知府のもとへ送った、朱仝自身の息子であった。ようやく言葉を覚えはじめたばかりの幼児は、どこか寂しげな目をした、立派な少年に成長していた。
 朱仝は胸をつかれた。この人は、忘恩の徒であった自分の息子を、このように育ててくれたのだ。朱仝は真っ直ぐに知府を見上げた。
「これから、あなたの所へ行くつもりだったのです」
 知府はすでに青州から転出していた。その行方を探し、命をもって罪を贖うつもりだった。梁山泊での責務を果たし、自由の身となった朱仝には、それだけが、しなければならぬ事だった。
 朱仝の横に、雷横が体を投げ出すように土下座した。
「わしのせいなのだ。殺すなら、わしを殺してくれ」
「もうよい、朱仝」
 知府は雷横を見ず、懐から一通の黄ばんだ手紙を取り出した。
「梁山泊首領より、貰った手紙だ」
「晁蓋殿の……?」
 そこに何が書かれてあったは、語らなかった。知府は深く息をつき、軒先の灯火で手紙を焼いた。重い荷を、ようやく下ろしたような表情だった。
「あの子は──本当にお前のことが好きだった」
 知府は手ずから朱仝を立たせた。
「“招安”などで、罪は消えぬ。許すことはできぬ。しかし、許さずとも、あの子は戻ってこないのだ」
 知府は、静かに少年の肩に手を置いた。
「わしは、いずれ官を辞し、夫婦で出家するつもりでいる。それまで、この子を貸しておいてくれ」
 少年を連れ、知府は迎えの轎に乗った。闇の中に、その声が静かに響いた。
「朱仝よ。その命──役立てよ」




 その夜のうちに、朱仝は故郷を離れ、馬で梁山泊軍の後を追った。もう東京は近い。
 街道沿いの茶店の軒に、白い鴿が止まっていた。二人が前を通りかかると、店主が前掛け姿のまま飛び出してきた。
「もしや、“美髯公”殿では?」
 茶店は、李応配下の“店”だった。店主は馬の轡を抑えると、前掛けの下から小さくたたんだ紙を取り出した。
「良かった、わしは顔を知らんので、その“髯”がなければ見逃すところでしたわい」
 朱仝は紙切れに目を走らせた。その顔色が、さっと変わった。
「──駆けるぞ、雷横!!」
 朱仝は馬腹を一蹴すると、再び街道の西へ、全速で駆けだしていった。





 宣徳門では、宿元景が閲兵式の準備を済ませ、天子の出御を待ちかねていた。
 梁山泊軍はすぐそこまで来て、整列して待っている。宿元景は、宦官をつかまえて尋ねた。
「陛下はいずこに?」
「いまだ後宮からお出ましになりませぬ」
 宿元景は眉を曇らせ、傍らの従臣に振り向いた。
「呉用の心配は、杞憂ではなかったようだ」
 従臣に身をやつしているのは、“聖手書生”蕭譲であった。そこへ王都尉がやって来た。従僕に変装した“鉄叫子”楽和を連れていた。彼らは呉用の命を受け、朝廷内の“味方”である宿元景、王都尉のもとに潜入していたのである。
 王都尉は門楼から御街を見渡した。必要以上の禁軍兵が集まっている。正午の陽を受け、槍の穂先が銀色の林のように輝いていた。
 どうすべきか──と、宿元景は王都尉に目顔で問うた。王都尉も、この時ばかりは飄々としてはいられなかった。
「宿太尉にも、わしにも兵権がない」
 宿元景が東の方を望見し、提案した。
「城外に引き返すよう指示しては」
「勝手に命令をたがえては、讒言される恰好の材料になろう」
 宿元景は言葉に詰まった。
 あれほど苦労して梁山泊を招安したのに、その努力が、犠牲が無駄になるのか。彼ら“清流派”の国政への夢も理想も、ついえるのか。
(高求よ、お前こそ“謀叛人”ではないか)
 宿元景は拳を握った。筆しか持ったことのない拳であった。
 そこへ、聞煥章と韓存保が登ってきた。聞煥章は常に変わらぬ穏やかな微笑を浮かべて言った。



「閲兵の時刻が遅れているようですね」
 宿元景が聞煥章を呼んだのである。宿元景は二人に高求らの陰謀のことを打ち明けた。韓存保が、低く唸った。
「愚かな」
 梁山泊から帰還した韓存保は、命を受けて暫時、東京防備の任に着いている。冷静な男が、太い眉に怒気を浮かべた。
「愚かなり、高求。梁山泊が本当に叛し、東京が戦場と化すとは考えぬのか」
 楽和は太陽を見上げた。
「今は時間がありません」
 宋江たちは、すでに開封城内に入ってしまった。
 正午になれば、天子がいるいないに関わらず、彼らは宣徳門前へ行進する。待ち受けるのは、禁軍の大軍だ。御街に並ぶ矢来の陰に、火砲まで持ち出しているのを、楽和の目は見逃さなかった。王都尉は若き軍師に希望を託した。
「聞参謀、妙案は」
 聞煥章の秀でた眉が微かに曇った。
『その位にあらざれば、その政を謀らず』──それが聞煥章の信条である。
 彼の役目は、梁山泊を帰順させることであった。招安が成った後のことまでは、彼の関知するところではない──はずだった。
「天子はいずこに?」
 後宮だ──と宿元景が答えた。男子禁制の後宮では、容易に連絡をつけられない。
「間もなく正午……時間がない。“在不在”」
 聞煥章は、つねにどこかに控えている老間諜を呼び、耳打ちした。韓存保はすでに決意を固めていた。
「軍の方は、わしがなんとかする」
 韓存保はそう言い残し、足早に門楼の階を下りていった。





 荒野には、生き物の気配はなかった。
 ふらふらと枯れ野を歩いていく楊雄の後を、石秀は黙ってついて行く。
 どこへ行くのでも、構わなかったが、ただ、楊雄自身、自分がどこへ向かっているのか、まるで分からないでいるようだった。
 最初は薊州へ行こうとしたのか、北へ向かった。しかし、いつの間にか道を戻って、西へ向かった。かつて仕官していた洛陽に行こうとしているのかと思ったが、道のりは一向に捗らなかった。ここ数日、ふたりはずっと荒野を彷徨っている。
 明け方、ようやくさびれた街道に出た。あてずっぽうに歩いてきて、石秀にも、もう自分たちがどこにいるのか分からない。
 路傍に茶店の廃墟があった。ここなら食事にありつけると思って目指して来たのだが、どうやらあてが外れたらしい。石秀は楊雄に声をかけた。
「俺は腹が減って、もう歩けない」
「私もだ」
 そう言いながら、楊雄はなお歩き続けようとする。
「雄さん、少し休もう」
 とはいえ、日を遮るものもない。石秀はあたりを見回した。空の一角が、きらりと光った。
「鳥だ」
 石秀は空を指さした。
 楊雄は空を仰いだ。空は晴れ、太陽が眩しい。どこかで鳥の羽ばたく音が聞こえた。楊雄は、ふと空へ腕を延ばした。その指先に、ふわりと鴿が舞い降りた。
 石秀が驚いたように言った。
「ずいぶんと馴れた鴿だな」
 何かが、石秀の心に引っかかった。
(いや、まさか)
 石秀は、茶店の廃墟に転がっている石碑を起こした。
 表には『東京十里』、そして裏には独特の書体で『店』と翼の紋様が刻まれていた。
 再び舞い上がろうとした鴿を、石秀はさっと掴んだ。
 鴿の足に、小さな筒がついていた。中に薄い紙切れが入っていた。戴宗の文字だった。文字を追う石秀の顔に、不敵な笑みが広がった。
「雄さん」
 石秀は顔を上げた。
「休んじゃいられないようだ」
「どうした」
「梁山泊の仲間が呼んでいる」




 鄒淵と鄒潤の叔父甥は、鄙びた宿屋の前にぼんやりと座り込んでいた。
 登雲山に帰る前、都会の賭場で一勝負しようと思い立ったのが運の尽きだった。この裏街道ばたの賭場で負けに負け、一文なしだ。
 庭先で一羽の鳥が地面をついばんでいる。
「鳥だぞ、叔父貴」
 鄒淵は空の財布を投げ捨てた。
「すかんぴんだ、掴まえて、食おう」
「いや、待て。ありゃ、呉用先生の鴿じゃねぇか?」
「鴿なんぞ、みんな同じ顔だ。そんなに梁山泊が恋しいか」
 ふわりと白鴿が羽ばたいた。その足の筒が、きらりと光った。
「間違いねぇ!!」
 二人は同時に立ち上がった。
「掴まえろ!!」




 東京をめぐる空を、たくさんの鳥が飛び交っていた。
 黒い烏と白い鴿。
 烏は凶兆、白い鴿は凶報をもたらす。
 戴宗もまた、地上を行く一羽の鳥のようであった。両足には四枚の甲馬が縛りつけられている。夜明けから、走りどうしだ。
 昨日、高求の陰謀を掴んだ戴宗は、各地に散った仲間に知らせるため、東京城の内外に散らばる“店”を駆けずり回って、飛ばせる限りの鴿を飛ばした。神行法では日に八百里が限界だ。しかし、訓練された白鴿たちは千里を飛ぶ。
 凶報を託された鴿は“店”から“店”へ飛んでいく。通りがかる者がいれば、必ず気づくと信じていた。
「親分、急いでくれ!!」
 振り返り、戴宗は叫んだ。燕順が馬上で応えた。



「おお!!」
 燕順の後ろには、五百人あまりの男たちが従っている。
 燕順は清風山へ戻る気にもならず、かといって行くところもなく、東京近くで小さな山を乗っ取っていた。その山に、朝方、戴宗が現れた。
 これだけの人数がいれば、神行法は使えない。しかし、戴宗を先頭に、馬は飛ぶように走り続けた。
(間に合うか?)
“錦毛虎”燕順は真昼の太陽の下、馬にさらに鞭を入れた。さっき、“店”で替えたばかりの馬だが、もう全身を炭火のようにたぎらせて、口には泡を含んでいる。
 燕順は後に続く男たちに振り向いた。いずれも一癖ある面がまえの男ばかりである。
「覚悟はいいな!! いざとなれば、東京を火の海だ!!」
 東京はもう近い。
前方に運河が見えてきた。その岸辺から、今しも上陸しようとする一団の男たちがいた。いかにも山賊風の出で立ちをした屈強な壮士ばかりだ。
 燕順は目を凝らした。
「おお!!」
 桟橋に背の高い男が降り立った。
「“摩雲金翅”!!」



 鉄棒を手に、欧鵬が振り向いた。船上には、蒋敬、馬麟、陶宗旺の顔もある。黄門山の手下もいる。その数は、梁山泊を去った時より増えているようではないか。

 見上げると、青空の彼方を、たくさんの白い鴿が群れとなり、太陽に向かって飛び去っていくのが見えた。


※文中の「黄水」は、正しくはです。
※文中の「高求」は、正しくはです。
※文中の「楊晉」は、正しくはです。
※文中の「啄鹿原」は、正しくはです。
※文中の「登飛」は、正しくはです。
※文中の「火眼俊猊」は、正しくはです。
※文中の「赫思文」は、正しくはです。
※文中の「運城県」は、正しくはです。





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