欧鵬、燕順ら小彪将は、休むことなく金沙灘を駈け続けた。
歩兵を援護し、敵軍の集結を妨げるのだ。楊温と梅展の軍が上陸を果たせば、戦況は官軍に有利となる。燕順は上陸を阻むため、兵を水際きりぎりまで前進させた。
「最後の仕上げだ!!」
波打ち際では、“弃命三郎”石秀が徐京と戦っている。相手が素手と見て、石秀も槍を捨てた。“薬師”徐京はさすがに手ごわい。石秀の繰り出す拳を、巧みに拳法であしらっていく。“病関索”楊雄は刀を手に、岩に座って休んでいる。その周囲には、首のない死体が累々と折り重なっていた。やがて、楊雄はゆっくりと立った。
「石秀、遊んでいる暇はない」
「雄さん、もうちょっと待ってくれ」
石秀は軽く片手を上げた。
「すぐ片づける」

「小僧、なめるな!」
徐京は自ら編み出した扁鵲拳の奥義を繰り出した。“越人歩”──大きく振り上げた脚が石秀の眉間を狙った。その軸足を誰かに掴まれ、徐京は体勢を崩した。水中に潜んでいた童威と童猛が、そのまま徐京を深みへ引きずり込んでいく。
「卑怯!!」
石秀はすかさず拳を握り、徐京の脳天めがけて打ち込んだ。
「今度ゆっくり遊んでやるさ」
徐京は失神し、水中へ沈んだ。気づくと、遠くで声が聞こえた。
「水を吐かせろ!!」
激しく咳き込み、目を開けると、徐京は縛り上げられて波間をどこかへ運ばれていた。すぐそばを、やはり簀巻きにされた李従吉が気を失ったまま担がれて行くのが見えた。
両軍の喚声が空に、峯に、こだましていた。
金沙灘にも山道にも、そして、水中にも官軍の兵が満ちていた。しかし、梁山泊軍も波間、岩陰、木の梢まで、ありとあらゆる場所に身を隠し、官軍に襲いかかった。
“闌路虎”楊温は、水中に槍を突き出した。
煙のように血が広がり、半裸の死体が浮かび上がった。楊温は自ら槍をとって兵を叱咤し、着々と上陸を敢行した。
楊温と梅展軍が上陸すれば、戦況は梁山泊の不利に転じる。奇襲を受けた節度使軍も、次第に陣容を立て直していく。この数万の官軍が上陸し、合流すれば梁山泊軍は防戦に回るしかない。梁山泊軍はさらに激しく攻めた。その士気は衰えることはない。
“玉麒麟”盧俊義の姿が人々を鼓舞していた。戦場での盧俊義は強烈な光を放つ。副首領ながら平生は口数少なく、聚義庁においても常に宋江に一歩を譲る人物である。しかし、槍をとっては余人の追随を許さぬ強さがあった。河北の三絶、“玉麒麟”盧俊義は戦場にこそ降臨するのだ。
その威容は、敵も味方の目をも引きつける。
「あれが梁山泊副首領、“玉麒麟”盧俊義だ!!」
節度使軍が雲霞のごとく群がった。窮地となれば、盧俊義の技はなお冴えわたる。盧俊義の副将についた“跳間虎”陳達、“白花蛇”楊春も残る力を振り絞った。彼らに与えられた手勢は少ない。今回の出陣にあたり改めて少華山以来の手下を数えてみれば、もはや百人にも満たぬ。燃え上がる史進の屋敷から飛び出した日が、妙に遠く陳達には思われた。その時、何者かが背後の敵を切り伏せた。
「陳達、楊春、後ろが隙だらけだぞ」
「兄貴!!」
乱戦の中に“神機軍師”朱武が立っていた。

「わしが刀を使えることを忘れるな」
そう言って、朱武は笑った。少華山の頭目の顔に戻っていた。
水辺の梁山泊軍は、すでに三、四十隻の海鰍船を奪っていた。
「これで足りる、もういいぞ!!」
魯智深と武松が船が出るのを援護している。
「船を出せ!!」
女たちを乗せた海鰍船が、次々と金沙灘を離れていく。最後の船に、“操刀鬼”曹正が楓児を押し上げた。岸辺に穆春の愛猫・玉環がうずくまっている。
「おっと、こいつも忘れるな」
魯智深が猫を掴んで、柳絮の懐に投げ込んだ。同じ船には徐寧の妻も乗り込んでいる。
「さあ、漕ぐのよ!!」
船板に鈎鎌鎗をつき、張りのある声で息子たちを励ました。
「阿晟、もっと力を入れて踏みなさい!!」
水手のいない踏み板に、女や子供たちがついている。力の足りない子供たちは、何人かでひとつの車輪を踏んだ。船が梁山を離れていく。雷横の老母が背負ってきた大きな布包みを下ろし、遠ざかる梁山に向かって手を合わせた。
去っていく船の上から、楓児が波間で見送る曹正に指でなにかを語りかけた。曹正も応えた。誰にも分からない言葉である。
しかし、見たものは、みな分かった。
“死なないで”
またすぐ会える──と、楓児はそう言ったのだ。
女たちが乗り込んだ海鰍船の甲板や船倉では、混乱が続いていた。水軍の男たちから一夜漬けで操船法を叩き込まれていたが、それだけで船頭になれるわけもない。女たちは赤く上気した顔を見合わせた。
「ねぇ、どこへ向かうの?」
腕まくりで舵を握るのは、江南から来た茶商人の女房である。日に焼けた中年女で、船の扱いには慣れている。
「南冥だろう、そう聞いたよ」
「南冥って、どっちよ」
女たちは各々てんでばらばらの方角を指さした。徐寧の妻が指南魚を覗き込む。
「もっと東よ、太陽を右手にして!」
「きっと官軍の船が追いかけてくるわ、どうしよう」
「応戦準備よ!!」
女たちが甲板に駆けだしていく。海鰍船には、盾と矢よけの竹矢来が装備されている。力を合わせて船縁に矢来や簀の子を立てかけた。その陰に、弓を使える者が隠れた。
「弓娘、射れる?」
呼延箭娘が姉の顔を窺った。
「射れるわよ」
弓娘は唇を固く結んで弓を構えた。
三十余隻の海鰍船は、雁の群れのように連なって南を目指す。まだ飛ぶことに慣れていない、新米の雁の群れである。

ふらふらと航行する海鰍船は、沖合に停泊する高求からもよく見えた。
「奪われた海鰍船を追撃し、火矢を射かけよ」
高求が劉夢竜に命を下すと、その命令はすぐに戦船の周昂、丘岳にも伝えられ、にわかに戦船が動きが慌ただしくなった。高求は、梁山泊が慈悲心で女子供を逃がしたなどとは思っていない。外にいる騎馬軍を迎えに行くのは明らかだ。
高求は、すぐさま追撃を命じる銅鑼を打たせた。旗艦を取り囲む隊形のまま、戦船が動きはじめる。
「一隻も逃がすな、必ず沈めよ」
高求は妓女に新しい酒を注がせた。西域から取り寄せた、高価な葡萄の美酒である。牛邦喜がどこからか調達してきた妓女も、なかなか魅惑的な女だった。高求は無邪気な小娘よりも、ちょっとくせのある女を好んだ。
「この戦が終われば、東京へ連れていってやるぞ」
顎を撫でて機嫌をとると、女は猫のような目で微笑んだ。
戦船は針路を変え、速度を上げた。
海鰍船の甲板で、見張りに立っていた女房たちが口々に叫んだ。
「向かってくるよ!!」
楽大娘子が剣娘を振り返る。彼女たちの船が最前列についていた。敵の船は、どんどん船足を上げている。楽大娘子は娘を近くに引き寄せた。
「どうしましょう」
「もっと速く進めない?」
剣娘は船底を覗いたが、みな必死に水車を踏んでいる。甲板に戻ると、戦船の甲板に弓兵が並んでいるのが見えた。ちらちらと輝いてみえるのは火だ。猛火油をしみ込ませた火箭を射込まれれば、軽量の海鰍船はひとたまりもない。
(どうしよう)
戦おうにも、こちらの船には、女子供、老人と水手しか乗っていない。天から降ったという石版に名が刻まれていた百八人は、一人も乗り込んではいないのだ。
天からも、運命からも見放されたように心細かった。
彼女たちは運命ではなく、夫や父親に従って梁山泊にやってきただけだ。梁山の神は、彼女たちまでは守ってはくれないのだろうか。
(いいえ)
剣娘は遠ざかる梁山に振り向いた。

(だって、私たちだって、梁山泊を守るために行くのだもの)
梁山泊外、南岸。
南冥から続く湖岸の荒野を、西へ駆け抜けて行く騎兵の一団がいる。先頭を行くのは林冲。続く魏定国が掲げる梁山泊騎兵の旗が、音をたててたなびいていた。
梁山泊騎兵軍のもとに“浪裏白跳”張順が泳ぎ着いたのは、もうだいぶ前のことである。張順は叫んだ──『迎えの船が来るぞ!!』
梁山泊へ戻れる。
“浪裏白跳”張順がもたらした知らせ──それは一条の希望であった。
一筋の道であった。
張順は再び叫んだ。
『船はどこへ!!』
関勝、林冲、呼延灼が同時に答えた。
『──五丈河へ!!』
それから、彼らは駆け続けている。
呼延灼は駆けながら、地平線の彼方へ目をやった。
日は、すでに西へ傾いている。
彼らが迎えの船の行き先に選んだ五丈河畔には、官軍が陣を構えている。五丈河の南岸、鳳尾坡と呼ばれる丘が本陣だ。宣贊配下の斥候が陣容を探り出していた。
官軍の陣は初め五丈河の北側に築かれたが、そこでは水深が浅くて船着場が作れない。そのため、緒戦の後に陣は南岸に移された。そのほうが、南冥を攻めるのにも、済州を防御するにも都合がよい。

五丈河南岸の本陣めざし、梁山泊騎馬軍は林冲を先頭にして、一路、西を目指して駆けた。行く手には、黄金の矢のような光を放つ太陽がある。呼延灼は馬上で目を細めた。
地形が変わったのが分かった。足場が悪い。南冥から続く固い地盤が終わり、柔らかな土に覆われた黄土となった。湿っている。五丈河が近いのだ。
遠方の空に、際立って目立つ色が見えてきた。七色の旗が風をはらんで翻る。
水が光った。その水に麓を現れるようにしてある小高い丘こそ“鳳尾坡”、官軍の本陣である。
守るのは、十節度使最後の一人───韓存保。
官軍の戦船が、女たちの海鰍船を追撃していた。
「追いつかれるわ!!」
甲板の女たちは悲鳴を上げた。先頭の船は、呼延剣娘が指揮をとっている。
「落ちついて!!」
剣娘は唇を噛み、じっと前方の水平線に目を凝らした。
(もう少し)
女たちの海鰍船は、東へ東へと針路を傾けていく。やがて、波の彼方に李俊から教えられた“三ツ岩”が見えた。剣娘は叫んだ。
「あの岩まで頑張るのよ!!」
三ツ岩の向こうには浅瀬が広がっている。軽量の海鰍船ならば、越えられる。重い戦船ならば、越えられずに座礁するはずだ。
官軍の戦船は船足を上げ、ぐんぐんと距離を縮めてくる。もう甲板の兵士の顔まで見えそうだ。舵取りの女房が叫んだ。
「追いつかれるよ!!」
「あと少し頑張って、あの岩まで──」
欄干に乗り出した剣娘を、威児が体当たりして突き飛ばした。
「姉上!!」
剣娘が立っていた船縁に、燃え盛る火矢が立った。
梁山の岸辺で戦っていた阮小二は、空を見上げた。
そばにいた石碣村の漁師たちも、同じように空を仰いだ。空の高みに一筋の雲が流れている。
「──風がでできた」
朝方から出ていた微風が、いつの間にか止み、また再び大気が動き始めていた。
空は青く、この戦場とはまったく別世界のように輝いている。
剣を手に立ち上がった剣娘の髪を、さっと北風が巻き上げた。
「風だ……」
剣娘は叫んだ。
「帆を上げて!!」
女房たちが帆綱に駆け寄っていく。他の船でも、柳絮が、徐寧の妻が叫んでいた。
「帆を上げるのよ!!」
海鰍船が次々に帆を上げた。追い風を受け、帆は満々とふくらんだ。
軽量の海鰍船は帆を上げてさらに浮力を加え、速度を増した。
丘岳らの船から、高求に指示を仰ぐ信号が上がった。官軍の戦船にも、帆は装備されていた。しかし、官軍は帆を使えなかった。
梁山泊の道士、公孫一清は竜神を使役し、風雨を操る──金陵水軍の兵士たちは、皆がそう信じていた。
彼らの中には、前回の梁山泊討伐に加わり、生き残った者もいる。劉夢驥に従って出陣し、時ならぬ風雨と濃霧、そして巨大な白竜に襲われ、船団は全滅した。
官軍の将たちは、高求はじめ劉夢竜も法術など信じていない。
しかし、兵たちは今回の出陣にあたり、帆のある船に乗ることを恐れた。風雨を操る竜神の前に帆を上げれば、たどり着く先は死地である。従軍を嫌って逃げ出す者も数多いた。
その恐怖を慰撫するために、劉夢竜は帆を使わずとも高速で航行できる海鰍船を投入したのだ。出陣前の聞煥章の“祀り”もまた、術への恐れを和らげるためであった。
今、女たちの船が帆を上げるのを見て、官軍の全船にも解帆の指示が下った。
「我らも帆を!!」
しかし、水兵たちは空を指さし、騒ぎはじめた。空に次第に雲が出ていた。雲が流れて太陽を遮り、あたりが一瞬、暗く翳った。
「見ろ!!」
帆柱の物見が指さした。
梁山の中腹の峯に、黄金の火が燃えていた。その炎の傍らに、剣を抜きはなった白髪の道士を見た。
「出た──公孫一清だッ!!」
物見が叫んだ。兵士、水夫たちは悲鳴をあげた。その恐慌は、瞬く間に官軍の全船に広がった。劉夢竜は浮足立つ部下を叱咤した。
「怯むな、術など幻だ!!」
誰よりも恐慌に陥ったは、彼の部下である南方出身の水兵たちだった。
江南の者は古来より鬼神を重んじる。中でも、風雨に命を預けて生きる船乗りたちは、縁起を重んじ、神秘を信奉する念が強い。彼らにとっては、公孫勝という男の存在そのものが恐怖であった。
小海鰍船の二万人が一瞬で炎に包まれたのも、公孫勝の術のせいだと信じて疑わなかった。聞煥章の法力は、公孫一清には及ばなかったのだ──と誰もが思った。
「公孫一清!!」

それは魔神にも等しい名であった。水夫たちは、巨大な白髪の道士が頭上に迫りくる幻影に襲われた。龍も見ず、風雨も見ず、ただ彼らの心中にあった恐るべき道士の姿を“見た”。
「公孫一清!!」
船上は混乱し、統制を失った。旗艦の劉夢竜もまた、襲い来る恐怖に耐えていた。やがて、劉夢竜は前方に広がる水面の色の変化に気づき、はっとして我に返った。
「舵を切れ、面舵ッ!!」
官軍の船団は、いつの間にか三ツ岩を越えていた。
船首が右へ回り始めたが、間に合わなかった。落雷に似た音がして、船首が暗礁に乗り上げた。岩ではなく、泥の浅瀬だ。船は傾いて停止した。外輪が泥を巻き上げ、あたりの水が茶色く濁った。
劉夢竜はうめいた。
梁山泊は黄河の氾濫によって出来た広く浅い湖である。その水底は起伏に富み、複雑だ。軽量の大海鰍船ならば通過できるが、喫水の深い戦船が座礁するような浅瀬が無数にあるのだ。
河が運ぶ泥土によって、地形は年々変化する。数年前の水路図など役に立たない。梁山泊は“河伯”劉夢竜にも計り知ることのできぬ魔所であった。
後続の船が、混乱から立ち直り、次々と浅瀬をめざしてやって来る。
「来るな──罠だ!!」
劉夢竜の声が、風の唸りに消えた。
公孫勝の白髪を、風が散らす。
梁山泊から湖へ、風が吹き抜けていく。女たちの海鰍船は風に乗り、飛ぶように南へ向かって進んでいく。
公孫勝は岩の上に佇んでいる。樊瑞は師を見上げた。
「師よ──」
公孫勝は頷いた。
「戦うがいい、樊瑞」
樊瑞は一礼した。
手には剣、首には流星錘。樊瑞は岩を蹴った。岩場を走り、金沙灘へと駆け降りた。金沙灘から山裾にかけ、梁山泊と官軍の戦いは続いている。そのただ中に、“混世魔王”樊瑞の流星錘が炸裂した。
空よ。風よ。樊瑞は駆けた。
今頃、項充、李袞はどこにいるのか。もう長いこと会っていない。
しかし、やはり彼らもどこからか、この梁山を見ているだろう。梁山泊こそ、彼ら三人の約束の福地であったのだから。

李応と柴進は、山腹に築いた砲台から遠ざかる船を見守っていた。その傍らでは、遠目のきく“赤髪鬼”劉唐が小手をかざしている。
「女たちの船、すべて三ツ岩を越えた」
劉唐は沖合に目を転じた。
「官軍の戦船は大混乱だ。よほど“入雲龍”が怖いらしい」
柴進は金沙灘の様子を尋ねた。
「梁山泊軍の動きは見えるかね」
千里眼の離朱がいればよかったのだが、湖の外に出した鶏狗は一人も戻ってきていなかった。劉唐は砲台から思い切り体を乗り出した。
節度使軍は数に任せ、梁山泊軍を包囲し始めていた。梁山泊軍は次第に押され、山側へ撤退を余儀なくされている。
柴進と李応は視線を交えた。彼らの背後には、火砲がずらりと並んでいる。砲口は金沙灘に向けられていた。李応が頷き、手を上げた。
「撃て!!」
轟音が腹に響いた。前回の砲撃は脅しにすぎない。女たちの船が出た今こそ、心おきなく撃てるのだ。
凌振不在の今、雷横と湯隆が火砲を操作していた。ともに“鍛冶屋”の経歴を持ち、ずっと凌振の助手を務めてきた二人である。
しかし、扱い方は知っていても、うまく標的に当てる技は別ものだ。湯隆が金沙灘の節度使軍を狙った砲弾は、金沙灘を飛び越えて波間に落ちた。
「くそっ、当たらねえッ」
続けて数発を放ったが、今度は金沙灘に残った海鰍船の舷側に当たり、大きな水柱を上げた。雷横が湯隆を押しのけた。
「俺に撃たせろ!!」
雷横が撃った砲弾は山裾に炸裂し、敵も味方も吹き飛ばした。李応が立ち上がった。
「貸してみなさい」
李応が照準を合わせて放つと、金沙灘から梁山へ逃げる官軍の中に落下した。李応は飛刀の名手である。
「飛刀を投げるように、放てばよい」
しかし、李応の顔は暗かった。
李応はこの砲台から、金沙灘を逃げる妻が矢を受けて倒れるのを見たのである。
ただ、彼の五人の夫人は皆よく似ていて、どの妻だったのかは、分からなかった。
女たちの船が脱出したのを見届け、梁山泊軍は金沙灘から梁山へ撤退を開始した。しかし、撤退こそ容易ではない。それを助けるのが砲撃の役目のはずだった。
「下手くそめ!!」
燕順は馬首を返した。
もとより接近戦では火砲の援護は受けられない。梁山泊軍は逃げると見せては反転し、追撃する節度使軍に攻撃をかけた。さらに岸辺の岩場や僅かな起伏の陰にも、梁山泊の伏兵が隠れていた。
節度使軍には不利な戦場だった。あたりに充満する火砲の煙も視界を遮る。しかし、楊温の兵ももとは山賊である。反撃にも伏兵にも慌てることなく、一人また一人と梁山泊の兵を倒していった。
欧鵬は歩兵を先に退かせるべく、敵軍の前へ飛び出した。その馬が足を払われて砂州に倒れた。欧鵬は腿に傷を負っていた。梅展に挑んだ際に、暗器の攻撃を受けたのだ。倒れた欧鵬のもとへ、伝令の王定六が駆けた。
「これに乗んナ」
王定六は王文徳から奪った馬を牽いていた。
その頃、ようやく砲撃の照準が定まってきた。節度使軍は、梁山泊軍と接触していない後方部隊に砲撃を受けていた。その混乱に乗じ、梁山泊軍は一気に山側へ撤退した。
節度使軍だけが金沙灘に残されては、狙い撃ちされる。楊温は全軍に前進を命じた。
「敵から離れるな!!」
節度使軍は砲撃を避け、梁山泊軍を追うようにして梁山の登り口へと急いだ。
湖上では、海鰍船上の女たちが砲声が轟くたびに悲鳴をあげた。
「あたしたちを狙ってるの?」
「あれは味方よ」
柳絮は常に落ちついている。
「さあ、進むのよ!!」
海鰍船は浅瀬を抜けた。即席の女水手たちも、だいぶこつを掴んできていた。
「急いで、急いで!!」
その時、先頭を行く船のすくそばに、水しぶきとともに張順が浮かび上がった。泳ぎ続け、全身から湯気が立っている。気づいたのは威児だった。張順は威児が投げた綱を伝って、海鰍船によじ登り、したたる水も拭わず叫んだ。
「五丈河へ!!」

船が進路を西へ変えていく。張順は後方に座礁した戦船に目をやった。
「後は頼んだぞ」
威児が張順を見上げ、尋ねた。
「どちらへ?」
「俺にはもう一仕事あるんでね」
張順は匕首をくわえると、再び湖へ身を躍らせた。
船大工の葉春は、座礁した旗艦の船倉から飛び出した。
「俺の船を壊しやがって!!」
葉春は船を修理すべく、道具を抱えて甲板を走った。彼には音だけで船のどの部分がどんな損傷を受けたか分かる。まずは舵だ。壊れた舵部分から浸水もしている。修理には、水中に潜らなければならないだろう。劉夢竜に言い捨てた。
「半時で直す、それまでに暗礁から脱出しておけ!!」
戦船はすべてが座礁したわけではなかった。後続のほぼ半数が船を停め、座礁を免れていた。劉夢竜はその戦船に旗艦を牽引させることにした。作業に当たらない残りの船は、浅瀬を避けて大海鰍船を追う。乗組員は劉夢竜の直属の部下である。操船には長けていた。しかし、すぐに船倉から水手たちが逃げ出してきた。ずぶ濡れの兵士が、手すりに縋る劉夢竜に報告した。
「浸水です!! 座礁した時に船底が……!!」
「修理しろ、葉春はどうした」
「──あそこに」
兵士が指さす波間に、喉に匕首を突きたてられた葉春が浮かんでいた。
沈まぬ船──“三千釘”葉春の止めを刺したのは、“浪裏白跳”張順の一本の匕首であった。
金沙灘の海鰍船は、すべてが梁山泊軍に奪われたわけではなかった。
梁山泊軍が撤退し、節度使軍も山側へ進軍すると、雷横と湯隆は岸辺に停泊する大海鰍に狙いを定めた。
「官軍に一泡ふかせてやろう」
湯隆が気合とともに砲を放った。砲弾が命中し、湯隆は自分でも驚いた。
「“轟天雷”が乗り移ったか」
被弾した海鰍船は船内に浸水し、見張りの官兵と梁山泊に投降しなかった漕ぎ手たちが湖へ飛び込んでいく。
湯隆は火薬を詰めながら、雷横に振り向いた。あばた顔が煤で真っ黒になっている。
「この調子で、高求の船を沈めてやろう」
雷横は砲台の隅に置かれた、覆いをした砲に目をやった。
“轟天雷”凌振が、自分以外の者には触ることすら許さなかった“風火砲”──射程距離の特別に長い砲である。
「おもしれえ、一度こいつを撃ってみたかった」
「旗艦は遠いぞ。火薬を詰められるだけ詰めろ」
雷横は酌で火薬をすくい、風火砲に詰め込んだ。
「ぶっ放せ!!」
湯隆が照準を定めて点火した。山が崩れたかと思うような爆音が轟いた。

次の瞬間、凄まじい爆発が起こって砲身が破裂した。湯隆と湯隆は吹き飛ばされ、背後の草むらに叩きつけられた。
劉唐は、李応とともに咄嗟に岩影に飛び込み難を逃れた。
「ばかやろう、調子に乗りやがって!!」
風火砲はばらばらになり、他の火砲も爆風を受けて将棋倒しになっている。雷横が呻いた。
「轟天雷に怒られるな」
柴進は立ち込める煙を避け、風上の断崖に立った。
「座礁した船、当分は動けまい。しばし、あの場に鎮座していていただこう」
柴進は湖を眺め、扇をゆらした。
みな、梁山泊の中に自分だけの場所を持っている。呉用の四阿、林冲の桜──柴進は、この断崖からの眺めが好きだった。広々とした空と湖、いつも、ここからの風景を美しいと思った。しかし、今日は少しも美しくは見えなかった。風には、煙るように血と硝煙の匂いがこもっている。
いつの間にか太陽が西に傾き、空に金色の光が射し始めていた。

砲声がやんだ。
砲撃が収まったのは、節度使軍が梁山へ進軍した合図である。梁山に隠れた梁山泊軍が、再び密かに、しかし機敏に動きはじめた。
梁山泊軍は全軍が山中へ撤退していた。撤退というより、雑木林や岩場を踏み越えて、三々五々、山中に紛れ込んだというほうが近い。みな抜け道や獣道を知っていた。欧鵬、燕順ら小彪将は、岸辺の僅かな浅瀬を渡って、島の裏へと戻っていた。
そこで、馬を乗り捨てた。解宝が扠を手に待っていた。
「こっちだ、急げ」
解宝は先に立ち、藪に覆われた獣道を登っていった。
風が吹いていた。
金沙灘には無数の死体が漂い、打ち寄せるに波に乗って湖へと運ばれていった。女たちが乗り込んだ船は水平線の彼方に遠ざかり、やがて消えた。
扈三娘は金沙灘に近い岩場の陰にいた。遠い山へ目をやると、峯に公孫勝の姿が小さく見えた。
しかし、すぐに見えなくなった。
金沙灘の梁山泊軍はみな梁山に散り、節度使軍は部隊をまとめなおすと、梁山へ進軍を始めた。
「……どうしたらいいの」
扈三娘は呟いた。その背後には、花栄の妻の崔淑卿と息子の望春が、宝燕を抱きかかえて座り込んでいた。身重の宝燕を船に乗せることができなかった。扈三娘に助けられ、彼らはどうにかここまで逃げてきたのだ。
これから先は、梁山が攻防の舞台となるのだ。扈三娘も戦いに加わらなければならない。
(王英は無事かしら)
しかし、ここに彼ら母子を見捨てて行くことはできない。
聚義庁まで送り届けることができれば取り敢えずは安全だろうが、その途中どこで官軍に遇うか分からない。
迷う扈三娘の手を、宝燕が握った。
「行ってちょうだい」
宝燕は扈三娘を見上げ、微笑んだ。
「あなたは──戦って」
かつての輝くような笑顔ではない。しかし、毅然とした優しさは変わらなかった。扈三娘は亡き母の最期の笑顔を思い出し、はっとして唇を噛んだ。
「私たちは、みな戦っているのよ」
強く手を握り返した。
その時、花望春が立ち上がった。
「洞窟に隠れよう。近くに、僕たちの隠れ家があるんだ」
そう言った息子が、妙に大人びたように淑卿には見えた。
「あそこなら、誰にも見つからない」
友達はみな行ってしまった。頼りになる父親も、叔父もいない。しかし、望春は怖くなかった。
出陣の前夜、彼は父親に呼ばれた。それだけでも珍しいことだったのに、いつも子供扱いする父親が、大人の男同士のように真剣な顔で言った。
『俺が賊になったのは春だった。お前が生まれたのも春だ。俺は望んで賊になったが、お前は違う。お前は、自分で決断した時に、何をどう決めるのでもいい、その時に、名を“逢春”と改めろ』
わけが分からないでいる望春に、父親は『分かったな』と念を押した。
今は、少し分かるような気がした。
“望春”──いつか来る春を待つ。
いつか、まだ知らぬ特別な春が来るのだ。どこかで、強い自分が待っている──そんな希望に胸が高鳴る。
「行こう」
花望春は荒れ果てた岩の間を、先頭に立って歩いていった。
五丈河畔の陣が、目前に迫っていた。
疾駆する梁山泊騎兵軍から、呼延灼が先頭に出た。韓滔、彭己がその後にぴったりと着いている。官軍の陣は静かだった。ただ旗がはためいている。無地の旗だ。
しかし、呼延灼には分かる。
(あの男がいる)
静かなる猛将──“あだ名なき”韓存保。
呼延灼は鞭を握った。あの男と、戦うことになるとは。いや、梁山泊に降った時から、この日が来ることは避けられなかった。
二人は竹馬の友である。武学にて机を並べ、槍を合わせ、初陣で生死を共にした。婚礼では介添えとなり、親の通夜に酒を酌み、子の誕生に祝いを贈った。人生の殆どの苦楽を共にしたのだ。呼延灼の出征中、妻の葬式を出してくれたのも韓存保だ。呼延灼が落草した時は、自ら辺境防備へ志願した。
呼延灼は仮面をとった。それが、友への礼儀であろう。韓滔と彭己は呼延灼から僅かも遅れまいとした。
轅門が開け放たれ、陣中より一人の男が馬を進めた。方天画戟を手にしていた。黒柄の戟、甲冑にもなんら装飾はない。

「久しいな──呼延灼」
重く、無骨な声が肚に響いた。
「──韓存保」
それ以上、二人の間に言葉は無かった。
兵士たちの怒号が夕空を衝く。官軍三万八千対、梁山泊軍一万三千。五丈河の広大な河畔を狭く感じるほどだ。梁山泊軍を率いるのは、関勝、林冲、呼延灼ら上将三騎。朱仝、楊志、徐寧、索超、史進、穆弘ら六正将。そして、孫立、黄信、宣贊、赫思文、韓滔、彭己、魏定国、凌振、李雲ら九偏将が轡を並べる。その数、合わせて十八将。
対する官軍は、あだ名なき男、韓存保。続いて轅門より“老風流”王煥が躍り出た。
「賑やかなことだ!」
王煥は白髯をなびかせ、鎗をしごいた。王煥の相手はすでに林冲と決まっている。
宵闇の戦いが始まった。喧騒の中、“井木干”赫思文が駆けながら関勝に問い掛けた。
「勝てましょうや」

関勝は答えた。
「勝てる──しかし、血は流れるだろう」
それがふと思いついた『春秋』の言葉だったのか、それとも何かの予言だったのか──関勝にも、後まで判然としなかった。
関勝の偃月刀が夕日を弾く。
両軍の馬が、一気に馳せ、ぶつかった。
ぎょろりとした目、四角い顔。ずんぐりとして、背は低い。
(思っていた男と違う)
それが、“九紋竜”史進が見た韓存保の第一印象であった。
風采は上がらない、甲冑も馬具も兵卒のようだ。梁山泊では“双鞭”呼延灼こそ無骨と云われるが、この男に比べれば瀟洒に思える。
背後の索超が出ようとするのを感じた史進は、遅れじと馬腹を蹴った。が、彭己の三尖両刃が、史進の三尖両刃を遮った。
「まだ早い」
いや、あとどれほどの月日を費やしても、史進にも、自分にも、やはり“早い”のだ。
岸辺に両軍の兵士が入れ乱れている。
呼延灼と韓存保の馬が馳せ交う。鞭と戟が交差して火花が散った。甲冑がぶつかり、二人の将の視線が混じった。
(やはり韓存保だ)
呼延灼は戟を受ける腕に力を込めた。
確かに、その風采から、時として韓存保を見下す者もいる。しかし、すぐに恥じることになる。韓存保の軍人としての才略、そして人格は、官軍の数多の将士の中でも抜きんでている。画戟の技は、自在にしてその重厚さを失わない。この画戟は自ら鋳たものだ。粗末に見える甲冑も、近づけば見事な革を使っている。馬は馬高こそないが、竜のごとき体躯をして、烏騅、赤兎と並んで遜色なかった。しかし、恐るべきは、そんな表層のことではない。
韓存保には、“迷う”ということがない。
常に通すべき道理を通し、行うべき義務を行う。淡々と道を貫く。
迷わぬ──それが、関勝と呼延灼、聞煥章と韓存保の道を分けたのかもしれなかった。
節度使軍は山道を進撃した。
楊温は梁山の峯を見上げた。黄昏の中で、梁山が西日を受けて輝いている。その山腹に、敵の関門が点在しているのが見えた。守りは堅固だ。情報によれば、山道を遮る関門は三つ。それを破り、山頂へ向かうべく、官軍は山道を進んでいった。
欧鵬は、待っていた。
解宝の案内により、彼らは山中の獣道を伝って官軍の進む石段に接近した。あたりの山肌は刺のある藪にびっしりと覆われている。
上陸した節度使軍は約五万。それに比べ、山に残る梁山泊軍は余りに少ない。
梁山泊軍ははじめは船を奪うため、節度使軍を山道と金沙灘、そして水上に分断して襲った。今度は、敵がすべて山道に入ったのを待って攻撃する。敵を山道という難所に集めるためだ。梁山泊軍は数には劣る。しかし、梁山が彼らを助けるだろう。
欧鵬は鉄棒を握った。
「いよいよだ」
燕順がおう、と声を上げた。
「野郎ども!! ここからが本当の戦だぞ!!」
攻撃の太鼓が空に響き、梁山泊軍は一斉に藪から飛び出した。
「官軍を休ませるな!!」
梁山泊の遊撃部隊は、路傍のありとあらゆる場所から節度使軍に襲いかかった。
節度使軍は関門を目指して山道を這うように進み、その隊伍は山腹に長く伸びている。梁山泊軍はその各所を十数人の小部隊で急襲し、叩いては逃げるという戦法を繰り返した。
あらゆる小道、あらゆる峯、あらゆる草地、雑木林に小分けにした部隊を配置し、間断なく攻撃をしかけては退く。官軍はいつどこから襲われるか恐々として、その身も心も休む間がない。少数の兵で多数の敵を叩くには、地の利に依り、敵の怯えた時を襲う。
呉用の定めた“十面埋伏之計”である。
峰々に轟く太鼓が梁山泊の兵を鼓舞した。
山裾から第一の関門に至る地勢は起伏が激しく、岩場が多くて足場は悪い。節度使軍の先鋒を率いるのは、“闌路虎”楊温である。楊温軍は攻撃を防ぎつつ、石段を力押しに突撃した。背後は梅展軍が支えている。
「進め!!」
それだけを楊温は叫び続けた。
聚義庁には、死傷者があふれていた。敵も味方もすでに万を越える兵が死傷している。負傷者が次々と運ばれてきた。
怪我人の手当てに奔走する安道全のもとに、皇甫端が登ってきた。
「馬がおらんから、わしは暇だ」
安道全は血まみれの顔を袖で拭うと、皇甫端に薬嚢を投げた。
「医者には医者の戦があろうが」

「お前、随分とまともな事を言うようになったな」
皇甫端はわざと驚いた顔をした。そこへ、張横が孟康に担がれて来た。金沙灘から獣道を踏み分けて、ようやく辿りついたのである。
「おい先生、こいつを診てくれ」
「年寄りをこき使いおって」
浮島から運ばれてきた時に応急手当はしていたが、張横はどうしても金沙灘に行くと譲らなかった。診察する安道全に、孟康が尋ねた。
「どうだ、先生」
「見てのとおりだ、まだ生きておる」
安道全は脈をとりながら、呆れたように言った。
「ちぎれた傷は、刃物で斬られた傷よりも出血が少ないものだ」
皇甫端は張横の口をこじ開けると、勝手に安道全秘蔵の“神農牌神威人参麻沸散酒”を注ぎ込んだ。
「馬なら死ぬが、人間は足の一本くらいでは死なん」
隣では“通臂猿”侯健が腹が裂けた男の傷を縫っている。小狗が消毒した布を持ってきた。小狗はあたりを見回した。
「杓児はどうしたろう」
「そういえば、ずっと姿が見えないな」
「兄ちゃん、おいらにできること、あるかい」
「火を近くに持ってきてくれ」
狗児は後ろの松明に手を伸ばした。侯健は妙な顔をした。
「お前──火が見えるのか?」
節度使軍は第一の関門を目指し、山道に最後の突撃を繰り返した。
わずかの距離が、楊温には果てし無く遠く感じられた。登るほどに、足場が悪くなっていく。石段に折り重なるように死体が転がっているためだ。最初にこの関門まで攻め上った王文徳の兵たちだった。
第一の関門を守るのは、“霹靂火”秦明とその股肱・青州兵である。彼らは関門の前を一歩も動かず戦い続けた。後方の支援を失った王文徳軍もまた、踏み止まって攻め続けた。ともに援軍のない死闘であった。
秦明の狼牙棒には血と脂がこびりつき、もはや敵を叩きつぶすより役には立たない。秦明は金沙灘で聞いた呉用の言葉を思った。
『我々は梁山泊を守らねばなりません──何があっても』
わずかの表情も動かさず、呉用は言った。
『もしも守れぬ、その時は……』
秦明は我に返った。
山裾から、新たな軍勢が石段を登って来るのが見えた。
木立の間に間に翻るのは、『楊』と『梅』の旗である。
銀色の宵の明星が、まだ明るい空にぽつりと輝いていた。
王文徳もまた、背後に喚声を聞いた。
「おお、友軍か」
この時、彼は初めて背後を見る余裕を持った。部下はもう半分以下に減っていた。彼は七たび秦明に挑み、七たび後方へ退いた。今度こそ、勝機である。
「持ちこたえろ!! 一気に抜くぞ!!」
声を励まし、王文徳が再び部下たちに振り返ると、すぐ目の前に血まみれの“虎”が立っていた。
“双尾蠍”解宝の扠が王文徳に襲いかかった。解宝は最初の戦いで王文徳をしそんじ、扠を乱戦の中で失った。今、解宝が手にしているのは、浮島で倒れた兄、“両頭蛇”解珍の扠であった。

王文徳は扠を槍で防ごうとしたが、間に合わなかった。やられる──と思うと同時に、足が石段に溜まった血潮で滑った。
体勢を崩したまま、王文徳は石段を真っ逆様に落ちていった。
五条河畔の戦場は、休むことなく続いていた。
官軍は、“車輪之陣”を組んでいた。次々に味方の部隊を入れ換えて戦うという、強靱な敵を疲労させて倒す戦法である。しかし、梁山泊は疲れを見せなかった。なにが彼らを突き動かしているのか、誰にも分からなかった。
河畔には数万の人間が満ちている。叫び声、怒号、悲鳴、断末魔の呻きと、馬の嘶き。刃のぶつかる音と衝撃、踏みにじられ泥が跳ね上がる。
それなのに、妙な静寂を感じるのが不思議だ──と、宣贊は思った。ふと自分の耳が聞こえなくなったのかと思った。蠢く人々、行き交う馬。気を抜けば死ぬ戦場にあって、宣贊は自分ひとり別の世界にいるようだった。

そして、なぜか、ただ一夜の妻であった姫君のことを思った。梁山泊に来て以来、思い出すことも減っていた。
頭巾が邪魔だ。ずっと頭巾が邪魔だった。
そうだ、ずっとこの頭巾が、彼と世界を隔てていたのだ。
頭巾を投げてすてようとした時、肩に敵の槍を受けた。宣贊は我に返った。敵将は宣贊に止めを刺そうとしたが、“鎮三山”黄信の喪門剣に阻まれた。
梁山泊軍は次第に車輪に巻き込まれつつあった。どこを見ても敵だった。
巻き込まれ──粉砕される。
その時、車輪に一本の釘を打ち込むように、側面から節度使軍を急襲する部隊があった。梁山泊の旗だった。援軍である。援軍などあるはずがないと、誰もが目を疑った。
「“董一撞”!!」

鳳尾坡に現れたのは、“風流双槍将”董平、“没羽箭”張清の英姿であった。導いたのは一羽の烏と“錦豹子”楊林である。共旺、丁得孫が獣のように躍り込んだ。
韓存保と戦っていた呼延灼は、“刻”の迫っていることを感じた。戦には波、流れがある。節奏がある。“転機”が近い。迎えの船が近づいているのに違いない。
呼延灼は勝負をかける機を狙った。呼延灼と韓存保はひたすらに打ち合った。宣贊は呼延灼を援護すべく、韓存保の画戟を射た。呼延灼がさらに打ち込み、韓存保の画戟が折れた。韓存保は鞍にぶら下がるようにして身を乗り出し、落ちていた槍を拾った。暗箭を卑怯と咎めることもせず、何事もなかったように雑兵の槍を振るった。
不屈。この男を現すのに、それ以上に相応しい言葉はない。あだ名をつけることさえ許さぬ、堅牢で不動の男。誰もが戦いたくなり、そして、戦えば後悔する男であった。
(不思議な男だ)
生涯において、呼延灼は何度感嘆したことだろう。
二人の男は、一言の言葉を交わすことなく戦い続けた。
一方で、戦況はさらに変化していた。
董平ら遊撃部隊の突入で、節度使軍の“車輪”はその速やかな回転を阻まれた。節度使軍は車輪之陣を建て直すべく銅鑼を打つが、董平と張清が率いる軍は、梁山泊軍でも最も剽悍を誇る部隊である。“車輪”を完全に粉砕すべく、彼らは縦横無尽に戦場を駆け巡る。
節度使軍は数に勝り、精強である。しかし、戦は数ではないことを、山賊だった節度使たちは身をもって知っていた。
楊温率いる節度使軍は、固い岩に穴を穿つようにじりじりと山道を登っていった。
消耗戦になることは、お互いに予想していた。
楊温は自ら精鋭部隊を率いて先頭に立ち、血路を拓いた。
楊温は、耐えた。耐えることができぬ者が山賊になる──と、王煥が言った。
彼にとっては、戦うことも、耐えることも同じだった。
楊温軍は耐え、進み続けた。次々と兵が倒れたが、遅れる者、助けを求める者を顧みることもなく、ひたすらに防ぎ、戦いながら一段ずつ階を登っていった。
楊温は、殺した敵の数を数える癖がある。十を数え、五十を数え、やがて百を数えた頃、ふと視界が開けたように、風を感じた。
顔を上げると、石段の彼方に第一の関門が見えた。
梁山は鮮血に染まった。
明日は湖が紅に染まっているかもしれない──と、皇甫端は思った。彼の後には、小者たちが担架に乗せた怪我人たちを担いで続く。聚義庁の周囲には障壁が作られ、決戦の準備が始まっている。彼らを静かに死なせてやる場所が、聚義庁にはもうなかった。
(終わりというのは、突然に来るものだ)
皇甫端はため息をついた。
動物は死ぬことを考えない。命の火が冷える瞬間まで、なお生きようとする。生きることしか考えない。立ち上がって走ろうとし、なお食物を飲み下そうとする。
だから、皇甫端は動物の病を治してやりたいのだ。死にたがる人間など、救ってやる必要はない。
しかし、今、敵も味方も、みな動物のように、生きることだけを考えて、いや、考えもせずに、戦っている。そんな生命の姿を見ると、皇甫端は切なくなる。
「ここに寝かせろ」
皇甫端は聚義庁の裏手にある、がらあきとなった馬小屋の扉を開けた。
藁の間にうずくまった杓児が、弾かれたように顔を上げた。胸にべったりと血がついていたが、彼自身の血ではなかった。
皇甫端はうろたえる少年の顔をちらりと見たが、特に何も言わなかった。
夜空に銅鑼が鳴り響いている。
狂ったように打ち鳴らされ、峯から峯へこだましていく。百万の銅鑼が打ち鳴らされているようだ。
人々が行き交う中、小狗は手さぐりで晁蓋の廟へ向かった。廟の前では、安道全が怪我人の治療をしていた。
「先生はどんな病気も治せるんだろう。おいら、皆と一緒に戦いたい。おいらの目、見えるようにしておくれ」
「病なら治せるが、生まれつきならどうにもならん」
「おいら、昔は目が見えたんだ。だんだん夕方になると見えなくなって、いつの間にか、なにも見えなくなったんだよ。でも──」
小狗は篝火を指さした。
「光が見える」
安道全は、小狗を捕虜となっている徐京のもとへ連れて行った。
徐京はかつて名医として名を馳せた。特に、眼病の治療に優れていた。それが、誤診でさる高官を失明させた。徐京は薬売りに身をやつして逃げ、やがて賊に身を落としたのである。“薬師”徐京と安道全は旧知の仲だ。
「あれは、わざとだろう」
徐京は、ちらりと安道全に目をやった。安道全はふんと笑った。
「“薬師”徐京の腕は確かだ」
失明した高官は悪名高い漁色家で、美しい女を見れば、人妻でも良家の娘でも構わずに金で奪い取るのを常としていた。
徐京は小狗の瞼を指で押し広げ、眸の奥へ光をかざした。

やがて、ため息まじりに安道全に尋ねた。
「──どうだ」
「その子供は、お前の患者だ」
「戦のことだ」
安道全は肩をすくめた。医者はどうもへそ曲がりが多いようだ。
「“今夜が峠”──か」
徐京はため息をついた。
「この先は、見えるのが、幸せとは限らぬな」
二人の医者は、夜空を見上げた。
いつの間にか、青白い月が昇っていた。

※文中の「弃命三郎」は、正しくは です。
※文中の「闌路虎」は、正しくは です。
※文中の「跳間虎」は、正しくは です。
※文中の「高求」は、正しくは です。
※文中の「彭己」は、正しくは です。
※文中の「赫思文」は、正しくは です。
※文中の「井木干」は、正しくは です。
※文中の「共旺」は、正しくは です。
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