扈三娘は梁山の峯を走っていた。
冷たい風が頬に吹きつける。頬は燃えるように暑かった。
虚空に屹立する峯の根元、荒れ果てた岩場に、ぽかりと洞窟の口が開いている。
「一清道人!」
扈三娘の声が峯に響いた。
麓の喧騒とうらはらに、あたりは寂寞と静まりかえっている。
公孫勝と話すのは初めてだった。
殆ど姿を現さない──ということもある。新参の小者などは、姿を見たこともないだろう。実在の男とすら、すでに思われていないかもしれない。
“入雲龍”公孫一清道人の名は、梁山泊ではすでに半ば伝説であり、畏怖をもって語られる名前であった。
しかし、扈三娘は恐れなかった。
官軍が来る。梁山に上陸する。“梁山泊”が戦場となるのだ。
焼け焦げ、墓標のように立つ柱、立ちのぼる白い煙──家族も思い出もなくし、ぼんやりと佇んでいた自分を思った。
扈三娘は刀を握り、暗い洞窟に対峙した。
「あなたが、なぜ戦わないかは知らない。でも、あなただって、梁山泊のほかに行く場所はないはずよ」
返答はない。扈三娘の髪が、一陣の風に乱れた。

「お願い、力を貸して!」
扈三娘は洞窟に足を踏み入れようとした。そして、空に何かの気配を感じた。
見上げると、崖の上に白髪の男が立っていた。

空に屹立する峯に立つ公孫勝の、その手には松紋古定剣が握られている。傍らには“混世魔王”樊瑞が控えていた。
二人は遙か南方の湖を一瞥すると、墨染めの衣の裾を翻し、いずこへか去った。
ずっと風が止まっているような気がしたのに、今日は風が吹いている。
そのことに、扈三娘は漸く気づいた。
官軍の大海鰍船団は金沙灘に接近した。
大海鰍船は軽量、かつ尖底の船である。水深が足りてなくなる直前で極限まで速度を上げ、そのまま水上を滑るように岸辺へ向かった。柔らかい砂地に頭を突っ込むように、船が浜辺に乗り上げていく。大魚に追われる雑魚のようだ。事実──彼らは、この危険な上陸戦から退くことは許されない。
徐京、李従吉、王文徳ら節度使が率いる兵を乗せた、およそ百数十隻の大海鰍船。水車を踏む水手を含め、それぞれ三百人余が分乗している。彼らの背後には、高求の旗艦、そして、その護衛船たる周昂、丘岳の戦船が退路を遮るかのように控えている。上陸前、王文徳の海鰍船には目付として牛邦喜が乗り込んできた。
海鰍船は梁山泊の火砲を警戒していた。小海鰍船を盾にして上陸するつもりだったのだ。
「進め!!」
牛邦喜は上陸を急がせた。手柄を焦った。この作戦に成功すれば、都監に取り立ててやると高求から約束されている。
(火砲などあっても、あたらん)
事実、“轟天雷”凌振は湖の外にいる。官軍にいた時から、自分以外の砲手を育てない男だった。梁山泊にさほどの砲手がいるとも思えない。
「砲撃はない、進め!!」
銅鑼が割れるように打ち鳴らされる。あちこちの船で部将たちが怒鳴っていた。
「上陸ッ!!」

水深はまだ腰から胸ほどまである。官軍の兵士たちは、槍を手に次々と船から飛び下りた。最低限の見張りと、水手は船に残される。事あらば、いつでも撤退できるようにするためである。
楊温、梅展が指揮する船隊は、やや徐京らに遅れていた。梁山泊水軍に壊された舵を修理したが、速度がいまひとつ上がらない。それでも、岸辺はもう目前に迫っていた。
波打ち際には焼け焦げた海鰍船の残骸が浮き沈みし、浜辺には両軍の兵士の死体がおびただしく打ち上げられている。浜の右手には死体を積み上げた山が築かれ、線香の煙が濛々と立ちのぼっていた。
作戦通り、王文徳、李従吉、徐京の順で上陸した。
兵士たちは金沙灘に上陸すると、密集した小隊を連ねて即席の陣を作った。後方の海のほか、三方は敵地である。どこから梁山泊軍の矢が狙っているか分からない。前列の兵士たちは、隙間なく刺のある盾を立て連ねた。
兵に続いて上陸した“薬師”徐京は、足元の砂に目をやった。波に洗われ、金色の砂がさらさらと流れていく。“金沙灘”の名の由来であろう。
不思議な気がした。
多くの敵陣に攻め込んだが、梁山泊のような“敵地”はなかった。水豊かな湖に囲まれ、空は晴れ、ひどく静かだ。
(まるで別天地のようだ)
上陸の緊張が一瞬ほどけ、ほっと深く息をした。線香の匂いが鼻腔をついた。
徐京は表情を引き締めると、薬売りが持つ目の印をつけた棍を掲げた。
「突撃の陣を組め!!」
官軍は山道を正面に、敵の防衛戦を突破すべく隊列を整えた。節度使軍の攻略目標は、ただひとつ“聚義庁”である。『替天行道』の旗を引きずり下ろし、官軍の旗を立てるのだ。節度使軍はすぐに進軍を開始した。まだ賊軍の姿は見えない。
出陣した官の水軍は、総勢九万。葦原の火災で小海鰍船の兵力二万余りを失った。高求直属の戦船の二万を残し、まずは節度使軍四万余が上陸する。梁山攻略のため、精鋭の歩兵を中心に組織された軍である。対する梁山泊軍は、中核となる騎兵軍が、聞煥章の策により湖外に締め出されている。梁山に残留する軍は、住民を兵となしても、二万には届かぬと試算されていた。
しかし、これほど簡単に上陸できるとは思わなかった。罠かもしれない。
見上げる梁山の峯は、息をひそめたように静まりかえっている。
それとも、あの戦いで、すでに梁山泊軍は壊滅したのか。それとも、思ったほど残留している人員はいなかったのか……。徐京は傍らの“李風水”に振り向いた。
「今日の運勢はどうだ?」
「わしは自分の運勢は占わぬ」
「嘘でも“勝利”と宣言すれば、士卒は奮おう」
「負ければ、二度と“李風水”は信用されまい」
李従吉は、包帯で顔を巻かれた“鉄筆”王文徳に目をやった。先鋒軍の陣頭に立つ王文徳は、梁山泊の“没羽箭”張清に鼻と上唇を潰されて、ろくに口をきくこともできない。しかし、闘志はその全身から燃え立っていた。
李従吉は愛用の双鉤を両手に握った。
(そうだ。罠があろうがあるまいが、進むほかない)
占いに吉と出ようが凶と出ようが、やらねばならぬ時があるのだ。
水上に目を転じると、上陸にかかる楊温らの海鰍船の彼方に、安全な場所に錨を下ろす高求の旗艦、そしてその護衛たる二十隻の戦船の姿が見えた。
楊温と梅展の海鰍船は、船団の最後尾についていた。船を並べ、楊温は波越しに隣船の梅展に声をかけた。
「どうやら火砲はないようだな」
「あっても、凌振がいなければ撃てぬのだろう」
ともに船首に立ち、全身に風を浴びている。楊温の斗篷が風をはらんで翼のように広がった。
「聞煥章はなぜ来ない?」
「歩兵を主力とする消耗戦になる。白面の書生は足手まといだ──とさ」
梅展は風に乱れる髪を払った。
聞煥章より、上陸後の作戦は節度使各自の判断に任されていた。功をあげれは、聞煥章ではなく、高求と、節度使の手柄になるというわけだ。
それもまた、聞煥章の達観した“策”であろう。聞煥章の功となれば、節度使たちはまだしも、高求が足を引っ張る恐れがある。
「あいつは策士だ」
もちろん、梅展にも不満はない。
出陣前、聞煥章は公孫勝の妖術を恐れる兵士のために、天地の神々を祀って見せた。さらに法術封じの呪符を書いて、すべての海鰍船の船首に貼らせた。
そして、節度使たちには、ただ「決して軍を分けぬよう」、その一言だけを告げた。
確かに、地の利は梁山泊軍にある。複雑な地形の梁山では、大軍が動くのは不利だ。
しかし、戦は臨機応変である──と百戦錬磨の節度使たちは考えていた。
節度使たちの手元には、それぞれ梁山の地図が与えられている。そこには、李虞候が陳勅使とともに辿った、聚義庁への道筋が詳細に記されていた。石段の様子、三つの関門、無数の小砦と、中腹にある民家や畑──。
楊温と梅展は、ともに敵も味方も信用しない男である。味方は時として敵となり、敵の敵もまた敵だ。戦には、軍の名誉も国への義務もありはしない。自軍の利益があるだけだ。
岸辺では、牛邦喜が王文徳軍を追い立て進軍を始めさせている。
今回、高求は上陸せず、水上で高見の見物を決め込むらしい。梅展はまた冷笑した。端正な御曹司の顔が、笑うと山賊の顔になった。
「楊節度使、お先へどうぞ」
楊温は答えず、なお岸を睨んでいる。
「“梅大郎”、お前ならばどう攻める」
「梁山に残った兵力は、一万余。多く見ても二万はない。あとは戦には役に立たぬ住民だ」
梅展は梁山の中腹に点在する建物に目をやった。のどかな村の風景だ。小さな煉瓦の家、紅葉した木々、山羊や鶏の声が聞こえてきそうだ。
「逃げ場のない梁山での戦となれば、女子供はあわれだな」
楊温は頷き、昨夜研ぎ澄ましたばかりの槍の穂先を確かめた。
「住民は殺し、幹部の家族は人質にとる」
秋の陽に、刃が銀色に輝いた。
「あとは、ただ力押しに押す。殺し、焼き尽くして、梁山泊をこの世から消し去ればよい」
岸辺では、手当たり次第に火が放たれていた。水寨や見張り小屋、漁具をしまう網代の納屋が燃え上がる。その火は、やがてあの山頂の聚義庁に達するだろう。
薄暗い小屋の中で、住民たちはじっと息をひそめていた。
梁山泊に住む老幼と婦女である。どの顔も暗然としていたが、その中にも、いつかこの日が来ることを予想していたような覚悟があった。彼らのうち、一人として望んで“賊”となった者はいない。
“小李広”花栄の妻、崔淑卿は義妹である宝燕の手を握った。
「もう少しよ」
宝燕は床に敷いた布団の上に横たわっている。“神医”安道全が脈を取っていた。
「強情な赤ん坊だ、まだ下りてこぬわい」
花宝燕の出産は、安道全にも前例のない難産だった。本来ならば、とっくに生まれていていい頃だ。
宝燕の傍らには、夫である秦明の姿があった。立ったまま、何も言わない。やがて、秦明は外の気配に一瞬、耳をそばだてた。
そのまま淑卿と安道全に目礼し、去ろうとする夫の腕を、宝燕が掴んだ。
「……残るわ」
気を抜けば遠ざかろうとする意識のなかで、宝燕は笑おうとした。激痛が荒波のように押し寄せる。

「生まれれば、私……戦える」
秦明は無言で宝燕の頬に手を添えた。燃えるように熱く、汗ばんでいる。
呼延剣娘と妹たちが進みでた。
「ご安心ください、秦将軍」
「わたしたち、ちゃんとやれます」
小屋に隠れている女たちの中では、淑卿と剣娘、その双子の妹である弓娘と箭娘だけが武器を帯びていた。
この小屋には、頭領たちの家族が集められていた。李応の妻である五行夫人、徐寧の妻と、朱仝の妻。董平の妻である程麗芝は、小間使いの朱児に付き添われている。ほかにも孫立の妻、楽大娘子と娘の露華の姿があった。
「こわい」
露華が母親の胸に顔をうずめた。
「お父さまはどこにいるの? どうして戻っていらっしゃらないの?」
つられて彭己の子供たちが泣きだした。怯える幼い子供たちを、穆弘の妻の柳絮と、二竜山の楓児が面倒をみていた。楓児はいつもと変わらぬ笑顔で、子供たちに兎を抱かせた。張青から預かった、まだら毛の兎である。あたたかな動物の感触に、子供たちは安堵したように泣くのをやめた。
その時、扉がわずかに開いて、杓児が顔をのぞかせた。小屋に緊張が走った。
「官軍が来た」
杓児の手には、金沙灘の死体に手向けた線香の残りが握られていた。
「上陸ッ!!」
楊温と梅展の軍も上陸を始めていた。彼らは巧みに船を操って、水底に乗り上げない程度の場所で船を停めた。あとは腰まで水につかっての上陸である。歩兵たちは軽装だったが、半分泳ぐようにして苦労して陸に上がった。
すでに先発の王文徳軍は金沙灘を抜けて梁山の登り口へ向かっている。急峻な坂道で、両側は切り立った岩場である。横から攻撃を受ける恐れはなかった。前方にも、いまだ人影は現れない。楊温は波に揉まれる兵士たちを怒鳴りつけた。
「急げ、間をあけるな!!」
湖とはいえ、梁山泊ほどの大きさになれば波が立つ。兵士たちは槍を水底に突き刺すようにして体を支え、重なるように岸辺へ上がった。上陸するとすぐに隊列を整え、陸続と梁山の登り口へ進軍していく。王文徳軍に、李従吉の軍が続いた。
牛邦喜は監軍として水際で進軍を監視している。
そばに片足のない血まみれの死体が転がっていた。うつ伏せの背中が、浅い波に洗われている。船頭なのか、葉のついた青竹を握りしめていた。
上陸した徐京は、背後の湖に振り向いた。楊温と梅展はまだ大海鰍船に残っている。
(奴らも、我々に“露払い”をさせる気か)
まあいい、と徐京は思った。戦場なのだ。まずは眼前の状況である。
第一の関門は、山道を塞ぐように築かれている。城門のような形で、扉は固く閉じられている。門上には楼と射撃用の姫垣があった。
関門の前は開けており、足場は悪いが広場のようになっている。そこを目指し、官軍は進んだ。先鋒軍を率いる王文徳は、一人だけ馬に乗っていた。
「一気に関門を押し抜け!!」
その声が聞こえたように関門の門が開き、中から一騎が飛び出してきた。

梁山泊五虎将の一“霹靂火”秦明である。その象徴たる狼牙棒、愛馬“飛熊”、そして漆黒の甲冑と南斗六星旗。広場に差しかかろうとしていた官軍、およそ三千の先遣部隊の目が、この一人の男に釘付けになった。
王文徳は叫んだ。
「関門を抜け!!」
官軍の歩兵が一斉に駆けだし、争うように広場へとなだれ込んだ。
秦明に従う兵士は八十余り。みな徒歩である。しかし、その数少なしといえども、秦明子飼いの青州の精鋭である。鯨波が上がった。この第一の関門こそ、梁山泊防衛の要である。秦明を先鋒に一丸となり、青州兵は鏃のごとく官軍中に突入した。
その喚声は、山裾の李従吉にも聞き取れた。
(始まった)
敵の現れたことに、ある意味、李従吉は安堵した。現れぬ敵を警戒するよりはるかにいい。梁山の登り口の一帯は、紅葉した雑木林が広がっている。その口に差しかかっていた李従吉軍は足を速めた。
徐京は岸辺からその動きを目を追っていた。彼は目がいい。左手の雑木林の中で、なにかが動いた。
「気をつけろ、“李風水”!!」
同時に矢が飛来して、李従吉の近くで兵士が一人どっと倒れた。続いて両側の雑木林から、流星雨のごとく矢が発した。官軍は盾の防御を固めたが、多くの兵士が射られて倒れた。
「伏兵だ!!」
前方の関門前ではすでに戦闘が始まっている。広場も、そこへ至る道も狭い。李従吉軍は進路を塞がれ、身動きできない。李従吉は無意識に岸辺のほうへ振り向いた。
その目に、色鮮やかな衣の色が過った。
(女!?)
雑木林から飛び出して、岸辺へと駆けてゆく。簪が秋の陽にきらりき光った。
扈三娘は娘子軍を率いて先頭に立っていた。その背後には、弓を手にした崔淑卿が宝燕を守って続く。宝燕は小者の女房たちが担ぐ戸板に乗せられていた。花望春も手槍を握って付き添っていた。百人を越える女や子供は無心に駆けた。前方の木々の彼方には、湖が輝いている。
岸辺の官軍が異変に気づき、武器を構えるのが見えた。淑卿は弓を満月のごとく絞り、敵が近づくのを待たずに放った。
空はよく晴れている。
扈三娘ら娘子軍が敵へ向かっていく。扈三娘が跳び出しざまに双刀で二兵を斬った。その背後を呼延剣娘は女たちを連れて走った。手には剣を握っている。幼少から武芸を仕込まれてきたが、本当の戦闘は初めてだった。
彼女はずっと、ひたすらに家族のために生きてきた。しかし、今、剣娘はこの一瞬のために自分は生きてきたような気がしていた。
「みんな、急いで!!」
進路を阻もうとする兵を、剣娘はためらうことなく袈裟懸けに斬った。
住民の動きにすぐに対応できるのは、徐京の軍だけだった。楊温、梅展の軍はまだ上陸を終えていない。
あちこちの林や岩場から住民が現れ、岸辺に向かって駆けてくる。千人以上いるだろう。その身形や容貌からみて、殆どが幹部の家族に違いなかった。戦闘を避けて、逃げ出そうとしているのだ。徐京は人を殺すことを好まず、部下もみな棍棒と拳法を得意とする。徐京は叫んだ。
「投降しろ、投降するなら──」
叫んだ徐京の声をかき消すように、空に火砲が轟いた。徐京は思わず首をすくめた。浜辺は見通しがきく。火砲に狙われれば避けようがない。
轟音と喚声が響く中、女たちは互いに助け合い、支え合って水辺を目指す。
再び砲が轟いた。
牛邦喜が見上げると、空に一筋の白煙が見えた。金沙灘の真ん中に着弾し、金色の砂を巻き上げた。官軍は動揺し、隊を乱して身を隠す場所を探した。山際には岩場や雑木がある。牛邦喜は叫んだ。
「逃げるな、“轟天雷”はいないのだ。当たるものか!!」
牛邦喜は槍をとって住民たちを阻もうとした。そして、忽然と思い至った。
「逃げるだと?」
どうやって──と思ったその時、砂浜に倒れていた片足のもげた男が、牛邦喜の足をぐっと掴んだ。

「船を届けてくれて、ありがとうよ」
“船火児”張横は、倒れたまま青竹で牛邦喜の腹を突き上げた。
それに呼応したように、波打ち際に倒れていた死体がむくむくと起き上がった。積み上げられた死体の山の中からも、武器を持った男たちが立ち上がる。陸上だけではない。水中から半裸の男たちが浮かび上がった。まず現れたのは“混江竜”李俊である。童威、童猛が従っている。梁山泊水軍の男たちが次々と波間に姿を現した。東海の海の底には、龍王の棲む水晶宮があるという。その水の眷属が姿を現したかのようであった。

「かかれ!!」
鬨の声とともに、梁山泊の男たちは官軍に襲いかかった。上陸途中の梅展、楊温の兵士は次々に水中に引きずり込まれた。徐京軍が救おうとした。李従吉軍も山道を戻りはじめていた。
「反転せよ、金沙灘へ!!」
それに気づいた王文徳は驚愕した。
「戻るな!!」
守りは梁山泊に有利である。関門のたかが百人程度を抜けずにいるのに、後方から支援すべき李従吉の軍が退くとはどういうことだ。
住民が逃げ出そうとしているのが見えた。梁山にいては逃げ道はない。虐殺を恐れているのだろう。王文徳は正義漢である。住民を人質に取るなどは、はなから考えていない。すぐに李従吉へ伝令を送った。
「住民など放っておけ、逃がせばよい」
「そうはいかん!!」
李従吉は全軍を金沙灘へ向けた。
「梁山泊の目的は“船”だ!!」
戦う兵たちの脇をすり抜けて、さらに海岸の家や岩影、雑木林の中から夥しい数の住民たちが駆けだしてくる。海岸で孵化した海亀の子が、一斉に波を求めて行くのに似ていた。
徐寧の息子は走りながら母親の顔を見上げた。
「母上、逃げるんですか」
「いいえ」
徐寧の妻は、夫のお古の鈎鎌鎗を握っている。
「お父様を迎えに行くの!!」
徐晟は、久しぶりに母が晴々と笑うのを見た。
「船を守れ、敵に渡すな!!」
李従吉は金沙灘の徐京軍に合流すべく、山道を駆け降った。
「突破しろ、徐京軍に合流するのだ」
しかし、山を下りきる前に、梁山泊軍が進路を阻んだ。指揮をとるのは“聖手書生”蕭譲である。狭い上り口で襲えば少数の兵で敵を防げる。しかし、金大堅は文句を言った。
「こんなことまでやらされるとは聞いておらんぞ」
印鑑さえ彫っていれば良いと言われて来たのに、すっかり呉用に騙された。愛用の刀類は汚したくないので、金大堅は新品の槍を携えていた。“出林竜”鄒淵と“独角竜”鄒潤は張り切っている。
「久しぶりに大暴れできる」
戦となると騎兵に手柄をさらわれていた。鄒潤は自慢の角が柔らかくなっていないかと、思い切り官兵に頭突きを食らわせた。角は相変わらず固かった。
牛邦喜の死体が波にさらわれていく。それを横目に、徐京は岸辺を防御すべく兵を動かした。しかし、その隊列はすぐに崩れた。山を迂回するように左右から騎馬部隊が突っ込んできたのである。梁山泊に残留する騎兵軍十六小彪将──“摩雲金翅”欧鵬、“火眼俊猊”登飛、“錦毛虎”燕順。さらに“小温侯”呂方と“賽仁貴”郭盛。その後ろには、黄門山、飲馬川、清風山、対影山以来の歴戦の男たちが歩兵として槍を連ねていた。

徐京は目を疑った。
「梁山泊に騎兵は残っていないはずだ!!」
彼は、梁山泊軍が山に残るありったけの馬をかきあつめたことを知らない。老馬や農耕用の馬も混じっている。しかし、もとはみな山賊である。寄せ集めの馬で戦うのには慣れていた。四つの山の兵たちは、先を争い官軍中へ攻め込んだ。欧鵬の鉄棒が一番に首級をあげた。登飛は徐京を狙い鉄鏈を放ったが、棒がその鎖をからめとった。体勢を崩した登飛が馬から転げ落ちると、呂方と郭盛が左右から徐京へ襲いかかった。燕順は朴刀を振り回し、片端から官兵を殴り倒していく。三山の山賊たちは目茶苦茶に馬を駆け回らせ、官軍がそれを追い、戦う兵たちの間を女たちが駆け抜けていく。
梁山の登り口では、金沙灘へ戻ろうとする李従吉軍と梁山泊軍の攻防が続いている。梁山泊の水上では、阮氏三雄率いる別部隊の男たちが大海鰍船に襲いかかっていた。
「船をいただけ!!」
今、この船には漕ぎ手と僅かな見張りしか残っていない。海鰍船は梁山泊軍の攻撃を避けるため、外輪を反転させて沖合へ退こうとしていた。しかし、船底が柔らかな砂にめり込んでいる。その舷側に次々と半裸の男たちが浮かび上がる。彼らは船に向け、力任せに鉤のついた縄を投げた。彼らは阮氏三雄率いる石碣村の決死部隊である。船縁の柵に鉤のついた縄をかけてよじ登るのだ。毎日、網を投げていた漁師ならではの技であった。
阮兄弟は手下たちを湖に送り出すと、自分たちも波打ち際へ走った。その前に李従吉が飛び込んできた。李従吉は梁山泊軍に足止めされた部隊を山道に残し、乱戦の中を単身で斬り抜けてきたのである。阮小七が叫んだ。
「先に行け!!」
阮小二と阮小五が湖に飛び込んでいく。阮小七は刀を引き抜き、李従吉の鉤を受け止めた。

李従吉は双鉤の名手として知られている。一対の大きな刃である。一方は黒、一方は銀、称して“太極鉤”と云う。左右から襲う刃を防ぎつつ、阮小七はじりじりと波打ち際へ後退した。
足元は柔らかい砂地である。その時、李従吉の胸の羅板に太陽が反射し、阮小七は思わず目を閉じた。勝機と見て李従吉が踏み込むと、阮小七は足元の砂を李従吉の顔めがけて蹴り上げた。李従吉が怯んだ一瞬、阮小七は“太極鉤”をかいくぐり、足を払った。水中に倒れた李従吉は、潜んでいた石碣村の漁師たちに、そのまま深みへと引きずり込まれた。
「悪いな、先を急いでいるんでね」
阮小七は刀を帯にはさむと、湖へ、兄たちを追った。
水上では、船をめぐる戦いが続いている。すでに船上へ登った阮小二は、敵兵を次々に湖へと斬り落とす。阮小五はまだ縄を手に水面にいた。うまく鉤がかからない。
(小七はどうした)
阮小五は岸に目をやると、いつの間にか阮小七が隣の船腹を登っていた。目が合うと、阮小七は片手を上げた。阮小五は腕に力を込めた。三度目で鉤がかかった。濡れて滑る船腹を、阮小五は縄を握りしめて一歩一歩のぼっていった。口には匕首をくわえている。船上から戦う声が聞こえる。すぐそばを矢がかすめ、阮小五の後ろを登っていた男が射抜かれて湖へ落ちていった。
それまでの静寂がうそのように、喧騒が梁山を覆い尽くしていた。無数の人間が浜辺、水中に入り乱れている。ある者は駆け、ある者は戦い、泳ぎ、また逃げていく。
関門前で戦う秦明たちからも、その様子はよく見えた。
山道からは続々と官軍が登ってくる。倒しても倒しても、その数が尽きることはない。
敵を三箇所に分断して叩くのが、呉用が定めた第一戦の方針である。より多くの敵を、この広場に引きつけるのが秦明の任務である。しかし、敵は多く、かつては千を数えた青州兵も、啄鹿原で死んだ岩七狼はじめ多くの精兵を失っている。
一瞬だけ、秦明の視界の片隅を金沙灘の輝きが過った。
ここで一人でも多く倒せば、この後の戦いが楽になる。秦明は狼牙棒を大きく振るった。刺の間にたまった血が飛び散った。もう何人倒しただろうか。飛熊の蹄が死体を踏む。彼の部下は、まだ一人も倒れてはいない。
秦明は黙々と眼前の敵を倒し続けた。
王文徳もまた、その場に踏み止まって戦い続けた。
隘路のため数十人ずつしか広場には進めない。進むそばから倒されていく。しかし、進むしか道はない。背中を見せれば後方から襲われる。高所にいる敵に背後を襲われれば、致命的な打撃を受ける。
「支えろ、押せ!!」
王文徳は兵を叱咤した。
聞煥章は「決して軍を分けるな」と云った。しかし、すでに軍の間は裂かれてしまった。梁山泊が船を狙っているなら、そうするよりほかに方法はない。
岸辺からは、女の悲鳴や、子供の鳴き声が響いてくる。
秦明の周囲には死体の山ができていた。疲れを知らぬ。殺せば殺すほど精気に満ちる魔神のようだ。
(あの男は、なぜこんなに強いのだ!!)
王文徳は憤った。
彼は常に正義に生きてきた。義父であろうと不正な者は許さなかった。しかし、正義を貫けば、不孝者と謗られた。悪を糺せば、賊と呼ばれた。官に戻って賊を攻めれば、まるでこちらが平和な村に攻め込んだ賊のようではないか。
「どけっ!!」
王文徳は前に立つ兵士たちを押し退けた。
「あの男はわしが倒す!!」
王文徳は槍を掲げ、自ら広場へ突入することを決意した。
「──あいつが“鉄筆”か」
“双尾蠍”解宝は、木の上から身を乗り出した。
「怪我をしている奴が大将だ」
兵を押し退け、関門へ突進する男がいる。
あたりで鳥や獣が一斉に騒ぐ。解宝は扠を手に山道へ飛び下りた。続く者は、猟師、樵、薬草採りなど山を家となす者たちである。みな兵士ではないが、税の取り立てに追われて梁山泊へやって来た。急峻な岩場を乗り越え、王文徳軍に攻め込んだ。みな故郷を追われ、今や梁山泊の山河が彼ら家である。
「役人どもを山から追い出せ!!」
武器は山刀や斧、鎌である。使い込んだ手斧を握っている者もいる。みな険しい岩場をものともせず、官軍に襲いかかった。仕立屋“通臂猿”侯健もこの群れの中に混じっていた。南方の蛮族の血を受けた、身軽さでは梁山泊でも一、二を争う男である。針を匕首に持ち替えて、道に張り出した枝の上から王文徳の頭上へ飛んだ。

王文徳は槍で防ごうとしたが、馬首を巡らせようとした途端、蹄が誰かの落とした盾を踏み、馬が倒れた。梁山泊の兵士が群がる。侯健が叫んだ。
「馬を殺すな!!」
「人間は?」
「構わねぇ!!」
王文徳は馬を捨てると、刀を振るって梁山泊の雑兵を五、六人も斬り捨てた。最初の一撃を外した侯健は、身軽に着地し、再び王文徳へ迫った。同時に解宝が扠を投げた。しかし、王文徳は刀で扠を叩き落とし、返す刃で侯健に斬りかかった。
「ちっ、しくじった」
侯健は手近な枝に飛びつくと樹上へ逃れた。素手となった解宝へ敵兵が殺到する。
「退けッ!!」
梁山泊の伏兵が潮が引くように森の中へ退却していく。解珍は王文徳から奪った馬に飛び乗ると、岩場を乗り越え雑木林に駆け込んだ。
追撃しようとする官軍の上に、王文徳の声が響いた。
「追うな」
王文徳は石段に倒れた死体を登り越え、再び山道へ踏み出した。彼らの任務はただひとつ、関門の突破、そして聚義庁制圧である。
「続けッ!!」
王文徳が後続の兵に振り向いた一瞬、金沙灘で海鰍船が襲われているのが見えた。敵も味方も蟻のようだ。水中にいるものは孵ったばかりの稚魚のようだ。
官軍は、数を頼みに勝てると疑っていなかった。しかし、この梁山こそが、梁山泊の援軍であった。山が、湖が、梁山泊に味方する。
“花和尚”魯智深は顔にかかる水しぶきを掌で拭った。墨染めの衣もずぶ濡れである。武松は戒刀で官軍を片端から薙ぎ払っている。その周りだけ波が赤かった。武松は怒っている。怒らせたままにしておこうと、魯智深は思った。なにしろ何倍もの敵がいるのだ。

戦いながら“金眼彪”施恩はぞっとした。梁山泊に来てから、彼の目は“見えなく”なっていた。人を殺した者の背後に佇む白い影──それが見えれば、梁山泊は雪に覆われたように真っ白に見えるだろう。その“影”が、今日にかぎって見えた。ゆらゆらと揺らめきながら、陽炎のように戦う人々の間を行き交っている。視界がぼやけ、倒れそうになったところを鄭天寿にぶつかった。
「銀の鎧が間に合わなくて、済まないな」
「平気さ、武松さんも和尚も着てないよ」
「あの二人の場合、甲冑なんざ却って邪魔なのさ」
鄭天寿は笑って、また戦いの中へ飛び込んだ。金沙灘での戦いの主力は騎兵で、彼ら歩兵は水軍が船を奪うのを援護するのが役目である。
「やはりな」
楊温と梅展は、まだ海鰍船上に残っていた。金沙灘まであと五、六丈ほど、水深は人の足で上陸できるぎりぎりである。梁山泊の男たちが刃物をくわえて泳ぎ寄せてくるのが見えた。
「奴らを船に近づけるな!!」
火砲を警戒し、楊温はわざと少し遅れたのである。梅展もそうだろう。しかし、今こそ楊温は梁山泊が火砲を打たなかった真の理由を知った。船を無傷で奪うためだったのだ。楊温は槍を手にして船縁に立った。波間に梁山泊の男たちが群がっている。
「矢を!!」
弓矢を持った兵士が船首へ並んだ。それが三人一まとめになって湖に落ちた。楊温は振り返った。二人の男が船倉から飛び出してきたところだった。
「孔家縄術──」

「“三人行”!!」
縄が飛び、また弓兵が三人、足を絡め取られて水に落ちた。白虎山孔家に伝わる仁愛の術“孔家縄術”。“独火星”孔明、“毛頭星”孔亮──その技は些かも衰えていない。
彼らは梁山泊から消えたと思われていたが、実は白虎山の手下とともに官軍に水夫として潜入していたのである。ぼろを身につけ、足は踏み板を踏み続けてたこだらけだ。堂々たる水夫ぶりであった。
官軍に紛れ込んでいるのは、彼らだけではなかった。
“打虎将”李忠と“小覇王”周通は、船底で顔を見合わせた。
「始まったぞ」
大海鰍船の船底には、外輪を回す踏み板が並んでいる。踏み板から水子たちが一斉に立ち上がる。やすりで切られた足枷が音をたてて床に落ちた。水手は半分が桃花山の手下である。官軍の人夫や水手は、多くが山東と河北の廂軍と、近隣から徴発された庶民だ。牛邦喜は農民から乞食まで無理やり集めて連行し、彼らはそれに紛れて乗り込んだ。
桃花山、白虎山の兵は、みな山東の民である。彼らを梁山泊から密かに出し、官軍に紛れ込ませたのは呉用の深謀遠慮であった。言葉の訛りや風俗も同じ、地理にも詳しく、同郷の話もできる。ただ、梁山泊に官軍の内通者がいるのを恐れ、すべて内密のうちに行われた。
桃花山の二の親分、“小覇王”周通には久しぶりの大手柄である。わずか二十八騎とともに漢軍数千と戦った項羽の気分だ。周通は詠じた。
「“力は山を抜き、気は世を蓋う──”」
船倉の騒ぎに衛兵が気づいた。
「反乱だ、水手が……!!」
李忠は船倉から飛び出し、素手で衛兵を投げ飛ばして槍を奪った。この瞬間まで、水夫の“李三”が梁山泊の“打虎将”李忠と気づいた者はいなかった。
「ふん、顔が売れてちゃ、この役目は務まらねぇ」
李忠は渋い顔で船首に立った。
梅展の船が制圧に手こずっていた。

“梅大郎”梅展は梅花九節棍を使う。棍の間を繋いでいる輪が重なって梅の花のように見えた。九本の短い棍を繋いだ輪が、動くたびちゃらちゃらと軽快な音をたてた。優雅な武器だが、次々と鼻を砕き、目を潰した。飛び散る血が、舞い散る梅の花びらのようだ。
梅展の護衛には、“番頭”や“手代”“丁稚”らが取り巻いている。どれも瀟洒な顔をした若者ばかりだ。船が波に煽られ、揺れる。
“小遮闌”穆春は朴刀を構えた。引き連れているのは江州の男たちである。揺れる船には慣れている。裸足の足がぴたりと船板に張りついているようだ。“手代”たちが斬り伏せられ、次々と湖に落とされてた。しかし、梅展は強い。九節棍を風車のように自在に使い、人が近づくことを許さない。一方で梅展は退路を探った。船の上では、どうしても不利だ。その時、ひとりの兵士が彼を呼んだ。
「“若旦那”、こちらへ」
味方と思った一瞬、梅展はふいに槍で股を刺された。“病大虫”薛永だった。水夫として乗り込んだ薛永は、もとが名家の公子である。梅展の兵を殺して入れ代わっても、気づく者はいなかった。

“病大虫”薛永と“小遮闌”穆春は犬猿ならぬ“犬猫”の間であったが、今回は呉越同舟である。船が金沙灘へ突っ込んでいく。岸辺で太白が吠えていた。
形勢不利と見た梅展は船縁を乗り越え、湖へと飛び込んだ。水深は膝ほどまでしかない。斗篷が濡れるのを嫌い、軽く片手で掲げて降りた。
楊温も逃げることにした。どうせ上陸するのだ。こうなれば、味方の多い陸地の方が安全だ。水上には高求の旗艦と、護衛の戦船が残っている。奪われた海鰍船の始末は、彼らに任せればいい。
(奴らにも少しは働いてもらおう)
しかし、楊温は逃げる前に火を放つのを忘れなかった。
(焼け石に水──だがな)
多くの海鰍船で“反乱”が起こっていた。
梁山泊軍はすでに上陸を終えていた王文徳、徐京、李従吉軍の海鰍船団を襲い、見張りを殺し、水夫たちを追い払って船を奪った。
制圧した船は三十余隻、これに満載すれば湖の外にいる梁山泊騎兵を帰還させることができるだろう。しかし、抵抗した廂軍の水手を船から放り立たしたため、漕ぎ手が足りない。阮兄弟は燃え上がる楊温の船から繋がれた水手たちを助け、他の船に乗せた。
「故郷に戻りたければ、懸命に漕げ!!」
その中には、猛火油の炎の中から梁山泊軍によって救われ、投降した海鰍船の水手たちも多く混じっていた。彼らは故郷に戻ることを許された。この船を漕いで岸辺へ、そして故郷へ帰るのである。
「乗り込め!!」
女子供老人たちが乗り込んでいく。李応の五人の妻たちは、みな大きな荷物を背負っていた。一人が転び、荷物が浜に散らばった。
「そんなものは置いておきなさい」
「でも」
李家に伝わる家譜や位牌である。その管理が、彼女たち五行夫人の唯一の役目であった。護衛についていた杜興がそばへ駆け寄った。
「ご先祖様の戒名はすべて覚えおります、また作ります」
杜興は夫人たちを促した。目前で海鰍船が待っている。襲いかかる官兵を、杜興が飛刀の一撃で倒した。

「奥様、お早く!!」
「行きましょう」
「旦那様は?」
「生きていれば会えるわよ!!」
転んだ五行夫人の手を、別の五行夫人が引っぱった。その背に、矢が突き立った。倒れた五行夫人を杜興が支え、どうにか船の上へ押し上げた。
金沙灘は狂ったような混乱だった。
小間使いの朱児は、必死で董平の妻である麗芝の手を掴んでいた。手を握っていなければ、麗芝はすぐにどこかへ行ってしまいそうだった。
「お嬢様、こちらです」
「どこへ行くの?」
「戦です、逃げないと」
麗芝は首を傾げて戦場を眺めている。口許には微笑を浮かべ、花畑でも見ているようだった。名のある頭領の妻女と見て、官兵が捕らえようと腕を伸ばした。そばにいた柳絮が麗芝を突き飛ばし、そのまま兵士に体当たりした。手には短刀を握っていた。
「早く船に乗りなさい」
赤く染まった腕を伸ばして、柳絮は真っ直ぐに彼方の船を指さした。
「なんということだ」
沖合の劉夢竜は、背後の高求へ振り返った。
梁山泊軍が火砲も撃たず官軍の上陸を許したのは、初めから船を奪うための捨て身の作戦だったのだ。
聞煥章が言っていた。梁山泊軍は奇策を使う──それを目の当たりにした。
「我等も上陸して援護を」
「その必要はない」
高求は冷やかに言った。
彼らが停泊している場所からは、矢を射ても届きはしない。
「船を奪えば、奴らは対岸へ向かう。そこを襲い、住民ごと沈めしてまえ」
すでに節度使軍は上陸したのだ。作戦通りではないか──高求は、そう思っていた。
(船がなければ、逃げられぬ節度使どもは必死に戦う)
高求にとっては、却って好都合だった。
聚義庁の呉用のもとへ、次々と状況報告が上がってきた。
そのたびに呉用は指示を下す。伝令を任されている“活閃婆”王定六が駆けだしていく。小狗が力いっぱい銅鑼を叩いた。
官軍の船を奪い、非戦闘員を泊外へ──それは危険な賭けであった。
梁山泊が戦場となれば、住民は足手まといとなる。官軍が住民を見逃すとは思えなかったし、おそらく家族を人質に取ろうとするだろう。
戦う者は仕方ない。しかし、戦わぬ民は一人たりとも殺したくない──宋江ならば、晁蓋ならば──きっとそう言うだろう。梁山泊からさえ脱出できれば、女子供は対岸にいる官軍の監視をくぐって逃げ散ることもできる。
もっとも、呉用には、官軍を攪乱する囮とし、また騎馬部隊を迎えに行く船を動かすために兵士を割けない──という冷静な計算もあった。
聚義庁の門前には、二人の男が立っている。“鉄臂膊”蔡福と“一枝花”蔡慶。梁山泊の処刑人である。
聚義庁には呉用と、彼らしか残っていない。みな戦いに出ていっている。聚義庁を守るのは、呉用の仕事だ。聚義庁が陥ちた時には、“慶福”が呉用の首を落とすだろう。
いつ頃からか、自分は死ぬことばかり考えるようになったな──と、呉用は思った。
湖はざわめいていた。今日に限って波が荒い。
宝燕を運んでいた女房たちが、波にあおられて倒れた。放り出された宝燕は、抱いていた剣を握った。敵兵が間近に迫った。淑卿は弓を絞った。敵の兵士と目が合った。一瞬、夫の顔が淑卿の脳裏を過った。
矢は放たれ、兵士は倒れた。淑卿は息子を呼んだ。
「春児!!」
花望春が聞いたことのない、厳しい母の声だった。
上陸途中の楊温、梅展の兵は、ほとんどが住民には見向きもせず岸辺を目指す。彼らは金沙灘への上陸を第一の目的とすべく指示されていた。淑卿は息子に弓を渡し、宝燕を抱き上げた。彼女は不在の花栄に代わって、なにがあってもこの花家と秦家の血脈を守らねばならなかった。
体が波に押し返されていく。船はまだ彼方にあり、その舷はあまりに高い。
梁山泊軍は金沙灘の大海鰍船を次々と奪っていった。
白勝、曹正、宋清たちが住民を護衛しつつ、抵抗する官軍を防いでいた。王英と扈三娘は女たちの乗船を助けている。
「さあ、奥さん、手を貸すぜ」
王英が女たちの尻を押して船の上に押し上げる。呼延灼の娘たちが追われながら逃げてきた。呼延弓娘と箭娘は、その名の如く弓を得意とする。しかし、いくら的を射抜くのに巧みであっても、生きた人間を射たことはない。追手に矢を向け、ためらった。
それを見た王英が飛び出していく。

「お嬢さんがた、この“王矮虎”に任せろ。さあ、来やがれ!!」
王英は刀を手に敵を睨み付けたが、口許はどうしても緩んでしまう。なにしろ、全身ずぶ濡れの女たちが、まだ続々とやって来るのだ。
呼延剣娘は麗芝、柳絮らを助けてすでに船に乗っていたが、威児の姿がなかった。波打ち際で敵兵に囲まれていた。剣娘は船から飛び下り、弟のもとへ走った。二人まで倒したが囲まれた。波にさらわれた裳裾が足にからみつき、剣娘は水中に倒れた。
「姉上!!」
そこへ双剣の男が斬り込んできた。

“鉄面孔目”裴宣は瞬く間に四、五人を斬り伏せると、剣娘を水中から抱き上げた。裴宣は呼延威に向かって叫んだ。
「船へ!!」
呼延威は、梁山泊に残るつもりだった。父が戻るのを待ち、一緒に梁山泊を守るために戦いたい。しかし、姉たちがいた。彼女らとともに行くべきかどうか、呼延威は迷った。
「行きなさい」
裴宣は静かに少年の背中を押した。
船の上では、すでに乗り込んだ女たちが騒いでいた。
「動かないわ!!」
水車が空回りしていた。船底が水底の砂に沈んでいるのだ。水軍の男たちが作業にかかった。沈んでいない船と縄で繋いで、砂にめりこんだ船を引くのだ。
波が冷たい。水深は腰まであった。その中を身軽に行くのは、長身の“玉旛竿”孟康である。船大工だった孟康は、船の扱いには慣れている。
「牽引するんだ、もっと引け!!」
しかし、深く沈んだ一隻がどうしても動かない。
「おい、でくのぼう!!」
孟康は縄をかけている“険道神”郁保四を呼んだ。
「この船を押せ!!」
孟康もさすがに無理かと思ったが、郁保四が渾身の力を込めると、やがて船はゆっくりと動きだした。
楽大娘子が露華を抱いたまま波に翻弄されていた。小魚は巧みに泳いで二人を支えた。
「おばさん、俺がおぶうよ」
小魚は露華を背負って船へ向かった。露華が聞いた。
「小魚お兄ちゃんは一緒に行かないの?」
「俺は梁山泊水軍の兵隊だからな」
小魚はそう答える自分が誇らしかった。次の瞬間、大きな波がきて露華が流された。
「阿華!!」
楽大娘子が追いかけた。官兵がいて、二人に剣を振り上げた。小魚は反射的に槍を投げた。夢中で投げた槍は、兵士の喉を正面から貫いた。
一瞬、空白になった小魚の脳裏に、楽大娘子が露華の目を手で塞ぐのがぼんやり写った。
「なにしてる!!」
劉唐に横面を殴られて、小魚は我に返った。
見回すと波間にはたくさんの死体が浮かんで、うつろな目で小魚を見ていた。
水際では戦いが一層の激しさを増していた。梅展、楊温の上陸を牽制すべく、小彪将ら騎兵と歩兵軍の頭領たちが奮闘している。徐京軍は山から下りてきた李従吉の軍を収容していた。対する梁山泊軍はあまりに寡兵だ。
今日ばかりは宴席係の“鉄扇子”宋清も槍を握っていた。呉用に命じられたわけでも、自ら望んだわけでもない。ただ、そうしなければならないと真面目な宋清は思ったのだ。
彼は、今回も“いつもと同じ”戦だと思っていた。いつかどこかで戦は終わり、梁山泊はいつまでも変わらない──。しかし、違った。生き延びるため、彼は戦わなければならなかった。
梁山泊が戦場になるとは、思ってもいなかった。そして、そんなことを考えているのは宋清だけのようだった。
誰の顔にも、そんな陰は微塵もなかった。みな勝つと信じているのだ。もしくは、そんなことをすら考えていないように、宋清には見えた。
まだ戻らぬ兄のことは、なぜか今日は考えなかった。
(戦わなければ)
義務のように、宋清はそう思った。すぐそばで、小魚と云う少年が官兵を殺すのを見た。宋清は駄目だった。どうやってもうまく倒せない。ただ防ぐので精一杯だ。それももう限界だった。
(もう駄目だ!!)
覚悟した時、誰かが駆けつけて助けてくれた。“催命判官”李立だった。握っているのは大きな肉切り包丁だった。
「急所だ、肝臓を狙え」
李立は血まみれの手で宋清の脇腹を叩いた。
「李兄貴、あんた、水は平気になったのか」
李立は江州で水鬼を見てから、水に入れなくなったと聞いていた。李立は包丁の血を波でゆすいだ。
「これ以上、水鬼が増えちゃ、たまらねぇ」
金沙灘を女たちが逃げまどっている。李立は次の敵に向かった。
白勝は自分の何倍もありそうな敵と鍔競り合っていた。朴刀を振るいながら、白勝は晁蓋のことを考えていた。今日が何日は分からないが、確か次の満月が晁蓋の命日だ。ようやく手ごわい敵を倒し、白勝は空を見上げた。

一筋の雲が見えた。
そういえば、杓児は無事だろうか──と、白勝は思った。
※文中の「高求」は、正しくは です。
※文中の「彭己」は、正しくは です。
※文中の「火眼俊猊」は、正しくは です。
※文中の「登飛」は、正しくは です。
※文中の「啄鹿原」は、正しくは です。
※文中の「小遮闌」は、正しくは です。
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