梁山泊の岸辺から、舟が慌ただしく出入りしていた。
騎兵軍が湖の外に足止めされ、梁山泊の防衛は残る歩兵と水軍に委ねられた。しかし、山塞に残っている舟は百隻あまり。大型の戦船は騎兵軍の輸送に使ったため、すべてが小型の漁船である。
舟を失っただけではない。水軍の兵で焼け死んだ者、溺れ死んだ者は数知れない。どうにか泳ぎ帰って来た者も、ほとんどが火傷を負っていた。水上での戦いに備え、少しでも舟が漕げる者、泳げる者が歩兵軍の中から選抜された。
解珍、解宝、孟康らも自ら名乗り出て舟に乗った。
船着場に郁保四がぼんやり立っているを見つけ、“玉旛竿”孟康は櫓を投げた。
「おい、でくのぼう、お前も来い」
小舟が兵を満載し、次々と鴨嘴灘の桟橋を漕ぎ出していく。また、張順は童威、童猛らとともに水練に巧みなものを選び、身ひとつで水に飛び込んだ。
白兵戦に備え、彼らはみな細い針金で編んだ袖無しの上着を身につけていた。湯隆と侯健が発案した、水中で身を守る鎖帷子──“亀甲衫”である。
すでに“聖水将軍”単廷珪は水牛船を総動員し、湖に障壁を築いている。五丈河から梁山に至る湖の南側の水路を中心に、水雷、葦原の迷路、使える限りの障害物を敷設していた。
金沙灘の岸辺には、歩兵たちが集まっている。
「水軍ばかりに任せてはおれん」
“挿翅虎”雷横は梁山泊外にある朱仝の身を案じていたが、口には出さない。彼は朱仝が無事であると信じていた。雷横、劉唐、石秀、楊雄ら歩兵軍の将校の中には、梁山泊の守りを託された騎兵軍小彪将、燕順、欧鵬、馬麟、登飛らの姿もある。
陸上の指揮は、“霹靂火”秦明が取ることになっていた。秦明は朱武と合議し、万が一の敵の上陸に備えて部隊を山塞の各所に配置した。防衛の要となるのは、おそらく金沙灘である。梁山泊には鴨嘴灘、金沙灘の二つの港がある。鴨嘴灘付近の地形は複雑に入り組んだ入江が多く、また水軍の砦があるため、防備も堅固だ。なにより、凌振の砲台がある。金沙灘は砂州であり、広々として、大船団が上陸するには適している。
金沙灘では、“九尾亀”陶宗旺が中心となり、逆茂木や材木で障壁を築く作業が始まっていた。櫓が組まれ、矢や槍も運ばれている。李応はすべての武器を山塞中の蔵から出させ、金沙灘に運ばせて各部隊に分配した。
「残りの矢は、すべて水軍に渡せ」
李応は、殆どの矢を水軍に支給するように命じた。矢を数えていた杜興は、心配そうな顔を上げた。
「しかし、ご主人様。それでは上陸された時、矢が足りなくなるのでは」
「水上で敵を防げは、陸上では必要あるまい」
みなが忙しく金沙灘を行き来している。その中に、秦明は女たちが混じっているのを見つけた。呼延灼の娘たち、李応の妻たちだった。
「なにをしている」
声をかけると、呼延剣娘が進み出た。

「わたくし達も、お手伝いいたします」
李応の五人の妻たちも、すっかり山賊風に装っている。杜興が駆けつけてきて、困ったように秦明に頭を下げた。
もし梁山泊が戦場となれば、女子供も戦わなければならないだろう。軍人であった秦明にとって、それは耐えがたい事だった。
秦明は、何も言わずにその場を離れた。
女たちの中に、こんな時には真先に駆けつける妻の花宝燕の姿がなかった。来たくても、来られないのだ。間もなく、初めての子供が生まれるはずだった。
本当ならば、“霹靂火”秦明こそ済州へ出陣するべきであったろう。しかし、敢えて宋江は彼を梁山泊に残した。安道全は、今日明日にも子供が生まれるだろうと云っている。臨月に入ってから、宝燕の体調は思わしくない。難産が予想されていた。
配置を終えた秦明は、聚義庁への階段を登っていった。湖から、水軍の兵たちが歌う声が聞こえた。
幇間 志を得たり 一高求
みだりに三軍を率い 水上に遊ぶ
たとい海鰍船万隻を有するとも
ともに泊内に来たれば 一斉におわらん
たいこもちの高毬が えらい出世だ
大軍率いて 水遊び
くじら船が どれほど来たって
ぱくりと一呑み おさらばだ
そうであればいい──と、秦明は思った。
外の喧騒とは裏腹に、聚義庁は静かだった。
柴進は人気のない脇の回廊を渡り、薄暗い聚義庁に足を踏み入れた。梁に白い鴿が一羽、羽を休めている。石勇が凶報を託して放った鴿であった。
柴進は、呉用の前へ歩み寄った。
「──何を考えているのかね?」
聚義庁には、呉用と盧俊義だけが残っていた。出入りする伝令も、いまは途絶えているようだ。呉用は火鉢に向かい、いくつかの書類を焼いている。
「宋江殿のこと、どうするのだ」
「あの人ならば、大丈夫です」
「いなくても──ということかね?」

呉用は手を止め、柴進を見た。
柴進は配下の“鶏狗”を放ち、湖の外の動静を探らせている。すでに済州に梁山泊軍の姿がないことは分かったが、いまだ宋江の居場所は分からない。
「柴進殿」
呉用は静かに微笑んだ。
「今は、官軍に勝つことだけを考えましょう」
この情況にも、呉用は動じていなかった。
龍王幇からの報せで、金陵水軍が来ることは分かっていた。だから、危険を冒して済州を攻めたのだ。呉用はあらゆる情況を想定していた。ただひとつ──船を焼かれる危険は考えていたが、官軍が猛火油まで使うことは予想していなかった。
猛火油は、宋朝の初め、江南にあった南唐国が水戦に使用している。攻め寄せた宋の水軍を、猛火油を使って焼き払おうとしたのである。ところが、ふいに風向きが変わり、南唐軍の放った火は、自らの船団を焼き尽くした。以来、その強すぎる威力は諸刃の剣と見なされて、水戦での使用は忌避されている。
(──聞煥章)
呉用は官軍の軍師のことを思った。もし逆の立場だったら、呉用も同じことをしただろう。ただ、猛火油の精製法は朝廷が厳しく管理し、梁山泊では容易に手に入らない。
「この戦が終わったら、原料となる石漆を手に入れ、魏定国に精製させましょう」
「招安を破り、官軍を打ち負かして──呉先生、あなたは国でも取るつもりかね?」
呉用は表情も動かさず、柴進の顔を見上げた。
「その時は、柴進殿、あなたに周国をお返ししましょう」
“小旋風”柴進は、宋に国を譲った大周国皇帝の末裔である。柴進は、燕国復興の野心に憑かれた慕容一族のことを思った。柴進は冷やかに言った。
「周国を復し、そして、私から宋江殿に“禅譲”するのか」
柴進は盧俊義に眼をやった。盧俊義はただ無表情に立っている。薄暗い聚義庁の中で、盧俊義の姿は物言わぬ神像のように見えた。
柴進は呉用に向かい直り、冷やかに尋ねた。
「国の名は、『梁』かね」
「『天』でもいい」
珍しく、呉用が笑った。
その時、荒々しく聚義庁の扉が開け放たれた。外から差し込む光の中に、武松が抜き放った戒刀を手にして立っていた。
「こそこそと何の相談だ」

武松は呉用に歩み寄った。
「なぜ宋江兄貴を助けに行かない。もう、その必要はないと言うのか」
武松は盧俊義に目をやった。武松とて、招安などは反対だ。しかし、首領は宋江である。呉用に詰め寄る武松の肩を、背後から魯智深が掴んだ。
「武松よ、それくらいでよかろう。持ち場を離れるな」
「気にいらねぇ!!」
武松は呉用の火鉢を蹴った。
「何もかも気にいらねぇ!!」
火鉢が倒れ、火花が舞った。魯智深は頷くでもなく、なだめるでもなく、指で胸の数珠をたぐっている。
「何事も、なるようにしかならんわい」
空に、爆音が届いた。聚義庁に白勝が駆け込んできた。
「始まった!!」
爆音が続いている。武松は戒刀を掴み、呉用を睨んだ。
「宋江兄貴になにかあったら、俺はあんたを許さない」
戒刀が、忘れていた鍔鳴りを放っている。呉用の視線は、武松から動かなかった。
「宋江殿を救いたければ、勝つことです」
魯智深が武松の腕を引いた。
「行くぞ、武松」
武松と魯智深が去り、やがて柴進も無言で出ていった。再び聚義庁に呉用と盧俊義だけが残された。盧俊義が、静寂から逃れるように立ち上がった。
「わしも行こう」
「──盧俊義殿は」
呉用が盧俊義を呼び止めた。
「どうお考えになりますか」

梁山泊に来て以来、盧俊義は戦いにこそ出るが、自らの意見を述べることは殆どない。
「わしは」
盧俊義は立ち止まり、呻くように言った。
“救おうとして、滅ぼす者”
天の言葉が、常に耳にこだましている。盧俊義が戦っている時だけ、その声は聞こえない。戦う時だけ、彼は運命から解放されるのだ。
「宋江殿が戻らぬ時は……すべて、呉用先生に任せよう」
彼ができるのは、戦うことだけだ。
ただ、ひとつだけ聞いておきたいことがあった。
「燕青はどこへ行ったのだ?」
その答えを、呉用は一瞬ためらったようだった。
「姿がないのは、燕青だけではありません」
「あなたも──ご存知ないのか」
盧俊義は槍を手に、聚義庁を後にした。
宋江も、呉用も、みな梁山泊を守ろうとしている。
(わしとて、梁山泊を救いたい)
そのために、不吉なる星──“天昊星”盧俊義は、沈黙を守ることを自らに架したのだった。
金陵水軍は密集隊形をとり、朝日とともに湖に進入した。
鋒矢の陣──槍型の隊形である。尖端には小海鰍船を鏃型に配置し、後方に大海鰍船と戦船、その中央に高求の旗艦が守られている。小海鰍船の役目はすなわち兵だ。敵に正面から突撃する。敵が崩れれば、大海鰍船が突入して止めを刺す。戦船は高求の護衛艦である。
五丈河の河口から西の岸辺は葦原が多く、迷路に誘い込まれる恐れがある。劉夢竜は、水深が深く、葦の生えない南冥よりに迂回してから、針路を北へ、梁山へと転じるつもりであった。南冥周辺の湖は、水寨や罠があったとしても、昨夜の猛火で焼き尽くされているはずである。
が、いくらも行かぬうちに水雷が爆発し、先頭の小海鰍船数隻が吹き飛んだ。水面に水草で偽装した小さな皮袋が漂っている。
「水雷──単廷珪の仕業だな」
劉夢竜も、ともに水に戦う者として、“聖水将軍”の名前は知っている。水雷は炸薬を詰めた皮袋を水面に沈め、仕掛けに触れれば爆発するようにした暗器である。梁山泊軍の抵抗は、予想していたことだ。爆破された小海鰍船はばらばらになり、水面に死体が浮かんだ。
劉夢竜は、すぐさま各船の間を行き来する伝令舟に告げて回らせた。
「水雷を見たら、槍で突け。皮袋に水が入れば爆発せん」
党世雄と党世英の兄弟は生き残った者を収容させると、再び船団を進発させた。先行する小海鰍船は船首から竹竿を出し、水面を叩きながら航行する。水雷の仕掛けに触れ、次々と水煙が上がった。
艦橋で指揮をとる劉夢竜のところへ、高求がやって来た。気に入りの妓女を連れてる。水雷が爆発し、女がきゃっと悲鳴を上げた。高求は笑って妓女を抱き寄せた。

「どうだ、芝居より面白かろう」
そして、同意を求めるように劉夢竜に向かいなおった。
「密集しては速度が遅い。敵の数は少ないと聞く、分散して行かぬのか」
「梁山泊には陥穽が多いと聞いております。分散しては、各個に埋伏を受けて被害が大きくなる恐れがあります」
「地図があるではないか」
童貫のもとに届いた呼延灼の地図、そして勅使に同行した李虞候が梁山泊の水路について報告している。しかし、劉夢竜は水路については地図や過去の報告を用いないのが信条であった。
「水路は、変わります」
梁山泊に水寨や葦の迷路があることは分かっているが、それは自在に位置を変えるという。偵察も役には立たない。高求がしたり顔で孫子の言葉を口にした。
「“兵は水の形に象る”か」
劉夢竜は答えなかった。高求が、その意味を分かって言っているのかどうか分からなかったからだ。水平線を見つめて言った。
「やはり、密集して進んだほうがよろしい」
旗艦から銅鑼が打ち鳴らされた。船団間の通信は、銅鑼と信号旗、伝令舟によって行われる。
官軍の船団は水雷を爆破しつつ、その針路を北へ転じた。
「──予想通りだ」
“聖水将軍”単廷珪は、水牛船の上で呟いた。
水牛船には葉のついた木がくくり付けられ、流木のように偽装している。船には“混江竜”李俊と“神算子”蒋敬も乗っている。
水戦の指揮は、防御は単廷珪、攻撃は李俊がとることになっていた。官軍が、南へ迂回してから北上するだろうという予想は、二人の一致した意見である。そのために、この一帯に水雷を敷設した。
水面に浮かぶ水雷は、敵に発見されやすい仕掛けである。数隻の小海鰍船を沈めたに過ぎなかったが、針路を牽制する役には立つ。
湖は広く、水軍の兵は少ない。敵を分散させないことが重要であった。なんとしても官軍の船団を湖上でくい止めなければならない。
単廷珪は水牛の背で、どこかにいる僚友を思った。
「魏定国がいれば」
魏定国と李雲が南冥にいることは分かっている。兵を収容するだけの船はなかったが、二人だけならば小舟に乗せることもできる。単廷珪は自ら迎えに行こうとしたが、南冥の湖に燃え上がる炎が激しく、近づくことができなかった。
単廷珪は猛火油の扱いを知らない。油井は四川や陝西に多く、原料となる石漆はこのあたりでは容易に手に入らない。その精製も東京の軍器監で厳しく管理されており、単廷珪は猛火油を初めて見たのだ。
しかし、戦わずして勝つ──それが、単廷珪と魏定国の本領である。今回のように戦力の足りないときほど、彼らの力が必要なのだ。蒋敬は船の数を数えている。
「あの小さいのだけで、五百五十二……いや五十三」
李俊は飛ぶように進んでいく海鰍船を見つめていた。
「速い」
遠目にも、その尋常ではない速さが分かる。蒋敬が算盤を弾いた。
「妙な船ですな」
彼もまた、舟の設計には一家言ある男である。
「あの大きさで、あの速度が出るとは、かなり軽い。船体は薄っぺらに違いない」
艦隊は小海鰍船を先頭に北へ過ぎ去っていく。
少ない舟、少ない兵で、どうやってあの大船団を止めるのか。止められるのか。
その問いに、無口な単廷珪が答えた。

「やるしかあるまい」
昇りきった朝日が眩しい。
「よし、準備しろ」
“船火児”張横は櫓を握った。
官軍と梁山泊水軍は、同時にお互いを視認した。梁山泊の小舟は二百余隻、対する官軍は水平線を埋めつくすほどである。張横は船の上に立ち上がり、湖を見渡した。
張横の髪は焼け焦げ、肩と足にひどい火傷を負っていた。南冥に炎に巻かれた張横は、板きれに掴まり、命からがら梁山泊まで戻ってきた。途中で李逵の姿を見たように思ったが、見失った。いまだ山には戻らぬが、どこかで生きているだろう。
「漕ぎ出せ!!」

張横は腕に力を込め思い切り水を掻いた。 従うのは、“出洞蛟”童威、“翻江蜃”童猛、“玉旛竿”孟康、“険道神”郁保四。そして、江州の男たちである。
彼らはみな全身に赤や黄色の土で文様を描き、髪はざんばらに振りほどいていた。江南の土着の風俗、戦いの印である。
張横らの船だけではない。争うように漕ぎ出したのは、梁山泊周辺の漁師たちだ。阮小五が空に拳を突き上げる。
「江州勢に遅れをとるな!!」

みな半裸で日に焼けた体をさらしている。彼らはあたりの水域を天領にされ、雑魚一匹とて自由には獲れなくなった。税金で舟を奪われ、網さえ取られた。だから彼らは梁山泊にやって来たのだ。梁山泊の後は、行く先はない。
先頭を阮氏三雄の舟が並んで進む。互いに抜きつ抜かれつしながら、漁師たちは笑い合った。
「わしらは戦は素人だが、魚を獲るのは誰よりうまい」
漁師たちは櫓を手に歌った。
幇間 志を得たり 一高求
みだりに三軍を率い 水上に遊ぶ
たとい海鰍船万隻を有するとも
ともに泊内に来たれば 一斉におわらん
前方に官軍の船団が迫る。小海鰍船を先頭に、大海鰍船、戦船──水車が蹴立てる波が水煙となる。
「大物がわんさと来るぞ!!」
男たちの雄叫びが空に轟いた。
「大漁だ!!」
小海鰍船を指揮する党兄弟は目を瞠った。
「梁山泊軍は船がないのではなかったか」
梁山泊水軍はすべて漁船だ。しかし、少なく見ても二百余隻。武器を持った男たちが乗り込んでいる。
「あれで白兵戦をやる気か」
「兄上、突入しましょう」
水雷により十数隻の被害が出ていたが、小海鰍船だけでも数は倍以上ある。党世英は銅鑼を打たせた。海鰍船は真っ直ぐに梁山泊水軍に突っ込んでいく。海鰍船と梁山泊の舟がぶつかった。海鰍船の船首には鋭い金属の杭が出ている。それを敵の船に突き刺し、乗り移って戦うのだ。水しぶきが上がり、混戦となった。両軍が入り乱れて船縁をぶつけ合う。梁山泊軍の中に、ぶつかるや沈んでいく船があった。
「はりぼてだ!!」
廃材に布を張って船らしく見せたものや、竹枠に紙を貼ったはりぼてが大半を占めていた。廃船を修理して、どうにか浮かぶようにしたものもある。それを本物の舟が曳き、数を多く見せていたのだ。
戦える本物の舟は百余艘、その船上には扠や銛を持った男たちが乗り込んでおり、官軍の船と見れば襲いかかった。はりぼての上にも服を着た藁人形が立てられ、一見では、どれが本物か分からない。官軍が偽物に攻めかかると、背後から本物に襲われた。
阮小五が銛を手に海鰍船に飛び込んでいく。
梁山泊水軍の戦い方は、海賊と同じである。遠くから槍を投げ、近づいたら綱のついた銛を打ち込んで、敵の船に上陸する。あとは命を的に白兵戦を行うのだ。
官軍が偽物の舟に惑わされている間に、梁山泊の舟は小海鰍船を取り囲むような形をとった。魚を追い込む漁師たちが得意とする方法だ。阮小二が指揮をとった。
「絶対に通すな!!」
しかし、“鰍”とは、泥鰌のことも云う。敏捷で、ぬるぬると捉えがたい魚である。小海鰍船は梁山泊の舟の間を機敏に動き、容易に包囲に入らない。
「矢を放て!!」
阮小七が叫んだ。しかし、漁師たちの無骨な手は、櫓の扱いには長けているが、弓を引くには向いていない。その上、海鰍船は船縁に矢を防ぐ竹の垣根を備えている。阮小七が士官をひとり射殺したが、あとは殆ど効果なかった。
舟には孟康、郁保四も乗り込んでいる。
一隻の官軍の船が防衛戦を突破した。郁保四は船尾に縄のついた銛を打ち込み、それを引いたが、そのまま舟は引きずられていく。孟康が刀で綱を立ち切った。
「通っちまったもんは、しょうがねえ」
間もなく後方から大海鰍船が追いついてきた。船縁に弓兵が並んでいる。矢を浴びた梁山泊の兵がばらばらと舟から湖に落ちた。梁山泊軍が反転して逃げだすと、官軍は矢を放ちながら追撃した。
やがて、前方に緑の線が見えてきた。党世雄と党世英兄弟は目を疑った。

「まさか──陸地か」

それは青々と草の繁った、島のように見えた。彼らは梁山泊を見たことがない。
「もう梁山に着いたのか?」
さらに近づくと、それが豊かに繁った葦原であると分かった。葦のほか、さまざまな植物がひしめきあうように生えている。麦や豆、何かの実をつけた木さえある。その間に、大小の水路が張りめぐらされているようだ。
「この島が梁山に間違いない」
再び党世英は銅鑼を打たせた。小海鰍船は次々と葦原に入っていった。葦原を迂回すべく散開した船もあったが、水雷が爆発して何隻かの船が沈んだ。いつの間にか水雷原の中に入り込んでいた。
兄の党世雄が彼方の空を指さした。彼方にぼんやりと山の影が見えている。
「ここは梁山ではない、あの峯は、あまりも遠い」
「しかし、もはや進むほかはないでしょう」
弟の党世英は兵に前進を命じた。
瓜二つの顔をしていたが、弟の世英のほうが勇敢だった。
先鋒の海鰍船は梁山泊の舟を追いかけ、すでに多くが葦原に突入していた。党兄弟も血気にはやった。背後に大船団が控えているのも心強かった。振り向くと、旗艦にも『前進』の信号旗が掲げられていた。
彼らの役目は、とにかく梁山泊への水路を確保することである。二人は東京を出る時、高求から耳打ちされた言葉を同時に思い出していた。
「この戦で、節度使が何人か死ぬだろう。手柄を立てれば、その後任にしてやろう」
父親が賂したことは知っている。しかし、彼らは実力で地位を得たかった。
「行くぞ!!」
小海鰍船団は梁山泊の舟を追った。
阮小二のもとに、阮小七の舟が漕ぎ寄せた。
「魚籠に飛び込んできやがったぜ」
「雑魚ばかりだ」
阮小五が笑った。
「石碣村の竿さばきを見せてやる」
あたりは鬱蒼たる葦原である。船団の針路を塞ぐ、陸地に偽装した要塞だ。
南方には、湖に土を盛った筏を浮かべ、その上で農耕をする技法がある。梁山には耕地が少ない。土地を追われた農民たちが多く入山してきた時、“青眼虎”李雲がその方法を“九尾亀”陶宗旺に伝授して、彼らのために畑を作った。湖上に浮かぶこれらの“畑”と、従来からあった移動する葦原を合わせて作ったのが、この巨大な浮島の迷路であった。
水雷も、さっきの戦も、敵船団をこの罠に誘い込むためのものに過ぎない。童威、童猛は特に水練に長けた者を選び、彼らとともに葦原の中に忍んでいた。
童猛がふと兄に尋ねた。
「なぜ張順兄貴の姿がないんだい」
「呉先生に呼ばれて行った」
童威は弟の言葉を制した。水面に振動が伝わってくる。海鰍船の水車だ。
男たちは息を深く吸い込むと、波ひとつ立てずに水中へ姿を消した。
浮島に隠れた弓部隊を指揮するのは、“両頭蛇”解珍と“双尾蠍”解宝の兄弟である。

解宝、解珍は山の男だ。生来、船には慣れないが、弓の扱いは人後に落ちない。特に解珍は名手である。飛鳥走兎を射ることにかけては天下一の腕前を持つ。
「獲物が来たぞ!!」
解珍は愛用の弓を満々と張った。
彼らは葦原に築かれた櫓に登り、敵を見つけては矢玉を降らせ、また敵船の位置を味方に知らせるのが役目である。兵たちも敵を見れば矢を射放った。弓に熟練した者は少ないが、矢はふんだんにある。
海鰍船からも矢で応戦したが、梁山泊の兵たちは葦原から葦原へ身を隠し、敵を思うさま翻弄し、追い詰められれば水に飛び込んで逃げた。
葦は人の背丈ほども繁っている。水路に入れば、船からは空しか見えない。官軍の兵は、どこからから聞こえる弦音や、草の間からふいに突き出される槍に脅えながら、抜け道を探して進んだ。
その水中では童威、童猛が小海鰍船の底に穴をあけて回っていた。専用の道具も“金銭豹子”湯隆が開発していた。小魚もその技を伝授され、海鰍船の船底に取りついていた。材木の合わせ目に螺旋になった鑿を差し込み、回しながら抉っていく。海鰍船は軽きを求め、使っている木は軽くて薄い。子供でも、一回の息継ぎで穴がひとつ穿てた。
「五兄ちゃん、あとは頼んだぜ」
小魚は水面に顔を出すと、また息を吸って水中に潜っていった。
「おう、任せとけ」
阮小五の声が波間に聞こえた。
水中からの攻撃に浮足立った海鰍船に、阮兄弟らが舟をぶつけて乗り移っていく。水軍だけではない。雷横を筆頭に、欧鵬、陳達、侯健、王英、鄒淵、鄒潤らが、歩兵から身軽な者を選んで浮島に上陸していた。特に“挿翅虎──翼ある虎”雷横と“跳間虎──谷川を飛び越える虎”陳達の活躍は水をえた魚のようである。二人は一丈の水路を飛び越え、船から船へ飛び移りながら次々と敵に襲いかかった。

雷横は敵を斬り伏せながら、かつて運城県の都頭として、朱仝とともに梁山泊に攻め寄せた時の事を思った。
(運命とは妙なものだ)
その時、飛び損なった鄒淵が勢いあまって水に落ちた。甥の鄒潤が腕を掴もうとしたが、届かなかった。そのまま波間に沈んでいく。
「叔父貴は泳げん!!」
鄒潤は叫んだ。
その目の前に、鄒淵が押し上げられた。李俊だった。
李俊には、全ての水路、敵の居場所、味方の数や状態まで、すべて掌を見るように分かっているようだった。李俊が来ると言った場所に敵がくる。水と舟を自在に操るかのような、沈着な采配である。
鄒淵は李俊に助けられた時、まるで自分が水中にいるという気がしなかった。彼らの前に、波は道を開けるかのようで、気がつくと浮島に上がっていた。
“摩雲金翅”欧鵬は、再び泳ぎさる李俊に目を奪われた。彼は長江の軍卒で、多くの水軍の将を見ている。しかし、李俊ほど水と一体になった男はいない。水が自ら李俊に従うかのようだ。
(“混江竜”──竜の王か)
李俊は水路から水路を船で、あるいは身ひとつで泳ぎ回り、戦いの指揮をとる。この広い浮島では、味方がどこにいるか分からず、全体の戦況も掴めない。しかし、彼らは常に李俊がそばにいるように感じた。
林冲、呼延灼は梁山泊騎兵軍は、湖畔の道を走っていた。
湖畔の道は細い。左手は森に遮られている。官軍に動きを気取られぬよう、梁山泊軍は疾風のごとく駆け抜けた。
「五丈河へ!!」
金陵水軍を止めねばならない──その一念だけが、彼らを突き動かしていた。みな疲れ果てている。馬は倒れ、気を失った兵たちが次々と落馬していく。それでも彼らは走り続けた。
“その音”に気づいたのは、魏定国だった。
「あれは、水雷」
微かに聞こえた爆音は、確かに水雷の音だった。彼が作ったものだ、間違いない。
金陵水軍の到着を知った呉用が、単廷珪に仕掛けさせたのだろう。それが爆発したということは──金陵水軍はすでに出航したのだ。梁山泊軍の脚が、自然と止まった。
「間に合わなかった──」
次々と水雷の音が聞こえる。かすかに戦いの声が聞こえてきたような気がした。
魏定国は唇を噛んだ。
音からすると、単廷珪が敷設した水雷は数が足りない。火薬の量も十分ではない。船には火攻めが一番だ。しかし、単廷珪は水の男。火計については素人だ。
穆弘は路傍の雑木林を抜け、湖を見渡す岸辺へ走った。
官軍の船団は水雷地帯を抜けたのだろう。もう爆音も聞こえない。しかし、穆弘には分かる。騎兵に属してはいるが、彼も江州の水の男だ。
湖水がざわめいている。波の震動が伝わってくる。風もないのに、めざましく何かが水中を蠢いているのを感じる。
水上では、李俊や張横たちが戦っているだろう。江州三覇の一として、戦いの時に陸にいることが穆弘には耐えがたい屈辱であった。穆弘は湖を睨んだ。
朱仝は穆弘の後を追い、岸辺へ向かった。彼には、何事もない静かな湖に見えた。朱仝は穆弘の肩に手をかけた。
「行こう」
行きかけて、朱仝は足を止めた。ゆっくりと湖へ振り向いた。
「あれはなんだ」
朱仝は沖を指さした。小さな波しぶきが立っていた。何かが、こちらに向かって泳いでくる。初め、大きな魚かと思った。穆弘は目を凝らした。
「あれは……」
飛沫がはじけ、水面に一人の男が躍り上がった。
「“浪裏白跳”!!」

小海鰍船の特長は、敏捷に動くことである。極限まで軽量化され、船底を防御するための鉄板を打ちつけていない。梁山泊水軍に水中から攻撃を受けると、次々に船板に穴を穿たれた。党世雄、党世英兄弟の船も浸水し、沈み始めていた。
「兄上、もう限界だ」
「船を捨てよう」
党兄弟は船を捨て、近くの葦原に上がった。鎖に繋がれていた水手たちを解放すると、彼らは瞬く間に逃げ散った。しかし、いくらも走らぬうちに、水手たちは悲鳴を上げた。葦原の下は、底無しの泥沼だったのだ。逃げようとした兵たちもずぶずぶと沈んでいく。兄弟の立ってわずかな場所だけが、本当の浮島だった。
身動きできぬ兄弟の上に、水路の両側から一斉に矢が放たれた。草むらに弓兵が待ち伏せしていたのだ。党世英は剣に手をかけたが、抜く間もなく矢に倒れた。水に飛び込み逃げようとした兵を、欧鵬の鉄棒が貫いた。倒れた弟を救おうとする党世雄に王英が躍りかかった。梁山泊は水路を知り尽くしている。官軍には同じ水路、同じ浮島に見えるのに、彼らはどれが浮島で、どれが偽物の浮島かを見分けているのだ。
王英の朴刀を防ぎながら、党世雄は叫んだ。
「高閣下に救援を請え!!」
葦原から救援を求める鏑矢が次々上がった。風を切る音が、人の悲鳴のようだった。
その音は、後方の船団にも確かに届いた。しかし、節度使の船が出ようとするのを、高求は銅鑼を打って止めさせた。
「勝手なことをさせるな」
高求は戦船に前に出るように命じた。船縁に弓兵が並び、葦原に入る水路に狙いをつけた。狙っているのは梁山泊軍ではない。照準は浮島から逃げ出してくる小海鰍船に向けられていた。
「退くと射る」
督戦という名の脅迫である。
小海鰍船に乗り込んでいるものは、殆どが下級の兵卒と、徴発された民兵だ。指揮官には付け届けをしなかった士官たちが選ばれている。賄賂を送らなかった者を前線へ配置するのが、高求のいつものやり方だった。
後ろに控えていた牛邦喜が、慇懃に頭を下げた。
「最近は流民がいくらでもおりますから、兵の補充には苦労しません」
牛邦喜の言葉に、高求は満足げに頷いた。
節度使軍の分乗する大海鰍船が、葦原に接近していた。しかし、葦原には進入できず、周辺から小海鰍船を援護するしかなかった。梁山泊軍と見れば弓を射かけ、また船上から槍や鉤を使って浮島を壊し、葦を刈り取っていった。
その葦原から、梁山泊の兵たちが水を潜って忍び寄る。大海鰍船は底に鉄板が貼ってあり、穴を穿つことができない。童威と童猛が試したが、穴をあける隙間がなかった。二人は敵に見つからないよう、浮島に戻って深く息を吸い込んだ。
「火砲があれば良かったんだが」
官軍には、船に火砲を搭載する技術はなかった。梁山泊軍には、火砲と騎兵が搭載できる大型戦“蓬莱”があったが、童貫との戦いで湖底に沈んだ。ほかには火砲を載せられるような大型の船は残っていなかった。水上で火砲を操れるのも、凌振ひとりだ。
「どうする、兄さん」

「俺に考えがある」
童威は口に鑿をくわえると、再び水中に潜った。やがて水面に浮かび上がった童猛は、手にした木片を弟に見せた。童猛の顔が輝いた。
「そうか、舵か」
童威が持っているのは壊れた舵の部品だった。船首から水中に突き出している木製の舵ならば、壊すことができる。
「行こう」
二人は大きく胸を膨らませ、思い切り息を吸い込んだ。
梁山泊中、“浪裏白跳”に次いで泳ぎに巧みなのは、この童威、童猛の兄弟である。水軍中ではいつまでも李俊の手下、若輩扱いだが、二人はやはり潯陽江の水蛇“蛟”であり、蜃気楼を吐く“蛤”であった。
葦原に近づいていた大海鰍船の動きが鈍った。
「舵がききません」
兵の報告に、楊温は眉をしかめた。
すぐに工兵が潜水したが、二度と浮かび上がってこなかった。楊温は後方の旗艦に伝令を送った。すでに数隻の大海鰍船が舵の不調に見舞われていた。
先行する船が停止したため、後続の船が詰まった。高求は苛立った。この水域は危険だ。停泊していては、水中から何をされるか分からない。高求は劉夢竜に命じた。
「あの葦原を焼き払え」
劉夢竜は耳を疑った。
「聞こえなかったか、焼き払えと言ったのだ」
「しかし、小海鰍船が」
「小海鰍船?」
すでに少なからぬ被害が出ていたが、高求は些かの痛痒も感じていなかった。戦で兵が死ぬのは当然のことだ。党兄弟が死んだとしても、名誉の戦死だ。彼らの親には天子に頼んで勅書の額でも贈ってやればいいだろう。
「いいか、あの浮島を焼いてしまえば、こちらは進むことができ、梁山泊はなけなしの舟と兵を失う。一挙両得だ」
劉夢竜はなお躊躇った。彼は決して硬骨ではないが、善良な人間だった。
「しかし、閣下」
「もうよい、牛邦喜をこれへ」
高求は牛邦喜を呼び、湖に猛火油を流すように命じた。牛邦喜はすぐさま湖に猛火油を積んだ小舟を下ろし、作業にかかった。
湖に油の帯が広がっていく。牛邦喜は十分に距離を取ってから、ぎらぎらと輝く油に火矢を放った。さっと青い炎が上がった。
高求は呆然とする劉夢竜に向かい、言った。
「葦原と距離をとれ、延焼するぞ」
葦原を伝い、火が浮島に広がっていく。劉夢竜は困惑した。
(これでいいのか?)
水上の戦いというのは、まず互いに矢を射かけ合い、接近しては鉤で引き寄せ、敵船に乗り移って白兵戦を行う。素早い小舟、頑丈な戦艦、操船技術に優れる水手と、勇敢な兵──水戦は最も高等な戦だと、劉夢竜は自負している。
彼は弟を殺され、復讐の気持ちをもって出陣してきた。しかし、武人としての理性までは失っていなかった。出陣にあたり、母親が言った。「息子を武人にしたからには、とうに戦死を覚悟している」──弟は立派に戦い、死んだのだ。
(だが、これは)
彼もひとかどの学問を身につけた文人将軍である。
燃え盛る業火に呟いた。
「こんなものは──水戦ではない」
やがて戻ってきた牛邦喜を、高求は笑顔で労った。
「戦死者の遺族には、恩給を出してやれ」
火が巻き起こす強風に、兵たちの悲鳴が混じっていた。
浮島に接近していた梅展の船は、火から逃れて急いで南方へ後退した。

“梅大郎”──梅家の若様と呼ばれる優男である。もとは大店の御曹司だが、役人に家財を奪われ、一家は流浪の身となった。大旦那から手代、丁稚の小僧まで、ひとかどの武芸を身につけよというのが梅家代々の家訓であった。梅展もまた幼少より家伝の“梅花九節棍”の技を叩き込まれた。父親の死を機に、一家を率いて役人を血祭りに上げ、これより“梅大郎”は山賊となった。以後、その武芸と商才を発揮して次々に近隣の山賊団を併呑し、ついには招安を受けるまでの大勢力となったのである。
梅展は腕にまつわる斗篷を払った。火の勢いが風を呼ぶ。葦原は文字通り火の海となっていた。冷やかに、その火を見つめた。
「まるで山賊だな」
しかも二流の山賊のやり方だ。知恵もなく、ただ命知らずなだけの手下を戦わせ、足手まといになれば見殺しにする。手下など、いくらでも手に入ると思っているからだ。
「実際に、手に入るがな」
浮島の南端に、突如として火の手が上がった。
それは見る見るうちに、天を焦がすほどの火柱となった。
「火をつけやがった!!」
梁山泊の男たちは、何度にも分けて浮島まで小舟に運ばれてきた。みなを浮島から撤退させるには、まるで舟が足りない。火は瞬く間に広がっていく。水軍の者たちは次々と水に飛び込んだ。梁山泊に戻る手段は泳ぐしかない。
単廷珪の水牛舟は揚水器を備えている。水を汲み上げて放出する仕掛けである。
「よせ」
李俊が叫んだ。水をかけると、火はさらに爆発的に燃え上がった。葦原が炎に包まれた。小魚は炎の中に残されていた。息が苦しい。煙で何も見えなかった。
「小魚!!」
小魚の耳に張横の声が響いた。
「早く乗れ!!」
「おじさん」
煙の向こうに船が見えた。その時、ふいに張横の舟が吹き飛ばされた。

漂っていた地雷が熱で爆発したのだ。隣の水路にいた単廷珪が、その音と小魚の叫びに気づいた。
「張横!!」

葦を分けて漕ぎ寄せた単廷珪が救いあげると、張横の左足は膝から吹き飛んでいた。
単廷珪は失神した張横と小魚を水牛の背に載せた。小魚は自分の鉢巻きをとると、泣きながら張横の吹き飛んだ足の根元を縛った。船に火がついていた。
単廷珪は船をはずし、水牛の背に乗った。水牛は本能で危険を察知し、首ぎりぎりまで水につかり、葦を分けながら安全な場所を求めて泳いでいく。単廷珪は水牛の首にすがり、燃え盛る葦原を振り返った。
官軍は、敵とともに味方を焼くことをも辞さない。単廷珪はぞっとした。水に濡れているためではない。あたりの空気は、息苦しいほどに熱い。
自分も官にいた時、このように戦っていたのだろうか──と、単廷珪は戦慄した。
炎が南側から浮島を嘗めるように広がっていく。李俊は葦原を駆け、残った全員を誘導して北側から湖へ逃れさせた。
「撤退だ!!」
解珍と解宝は、配下の弓兵を集めながら浮島の上を北に向かった。広大な葦原の中では、情況を把握できない者も多いはずだ。急を告げる銅鑼を敲きながら北へ走った。しかし、弓兵は殆ど二人のもとに集まってはこなかった。水路には、ばらばらになった死体、焼け焦げた死体が重なり合って浮いている。
沈みかけた海鰍船から泣き叫ぶ声が聞こえた。船板の隙間から腕が突き出している。鎖で繋がれた水手たちだった。解珍が叫んだ。
「助けてやれ!!」
梁山泊の兵たちが船内に潜って沈む船から水手たちを救い出す。解珍は他の沈みゆく海鰍船へ駆け寄ろうとした。その背に、流れ矢が突き立った。
「兄者!!」

その間にも、火はすぐそこに迫っていた。解宝はぐったりした兄を支えながら走った。やがて、浮島が尽きた。振り返ると、遠くで櫓が炎に包まれ、燃えながら水中に倒れていった。北を眺めても、梁山は遙かに霞んでいる。解宝は解珍を担ぎ、水に入った。水が湯のように生暖かい。
「兄者、梁山はすぐそこだ」
梁山が、遙かに霞んでいた。解宝は必死に泳いだ。
「すぐに戻れる──すぐだ!!」
浮島には、逃げ後れた者がまだ多く残されていた。葦原の中で、“跳間虎”陳達は足元に打ち寄せる波を睨んだ。あたりには黒煙がたちこめている。
「ちくしょう、俺は泳げねぇ」
この日のため、梁山泊では水練が繰り返されたが、どうしても水に慣れない者もいる。陳達は悩んだ。飛び込むか、焼け死ぬか。
すると、すぐそばに官軍の小海鰍船が漕ぎ寄せてきた。
「ありがてえ!!」
陳達は朴刀を構え舳先の兵に躍りかかった。朴刀を振り下ろそうとした瞬間、その兵と目が合った。陳達はそのまま体勢を崩して船の中に転がった。
「なんだ、お前らか」
「“跳間虎”か」
敵兵と思ったのは、欧鵬と王英だった。二人は敵の船を奪い、撤収していくところだった。船はまだ炎の来ていない北の水路を目指して進んだ。味方から攻撃されないよう、舳先に欧鵬が立った。迷路となった水路には、目印となるよう草が結ばれている。
「こっちだ」
船は葦をかきわけて狭い水路に入った。すると、波の彼方に解珍を背負った解宝が手を振っているのが見えた。
解宝は手を振りながら、背中の解珍に振り向いた。
「兄者、助かったぞ!! 兄者!!」
解珍の答えはなかった。ただ弟の首に回した腕だけが、微かに動いた。あたりの水に、血が煙のように広がっていた。
解兄弟を乗せた船は、背後から迫る煙から逃れ水路を進んだ。男たちは必死に漕いだ。やがて、前方に視界が開けた。
浮島の外側には梁山泊の水寨がいくつも築かれ、櫓から弓兵が水路の出口を狙っている。飛び出してくる敵の海鰍船があると、頭上から矢を浴びせた。王英が手を振り叫んだ。
「射るな、味方だ!!」
欧鵬が弓兵たちに声をかけた。
「撤収しろ。浮島が燃え尽きたら、大海鰍船が来る!!」
大海鰍船に乗っているのは節度使軍だ。小海鰍船の雑兵のようにはいかない。その時、葦原から一隻の海鰍船が漂い出てきた。欧鵬は鉄棒を扠を構えた。しかし、船上には兵も漕ぎ手もおらず、助けを求める声が聞こえた。
「──助けてくれ」
党世雄が、ぐったりとした弟の体を抱いて叫んでいた。
「頼む、助けてくれ」
炎が、すぐそこまで迫っていた。
燃え上がる葦原の炎は、公孫勝の岩屋からも見えた。
「我が師よ──」
樊瑞は公孫勝に呼びかけた。
「もう耐えられぬ。行かせてくれ。梁山泊を救いたい」

「お前には、分からぬか」
公孫勝が動かないのは、呉用に求められたため──ではない。
「この天地に満ちている“気”が見えぬのか」
昨夜来、燃え続けた猛火、天地を覆い尽くすほどの殺気と死者の血、その穢れが世界に満ちている。
二仙山の道術は、森羅万象の理を操る力だ。その自然の理が、乱れ、歪み尽くしている。
「もはや、儂の力は及ばぬ」
今、天地を覆っているのは、野望と欲、功名心、地位や名誉のみ求める人の、冷酷な意志と殺意だ。この狂気の戦場に、自然の精気の凝縮である雷神は降臨しない。
「樊瑞よ、お前に見えるか」
公孫勝は、樊瑞の殺気に満ちた顔を見据えた。
燃え盛る太陽の前に、星の光は届かない。蝋燭を見つめた目には、太陽の光も昏いのだ。
「今のお前にも、“神”は見えまい」
「では──」
樊瑞は、流浪の日々を思った。盲目の父母とともに流離った日々、項充、李袞と福地を求めて漂泊した日々──。
「我々に出来ることはないのか」
樊瑞は、問うた。
呉用は聚義庁を出て、金沙灘へ続く階段を降りていった。途中にある三つの関門には、男たちが慌ただしく出入りしている。武器が反射するぎらぎらとした光に、呉用は思わず目を細めた。
湖上の防衛線は突破された。
(──上陸)
予想していなかったわけではない。しかし、いざ現実のものとなってみると、いかな呉用といえども肌に粟立つものを感じた。
金沙灘の小亭では“鉄面孔目”裴宣が机を据え、一心に帳簿に書き込んでいた。
裴宣と蕭譲、金大堅は、聚義庁から出される命令と、出陣する者の名簿の管理している。軍政司である裴宣は、誰がどこに何人率いて出撃したかを、こと細かに記録していた。
金大堅は、裴宣に朱肉を塗った印を渡した。
「死人の名簿にならねばよいがな」
そうなれば、彼“玉臂匠”の仕事は墓石作りだ。部屋の隅では、“聖手書生”蕭譲が筆を手に何か文章を推敲している。
「弔辞か、どれどれ」

金大堅は詩箋を覗き込んだ。
「“幇間 志を得たり 一高求”──なんだ、あれはおまえの作か」
金大堅は笑った。
「ずいぶんと作風が変わったな」
「戯れ歌だ」
蕭譲は紙を破り、窓から風に散らした。
岸辺では秦明が狼牙棒を手に、水平線に向かって立っていた。
秦明の大きな影は、ひとり梁山泊を守ろうとしている門神のように見えた。
傍らに、花栄の息子が並んでいる。いつもは怒って追い払う秦明が、今日は何も言わなかった。
秦明には武人として、戦う者として、多くの守らねばならないものがあった。戦は戦場でするものだと思っている。梁山泊は、人々が平和に暮らしている“国”だ。
呉用は波打ち際に立ち、湖を見渡した。
岸辺で、山で、みながこの小さな山河を守ろうと奔走している。
彼が守らなければならないのものは、ただひとつ──。
呉用は、晁蓋の声を聞いたような気がして、山を見上げた。
“替天行道”の旗が、遠くはためている。
(迷うな、呉用)
それは晁蓋か、自分か、何者かの声であった。
いや、私は迷っていない──私は、間違ってはいないはずだ。
呉用は自分のすべきことが分かっている。
再び歩きだそうとして、呉用は杓児と目が合った。杓児は軍師見習いのつもりか、いつも呉用に付き従っている。杓児は阿姜そっくりの屈託のない顔で笑った。
「心配しないでいいよ、先生。僕が、ちゃんとお経をあげてあげるから」
金大堅たちが話しているのを聞いていたのだろう。
(私も、そんな心配そうな顔をしているのか)
「ええ──お願いします」
呉用は優しく微笑み、杓児の頭を撫でた。
「でも、それはまだ先のことです」
呉用は羽扇を握り、秦明に歩み寄った。
「秦将軍、ご相談があります」

官軍の船隊は、葦原を焼き払う火が収まるまで、そこに停泊して待った。
火が収まると、水面に灰を巻きながら進んだ。残り火が水面に鬼火のように燃えていたが、船体に鉄板を貼っているので、燃え上がる心配はない。
葦原には残骸が燻りながら浮かんでいる。焼け跡を抜けると、葦原の向こうでは逃げ延びた小海鰍船が数隻、呆然と波間に漂っていた。
葦原の向こうは、もうなにもない。徐々に梁山の峯が見えてきた。

黒煙の混じった空は、濁った血のようである。湖上を覆う熱と炎で、水雷がはじけて花火のように見えた。
高求は高楼で酒を呑んでいる。妓女が奏でる琵琶の音が水面を漂っていく。
劉夢竜は欄干を掴んだ。水は濁り、死体と燃えかすが混じり合って波に漂っている。
戦場を流れゆく琵琶の音が、凄惨であった。
先行する海鰍船団は次第に速度を上げていき、すでに本隊と大きく距離が開いていた。舵の修理をしていて遅れていた楊温は、水手頭に命じた。
「我々も速度を上げろ」
「しかし、隊列が崩れます」
大海鰍船は、高求の旗艦の前面を守るように配置されている。旗艦と、その周囲を固める戦船は船足が遅い。大海鰍船が速度を上げれば、湖上に取り残される危険があった。
「我々の任務は、梁山泊の制圧だ」
上陸は迅速が肝要だ。一瞬でも早く接岸し、兵隊を下ろさなければならない。
(高求を守ることが任務ではない)
高求など楊温の眼中にはない。一時は山賊であったとはいえ、彼は名門楊家の一員であり、武功赫々たる節度使である。一方の高求は、無頼漢から蹴鞠によって天子に取り入った男にすぎない。その高求が、これから命懸けで戦う楊温らを女連れで見物しようと云うのだ。
「構わん、全速で進め」
楊温は再び命じた。
舷側に備えられた二十四の水車が極限まで回転を上げた。車軸が軋む音が波間に轟く。拍子木は雷鳴のようだ。他の僚船も楊温に続いて船足を速めた。
劉夢竜は大海鰍船が速度を上げたのに気づいた。旗艦も続こうとしたが、追いつかない。高求は悠然と酒を呑んでいる。
「焦ることはない、先に行かせろ」
劉夢竜も楊温も、水際に水雷のあることを警戒したが、爆発は起こらなかった。
梁山が中腹の家や木々が見分けられるほどに近づいている。小海鰍船が金沙灘に接近した。その数は半分にまで減っている。
予想に反して、金沙灘に人気はない。山羊が一匹のんびりと草を食んでいたが、船の気配に驚いて山の方へ逃げていった。
高求は全海鰍船に全速で岸へ突入するよう命を下した。
銅鑼が打ち鳴らされ、船団は極限まで速度を上げた。車輪が軋み、悲鳴のような音をたてる。水手たちは添え木に縋り、必死で車輪を踏み続けた。
「上陸準備!!」
兵士たちは武器を握り、上陸の体制をとった。
船団の前に、梁山の岸が迫っている。岸辺に材木や逆茂木で障壁が造られているのが見えた。船団は突撃の銅鑼を打ち鳴らす。王文徳軍、徐京軍が金沙灘へ接近した。しかし、後方の楊温は距離を保たせた。彼は敵の火砲を警戒していた。
「なぜ梁山泊は火砲を撃たないのだ」
いまだ砲撃はない。その間にも先行する王文徳軍の船が水上を滑り、岸の障壁へ突っ込んでいく。寡兵の梁山泊がこの船団を迎撃するなら、なにより火砲が有効だ。もっとも、全速で動く船を撃つのは容易ではない。名砲手“轟天雷”凌振が湖の外に足止めを食っているため、撃ちたくても撃てないのだろうか。それとも、なにかの罠か。
楊温はなお警戒しつつ、慎重に船を前進させた。すでに王文徳軍に続き、徐京軍、李従吉軍が金沙灘へ突入していた。
海鰍船の捨て身の突撃に、高求は満足だった。兵とは、こうでなければならない。
高求は、改めて命じた。
「たとえ女子供であっても、容赦はいらぬ。全員が、反逆者である」
梁山泊では女子供も戦うと報告を受けている。兵と住民の区別はつかない。もっとも、それは建前に過ぎない。真意は報復であり、見せしめである。
朝廷に仇なす反逆者の末路を、すべての逆賊どもに示してやるのだ。
「犬一匹、兎一匹、見逃すな。梁山泊を──この地上から消し去れ」
「“秋高気爽”──よい空だ」
天子は李師師に窓を開けさせ、美しい秋空を見上げた。
宮廷から見る空よりも、ずっと広く、美しい。天子は李師師が捧げる酒杯を受け取り、久しぶりに会う愛人に微笑みかけた。
礬樊の最上階にある部屋には、五人の人物が集まっていた。奇妙な取り合わせである。天子と、その民間の愛人である名妓・李師師。朝廷一の堅物である、大臣の宿元景。風流の名高い、自ら“瘋子”と名乗る貴人・王都尉。そして、天子の前には、ひとりの若者が跪いている。
「そのほうが、もう一人の“浪子”か」

「──御意」

“浪子”燕青。燕は良き知らせをもたらす吉祥の鳥であるらしい。
「そちのおかげで、李師師に会えた」
童貫や高求が出陣し、開封の治安も不穏だとして、ずっと李師師の家に行くのを止められていたのである。いつもなら率先して行幸を勧める楊晉までが止める。そうなると、自分では外出用の靴がどこにあるかも知らない天子には、どうにもならない。
しかし、今日は宿元景、王都尉のお墨付きである。過去の皇帝が有事の脱出用として、宮城から礬樊まで秘密の地下通路を造った──とは聞いていたが、まさか本当にあるとは思わなかった。
「義兄上よ、このように便利な道をご存知ならば、早く教えてくださればよいものを」
王都尉が軽く頭を下げる。どうやら、軽口を楽しむ時ではないようだ。
天子は、目の前の若者に目をやった。見目麗しい青年で、天子は一目で気に入った。梁山泊の手の者と聞いているが、憎む心は起こらない。希代の芸術家でもある彼は、美しいものは善良であると信じていた。
燕青は顔を伏せている。天子の顔を直接見るのは不敬である。ただ声だけが聞こえていた。燕青の手には、宋江から託された書状がある。
(これを渡せば)
ふいに燕青は、その手紙の重さを実感した。
梁山泊の運命を決める手紙だ。梁山泊の、仲間たちの運命、未来をすっかり変えてしまうのだ。
その意味を考える暇もなく、王都尉が燕青を促した。
(──運命か)
燕青は宿元景に書状を渡した。
なにか重要なものを渡してしまったような気がした。しかし、それもまた運命なのだ。そして、なぜか──宋江ではなく、呉用のことを思った。
空は明るく、秋風はあまりに爽やかで、今、どこかで戦いが起こっているなど信じられない。
宿元景が書状を御前に捧げ、天子は鷹揚に頷いた。
「宋江の書状、読んで聞かせよ」
窓から洩れる管弦の調べの中に、厳かに天子の声が響いた。
※文中の「登飛」は、正しくは です。
※文中の「高求」は、正しくは です。
※文中の「天晃星」は、正しくは です。
※文中の「運城県」は、正しくは です。
※文中の「跳間虎」は、正しくは です。
※文中の「楊晉」は、正しくは です。
|